前のページへ  もどる  次のページへ

 

2,「生きることに、必死だった。ただもう、生きることに疲れた」


 青空教室などと呼ばれているようだが、生憎の曇天だった。
 徴用兵に支給する武具について指南する、アナスタシアの講義である。今日が三度目で、レザーニュ側のいつもの面々がやってくるまで、そろそろというところだった。既に準備はできており、アナスタシアはアリアンと剣の稽古をしていた。
「で、”弾丸斬り”には、将としての素質もあるということか」
 アリアンの突きは文字通り人間離れしており、連撃となると全て捌くよりも、距離を取った方がいい。
「視点、だよな。視野はどちらかというと狭く、思い込みの激しい面もあると思う。が、見ているものが的を得ているとすれば、むしろ無駄な情報を省いているとも言える。それは指揮官として大切な資質の一つと、私は思うぞ」
 左右から大きく薙ぎ払うアナスタシアの一連の動きを、アリアンはなんとかいなしている。が、そろそろ体力の限界だろう。
「俺も、いつか、そのジルと・・・ま、参った」
 荒い息を吐いて、アリアンは木剣を下ろした。
「こ、これは、かなり、きついな。その、話しながら、と、いうのは・・・」
 そこまで言って、エルフは片膝を着いた。アナスタシアは、隠しから懐中時計を取り出す。
「十分弱といったところか。初めてでこれは、やはり図抜けているな。さすが、霹靂団の騎馬隊を任せるに充分、といったところだな」
 雑談や世間話をしながらの立ち合いは、霹靂団独自の訓練法である。話しながらの稽古、特に一対一のそれは、集中を保つのが難しいし、何より体力の消耗が激しい。息をつく機が、計りづらいのだ。
 黙々と、雑音のない中で剣を振る。それは技術を養うのに欠かせない訓練だが、実際の戦場は怒号と命令が同時に飛び交い、かつ視界の悪い中で全体の大まかな動きを把握し、自分の兵のことまで気を配らなくてはいけない。
 要は全くもって得物を振るうことに、そして指揮を執ることに集中できない状態で戦うことが、常なのである。その中での一瞬の集中と脱力の切り替えは、特に集団戦において重要な要素だった。
「まあ、慣れもあるよな。だがやはり、十分足らずで二本も取られた。剣技に関してはあらためて、問題なしと判断できる」
「ア、アニータが、三十分近く、粘ったと聞いたが・・・」
「あいつはちょっと、特殊なところがあるからな。休み方が、上手い。まず観察眼があるか。こちらが呼吸を整えるのに合わせて必ず一息入れるし、気づかぬ内にちゃっかり休んでいたりするからな。まあ、普段の仕事ぶりそのままの戦い方をする。ただあいつは、こちらが取らせてやろうという時以外に、私から一本取ったことはない。年齢もある。武人としての技術的には、まだまだこれからだ。
 膝を着いたままのアリアンが、小さく頷く。元々無口であり、この訓練にかかる負荷は他の者より大きいかもしれないが、戦に関しては饒舌な一面もある。なので今回はその話題に振ることで話しやすくはあったろうが、必要以上に喋らせもした。駆け引きの一つとも言える。
「あー、それやってるんですねえ。初めてじゃキツいでしょう、特に話下手なアリアンさんは」
「お前に、コツを、教わりたいところだ。しかしこれは、いい鍛錬になる」
 アリアンはまだ、呼吸を整えられていない。顔に出づらい為にわからなかったが、体力の限界はとっくに超えていたようだ。
「コツ、というか、私がやられてるんですけど、団長、時々笑わせてくるんですよ。あれは卑怯だけど、いい戦法だなって。笑うと、呼吸乱されまくりますからねえ」
「お前が、私を勝手に笑っているだけだ」
 木剣で脇腹を軽く小突くと、アニータはもんどりうって倒れ込み、そのままごろごろと転がって、素早く立ち上がった。周りの兵も、思わず何かと振り返る。
「あと、こういう動きも有効かも。えって思わせると、団長でも警戒して打ってきませんからねえ。相手に合わせない、自分からする動きって、そんなに疲れないですし、この間に一息つけますよね」
「な、なるほど、勉強になるな」
「こいつはちょっと特殊だって、わかるよな。ある意味実戦向きかもしれないと、初めてこの訓練をやらせた時に思ったよ」
 アニータの髪についた枯れ草を取ってやっていると、フローレンス一行が、調練場にやってくるのが見えた。
「アナスタシア様、週末はレグル修道院での交渉、お疲れ様でした。レヌブランとの同盟は、どうなりました?」
 穏やかな笑みを浮かべ、フローレンスが訊いてきた。最近は鍛えているのか、身体に一本芯が入ったような力強さが出てきたが、同時に華奢でありつつも嫋やかな曲線を失っていない。ちょっと羨ましい体型になってきたなと、アナスタシアは思った。
「私がいたのは初日だけでしたから、最終的にどうなったかまでは。民間の私ですから、その後、国の機密に関わるものがあった場合、それを知ることはできないでしょうし。三、四年の同盟で落ち着くとは思いますよ。ゲクラン殿がこの間にどれだけ西進を成せるかが、アッシェンそのものの今後を左右しそうです」
「長短の良し悪しの判断がつきかねますが、どう見られております?」
「三年がちょうどいい、くらいですかね。それ以上だとゲクラン殿の西進を阻むくらいにレヌブランは勢力を拡大しますし、それ以下だと同盟が互いにとってどれだけ活きるかという問題になる。当初レヌブランは恒久的、譲って十年と言ってきましたが、ゲクラン殿は同盟自体に反対とうそぶき、そこから綱引きになりました。まあレヌブランが三年で納得するなら、何らかの通商条約をアッシェンに飲ませた可能性もあります。それは表に出るまでは、我々の知りようのないことです」
