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3,「全て倒して、すぐに戻ってくる」


 自分の足音以外は、何も聞こえなかった。
 ただ時折、木の枝に積もった雪が落ちる音だけが、断続的な例外である。それも、木立の近くを通る時だけだった。
 “囀る者”たちの大半は、レヌブラン独立と共に、この新たな王国となった土地を去った。だが大きな街から離れた場所で諜報に携わっていた者たちは、その多くが消されていた。消息を絶ち、生死すらわからない者が半数だったが、間違いなく殺されているだろう。問題は、どれだけ情報を抜かれたかである。
 そして今も敵の手を逃れて生き残っている者がいたら、何としても助け出さなくてはならない。情報漏洩の心配もあるが、仲間を決して見捨てないという絆が、忍びにつらい任務を続けさせるだけの、希望であり動機でもあった。
 襟巻きを少し下げ、マイラは白い息を吐き出した。外套はまだら模様の明るい灰色で、降雪の続く原野では、良い目くらましになっているだろう。
 厚手の外套の下、黒革の忍び装束が、汗で濡れていた。時折脚を止め、汗を拭う。特殊な加工の黒革は、多少の汗を吸ったくらいで縮むことはないが、あまり外気を通さない分、汗を蒸発させる効果も期待出来ないのだ。大量の汗をかけば、中に水が溜まる。
 その不快感よりも、汗だくになった身体に寒気が入り込むことを危惧する。体温の低下は、病気に対する抵抗力を奪う。滅多に体調を崩すことのないマイラでも、可能な限りそれを整える努力は怠っていない。
 原野から、小道の方へ入る。分かれ道。正面の木の根元、積もった雪を払うと、囀る者にしかわからない、微かな符丁を見つけた。右。根元に雪を戻し、マイラはそちらに歩を進めた。足跡は、ない。雪のせいで、一日以上前の足跡は、マイラでも辿ることはできない。雪面に残った足跡は、刻まれた直後は素人でも通った人数がわかる程に明確だが、一日、あるいは降雪量によっては半日でも、マイラにすらその痕跡を隠し通してしまう。
 頭の中で、地図を反芻した。この先には一つ、小さな集落がある。東であり、この忍びは敵から追われていたと推測できる。レヌブランの追手を振り切った囀る者たちは皆、西のアングルランドか、南の二剣の地へと落ち延びている。あえて東に向かったのは、そうせざるをえない状況にあったということだ。
 生死はわからないが、この先で待っている忍びが、マイラが直接捜索、救出する最後の一人である。マイラ自らも出張る必要があるくらい、レヌブランの忍び狩りは熾烈で、かつ周到だった。先に正体を看破されていたと思われる部下は、全滅している。
 レヌブランはノースランド宮廷に、ビスキュイという忍びを派遣している。組織内に出回る人相書きで、その特徴的な容貌は確認した。あのぎょろりとした目の外見通りなら、変装は得意ではないだろう。ゆえにこそ、人目につきやすい場所に配置されたと言える。
 ただその能力の高さから、ビスキュイは頭目、ないしは幹部の一人と目されていた。ノースランド宮廷での暗躍、諜報。先日のハイランド城攻防でも、エドナを罠にかけている。そして直接現地で、誰かの命を受けている気配がない。方針に、ぶれがないのだ。おそらく彼女に命令できるのは、バルタザールのみといった動向である。
 しかしビスキュイより上の忍びか、あるいは同格の者の存在がなければ、ノースランドから離れたレヌブランで、こうも組織立った暗闘を仕掛けられるはずがない。マイラですら、大きな作戦を決行する際には、現地で指揮を執る。バルタザール自身も、あの教皇との密会以外でレヌブラント城を離れておらず、領土全域に渡る忍び狩りの指揮には、無理がある。忍びの頭領を兼ねられる程、暇な立場でもない。
 あるいは、ビスキュイ以上の忍びが、マイラを待ち受けているのか。
 マイラは単身でも、自分が忍びに殺されるとは考えていなかった。マイラより強い者など、大陸五強の英雄以外にはありえないという、自負もある。しかしこの先に敵の忍びの集団が待ち構えているとしたら、熾烈な戦いになることは予想できた。一人一人の強さではなく、集団の強さで戦うのが本来の忍びだ。
 以前からその存在には気づいていたものの、バルタザールが私的に動かしている少数の忍び、という認識だった。ビスキュイがバルタザールから派遣されたというのも、最近知った話だ。こと規模という点においては、完全に読み違えていたと認めざるをえない。そもそも誰も、父のライナスですら、レヌブランの独立自体が、予想の範疇を超えていたのだ。
 あらためて、レヌブランは潰す。一つ胸に引っかかっているのは、ジルのことである。
 マイラの憧れる五強の一人だということを除いても、好きな娘だった。共有する時間は少なかったが、友だとも思っていた。
 ジルがバルタザールに好意を抱いていることは、気づいていた。レヌブラン独立を聞いた時、ジルの去就を気に掛けたものだ。迷い、悩む娘だった。が、彼女はマイラが感じていたよりも、内なる強さを持っていたらしい。いや、土壇場の決断力か。
 続報でジルがそのままレヌブランに残ると聞いた時は、恋に殉じるその姿に心動かされたが、また一人、大陸五強の一人がマイラの敵となってしまったことに、胸を痛めた。
