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2,「新たな人生を生きることが、二人の間の約束だったから」


 かろうじて四頭立ての馬車が抜けられる、森の小道。
 思っていたよりそれは長く、前方から別の荷馬車が来たらどうしたものかと心配していたシュザンヌだったが、無事、森は抜けられたようだ。
 少し開けた土地の片隅に、その小さな屋敷はあった。よくある村の長の家と同じくらいの大きさだが、屋敷をそのまま小さくしたような、複雑な造りをしている。手入れの行き届いた清潔さとはまた別の、一種の穢れなき佇まいを、その屋敷は醸し出していた。
 裏手、森の近くには厩や鶏小屋が見える。柵の中で歩き回る鶏と一緒にこちらを見つめているのは、六、七歳に見える幼い少女だ。あれがセシリアの一人娘、セリーナだろうか。十歳程と聞いているので、大分幼く見える身体つきのようだ。
 御者台のユストゥスが挨拶したのだろう。少女は破顔し、どこか覚束ない足取りでこちらに駆け寄ってきた。
「はうぅ、ユストゥスさん、お久し振りです。元気でしたか」
「ああ。近くに寄ったので、セシリアの義手の様子を見に来た。それとお前に、少しばかり街の土産も買ってきたよ」
「ありがとうございます。お母様も喜びます」
「セリーナ、久しぶり。相変わらず、かわいいねえ」
「エンマさん! それに、デルフィーヌさんも」
「久シ振リ」
 三人は、既にセリーナとは顔見知りである。
「初めまして、セリーナ。私はシャザンヌ。私も、あなたのお母さんに会いにきたの。よろしくね」
「あう、セ、セリーナと申します。よろしくお願いします」
 多少人見知りするのだろうか。それでも可愛らしくお辞儀するセリーナに、思わずシュザンヌも頬が緩んだ。
「あらあら、外が騒がしいと思ったら」
 初めて聞く声なのに、胸が締め付けられた。顔を上げるとセリーナと同じ長い金髪の女が、家から出て来るところだった。ショールを羽織りながら、少し目を細めてこちらを見ている。右腕の、義手。彼女がセシリアで間違いない。はっとするほど、美しかった。
「あ、あの、シュザンヌです。初めまして」
 人前で緊張するのは、随分久しぶりだなとシュザンヌは思った。顔が上気しているのが、自分でもわかる。
「初めまして、なのよね。セリーナよ。エンマの主ってことで、合ってる?」
「は、はい。エンマさんには、こちらも大変お世話になっていて」
「シルヴィーの従姉妹、ユイル商会の”銀車輪”」
「は、はあ。その名で呼んで頂けて、光栄です」
 横のエンマが、吹き出している。それを肘で小突きながらも、シュザンヌにもこの用心棒の気持ちがわからないでもない。あきらかに今の自分は、取り乱している。商売に失敗した際、周りに当たり散らかすような取り乱し方はエンマも何度か見ているだろうが、乙女が初恋の相手を前にして自分を失うような、こんな動揺を人に見せるのは初めてのことだ。
「あ、あの、お話を窺いたく。その、シルヴィーお姉ちゃんのことで」
「いいわよ。急ぐ?」
「い、いえ、義手の方が終わってから、その、お時間のある時で結構です」
 腹を抱え、それでもなんとか声を出さずに笑っていたエンマが、本人は軽く小突いたつもりだったろうが、シュザンヌが前に吹き飛びそうな勢いで、背中を叩いた。
「うくくく、あはははっ! いや、セシリアさん、普段の彼女、こんな振る舞いとは真逆の、小さな暴君って感じです。私も、こんなシュザンヌは初めて見ました」
「そうなのね。顔立ちは少し違うけど、その髪の色を見てると、あの子を思い出すわね。みんな、上がって。ああ、彼はアルフレッド。さあ、ご挨拶なさい」
 厩の方で作業していたのか、藁にまみれた足元を払いながら、黒髪の少年が一人、こちらに向かってきていた。
「アルフレッドと申します。不肖の身ながら、セシリア殿に剣を教わっております」
 青く、力強い瞳を持った、おそらく十代半ば頃であろう少年である。
「あれ、セシリアさん、弟子は取らないんじゃなかったの?」
「そうでも言わないと、ここを探ろうという人間が現れるかもしれないじゃない。人避けで言ってるだけで、おかしな信念があるわけじゃないわ。彼は隣村の騎士の次男坊でね、よく家のことを手伝ってもらってる。剣くらいは、教えてあげなくちゃね」
「お手伝いの人は?」
「今はアルフレッドで充分かしらね。セリーナも、大分家のことができるようになってきたし」
 周囲の森の紅葉は深く、秋もまさに盛りといった風情だが、セシリアの一挙手一投足は、まるで春の訪れのような爽やかさがあった。
 冒険者時代の輝かしい、それ以上に血塗られた物語は、シュザンヌでなくともよく知られるところだ。人を多く殺した人間独特の陰惨なものを纏っているかと思ったが、実際の印象は逆といっていいくらいに、違った。陰を隠しているのではなく、そんなものは突き抜けてしまったという、凄みを感じる。
 ユストゥスたちが馬車を厩に預けている間、シュザンヌは居間に通され、セリーナの相手をしながら、茶を頂いた。茶葉と煙草が喜ばれると聞いた為、実際には缶に小分けにしたものだが、分量として一樽分の様々な茶葉、セシリアお気に入りの煙草を土産として運んできたのだ。二人とも喜んでくれた為、持ってきた甲斐はあったと言える。
