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3,「こっちの言葉で言えば、”殲滅”ですかね」


 カレー占拠の報は、ちょうど厩から出てきたところで聞いた。
 守兵と全体の調練を終えた直後である。手を拭いながら、ジルは早馬の報告に耳を傾ける。
「二剣の地だろう? ライナス殿も、思い切ったことをする」
「表向きは我々の侵攻に対する、カレーの庇護ということですが」
「体裁は、整えるよな。まあ、ゲクランの西進も、似たようなものになるだろう。その意味でもパリシ攻防と同じく、ライナス殿がまたも先手を打った形か。そしてゲクランのように事前に進軍路の領主たちに根回しをしていなかった分、誰にも予想できなかったな」
 使者を伴い、会議室に主立った指揮官の召集をかけた。調練の、すぐ後である。まだ具足姿のまま席に着く者も多い。ジル自身の副官であるハーマンとモイラも、古参の兵たちに恐縮しながら、上座近くに陣取った。
「カレーか。ピカルディを落とした後、我々と対峙する格好になるかもしれないな」
 壁に張り出された地図を睨み、ジルは言った。熱い茶が、各席に供されていく。
「レヌブランの、南の港も危ない。カレーは軍港としても使い勝手が良いからのう」
 席に着かず、暖炉の前で手をかざしていたゲオルクが、振り返って言う。その老騎士の具足を脱がせながら、白馬のケンタウロス、アーラインも続けた。
「海での軍の移動は、速い。多少離れて見えるが、ゲクラン西進時に標的の一つになるであろう、ル・マンの援護も見越してるんじゃないか」
 二剣の地西岸、カレーから見てやや北寄りの東に当たるのが、ジルたちがこれから進軍するピカルディ、距離はあるがほぼ南にル・マンがある。
「ル・マンは二剣の地にて数少ない、アングルランドの直轄地だったな。ゲクランが西進で最初に狙うのは、まさにこの都市か、あるいは周辺の街のどこかだろう。アングルランドが直接治めているのなら、奪い返すという名目は、充分に立つ」
「最初かどうかは別としても、ル・マンは確実に獲るじゃろうて。迂回することは可能でも、そこにアングルランドの兵が大量におるとあっては、遅かれ早かれ攻めないわけにはいかんからの。そこよりずっと西の海岸にあるモン・サン・ミシェルが、ゲクランの悲願だと広言しとるわけだし」
 ル・マンからモン・サン・ミシェルまでは、半ば半島のように西へ突き出た地形になっている。ル・マンの防衛に失敗したとしても、次に狙いそうな港町、ア・コルーニャの防衛にも、カレーは活きる。
「つまるところ、ゲクランの西進の途上、その北岸から常にゲクランの進軍に横槍を入れられる立地ということか。なるほど、多少強引な手を使ってでも、カレーを押さえたかったというのは、わかる。二剣の地の、それもここまで完全に中立を保ってきた土地だけに、まさか手を出すまいと考えていたこちらの、盲点をついて来たか」
「無論、わしらの南進を食い止めようとする意図もあるだろうて。そもそもピカルディを落とした後、カレーまで支配下に置ければ、レヌブランの勢力は土地の面積以上に拡大するはずじゃった」
「レヌブランは両国の百年戦争と無関係で、ここサンカンタン同様、二剣の地でも侵攻し、領土に組み入れる。そこも、逆手に取られたわけか。カレー占拠の名目は、あの港をレヌブランから守る、ということだからな」
 サンカンタン落城を、ライナスは待っていたともいえる。海軍は編成に時間がかかると聞いたことがあるので、かなり前から近い港に少しずつ、軍船を集めていたのだろう。おそらくレヌブラン独立から程なくして、そういった通達は各地に送っていたと思われる。つまり独立後すぐ、レヌブランが二剣の地に手を出すことは見越していたわけだ。
 ライナスの戦略眼については、総督府にいた頃から知っていたはずだった。が、実地の戦略において、やはり遥かに格上の存在だと思い知らされる。母が死に、幼い頃に初めて会った時から世話を焼かれ、ゆえにあの男はジルにとって、いつも見上げる存在だった。こうして敵に回すことになった今、その存在はかつてない程に大きくなっている。
 ゲオルクの背中を擦りながら、アーラインが口を開いた。
「レヌブラン独立前から、カレーは狙っていたのだろうな。それがこちらの独立で、国境に近いあの港を占拠するのに、大きな名目を与えることになった。不意のレヌブラン独立は確かにライナスを狼狽させたろうが、次の瞬間には温めていたこの一手を実行し始めていたのだろうさ」
 アッシェンとの同盟もあり、レヌブランの領土拡張はゲクランの西進を邪魔しない程度、地図で言えばまさにル・マンの北までと考えていた。その途上で陸からカレーも落とせたはずだが、とんだ邪魔が入ったことになる。
「余裕があれば、ゲクランの西進に合力してやってもいいと思っていた。難しくなったと、皆は思うか?」
 集まった指揮官たちは、顔を見合わせている。内一人が、手を挙げた。
「ピカルディを捨て置き、カレーと対峙する格好になるのでしょうか」
 それを聞いて、ジルは苦笑した。
「すまん。どうやら私は足元も見ずに、先の話を進めていたようだな。急なアングルランドの動きに、動揺していたのかもしれない。確かに、今の我々はピカルディの攻略に全力を注ぐべきだろう。方針に変更あれば、レヌブラントの宮廷から使者が来るはずだしな。もっともあちらでは今頃、この知らせを聞いて喧々諤々の議論が交わされているだろうが」
