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3,「戦略であたしが一本取られるなんて、そうそうないことだぜ」


 日が、中天を指す。
「っし、あたしらも出るか。門、開けてくれ。リッシュモン軍、出るぞ」
 威勢良く言ったリッシュモンの声に応え、ラステレーヌの想い城門がゆっくりと開かれていく。門扉の奥にいた行商や旅の者たちが、驚いて左右に道を開いた。
「おう、今日は商売止めちまって悪りぃな。あたしらの後も軍列が続くけど、今日は日が落ちても門は開かれてるし、商売もできるからな。勘弁してくれよ」
 道の両脇に退いた商人たちに、リッシュモンは手を上げて詫びた。ラステレーヌが堅城であるのは大きな城門が、この南門にしかないというのも要素のひとつだ。東西にも幾つか潜り戸があるが、それらはせいぜい馬一頭通れる程度で、荷馬車を率いた行商が通れるものではない。
 リッシュモン軍五千が出た後は、ブルゴーニュ公ジョアシャンの二万、スミサ傭兵隊三千、最後にアルフォンスの本隊三千が門を出る。この南門にしても決して大きくはなく、全軍が街を出るのは夕方くらいになるだろう。
 なお、既にザザとポーリーヌがそれぞれ五千を率い、夜明け前にここを出ている。
 守兵は元々ここにいた千以上は置かない。アングルランドに占領された際に一度解散させられていた、城仕えの上級騎士を中心とした部隊だが、リッシュモンたちがここに戻ってきた際に、再び集結させていた。ラステレーヌの城主、そしてこの地域の主だった男爵はここを落とされた際に命も失っていて、今は残された四人の息子の跡目争いが水面下で行われていた。もっとも、リッシュモンたちはそこに関わる気はない。そして二度とここに、戻るつもりはなかった。ただ行軍中に病を得て引き返してくる者たちに関しては、その治療と養生を頼んである。
「後が詰まるといけねえ。あたしらは少し急ぐぞ」
 副官のダミアンが指示を出し、騎兵に続いて、歩兵が後を追う。歩兵が七分くらいの力で走れるよう、馬の速度は調節した。
 リッシュモンの兵は歴戦だが、どんな戦でも多少の緊張はある。それをほぐす為にも、何度か駆けておくのは意味のないことではなかった。もうひとつ、やっておきたいこともある。
 おそらく何人か付いてこれない兵がいるだろうが、それは体調不良を隠していた兵である。それらを振るい落とし、城に引き返させるか、途中の馬車宿で引き取ってもらうつもりだった。特に動きの激しいリッシュモン軍において、万全ではない兵は、必ず隊の足を引っ張る。不要な兵だというわけではなく、次の戦までに体調を戻せれば、それらの兵は汚名挽回とばかりに、本来持っている以上の力を出す。今回が最後の戦ではない。脱落した兵には、次に頑張ってもらえればいい。
 街道に出て、西へ向かう。後はこの街道を西に真っすぐ、後続の行軍速度を考えて二日程で、ベラック城へと辿り着く。そこにはクリスティーナ率いるアングルランド軍が、こちらを待ち構えているという格好だ。
 街道の南北に広がっているのはまばらな木立だが、西に向かうに連れて木々は密度を増し、ベラック前ではそれは森となっている。リッシュモンは左右に目をやった。この辺りの紅葉は赤が多く、風が吹く度に木々が静かに燃えているようにも感じた。舞い落ちる赤い葉は、火の粉である。
 三十分程駆け、一度足を落とす。
「脱落した奴は」
「まだ、一人も。もう少し駆けて、さらに見極めますか」
「いや、ならいいだろう。みんな、体調に問題なしってことだ」
 ダミアンと共に振り返り、街道に伸びる自らの並列を眺めた。まずまずの気迫が、兵たちから伝わってくる。何を見、そして聞いているのかわからないが、目に見えない気迫というものは、指揮官を長く務めれば、しかし自然と見えてくるものでもある。
 野営地の候補は、いくつかあった。いずれも馬車宿の近くだ。この辺りは小川が多く、水場に困ることはない。厄介なのはこのあまり幅のない街道で、兵列はどうしても長くなりがちだ。輜重は別として、本隊はブルゴーニュ軍が追いつくようだったら、しばらく木立の間を進んでもいいかとも思う。ブルゴーニュ軍は大所帯で、進軍速度の一定に期待できない。速く駆けられる部隊があるのなら、道を譲ってやってもよかった。そういう部隊が、先に野営の準備に取りかかれる。後続の遅れを、そこで埋め合わせることができるわけだ。
 いくつかの街道を使って移動、現地近くで集結するのが行軍の基本だが、ベラック城までに軍が隊列を組んで進める道はこの街道くらいしかなく、先行したザザとポーリーヌは、あまり舗装されていない道を、北東と南東に別れて進んでいる。やがてそれらも西に向かい、それぞれベラック北東、南東の砦へと繋がる。今頃は、地図で見れば平行して西に進んでいるかもしれない。
 全体の行軍にやや苦労するものの、街道が網の目のように入り組んだ地域と異なり、敵も集結前のこちらを各個撃破できないことは利点か。やろうとすればまず先鋒、このリッシュモン軍とぶつかる。伏兵も考えられるが、南北の木立が密になる頃には、こちらも斥候を増やせば、対処できる地形だ。リッシュモン軍五千を伏兵で倒すには、敵も寡兵での潜伏は考えていないだろう。もっとも、伏兵を増やせば増やす程、ベラック城の守りは薄くなる。諸々考えても、多少リッシュモン軍が先行したところで、伏兵に襲われる心配はないと踏んでいた。