 小さな屋敷内は、特にこの人数で押し掛けるとさすがに手狭に感じたが、母娘二人で暮らすには、このくらいがちょうどいいのだろう。客間を兼ねた居間の壁際、棚や暖炉の上にはおよそセシリアの趣味ではないであろう、統一感のない種々雑多な品で溢れていた。ここを訪れた者たちの、土産と思われる。エンマはセシリアと二人、厨房に入っていた。
 セリーナはまずシュザンヌがどんな人間か知りたがり、次いで商家というものについて尋ねてきた。好奇心旺盛なのか、単に外界の人間が珍しいのかはわからない。口調にどこか辿々しいものがあり、初めの印象としてはどこか抜けた、悪く言えば馬鹿っぽいと感じたが、訊いてくる内容、相づちを打つ拍子などは絶妙であり、実際は高い知性を持っていることが窺い知れた。さすがに、セシリアの娘か。
 ユストゥス親子が帰ってくると、セシリアを含めた三人は二階へ上がっていった。エンマが厨房から戻ってきてセリーナの相手をしだしたので、シュザンヌはそれとなく外へ出た。
 屋敷の裏に回ると、あのアルフレッドという少年が、薪を割っていた。裏手には養蜂場、作物ごとに分けた畑など様々なものがあり、ほとんど自給自足の生活ができるようになっていると推察できる。
「あなた、ここに来るようになって、長いの?」
 シュザンヌが話しかけると、少年は汗を拭ってこちらを振り返った。
「いえ、それほどでも」
「住み込み?」
「ここに来る時に、東に村があったでしょう。あそこから通っています」
 徒歩なら三十分、馬なら十分とかからない距離である。
「セシリアさんに剣を習っているということは、いずれ騎士になるの?」
「どうでしょう。次男ですから。親父や兄貴が戦えなくなれば、そういうこともあるかもしれません」
「それに、備えて?」
「いえ、ただ己を鍛える為に、そうさせてもらっています」
「それだけ?」
「まあ、成り行きみたいなもので」
 今まで表情を出さなかった少年が、少しだけばつが悪そうに笑った。
「昔、姫・・・セリーナ様を、いじめてしまったもので。それが見つかり、張り飛ばされました。俺は弱い人間で、自分より弱い者を見つけて、いたぶってやろうと思っていたのですね。弱い者は、より弱そうな人間を探す。根が、クズなのでしょう」
 今はとてもそうとは思えない澄んだ瞳をしているが、その目には彼にしか見えない自分があるのだろう。
「曲がった根性を、時間をかけて叩き直してもらっているところです。二人とも既に俺を許しているようですが、俺はまだ自分を許せていないので、罪滅ぼしのつもりでここの手伝いをしています。なのにセシリア殿からは剣を教わり、姫はいつも俺に優しく接してくれます。返せない程の恩義が出来てしまったので、俺の罪滅ぼしも終わりません」
 セリーナを姫と呼ぶのは、やはりあのリチャード王の子供だからだろう。非嫡子だが、嫡子のエドナとラッセルが王位継承に消極的な為、今のアングルランドでは特例で非嫡子にも王位継承権が与えられていると聞く。
「ずっと、ここにいるの?」
「どうでしょう。ただ俺は、二人を守りたい。それだけの強さを身につける為に、今の時間が与えられていると思っています。セシリア殿も、その・・・」
「いつまで生きていられるか、わからない?」
「・・・そうですね。だから俺には、あまり時間がないとも言えます。なので家督云々は、今の俺にはあまり考えられませんね」
 言って、アルフレッドは薪割りを再開した。思い詰めた横顔は、しかし中々の二枚目である。服の着こなしや洒落っ気のなさから、まだ本人は見目が良いことに無自覚と見える。隣村にもあまり若い娘はいなかったので、それも自覚のなさに拍車を掛けているかもしれない。
 もっとも、とシュザンヌは思う。今は目の前のことで精一杯なのだろう。薪を一心に見つめるその眼差しに、もう少し年齢が高ければ恋心を抱いていたかもしれないとシュザンヌは思った。顔立ちも体格も合格点以上だが、中身はまだ、おそらく年齢通りの子供である。もし今後会う機会があったら、五、六年後を見てみたいと思う。今でも背が高い方で、シュザンヌより高いくらいだが、男はこれからもどんどん背が伸びる。
 今から唾をつけておきたい気持ちもあるが、仕事で関わらない人間の青田買いは、シュザンヌの趣味ではない。
 セシリア邸の手伝いをできるわけでもなく、商談以外で人と話すのもあまり得意でないシュザンヌにとって、夕飯まではまたも暇を持て余すことになった。日が落ちるまでは何をするでもなく、周囲を散策する。
 居間は全員が集まって食事をするには、卓が小さ過ぎた。蒸した鶏肉と煮付けた野菜、パンを一つ皿に乗せ、シュザンヌはポーチの椅子に腰掛けた。居間の明かりは窓硝子越しにここに届いており、食べるのに支障はなかった。だが外は少し、肌寒い。
「ほら、風邪引くわよ」
 膝に、毛布が掛けられた。セシリアである。シュザンヌの隣の椅子に腰掛けると、盆から茶のカップを二杯、それと自分の皿を卓に置いた。右腕の義手は調整中なのか動く気配はなく、左手だけで器用にそれらをこなしていた。
「す、すみません、お茶まで」
「シルヴィーのことだったわよね」
 居間からは、エンマたちの笑い声が聞こえる。セシリアはしばらく星々を眺めてから、皿のものに手をつけはじめた。
「私が彼女に関わっていた時間は、あなたに比べてずっと短い。それでもそうね、いつも、ずっと先の景色を見ているような子だったわね。死期が近いとわかっていたにも関わらず」