 当代の大陸五強はその名の通り五人ではなく、ウォーレス、ロサリオン、ジル、アナスタシアの四人である。続く五人目は、世論が分散している。その地方によって地元の小英雄を押す声があり、吟遊詩人の誰もが認めるような五人目は、もう十年近くも空席のままだ。強い者がいないのではなく、騎士団領統轄のアウグスタはその名で列せられることを嫌い、時間の魔術師ヒカルや、セシリアファミリーのフェルサリ等は、どこか別格の存在となっている。そしてマイラも忍びという裏世界の住人であることで、その血塗られた物語が人々の俎上に上ることはない。
 マイラが表の世界の人間であったなら、五人目は自分であっただろう、確信はある。しかし重ねて、マイラの歩んできた道は、陰惨な死が多過ぎた。今更、彼ら五強の輪の中に入りたいとも思わない。ただ眩しく憧れの存在であってくれれば、それで良かった。彼らの放つ光に照らされて、マイラもぎりぎりのところで人でいられるような気がする。
 木立の奥に、集落が見えてきた。十戸程の家々が、道を挟んで並んでいる。日は落ちかけているが、しかし灯りの一つも灯っていなかった。煙突の煙も然りである。農村の夜は町のそれに比べて遥かに早く、灯り代を節約する為にも、日没とともに就寝することもある。が、まだ日が落ち切っていないこの時間に、誰もが寝静まっているというのは、やはり不自然だった。
 まだ生きているかもしれない仲間が、おそらくここにいる。その安否確認がなければ、今すぐ引き返しているところだ。視覚も聴覚も、まだ敵の気配を察知していない。しかし、静か過ぎる。積雪があらゆる音を吸い込んでいるにしても、手で触れられるくらいの静寂が、そこにはあった。
 しばし木の陰から様子を窺い、背後から忍び寄る気を探る。何も、なかった。いや、マイラに何も感じさせないという点だけでも、ここにいるであろう集団は、驚嘆に値する。
 村はつい先日まで人のいた痕跡がある。藁葺き屋根の一つなど、この秋の終わりに葺き直したとしか思えない。廃村ではなかった。村人は、一度避難させたか。囀る者や、アッシェンの”鴉たち”と同じような流儀を感じる。これだけ手際のいい忍びの組織を隠し続けたのだ。新王バルタザールと忍びの頭目には、あらためて感嘆の意を禁じ得ない。
 ごく自然に、マイラは村に入った。井戸一つがあるだけの、村の中央。足跡は、マイラの背後に続くもののみである。目を閉じ、気配を探ることだけに集中した。納屋。その奥から、微かな息遣いを感じる。切迫感はあるが、殺意はない。
 迷わず、そちらへ向かう。薄闇の中、納屋の隅で足を投げ出して座り込んでいる、若い男を見つけた。近づいて、顔を確認する。囀る者の一人で、手練だった男である。マイラが探していた仲間だ。
「よく、生き延びたわね。助けにきた」
「と、頭領。すみません、ヘマしちゃいました。俺を置いて、すぐに逃げて下さい」
 マイラの顔を見て安心したのか、男はもう息が荒くなるのを隠せなくなっていた。脇腹を押さえていた手を放し、べっとりと血に塗れたそれを見せる。
「あいつら、死ぬのに時間のかかる傷だけ与えて、後は放置しました。いつでも殺せるのに、ここに逃げ込んだ後、追ってすらきません」
 逃亡はそう長くはなかったのだろう。そしてこの集落が意図的に無人であったことに、気づいてもいないようだった。つまりかなり前から、意識は混濁している。状況判断を鈍らせ、かつ本能で逃げようと思わせるだけの傷。計算され尽くした深さもそうだが、見たところ衣服の裂け目は上半身に集中している。
「すぐに、自害するつもりでした。けど追っ手が来ないことで、ひょっとしたら助かるかもと、死ぬのが怖くなってしまって。俺は、餌にされていたのですね。頭領の顔を見て、ようやくわかりました」
「あなたを、生かして帰す。その為に、私は来たのよ」
「すみません。本当に、すみません」
 男の瞳から、大粒の涙が零れる。傷口の深さは、この暗さでは確認できない。助かるかどうかは微妙だが、この男自身は、長くないと覚悟しているようだ。実際のところ敵に、この男を生かしておく理由はなかった。餌としてこの村に逃げ込んだ時点で、その役目を終えている。
「南に一日行けば、他の仲間と合流できる。それまで、持ち堪えて」
「敵が、おそらくこの村にいます」
「わかってる。全て倒して、すぐに戻ってくる」
 抱き締め、冷たい頬に口づけした。この男とは一度、房術の訓練をする際に、床を共にしている。童貞だった。初々しく戸惑う、まだ少年だった頃のこの男の顔を、今になって思い出す。マイラと、同じ歳だったか。当時の面影は今も残っていて、そのせいで薄い口髭が似合っていない。
 納屋を出た。外套を脱ぎ、それを左腕に巻く。厚手の布で巻かれた腕は、ケープと呼ばれる武術の一つで、複雑に行き交う繊維が見た目以上の障壁となり、刃物を通さないのだ。武器は、右の拳だけで充分だろう。井戸の前に立ち、しばし敵を待ち受けた。
 雪は、止んでいた。マイラの口から吐き出される白い息だけが、この世界で動く唯一のものだ。まだ、日は残っている。厚い雲の下、夕暮れの赤は感じられず、景色は灰色の濃淡だけで表現されていた。