 そこでジルは、頭を下げた。
「諸君らを惑わすような真似をして、すまなかった。今の私は、サンカンタンからピカルディを臨む、一部将に過ぎない。総督府にいた頃の癖が出てしまったようだ」
「いえ、顔を上げて下さい、将軍。この者も将軍を咎める意図はなかったと存じます」
 古参の将校が、両者に助け舟を出した。
「いい部下を持った、と若輩の身ながら心しておこう。ピカルディ攻めの軍議は明日の予定だったが、ちょうどいい。今ここで、その概要だけでもまとめておこう」
 あらためて地図に目をやり、ジルは続けた。
「現状、レヌブランから派遣されたこのサンカンタンの守兵は、千。市民の方からどれだけ出せそうか、試算は出たか」
 民政を担当する文官も二人、この場には出席させている。
「この地占領前と同水準、五百は徴募できそうです。税を下げるとの布告が効き、市民感情は悪くありません。周辺の騎士たちに関しては相変わらず、態度保留の者が少なくありませんが」
「それは、ピカルディを落とすまでは仕方ないだろう。対するピカルディの兵力は、かき集めて三千前後だろうとの報告があった」
 レヌブランにも忍びはいて、彼らの情報である。確度は高い。この後、頭領格の二人と、直接会うことになっていた。
「本国からは、ピカルディ攻略にどれ程の兵力を期待できるのでしょうか」
「九千。こちらと合わせて、一万で攻略部隊を編成しろとのことだ。ただここを急襲した時と違い、千、二千単位の兵が何度か、時期を分けて送られてくるらしい。なるべく急いでくれるそうだが、出発の目処が立った部隊からやってくる形になる。早ければ、年明けに半分近くは集結できるらしいが。第一陣は、国境近くで徴募するらしいので、今すぐ逆にこちらがピカルディに攻められる際には、救援という形になる」
 立て続けの戦であり、徴用兵は新たに徴募し直す形になる。ここを五千で攻めた時とは、事情が異なる。駐屯を続けるのは、騎士や家士を中心とした千だけだ。
「一度に一万を集結できないのなら、やはりピカルディ側からの反撃は、充分考えられないでしょうか」
「五分以下とは見ているが、あるいはといったところか。ただこちらは千、加えて街からの徴募で五百の、千五百。倍の兵力程度では、この城を落とすのは難しいのではないかな。今の段階でも難しいものの、しかしここに兵が最集結する話を聞けば、捨て身でサンカンタンを奪い返しにくることもあるかもしれない。その場合、こちらの兵力にもよるが、互いの城の中間地点の原野で、一戦交えてみてもいいかもしれないと思っている」
 サンカンタンに一万が集まった時点で、ピカルディは詰むだろう。三千対、こちらはいくらか守兵を残すとして九千前後と、攻城戦の常識で考えれば適性な規模だが、サンカンタンをあっさり落としたことで、ピカルディはその兵力差で城を守りきれないと判断する可能性は高い。
「ピカルディ側はまだ満足な意思決定もできず、かつ周囲の領主への援軍要請も難航しているらしい。九千で進発する我らを見て、あっさりと城を譲ってくれればありがたいのだが」
「あ、あの、カレーからピカルディへの援軍が、あるかもしれないです」
 モイラが、おずおずと手を挙げて言う。
「そうなると、確かに厄介だ。ゲオルク、どう思う?」
「可能性は、低いかのう。アングルランドはカレーを中心に、遊撃戦のように各地に兵を出したいのではないか。その意味ではピカルディへの援軍は不自然ではないが、それこそカレーのように占拠できる確約でもない限り、兵は出さないと思うがのう。そして仮にそのような盟約なったとしても、ピカルディ伯は結局、領内で力を失う。ならば我々に降伏するのと、何ら変わらない。カレーを中心に、と考えるライナスと、自らの領地を守りたいピカルディ伯との立場は、やはり微妙に噛み合ない。狼とは手を組まんだろうよ。あとは羊の群れの意地を、見せてくれるかだな」
 そこで老騎士は、茶を少し啜って、ジルを見据えた。
「が、こんなじじいでも考えられることだ。もちろん裏を掻いてのピカルディ参戦は、捨てきれない懸念ではあるのう」
「アーラインは?」
「ゲオルクの見立てに賛成だ。そもそもアングルランドは、抱え過ぎている戦線を、さらにひとつ抱えたことになる。ゆえにこそ、カレー占拠は盲点だったわけだが。大きく見れば、どこかの戦線は捨てるか、膠着を維持できればといった最低限の兵力に留めるだろうな。が、やはりライナスほどの男、何を仕掛けてくるかはわからない。助力あるとすればピカルディへの直接的な援軍ではなく、こちらがそこを攻めている間に、ここサンカンタンを狙うくらいのことはしそうだ。となると、ピカルディを取った所で、我らは半ば孤立する」
「それは、怖いな」
「が、やはりないとも思う。そこまで手札を見せてピカルディを救おうとするより、カレーに留まったまま我らを迎え撃つ、ないしは周辺を獲る時に横槍を入れればいいのだ。ピカルディ周辺で我らと泥仕合になれば、その隙にゲクランの西進をあっさり許すことにもなる。ここ、という場面が訪れるまで、ライナス、あるいは彼が残す将は、カレーを動かないと、私は見る。ノースランドの叛乱や、ゲクランの西進の阻止を差し置いてのピカルディ援助は、何かとんでもない大戦略が潜んでいない限り、ないと感じるのだ」
「確かに。が、モイラの指摘は、今の我々にとっては重要だ。アングルランドには一枚、いつ切ってくるかわからないジョーカーもあるわけだしな」