「入り組んだ地形なら、敵も色々やりようはあるだろうけどな。実質一本道だ。クリスティーナも、ベラック城前の原野で迎え撃つ以外に手立てはないと思うんだけど」
「両砦へ、どれだけの兵を割いたかですな」
 ベラック北東と南東の砦。幅広い想定になってしまうが、それぞれに二千から四千、間を取って三千の、併せて六千とするのなら、ベラック城前に展開するアングルランド軍は、四万前後か。こちらの中央進行軍は両砦への計一万を引いて四万一千。兵力は、ほぼ互角になる。
 そして敵砦の防衛軍がどれだけであろうと、ザザとポーリーヌには、砦を素通りするよう指示してあった。これが、最初の策である。
 両砦の兵力が充分なら慌ててザザたちを追うだろうが、砦からベラック城までの道程は、隘路である。追ってきたら瓶に栓をするように、寡兵で敵を迎え撃てる。できれば半数以上をそのままベラックに向かわせ、敵の側面を衝く。その兵力でベラック攻略は無理だが、原野でリッシュモンたちと対峙するクリスティーナを急襲するには、充分な兵力である。もっとも敵の斥候に捕捉される可能性は高く、全くの奇襲にはならないだろうが、側背にせまる部隊を防ぐ為、クリスティーナはさらにそちらに兵を割かざるをえないだろう。三千ずつ出すとして、敵本隊に残るは、三万四千。二割程度だが、兵力ではこちらが上回る算段である。
 ベラック城前の原野は前回のそれと比べ遥かに狭く、戦術的な選択肢は多くない。押し合いが主となれば、兵力の多寡は、わずかな差でも重要な要素となる。
 あくまでここまではリッシュモンとアルフォンスの想定であり、数字の食い違いは出てくるだろう。が、例えば敵が両砦に五百しか置いてないようだったら、ザザとポーリーヌの五千が無傷のままベラックの側面をつける。砦の敵が少なければ、追ってきたところで楽に撃退できる。この形なら戦は大分楽であり、ザザたちがくるまで、こちらは基本的に敵と睨み合っているだけでいい。
「ま、どっちにせよ勝つ。キザイアが総大将だったら、どうしてたと思う?」
 敵総大将はクリスティーナであり、キザイアは今やその一部将に過ぎないが、経験豊富な母に作戦の立案を託していても不思議ではないのだ。キザイアの総大将は架空の想定ではあるものの、こういうことを考えておくのは無駄なことではない。
 短く刈り揃えた白い髭を撫でながら、ダミアンが応えた。
「ベラック城を放棄し、西に十程ある砦に全ての兵を分散させる。そのくらいの手は打ちそうですな」
「そりゃ、奇を衒ってる。どうせ負けるならそれ確定でいいから、一度睨み合いの形を作ろうってかい。それだけの砦の奪い合いとなれば相当ごちゃごちゃとした戦になるし、時間も食う」
「時を使われると、徴兵された兵を多く帰すことになるのはこちらです。こちらは敵の連携を分断しながらひとつひとつ砦を落とすのは時間がかかるし、砦側はそもそもベラック防衛のもの、城を落とすのに適した配置ではありません。逆もまたしかり。双方手を出しづらく、膠着になりますな」
「勝ちは譲るが、ここから先に行かせねえと。いかにも、あいつのやりそうなことではある。犠牲なしでベラックを奪還できるが、その形に持ってかれると苦しいな。西にある砦群に物資が貯まってるという話は聞かないが、隠して運ぶのも難しくない距離だ。その話、現実味を帯びてきたなあ」
「キザイア殿が、策を為すならです。クリスティーナ元帥は、一度大敗を喫しています。このような奇策で名より実を取れば、武名にさらなる傷をつけるのみならず、兵の士気も落ちましょう。武勲を立てたい諸侯の不満をどこまで抑え込めるかも、難しいところかもしれませんな」
「クリスティーナの副官には、ソーニャがついたって話だ。ソーニャがキザイアの副官だったことを考えると、作戦の候補に上がっていた可能性はある」
「今の話にしても、私なりにキザイア殿のこれまでを分析してのことです。稀代の名将、私の予想などたやすく覆すでしょうな」
「いや、お前の洞察力は、あたしとそう変わらない。その手は充分にあるよ。敵の内情が、もっとわかればなあ。あたしら、というよりこのアッシェン南部軍も、そろそろ専属の忍びが必要かもしれないな」
「ゲクラン様のところの、”鴉たち”に協力を仰いでみては」
「ここに来る前にゲクランに聞いたら、マグゼが良いというならって話で、けどそのマグゼは手が回らないってさ。何かやりたいことがあるらしい。向こうも人を集めてるとこだと。王家の忍びだったマティユーに接触するつもりとか言ってたから、余程人が足りないんだろうな。その話がその後どうなったかは知らないが、当面こっちはこっちでなんとかするしかない」
 流しの忍びはどこにでもいて、今回もそれらと民から得た情報を元に作戦を立案しているが、流しの忍びでは城下町の様子まで探れても、敵指揮官の周囲までは探れない。踏み込めてもせいぜい城の中庭くらいで、そこから得られる情報は決して多くはない。