 得心がいったのか、フローレンスは何度か頷いた。本来こうしたことの手腕は、フローレンスこそ適任だとも思う。例の書き付けを取り出し、彼女は早速何か書き込んでいた。バルバラ、ジョフロワ、ニノン、クロードといったいつもの面々も集まってくる。
「では、挨拶抜きで早速始めましょうか。今日は、盾を用意しました。徴用兵から騎兵まで、幅広く使われるものの、形も用途も様々です」
 今回は人型に鎧を着せるようなことはせず、ボリスラーフに相手をしてもらう。
「まずこれが、一般的な歩兵の盾ですね。この丸い形でラウンドシールドと呼ばれますが、密集隊形をやらせるなら、四角いものも良いでしょう。見ての通り、板を繋ぎ合わせたものに、革を張っています。拳を守る為の、この椀状の護拳と、板を繋ぐ為の縁、これらのみ金属が使われています」
 裏表をフローレンスたちに見せ、アナスタシアは盾を構えた。
「基本の構えは、こんな感じで、相手に対し斜めに構えることで、敵の打撃をいなすことができます。飛び道具や、敵の武器を奪いたい時は正対して構えますが、この使い方に対しては、後ほど。ボリスラーフ、打ってきてくれ」
 槍を構えた老将が、突きと薙ぎ払いを素早く、かつ見ている者たちが視認できる速度で繰り出してくる。盾の革張りが裂け、木片が飛び散る。十撃ほどを受けたところで、ボリスラーフは下がった。
「耐久力は、こんなところでしょうか。板の、三分の一ほどが破壊されましたか。何十回と敵の攻撃を受けられるものではありません。消耗品です。護拳と縁はへこんだり曲がったり程度なので、何度か再利用は可能でしょう」
「木材の質を高め、より頑丈な盾を作れば、結果的に持ち手を守り、かつ出費も抑えられそうな気がします。いかがでしょうかっ」
 前回同様、やたらと元気に質問するのが、フローレンス副官のニノンである。
「材にもよるが、あまり頑丈なのも、使い手の負傷に繋がる場合があるんだ。この板が壊れることで、衝撃が分散され、持ち手を守っているというのかな。頑丈すぎると衝撃が突き抜けて、持ち手を負傷させることがある。一撃で、前腕や手首を骨折することもあるだろう。材により壊れにくく衝撃も逃がすものはあるかもしれないが、所詮木材である以上、金属の打撃に対する耐久力に、大きな差はないだろう。金を掛けた分だけの見返りがあるかは、疑問だな。盾の質の良し悪しは、指揮官級の武術の使い手にしか影響しない。その分の出費は、他の装備や盾の枚数に回した方がいい気がする」
「な、なるほどっ」
「剣闘士や冒険者が金属の盾を使うこともあるが、あれはこうして身体に密着させ、衝撃を、鍛え抜かれた肉体で分散させてるんだ。鋭い刃物や魔物の爪が肉を斬り裂かなければいいという構えで、衝撃そのものは、肉体の強靭さと柔軟さで受けると。そもそも金属で作られた盾など、長ければ半日近く構えなくてはならない戦では、重過ぎて使い物にならない。短時間の戦いか、典礼用か、伊達か。ともかく徴用兵が長時間扱う類のものではないよ。まあ、硬く鋭い金属を木材程度で受けるのは、やや不安であるのもわかるが、ただ・・・」
 新しい盾に持ち替え、再びボリスラーフを招く。同じような突きと薙ぎの連撃を受け、いなし続けた。
 盾の表を、兵たちにも見えるようにかざす。革張りに裂け目こそあるが、板には引っ掻いたような傷痕しか残っていない。フローレンスが、目を丸くしている。
「このように、扱いに慣れることで、あまり盾を傷つけずに、長持ちさせることはできますね。加えて、持ち手が受ける衝撃も少ない。これは完全に個人の技量の問題で、徴用兵にそれを求めるのは酷でしょう。何度も戦場に駆り出されたり、武術の才がある人間は別ですが、それはどんな武具にも言えることです。その集団でも体力や技量のない者に合わせて武具を支給しないと、それを扱えない兵が、部隊全体の足を引っ張ります。それと先程の、正面から受ける構えについてですが・・・」
 マロン川を背にする形で立ち、後ろの道に誰もいないことを確認する。振り返ると同時に、ボリスラーフが短弓の弦を引き絞る。
 一矢、二矢と、矢が盾を貫く。矢尻が少し裏側に出る程度の、実にいい力加減だ。
「矢はこのように、正面からまともに受けます。余程の強弓でない限り、盾を貫いて持ち手に刺さることはないでしょう。突き出した矢尻が前腕を傷つける危険はあるので、革のものでもいいので、腕甲のようなものは必要でしょうが。この時に近接戦のように斜めに構えてしまうと、矢がおかしな方向に逸れ、最悪隣りの味方に矢が刺さってしまいます。飛び道具は正面、近接戦は斜めに、これが盾の基本的な扱い方となりますね。それと、これはやや応用編となりますが・・・」
 ボリスラーフは、既に槍を構えている。突進から突き出される槍を真正面から受け、盾を体全体を使って捻り、引き下げる。盾を貫いた槍は、ボリスラーフの手から奪われた格好になった。
「あえて正面から受けて貫かせ、盾を捻り上げることで、敵の武器を奪う方法もあります。武器が刺さったままなのでこちらも盾を失うことになりますが、武器を失った相手よりはマシでしょう。これも高度な技術であるものの、実は戦場では偶発的にも関わらず、頻発する事態でもあります。互いに技量がないと、そして戦という極限状態にいると、槍の持ち手は強く突き過ぎ、受け手は正面で受け過ぎる。ここでも盾は使い物にならなくなるので、歩兵用の盾は多少質が落ちてもいいから枚数を用意した方が良いというのは、そういうわけです。上質な盾を一枚用意するよりも、安価な盾を二枚用意してやった方が、その兵の命を救うことは多かろうと。一人に二枚持たせるのではなく、その隊が本陣に戻った時に、再度支給する形で。それとこれも技術的でありながら、徴用兵が自然とする動きでもありますが・・・」