 一同、一斉に顔を上げる。リチャード王率いる、神出鬼没の騎馬五千。あれの思わぬ登場により、アッシェン、アングルランドの南部戦線で、リッシュモンはアングルランド軍の包囲殲滅に失敗した。
「リチャードの軍こそ、ここ一番まで、取って置くような気がするな。が、あれがいつ出てきてもいいよう、我々としては備えておかなくてはならない。今後、常にだ。あれは、実に厄介だよ」
 アーラインは整った顎先に手をやり、天井を睨んだ。実を言うと、ジルはリチャードの五千を、どこかで心待ちにしていた。あの男は、斬る。バルタザールの元に残ったのは、彼に惚れたことが大きいものの、リチャードを斬れる立場になれたという部分も、小さくない理由なのだ。
 戦場で、敵対する。父殺しを大手を振って為せるのは、その機会を置いてないだろう。不死身に近いというあの男を、殺せるかどうかはわからない。ただ、一度はめちゃくちゃにしてやらないと、ジルの胸の奥底でとぐろを巻いている黒い何かは、今後も収まる気配はない。その感情にいくらか落ち着きがあるのは、ジルがいくらか大人になったせいもあるが、レヌブランに籍を置いたことで、求めずとも不可避になったということが大きい。
 が、機会はこちらから掴みたいと考えていた。今自分を支えてくれている者たちを犠牲にしてまで、そんなことをする必要はない。だがいずれ、その機会はやってくる。アングルランドを追いつめれば必ず、ライナスはその札を切ってくる。
 しかしそんな屈託は表に出さず、ジルは話を引き取った。
「方々に、レヌブランも忍びを配置していると聞いている。私は今晩、その頭領とことになっているが、ゲオルクたちは、もう会っているか」
「おう、最近頭領が入れ替わったとは聞いておるのう。先代たちとは、何度か。客将の我らを、監視する意味合いもあったんじゃろうて。正式にレヌブランの所属となってからは、会いに来なくなったのう」
 その後は進軍路の確認、そして輜重の話と細かい部分を見つめ直し、散会となった。
 少し早い夕食を摂り、入浴を済ませてから、誰もいない執務室へと戻った。午後七時。懐中時計の針を見つめていると、ぴったりの時間に扉を叩く音が聞こえた。
「”無名団”の、スピールとリュゼです」
「入ってくれ」
 二人の女が音もなく室内に入り、片膝をついた。
「無名団、頭領のスピールです。このような形では、お初にお目にかかります」
「ジルだ。ん、お前はどこかで、見たことがあるような気がする」
 背の高い黒髪の女は、蠱惑的な微笑を浮かべた。思わず鼓動が早くなってしまうような、艶やかな笑みである。
「私は主に、レヌブラントを拠点としておりますので。今日はジル様をお見かけした時と同じ顔で、参上致しました」
 アングルランドの忍び、囀る者のキャシーを知っている。彼女と同じように、このスピールも自在に顔を変えられるということか。
「同じく頭領の、リュゼです。そ、その、よろしくお願いします」
「お前も、頭領なのか。二人で、話し合って物事を決めているのかな」
 スピールとは対照的に、子供っぽく全体的に丸みを帯びた娘は、困惑した眼差しをスピールに送った。スピールが頷き、話を継ぐ。
「いえ、頭領は、三人います。もう一人はジル様も名を聞いたであろう、ビスキュイです。彼女は今ノースランド宮廷に張り付いておりますので、ご挨拶が遅れますこと、彼女に代わって陳謝致します」
「いや、そんなにかしこまらなくていい。それと、少し楽にしてくれ。名は、忍びになった時に捨てるのだということを、お前たちの部下に聞いた通り名のように聞こえるが、それがお前たちの今の名なのだと」
 立ち上がった二人、スピールは予想通りの高身長だが、リュゼの背は思った以上に低く、ジルとそう変わらないのではないか。だが丸い乳房を除いては、その肉体は分厚い筋肉に覆われていた。その上にうっすらと脂肪が乗り女らしい輪郭を保っているが、遠目には太って見えそうだ。細身もジルとも、やはり対照的だ。
「リュゼ、顔が赤いが。少し、暖炉の火が強過ぎたかな。あるいは私の顔を見て、驚いているか」
「い、いえ、御顔のことではありませんが、驚いています」
「聞かせてくれ」
「師を超え、一人前になってから、あたしは自分より強い人間に会ったことがありませんでした。それが昨日、”鴉たち”のゾエと出会い、あたしより強い人間がいるのかと、素直に驚きました。そして今日、ジル様を前に、あたしは自分の未熟さを恥じるばかりです」
「お前も、相当に強い。私より若そうだが、いくつだ?」
「先日、十六歳になりました」
「なら、もっと強くなるな。たまに、立ち合ってみようか。得手はなんだ」
「体術です。投げと絞めには、自信があります。それ以外では、頭突きとか」
「リュゼ、そこまでにしなさい。ジル様に失礼よ」
 スピールに嗜められたリュゼは、ぽってりとした唇をすぼめて、俯いた。
「いや、社交辞令ではなく、私も鍛錬の相手に事欠いているんだ。私の体術は我流だが、暇が出来たら付き合ってくれると助かる」
 リュゼは顔を上げ、満面の笑みを浮かべた。忍びというと、油断ならない裏のある人間ばかりと思っていたが、この娘には純朴なものが残っていると見える。
 一方のスピールは、その美貌を除けば、どこかいかにも忍びといった感じだ。ゆえにか、これもまた彼女の擬態なのかもしれないと思った。腹の内が、読めない。敵に回したくない女だと直感し、ゆえにこの女と同じ陣営であることに安堵する。