「専属の集団となれば、金が掛かります。十人くらいの少数精鋭なら我々だけでも何とかなりそうですが、やれることが限られてしまいますね」
「だな。まあこの南部戦線はさっさと終わらせて、早く北に合流したいもんだ。可能なら、ゲクランの西進も手伝ってやりてえしよ」
「ゲクラン様が二剣の地に橋頭堡を築き、旧ゲクラン領モン・サン・ミシェルまで到達すれば、それより南の二剣の地は、全てアッシェンに復帰するでしょうな」
「後は、北のレヌブランを取り戻すだけだ。アンリ陛下の話じゃ、失地回復をもってこの百年戦争の終結と考えているようだぜ」
「代々続いたこの百年戦争も、ようやく終わると」
「こんな感じで頭で考えているより、先は長いだろ。国力でいえば、アングルランドの方が遥かに上だ。易々と事は運ばない。ま、大戦略が決まってるだけでも、光明はあるわな。とりあえずあたしらにできるのは、目の前のアングルランド南部軍を粉砕することだ。失地回復の尖兵、あたしらが担う」
 言いながらもリッシュモンは、一つ大きな欠伸をした。寝不足ではない。自身のものとしてあまり経験はないが、緊張すると人は、欠伸をすることがある。欠伸は緊張の欠如から来ると考える指揮官もいるが、寝不足や疲労の蓄積が原因でないのなら、実際は逆だ。つまるところ今のリッシュモンは、緊張しているのかもしれなかった。
 この戦には、勝つ。結果として戦略的な大勝にもなり、アングルランド南部軍は当面、こちらとまともなぶつかり合いが出来ない程に兵力を落とすだろう。やがて本国から援軍があるだろうが、そうなればゲクランの西進はいくらか楽になる。ゲクランとの、見えない連携といったところか。
 とはいえリッシュモンに僅かな緊張があるのはやはり、自らが最前線に立つからだろう。クリスティーナは前回の反省から自らはあまり前に出ず、セブラン・ド・グライー、そしてソーニャに兵を預けてこちらにぶつけてくる可能性は高い。アングルランド南部軍が誇る、二人の天才軍人である。あれらと続けて、最悪二人同時に相手にするのは、いくらリッシュモンでも苦しいものがある。戦略的な勝ちは動かないものの、戦術と戦法であの二人とやり合った結果、こちらの勝利の輪の中に、リッシュモンの遺体が並んでいることは充分考えられる。
 一番の功労者として、盛大に葬儀が執り行われるのか。冗談じゃない。リッシュモンにはアッシェン諸侯には珍しく愛国心があり、アッシェンの為に騎士団領からこちらに帰ってきた。が、死ぬのは御免である。国の勝利の為に死んでもいいとは思っているが、百年戦争の終わりを、アッシェンの勝利を見届けるまでは何があっても死ぬつもりはなかった。死んでもいいという覚悟と、命そのものを差し出す犠牲的献身では、似ているようでまるで違う。最も危険な最前線に立ち、勝つ。それが、リッシュモンの考える自分の戦であり、国を思う心だった。
 後方で偉そうにふんぞり返って愛国を叫ぶのは、卑怯者のやることである。本当にそう思っているのなら、まずは自分が最前線に立つべきだ。覚悟なき信念ほど、醜いものもない。
 ただ、リッシュモンのように実地で剣を打ち交わしていれば、死ぬとしても何の不思議もない。加えてこれからぶつかるであろう二人は、一騎打ちのような形になれば、強いのはあちらだろう。無論そこは懸け合いでなんとかするが、やはり自分より強いとわかっている人間と馳せ違うのは、いくらかリッシュモンの身を硬くする。
 日が落ちかけたので、後続のブルゴーニュ軍が追いついてくる前に、野営の準備を始めた。
 戦場についてしまうと、しばらくは髪を洗うことも出来ない。川の水を樽に汲み、焼いた石をいくつか落として、即席の風呂にする。リッシュモン軍に女の兵は数える程しかいないので、リッシュモン自身も彼女たちと一緒に、入浴の準備に勤しんだ。荷車と木の枝に布を結びつけて、敷居を作る。
 風呂から上がって夕暮れの風で髪を乾かしていると、汗だくになったブルゴーニュ公ジョアシャンが、巨体を揺らしながらやって来た。
「おう、やっと追いついたか」
「いやあ、大分涼しくなったとはいえ、まだまだ暑い」
「そうでもないよ。ま、その分厚い鎧で馬に揺られてりゃ、自分の足で移動してるようなもんだろうけどよ」
「アルフォンスたちも、少し後ろの方で野営を始めている。六時くらいから、軍議を始めるそうだ。夕飯もそこで」
「大ブルゴーニュ公直々の言伝、痛み入る。てか、どうしてここに?」
「いや、ポーリーヌがいないと細かい話まで何かと俺に裁可を仰いできてなあ。面倒くさくて、逃げてきた」
「あたしも含めて、女どもは風呂が終わったところだ。お前が入れるような樽はないが、湯はまだ温かい。女の残り湯で良ければ、一風呂浴びていけよ。あの樽の横にある用具はあたしのだから、使っていい。さっきから、汗臭いったらないぜ」
「そうか? なら、そうさせてもらうか」
 腕の辺りの匂いを嗅ぎながら、ジョアシャンは敷居の布を潜っていった。
「ジョアシャンの着替えを届けさせてやってくれ。それと飯は、アルフォンスのとこで食う。後は適当に頼む」