 剣に持ち替えたボリスラーフに、盾を構えて対峙する。事前の打ち合わせを済ませてあるので、次に何をやるのかは、互いにわかっている。
 剣による一撃をいなしながら懐に潜り込み、盾ごと副官に体当たりする。大きくよろめいたボリスラーフの胸甲に、垂直に構えた盾の縁で、一撃を加えた。少し大袈裟な反応を示しつつ、ボリスラーフはどうと地面に倒れた。おお、と兵たちの間からどよめきが起きる。
「接近戦での盾の応用ですが、これも先程と同じく、教えられてもいないのに兵が本能的に見せる動きでもあります。ちゃんとした叩き込み方はあるのですが、逆に教わっていない兵が調練でこうした動きをしないよう、一度注意しておいてもいいかもしれません。特に縁を使った一撃は意外に強力で、調練中でこれをやる者を放っておくと、怪我人が続出します。フローレンス殿の部下の皆さんは書見をされると思いますが、分厚い本の角で何かを打つと、びっくりするくらい威力があったりしますよね。あれの縁が金属、かつ大型版なので、怪我をさせるに充分な一撃となるのはお分かりでしょう。特に四角い盾は、板金鎧にも簡単に穴を開けられます」
 ボリスラーフの手を握り、立ち上がらせる。
「縁の一撃は、少しキツかったか」
「なんの。それよりこの試技、段々と楽しくなって参りました」
 兵の反応に、高揚感があるのだろう。その気持ちは、わからないでもなかった。
 次に、矢避けの大盾が運ばれてきた。これは武器庫に置いてあったものではなく、グラナテが最近試作したものだ。実用に耐えそうだったら工兵隊で百枚程量産するつもりだが、ぱっと見ただけでもこれは使い勝手が良さそうだと、アナスタシアは感じた。
「矢避けの大盾ですね。形状は一定していないですし、工兵が現場で作成することも多いでしょう」
 霹靂団の大盾は、並べて固定した板の両下端と、斜めに立てかける際の支柱の先に、折りたたみ式の車輪がついている。移動と固定両方に安定感があり、車輪には小さな突起を踏むと動きを止める、車輪固定の仕掛けもあった。
「まだ試作段階ですが、霹靂団ではこの形になりそうです。レザーニュではこれに近く真ん中に射撃用の隙間がある、可動盾の製作に着手されているようですね。あれの板を薄くした、かつ守りに特化し前面全てに板を張った形になりますか。戦場での迅速な運搬を考え、板は長弓の矢に耐えられるぎりぎりの厚さに留めております。駆け出すとさすがに担いだ方が速いですが、ゆっくりと移動する時にはこの車輪を使って押していけば、大盾を構えたままの移動も可能にしてあります。固定し、このように支えを使って斜めに構えると、敵の曲射、特に長弓のそれに対して、ちょうど真正面から受けられる角度となります。一枚当たり、最大で四人が守れる大きさです」
「ああ、これは良さそうですね。私たちも前回、大急ぎで間に合わせの大盾を作らせたのですが。これでも、試作品ですか」
 言ったフローレンスが、兵たちの中からグラナテの姿を探す。ドワーフの娘が、その輪の中から出てきた。
「もう少し、車輪周りをいじりたいと思っとる。ちょっと、繊細に作り過ぎてのう。わし以外でこの形のまま、戦に耐えうる頑丈さを生み出すのは無理だと思う。なので工兵どもにも作れるよう、シンプルかつ頑丈になる形を、考え直さねばならん」
「完成しましたら、その形を私たちの領地でも量産させてもらえないでしょうか。もちろん、謝礼は払わせて頂きます」
「謝礼? 勝手に真似ればいいのではないか。のう、団長?」
「著作権や、商標登録のようなものを言ってるんじゃないか」
「ああ、人間の町でやっとる、あれか。それを制度としておらんだけで、ドワーフにも似たようなものはあるぞ。だから、言わんとすることもわかる。ドワーフのそれは、名誉の問題じゃがの」
 グラナテはドワーフしか住まない地域から、ほぼ直接青流団に入団した。その後はここなので、人間の慣習については、多少疎いところもある。
「これはどうせ戦で使うもんで、その発明で金儲けするようなものじゃない。団長が良ければ、勝手に真似するが良いぞ。そちらでも真似できるよう、一層機構は単純にせねばならんがのう」
 アナスタシアも頷くと、フローレンスが胸に手をやった。
「いいえ、でしたら、せめて木材の提供ができれば。また、こちら側で量産態勢に入れましたら、その、そちらが納得する出来になればですが、戦場で霹靂団の方にも融通させて頂ければ」
「ほう、そこまでしてくれるのか。団長、悪い話じゃないと思うがのう」
「その辺りは、臨機応変にやりましょう。もちろん、申し出はありがたい。しかし大盾は、現地の木を伐採して作ることも多い。その車輪だけ持ち運ぶ形で良いかなと思っていたんだが、グラナテ?」
「移動中の奇襲に備えて、十枚くらいは荷馬車一つで運搬しても良いかと思っとるが。そんなわけで、フローレンス。車輪はこれと思うものが作れたら、見本をそちらにも送る。後は好きにすればよい。あらためて、わしからは謝礼のようなものは求めん。細かいことは団長とやりとりしてくれ。自軍はもちろん、友軍の生存者が大いにこしたことはないからの、そういうつもりで、こちらも製作に当たる」
「まあ、本当にありがとうございます、グラナテ様」
 駆け寄ったフローレンスが、グラナテの身体を抱き締める。
 つい、フローレンスに恋慕を抱いていると思われる憂い顔の騎士、クロードに目が行く。アナスタシアの時と違い、彼はあまり関心のない様子で、二人を眺めていた。なんだろう、人間とドワーフはいかなる形でも結ばれないと思っているのだろうか。同じ女同士でも、アナスタシアとフローレンスの顔が近づく時には、明らかな怨嗟の眼差しを放ってくるのだが。