 シルヴィーと、セシリアたちの旅。余命少ないシルヴィーは、冒険者であった母の描いた一枚の絵と同じ景色を見たいと願い、最後の旅に出たのだった。
「どんな言葉を残されましたか」
「私に、何か託したわけじゃない。最後の最後に、お母さんに会えたみたいだけど」
「えっ、お姉ちゃ・・・シルヴィーの、お母さんの御霊が、そこに?」
「そういう意味じゃないわよ。ただ最後に彼女が見たのは青い空と青い海、母の残した絵画と同じ景色だったそうよ。海は、こんなにも青いのかって、それが最後の言葉。テレーゼが彼女を岬に連れて行った時には、日が落ちてたんだけどね」
 聞いて、シュザンヌは必死に口元を引き締めた。それでも、唇が震えてしまう。
「母に会うことが夢、そう言っていたらしいわね。フェルサリから聞いたのだけど。ただシルヴィーがそう言ったのも、アンナの夢を叶える為という部分が、少なからずあった」
「メイドの、アンナさん?」
「アンナの夢は、シルヴィーが幸せになることだった。だからシルヴィーは、本当はもう保つはずのない身体を、なんとかあの旅の間だけ、保たせてみせた。この旅をできて自分は幸せだと、アンナに伝える為だけにね」
「アンナさんにも、お話を窺いました。けど当時のことは忘れかけているのか、あまり要領を得た話は聞けなくて」
「忘れるわけないわ。それこそ一日一日を、克明に記憶してるんじゃないかしら。ただシルヴィーは、自分がいなくなった後のアンナを心配してた。自分のことは忘れて、アンナには幸せになってほしい。だからアンナは、シルヴィーの望みに応えることにした。二人には、私たちが踏み込めない絆があったわ。そんなわけで、アンナがシルヴィーのことを話すことは、そうそうないでしょうね。双子の娘のルチアナとアニータも、ほとんど聞いてないと思う。話すとすれば、あの旅を共にした仲間だけね。新たな人生を生きることが、二人の間の約束だったから」
 なるほど、そういうことだったのか。シュザンヌは束の間、アンナに嫉妬した。シルヴィーを誰よりも愛していたシュザンヌは、しかしそれだけの絆を築くことができていたのだろうか。
「それにしても、よりによってユストゥスと一緒に来るなんて、意外だったわ。デルニエールでの旅も、あの時の道程を辿って来たそうね」
「はい。というよりセシリアさんもそうですが、フェルサリさんは忙しくされてるようですし、テレーゼさんは四千王国に行ってしまいましたし・・・」
「ネリーは、もうこの世にはいない。ジャクリーヌもそうだから、そうね、ユストゥスしか、道案内できるのはいなかったというわけね」
「その、ジャクリーヌさんは、どんな方でしたか。お姉ちゃんの命を狙ったという意味では、ユストゥスと同じですが、彼の様子を見ているとやはり、その、事情は聞いているのですが、お姉ちゃんに恨みがあったわけでもないし、その、悪い人間だったようにも思えなくて。お姉ちゃんの命を狙ったという意味では、本来最も忌むべき相手ではあるのですが」
「それこそ、あの一件のあとに彼女と結婚した、ユストゥスにこそ、聞ける話じゃない? さすがに娘とはいえ、デルフィーヌは生前の母親のことはほとんど記憶にないと思うけど」
「逆に、聞きづらいんです。少し聞いてみても、良い人だった、としか。事前に調べられることは、調べました。通称”美手の”ジャクリーヌ。物騒で、口が悪い賞金稼ぎ。腕はいいものの、揉め事が多い人だったとも」
「そうね、概ね合ってる。あの旅の間は彼女と命を奪い合う関係になってたけど、強かったわね。精神的にもそうだし、とにかく頭の回転が早かった。片腕、片脚がない人間とは思えなかったくらい。いくらユストゥスの義手と義足が優れていたからって、四肢が揃ってる方が、明らかに戦闘では有利だからね。なのに、彼女は強かった。武に天稟があるって感じじゃなかったのに、いえむしろ運動神経もいい方じゃなかったからね、こういう人間もいるんだった思ったわよ。あの後彼女とは何度か交流があったけど、その印象は強くなるばかりだったわ」
「その、頭の良さで、他を補っていたと」
「補って、余りあるくらいにね。あんな身体で、五体満足、装備充分のテレーゼと真っ向からぶつかり合って、勝っちゃうんだから。吸血鬼、それも上級種とやりあって勝てる人間は、当たり前だけどそうはいないわ。彼女なら、竜にも勝てたでしょうね。そういう巡り合わせだったら、大陸五強の一角に数えられていてもおかしくなかった。けど彼女は、必要もないのに危険を冒す人間ではなかったし・・・と、本当はこんな話が聞きたいんじゃないのよね」
「あ、いえ、テレーゼさんとのお話は、初耳でした。興味深く聞かせて頂いています」
「ジャクリーヌは、たまらなく優しかった。あまりに口が悪いんで、表層的にしか物事を捉えられない人間には、彼女の優しさはわからないでしょうねえ」
 胸に込み上げるものがあり、シュザンヌはしばし口を開けなかった。あの旅を共にした者たちは、それが敵味方に分かれていたとしても、誰もが大切なものを守る為に、本当に命を懸けていたのだ。
「生前のジャクリーヌに、そっくりな人間がいる。見た目はちょっと違うけど、言動はそっくり。意識してるのね。髪まで赤く染めちゃって。彼女に会えば、多分ジャクリーヌって人間が、よくわかると思う。もう会ったかしら。ユストゥスから聞いてる?」
「いえ、どなたでしょうか。少し、会ってみたい気もします」