 ダミアンに声を掛け、リッシュモンは愛馬に跨がった。兵たちの敬礼に手を振って応えながら、アルフォンスの野営地を目指す。元々目立つ容姿をしている上に、顔も知れている。各軍の野営地を通り過ぎても、誰何されるようなことはなかった。アルフォンスの幕舎はいつも同じものを使っているので、居並ぶ天幕の中、すぐにそれを見つけることができる。
「飯を食いに来たぜ」
「兵と同じものしか出せませんが、紅茶はあります。ダミアン殿は?」
 カップに茶を注ぎながら、フェリシテが訊いてきた。アルフォンスは例の細目で笑顔の目礼を寄越しただけで、すぐに地図の方に顔を向けている。
「今日はあたし一人でいいよ。こっちからの伝令は、ちゃんと行ってるよな?」
「はい。敵はまだ、ベラック城に立て篭っているようですね。ああこちらからは、ザザ様とポーリーヌ様から、進軍に支障なしと。三、四時間前の情報ですが」
「南北からの情報の時間差も、今のところ想定通りだな」
 進軍前に、その辺りの確認はしてある。ラステレーヌまで鳩を飛ばして、そこから街道に早馬を走らせるか、森を抜けて直接こちらに知らせを届けるか。時間はほとんど変わらず、より確実な森を抜けるやり方にしてあった。
「す、すみません。遅れましたっ」
 副官を伴ったスミサ傭兵隊長モーニカが、何度も頭を下げながら入ってくる。遅れてませんよとフェリシテが、微笑で彼女を出迎えた。
「そういえば、ブルゴーニュ公は」
「ウチで風呂浴びさせてる。男くさいったらなくてなあ」
 バゲットとブラウンシチューという、兵と同じ食事が運ばれてきた。切ったパンをシチューに浸して柔らかくしていると、先程よりいくらかさっぱりとしたジョアシャンも合流した。副官は見ない顔の古兵といった感じだが、娘で副官筆頭のポーリーヌは、南から進軍中だ。
「今のところ、両軍全て想定内の動きです。逆に不気味な感じもしますが」
 食事に手を着けず、アルフォンスが説明を始めた。
「何か、仕掛けてくると思うよ。ソーニャ、キザイア、セブランと知恵者が揃っているが、ゴドフリー、アメデーオもどっちかというと腕っ節よりも頭で戦う連中だ。誰が軍議で献策をしようが、馬鹿な真似だけはしてこねえだろうな」
「ザザ軍、ポーリーヌ軍も今頃、無事に野営の準備をしている頃でしょうか」
「あの二人なら、何かあったらすぐに知らせがあるだろ」
 いくつかの想定の一つに、敵がいち早く南北の軍の編成を察知し、どちらかの軍に奇襲、殲滅を図るというものがあった。仕掛けるなら、ちょうど今頃か、深夜だろう。ただそれをやるにはかなり早い段階から奇襲部隊を組み立てる必要がある。奇襲の部隊は寡兵で済むものの、こちらの兵力がわからない内は編成自体ができない。初めから五百と割り切ってそれをなすことはできるが、こちらはそれぞれ五千なので、その程度では返り討ちはたやすい。千を超える部隊なら、まだ木々の密集していないこの辺りなら、楽に斥候が捕捉できる。諸々考えても、奇襲はなさそうな気配だった。
 直近で一日前の情報になるが、森に千単位以上の埋伏がないことは、調べてある。
「敵もこちらの動き、編成を探ろうと必死でしょう」
「忍びを放ってあるなら、ザザとポーリーヌがそれぞれ五千って話は、もう掴んでるだろうけどな。昼前にそれ聞いて奇襲部隊を編制してれば、まあ明日には遭遇する可能性もアリか」
 五千を奇襲できる襲軍を編成して、なおベラック城の守りを堅くすることは難しい。砦そのものの兵だけで両軍に対処するのではないかというのが、一応の結論になった。
 後は細かい情報と伝令のやり方を微調整、確認しただけで、その日の軍議は散会となった。こちらのやることは決まっていて、敵は動かない。斥候と伝令を忙しく動き回らせる以外、指揮官にできることはなさそうだった。
 明朝、本隊であるアルフォンス軍から、ザザ、ポーリーヌの野営、進軍に滞りなしとの知らせが届いた。
 主にブルゴーニュ軍の兵を借りてだが、リッシュモンは前方の斥候を増やし、逐一報告を得ている。消息を絶つような斥候はなく、どう索敵の手を広げようと、敵影は掴めない。
「静か過ぎるなあ。最初から野戦もせずに籠城なんて、あるのかな」
 独り言みたいなものだったが、ダミアンが拾った。
「兵力に大きな差はありません。ここで籠城は、むしろ常道と思えますが」
「にしたって、逃げ場がすぐ後ろにあるんだったら、一度くらい野戦はするだろ。同数の犠牲でも、こっちは三、四倍も痛い。優勢に出来れば、こちらの攻城を諦めさせることもできる。敵からすれば、とんでもなく旨味のある野戦なんだぜ」
「それゆえに、警戒しておられるのでしょうなあ」
「臆病者の集まりじゃない。あたしが来るまで、勝ちに勝ち続けた軍だ。たった一度の負けで、亀になるのは臆病過ぎるし、兵の士気、特に正規軍のそれはガタ落ちだろ」
 リッシュモンは、左右に広がる森に目をやった。静かである。この辺りから葉は、赤から黄へとその多数派を変えつつある。その密度を上げながらも、黄の背景はむしろ見晴らしを良くしている。動く影というと、近隣の猟師か、こちらの斥候くらいである。
「嫌な予感がしてきた。根拠に乏しいんで、ただの勘だが」