「話を、続けますか。後はバックラーと呼ばれる金属製の小盾、それと騎兵用のカイトシールドです。徴用兵のものではないので、軽く説明だけ」
 バックラーを構え、今度は長剣を持ったボリスラーフと向き合う。
 突き、続けざまに放たれるそれを受け、踏み込んで来た振り下ろしを、剣の中程を狙って弾き返した。態勢の崩れたボリスラーフの胸に、掌打を叩き込む。
 ふらふらと後ずさったボリスラーフが、剣を杖に、片膝を着く。兵から上がる歓声に、この男は楽しんでいるなと、あらためて思った。
「これが、バックラーの基本的な使い方です。護拳の周りにこのように面積の少ない板金があるだけの簡単な造りで、丸い護拳で相手の攻撃を受ける前提の為、正面から敵の一撃を受けても、自然と衝撃は逃げます。構えているだけで敵の攻撃を防げるような面積はありませんが、この小ささゆえに、とにかく取り回しがいい。敵の射撃を防ぐのが難しいのは、言わずもがなで、近接戦で使うにしても、相応の技量と経験が問われます」
 アナスタシアはバックラーを頭に被った。帽子で言えば、ハットのような形になる。
「乱戦に強く、経験のある傭兵は、支給された盾の他に、これを腰にぶら下げる者もいます。兜代わりに顎紐をつけて、こんな感じで頭に被っている者も、たまにいますね。事前に目立ったあだ名がない限り、大抵そいつのあだ名は”バックラー”となります」
 冗談を言ったつもりはないのだが、兵たちの輪から笑い声が上がった。”バックラー”は実際、霹靂団にも三人程いる。
「カイトシールドは、騎兵用の盾です。凧の形から来た呼び名ですが、ご覧の様に縦に長く、涙型を引っくり返したように、足元へ向けて先端が細くなります。歩兵の攻撃が乗り手の胴に向かってくるとは限らず、長物でなければむしろ歩兵は騎兵の脚を狙うものです。そうした攻撃を防ぐ為のこの長さであり、かつ少しでも取り回しが良くなるよう、先端が細くなっていると」
 これで一応、今回の、盾の説明は終わりである。質疑に移ろうとすると、アニータが湾曲した盾と、投げ槍を持ってこちらにやってくるところだった。しばし姿を見かけないと思ったら、武器庫にそれらを取りに行っていたらしい。
「ああ、アニータが気を利かせて、追加の武具を持ってきてくれたようです。盾の説明ではこれらも必要かな。ありがとう、アニータ」
 人型に盾を立てかけさせ、アナスタシアは投げ槍を手にした。
「先程までは盾を扱う者の視点からの話でしたが、今度は逆に攻め手として。これは、投擲用の槍です。ジャベリンとも呼ばれますか。無論、これ自体も殺傷力がありますが、主な使い方は、こうです」
 槍を、真っすぐに投げる。穂先が、盾を貫いた。
「矢と同じく、穂先に返しがあるのがミソですね。このように・・・簡単には抜けません。敵歩兵の前線にこれを放つことで、敵の盾を奪うのを主な用途とします。このような長物が刺さったままの盾は、持っていることすら困難ですから。先にボリスラーフから盾で槍を奪ったのと、逆の発想で、武器を使って盾を奪う。歩兵が敵とぶつかり合う前に投げても良し、軽騎兵が一度これを放って離脱、後は弓兵に任せることもできる。それと、これらの攻撃に対抗できる盾が、これです」
 アニータから渡される、湾曲した、長方形の盾。正面から見ればただの長方形だが、上から見ると持ち手を包み込むような曲線で板を繋いでいる。
 再び人のいない川を背に盾を構えた瞬間、アニータの槍が盾に命中した。が、盾の曲線に沿って槍は逸れ、アナスタシアの左足の近くに、それは刺さった。
「アニータ、投げる時は先に言えよ。ともかく、この湾曲した盾はご覧の通り、投げ槍はもちろん、矢の類も横に逸らすことができます。取り回しの悪さを差し引いてなお飛び道具に対する利点は多く、かつ接近戦でも守れる面積が多いのですが、いかんせん逸らした飛び道具が横にいる者に当たってしまう危険性もあり、今ではあまり使われてませんね。元々、第三世界帝国の歩兵が使っていたもので、かの国の歩兵は隣の者にぶつかるくらいに密集し、ずらりと隙間なく並べた盾で、敵の射撃を防いだそうで。前列はこの盾の縁の上、後列は盾を頭上にかざし、そのまま前進していく隊形は、無類の強さを誇ったとか。加えて現在のファランクス、前列と後列が槍を突き出す槍衾での突撃も可能としたことから、大ラテン帝国は負け知らずで、第三世界帝国になったという話もありますね」
「アナスタシア様っ。ではどうして、その無敵の隊形は、現在の戦で廃れてしまったのでしょうかっ」
「当時は馬に鐙がなくてな、騎兵がたやすく歩兵の密集隊形を突破できるだけの、打撃力がなかった。後の世になると鐙の発明や鞍の改良により、騎兵は今のように戦局を左右する兵科となった。盾で亀の甲羅の様に守りを固めて移動する隊形は、後の騎兵相手では、柔軟さに欠けたんだな。騎兵が歩兵以上の打撃力を持つようになると、今の歩兵陣形のように、隣の者と少し距離を開け、騎馬の突撃を吸収する隊形の方が主流となった。あまり密集した歩兵に馬がぶつかってくると、中の人間が将棋倒しになる危険もある」
「な、なるほどっ。その隊形は、今の騎兵の戦法には弱いとっ」
「そういうことだな。今ではこうした盾は冒険者か、南のラテン都市同盟で伝統的に受け継いでいる都市がある程度だ。そもそもこの微妙な曲線が、今では消耗品となった盾の量産には向かない。これも、ウチに入った冒険者上がりの者のものだろう。ちょっと傷つけてしまったな。元から傷だらけだったが」
 盾を兵の一人に返し、アナスタシアはフローレンスたちに向き直った。
