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4,「たった今、寄る年波って奴を受け入れたところだよ。いい顔してただろ?」


 国境を越えた所で、その噂は耳に入った。
 グランツの暗い森を抜け、アッシェンに入った。馬車宿で他の旅人たちと酒を飲み交わしている際に、ゲクラン領の傭兵隊が、医者を探しているという話を聞いたのだ。
「カルラ、ちょうどいいんじゃないか。先方から求められてるってんなら、地元の組合との折衝も、面倒くさいものにはならないだろう」
 背中合わせに座っていた隊商の長が、身を乗り出して言った。黒い髭の周りに、ビールの泡がついている。
「どれだけ稼げるかだな。医者ってのは、やってくこと自体に金がかかる。あんたらも、私と旅をしてきてわかったろう? 薬にしても器具にしてもその手入れにしても、必要経費ってもんがあるんだ。そこもわからず医者は高いだのなんだのって抜かすような、セコい傭兵連中相手に、セコい施術をするつもりはないね」
「まあ、お前がそう言うんなら、俺たちが口を挟むことでもないか。その傭兵団・・・霹靂団っつったっけか。結構な規模だと聞いたがな。五百・・・いや、千だったか」
「五百と千じゃ、倍違う。そんな感覚でよく商売やってられるね。ったく」
 カルラが言うと、周囲から大きな笑い声が起きる。行商、用心棒、いずれは自分たちが商売をするつもりの、見習い。東からの長い旅を経て、彼ら彼女らとは、半ば家族のような付き合いになっている。そろそろ、一年か。
 翌日、二日酔いの頭を抱えながら、カルラは荷馬車の端に腰掛けた。自分の荷物を背もたれに、千切れそうな雲が流れていくのを眺める。
「カルラさん、あれからどのくらい飲んでいたんですか」
 驢馬を連れた若い行商に、話し掛けられた。まだ少年と言っていいこの男は、グランツに入ってから、いつの間にか隊商に加わっていた。どこまで同行するつもりなのかも、知らない。
「最後の、一人まで。なに、酒を過ごすのは、美味い酒と出会った時だけだよ」
 振り返り、街道の前方に目をやる。十数台の馬車の列と、同行する用心棒。驢馬で付き従う者も含めれば、総勢、百人程か。それもしょっちゅう面子が変わるので、半数以上は顔と名前が一致しない。家族のような連帯感を持っているのは、昨晩も宿が一緒だった、二十人程である。巨人山脈の大坑道を抜けてきた、苦労を共にした面子でもあった。
 気づくと、少年の目が、カルラの胸元に釘付けになっていた。カルラはどんな服でも、胸元を大きく開ける癖がある。首元と、胸元。この二つがきついのはもちろん、さらに言えば布地が触れることが嫌なのだ。男だったら、年中上半身裸でいたことだろう。今も、下着が見える程に胸元を開けていた。寒い季節ではあるが、我慢できなくなった時のみ、外套の前を合わせる程度である。
「少年、この豊満な胸が気になる?」
「あ、いえ、すみません。つい」
「いや、健康的でよろしい。身体が本当に悪くなると、まず性欲がなくなるからね。それがあることは、いいことさ。君は見たところ、充分健康的と言えるだろう。ただ、もう少し食べた方がいいな。私は、筋骨隆々とした男が好みだ。野獣みたいなね」
「あ、ははは。その、頑張ってみます」
「食が細いのは、右の奥歯に一本ないしは複数、虫歯があるからだね。他に何かあるかい?」
 少年が、驚いた様子で右頬に手をやった。
「よく、わかりましたね。見えましたか?」
「人の口の中を、覗き込むような趣味はない。ただ仕草と、痩せ方を見て、何となくわかる。今のは、その確認みたいなものだな。困っているならほら、目の前に何でもこなす医者がいるじゃないか」
 少年は、苦笑いを浮かべて言った。
「いや、カルラさんの施術は、高くつくって・・・」
「そうでもないよ。安売りするつもりもないが。診察は、特別に無料でしてやろう。歩きながらでいい。こっち来て、口を開けてごらん?」
 近寄ってきた少年が、恥ずかしそうに口を開ける。下の歯に指をかけながら、カルラは眼鏡をかけた。
「うーん、こりゃ思ってたより、ひどい。右下の奥歯に二本、上も一本。上はまだ痛みがさほどないだろうが、処置するには相当痛い思いをすることになる」
 口を閉じ、困惑した少年に、カルラは赤い前髪を掻き上げながら言った。
「次に休憩する時に、全部抜いてやろう。アッシェン金貨一枚でどうかな」
「あ、いえ・・・すみません。まだ駆け出しで、手持ちもぎりぎりなんです。金貨一枚は、次の仕入れに響きます」
「放っておくと、顎の骨まで腐るよ。けど、わかった。出世払いで、金貨五枚でいい。君が将来、この商売で大成功したら、アッシェン金貨五枚、私を探してきっちり収めにきてくれ。芽が出なかったら、支払いはなしでいい。こんないい話、他にあるかい?」
「あ、ありがたい話です。お願いします。でもちょっと、高いような。けどやっぱり何かこう、カルラさんらしいって気もします」
「出会って、日が浅い。私の何がわかるんだ?」
「冷たそうな印象なのに、意外と温かい。そんなところでしょうか」
「冷たそうに見えるのは、顔のせいだろう。まあ私が優しいかどうかは別として、目の前に治せる病人がいるのに、放っておくのも忍びなくてね。医者の性ってところだ」