「姫の勘は、よく当たりますからなあ」
「何か、裏をかかれてる気がする。実は敵の主力はとうの昔にあそこを出ていて、撤退してるとか? もしくはずっと南の街道を東進して、こちらの背後のラステレーヌに襲いかかろうとしてるとか? いや、それじゃ位置が入れ替わるだけで、敵は兵站もままならなくなる。うーん、いやホント、何が起きてるのか、わからないわ」
 策。奇策と呼べそうなものを、何通りか考えてみる。こちらに打撃を与えられそうなものはあるが、だとするとどこかで敵を捕捉しているか、せめてその足跡がないと、説明がつかない。
 森から感じるのは、血飛沫のような赤が混じった黄金の輝きと、風が葉を揺らす音だけである。自軍の馬のいななきですら、どこか遠い。
 その日も前日同様、野営はつつがなく済ませた。軍議も、概ね前夜同様である。
 夜は決戦前夜とは思えないくらいよく眠れたが、かなり寝汗をかいていた。嫌な夢でも見ていたのかもしれない。
 天幕から出ると、ちょうど日が昇るところだった。あれが中天を指す前には、ベラック城前で激戦が繰り広げられているだろう。つまり、その頃までに自分が生きていられるのか。
 朝は、麦粥だけで済ませた。配食にはもう一、二品あったが、リッシュモンはそれを断った。ただ私物として持ち込んでいたブランデーを一杯、一息に飲み干す。身体に、ようやく血の巡りを感じた。
 ここからはブルゴーニュ軍を先行させ、戦場となる原野の片隅に、本陣を作らせる。街道を駆ける輜重隊の列が、リッシュモンが当たっている焚き火の場所からでも、よく見えた。近くに川が多いせいか、霧も立ちこめている。
「いよいよですな」
 朝の冷気に強張った指先を揉みしだきながら、ダミアンが傍に並ぶ。
「酒保の者たちが、商売の許可を求めてやってきております。もうお会いになられますか。無論、我々の民ですが」
「すぐに会う」
 大規模な戦となれば、必ず近隣から従軍する民たちが現れ、天幕の娼婦宿や屋台の酒場、雑貨を売る等の許可を求めにやってくる。通りすがりの者たちはいちいち許可を求めず商売をしていくが、滞陣する際には大抵、酒保をまとめる者がその軍の大将に話を通しに来るのだ。この戦の総大将はアルフォンスだが、今回はリッシュモンがそれに応対することになっていた。というのも従軍酒保の者たちの主体は、リッシュモンが率いる流浪の民だからである。
 そんなわけで、顔見知りの一人がリッシュモンの前にやって来た。太っているが旅慣れた感じの、鋭い目をした親父である。
「リッシュモン様、お元気そうで。少し緊張しておられる様子。珍しい」
「言ってろ。最終確認だな。仕込みは、どんな感じだ」
「この短期間にしては、充分なものかと」
「あたしの代で使うのは、初めてだ。お前も、緊張してるんじゃないか」
「私は先代の時代に一度、経験しておりますので。その頃はこの髪も、もう少し豊かだったのですが」
 禿げ上がった頭頂部を撫でながら、男が笑う。
「そういやダミアンは、何度か経験があるんだっけ?」
「先々代からお仕えしておりますが、私はずっと軍属で、姫に見出される前は一兵卒でしたからなあ。作戦の詳細に立ち入る立場にはおりませんでした。実際、この歳にして初めてのようなものです」
「そうか。まあここまでの大規模なヤツは、誰も経験してないからな。みんな、初めてみたいなもんだ。だがどんな規模であれ、民の側に経験者がいくらかいるのはありがたい。やるぞ。合図は、こちらから出す」
「それで、ここで商売する許可は頂けますかな。ああ、形だけは一応やっておかないと」
「だな。ともかく、例の件は頼む。酒保の許可証は、ほら、これだ」
 男は一度頭を下げ、野営地から出て行った。
 先行したブルゴーニュ軍からまだ知らせはないが、リッシュモンは具足を身に着けた。全軍の準備ができるのを待つ。やがて引かれてきた愛馬に跨がり、決戦の原野を目指す。
 原野では早速組み上がっている物見櫓の上で、ジョアシャンが巨体を丸めて遠眼鏡を覗き込んでいた。梯子を上り、その傍に立つ。
「おお、早いな。敵はまだ、本格的には姿を見せんが、城壁の前に本陣らしきものは出来上がってるぞ。そこに兵と替え馬がいくらか、後は城壁の上にもってところだな」
 遠眼鏡を受け取り、ベラック城の城壁に目をやる。この高さでは城内までは見下ろせないが、胸壁の上を行き来する兵は見えた。思いの外、少ない。平時のそれと変わらないように見える。それと城門横の本陣。やはり籠城という線はないし、城を放棄したわけでもなさそうだ。原野にはまだ、隊列を組んだ兵はいない。
 アルフォンス軍が到着し、本陣に入る。同時にこちらも全軍が、その配置につきつつあった。霧はもうほとんど晴れている。こちらを見て取ってか、ベラックもその城門を開けた。まず出てきたのは、旗印から、グライー軍。そこまで見届けて、リッシュモンは櫓を下りた。
 すぐに自分の軍に戻り、所定の位置につく。やはりこの原野は実地で見ても、先日の戦のものより相当狭い。地図で見る以上の閉塞感であり、圧迫感だ。南北に並べるのは二軍がせいぜいで、両軍の間隔も、矢が届くくらいに狭くなるだろう。細かい戦術は使いづらく、懸け合いの巧拙がそのまま戦を左右する。北にリッシュモン軍、南に厚みのある、というより大分兵列を長くしたブルゴーニュ軍、その手前にスミサ傭兵隊が展開する。