「盾については以上で、これで一通り、徴用兵に持たせる武具に関しては、説明を終えたと思っています。武具の種類は無数にあり、騎兵に限っても専門的な知識となると、これまでの話よりも長くなります。それらはやはり、徴用兵に支給する武具の範疇を超えてしまう。なのでこうした講義は、今回で幕とする予定です」
 アナスタシアが言うと、レザーニュの面々が拍手し、こちらの兵たちの間では意外にも大きな不満の声が聞こえた。
「なんだ、お前たち、もっと私の話が聞きたいのか」
 一斉に歓呼の声が上がり、青空教室の延長は、決定的となってしまった。
「なら、他の武具もやっていくか。お前たちも、自分の得手としていない武器にも興味があるということか。こちらでその時に応じてやっていってもいいが、フローレンス殿、興味がありますか」
「はい、是非とも。ここにいる面々は、レザーニュに居を構えさせております。呼んで頂ければ、いつでも駆けつけられます。徴用兵に関するものだけでも、大変参考になりました。一同を代表し、あらためて御礼申し上げます」
「なんの、レザーニュ軍が強くなることは、互いに利のあることです。そもそも、フローレンス殿には多額の援助も頂いている。物資の集め方はフローレンス殿こそよくおわかりでしょうが、このような講義以外でも補給線の引き方、兵の移動のさせ方といった細かい話も、ご相談頂ければ」
「ありがとうございます、本当に」
 アナスタシアの手を握ったフローレンスが、それを胸元に引き上げた。顔が近い。短く切り揃えた髪からいい香りがするくらいに、近い。クロードの方を見ると相変わらずの怨嗟の視線で刺してくるので、アナスタシアは顔の前で手を払い、これは違うと伝えた。
 クロードは少し驚いた顔をした後、頬を掻き、その頭を下げた。どうやら今までの殺意に満ちた眼差しは、無意識にやっていたらしい。期せずしてそれを指摘する形になり、クロードは自身を恥じているようだった。まあ悪い男ではないのだろうが、意識せずにそれをやっていたのなら、フローレンスへの恋慕は逆に強すぎるような気がした。
 これで今回の青空教室は解散となるが、この後にレザーニュ一行を食堂でもてなすのも、半ば倣いとなっている。
「私、ここの食事、大好きですっ。レザーニュの兵舎でもこのようなものが出せればと、考えておりますっ」
 並んだニノンが、アナスタシアに話し掛けてくる。上級騎士ジョフロワの娘であり、それなりに高価なものも食べてきたはずだが、気取らない味の方が好きだという者も、確かにいる。ニノンが、まさにそうなのだろう。
「たまに、食べにくるといい。今はレザーニュ城に住んでいるのだろう? 泊まりだったら、蜜蜂亭にも来てほしいな。私の働く店だが、知っているか?」
「お話は、以前から。ぜひ、行かせて頂きますっ。しかしアナスタシア殿、何故酒場でも働かれているのですかっ」
「傭兵をやめた後のことを考えているんだよ。いつ、戦えなくなるかわからないしな。団の経営者として残る道もあるが、誰かに譲った方がいいだろう。そうなったらすぐ、やめるつもりでいる。というより、早くやめたい。その時まで五体満足でいられるのなら、この百年戦争の終わりが、私の引き際となるだろう。その意味では、早くこの戦に終わってほしい」
「そ、そうですねっ。平和な世は、私も求めてやみませんっ」
「だよな。先の長い話かもしれないが、それでも身体が動く内に終わらせたい。ゲクラン殿の西進は間違いなくその一歩となり、礎になるはずだ」
 二、三ヶ月後。あるいは翌年の春までには、ゲクランの西進は始まっていることだろう。戦の準備をしているにも関わらず、霹靂団もレザーニュ軍も、まだどこか長閑である。早く終戦としたい気持ちと裏腹に、こんな時間が長く続けばいいと、時折思う。
 何を考えていようが、しかし時は勝手に流れて行くものだ。残された時間で今いる兵を、そして今も散発的に入団してくる兵を、どれだけ鍛えられるか。
 既にアナスタシアの思いは、まだ見ぬ西の原野に飛んでいた。

 

 少し警戒し過ぎていたかもしれないと、ゴドフリーは咳払いで内心をごまかした。
「二万を、わずかに超える程度。文書には、そう記されているのだな」
 “囀る者”の一人を前に、ゴドフリーは言った。場合によっては十万以上を想定していた、リッシュモンの民の総数である。
 以前から、アッシェン南部軍には流しの忍びも含めて、数名を潜伏させていた。その一人が南部軍の機密文書に触れることができ、今こうして、ゴドフリーに報告へやってきた次第である。
 アングルランド最高の忍び、”囀る者”は頭領のマイラを含め、その幹部も全て本国に戻っている。が、工作までは行えないものの、潜伏と情報収集に長けた者たちを数名、こちらに残していた。
「二十万、ではないのだな。二十万もこの南部にいたら石を投げれば当たる程に多いが、二万では、少なすぎる。兵だけで、五千を維持しているんだぞ」
 流浪のリッシュモンが引き連れるその民、通称リッシュモンの民の中から兵を取っていることを考えると、民の数が少なすぎる。兵そのものの五千を加えても、二万五千。老若男女含め五人に一人が兵に取られる形など、ありえるのだろうか。
「これは前回滞陣時、リッシュモン卿が騎士団領に向かう前の数字ですが、わずか数年で民の数が倍加することもないでしょう。倍をしてもなお少なすぎるとは、私自身も思いますが」
 忍びの男が言う。どこにでもいるような、ちょっと疲れた中年の男といった風体だが、忍びは姿を偽る。本当の顔がどんなものなのか、ゴドフリーには想像もできない。
「南部軍に申告していない数も、それなりにいるとは思います。なので、あくまで参考程度に」