 昼近く、泉の傍で隊商は止まった。腹が空いたと感じるのは、二日酔いが覚めてきたからだろう。針と糸を煮えた小鍋に入れていると、虫歯の少年がこちらにやってきた。
「今の内に、食えるだけ食っておきな。何日か、噛むようなものは食べられなくなる。それと、ちゃんと口の中を綺麗にしておくように」
 硬くなったパンを噛みちぎりながら、慌てて引き返す少年の姿を見つめる。
「カルラ、あいつの歯を抜くのか?」
 切り株に座っている用心棒が、何とも言えない顔で言った。この男の歯は五本、治療してやったことがある。内二本は、抜いた。痛みを思い出したのか、髭の生えた頬を何度か擦る。
「そうだよ。押さえとくの、手伝ってくれるかい? あんたはもう、慣れてるだろ?」
 この用心棒も、東の旅からの付き合いだ。一度だけ、寝たこともある。身体の相性が悪いと互いに気づき、以来床を共にしていないが、関係は今も悪くない。一夜の気の迷いでよそよそしくなってしまうほど、巨人山脈の旅は甘くなかったということだ。怪物相手に、カルラすら剣を握り、この男も自分に背中を預けざるをえなくなったことが、幾度もあった。
「二人いるな。馬乗りになって肩を押さえる奴と、頭を固定する奴」
「声掛けといてくれ。あんたが馬乗りになる方がいい。下手な奴に任せると、あのやせっぽちの子供の、肋を折りかねない」
 やがて少年が、腹を膨らませるくらいに食べて、戻って来た。枯れた草地に横たわるよう促し、カルラが合図すると、屈強な男二人が、少年の頭と肩を、しっかりと押え込んだ。何か言いかけた少年の口中に器具を押し込み、顎を閉じられないように、固定する。恐怖に見開かれた目が何か訴えかけるが、今更どうという話でもない。指の先程の小さな手鏡で、口の中をもう一度見て回った。
「お、ちゃんと歯、磨いてきたんだね。感心感心。ちょっと、虫歯になりやすい歯並びをしてるな。楊枝だけじゃなく、次の町に行ったら質のいい歯ブラシを買うといい。高価だが、こんな思いをするくらいなら、銀貨五枚くらいは安いと思うはずだ」
 ペンチを突っ込み、虫歯の一本に触れる。少年の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。唾液が口中を満たす前に、作業を終わらせるつもりである。
「頭、もう少し右向かせてくれるかい? そう、そうそう。その角度を保っておいてくれよ」
 一本目。引き抜くと、少年は哀切な悲鳴を上げた。口の中に血が溜まるのを見つつ、二本、三本と抜いていく。一度顔を横に向けて血を吐かせ、素早く傷口を縫い合わせていく。
 解放すると、少年はしばらく荒い息をつきながら、泣いていた。
 泉で血の着いた手と器具を洗っていると、少年はもう痛みから立ち直った様子で、カルラに礼を言いにきた。若さだな、と思う。
「ほら、抜いた歯は取っときな。溜まった血は、まめに吐き出しなよ。丸一日以上、出血が続く。まあ若いから、患部を刺激しない限り、二日三日と続くこともないだろう。この辺は体質によるけど、血は固まりやすいみたいだ」
 器具をもう一度煮沸する為、小鍋を沸かす。その間に石鹸で手を洗っている間、何度も傍の焚き火に手をかざさなくてはならなかった。寒さには強い方だが、施術で力を入れ過ぎたのか、指の節々が痛んだ。
 二日酔いの影響ばかりではないだろう。病とは違う、妙な疲労感がつきまとう。東洋の医学でツボというものを学び、以来内臓に異常がないかは、いつも確認している。病はないが、身体が全体的に弱っていることは、把握していた。
 立ち上がると、背中から腰にかけ、強張っているのを感じる。カルラはある種のあきらめの吐息を、微笑とともに吐き出した。大きく伸びをし、寒気で澄み切った空を見上げる。
「どうした、カルラ。お前がそんな顔してるのは、珍しい」
 隊商の長がたくさんの食器を抱え、泉の傍に置いた。自分の分を洗うついでにと、他の者の分まで持ってきたのだろう。そういう男だった。
「歳だなって、そう思った。疲れが、抜けにくくなっている。たった今、寄る年波って奴を受け入れたところだよ。いい顔してただろ?」
「もう、三十を越えてるんだっけか」
「三十二歳だ。レディに歳を訊くもんじゃない」
「お前さんから、言い出したんだろうが。うお、この泉は、格別に冷たい。そこの火、何度か当たらせてもらうぜ」
 手を真っ赤にしながら食器を洗う長を見つめている内に、あることに思い至る。
「・・・霹靂団って、スラヴァルの傭兵じゃなかった? 共通語で聞いたんで、昨夜はピンと来なかった」
「今は、娘が団を継いだらしい。一度潰れ、アッシェンで再起したとか。詳しいことは、まだわからんが」
「ユーロ地方に戻ってくるのは、十年振りか。私にとっちゃだけどね。なるほど、短い時間じゃない。代替わりも起きるわけだ」
「俺は、五年振りだ。お前とはたった一年の付き合いなのに、娘の様に感じている。十年は確かに、短い時間じゃない」
 焼きたてのパンのように丸い手に息を吐きかけながら、長は言った。話し振りから、どこかカルラの心中を察しているかもしれない。