「”鋸歯の”リッシュモン。流浪の民を率いる、領地なき領主。見た目以外を言うのも変だけど、生き写しって感じね。頭がいいってところも、よく似てる。敵地なのにお忍びで何度も訪ねてきて、どんな人だったんだって、しつこいくらいに」
「名前は、よく知っています。そうでしたか。どういった繋がりがあったんでしょうか」
「ユストゥスが流浪の医師だからね、同じ流浪同士、彼女の民たちとは何かと交流があったみたいよ。そこで幼いアルベルティーヌ、今のリッシュモンね、彼女はジャクリーヌにかなり影響を受けたみたい。初めてここを訪ねてきた時に、あまりに言動がそっくりなもんだからね、私なんかは大笑いしちゃったけど。アルベルティーヌがずっとジャクリーヌの影を追っているように、あなたもまた、シルヴィーのことを、ずっと追いかけているのは、わかる」
「当代リッシュモンに、私も会ってみたいと思いました。ひょっとしたら、似た者同士なのかもしれません」
「そうね。それより、冷めるわよ。せっかく鶏を二羽もつぶしたんだから、セリーナの為にも、おいしい内に食べてあげて頂戴」
「あ、はい。いただきます」
 鶏を二羽つぶさせたのは、この家にとってそれなりの痛手だっただろうか。いや、世話をしていたセリーナにとっては、悲しい出来事だったのだろう。ただ、客が来れば、こうしてもてなしてくれる。おまけに、聞きたかったもの以上の話も聞けている。もっと土産を持ってくるべきだったかと思った自分を、しかしシュザンヌは束の間恥じた。どうしてこう自分は、何でも損得で物事を測ってしまうのだろう。
「お姉ちゃんは、いつも私に優しく接してくれました。セシリアさんから見て、彼女はどうでしたか」
「思いやりのある子だったわね。ジャクリーヌとはまた違った意味で。人に優しい分、自分に冷たく、その余命のこともあって、先を見ているにも関わらず、何かを諦めているようでもあった。命以外の、何かをね。惜しい、とは思った。シルヴィーは生まれながらにして、人の上に立つべき人間だったから」
「本当に・・・ああ、そういえば、お姉ちゃんはたくさんの蔵書を残してくれたんです」
「へえ、初耳ね。私たちと出会う前から、食べるのにも苦労していたはずよ。アンナはシルヴィーに黙って身体を売り、シルヴィーはあなたみたいな豊かな銀髪を売って、何とか食いつないでいた。本が残っているのなら、買い叩かれたとしても、多少はお金になったろうに」
「そうでしたか、そこまで。彼女がいなくなった後、すぐに商会が家ごと買い取らなければ、その蔵書も売り払われていたかもしれません。そこだけは手を付けないでと、幼い私は父に言いました。なので今も、お姉ちゃんの部屋は、彼女が出て行った時のままです」
「どうしても残したかった、そんなものがあったのね」
「本には所々、付箋や書き込みもあって・・・」
 シュザンヌは残された蔵書と、その内容について語り始めた。今こうして話しているセシリアも、次に会う機会はないかもしれない人物である。衰えを感じない美貌に騙されがちだが、近くで話すとどうしようもなく、彼女には死の影がちらついていた。
 話が長くなり、二人は紅茶のお代わりや、厠へ行く為に何度か席を立った。アルフレッドが途中、帰途の挨拶に訪れ、残った者は裏手の風呂に順番に入っているようだった。
「なるほどねえ。誰、とは決めていなかったのかもしれないけど、そこを見つけた人間に、シルヴィーは夢を託した可能性はある。本の内容から察するに、あなたが第一候補であるのは間違いないと思うけど」
「ですよね。だから私は、お姉ちゃんの夢を叶えなくちゃって・・・」
「シルヴィーは、人に夢を押しつけるような人間ではなかった。それでもそうね、アンナには幸せになって欲しいと、彼女は願った。そしてアンナはそれに向かって一歩踏み出した。シルヴィー自身、自分の持つ影響力のようなものは、自覚していたかもしれない。あの旅の間、私はもちろんあそこにいた全員が、シルヴィーの最初で最後のわがままを聞いた。それを為したいと、全員がたやすく命を懸けた。境遇に同情したんじゃなく、衝き動かされていたのだと、今ではわかる。それは並大抵の人間が持ち合わせている力じゃないわね」
「直接言ってくれれば、小さかった私でも、お姉ちゃんの為に命を投げ出せたのに・・・」
「ほら、そこよ。それを、シルヴィーは避けたかったのかもしれない。何となく、幼かった頃のあなたを、想像できるわ。それにあなた、人を殺したことあるでしょ」
 いきなり、心臓を鷲掴みにされた気分だった。セシリアが、あのことを知っているはずはない。エンマでも知らないことだ。ただ、あれについてセシリアが話していることは、明白だと言えた。
「思い当たることがあるようね。それが何なのか、私には見当もつかない。そういう目をしていると、わかるのはそれだけよ」
「・・・殺すつもりは、ありませんでした。ただ、死ぬ程に追いつめてやろうと・・・」
「吐き出したいのなら、今ここだけにしておきなさい。明日になって聞いて欲しいと言われても、私は聞かないわよ」
 当時の、まだ決して大きくなかったユイル商会にいた者は、いくらか察しているだろう。物的証拠は残していないが、状況証拠ならいくらでもある。ひょっとしたら、噂が出回っていることも、あるかもしれない。いつかは、誰かに話しておかなくてはいけないことだとも思っていた。告解する教会に、多少の目星もつけていたのだ。
 ひとつ息を吐き、シュザンヌはセシリアの青い瞳を見つめた。