「そういえば無名団の頭領は、代替わりしたとも聞いた。お前たちも、なってから日が浅いのか」
「私は、先代の一人でした。古参の二人が身を引き、ビスキュイとリュゼが、新頭領に。先代の二人も頭領を降りたというだけで、引き続き忍びとしての任に当たっております。若い者を育てることが、中心になりそうですが」
 言ったスピールの年齢は、あらためて見ると、推測しづらい。二十代前半に見えるが、細身でありながらも醸し出される貫禄と、先代から引き続いての頭領という話から、実際はもっと年嵩なのかもしれない。
「夜分になりましたが、今回はあくまでご挨拶に伺ったのみで。それと一つ、土産話ではないのですが、まだ公式に発表されていないお話を。レヌブラン新宰相として、ルテル伯アドリアンが就任する運びとなっております。ジル様も、面識がおありでは?」
 ジルは、総督府にいた頃の記憶を辿った。
「まだ四十代半ばにも関わらず、ほとんど隠居の身ではなかったかな。地元の商人たちと組んで、商売で成功していたか。時折宮殿に顔を出していたが、挨拶程度の交流しかない。バルタザール殿とは、あまり親密な付き合いではなかったと思うが」
 その辺りは、囀る者たちの情報である。ただそれは、偽りの姿であったということか。
「確かに、あの二人は実際、親密とは言えません。ですがバルタザール様に諌言できる、数少ない一人でもあります。レヌブラン独立には反対していたそうですが、さりとて陛下の頼みとあらば、それを無下にする御方でもありません」
「ふむ。あえて自らに苦言を呈する者を、宰相としたか。これも、バルタザール殿の懐の深さといってよいのかな」
 口にした後、ジルは自らを恥じ、頭を掻いた。廷臣のような口振りに、ひどく居心地が悪くなったのだ。ジルは生まれがそうだからと漠然と、あるいは熱狂的に彼を支持して臣下になったのではない。一人の男としてバルタザールに惚れ、彼が王となるなら、自らはその剣になろうと誓ったのだ。憧れてはいるが、どこかで対等でありたいとも思っている。それが今のような口振りでは、王に尻尾を振る廷臣と変わらない。
 そんな気まずさを察することもなく、リュゼがずけずけと訊いてきた。
「ジル様、バルタザール様に惚れてるんですよね?」
「あ、いや、ううん、忍びのお前たちは、全てお見通しか」
「大陸五強のジル様なら、新王妃にふさわしいと思います。あたし、その恋、応援します」
 これには、さすがのスピールも吹き出した。ジルもつられて笑うと、リュゼだけがきょとんとした顔で二人を交互に見た。
「申し訳ございません。リュゼは見た目以上に、幼い部分を残していまして」
「いや、そこでアングルランドの王女だと言わなかっただけの、配慮は感じたよ。リュゼ、ありがとう。期待に添うよう、努力するよ」
 丸い頬をりんごのように真っ赤に染めながら、リュゼは頷いた。
「サンカンタンの周辺に、五人。内一人は、常にジル様のお傍に置いておきます。バルタザール様を含め、裏で相談したいことがございましたら、その者にお申し付け下さい」
「わかった。なんとなく、これで私もようやく、レヌブランの一員になったような気がするな。あらためて、よろしく頼む」
「こちらこそ。ご武運を、ジル様」
 その夜から三日後、レヌブラントの宮廷から、アドリアン宰相就任の報と、アングルランドとの通商条約に関する書類が送られてきた。新宰相アドリアンの対外的な初仕事は、アングルランドと新たな条約を結ぶことになりそうだった。
 概要を読むとそこには軍事的な要素を示唆するものはなく、つまりは条約が結ばれ次第、どちらかが宣戦布告をする段取りなのだろう。干戈を交える前に、互いの経済関係の枠組みは決めておこうということだ。一度戦端が開かれたならば、対等で冷静な話し合いなど望めない。
 レヌブランを植民地としてきたくらい、両国の経済には強い結びつきがある。アングルランドが羊毛を生産し、レヌブランがそれを加工して輸出する。この関係は、レヌブランがアッシェンであった時から変わらない。さらに言えば百年戦争以前からの両国の主幹産業の一つなのだ。
 レヌブランが独立したことで、かつてのようにアッシェン宮廷を通してではなく、一つの国としてアングルランドとは直接、新たに対等な条件で条約を結ぶことができる。一方アングルランドは工業化が進んでおり、レヌブランがあまり強気に出過ぎれば、自国での羊毛加工に舵を切る可能性もある。際どい綱引きに、新宰相アドリアンはどんな手腕を見せるのか。
 執務室で本国の動向にやきもきとしている自分に、ジルは苦笑した。今更ながら、かつて旅暮らしだった自分は、何も見えていなかったのだと痛感する。
 抱えている屈託は違うだろうが、先日の忍びリュゼに、ジルは数年前の自分を見ていた。人は、数年で変わる。あの年頃なら数日、あるいは一瞬で変わることもあるだろう。総督府での経験は、ジルを確実に変えた。リュゼは、どんな風に変わっていくのだろうか。
 書類をめくりながら給仕に茶を頼むと、しばらくして見知らぬ女給が部屋に入ってきた。
「初めて見る顔だ。今後、お前が私の傍につく忍びなのか」
「二日後には、ピカルディに潜入致します。小姓の一人が、引き続きジル様のお傍に。その後は状況次第ですが、年明けにはまた、私もこの城のどこかに配属されるでしょう。気に入った者がいたら、専属でお付けになることもできます。新たにここの家令になった者に、お申し付け下さい。彼は忍びではありませんが、こちらの事情をよく心得ております」