「旅暮らしが、つらくなってきている。パリシまであんたらについてく予定だったが、霹靂団のいるノルマランは、その手前にあるんだっけ?」
 道具を片付けながら、頭の中で地図を広げる。旅の人間の、習い性だった。
「なんだ、急に興味持ったのか」
「やっぱり、傭兵団なら医者の人手は足りてないだろう。パリシの組合相手に交渉するのも、億劫になってきた。街の医者は、施術以外にもやることが多過ぎる。流しの医師も、傭兵相手の気楽な商売で、ちっとは羽を休めてもいいかもしれない。もう学ぶものは、学んだという気もする」
 旅暮らしを続けてきたのは、亡き父同様、パンゲアのあらゆる医学を学びたいという意欲があったからだ。今もそれはあるが、旅と両立させるのは、しんどいと思い始めている自分もいる。
 もう一つ、大きく息を吐いた。頭の中の靄が、それで晴れたという気もした。
「そうと決めたら、私はここから北上して、マロン川に出る。船を捕まえりゃ、ノルマランまで二、三日というところだろう。あの川の流れは、速かったと記憶している」
「お前のその真っ赤な髪が地毛と聞いて、驚いたのを思い出す。ハハ、これだけ濃密な時間を過ごしてきたのに、気の利いた言葉が出てきやがらねえ」
「今生の別れじゃない。アッシェンにいりゃ、器具や薬を買いに、パリシに足を運ぶことも多いだろう。ばったり、街中で会うこともあるだろうさ」
「そうだな。俺たちは一息ついたらまた東の果てだが、どこかでまた会うこともあるだろう。カルラ、ここまで同行してくれて、感謝してる」
「それは、こっちの台詞さ。こっちに戻るのに、あんたらみたいに旅慣れた連中じゃないと、無事では済まなかったと思う」
「一人で、大丈夫か。何人か、町まで付けようか」
「日が落ちる前に、北の馬車宿に着ける。なに、怪物の彷徨く土地だって、何度も踏破したこともあるんだ。この辺りは、平和過ぎるくらいだね。けどあんたのそういうところ、嫌いじゃなかったよ」
 手を振って、カルラは荷馬車まで戻った。背負い袋を肩に掛け、あの少年を捜す。
「ああ、カルラさん。もう出発ですか」
「私はね。抜糸まで付き合ってやれなくて、すまない。糸は、自分で抜こうとするなよ。次の大きな町で、歯を扱える医者を探すといい。抜糸だけなら銀貨三枚程度が、相場だと思う」
 五枚の銀貨を握らせ、何か言い掛けた少年に背を向けた。
 付き合いのあった連中と短い別れの言葉を交わし、カルラは街道に出た。荷物を背負い直していると、木立の間から何人かが、こちらに手を振っていた。
 あまり、人と深い付き合いをしたことがない。そして年月以上に深い付き合いをしたあの隊商と、パリシ到着という刻限をつけて別れるのが、怖かったのかもしれない。この歳で、この冷たそうだと言われる外見で、泣き出してしまうような気がした。それを恥じ、自分は逃げ出したんだなと思う。やや自嘲気味に、カルラは自身の心境を分析した。
 三日は、あっという間に過ぎた。大半は、パリシ行きの川船の汚い個室から、外を眺めて過ごした。
「カルラ、そろそろノルマランだぞ」
 つまり、このまま船に乗っていけば、パリシに着く。まだあの隊商に未練があったのかと内心笑いながら、カルラは船長に促されるまま、荷物を確認した。甲板に出る。
 ノルマランは町の南端に市壁がなく、マロン川がその役割を担っているようだった。北岸が町、南は手入れされていない雑木林に廃墟のようなものが点々としており、ずっと以前は川が中央に流れる、一つの町だったと推測できる。
 街道から続く城門は、既に通り過ぎている。北岸の倉庫街を眺めている内に、川船は波止場のひとつに停まった。
「もう、町に入っていいのかい? 足一本税は?」
 町に入る際、ユーロ地方では足一本につき銀貨一枚の通行税がかかる。カルラが銀貨二枚を手で弄んでいると、船長はこちらにやってくる徴税人らしき者を顎で指した。
「あいつだ。詳しく聞かなかったが、医者ってことは、霹靂団のとこに行くのか?」
「ここらじゃ、有名な話みたいだね。ご名答。良い旅をありがとう、船長」
 渡し板を渡る前に徴税人が近づいてきたので、銀貨二枚を放り投げた。重たい背負い袋を担ぎ直して波止場を出ると、通りの角の酒場の女給が、昼飯の準備だろう、店の外に席を並べ、薪ストーブに火を着けているところだった。
「ちょっと、あんた。訪ねたい場所がある」
 若さの割に恰幅のある娘が、かがんだままこちらを振り返った。
「どこに行きたい? もうすぐ店を開けるから、その前にゆっくりしてく?」
「いや、少し急いでいる。霹靂団という傭兵団が、この町にいると聞いて来たんだが」
「アナスタシアのとこ? ああ、途中で下ろしてもらえば良かったわね。足一本税、納めなくて済んだのに」
「どういう意味だい?」
「ここから川沿いに真っすぐ、南東の門を出た郊外に、兵舎がある。ここに来る時、見なかった?」
「ちょうど、荷物をまとめていたところだったんだろう。ありがとう。この店にも、いずれ飲みに来るよ」
「あなたも、常連になるかもね。私はジジ。今後ともご贔屓に」
 蜜蜂亭、そう描かれた看板を後に、カルラはまだ荷揚げが本格化していない川沿いを歩いた。上流から荷を積んだ船が下ってきており、一時間とせず、この倉庫街は人でごった返しているだろう。