「父を、殺しました。父は自殺しましたが、そこに追い込んだのは、私です」
「それはまた、業が深いわねえ。まあ、私も人のことは言えないけど」
「え、セシリアさんも・・・」
「私のことは、今はいいわ。それで、何故父を。ああやっぱり、商会のことかしら。その辺りのことがなければ、私があそこに行くこともなかったわけだし」
「ご存知でしたか。お姉ちゃんからユイル商会を奪ったのは、父です。お姉ちゃんが余命いくばくもないと知っていたのに、苦しんでいるお姉ちゃんから、全てを奪いました。まだ小さかった私には何の力もありませんでしたが、それゆえに、絶対に許せない、いつか復讐してやると、心に誓いました。商会である程度の力を得てからは、何年も周到に準備し、商会を身売りしなくてはいけない程の莫大な大損の責任を、父一人に被せました。父に、お姉ちゃんから商会を奪ったことを、悔いてほしかった。なのに父は何も言い残さずに首を吊りました。あらためて、殺すつもりはなかったと言い訳するつもりはありません。むしろ死ぬ程の後悔を、一生背負って欲しかった。なのにあっさり、全てから逃げ出すように、父は命を絶った」
「なるほど。そして死に追いやったこと自体に、罪の意識は持っていないみたいね」
「今も、恨み続けています。その意味で、生きていてほしかったと思うくらいに。自分がひどい人間だとは、自覚しています」
「そういう親子も、あるということね。なに、貴族同士は跡目を巡って親兄弟に平気で剣を向けるし、心の貧しい親が、子を虐待することもある。その子供に、復讐する権利くらいはあるわよね。私が口を挟む問題でもない。ただその業は、ずっと背負っていくのね」
「はい。こんな私に、お姉ちゃんの夢を叶える資格はないと思いますか?」
「さあ。直接手を下したわけでもないし、そもそもあなたの話だけで判断していいものでもない。あなたがそう思っているだけで、追いつめたり罠に嵌めなくても、あなたの父は命を絶っていたかもしれないしね。あなたが予想した結果と違うことが起きたということは、彼にも罪の意識があったのかもしれない。ただ私も、人を多く殺してきた。肉親すら手をかけてね。それこそ、私が偉そうに何か言える立場じゃないわよ。それ私に聞く?って」
 セシリアは、笑った。確かに、これだけ歌に歌われているにも関わらず、謎の多い英雄に、聞くべき質問ではなかったのかもしれない。先の一言も気にかかるが、そもそもセシリアは新世界秩序との戦いで、実の、双子の妹と戦っている。その際に失った、彼女の右腕だ。
「あなたの道は、もう血塗られてる。なら、行けるところまで行くしかないわね。けど不思議ね、あなたの商会の通信販売は、悪くない話ばかりよ。私も近隣の村の酒場で目録見て、たまに注文してるのよ。他より品揃えが良くて安いのに、運んでくる商人は、誰もが活き活きしているように見える。末端で働く者にも気を配れる思いやりがあるのか、贖罪の為の優しさなのか、今の話を聞いて、あらためてあなたに聞きたいと思った」
「お姉ちゃんだったら、きっとこういう仕事をしてた。そう思いながら、構築した物流網です。お姉ちゃんだったら絶対、買う側も売る側も、関わった誰もが笑顔になれる商いをしていた。そう思っての、今の形です」
 セシリアは左手だけで煙管に火を着け、紫煙を夜空に放った。
「そうね、きっとそういう仕事をしてた。私が何を話すでもなく、あなたこそ彼女の想いを一番汲んでいるじゃない。天国の彼女も、きっと笑っているわ」
 聞いて、シュザンヌは涙が溢れ落ちるのを止められなかった。
「私は、父を殺した。お姉ちゃんの夢を繋ぐ資格があるのか、ずっとそれが頭を離れなくて・・・」
「資格なんてそもそも、本人以外の誰にもない。彼女は彼女、あなたはあなたよ。同じ人間じゃない。だからこそ、愛し合えた。あなたは肉親を殺す程に情がこわく、思い込みも激しいみたいだから、シルヴィーは自分が残すものを、あなたに託すべきか、迷っていたかもしれないわね。話せば、どんなことでもやってしまうと。シルヴィーに生まれついての病がなかったら、とは今でも思ってしまうわね。あなたの為にも」
「はい。父のことは、お姉ちゃんだったら絶対に、私を許さなかったと思いますし」
「どうかしら。シルヴィーは自分の最後のわがままの為に、私たちを死地に立たせた。人と人が関わった時に、何かが犠牲になることもあるのだと、覚悟していたはずよ。まあ彼女に病がなかったら、あなたみたいな陰険な手は使わなかったと思うけどねえ」
 ちょっと意地悪そうに、セシリアが笑う。その笑みに、シュザンヌはいくらか救われた気がした。
「身を焦がすような存在に、出会ってしまった。それは他人にどうこう言える話じゃないわ」
「それでもお話を聞かせて頂いて・・・聞いて頂いて、本当にありがとうございました」
「いいのよ。この話はおしまいね。お風呂に入ったら、もう寝るわ。明日は一日中、これを見てもらうつもりだから」
 腕甲のような重そうな義手を、セシリアは煙管で軽く叩く。
「お皿、片付けといてくれる? 来客にやらせることじゃないけど」
「い、いえ、ちゃんとやっておきます。重ねて、今日は本当に、ありがとうございました」
 セシリアが席を立った後も、シュザンヌはしばらく暗い森を見つめていた。
 自分は、許される存在ではない。だが、それでもいいのだと、セシリアは教えてくれた気がする。
「お風呂、シュザンヌが最後だよ。あ、その皿まだ片付けてなかったの」