 実に優雅な手並みで、女給は茶を淹れた。ゆるく編んだ栗色の髪に大きめの眼鏡が似合う美人だが、この任に合わせた、仮の姿なのだろう。
「その気になったら、そうさせてもらうよ。一番、腕の立つ者がいいかもしれない。お前なんかは、それに合致しそうな気がするが」
「さすがは、ジル様。ここに残った者はいずれも腕利きですが、そうですね、その中では私が一番腕が立ちます」
 物騒なやり取りにも関わらず、女給は木漏れ日のような笑顔で言った。

 

 白い息を吐きながら、ドナルドは額の汗を拭った。
 レザーニュからの布告で、ドナルドたちは道の整備に当たっていた。農閑期であり、村に残った若者は少ない。が、残った者たちにとっては、思わぬ臨時収入になったと言える。この道の整備は完全な出来高だが、陽のある内に目一杯働けば、日給換算で銀貨十枚前後、町での出稼ぎとほぼ同額になる。
 同じくレザーニュから発注された可動盾の材の製作、それに商売として軌道に乗りかけている組み立て式家具の製造と合わせると、ブリーザ村の者だけでは人手が足りないくらいだった。出稼ぎに出てしまう者をいくらか引き止められれば良かったが、彼らは彼らで、町とは長い付き合いがある。一度約束を反古にしてしまえば、次の年に町で仕事を見つけられる保証はない。例外は、徴用がかかった時だけである。
 ただ次の仕事を探している季節労働者たちに声を掛け、なんとかレザーニュからの道路整備は形になっていた。他の村では急な要請に、全く応えられない所もあるだろう。
 側溝を掘り返す手を休め、腰を叩いていると、ここより北、石を除去する人夫の監督をしていたアネットが、革袋の水を飲みながら、こちらにやってきた。
「北側の左半分は、50m先まで、石を取り除きました。南に取りかかる前に、こちらに少し人を回しましょう」
「助かる。土木に詳しい者も、できれば雇いたかったな」
「可動盾に、木工の職人を呼んでしまいましたからね。まあ、こちらの裁量で出来る分、気が楽なところもあります。腰、大丈夫ですか」
「歳だな。この仕事を始めてから、腰の強張りが取れない」
「私でも、背中に来ます。手が空いた時にでも、腰をお揉みしましょう」
「お前も疲れているのに、すまないな。甘えてしまうが、余裕があるようだったら、頼む」
「聞いたところ、他の村に比べて、かなり順調なようです。レザーニュから送られてきた金子には限りがありますし、休み休みやりましょう。村の領主自ら、土を掘り返している所も少ない。人夫を怒鳴りつけたり、鞭を振るったりしている領主もいるようですよ。叔父上は、頑張り過ぎです」
「それなら、あの掘り返した岩の所で、少しだけ休ませてもらおうか。一応、ここを監督している身だからな。示しがつかないと考えていたが、たまに手を空けておく方が、人夫の相談にも乗りやすいかもしれない」
「ですね。身体だけでも、休めておいて下さい」
 岩に腰掛け、汗を拭う。身体は火照り切っているが、この季節である。寒さと風が体温を奪う速度は、急激なものだ。
 しばらくすると、ジャンヌが村の方からやってきた。近くに転がっていた岩を軽々と持ち上げ、ドナルドの隣に腰を下ろす。
「村の方は、大丈夫なのか」
「後の作業は、私が見ていなくても。にしても、レザーニュは実質的にフローレンス夫人が実権を握っているんでしたっけ? 人使い、荒いですねえ」
「ただ無償でそれを押しつけてくるのではなく、ちゃんとした報酬も払われている。雇用創出は、為政者の立派な役割だ。次から次へと大仕事が舞い込んでくるのは、急いでレザーニュをより良い領地にしたいという、顕れなのだろう」
「で、よりその権力基盤を、確固としたものにしたいという」
「ハハ、広い土地で、人も多い。王宮のような権謀術数が、渦巻いているのかもしれないな」
「おっとりとした、優しい方だという噂は聞こえてきますけどね。そういう人ほど、怖いんですよ。前回の戦でもほら、すぐに駄目な夫に代わって、私たちの指揮を執ったわけですし」
「頼りになる、私はそう思ったものだがな。ただ、急にフローレンス様が力を持ったというのなら、それによって権力を失った者も少なくないだろう。反発はあるはずだし、苦労もされているはずだ」
 革袋の水が空になったことを確認していると、ジャンヌが自分の分を差し出してきた。
「権力闘争ってヤツですね。けどそもそも権力って、何なんでしょうね。力を持つにふさわしいかに関わらず、それを持つ人たちがいます。血筋や身分で決まるかというと、それだけでもなかったり。フローレンス様がジェルマン様を押し退けてこうしたことをやってるのも、ある意味そうですよね。権力って言葉が何を指すか、時々わからなくなってきます。具体的に、何なんだって。人に命令できる力、ということなんですかね」
「権力には大小様々あるが、一つ挙げるとすれば、人事権だな。人をそこに配したり、あるいは外す力。人事こそが、全ての目に見えない力の、源泉だと思う」
「ああ・・・なるほど。理解できました。確かに、命令以前に、人をそこに配置する力が、大元ですもんね。命令できる人も、そもそもそれを出来る力を、誰かに与えられている。おじさんがこの村で騎士という権力者でいられるのも、酒場の親父さんや村長、粉引きやパンを焼く許可とか、そういうのを決める力があるからですもんね」
「村の者の意見を聞きながら、だがな。どうしたら村の者が暮らしやすくなるか、そこを忘れて人を配すれば、村民の反発は免れないだろう」