 北は、リッシュモンの五千がある程度駆けられる広さ、南のブルゴーニュ軍二万は懐がかなり深く、前列が多少崩されたところで全体が崩壊することはない。兵の交代も、頻繁に行える。
 アルフォンスが、フェリシテを伴ってこちらにやってきた。そのフェリシテの顔には、少し焦燥の色が浮かんでいた。
「先程ほぼ同時に、ザザ、ポーリーヌ両部隊から伝令が届きました」
「よくない知らせと、顔に書いてある。何があった」
「北東南東両砦、敵は完全に放棄しているようです」
「え、マジ?」
 束の間、リッシュモンはそれ以上の言葉を失った。一杯くわされたと気づいたのは、数秒経ってからのことだった。
「両軍、すぐさまこちらへ向かっています。到着は、邪魔が入らなければ二、三時間とかかりませんが・・・」
「砦からの道は、隘路だ。それを利用するつもりだったが、逆手に取られたな。敵はそれぞれ千人も出せば、足止めできる。橋を落とすくらいは既にやってるかもな。駄目だ、二、三時間どころか、ザザとポーリーヌが日暮れまでにここに着く可能性は低い。戦況によっちゃ、明日もどうかってところだ。ったく、やりやがったな」
「ただ、時間をかければいずれ、敵を包囲できます」
 言ったフェリシテだが、前方を見てその考えを改めたようだ。
 城門からは、続々と兵たちが姿を現していた。おそらく全軍だろう。先鋒に立ったグライー軍のせいで、今からその展開前に突撃をかけるのも賭けになる。敵は全軍で、四万と五千、いや、六千くらいか。ザザとポーリーヌの一万を失った、こちらの四万一千を上回る。大した戦術も使えないこの戦場で、東西に分かれた力と力の勝負を挑んで来ている。前回のような油断や慢心はないだろう。真正面からのぶつかり合いで、兵力にして一割の優勢を作った。
「ソーニャ、セブラン、あるいはキザイア辺りの作戦でしょうか」
 アルフォンスが言う。違うと半ばわかっているような、恬淡とした口調だ。
「いや、クリスティーナ本人だろうな、こんなことを思いつくのは。総大将以外が、こんな博打みたいな献策できるかよ。これは、総大将の肝っ玉の太さだ。が、これは分のいい賭けでもあるな。危険を冒して最悪玉砕じゃなく、勝ち切ることを考えている、いい賭けだ」
 可能なら今日一日でリッシュモン、さらにはアルフォンスの首を獲ろうという、乾坤一擲の作戦である。悠長に何日も押し合いをする気はなく、適当なところで城に逃げ帰ろうという様子見でもない。わざわざ城から全軍出してきて、絶対にこちらを潰走させるつもりでいる。そのつもりで戦えば、最悪でもこちらの兵力を削りきれると判断したのだろう。
 一瞬だけ、退くかという考えが、リッシュモンの頭をよぎった。街道もまた戦をするには充分に隘路であり、そこで戦えば間違いなく膠着に持っていける。森にも兵が展開するだうが、まともな隊列は組めず、そこでも両軍の睨み合いがせいぜいだろう。
 いや、駄目だ。その場合、ザザとポーリーヌを、確実に見殺しにすることになる。街道の押し合いとなればむしろ向こうが寡兵でそこを塞ぎ、余力をすべてあの二人に回せる。二人とも、全滅だろう。
 やりやがったな、とリッシュモンは口に出さず毒づいた。覚悟ひとつの作戦で、こちらを一気に不利に追いやった。いや、覚悟を支えるにも、充分な知性が必要か。リッシュモンがそういう指揮官であるだけに、クリスティーナの狙いがはっきりとわかる。
「あのキザイアの娘は、一回の負けでえらく、でかくなりやがったなあ。あたしも一回負ければ、あんな風に変われるものなのかな」
 思わず、弱気な言葉が口を衝いて出る。
「まあいい。これで、勝った。間違いねえ」
 リッシュモンは、両手で頬を叩いた。
「あたしに何かあったら、アルフォンス、後は頼んだぞ。例の策に遺漏はない。あたしとジョアシャンが軍を潰走させなければ、この戦は勝てる。おお、ジョアシャン、いいところに来た。いいか、何があろうと、味方の屍を積み上げて壁を作ってでも、軍を崩壊させるなよ。そっちが抜かれたら、あたしの軍だけであれを全部止めなくちゃならなくなる。いくらあたしがアッシェンの誇る絶対無敵の常勝将軍でも、それは無茶な話だ。いいか、頼んだぞ。後は手筈どおりだ。わかったら、もう自分の軍に戻れ」
 一気にまくしたてた迫力に押されてか、ブルゴーニュ公は軽く手を振っただけで、自分の部隊に戻っていった。
 フェリシテが珍しく、リッシュモンを気遣うような眼差しでこちらを見ている。
「繰り返すが、これでこの戦は勝った。お前らは安心して、後方に控えてろ。替え馬を取りに本陣に戻る時だけ、代わる部隊を出してくれりゃいい。南側はもう、ジョアシャンが二万で敵を塞き止めると信じてる。スミサの三千もいるしな。北側はあたしの五千だけで、絶対に食い止める」
 リッシュモンは紙巻き煙草を取り出し、火を着けた。わずかだが、指先が震えている。恐怖ではなく、武者震いと信じたい。そして何よりこれが最後の一本とならないことを、心底信じたかった。