 エンマがこちらに顔を出し、卓上の皿に手を伸ばす。
「あ、それ私が片付けるから。お風呂も、すぐ入る」
「私がやっとくから、先に風呂入んなよ」
「いいの! 私がやるって、セシリアさんに言ったんだから」
「そのセシリアさんがお風呂から出て、結構経つんだけどねえ。しょうがない、湧かし直してくるか。にしても、シュザンヌの顔・・・」
 エンマは身を屈めて、まじまじとシュザンヌの顔を見つめた。
「やめてよ、気持ち悪い」
「なんか、憑き物が落ちたって感じだねえ。セシリアさんに、いいこと言ってもらえた?」
「金貨百万枚払ってもいいと思ったわね。もちろん、ゴルゴナ金貨で」
「ええっ、どんな話?」
「私は私ってことよ」
「そりゃそうだ。わかんないなあ」
「あなたは、わからなくていい。ええと、お皿はどこで洗うの?」
「そこからぁ? あははっ、まったく、私がいないと何もできないんだなあ」
「うるさい。とにかくどうすればいいか、教えなさいよ」
「はいはい。ま、いつも通りのシュザンヌか」
 他の皆はもう寝室へ向かったのか、居間には暖炉の灯りが残されているだけだった。
 身を焦がすような存在に、出会ってしまった。
 シルヴィーのことを、セシリアはそう言った。思わず暖炉の火を見つめてしまったが、厨房で手招きするエンマに気づき、慌ててそちらへ向かう。
「許されなくていい。それがわかったの」
「何の話?」
「もう! 忘れなさいよ」
 エンマの脇腹を、思い切り小突く。
 脇腹を押さえた用心棒は、笑顔以上の何も返してこなかった。

 

 かつてベルドロウの元で副官をしていた時とは、仕事の内容が違う。
 団長代理、実質団長付きの副官は、移動の際の行程や下準備、斥候の編成に配置、今のような平時でも軍資金の残高の確認とそれを扱える銀行とのやり取り、各指揮官からの問題報告など、やらなくてはいけない仕事は多く、かつ青流団の運営そのものに関わるものが多かった。
 サーシュリンの、つまり一部隊の副官というのは、全体に目を配らなくていい分、細々とした、おまけに各将校との、主に兵の人間関係に関する話し合いなど、ルチアナにとって心労が重なる内容がほとんどだ。比較してだが、大抵の者ならこちらの仕事は煩雑でありつつも、責任の軽い、楽な仕事に感じるだろう。が、人嫌いのルチアナにとっては拷問とまではいかなくても、苦痛を伴う仕事であることは間違いなかった。
 団長付きの副官は、青流団の運営についての機能的な仕事、今回のそれは人と人とを繋ぐ仕事と言うべきか。
 おまけにサーシュリンに指揮官の経験はない為、ルチアナはそれらの仕事も彼女に教えなくてはならなかった。実質、大隊長をやりながら、副官の仕事もこなしているようなものだった。さらに言うなら、サーシュリンは物覚えも悪い。覚書を取るよう頼み、ルチアナのやることを必死に手帳に書き付ける彼女の様子は、どちらが副官なのか、初めて見る者にはわからないだろう。
 自己の鍛錬の時間を捻出するのにも苦労する有様で、何より人と接する気苦労から、自室に戻る際には髪を梳かすのも億劫なくらい、疲れ切っていた。散らかっていく自室に、一層の苛立ちが募る。
 いずれは大隊長に復帰、さらには副団長にまで上り詰めるつもりだった。が、今の生活のしんどさを考えると、しばらくの間一兵卒で過ごすのも悪くなかったとも思う。端的に言って、人と人の間に入る仕事は、ルチアナには向いてなかった。
 週末には平時でも最低一度、軍議がある。サーシュリンの副官として出席したその場で意外だったのが、ルチアナから地位を剥奪したロサリオンが思いの外、好意的だったことである。初めは、一兵卒に落としたはずのルチアナが、いくらサーシュリンの命とはいえ副官をやっていることを、いつ問いつめられるかと、身構えていた。だがロサリオンは、彼女の後ろに立っているルチアナを見て、こう言ったのだ。
「サーシュリンは、お前を選んだか。お前からしたら彼女は至らない部分も多いだろうが、しっかり支えてやってくれよ」
 これには、ルチアナも言葉を失った。混乱する。このエルフの英雄の不興を買って、自分は兵に落とされたのではなかったのか。
「何か、困ったことはあるか」
「毎朝、サーシュリン隊長を起こすのが大変です」
「ええぇ、ルチアナちゃん、みんなの前でそんなこと言わないでよぉ」
 サーシュリンの情けない抗議に、軍議の席が和む。
 会議ではそれぞれの隊の調練の話、隊員同士のいざこざ等の細かい問題点、そしてアングルランドからの補給と、新たに使わせてもらえるようになった施設等、平時の軍議としては特に変わったところのない話し合いと、通達が行われた。
 散会となり、一同議場となっていた幕舎を出る。自分の天幕に戻り、具足を脱ぐ。崩れかけた化粧を直し終えたところで、外から声を掛けられた。
「よう、たまには俺たちと昼飯でもどうだい」
 歩兵大隊長の、ルークである。傍には同じく大隊長のジュリアンの姿もあった。
「先約があります。ご存知でしょう?」
「サーシュリンだろ? 含めて、一緒にって話なんだが」
 ちょうどこちらに向かっていたサーシュリンが、エルフの長い耳でそれを聞きつけた。
「私はいいよぉ。新しく出来たカフェのランチが美味しいって話なの。一緒に行こう?」
 サーシュリンが、ルチアナよりも背が高いにも関わらず、上目遣いに同意を求めてくる。ルチアナは、溜息混じりに頷いた。