「あ、だからか。おじさんはいい領主なわけだ」
「であるかは別として、常にそうありたいとは思ってるよ。が、小さい村だからできることでもあるし、矛盾する要望の妥協点も見つけやすい。大きな町、あるいはそれを束ねる大領主とならば、無数の意見がある中、何が正解かを見つけるのは至難だろう」
「なので、フローレンス様に同情的だし、夫のジェルマン伯爵の悪口も言わないんですね。また一つ、おじさんから学びました。皮肉じゃなく、相手の立場を気遣ってるんだって」
 にっこりと笑ったジャンヌは、ドナルドが返した革袋に口をつけた。
「私のこの地位も、先代からとはいえ、今はジェルマン伯に与えられたものだしな。だが私には同時に、村人を庇護する義務も負っている。村に起こる問題が私の権限を越えるものである場合、例えば兵を取られ過ぎて村の経営が立ち行かなくなるような危機を察したら、伯に直接意見するつもりだ。伯の評判が悪いことは以前から耳にしていたが、中央はともかく、地方に関しては放任主義でもあった。単に、関心がなかったからだと思うが。だがそのおかげで私は自分の裁量で村を治めることができたという側面もある。もっとも、中央からの目が行き届かないことで、無軌道で無責任な経営をしていた村もあったと聞く。ジェルマン伯が庇護すべき騎士や民に充分な責任を負っていない評判には、私なりに頷けるところもあった。これまでの体制を、無批判に受け入れているわけでもなかったよ」
 腰を伸ばして、立ち上がる。
「騎士という権力を手放してでも、困窮する人々と共に中央に対して叛旗を翻すことも、あるいはあったかもしれない。それはどれだけ小さくとも、力を与えられた者の義務と、私は考えている。板挟みになった時に、強い者につくことは言い訳のしようもない、ただの保身だろう。ただ幸い私の村はそこまで追いつめられることもなく、私も村の経営に必死なまま、この歳になった。村民の生活を守ることができたのなら、田舎の小さな領主としては、幸せな人生だったのかもしれないな」
 ジャンヌが、寂しそうな顔でこちらを見つめている。この世代をどれだけ豊かに、笑顔に出来るか。ジャンヌはいずれここを去るだろうが、残った者たちにどれだけのものを残せるかが、今のドナルドの人生の目標だった。
「ああ、おじさんはもう少し休んでいて下さい。私、ちょっと手伝いますから。道、整備してるんですよね。どうすればいいか、教えて下さい」
「ん、私も手伝うが、やり方は説明しておこう。図が送られてきたので、これを見てくれ。道幅は、約4.5m。馬車二台がすれ違える程度で、これより広い分には構わないらしい。この辺りは終わっているが、まずは少し道を掘り返して、石や岩を取り除く。その後は両端の土を掘り起こして即効を作り、中央を盛り土とし、踏み固めていく。元ある道より、少しだけ幅を広げていく感じかな」
 図面と道を交互に見ながら、ジャンヌが頷く。
「要は、気持ち道を高くして、水はけを良くしたいってことですね。今は雑草の生えていないところが道って感じで、雨の後とかぬかるんじゃいますしね。でも側溝を深く掘り過ぎると、馬車が車輪を取られた時なんか道に戻りづらいですし、最悪横転しちゃう。ここの塩梅は、難しそう。勾配は、あまりない形にしないと。それと側溝は、この図より多少浅く、広くした方がいいかもですね」
「そうだな、一手間増えるが、人が行き来しやすいよう、その形にしよう。徴兵の際、馬車が来て迅速に兵を運ぶのが目的らしいが、道が整備されれば、この村に立ち寄ってくれる行商が増えるかもしれないし、我々が行き来する時にも役立つ。それと、踏み固めるのはあそこにある道具を使う」
 太い木の棒の先に大きな木製の立方体が取り付けられたものを、ドナルドは指差した。
「一度に全部やるんじゃなく、片側、半分ずつやってくんですね」
「今も、使っている道だからな。片側は、常に使えるようにしておかなくてはならない」
「大体わかりました。細かいことは、あそこで働いている人たちに聞いてきます。ん、もう一枚の、この図は何です?」
「街を通る主要街道はこんな感じで、かなり深く道を掘り起こし、小石、砂利、土と何層かに分けて、相当に水はけをよくするらしい。最後に石畳を敷き、完成だな。これらの材が手に入るようだったらレザーニュから材料費と職人の派遣、さらなる報償金が出るそうだが、あいにくこの村でこれだけの材を入手できる当てはない。片側ずつといかず道を完全に潰すことになる為、臨時の道も必要になるしな。可能なら、ということで、ここではこの図は無視していい」
「了解。じゃあこっちの図を参考に、やってきます」
「あまり、無理するなよ。いくら若いとはいえ、働き過ぎで心配になる」
「ふふ、お気遣いありがとうございます。鍛錬の量を調節して、毎日同じくらいの疲労に抑えてますから、このくらいへっちゃらです」
 言うと、ジャンヌはまだ手を着けていない側溝部分を、ものすごい勢いで掘り始めた。彫り上げた土を道の方へ放り出す動きも、初めてとは思えないくらいだ。他の作業員が手を叩いて、その仕事ぶりを称えた。この現場は村を渡り歩く季節労働者が多いが、ジャンヌの神童振りは、近隣でも噂になっているらしい。
 ドナルドも再び現場に戻り、盛り土となった地面を、他の者たちと共に平らに馴らしていった。最近の降雪で土は湿って重たくなっており、掘り起こすのは重労働だが、馴らし、踏み固めていく作業はかえって楽かもしれなかった。粘土のように、成形しやすいのだ。その点最も重労働である掘り起こしをジャンヌにやらせてしまっていることを、申し訳なく思う。当のジャンヌは足元を泥だらけにしながらも、それを楽しそうに続けていた。