 全く同時に、家屋の鎧戸のいくつかが開かれた。黒い外套の忍びたちは、体格も性別もまちまちであるにも関わらず、無数の触手を持つ、一匹の怪物のようだった。ばらばらの動きは、しかし一つの意思を感じるくらい調和している。何人かが短い刃に、石鹸のようなものを滑らせていた。固形にした、毒だろう。痺れ薬の一種と見た。殺すだけなら、刃そのものが充分な殺傷力を持っている。生かして、捕える。それはある意味、忍びにとって死よりも恐ろしいことである。
 前後に、二人ずつ。家屋の窓に、弩を構えた三人。見えているのは七人だが、総勢で三十人近くはいると感じた。それほど、濃密な死の気配だ。波状の攻撃は間断なく、ここから先の数分間は、息をつく間も限られることだろう。
 前触れもなく、前方の一人が地を這うように突っ込んで来た。捨て身である。一拍遅れて、後方の二人が飛んでくる気配。
 あえて前に踏み込み、突き出される刃を、左手の外套で受けた。巻き込み、刃を奪う動作の延長で、男の懐に入る。そのまま後方に投げて一人の動きを止め、もう一人の襟を掴んで、腰に乗せて投げた。その男を飛び越え、着地と同時に四人目の腹を打つ。
 吐瀉物と大量の血を吐きながら絶命した男を担ぎ、弩の斉射を受けた。背後、家屋の裏の木立。そこから一本、太矢が飛んでくる。躱したが、矢尻が頬をかすめた。痛みよりも、痺れが先に立つ。予想通り、この忍びたちが使うのは、即効性の麻痺毒だ。四肢にまともに受ければ、その部位の自由はすぐに奪われるだろう。
 痙攣する男を投げ捨て、家屋の一つの扉を蹴破った。目の前の階段を駆け上がり、屋根裏部屋にいた二人を蹴り倒す。もう一人。刃を振り上げていた男の顔に、拳を食らわせた。男は壁に叩き付けられ、頭蓋骨の中身を飛び散らかせたが、打った瞬間には絶命していたことだろう。
 昏倒した二人にとどめを刺し、持ち物を探った。武具以外の、一切を持ち合わせていない。指示や指揮系統を推測させる物は、持っていなかった。
 向かいの家屋。二階の窓から様子をこちらの窺っている一人を、弩で射倒す。片目が出ているということは、頭部四分の一が露出しているということである。マイラの的としては、充分過ぎる大きさだった。
 小型の弩は、弦を片手で引ける程度の張りである。直射での射程は、十メートル。矢の落下も加味すれば、二十メートル。威力はないが、急所を貫けば、一撃で倒せる。射られ、射った後ではあるがあらためて敵の武器の性能を確認し、マイラは矢をつがえ、こちらに向かっていた一人を貫いた。もう一度矢をつがえたところで、外套を左腕に巻き直し、二階の窓から飛び下りる。
 わずかに虚を衝いたか、家屋に入ろうとしていた一人の胸を射抜き、瞬時に立ち直った二人目は、突き出される刃と交錯する形で拳を打ち出す。
 別の物のように吹き飛んだ男が、井戸の石積みを破壊し、既に十人程がこちらに姿を見せていた忍びたちに、動揺のさざ波を広げた。
 一瞬だけの余裕を活かし、マイラは家屋の傍にいた巨漢の右脇腹に蹴りを入れた。血を吐きながら石壁に叩き付けられた男は、すぐに白目を剥く。この男は、生かしておくつもりである。逆に言うと、他の忍びは一撃で殺すしかなかった。
 次々と繰り出される矢を転がって躱し、屋根裏の忍びたちから拝借した飛刀を放つ。相手の死を確認する前に、マイラは振り返って拳を突き上げた。屋根から跳躍していた男は、おそらく同じ軌道で屋根を飛び越えていった。
 駆け、地の雪を煙幕代わりに吹き散らせながら、裏の木立に滑り込む。一つ、息をつく。屋根裏以来、まともに息を継げるのは二度目である。血が、再び体内を巡り始める。三度目の息継ぎの前に、決着がついているかもしれない。敵の動きに躊躇がなく、虚を衝かない限り、瞬き程も止まることがないのだ。
 追って来た女がこちらを視認する前に拳を入れ、絶え間なく飛んでくる矢の盾とし、忍びたちの輪へと猛進する。
 女を投擲し、再び雪上を滑りながら、身を起こす動きで蹴りを放った。二人目、頭を正確に横から打ち抜き、吹き飛んだ頭でもう一人の頭部を破裂させる。振り返り様に裏拳を叩き込み、四人目。
 五人目の刃を左手の外套で受けたが、この女は相当の使い手である。拳を打ち込む前に三度、左手で刃を防がなければならなかった。
 忍びの鳩尾に渾身の一撃を叩き込み、背骨と内臓が背後の壁に飛び散るのを見て、残りの者たちは退却を決めたようだ。同時に、何の逡巡もなく四方へ駆けていく。全て追うのは、さすがに無理だろう。
 家屋の一つに入り、大きく息を吸い込む。左頬の痺れを除けば、傷は受けていない。右脚に差してある短剣の鞘に、一つ大きな傷がついていた。どこでやられたのかはわからない。パンゲアでも屈指の忍び、その戦闘部隊だった。
 罠が張られているとすればこの程度、中でも最悪と考えていた水準と、ほとんど変わりがない。もしまだ見ぬ頭領と出くわしていたら、撤退は不可避だった。逃げ切れたかは、運次第だったろう。
 呼吸を整え、納屋に向かった。囀る者の若者は、既に絶命していた。その瞳を閉じさせ、忍びの証となる持ち物を取り出す。別れ際にもう一度、ひびわれた唇に口づけした。