 南東の門とやらを出るとなるほど、調練場と思しき整備された原野で、兵たちが調練をしていた。全体の演習がちょうど終わったところのようで、兵舎に戻る者、原野に残る者、車座になって座り、将校らしき者の話を聞いている一団などがいた。
 それらを遠目に眺めながら、川岸の街道を歩いた。兵舎と周辺施設よりさらに東には、酒保だろう、いくつかの屋台と、天幕が見えた。洗濯女たちが、土手で仕事に励んでいる。カルラもあの天幕の一つで、傭兵団の相手をすることになるのだろうか。周辺で商売する女たちの表情は、明るい。悪い環境ではないと感じた。
 酒保の屋台に向かおうとしている一人に、カルラは声を掛けた。
「霹靂団で、医者を探していると聞いてきた。まだ、空きはあるかな」
「あ、お医者様ですか。ちょっと、待っていて下さい」
 その兵は来た道を引き返し、一人の娘を連れてきた。若い。十五歳になったかというところだ。
「副団長、この人です」
「お医者さん! 待ってましたよぉ。あ、私、霹靂団副団長の、アニータっていいます」
「カルラだ。随分と若い副団長さんだね」
「まあ、色々事情がありまして。団長はちゃんとした大人ですし、もう一人の副団長は、おじいさんです」
「団長は当代大陸五強、”陥陣覇王”アナスタシアだったね。ここに来る途中で、聞いた」
「ですです。じゃあ、行きましょう」
 アニータに手を引っ張られ、二人は兵舎に向かった。事務所らしき建物は通り過ぎたが、団長はそこにいないということらしい。
 兵舎の玄関ホールを抜けるとすぐに、食堂だった。こちらもちょうど、開いたばかりらしい。腹が鳴るくらい、美味そうな匂いが漂っている。何人かが盆を手に配給を受けている様子だ。こちらも、外の兵の様子を見るに、十分後には混み合っていそうな気配である。
 大きな食堂の、隅の席に案内される。銀髪を後ろにまとめた娘が、どこかぼんやりとした佇まいで食事をしていた。
「団長、お医者さんを連れてきました」
「お前の手柄みたいな言い方だな。まあいい。団長の、アナスタシアだ。他の町で、募集を見て来てくれたのかな」
 茫洋とした雰囲気は、その眠たそうな目と、あまり抑揚のない話し方によるものだろう。差し出された手は、握ってみると見た目以上にしっかりとしている。指はほっそりとしていて、手の平も剣を生業にしているにしては柔らかいが、筋肉の質が常人のそれではないと、すぐにわかった。女としては平均的な身長に見えるが、ゆえに傭兵としては小柄である。アニータも、同様か。
「カルラだ。流しの医者でね。仕事があると聞いて、寄ってみた」
「できれば、長い滞在になってくれればと思う。昼がまだなら、ここで食べて行ってくれ。面接をさせてもらうが、食事しながらでも構わないか?」
 青緑色の瞳を持つ、童顔の娘である。が、掴み所のなさと裏腹に、えもいわれぬ貫禄を醸し出してもいた。人物だな、とカルラはすぐに思った。ある道の達人や、人の頂点に立つ者独特の空気感が、この娘には備わっている。そういう人間は、多く見て来た。さすがに、大陸五強の英雄といったところか。
「私は、それで構わないよ」
「アニータ、案内してやってくれ」
 副団長の後について、配膳を受ける。パンもおかずになるものも、種類は豊富で、量に制限がないのか、皿に山盛りにしている兵もいた。
 質はそこそこ、栄養価は高めといったところだろう。カルラが頼んだブラウンシチューには、ごろりとした肉と一緒に、煮込んだ野菜も多く入っていた。やや脂っぽい感じもあるが、身体を動かす傭兵には、このくらいの栄養が必要だとも言えた。アニータに促されるままパンとシチューにしたが、献立をよく見ると、もう少しさっぱりしたものもありそうだった。
 アニータと並び、アナスタシアと向かい合う。この頃にはもう、食堂の半分近くが埋まっていた。
「医者としての経験は、どのくらいある?」
 アナスタシアは、あまり前置きをしない類の人間のようだ。それは、カルラも望むところだった。
「物心、つく前から。父が流しの医者で、父が死んだ後も、私はそれを続けている。世界中の医療を学び、一冊の本にするのが父の夢だった。私に夢らしいものはないが、学ぶことは好きで、多くして来た」
「どこの、どんな医術を得意としている?」
「ユーロ地方はゴルゴナ含めて、ほぼ全域。外科、内科、歯の治療まで、一通りこなせる。それとここ七、八年ばかり、東の医術を学んだ。ユーロに戻ってくるのは、十年振りになる。チャオソンの医術、と言って通じるかい?」
「チャオソン? ああ、ターハンのことだな。鍼とか、漢方とかいう薬があるんだよな。私はスラヴァルの出身で、たまにブルガン平原を越えて東洋の医師たちがやってきていたのを、何度か見ている。少しだけ、話も聞いたな」
「話が早そうで、助かる。どんな医術かも、知っているかい?」
「詳しくは。医食同源だったか? 食べる物でゆっくりと病を癒したり、事前に病を防ぐとか、そんな話だったかな。ユーロでも田舎に行くとそういった民間療法はあるが、ターハンのそれは広く共有される、学問のようなものだとか。なってから治すというこちらの医術とは、発想が異なるとも」