 日没まで働き、人夫たちに給金を払う。その人夫たちと並んで川原の浴場で風呂を済ませると、酒場へ向かった。村のパン屋は急に増えた労働者の為にパンを売り切ってしまうことが多く、ドナルドたちはここのところ、酒場で夕食を摂ることにしている。家ではパンの代わりに大麦の粥で済ませているが、ここではパン屋から一定数納品されるパンと、保存用にと蓄えている、乾燥パスタの在庫もあった。町で手に入る、遠くラテン諸国の主食だが、ただの小麦と比べても保存しやすく、いざという時の備えとして、村では常時一定数を確保していた。
 たまに町で食べることがあるのか、アネットはスパゲッティと呼ばれるその麺類を、器用に口に運んだ。ドナルドは麺類に縁がなく、ペンネと呼ばれる筒状のパスタを頼む。これは、フォークで刺して食べやすい。
 しばらくすると、風呂上がりのジャンヌが石鹸の香りをふんだんに漂わせながら、ドナルドたちの席に着いた。女将が早速、注文を取りにくる。
「おじさんと一緒で。あと、食後にハーブティーもお願いします」
 笑顔で告げるジャンヌの向こう、二階の宿の階段から降りてくる、痩せた男に目が行った。女将に目配せすると、すぐに彼女は答えた。
「行商だね。釘やら針やら、細かい物を売りに来た。なんでも、東の国境から来たとか」
「少し、話がしたい。東の国境から来たなら、尚更だ」
 先日、王家の忍びが、ジャンヌに接触してきた。彼らは東のグランツとの国境でまだ世に出ていない将を、アッシェン直属の指揮官に誘う予定なのだという。交渉次第らしいが、ジャンヌが中央に召し出された際には、上官となる人物かもしれない。普段はパリシの政情等あまり気に掛けないドナルドだが、ジャンヌと関わり合いになるというのなら、その東の指揮官とやらの、噂程度でも耳に入れておきたかった。
「あなたが、この村近辺の領主様で。今日の昼から、こちらでケチな商売をさせてもらっております。村にいなかったようなので、ご挨拶が遅れました」
「いや、わざわざ来てもらって、すまないな。この席にも、村にもだ。今晩は、私が驕ろう。一つ、聞かせてもらいたい話があるんだ」
 歳の頃は、ドナルドと同じくらいか。ただ元は戦うことが生業だったのか、痩せた体躯の割に、妙に前腕が太い。
「私が知っていることなら、何でも。商売上の秘密は、明かせませんが」
「グランツの方から来たと言ったな。東の国境付近で、こちらではあまり名が知られていないかもしれないが、現地では名が知られる、あるいは戦の上手い将はいるか?
 女将に注文した男は短い顎髭に手をやって、しばし宙を睨んだ。
「何人か。しかしこちらではあまり名が知られていないとなると・・・百年戦争に参戦経験がない、ということになりますかな」
「おそらく」
「まあその辺りを除けても、実力で言えば、フェニストン・レギーナですかね。昔傭兵をやっていたんで、彼女の戦果や戦振りの噂を聞きゃあ、どれだけの将かってのは、わかります。一兵卒目線になっちまいますが、かのゲクラン元帥や、”鋸歯の”リッシュモンにも、引けは取らないんじゃないですかね」
「まさに、その将だと思う。名前の響きから、グランツの人間なのか?」
 珍しく酒場は満席で、内緒話をしているわけでもないのに、行商と顔を寄せ合って話す格好になった。
「フェニストン、は通り名です。こっちの言葉で言えば、”殲滅”ですかね。”殲滅”レギーナってとこです。先代まではグランツに属してましたが、領地継承で親戚筋と激しい相続争いがあり、友好的だった国境付近のアッシェン領主の薦めもあって、アッシェン王室に剣を捧げる結果になったとか。先代は人当たりの良さ以外に取り柄のない男だったそうですがね、その跡を継いだ娘の戦い振りは、凄まじい。”殲滅”とあだ名されるのも納得の大将です」
「それだけの者だ。先日のパリシ奪還戦で、王の召集はかからなかったのかな」
「かかってはいたでしょうが、領地を空けられる状況ではなかったのでしょう。パリシまでは出兵するにも遠いですし、戦の支度金を供出して、義務は果たしたってとこじゃないですか。レギーナが継承してからずっと親戚筋に領地を狙われており、小競り合いの絶えない土地です」
「そこまで大将が強いんだったら、どうしていつまでも決着が着かないんです?」
 ペンネの一本を飲み下して、ジャンヌが訊いた。
「人口も兵力差も、十倍以上あるんだよ。騎士様の娘さんは、やっぱりこうした話に興味があるのかい?」
「ああ、私、おじさんの従者で、娘ってわけじゃないです。騎士ドナルドの従者、ジャンヌです」
「それはそれは、失礼な口の聞き方をしましたかな?」
「いえ、ごめんなさい、偉ぶりたいわけじゃなくて。さっきの話し方でいいです。でも、兵力差十倍ですか。それで長く戦い続けるっていうのは、すごい話なんだと思います。今はアッシェンの領主ってことですけど、国同士の問題に発展しないんです?」
「グランツ側としちゃあ、所詮辺境の継承争いと、むしろあまり大事にしたくないらしい。おまけに本来の継承権は娘のレギーナにあるにも関わらず、親戚筋が彼女はまだ幼いと難癖付けて、勝手に領地の大半を治めているような状態なんだ。まあ、レギーナ側が勝って、親戚筋の領地まで継承しちまうと、いくらかややこしい話になってくるかもしれないが」