 広場に戻り、昏倒している男に活を入れる。目を覚ました巨漢の忍びは、咳き込む口から大量の血を吐いた。壁にもたれかかったまま周囲の惨状を見渡し、やがてあきらめきった目でこちらを見上げた。再び降り出した雪が、その禿頭の上に積もり始めていた。
「もう、助からない。ただ、死ぬまでに苦しむことになる。質問に答えれば、楽にしてあげられるわ。それに綺麗な形のまま、あなたの骸を残せたらとも思う。後で仲間が、あなたを引き取りにくるでしょう?」
 肌が土気色になり始めた男は、小さく頷いた。
「組織の名は?」
「”無名団”。バルタザール陛下の、し、忍びだ」
 早く、楽になりたいのだろう。聞いていないことまで口にしている。
「頭領の名は」
「さ、三人の合議制だ。その三人に、格の上下はない。それぞれの名は、ビスキュイ、スピール、リュゼ」
 今のところビスキュイだけが、表舞台に出ている。
「それぞれの、本当の名は?」
 いずれも、アッシェン語で名にする言葉ではない。ビスキュイは、共通語のビスケットである。
「名は、忍びになった時点で捨てる。だから、無名団だ。か、過去を知っている者しか、本当の名は知らない」
 急速に、男が死の縁を越えようとしているのがわかった。保って二時間程だが、意識を保てるのは十分、こちらの質問に応えられるのは、二、三分か。見た目程に、屈強な男でもなかった。
「スピールと、リュゼの特徴は?」
「スピールは、その名の通り、溜息ばかりついている女だ。三人の中で、一番頭が切れる。変装が上手いが、どんな時でも美女であることに変わりがない」
 男の口調が、少し滑らかになっている。もう、あまり苦しいとも感じないのだろう。そして、苦痛の再来訪に、怯えている。
「リュゼは、その名とは反対で、狡猾さとは程遠い娘だ。頭は回らず短気だが、どこか真っすぐな娘でもある。そして小柄だが、ひたすらに強い。荒事は大抵この娘が片付けるし、仕事が早い」
「私よりも、強い?」
「ハハ、あんたより強い人間が、このパンゲアにいるのかね。ただ五年、いや二年後のリュゼならどうかな。まだ、十代半ばだと思う。顔を合わせる度に、はっきりと強くなっているのがわかった」
 大人びて見えるのだろうが、マイラもまだ十九歳である。が、十五歳から十八歳の間で飛躍的に強くなったのは確かで、リュゼという娘が十五歳前後なら、どれだけ強くなっていくのか、悪い方向で未知数としておくべきだ。仕留めるなら、早い方がいい。
 男の呼吸は静かなものだが、口からはとめどなく血が滴っていた。
「大して、参考にならなかったろう?」
「いえ、充分よ」
「”打骨鬼”マイラ。あんたの元で、働きたかったとも思う。どんな、生き方をできただろうな。この人生に不満はないが、ひたすらに、潜伏するだけの人生だった。派手に暴れ回れると思ったら、これだ」
「あなたも、充分に強かった。もし私の下にいたのなら、それなりの仕事を任せられたと思う」
 同じ忍びとして、礼を尽くす。男が、頷いた。もう、楽にしてくれということだろう。
 拳で、軽くこめかみを打った。横になった男が、もう瞬きをすることはない。
 マイラは立ち上がり、膝に付いた雪を払った。死体をもう少し探りたいところだが、先程散った無名団の生き残りが素直に逃走したのではなく、援軍を呼びに行ったとしたら、残された時間は多くない。ある程度の時間差がなければ、雪の原野で足跡を辿られてしまう。
 外套を羽織り、マイラは集落を後にした。
 吹雪き始めた雪は、追っ手を撒くのに充分な強さだろうか。

 

 小国の謁見室のような広間は、かえって居心地が悪い。
 そこの上座、一段上がった玉座のような椅子に座り、ジルはサンカンタン周辺の騎士たちの、宣誓を受けていた。一人終わるごとに玉座から下り、差し出された剣を跪いた騎士の肩に、交互に当てていく。広間の赤い絨毯が、目を疲れさせた。
「サンカンタンの地と民の安寧において、貴公の忠誠の変わらんことを」
 結局、ジルがサンカンタンの地を治めることとなった。サンカンタン男爵、という爵位も得る結果となる。この地はあくまで本来の戦略目標であるピカルディへの橋頭堡に過ぎないが、西の本丸攻めを前に、守り抜かなくてはならない重要拠点である。
 要害と聞いていた割には、一度包囲してしまえば落とすのに苦労しなかった城ではあるが、東と南は起伏の激しい地形が続き、輜重の移動は困難を極めたことだろう。北のレヌブラン国境から攻めたからこその、犠牲の少ない戦だった。
 ここから西のピカルディまでは、なだらかな平野が続いている。ピカルディも三方を要害に囲まれた守りの堅い城なのだが、ここサンカンタンからなら唯一、進軍に困難はない。ここを落とせた時点で、ピカルディとは地形上五分の勝負となる。
 ジルの前に居並ぶ騎士たちは、二十人。今回召集をかけた上級騎士は約三十人で、十人程が応じなかった。が、その十人に明らかな叛意があるというわけでもなく、ピカルディ攻防の結果が出るまでは、態度を保留している格好だ。書簡の返答にしても、何かしら理由を付けて後日に機会を譲りたいといったものだった。侵略者であるレヌブランを、真っ向から批判する声明はない。彼らを、卑怯な日和見と断じることはできない。預かっている民との関係があり、ピカルディと結びつきの強い商売などをしていれば、たやすくこちらにつくというわけにもいかないのだろう。