「よく知っている。一応、そちらの医術も修めている。基本は、こちらの医術になると思うが、東の医術も取り入れる。どんな器具と薬が手に入るかによって、施術の内容は変わると思ってくれ。自前のものもあるが、薬の手持ちは正直、切らす寸前だ」
「アニータ、名簿を持って来てくれ。カルラは、合格だ」
「やったー! すぐに取ってきます!」
 食べかけの皿を残して、アニータは食堂を出ていった。
「いいのかい? まだ私の腕も見ていないのに」
「未熟と感じれば、他の医師に指導を受けてもらう。ただお前は大丈夫どころか、施療院の院長を任せても良さそうだ」
 そう言って、アナスタシアは少しだけ口角を上げた。表情に乏しいだけで、本当は笑いかけたのかもしれない。
 息を切らせて戻って来たアニータの書類に、必要事項を書き込んでいく。こちらが拍子抜けするくらい、あっさりと話が進んだ。もう少しお互い様子見があると踏んでいたが、どういうわけかこのぼんやりとした娘とは、最初から馬が合いそうな気がした。
 用心深さは旅暮らしの特性であり、たやすく他人を懐に入れないカルラであったが、代わりにこのとぼけた娘の懐に、すっと引き込まれた感じだ。信用できる。それをすぐにわからされた。
「カルラ、心の病も治せるか?」
「ゴルゴナに行ったことがあるね、団長。気が変になるとかではなく、その言い回しができる人間は、そう多くない」
「何度か、行っている。それと、性病は?」
「両方とも、ある程度は。深刻な症状になる前だったら、対処や予防はできると思う。傭兵団と聞いて、ここでは酒保の一画に天幕でも張って仕事するのかと思ってたが、施療院があるとか言ってたね。どれくらいの設備が整っているんだい?」
 署名を終え、アナスタシアに書類を渡す。パイプを咥えながら、アナスタシアもそれに署名した。
「ゴルゴナには、遠く及ばないよ。ただ珍しいものでは、ドワーフの注射器がある。麻酔も、必要に応じてパリシから取り寄せられると思う。両方を使うような手術は、器材の原価だけでゴルゴナ金貨五枚以上するからな、使い所は考えてくれると助かるが」
「なるほど、野戦病院って感じでもなさそうだね。傭兵相手の商売をしたことはあるし、戦場に同行したこともある。私も、そうなりそうかい?」
「傭兵団だからな。必要に応じて。無理にとは言わないが」
「いや、その時には随行させてもらう。いや待て、私としたことが、金について聞いてなかったな。迂闊だった」
「食べ終わったか? その話は、施療院に向かいながら話そう。アニータ、私たちの食器を片付けてくれるか」
「副団長は、小間使いじゃないんですけどねえ」
 不満を零しながら皿を重ねるアニータを残し、二人で外に出た。それにしても、とカルラは思う。金の話をする前に署名をしてしまったのは、痛恨である。
「医者として、週にアッシェン金貨八枚。市民税と教会税を引いた後の金額だ。院長を務めてもらえば、加えて二枚。こんなところでどうだ?」
「医術ってのは、金がかかる。どれだけの施術をするかにもよるね」
「それは、流しの医者としての計算だろう? もちろん、費用は全てこちらで持つ。器具や薬の調達も、出来る限り希望に添うものにしよう。戦の随行時には、臨時の給金も出す予定だ」
「へ、へえ。それはまた、羽振りがいい。それなら、そう悪い話じゃない」
 兵舎の裏、やや北に位置する建物が、施療院のようだ。途中、いくつも並んだ厠を見させてもらう。滞陣中の軍がよくやる、溝の上に便座と敷居を立てる方式が基本の、長屋のようだ。廊下にいくつか手を洗う桶と石鹸が置いてあり、衛生観念は悪くない。
「旗揚げ間もないって噂も聞いたが、金があるのかい? 兵には、いくら払ってる?」
「全体の調練に出た者には、日に銀貨十枚。土日は、休みだ」
「そっちは、小遣い程度か。この辺の日雇い仕事の日給の、半分程度ってとこかね」
「住居と食事、風呂などを無償にしている。生活用の備品も、女には生理用品もあるぞ。それと、武具の支給。加えて施療院で施術を受けるのも、無料だ」
「なるほど、銀貨十枚は丸々兵の懐に入るわけだ。だとすりゃ、それも悪い話じゃない。やっぱり、金があるのかい?」
「そうでもないさ。だがゲクラン伯と、レザーニュ伯夫人から、出資を受けている。株式の法人格を持っているんだ。私の株は、スキーレ銀行の融資を受けて、保有している。この辺りの話は、わかるか?」
「いや、あんまり。まあ、そこそこの運営資金があるってことは、わかった」
「そう、あくまでそこそこだ。だが金を掛けるべきところには、きちんと掛けたいと思っている。ほら、あれが施療院だ」
 あまり大きくはないが、真新しい二階建ての建物である。入院患者も扱える、とカルラは思った。
「あの奥の、建物は?」
 それよりも気になったのが、その背後にある大きな建物だった。巨大な煙突から、白い煙が出ている。
「浴場だな。このくらいの時間から、夜遅くまでやっている。好きに使ってくれ」
「でかいね。まあ傭兵団のものなら、こんなものか。週に、何度使える?」
「日に、何度でも。まああまり湯を使い過ぎると、水がなくなってしまうがな。酒保の者たちも使っている。湯は節約してくれるとありがたい」
「水源は、マロン川?」