「いきなり、攻守が入れ替わっちまったな。ったく、細かいことを色々考えて、損したぜ。あらゆる想定を、クリスティーナはクソ根性だけで上回りやがった。ここであの策を使うことにして、本当に良かったよな。アルフォンス、お前まで心配そうな顔すんな。ああ、今のあたしは口数が多いってことを自覚してるって。クソ。生き残ってやるから、お前らは本陣で美味い茶でも飲んでろ」
「リッシュモン殿、御武運を」
 謹厳な敬礼を寄越して、二人は本陣に帰っていった。
「嫌な予感が、当たりましたなあ」
 どこか他人事のような口調で、ダミアンが言う。その様子に、リッシュモンはいくらか救われた。
「ふう。敵の配置は・・・あちゃあ、やっぱあたしの首を狙ってるのはセブランとクリスティーナ、いやソーニャか。合わせて二万千ってとこか。どっちか一人だったら、あるいはもうちょい兵力が拮抗してたら、適当にあしらえる自信があったんだけどなあ」
 北側を担当する敵軍は、グライー軍五千を前方に、その斜め後方にクリスティーナの一万六千程、内五千の軽騎兵はソーニャ直々に指揮するようだ。顔が判別できる距離ではないが、あの女は兜を被ることがあまりないので、すぐにそれとわかる。短めの金髪が、強くなり出した陽光を照り返している。
 リッシュモンと同数を率いる二人の軍事的天才相手に、どう駆け合うか。クリスティーナの歩兵と、彼女自ら率いるあの爆発的な破壊力を持つ重騎兵隊も、隙あらば介入してくることだろう。計、二万一千。五千で、どう防ぐか。兵力差四倍、指揮官二人は敵軍で最も優れた軍人。駆け引きの想定はすぐに何十と思いつき、頭が破裂しそうだった。
 南、ブルゴーニュ、スミサ合わせて二万三千に対して、敵は二万五千程か。キザイア、ゴドフリー、アメデーオが主だった指揮官だろう。僅かな兵力差であるが、戦下手のジョアシャンが数で上回る敵軍を完全に食い止められるのか。さすがにあちらまで手を回す余裕はない。アルフォンスとフェリシテが、上手く助力してくれることを願う。
 ともあれ、一日。夕暮れまでにここが粉砕されることなく、かつ優勢。最悪でも互角に持っていければ、リッシュモンの策は発動する。それで、勝てる。今やそれは困難な事態に陥ったものの、死力を尽くすとすれば、ここだろう。
 圧迫感を拭えないのは、クリスティーナの狙いが自分の首ひとつと、痛い程にわかるからだ。
 ザザとポーリーヌの部隊が使えなくなったのは、返す返すも痛い。敵兵力を分散させ、あまつさえ包囲の形を取れるはずだった一万が、丸ごと消えたようなものだ。優勢を維持しつつ攻めるはずの戦が、いきなりどこまで押し合いを踏ん張れるかという戦になってしまった。
 生き残ったら、このことはゲクランに話してやろう。戦略であたしが一本取られるなんて、そうそうないことだぜ。
「とりあえず、やるか」
 リッシュモンが進軍の号令を出す前に、進軍喇叭が響き、敵軍がゆっくりと進み始めた。ここでもあたしの機先を制するなんて、本当にやるじゃないか。ここまで戦を掌握できる将に、いつなったんだ。少し遅れて、後方からこちらの喇叭も聞こえた。
 大きく息を吐き、リッシュモンは手を上げた。
 振り下ろすと同時に、馬腹を蹴る。

 

 来た。
 知らず、クリスティーナは拳を強く握りしめていた。赤い具足に、赤い髪。リッシュモン。前面に出した騎馬隊の、さらに向こう。
「それではクリスティーナ様、行ってきますね」
 軍務と平時をはっきりと区別するソーニャが、あえてクリスティーナをこの場で元帥と呼ばなかった。彼女なりの配慮だろうか。副官は満面の笑みを浮かべて、見えない手でクリスティーナの肩を叩いたようだった。ぎこちない笑みで、ソーニャを送り出す。それが見えていたかはわからない。ソーニャの目は既に自部隊に注がれており、通りすがりに部隊長の何人かに声を掛け、自身は騎馬隊の先頭に立った。
 南側ではキザイアの指揮の元、ブルゴーニュ軍に猛烈な矢の雨を浴びせているところだ。そのブルゴーニュ軍に、動きはない。スミサ傭兵隊を前面に出しているが、こちらから仕掛けない限り、大きく動く気配はなさそうだ。南の空を覆わんばかりの矢が、屍肉を求めて集まってきた鴉の群れを、天へと追いやっていた。
 こちら、北側ではグライー軍、その大将たるセブランの騎馬隊とリッシュモンの騎馬隊が、ゆっくりと左右に動きながら、突撃の機を窺っている。互いの首を狙う、狼のようだった。その右側、南に近い方ではセブランの副官で妹でもあるマルトが歩兵を率い、じわじわとリッシュモンを追いつめていた。駆けられる範囲を狭くすることで、”鋸歯”の変幻の用兵に制限を与えようということなのだろう。
 クリスティーナは少し、自軍を後方に下げた。敵の使える面は狭く、こちらが使える面は少しでも広く。もしリッシュモンがセブランたちを突き抜けてくるようなことがあれば、歩兵で迎え撃つか、自身が率いる重騎兵で粉砕するつもりだった。