「確かに、数に入っていない連中もいるのだろうな。が、このトゥールで見つかるリッシュモンの民は、大半が女子供、そして老人ばかりだ。働き盛りの男は大抵、手や脚の一部を失っている。なるほど、しかし返す返すも、そんなことがありうるのか」
 ふと、暖炉の傍で爪を切っているバッドに目が行く。副官は少し肩をすくめて、皮肉っぽい笑みを浮かべるだけである。
「ともあれ、情報収集、感謝する。アルフォンスとその副官のフェリシテ、ブルゴーニュ公はブランの私邸に籠っているのだったな。三人の内一人でも、暗殺は可能か」
「暗殺に長けた者は、今の南部にはおりません。それに私邸に引き蘢られると、周囲に紛れての潜入は難しいのです。私にしても三人が私邸に移る直前に、ブラン城で文書に触れるのがやっとでした」
「暗殺は、まず無理だと」
「頭領のマイラ様か、その側近の暗殺に長けた者であればあるいは、といったところです。暗殺は、それをあっさりと成す環境を作り出すのが、最も難しいところなのです」
「無理なのは、わかった。下がってよい。引き続き、情報収集を頼む」
 今は司令室と呼ばれるこのトゥール城の執務室、その天井を見上げ、ゴドフリーは顔を拭った。窓の外は灰色がかった冬の空だが、この部屋は暑過ぎるのか、額には時折、汗の粒が浮かぶ。バッドが、顔も上げずに口を開いた。
「抵抗もないのに、洗い出せる数が妙に少ないと思ってました。広範囲に広がってるのかとも思いましたが、そもそもの数が少ないってんなら、それはそれで合点がいく」
「あるいはその線引きが、こちらとあちらで違うのかもしれないな。例えば、リッシュモンの民の娘が、土地の男と結婚する。その男が兵に取られているとしたら、どうだ」
「まあ、そういう形もありそうですね。けどそれだけで、五千の兵を維持するのは難しい。もっとも前回の激戦で、次の戦には三、四千くらいしか召集できないんじゃないですかね。我々だって、減った兵を補充するのは、楽じゃない。南部の城を解放しまくってる、今のリッシュモンが率いてる兵の中でも、リッシュモン軍と呼ばれる兵の数は二千を切ってると聞きます」
「リッシュモンの存在自体が、ある種独特だ。大勢の民を引き連れてアッシェンを徘徊する、流浪の将。戦にしても変幻過ぎるし、謎の多い女だ。あいつの見た目も、ちょっと奇抜だしな。”鋸歯”だけじゃなく」
 バッドが笑い、爪の先に息を吹きかけた。
「あまり、振り回されんことです。何もリッシュモンとだけ戦ってるわけじゃない。総大将のアルフォンスも負けない程に厄介だと、俺は思ってるんですけどねえ」
「成り上がりか。上手いことやったな、奴は」
 “白い手”の準男爵からの元帥就任は、アッシェンが軍の序列に、率いる自前の兵力、そして爵位が関わることが多いことを考えると、驚くべき大出世だった。羨ましくもある。彼自身の爵位が上がったわけではないが、この南部戦線の武功により、既に家督が潰された地域のいくつかは、あの男に与えられることになるだろう。名実共に、アッシェン軍元帥に相応しい男になるのも時間の問題だ。
 今更悔やんでも仕方がないが、あと一線、ラステレーヌ城近郊の一戦でアッシェン南部軍にとどめを刺すことが出来ていたら、ゴドフリーもこの南部で多くの土地を与えられるはずだった。
「とりあえずこのことは、元帥に報告しておくか」
 ゴドフリーが席を立ち上がりかけると、クリスティーナの方からこの司令室へやって来た。具足姿ではあるが、供も連れずの単身である。
「ちょうど、元帥にご報告申し上げようとしていたところです」
「なにか、わかったの?」
 奇妙な話だが、この部屋の上座に当たる執務机は、ゴドフリーが使っている。クリスティーナの使うそれは窓際の書見台ひとつである。ここで最低限、元帥としての署名が必要な書類を捌くと、彼女はさっさと部屋を出ていってしまう。ここには午前と午後に一度ずつ顔を出して、三十分程の仕事をしていくだけだ。ただ、軍議の時だけは別で、ここで食事をしながら深夜まで話し合ったことも、何度かある。
 自分で考える頭を持たず、母キザイアの操り人形だった娘が、元帥となると突如として何でも自分とその側近だけ、いわば密室で物事を片付けようとした。ところが今は、自身がこなさなければならない仕事を最低限こなすだけで、後は人任せにすることが多い。ただ人事だけは、ゴドフリーを作戦参謀につけたように、ほとんど一人で決める。
 クリスティーナがアングルランド第二の元帥に就任してから、二ヶ月程か。この短期間で、まるで三人の彼女を見ているようだった。若さだろうか。いや元々、ひどく柔軟な人間だったのか。何か一つの失敗で、まるごと自分を変えていくような、思い切りの良さだけでは説明できない何かを感じる。度量や接しやすさ、そして部下として接する時の、仕事のしやすさ。キザイアは戦上手で指示も明確、総大将としての器は今でもこの娘の母の方が上だと感じているが、もっと大きな、人としての器のようなものでは、このクリスティーナにいくらか分があると、ゴドフリーでも認めざるをえなかった。
 もうひとつ、この娘は人の頂点に立つ者として、根本的なものを理解している。権力とはつまり人事であり、文字通り人を動かす力であることを、本質的にわかっていた。変わり続ける彼女だが、その一点だけは外していない。
「リッシュモンの民、実数は不明ですが、書類上は前回の時点で二万、ということです。兵と合わせて、二万五千だと」
「へえ。随分と、少ないのね。兵の割合からすると、逆算して二十万は下らないと思ってたけど。そういうこともあるのね。ご苦労様。その数字を得るのに、苦労したでしょう」