 対して、即刻ここに集まった騎士たちにも、温度差はあるだろう。単に勝った者につくという者もいれば、内心歯ぎしりしながらも、民を新たな支配者との戦に巻き込むまいと、彼らを守る意味合いで馳せ参じた者も、少なくないと思われる。
 今回は支配地域の大きい上級騎士の召集となったが、後日末端の騎士たちを召集する際にも、同様の問題は抱えることになる。
 ただ、ここには前サンカンタン男爵と、特に懇意だった者もいると聞く。彼らが前男爵との関係性よりも騎士としての責務に忠実であるとしたら、ピカルディ陥落後、彼らの中からここの城代を選んでもいいと思った。ジルか、他のレヌブランの者が、両地を治めるとしたらの話である。人間関係よりも、騎士としての責務で動けるというのなら、それだけで為政者として信頼に値すると、ジルは思っていた。
 主立った指揮官たちは既に王都レヌブラントに戻り、残ったのは二千程の兵と、老ゲオルク、アーラインの夫婦のみである。領主というのは属国の総督とはまた違った責任感があり、背後に控える二人を思わず振り返ってしまいそうになるが、何とか堪えた。ただ宣誓式進行は、ゲオルクに任せている。
 騎士たちが一斉に剣を掲げ、音高く鞘に収める。それで、この場は散会となった。
 休む間もなく、別室へと移動した。ゲオルクだけが、ついてくる。政が話し合われる狭い会議室では、二十人程の役人たちが、席を詰めて待っていた。上座に腰を下ろし、ジルは用意された茶に口をつけた。ジルに張り付いた怒りの面貌は、初めて見る者は萎縮するか、好奇に目を輝かせる。ただここの者たちは、それを極力我慢するだけの自制心を持っているように感じた。
「遅れてすまない。あらためて、新男爵となった、ジルだ。ここに残ってくれた諸君には、引き続き以前からの仕事を任せたいと考えている」
 役人は城仕えの下級騎士かその次男三男、あるいは商家出身という構成で、どこの領地とも変わらない。前男爵というよりこの領地に仕えているという意識が強いのか、役人たちに離脱者はいないと聞いている。
「近々、レヌブラン法により、この地を治めることになる。まあ、どちらの地も元を辿ればアッシェン法の地だ。大きな違いはない。そして注意すべき変更点については、事前に通告した通りだ」
「不正、ということに対して、少し厳し過ぎるような気がしますが」
 若い役人の一人が、口を開いた。
「不正については、より厳罰を為す。この地だけ特別扱いということもない。具体的に、賄賂や情報漏洩について、心当たりのある者はいるか」
 何人かが、ばつの悪そうな顔で俯いた。
「ただ、ここもアッシェン同様、慣習法の地といっていい。褒められたことではないが、長く続く因習で、元来の法に反することを続けてきた者も、いることだろう。その者たちを、すぐに処罰するようなことはしない。これまでのことも、不問としよう。だが新法施行前に、諸君には身綺麗になってもらいたい」
 いくつかの咳払いが起きたが、あえて意見してくる風でもない。どう反応すべきか、計り兼ねている者もいるだろう。
「レヌブランから四人、新法に詳しい者たちを連れてきている。レヌブラン法に対する質疑はもちろん、先程述べた、因習から断ち切ることの難しい、民間とのやりとりについても、相談してほしい。繰り返すがこれまでのことは不問に付すし、双方共に、急に関係を断ち切ることが難しいものがあることも、理解している。なので、少ないかもしれないが、時間を与える。一ヶ月後にレヌブランの法の下で、仕事ができるようにしてくれればいいのだ。辞令も、その時にあらためて発布する。それと」
 ジルは立ち上がり、後ろの書棚から給与の明細書を取り出した。
「棒給については、倍とする。領地経営が上手く行くような際には、四半期ごとの査定で臨時の給金も出そう」
 顔を輝かせる者、不審そうに顔を見合わせる者、役人たちの反応は様々だが、概ね好意を持って受け入れられたと感じた。不正に手を出している者は、そもそも少ないのだろう。
「前男爵は、吝嗇家だったのだな。領主としておかしな借金を残すこともなかった代わりに、役人はもちろん城で働く下働きの者たちまで、安く使い過ぎていると感じた。それぞれに倍出しても、この領地は充分回せる」
 役人の中には、家族がここで働いている者もいることだろう。大半は、この話も好意的に受け取っている。ただそれでも何人かが、顔を曇らせている。
「そこのお前、何か不満か」
「税収が、増えたわけではありません。むしろ戦により、この地は疲弊したとも言えます。私個人の待遇に不満はありませんが、不安はあります」
「それどころか、この地の減税も考えている。疲弊しているなら、今までの税でも重く感じる者がほとんどだろう。ただそれでも、出すべきところには金を出す。具体的には、人だ。諸君らの棒給を上げるのは、その手始めだ。税を納めるより、その税で食っているわけだからな。新法による体勢が整い次第、減税に着手する。この地が疲弊したというのは、間違いのない事実だろう」
「減収で我々の棒給が増えることに、おかしな点を感じるのですが」