 ルークとジュリアンが、嫌いなわけではない。先日までは同じ大隊長として、ルチアナにしては珍しくこちらから話しかけることもあった相手だ。数少ない、気心の知れた人間と言えるし、むしろ好意的に見ている二人でもある。実力があり、学ぶべき点がいくつもある指揮官たちだということは、よく知っている。
 だが根本的にルチアナは、調練や実戦以外で、人と群れるのが苦手だった。副官になって以降サーシュリンと毎日食事を共にしているものの、これも軍務と割り切ってのことだ。
 ロンディウム市内に入り、しばらく歩く。市もないのに、通りは賑わっていた。人間嫌いを自覚しているルチアナだが、実のところ人混みは嫌いではない。雑踏に紛れていると、自分が何でもない存在に思えてくるからだ。他人に、じろじろと見られることもなく、風景に溶け込める。戦場以外で人に注目されるのは、やはりルチアナの不快とするところだった。
「あ、ちょうど外の席空いたところだよ。ウェイトレスさん、この席座っちゃっていいですかぁ?」
 給仕の反応も待たず、サーシュリンはまだ客の皿が残っている卓に陣取った。彼女のこういうところはまさにルチアナの苦手とする部分だが、このくらい機敏かつ図々しい動きが、指揮官として出来てくれればと思う。
 カフェと聞いたが、昼はむしろレストランといった性格が濃い店なのだろう。小洒落たメニューが立てかけてあるが、ルチアナはそれに目を通さなかった。何か選ぼうとするとサーシュリンが必ず同じものを頼もうとするので、何度かそういったやり取りがあった後は、逆にルチアナが彼女と同じものを頼むことにしていた。食べ物に、好き嫌いはない。
「うーん、何だったらルチアナちゃん、喜んでくれるかなぁ」
 庇の下、店内ではなく通りに出ている卓である。三人の会話に入らずぼんやりと人通りを眺めていると、パンやサラダ、パイ包み等が運ばれてきた。
「もうちょい気落ちしているかと思ったが、お前さんはあんまり変わらないなあ」
 フィッシュパイを小皿に分けながら、ルークが話しかけてくる。
「気落ちは、してますよ。大隊長から、兵に落とされたのです」
 が、口にするほど気分が沈んでいるわけでもない。ロサリオンにそう言われた時は世界が崩れる程の衝撃を受けたが、何故か、今は立ち直りかけている。サーシュリンの世話が忙し過ぎて、落ち込んでいる暇がなかったのかもしれない。
「そうか。まあ今は副官だ。やっぱお前さんは、兵の指揮が合ってると思うよ」
「今回のことについて団長は、あの後何か言っていましたか?」
 聞いていないのだろう、ルークはジュリアンに視線を投げた。ジュリアンも肩をすくめ、何も聞いてないといった様子である。
「お前のことは、評価していると思う。剣なら俺とそう変わらない、話題に上がった時に、団長はそんなことを口にしていたな」
 ルチアナがいくら強く、というよりこの団で最強の剣士だったとはいえ、さすがにあの大陸五強のロサリオンに勝てるとは思っていない。実際、同じく大陸五強のアナスタシアと立ち合って、敗れている。はっきりと、格の違いを感じた。ロサリオンとは立ち合う前から、それを感じている。
「俺たちからすりゃ、団長もお前も、武術では雲の上の存在だ。どうだ、団長とやり合って、いけそうな感じはあるのかい?」
 言ったルークも、その飄々とした佇まいに反して、相当できる。そこはやはり、青流団の大隊長の一人を任されるだけのものはあった。
「組み打ちや剣の稽古なら、十本中二、三本は取れるかもしれません。ただ実戦となれば、何も出来ずに一刀で斬り伏せられるでしょう。皆さん私よりも経験がおありでしょうが、稽古と殺し合いの強弱は、また別のところにあります」
 サラダを突きながら、ルチアナは答えた。自分に、足りないもの。実戦経験くらいしか思い浮かばないが、既に熾烈な実戦は何度か体験している。足りないがゆえにここは伸び代と言ってよく、将来的にルチアナを指揮官として育てたいなら、尚のこと大隊長に留めておくべきだった。器でないというのなら、中隊長や小隊長でもいい。それを、一兵卒とは。
「ほら、育ち盛りはもっと食べなきゃ」
 ルチアナの空いた小皿に、身を乗り出したサーシュリンが、パイを積んでいく。
「お三方は、私が大隊長か、あるいはそれ以上になることに、反対ですか」
 三人は、一様に首を横に振る。ジュリアンが訊いてきた。
「やはり、すぐに大隊長に復帰したいのか」
「いえ、落とされたことは屈辱でしたが、またやりたいかというと、少しどうでもよくなってきました。無論、いずれはそうなりたいですよ。けど今は、頼りない大隊長に、早くモノになってほしいので」
 私?とエルフは口いっぱいにパイを頬張りながら、自らを指差す。
 それからは雑談になったので、適当に聞き流し、兵舎に戻った。腹が落ち着くまで部屋の掃除をし、やがて調練場脇に常設されている自分の天幕に向かった。具足を身に着け、調練場の端を目指す。少し離れたところで立てられた丸太相手に剣を振るっている集団がいるが、ルチアナは周囲に誰もいない場所まで、歩を進めた。もう一度周りに人がいないことを確認し、剣を抜く。
 百回、二百回。素振りをする程に身体が温まってくる。風で舞い上がった芝の一本を、正確に真ん中で両断した。