 さして驚いた様子もなく、クリスティーナは窓際の書見台へ向かった。腕甲だけを外し、立てかけた書類に署名をしていく。その姿を見るとなるほど、具足姿であることが多い彼女は、椅子に座らずに仕事ができる書見台での作業を選んだ理由もわかる。
「あまり、驚かれませんね」
「驚いた。けれど二万が二十万でも、やることは変わらないわ。トゥールから、リッシュモンの民には出ていってもらう。少なくともこの南部戦線が続く限りは。彼ら彼女らに恨みは無いけど、ベラックの時のように、二度と戦に介入してほしくない。これは、そういうことでしょう?」
「確かに。要点を絞り切れば、仰る通りだ。バッド、引き続き頼むぞ」
「へいへい」
 再び書見台に目を落とすクリスティーナの小さな背中に、悔しいが、頼もしさを感じずにはいられない。バッドがおどけた様子で、目配せを送ってくる。この男も、彼女に似たような何かを感じたのだろうか。
 こちらも書類を片付けていると、手早く仕事を済ませたクリスティーナが、帰り際に言った。
「これから、ポワティエから運ばれてくる物資の様子を見に、南門の方へ行ってくる。その後はそのまま市内南部の視察、日が暮れる前に軍営の方へ戻る予定よ。緊急の案件があったら、どこかで捕まえて頂戴」
「わかりました。どうぞお気をつけて」
 具足の鳴る音が、徐々に遠ざかっていく。煙草の葉を紙に巻いていたバッドが、顔を上げた。
「人物、になりましたねえ」
「そうだな。与えられた役職は違うが、キザイアよりも仕事がしやすい」
「どうです? いっそ、彼女を狙ってみては。殿の趣味じゃないことは承知していますが」
 成り上がる為の婚姻、平たく言って政略結婚の話である。
「家格が、違い過ぎる。ケンダルという一子爵と、ギルフォード公キザイアの一人娘だ」
「まあ、結局そこになりますかね。この戦に勝ってりゃあ、今頃伯領の一つや二つ、この南部に持てたと思うんですが」
「形勢不利とはいえ、負けたみたいに言うなよ。ここからたやすく戦線を押し戻せるとは思ってないが、援軍なしでも俺は、トゥールを拠点にこの戦線を膠着に持っていくつもりなんだぞ」
「そりゃまあ、そうなんですがね。その形にしたって、失った領土は返ってこない。つくづく、惜しい。なら尚更、結婚で上を狙うしかないと思っているんですがね。家格を飛び越えての結婚っつったら、アレしかないでしょう」
 ゴドフリーの野望は、とにかく家の格を上げることである。バッドもそれを理解していた。これはケンダル家代々の野望であり、ゴドフリー自身もそれに疑問を抱かなかった。
 いや、十代の半ばに一度、それが自身の本当の望みか、立ち止まって考えた。だがこの望みは環境や父からの教育以前に、自分の血筋だという結論に辿り着いた。兄弟の中で一番の野心家はゴドフリーであり、あるいは自身、父以上の野心を持ち合わせているとわかったのだ。
 温和で争いを好まず、上昇志向の欠片もない兄弟、そして野望を口にこそするが、大した覚悟もない父。自身が最もケンダルの名にふさわしいと自覚したゴドフリーは、まだ生きている父から家督を譲り受け、いや奪い取った。
「俺が伯爵か、あるいはギルフォードが侯爵くらいなら、多少の策を弄せたかもしれない。が、今の段階では無理だ。仮に彼女が俺に惚れるようなことがあっても、障害の方が大きい。俺の代では、良くて未亡人の伯を狙いにいくのが、せいぜいだろう。父が、宮廷でそんな女を探してくれている。が、子供のいる未亡人が多くてな。それだと先方の家格に飲み込まれてしまうから、意味がない。俺がもう一人いたら、今頃宮廷のみならずアングルランド中を駆け回っているのだが。歳は、俺の祖母くらいを望みたいものだ。なに、生きている間は大切にする。愛すると誓うし、穏やかな老後を約束しよう。子は出来ずとも、俺の兄弟に子が出来るなら、その子に死後の俺の領地を継がせればいい。俺自身も伯領を継いだ後は、生きている限り次を狙い続けるがな。伯領すら、踏み台にするつもりだ」
「結婚に、恋愛を持ち込まない。あくまで、自身と一族の勢力拡大と。本当に、徹底していますねえ」
「それが、貴族の結婚というものだ。お前のところは・・・いや、すまない」
 バッドは騎士であり、庶民程自由は利かないものの、恋愛が発展しての婚姻だったと、以前に一度聞いている。ただその妻も、今は心を病んでいる。薬では、治せない水準でだ。この男が賊徒になった時におかしくなったと、バッドは言っていた。
 バッドの家は、騎士である彼の父がアッシェンに捕縛された時に、転落した。彼の父は金遣いが荒く、借金も多く抱えていた。そんな時に戦に駆り出され、捕縛されたのだ。
 当時の南部戦線の状況は書類でしか見ていないが、アングルランドの総大将を宰相ライナス、アッシェンはゲクランが務めていた。俯瞰して見れば一進一退ながらも、ゲクランが多く勝ちを拾った際に、捕虜交換の余剰として運悪く、バッドの父は身代金の支払いに応じざるを得なくなった。当時の基準でも法外な要求ではなかったものの、身代金の捻出に父の土地を、既に金を借りていた周辺の領主たちに分配して売った。父の身代金、そして嵩んでいた借金の利子を返済出来たが、バッドの家は、それで全ての生計を失った。
 もう戦えなくなり、さらに酒に溺れた父と、新妻、そして幼子を食わせていく為に、バッドは死にもの狂いで働いたが、残っていた借金もさらに膨らみ、いつしか賊に落ちた。やがて賊徒の頭目に押され、付近を荒し回った。
 その時に、妻は心を壊した。不義や不正を嫌悪する気高さは、一方で自尊心の高さでもあったらしい。夫の力になるには世間知らずで碌な仕事にも就けず、実家の商家も破産していた。そんな自分の為にと蛮行を重ねる夫を止めることもできず、彼女の中の何かが、決壊した。