「減収は、一時的なものだろう。税を軽くすれば、金の回りが良くなり、かえって税収は増えるのだ。レヌブランやアングルランドはもちろん、アッシェンではゲクラン領がいい例だろう。栄えている土地は、税が安い。税が高くて栄えている国は、数が限られている。騎士団領は税が高いが、国が民のあらゆる面倒を見る。医者にかかるのも無料だし、働けない者には配給もある。病気と飢えの不安を、国が負担する。要は、税を納める恩恵が、大きいのだな。税の軽重は、どちらかにある程度振り切るのが、きっと正解なのだろう。レヌブランは、民の経済活動におかしな口は出したくない。しかし徴兵やその他の義務には、従ってもらう。ゆえにその負担を少しでも軽くする為、税は安くする。あまり、民の面倒は見れないのだ。ならば税を軽くするのが、道理と考える」
「理屈は、わかりました。私どもも、そういう土地を目指すのだという男爵のお考えを、共有致します」
「レヌブランの総督を務め、レヌブラン、アングルランド両方の政治をつぶさに見てきた者の考えとして、受け入れてもらえれば助かる。それとお前、先程から暗い顔をしているな」
 言われた、ジルのすぐ傍に座っている役人が、顔を上げた。綺麗に口髭を切り揃えた中年で、誠実さが顔に滲み出ている。ジルは先程の話の、最後の一押しに入った。
「お前がそうだというわけではないが、仮にお前が、高利貸しから膨大な借金を抱えていたとしよう。棒給が倍になった程度では首が回らず、仕方なく不正に手を出しているとする。その際には借金は一度、レヌブランが返済しよう。それが高額なものであっても、構わない。こちらで肩代わりした分に関しては少しずつ、無理のない範囲で返してくれればいい。長い年月をかけても結構だ」
 男は信じられないといった眼差しでジルを見たが、やはりこの男の目は澄んでいる。この男ではなく、おそらくこの役人の中にいる友人が、似たような状況だと思われた。それでもなお、ジルはその男に語り続けた。
「高利貸しは、強面の連中とつるんでいたりするからな。搾り取るのが目的だったとしたら、たやすくお前の返済に応じず、汚いやり口でお前を丸め込むかもしれない。単に金を返してもらうのが目的ではなく、土地や財産を狙っているかもしれない。なので高利貸しの元を訪れる際には、レヌブランの兵数名が同行する。それで連中も、手を引かざるをえまい。金は、返すと言っているのだしな」
「そ、そこまでして頂けるのですか」
「それでも揉めるようだったら、私自ら赴く。ここにいる誰一人、一ヶ月後も不正に手を染めていてほしくないからだ。諸君がそれに応えるというのなら、領主である私が手を貸さないわけにもいくまい」
 奥の席で、顔に手をやって嗚咽をこらえている者がいる。この話は概ね、あの男に当てはまるのだろう。
「これを言って、この場は仕舞いとしよう。私がここの新たな領主だが、私という存在に仕えようとするな。ここにいる間は、私が全ての決済に責任を持つが、いずれ城主代理を立てることになる。そして私もその者も、諸君の行い全てに責任を持とう。ゆえに諸君は、民の生活に対して責任感を持ってくれ。役人の仕事は、民の暮らしを支えている。民を豊かにする法を領主に立案するのも、実際に施行するのも諸君らの仕事だ。ここにいる二十人が、サンカンタンを豊かな土地にする。その礎たる自覚を持って、職務に励んでもらいたい」
 集まったのは、各部署の責任者たちである。ジルの話は、彼らを通して下の役人たちにも伝わっていくだろう。
「新法に対する細かい質疑、そして不正から足を洗いたい者の身の振り方は、この後、連れてきた文官たちに相談してくれ。大きな方針について、まだ何か疑問に思う者はいるか? なければ、よし。あらためて、新サンカンタン男爵、ジルだ。これからもよろしく頼む」
 ジルが立ち上がると、少人数とは思えない程の拍手が、室内に響き渡った。
 それに手を振って応えつつ、ゲオルクと共に部屋を出た。廊下で待っていたアーラインの顔が、嫌らしくにやついている。そんな顔をしても美しいと感じるケンタウロスの器量に、少し妬けてしまいそうだ。
「いい演説だったじゃないか。ここまで、全て聞こえていたぞ」
「演説じゃない。挨拶と、業務連絡だけだ」
「あれが、業務連絡なものか。ただ皮肉ではなく、いい訓示だったと思う」
「そうかな。当たり前のことを言っただけだ。間接的とはいえ、バルタザール殿の治める土地なのだ。彼に恥をかかせるわけにはいかない。それはそうと、まだ日が残っている内に、兵の調練がしたいのだが」
「雪が、降っている。大した調練はできまい。焦る気持ちはわかるが、兵にも休息が必要だ」
 雪上にも兵を慣れさせたいところだが、そもそも質の高い兵でもある。ピカルディ攻略前におかしな怪我人を出したくはなかったので、アーラインの言うことにも、一理あると認めざるをえなかった。
「なら、私だけでも、鍛錬しておくか。一人で刀を振る時間も、最近はあまり取れていないしな」
「今更、腕が落ちることもあるまいに。ジルは本当に、生真面目だのう」
 腕を擦りながら、ゲオルクが言う。それから一つ、盛大なくしゃみをした。
「私とゲオルクは、もう少し城内を回ってから、暖かい部屋に引っ込んでいるよ。ジルも、程々にな」