 編成、配置は自ら。そしてそこから先の指揮を、クリスティーナは各将に任せることにしていた。あれこれ考えるより、それが一番だと悟った。後は城に撤退する機と、両砦からこちらに迫っている敵軍に対して、どこかで足止めの部隊を派遣するだけでいい。確証ではないものの、北東の砦をザザ、南東の砦はポーリーヌが部隊を率いていると見ている。それぞれが率いる五千。砦からこちらへ向かう道は森に挟まれた隘路で、敵より遥かに少ない数でそれを塞き止めることができる。道もまるで整備されておらず、両砦も大規模な工事が必要なくらいに傷んでいた。
 クリスティーナがこの北東南東の砦を放棄する決意を抱いたのも、これらが要因のひとつである。元々、砦までの道は整備されており、道幅も広かったそうだ。が、そもそもこの辺りの城を守る砦は、この辺りに怪物が跋扈していた時代のものが多く、両砦もそれに用いられていた。城から距離があるのも、怪物の来襲をいかに早く察知し、城に危険を知らせるかという役割があってのものだ。もう使われてない狼煙台が、本城の最上にそびえ立ってもいた。砦と見張り台、狼煙台を兼ねた施設であり、今も最低限の保全は行われていたようだったが、ぎっしりと兵を詰めさせるには、さすがに心許ない施設だった。そもそも両砦への道が森に浸食されていた時点で、使い物にならない。砦は城との連携が命である。
 それでも、両砦は放棄すると軍議で伝えた時、議場では一様に驚きの声が上がった。しかしそれはすぐに賞賛の声へと変わった。いくら両砦の使い勝手が悪かろうとも、攻めて来る敵に対して砦の防備を盾にするのは常道であり、むしろその整備をいかにして急がせるかという話も諸侯の間では上がっていたようだ。砦の完全放棄は賭けであり、こういった作戦は中々進言しづらいものもあったのだろう。ほとんどクリスティーナ一人で考えたことだが、諸侯の賛同を得られたことで、この作戦に確信を持てた。
 籠城の準備は、両砦を放棄したことを抜かせば、万全といっていい。が、この戦は速戦である。今日一日で、可能な限り敵兵を減らす。ほぼ同数で籠城の構えを取るこちらに向かってきたということは、つまり同数で城を落とす準備があるということだ。ならばこちらはそれが不可能となるくらいに、敵を殺す。そしてリッシュモンとアルフォンスの首が落ちれば、少々の工作くらいで攻守逆転するような事態には陥らないだろう。
 クリスティーナは背後のベラック城を振り返った。城門は、開けてある。未だ発見できない凄腕の忍びがいて、城に籠った途端に城門を開けられるような工作は、充分考えられる。ならば、好きにやらせよう。リッシュモン、これならどうだ。城門だったら、最初から開けておいてやる。こちらの軍を抜けられるようだったら、城には好きに出入りするがいい。市街戦でも、望むところだ。
 腹をくくった。負けるかもしれないという恐怖は、半ばどうでもよくなっている。大まかな展開を決めたら、後は部下に任せる。敗戦の原因が自分にあろうが誰にあろうが、責任を取るのは結局クリスティーナである。そう思い定めた瞬間、配下の将の本当の有能さに気がついた。これら優秀な指揮官たちに、あれこれと細かい指示を出そうとしていた自分が恥ずかしい。
 あの日も、そしてしばらく後も、自分の敵はリッシュモンだと感じていた。違う。一部将のリッシュモンと総大将のクリスティーナでは、職掌も背負っているものも、まるで違う。とんでもない強敵の、しかし一部将に過ぎない赤髪の悪鬼には、こちらも同じ立ち位置の、そして能力において遜色ない二人の天才を当てる。これで負けるのなら、そもそもアングルランド軍が弱かったというだけだ。
 矢の豪雨に耐えかね、スミサ傭兵隊がブルゴーニュ軍の中にまで下がっていく。それでもキザイアは、長弓隊の斉射をやめさせようとしなかった。ここで、矢を撃ち尽くしてしまうらしい。徹底したやり方で、肚の据わりようは見事なものだ。母のこういう部分を、クリスティーナも受け継げているのだろうか。矢を大量に積んだ輜重が、本陣からキザイアの元へと向かっていた。アッシェン軍にも飛び道具はあるが、そのほとんどは弩で、長弓隊相手では矢合わせにもならない。射程距離が、まったく違うのだ。
 さて、ここからどう出る。クリスティーナはおそらくそこにアルフォンス元帥がいるであろう、物見櫓の方に目をやった。遠眼鏡を取り出し、敵本陣の動向を探る。そこは小高い丘の上で、柵越しでも中の様子はそれとなく見て取れる。
 兵の動きは多く、一言で言えば忙しない。それは、少し意外でもあった。何かしらの策を用意してあるのだろうか。もっと、どっしりと構えているとばかり思っていたが、予想から外れたところで、こちらに動揺はない。何を仕掛けて来ようが、見極め、腰を据えて迎え撃つ。
 櫓の上には、二人。男の方がアルフォンスで、その傍で何か話しているのが、副官のフェリシテだろう。二人とも、こちらとは別の方角を見ていた。何度か、副官の方が下の兵に指示を飛ばしているのが見えた。
 遠眼鏡を仕舞い、クリスティーナは再び前方に視線を戻した。潮合。それを感じる。リッシュモンと、セブラン。
 両騎馬隊が今まさに、激突しようとしている。

 

 

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