 他領ではあったが、バッド一味を討伐する依頼を受け、まだ家督を継いでいないゴドフリーは、家臣二百を率いて遠征した。
 三ヶ月以上、そして双方合わせて百名以上の死者が出る激戦の末、バッドを捕えた。燃える山塞を背に、後ろ手に縛られて両膝を着くバッドの顔は、今でも夢に出る。
「さっさと殺してくれ」
 バッドと初めて交わした言葉が、それだった。
 くたびれた、目の光を完全に失ったぼろぼろの男が、ゴドフリーと互角以上の知略の持ち主だったことに、まず驚いた。
 統率された遊撃戦を主とし、奇襲の機、待ち伏せ、その全てが卑怯でありながらも、どこか洗練されてもおり、犠牲を出す度に、ゴドフリーはこの男から何かを学んでいた。いやむしろまだ見ぬ頭目は、ゴドフリーに戦術の何たるかを教えてくれているようにも感じていたのだ。
「妻と、子がいると聞いている。命乞いはしないのか」
「それだけが、心残りだ。だが、俺はもう終わらせたい」
「罪悪感が、お前にそう言わせているのか」
「そんなものは、とっくに捨てた。生きることに、必死だった。ただもう、生きることに疲れた」
「お前はまだ、手を汚せるか」
「舐めた口を聞くな、小僧。俺の手はこれ以上、汚れようもないのだ」
「お前が、必要だ。妻と子は、俺が保護しよう。俺の、汚れた手となれ」
 顔を上げたバッドの目に、一筋の涙が流れた。垢と泥で汚れた顔に、涙一筋分、本来の顔が見えた。
 その男は今、暖炉から燃えさしを一本取り出し、よれた紙煙草に火を着けている。
「黙り込まないで下さいよ、殿。嫁のことは、俺の問題です。こうして家を離れても、きっちり世話してもらってる。殿に何の不満がありましょうか」
 いつもの皮肉な笑みを浮かべ、バッドは落ちそうな灰を、灰皿で受けた。
「恋愛云々は抜きにしても、二人はよくお似合いです。ほら、二人とも銀髪ですし」
「つまらないことで、くっつけようとするな」
「ま、殿の、何ていうかな、もうひとつ悪人に成りきれないところは、わからないでもないんですがね」
「ほほう。身に覚えがないな。続けろ」
「貴族の結婚は、利害関係だけと割り切っている。それは、真理でもあるな。だからそういうもんに、好きな人を巻き込みたくないんでしょう?」
 ゴドフリーは、鼻で笑った。
「利いた風な口を。まあ確かに恋愛は恋愛で、宮廷での遊びの一つとしてやればいい。俺も庶民であれば、好きな女と結婚でもしていただろうさ。が、俺には背負っている家督があるのだ。責任以上に、これを踏み台にのし上がってやろうという、俺の野心の礎でもある」
「まあ、殿はうんと歳上が好みですからねえ。クリスティーナ様に心動かされないってのも、わかります。可愛らしい、と俺は思うんですがね」
「人の話を聞け。ともあれ婚姻の話まで、お前が口を出すな」
「へいへい。身体も温まったし、俺も午後の見回り、リッシュモンの民の洗い出しに行ってきます」
 無精髭の生えた頬をぼりぼりと掻きながら、バッドは暖炉脇の椅子から立ち上がった。
「待て。ギルフォード家との婚姻、可能ならば選択肢に入れておく。だがお前に、あえてお前だから聞きたい。結婚を、後悔しているか?」
 虚を衝かれたのか、バッドは開けた口から煙草を落とした。それを暖炉に放り投げ、やがて大きな声で笑った。
「俺は、後悔自体しないんです。ええ、妻との結婚を、悔いてはいません。そもそも、悔いる要素がない」
「そうか。悪いことを聞いたな」
「悪いこと? 俺に対して、そんなものはない。そうだ、悪いこと繋がりで、殿には一つ、聞かせてなかった話がある」
「聞こうか」
「俺は、親父を殺しました」
「初耳だな。確かにお前を捕えた時、父君は既に他界していたが」
「家に戻った時から、飲んだくれに拍車がかかっちまってね、賊徒になって流れていた時も、そんな調子だった。ま、何もかも失って、おまけに戦えない身体になってたんでね、同情はできます。ある日、襲った村の酒場で、親父が飲みたいと叫んだんでね、死ぬ程飲ませました。次の日、冷たくなっている親父を見て、笑いが止まらなかった。こんな男の為に、俺は手を汚す羽目になったんだってね。自分を、笑いました。神様も意地悪なもんだって、もうおかしくなり始めていた嫁の前で、一日中笑い転げましたよ」
 何と返してよいかわからず、ゴドフリーは話の続きを待った。
「この世は、びっくりするほど理不尽だ。俺は、それに流されました。そんな俺を、まだ小僧に過ぎなかったあんたが、周囲の反対を押し切って、救ってくれた。俺には殿、あんたが何か大きなものに抗っているように見えましたね。その時にわずかだが、俺にも希望の光みたいなもんが見えた。それは想像していたような、綺麗なもんじゃなかった。この世の理不尽さをぶっ壊していくような、細い、けれど血を吸った刃のように鋭い光だ」
 バッドの口元は笑っているが、目はいつになく澄んでいる。元はひどく生真面目な男だったというその残滓を、その眼差しに感じ取ることができる。
「成り上がって、俺にあの時見えたものが、間違いじゃなかったって、証明して下さい。なに、俺のことは使い切ってもらっていい。だが俺にとっちゃ、殿の野心だけが、生きてる理由だ」
「・・・わかった。俺の目に曇りがなかったことは、お前自身が証明した。今度は俺が、お前の目に曇りがなかったと証明する番だな」
「まあ、そういうこってす」
 新しい煙草に火を着け、バッドはそのまま退出していった。
 お前に言われなくとも、俺はのし上がって見せる。そう思って、ゴドフリーは苦笑した。
 二人分の野心を背負うのも、そう悪いことではない。

 

 

 

前のページへ  もどる  次のページへ

 

 

 

inserted by FC2 system