「わかった。夕飯は、共にしよう」
 城を出て練兵場に向かうと、雪の舞う兵舎の前で、男女が並んで棒を振っていた。ハーマンと、モイラである。
「二人とも、精が出るな。私もこれから、鍛錬しようと思っていたところだ」
「ジル様、お疲れ様です。よろしければ、少しだけでも立ち合って頂けますか」
「構わないよ。モイラ、その棒を貸してくれ。よし、いつでもいいぞ」
 棒を構えて、ハーマンと向き合う。打ち込んでくる一撃を受け流し、体位を入れ替えた。二合、三合と、振りは強くなってきている。
 努力家なのだろう。素質は並といったところだが、ハーマンは日に日に強くなってきている。つられてか、たまに立ち合うモイラも腕を上げていた。彼女は今、二人の打ち合いを心配そうに見つめている。ハーマン相手に怪我をさせるような強い打ち込みをすることはまずないが、目の前で武器が音高く打ち交わされることに、本能的な恐怖感を隠せないのだろう。
 何十合目か、躱しざまに足を払い、ハーマンを転倒させた。
「足元がぬかるんでいるからといって、あまり踏ん張り過ぎるな。滑りやすい地面はいくら力を入れていたとしても、かえってその足を掬うのだ。流れるように、むしろ滑ることを利用して、軽やかに打ち込むといい」
「はいっ!」
 泥と雪で顔を濡らしながら、ハーマンは心底嬉しそうに声を上げた。
 それから十五分程付き合うと、白い息を煙のように吐き出しながら、ハーマンは大の字に倒れた。もう一人では身を起こすこともできなそうだが、たまらない笑顔を浮かべている。
「ここまでかな。モイラ、ハーマンが風邪を引かないようにしてやってくれ」
「はい。ありがとうございました」
 荒い息しかつけない恋人に代わって、モイラが何度か頭を下げる。
 二人が去った無人の練兵場で、ジルは吹毛剣を抜いた。吹いた毛すら断ち切るという名の通り、雪片の一つが刃に触れた途端、それは二つに割れた。
 心気を澄ませ、刀を一閃させる。
 寒気すら斬り裂く一振りは、今日もジルの耳に心地よかった。

 

 謁見の間に入ってくる男を見て、すぐに心臓を鷲掴みにされた。
 自分に何が起きたのか、束の間、アナベルは理解できなかった。玉座の隣、内親王の席に座りながら、アナベルはじっとその男、ウォーレスを見つめ続けた。
「どうした姉上。そんな惚けた顔をして。あらためて説明するまでもないな。”熱風拍車”ウォーレスだ。噂以上に、強そうな男だろう? 実際にはその想像の、遥かに上を行く男だ」
「ロウブリッジ伯、ウォーレスだ。対等の連合という形故、ティアからは事前に、臣下の礼は取るなと言われている。が、この立派な城と、荘厳な謁見室、そしてアナベル内親王の仰ぎ見るような佇まいだ。こうして膝を着かないでいるのは、かえって居心地が悪いな」
 厳めしい顔をした、大きな男である。同時に、底知れない懐の深さも感じた。なんとか笑顔を作り、アナベルは席を立った。ウォーレスの手を握る。熱い。手もそうだが、アナベル自身が燃え上がるように熱かった。
「ノースランド内親王、そして摂政を務めている、アナベル・ハイランドです。いえ、アナベル・オブ・オーガスタスと名乗った方がいいのかしら。妹の、いえ陛下と轡を並べて下さり、心より感謝申し上げます」
「姉上、様子が変だ。今日は具合が悪いのか」
「い、いえ、むしろいいくらいよ。ごめんなさい、急にどうしたのかしら」
 ウォーレスに手を添えられ、内親王の席に戻る。ずっと、その手を握っていたかったとも思う。その感情にアナベルは戸惑い、圧倒されていた。
 一つ、大きく息をついて、アナベルは確信した。まさか自分がそれを経験するとは思わなかったが。この男に、一目惚れをした。そしてそのことに、ひどく動揺している。
「心の臓の病と聞く。どうか、身体を楽に。俺たちとの形式張った挨拶は、受けてくれなくていい」
「ご心配をお掛けして、申し訳ありません。その、大丈夫です。ウォーレス様、あらためてオーガスタス城の戦士一同、ウォーレス様を歓迎致します」
 気づくと、ウォーレスの向こうで一人、娘が片膝を着いていた。
「ウォーレスが娘、セイディと申します。アナベル殿下に拝謁賜りましたこと、この上ない名誉です」
 表情もそうだが、口調がまず平板である。これが、セイディか。肖像画も出回っていない為か、事前にどんな娘か、想像もできなかった。ウォーレスと似ていないという噂と、鉄面とあだ名される程に、感情の読めない娘だとは聞いていた。
「ありがとう、セイディ。どうか楽にして下さいな。歓迎します。この城を我が家に、そして家臣たちとも家族の様に触れ合って頂ければと思います」
 頷いたセイディは、アナベルと似た緑色の瞳で、まっすぐにこちらを見つめていた。短く切った赤銅色の髪が、肩に触れるかというところで弾んでいる。
 横に目をやると、玉座に座るティアと、その後ろに控えるビスキュイが、心配そうな眼差しをこちらに送っていた。
「だ、大丈夫。本当に、大丈夫よ」
 小声で告げ、再び前方に、ウォーレスに目をやる。一時の、気の迷いか。あるいはこれからもずっと身を焦がす、恋の炎か。