 まだ店に残っていたパンを齧りつつ、行商はそれを温めたワインで腹に流し込んだ。そのレギーナが王の軍、あるいはアッシェン常備軍を率いるかもしれないという話までは、こちらから話す必要はないだろう。
「それにしても”殲滅”とは穏やかな通り名じゃないな。具体的に、どんな戦をするか聞いているか?」
「戦術は、その時によるとしか。ただ相手方は罪人や賊、食い潰した傭兵なんかをそこら中からかき集めて軍を編成し、レギーナの領地で略奪を働くようけしかけるそうで。なのでレギーナは指揮官として戦い始めた当初、敵を皆殺しにすることもあったという話です。始めはグランツ側の罪人を斬ることで”処刑人”と呼ばれていたそうです。けれどしばらくして、彼女相手に戦って、グランツへ無事戻れた人間はいないという噂が広まり、”殲滅”のあだ名がついたとか。兵力差十倍でも、優れた将なら地の利を活かして、敵を追い払うことはあります。が、十倍の相手を包囲殲滅できる人間は、そうそういないでしょう。一人で十人を囲むって計算になりますからね、それを囲むと表現するのも、おかしな話だ。どんな戦なのかは、断片的な話を繋ぎ合わせても、戦場の経験がある私にすら、よくわかりません」
「皆殺しを、徹底しているのか」
「いや、実際は捕えて労役者として使うか、後日解放するって話も。そのまま領地に居着いた者もいたかな。どうであれ、レギーナの領地に踏み込んだ兵が、そのままグランツへ戻ることは、ないそうです」
「どんな女性か、見たことは?」
「居城にもあまり居着かず、国境沿いの砦を巡回してるって話です。まだ若い・・・確か、二十二、三歳くらいだったかな。十歳の時から先代に代わって戦場で指揮を執ってるってことなので、その若さにして十年以上の、おまけに苛烈な軍歴を誇っていますね。国の戦に関わってないので中央じゃまったくの無名でしょうが、なので騎士様の仰る方は、この方だと思います」
 王家の忍びマティユーが接触を図るというのは、この将で間違いないだろう。
「十歳からかあ。一年、遅れを取ってしまいましたねえ」
 ジャンヌが、何とも言えない顔で腕を組んだ。
「まさか、このお嬢さんも、既に戦場を経験済みで?」
「成り行きだったが、先のパリシ奪還戦で、槍を取らせることになった。これは、私の至らなさによるところだったが」
「おじさんが心配する気持ちはわかりましたけど、私、誰よりも強いんで、大丈夫ですよ。行商さん、おじさんを責めないで下さいね。あと私、十一歳です」
「いや、責めるつもりなんてないよ。俺が十一歳の時は、戦場で拾ったガラクタを売り歩いててな。その後傭兵になったが、年を食ってから子供の頃を思い出してな、今だったら大人たちに安く買い叩かれることもないと、戦場のガラクタ拾いに戻った。そこで得た資金を元手に、今はこぢんまりとした、しかし真っ当な商売ができているよ」
「お、人に歴史ありですねえ。もっと詳しく、聞かせて下さい。あ、まだ名前聞いてなかった」
 それからは行商の話を肴に、食事と酒を楽しむことになった。
 帰り道、眠そうに目を擦りながら、ジャンヌが言った。
「ずっと、こんな日が続くといいですねえ」
「だな。戦の前は、私も毎夜、そう思いながら過ごす。今頃、次の戦に出る者は皆、同じ想いでいることだろう」
「ジャンヌ、叔父上を頼んだぞ」
「アネット、それでは立場が逆ではないか」
「いやいやおじさん、家臣は主を守るものですから。アネットさんの言う通りです。ふわあぁ・・・」
 大きな欠伸をほっそりとした手で隠しながら、ジャンヌが応える。
 その仕草を見るに、ジャンヌはやはりまだ子供なのだと、認識をあらたにする。ドナルドの微かな眠気など外の空気ですぐに覚めてしまったが、ジャンヌは涙目をしばたたかせて、眠気に耐えている。
「ジャンヌにしては、大分夜更かししたからな。早く寝ろよ」
 アネットがジャンヌの丸い頬をつつくと、少女はむずかるような表情で頷いた。
「おじさんたちは?」
「私とアネットは、書類をまとめてから、床に就く。お前は気にせず眠るんだぞ」
「手伝うつもりでしたが、酒場に長居し過ぎましたね。じゃあ、お言葉に甘えて」
 家の扉を開けると、ジャンヌはそのまま寝室へ消えていった。
「茶を淹れますか、叔父上」
 燭台に火を着けながら、姪が問う。ドナルドも、暖炉に火を入れた。
「頼む。お前も一杯飲んで身体を温めたら、すぐに床に就くといい」
「では私も、お言葉に甘えて。ただ茶を飲んでいる間は、手伝いますよ。叔父上の腰は、朝にでもお揉みいたします」
「すまないな。お前の体調が良かったらでいい」
 パイプに火を着け、ドナルドは書類の束を、仕事ごとに振り分ける。ドナルドが今日直接関わったのは道の整備だけで、村の仕事に関してはジャンヌが簡潔に記載したものが、しかし数多くあった。主に給金と、作業の進捗に関わるものだ。いくら従者とはいえ彼女を働かせ過ぎだと反省したが、彼女はほとんど自主的に、かつ何人分もの仕事を一人でこなしてしまう。それを確認し、またレザーニュへの報告書として仕上げるのが、ドナルドの領主としての仕事である。
 去年の冬まではこの時期、仕事らしい仕事も少なく、ゆったりとした時間を過ごしていた。年々老いを感じつつも、どこかで力を持て余していた気がする。
 一つ息をつき、ドナルドは書類の一つを手に取った。

 

 

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