「いや、あの森の奥に、大きな泉があってな。そこから流れる小川で賄っているが、兵が予定している二千人に達する頃には、ノルマランでも上水道に使っている、北の川の水を使わせてもらおうと考えている。あの森の水は、清流だからな。本当は、飲み水や調理にだけ使うのがいいと思う。いずれは、その形になるし、ノルマランの城代には、話だけは通してある。その工事も進めているが、兵の要望としては、シャワーが欲しいらしくてな。今も地下に四つ、男女で二つずつあるが、暗いだの水量が少ないだのと、そもそも数が少ないだのと、とにかく評判が悪い」
 そこで、アナスタシアは、ちょっと目を見開いてこちらを振り返った。
「不思議だなあ、カルラは。出会って三十分も経っていないのに、こんな話までしている。聞き上手なのか?」
「私も、不思議だね。金の話をする前に、契約書に署名してしまった。一瞬、巧妙な詐欺師かと思ったよ。ただ聞く限り、しばらくここで働くのも悪くなさそうだ」
 カルラが笑うと、アナスタシアも微笑を返してきた。
「それで、シャワーはどうするんだい?」
「森を少し拓いて、貯水塔を作る案が、工兵長のグラナテから出ている。あの煙突より、高いものになるそうだ。シャワー室を、地下に作らずに済むようになる」
「工学には、疎くてね。どういう仕組みなんだい?」
「今は水圧が低いんで、水が落ちる力を利用して、地下にシャワー室を作らざるをえないんだよ。貴族の家のように、シャワー一つ浴びるのに、何人もの小間使いを使うわけにもいかないんでな。貯水槽を地上より高い所に作ると、水が管の中を落ちる力が、結構な水圧になるらしい。まあ私も聞いた話で、原理はよく理解していない。その貯水塔に水を組み上げるのはどうするんだろう、などと思ってしまう。サイフォン効果とか言っていたかな。今の様に小川の水位だけで地上にシャワーを作る技術もあるそうだが、小川の位置をずらすような、大規模な工事になりそうで、だったらその資金で貯水塔を作り、北の川から水を引っ張ってくる方が良いと思っている。シャワーうんぬんより、まずは水そのものが枯渇しないようにしなくてはならないしな。方々に井戸があるのが見えるが、あれはもう、それぞれ使い道が決まっている」
「ふうん。北の川とやらの、水質は?」
「近辺や上流で雨が降っていない時は、よく澄んでいる。まあ目に見えない濁りはあるだろうから、飲料としては一度煮沸する必要がある。軽く濁りがある時でも、風呂で使う分にはさほど問題ないとは聞いた。ただそういう時のみ、泉の水を使えばいいとも考えている。二つの川の、併用だな」
「すぐ傍に、マロン川がある。あれは?」
「雨が降ると、その名の通り、泥の様に茶色く濁る。上流に赤土の一帯と、いくつかの鉱山があるんだ。澄んでいる時でも飲み水に適さないし、浴場の管がつまる危険もあるらしい。捕れる魚も、内臓は食わない方がいいと聞いたな。なかなか美味いのだが。あくまで水運の川で、こちらの使い道としては、衣服の洗濯がせいぜいといったところかな」
 施療院の、中に入る。アナスタシアを見て、待合室にいる何人かが敬礼をした。着座のままだが、あまりそういった部分の堅苦しさはないのだろう。アナスタシアも、軽く目礼を返すのみである。ちょうど一人の患者が、診察室から出てくるところだった。
「急患はいるか? いなければ、十分程、時間がほしいのだが」
 アナスタシアが言うと、受け付けの小窓から、柔和な感じの娘が、顔を出す。
「大丈夫ですよ。団長、その方が急患・・・ではなさそうですね」
 大きな背負い袋を担いでいるカルラを認め、娘は言った。
「医者だ。院長を任せたいと考えている」
 本当に、カルラにここの院長を任せるつもりでいるらしい。冗談なのか本気なのか、アナスタシアの表情は乏しく、それがわかりづらい。もっともこれまで、冗談らしい物言いはなかったとも言える。
「ほほう」
 診察室に入って、思わずカルラは声を上げた。清潔で、器具も、ぱっと見ただけでそれなりの物が揃っていた。荷物を下ろし、薬棚の瓶に目をやる。しばしそれらを確認した後、カルラは室内の三人の視線に気がついた。先程の娘と、今の院長だろうか、初老の男が椅子に座っていた。アナスタシアに、紹介される。
「カルラという。腕が悪くなければ、院長として迎えたいと思っている」
「っと、その話、やっぱり本当かい? ああ、カルラだ。とりあえず、よろしく頼む。私含めた三人で、この施療院を回すのかい?」
「二人です。大変ですぞ。いやあ、これで私も解放される」
 老境に差し掛かった、恰幅のいい男が、禿げ上がった額に手をやる。
「え、私と入れ替わりで、あんたはここを辞めるのかい?」
「本来は、ノルマランの医師組合の、組合長なのです。自分の診療所もあります。今は息子一人に任せていますが。アナスタシア殿たっての願いで、院長候補が見つかるまでと、仕方なく。怪我人病人を、放っておくわけにもいきませんからな」
「それとカルラ、お前に提示したのと同額を、この男に支払ってきたからな」
「ハハハ、アナスタシア殿、そういう野暮なことは表立って口にすることではありませんぞ」
 白い口髭と太鼓腹を揺らしながら、組合長は笑った。
「ああ、院長を引き受けるかどうかは別として、ここで働くとしたら城外でも、ノルマランの組合の許可は必要なのかい?」