 剣を振っている間は、無心になれる。時間の感覚も、どこか遠い。今の仕事は前以上に急な用事が入ることも多いが、兵はルチアナがここにいることを知っている。緊急の用件があれば、誰かがこちらにやってくるはずだ。近づいてくる、足音。また何かあったのかと、舌打ちしたい気分だった。
「いい剣だな」
 思わぬ声に、ルチアナは振り返った。ロサリオンである。
「あ、ありがとうございます」
「邪魔したかな。続けてくれ」
 胸が高鳴っていることに気づき、何故かそれに腹が立った。軍議の半ば事務的なやり取りを抜かせば、こうしてロサリオンと対峙するのはあの時以来であり、二人きりとなると初めてである。
 しばらく、黙々と剣を振った。しかし風を切る音だけで埋めるには、沈黙は少し息苦しかった。振り向くと、ロサリオンは賞賛の意を小さな拍手で示した。
「ひとつ、聞いてもいいですか」
「なんだ。言ってみろ」
「何故、私を兵に落としたのですか。足りないものがあることは、わかりました。私は兵を弱くすると、仰ってましたが」
 直接理由を聞くのは、やはり怖かった。人と馴染めないから、兵を限界までしごき上げるから、あるいは兵に慕われていないから。そんな答えを予想したが、ロサリオンの返答は、違った。
「それを、一から百まで教えてやることはできる。そしてお前はそれを完璧にこなすかもしれない。が、このやり方では百一通りの問題が出た時に、対処できない。お前が一を言えば十を理解する麒麟児だとわかっていてもな。それでは、俺やベルドロウがいなくなった時に、お前が困るだろう?」
「謎掛けのようにも聞こえます。それに、いなくなるとは。私のこれからの人生より、エルフの寿命の方が、ずっと長いと思いますが」
「傭兵だ。いつか死ぬ。運が良ければ、戦えなくなる程度で済むかもしれないが、それでも団を離れることになるだろう」
 太陽に照らされたエルフの顔は、やはり美しい。いや、ロサリオンだから、そう感じてしまうのか。
「当たり前の話として言っていたのですか。しかしそうならないよう、私が守ります」
「逆だ。実際は末端の兵から死ぬことが多いのが事実だが、俺もベルドロウもお前たちを死なせないよう、知恵を絞り、また最前線にも立つ」
「指揮官がそういうものだと、わかるような気もしますが」
「だが現実に、真っ先に弱い兵が死ぬのは、俺のせいだと思っている。復帰してからの実戦はないが、以前はそういう思いで指揮を執っていたよ」
「なるほど。今のこのお話も、先程の百の教えの一つに入りますか」
「好きにしろ。それはお前が決めることだ」
 言って、ロサリオンは笑った。爽やかなのに、どこか胸を締め付けられるような笑顔だった。
「もっとよく、考えろということですね」
「それもあるが、片翼に過ぎない」
「もうひとつは」
「気づくことかな」
 ルチアナは首を傾げた。気づく。自分は何に、気づいていないのか。
「どうあっても、教えて頂けないということですね」
 長年憧れてきたエルフの英雄に、反抗的な態度を取ってしまっていることが、つらかった。本当は、笑顔で話し合いたい。ロサリオンに、導いてほしい。
「ヒントになるか、わからないが・・・」
 そんなルチアナの想いをよそに、ロサリオンは笑顔のまま軽くこめかみの辺りを掻いた。
「その時になれば、自然とわかることだ。どのやり方、経験を積めば、それに近づけるかは、人によって違う。俺はお前のことをまだ、その評判以上には知らない。俺がお前を理解する前に、お前はそれに自分で気づくという気がする」
「それは、いつですか」
「明日かもしれない。俺が、死ぬ時かもしれない」
「どういう意味ですか。またそうやって、死ぬなんて言わないで下さい!」
 思わず、強い口調になった。ロサリオンに死んでほしくない。それは本心だった。
「いや、冗談で言っているわけではない。そうだな・・・」
 エルフは紙巻き煙草を取り出し、火を着けた。
「少なくとも、俺が死ねば嫌でも気づくだろうってことさ。できれば、俺が死ぬ前に気づいてほしいかな。俺だって、死ぬ為にここに戻ってきたわけじゃない」
「こんな謎掛けはやめて、教えてくれてもいいと思います。それに気づくことであなたを守れるのなら、何としても私は知りたい」
「ハハハ、だから、教えてはいけないことでもあるんだ。きっかけは、サーシュリンがもう充分お前に与えている。あと一歩が、しかしお前にとっては千歩なのかもしれないなあ。ただ、いずれ気づく。その時までどうか、死んでくれるなよ」
「死にません。けれどどうあっても、私自身が気づくべきことなのだということは、わかりました。ご教示、感謝します」
 頭を下げる。こんな挑戦的な態度で頭を下げられても、嬉しくないだろう。それは、自分でもわかっている。
「まあ、焦るな。今のお前には実力とは別に、欠けているものがある。そう思って決めたことだ」
「わかりました。その点について、私も恨みに思っているわけではありません。一刻も早く、私はそれに気づけるよう、精進します。それともうひとつ。もう私の前で死ぬだなんて、決して言わないで下さい」
「そうだな。団長にあるまじき発言だった。お前を不安にさせてしまったのなら、謝ろう」
 わずかな紫煙の香りを残し、エルフの英雄は兵たちのいる方へ戻っていった。
 胸を押さえ、大きく息を吐く。あなたと会えて、本当に嬉しい。
 そう伝えられるのはいつになるのだろうかと、ルチアナはもう一つ溜息をついた。

 

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