 思えば特定の男に憧れたり好きになったりすることはあったが、ここまで身も心も吸い込まれるような感情を抱いたことはない。胸の内で答えは出ていても、頭で結論を出してしまうのは、少しでも後回しにしたかった。この感情は一度、冷静になった時に向き合いたい。一瞬で燃え上がった炎だ。一瞬で冷めることもあるかもしれない。
 ティアとウォーレス、そして気づかなかったがラクランとグリアが家臣たちと話している。言葉が、頭の中で上手く意味を成さない。ウォーレスの横顔を、見つめ続けることしかできないのだ。頭を振り、アナベルは何とか目の前の会話に入っていこうとした。
「ハイランド城の留守をしているマドックを除けば、ここにいる者たちがノースランドの主立った者たちか」
 ウォーレスが訊くと、ティアが玉座から、にもかかわらず友に話し掛けるように答えた。玉座にあっても相手におかしな壁を作らせない、ティア独特の空気感である。
「マクドナルド夫人が、ここにはいないな」
「マクドナルド家は、名門と聞くが、現当主の夫人の名までは知らないな。内政を受け持つ一人と思ってよいのか」
「外交を担っているが、今は各領主とのつなぎ役に近い仕事を担ってもらっている。叛乱としてノースランドは立ち上がった手前、ここノースランド本島ですら、一枚岩とは言い難くてな。各地を回り、私の旗の元に集ってくれるよう、尽力してもらっているのだ」
「なるほど。そのマクドナルド殿にも、会える機会があればいいが。俺たちはあまり、ここに長居できないだろう」
「ハイランドで、私の戴冠式を執り行う予定になっている。本当はレヌブランと続けて、正式な独立とする予定だったが、教皇に急用が出来たとかで、仕方ない。ただ、そこには夫人も出席予定なので、近々会えることになるだろう。ヘイゼル・マクドナルド。頼りになる御仁だ」
 アナベルの異変を悟ってか、ティアもあまりこちらに話を振って来ない。こういう場で上手く話を回し、妹の負担を減らすのが自分の仕事であるはずなのだが、今日のアナベルは、自分でも使い物にならないと感じていた。
「アナベル様ぁ、やはり、お加減が優れないのでずがぁ?」
 心底心配そうに、ビスキュイがその大きな目でこちらを覗き込んでくる。
「大丈夫よ。けど、少し身体が熱いわ」
「うあぁ、今日は格段に冷えまずよぉ? やはり、お風邪を召したのかもしれまぜぇん。こ、これは大変なこになっできまじだぁ」
 本気で慌てている彼女を見ていると、却ってこちらが冷静になってくる。それでも火照る頬を手で扇ぎながら、アナベルは微笑んだ。
「本当に、大丈夫だから。それどころかウォーレス様たちに、少し元気をもらったみたい」
 ただやはり、アナベルがここでウォーレスに惚れてしまうのは、まずい。
 妻を失っているあの男が仮に再婚、それも政治的なものとしてそれを為すなら、相手はティアであるべきだった。年齢差もあり、二人に恋愛感情は期待出来ないかもしれない。ティアは、彼の娘セイディよりも歳下なのだ。
 が、貴族の結婚とは、つまるところ力の共有である。その状況を作ってやれば、ウォーレスとてティア、あえて言えばハイランド公との婚姻を肯んじるだろう。共闘などという曖昧な約束ではなく、婚姻を介した確固とした同盟。ノースランドが、そして摂政としてアナベルが求めているのは、まさにそれである。
 言っても仕方のないことだが、自分がもっと、いや人並みの半分でも健康な身体に生まれていればと、今ほど悔やんだことはない。アナベル自らが先頭に立ち、ノースランド独立の旗を掲げていれば、本来野心のない妹を戦場に送り込むこともなく、またこの段階でのウォーレスとの結婚に、何の障害もないはずだった。
 いや、と眉間を押さえて思い直す。そもそもティアが先頭に立ったからこそ、民は蜂起し、ウォーレスまでもこちらに引き入れることができた。ティアには疑いなく、人を惹き付ける力がある。女としての魅力なら、器量のいいアナベルの方が、いくらか勝っているかもしれない。が、老若男女問わず、自身を彼女の家族と錯覚させるような本質的な魅力では、妹に遠く及ばないことを、アナベルは自覚していた。
 つまりアナベルの身体が婚姻に耐えうる程のものだったことを仮定したところで、ティアの存在なくしてアナベルの今は、成り立たなかったと断定せざるをえない。
 顔見せの挨拶は、いつの間にか散会の運びとなった。ビスキュイに手を引かれ、アナベルは自室へと戻った。日が落ちる頃にもう一度、歓迎の宴が開かれる。今日の執務は既に済ませており、今はその時まで、体力を温存したいところである。
 飾ったドレスを脱ぎ、絹の寝間着へと、侍女たちが着替えさせてくれている。枕の積み上がった寝台。心臓の悪いアナベルは、仰向けになって眠れることは、あまりない。身体を地面と平行にすると、息苦しくなるのだ。医者によると、重力に頼らず足の先まで血を送ろうとする為、心臓に負担がかかるのだという。
 枕に背を預け、最後まで残っていたビスキュイに、笑顔で退出を促す。
 一人になると涙が一筋、頬を流れた。苦しい。病とはまた別種の、たまらない胸の痛みである。
 嗚咽が外に漏れないよう、アナベルは枕の一つを、強く顔に押しつけた。

 

 

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