「一応。ただ、アナスタシア殿の推薦です。私が了解したということで、正式な書類を書く前に、早速仕事を始められても構いません。これからどうぞ、ここをよろしく頼みますぞ」
「今まで、助かった。今日一日分の給与をつけて、後で支払いを済ませておく」
「なに、また人手が足りなくなったら、声を掛けて下さい。ここは忙しいから、私はもちろん、ノルマランの医者の応援が必要な時もあるでしょう。息子をここに、修行に出してもいいな。それでは、私はこれで。食堂で昼食を頂いてから、町に戻るとします」
 実にあっさりと、ここの院長代理だった男は、去っていった。待合室の方から、兵たちが礼を言っているのが聞こえてくる。良い医者だったのだろう。
「で、あんたは?」
 一人残った、白衣の娘に聞く。二十代半ばくらいか、胸につけたひまわりの飾り物から連想されるような、金髪というより黄色い髪をお下げにした娘である。
「イーヴっていいます。その、傭兵としてここに入ったのですが、多少医術の心得があったんで、ここに配属されまして」
 困り顔もどこか、人の気持ちを和らげる要素がある。芯の強さや頑固そうな何かが見え隠れするが、元の性格か、傭兵だったからかはわからない。商家か小貴族の娘の様に穏やかな佇まいながらも口調が少し砕けているのは、それこそ傭兵だったからだろう。
「新参の私より、あんたが院長をやった方がいいんじゃないか。そもそも、顔が利く。私よりも、患者を怖がらせることもないだろう」
「いえ、その、私、そういうの苦手で。嫌なんじゃなくて、迷ってしまうんです」
 アナスタシアを振り返り、その真意を問う。
「傭兵としてだが、自分で考えて動くよりも、命令があって初めて活きる兵だったと聞いている。肝は太いが、それと決断する能力は、別の力の有り様でもある。院長としてよりもその補助として動けば、腕は良いと、組合長も言っていた。旅から帰ってきたお前よりも、この辺りで手に入る薬については詳しいと思う」
「なるほど。イーヴ、この薬棚は、お前も管理を?」
「組合長に言われたものを、私が集めました。地元という意味では、入手先は組合長の方が当然詳しいですよ。ただ、分類は主に私が」
「そうかい。医師としての全体的な能力はこれからわかるだろうが、薬師としては一流だと思う。二、三、私も知らないものがあるな」
 もう既に、カルラがここの院長として働くことが、既定路線になりつつある。つい先程、ここに来たばかりなんだぞ。内心毒づきながら、気持ちの整理をつける為に、別の質問をする。
「私とあんた、二人だけで働くのかい?」
「事務の人が二人、入院する患者さんの面倒を見る、元傭兵の方が一人、それと掃除や買い物、裏の薬草園の世話を手伝ってくれる人が、一人います。みんな今は、昼食を摂りに行っちゃってますけど、すぐに戻って来ます」
 しばし、カルラは黙考した。そこでふと、外にいた患者の一人を思い出す。荷物から白衣を取り出し、眼鏡をかけた。椅子に座り、この一瞬だけはと覚悟を決めた。
「順番とは違うかもしれないが、一番奥に座っていた、左腕の腫れ上がっていた男を呼んでくれ。あれの処置は、早い方がいい。イーヴ、カルテを頼む。ここの書式は、後で詳しく聞かせてもらう」
 イーヴが、室内に男を連れてきた。三十代になったかどうかか。左腕、まるでこぶのような腫れ物ができている。この男のカルテはまだなく、今回が初診のようであった。つまり、まだ病のようなものを患ってはいない。見たところ、元来健康そうな青年でもある。ただ、確認は必要だろう。
「これまでに、大きな病を患ったことは?」
「いえ、特に」
 男の、口の中を覗く。破傷風では、ないようだ。聞くと、手足の痺れのようなものもないらしい。
「どうやって、いつから、こんなに腫れ上がった?」
「一昨日からです。五日前の調練中に、何かで切った感じはあったのですが、その時は大した痛みもなく。ちょっと、傷口が膿んでしまったなと思っていたのですが・・・」
「ちょっとじゃないね。熱も、高そうだ。膿を取り出せば、すぐに熱は下がるだろう。ああ、ちょっとそこのお前、上の部屋はどうなってる? 入院患者の部屋なんだろう?」
 患者を連れて奥の処置室に移動すると、イーヴと同じくらいの歳の男が、いかにも関係者然として入ってきたので、カルラは呼び止めた。男の視線は、カルラの胸元に吸い寄せられている。
「あ、はい。今は、誰も」
「こいつの処置を終えたら、丸一日寝かせておく。準備しといてくれ」
「窓は、開けておきますか」
「その辺の知識があって、助かる。いや、こいつの病は、同じ空気を吸って、人にうつるようなもんじゃない。部屋は窓を閉め、すぐに暖かくしておいてくれ。消耗しない程度に、汗は出させた方がいい」
 すぐに、男は扉を出ていった。やはり傭兵出身だからか、命令に対する反応が早い。
「消毒済みのメスと、針と糸です。それと、使い捨ての手袋も。医療用のアルコールは、ここに」
 イーヴも素早く、カルラの糸を察して器具を用意している。手袋は薄いゴム製で、初めて使うが、一対で銀貨二、三枚はしそうな代物である。カルラが東への旅に出る前は、ゴルゴナ以外でこのような薄いゴムの品が、ユーロ北部で普及していなかった。何度か拳を握り、感触を確かめた。違和感はあるが、施術の際の安全性は高い。
「今から、この傷の膿を全て搔き出す。痛いだろうが、覚悟してくれ」
 男を寝かせ、メスで傷口を開いた。寝台の横に、金属製の椀が付けられるようになっている。どろりとした液体を搾り出し、あるいは搔き出した。あっという間に、手袋が真っ赤になった。出血は、思った程多くない。男が歯を食いしばっている間に傷口を縫い、アルコールを含ませたガーゼで、傷口を綺麗にする。
 いつの間にか、背後に見知らぬ男が立っている。中年のその男に盆を渡し、その中に手袋を落とした。
「中身は、全部毒だと思っていい。何かに包んで、できるだけ早く焼却してくれ。終わったら、よく手を洗っておくように」
 この男も元傭兵なのか、挨拶もなく素早くカルラの命令に従った。
 上から戻って来た男に、もう一度声を掛ける。
「熱が引くまで、上の部屋で寝かせておいてくれ。二時間に一度、ガーゼと包帯を替えてほしい。それとイーヴ、この辺りじゃ最近、解熱剤は何を使っている?」
「シロヤナギを粉末加工したものが、あります。これです」
「一回につき・・・このくらいの量でいいかな。すぐにこれを、飲ませてやってくれ。元の状態を見てないから、効きがどの程度か、今の私にはわからない。いや待て、そういえばお前、昼飯は?」
「ま、まだです・・・」
「食堂から、あまり胃にもたれないものを、こいつに用意してくれ。食後に、これを一包。飲ませ終わったら、三時間ごとに私が様子を見に行く。その時の状態によって、今後の用量を決めていく」
 患者に良い方の肩を貸しながら、助手の男が再び扉を出ていく。
「なんだ、やっぱり腕は良さそうじゃないか」
 壁の隅に寄りかかっていたアナスタシアが、目を細めていった。
「まだ、勝手がわからないことが多い。解熱は、私の持ってる麻黄の方が良かったかな。ただこれは、パリシじゃないと補充できないと思う。今ここにあるもので対応させてもらったが、たった今入った部屋だ。扱ったことのない武器を振るって戦った、と言えば、あんたらにも通じるかい?」
「すごいです。私だと、色々迷っちゃいそうでした」
「私の意図を、正確に読み取った。イーヴでも、同じことができたはずだ」
「人を使うのが、どうしても苦手で。助手の方にも、ああいった感じで指示が出せればと思いました。私が、そうされた方が楽でもあったので、あの人たちも仕事がしやすかったろうなって、わかります」
「役割分担かね。学ぶ時は別として、私の責任で施術を行う時は、人を使うのに躊躇したことはない。あ、その意味で、私が適任なのか・・・」
 舌打ちし、次いで唸った。アナスタシアがおかしそうに、こちらを見ている。
「カルラ、どうして医者をしている?」
 ここでどう答えるかで、この先の道が決まってしまう気もする。ただ、ここには望んで来たはずだ。あの酒保に並ぶ天幕で、気楽に傭兵相手の商売ができると思っていた。こんなにしっかりとした施療院をいきなり任されるとは、予想もしていない。
 あの隊商の、長を思い出す。三日前の、ちょうど同じくらいの昼下がり。あんたが引き止めてくれたら、まだ自由な旅の空だったはずだ。今頃、あの虫歯の少年はどうしてる? たった三日前のことが、もう何ヶ月も前のことのようだった。逃げ出したい気持ちと留まりたい想いの天秤は、まだかろうじて均衡を保っている。
 上水道らしきものの蛇口を捻ると、ありがたいことにぬるま湯が出てきた。奥にある浴場と、管が繋がっているのだろうか。石鹸で、手をよく洗った。
「・・・金の為さ。人が働く理由なんて、他にあるかい?」
「これは、聞き方が悪かったな。医者としてのお前は、何故人を癒す?」
「患者の自立と尊厳を守る為。他にあるかい?」
「そんな言葉をさらりと言ってのけるお前は、希有な存在だと思う。やはり、お前が適任じゃないか。他にいるか?」
 眉間を押さえ、カルラは溜息をついた。顔を上げるとここで働く面々が、期待を込めてカルラを見つめていた。目が、輝いてしまっている。
「いなさそうだね。まあ内心、私より優れた医者なんて、そうそういるもんじゃないと思ってた。それに最近、歳を感じてきてね。旅暮らしはやめて、しばらく羽を休めてもいいとも。ま、ここじゃ碌に休めそうもないが」
「医者は、増やす予定だ。お前が良ければ、弟子を取ってもいい」
「あの組合長の許可は、取れそうではあるな。希望者がいれば、そうしよう。とにかく、わかったよ。みんな、よろしく頼む。たった今ここの院長を務めることになった、カルラだ」
 事務の二人とやらも、いつの間にか室内にいた。ここにいる誰もが、初対面のカルラを歓迎している様子である。
「ここでの暮らしについては、周りの者に聞いてくれ。それと事務所の建物に、各部署の責任者は個室を持てる。その手続きもあるので、仕事が終わったら、そちらに顔を出してくれ」
 アナスタシアはそのまま、診察室を出ていった。部屋の者たちは皆、カルラの指示を待っている。
「イーヴ、次の患者を」
 眼鏡の位置を直し、カルラは言った。
 イーヴが、たまらない笑顔で頷いた。

 

 

 

 

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