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3,「差別は、差別する側の問題ではないのかな」


 訪いを入れられたのは、ちょうど九時課(午後三時)の鐘の音が、街に響き渡っている時だった。
「入ってもらってくれ」
 使用人にそう告げ、エドナは絵筆を小さな絵画用のバケツで洗い始めた。外は、いかにも冷たそうな、霧雨が降っている。
「お休みのところ、失礼致します。ただアングルランドに帰還し身支度を整え次第、こちらに伺えとの命を受けまして。本日付けで元帥付き副官、及び少佐を拝命致しました、チェリーと申します」
 振り返ると、黒髪を両耳の上で結んだ軍服の少女が、挑むような眼差しで敬礼をしていた。エドナは軽く返礼すると、窓際の、もう一つの椅子を勧めた。ちょうど、背に暖炉の熱を感じられる場所である。
「私の方は非番だったのでな、こんな汚い格好ですまん。まあ、そこで楽にしてくれ。何か、身体に掛けるものがいるか?」
「いえ、さほど濡れてはいませんし、大丈夫です」
 チェリーの外套を暖炉の前で乾かしている、使用人の姿が見える。いくらか戸惑いながらも、チェリーは椅子に腰掛けた。エドナと並んで、大きな窓からこの集合住宅の中庭を眺める格好になる。給仕がすぐに、こちらにやってきた。
「私は、コーヒーでいい。チェリー、何か飲み物に希望はあるか」
 小さな顎に手を当て、あだ名通り小生意気そうな顔つきの娘は、しばし考え込んだ。
「カース・アッサムのファーストフラッシュはありますか」
「変わった嗜好だな。セカンドフラッシュで勘弁してくれ。ミルクも付けるか」
「いえ、お砂糖だけで結構です」
「そういうことだ。頼む」
 給仕が頷き、居間を出ていく。それを目で追っていたチェリーが、こちらを振り返ってエドナの言葉を待った。
「先の戦でノースランドに捕虜に取られていたようだが、無事なようだな。一応怪我はないと報告は受けていたが、そこを心配していた」
「私のいた小部隊は、早々に降伏を決めたもので。これだけ早い解放は意外でしたが、元帥が取り計らってくれたのですね。それはそうと、絵が趣味なんですか」
「まあ、そうだな。こうして中庭にあるものをモチーフにすることが多い。この季節なので華やかさに欠けるが、彩度の低いモチーフの方が、形に集中できるな」
 絵筆を乾いた布で拭き、エドナは大きく伸びをした。季節外れのリネンのシャツの袖に、絵の具がついている。首を何度か鳴らし、あらためてチェリーの容姿に目をやった。
 顔の特徴としては目の横幅が長いせいもあってか、瞳はやや寄り目に見える。目と眉の距離があり、こちらを見上げているにもかかわらず、どこか見下ろしているような印象を受けた。”チーキー”(生意気)というあだ名は彼女の言動によってつけられたものと聞くが、顔つき自体もどこかそれを感じさせる造りである。
「もう、今日は描かれないのですか」
「そろそろ、日が陰ってくる季節だ。頃合だろう。お前と目を見て話をしたいと思っていたしな」
「はあ。ここが元帥の別邸ですか。思ったより、多趣味なのでしょうか」
「いや、ここでは寝室とこの居間以外に、あまり足を踏み入れてもいないのでな。ほとんどここに住み込む者たちの好きにさせている。ごちゃごちゃしているが、私の趣味で飾り立てているわけではないよ。それと贈答品や土産物も、ここに置いてあるな」
 あらためて、居間を見渡す。調度品や置物に統一感がなく、チェリーが不思議に思ったのも頷ける。長椅子の上の兎のぬいぐるみは、使用人の私物なのかエドナのもらった物なのかも判然としない。エドナの物なら領地に送っても良いが、十歳の娘は、あまりああいった物を喜ばない。
 いずれも乱雑ではなく綺麗に並べられ掃除や手入れもされているようなのだが、それゆえに混沌とした印象を彼女に与えたのだろう。そもそも人を招くことも少ないので、エドナ自身あまり気に掛けていなかったという事実もある。
 ロンディウム宮殿近くの、高級集合住宅だった。集合住宅といっても町民が住むようなものではなく、この区画は大体、領地を離れ、宮廷に出仕している貴族たちが暮らしていた。その中の一つ、三階建てのこの建物の一階全てが、エドナの住居だった。二階、三階は人の入れ替わりが激しく、今は軍務省に勤める誰かしらが住んでいたような気がする。引っ越しの挨拶は、宮殿で受けることが多いのだ。
「ピアノ、弾かれるのですか」
「弾かないな。あれはグランツ帝国の大使から贈答されたものだったかな。きっと、良い物だろう。ここで腐らせておくより、誰かにやった方がいい。先方も、私が弾けないことを知って寄越したのだ。必要な時を除いて、社交場に顔も出さないのでな。ああいう物のもらい手は、なかなか見つからないんだ」
 絵の道具一式を木箱に収め、エドナは運ばれてきたコーヒーに手を伸ばした。
「お前のことは事前に色々調べてあるが、本人に直接聞きたいこともある」
「何なりと。面白い話ができると思っていませんが」
「母が、エニス島の出身らしいな」
 チェリーが、身を固くした。ノースランドより以前から、叛乱の噂が絶えない西の国土である。
「それに、何か問題がありますか」
「いや。ただお前には、私に見えていないものも多かろう。その出自で、今まで差別を受けてきたことがあったか」
「いきなり、嫌なことを訊いてきますね。私は、試されているのでしょうか」
「試しは、書類の時点で終わっている。ただこうしたことを訊ける相手が、私には少ないのだ」
 少女は不機嫌そうな様子を隠すことなく、エドナから目を逸らした。
「エニス島出身だろうと、その血が半分であろうと、アングルランドの人間は、私たちを蔑み、異物として扱いますね。そしてそうであるというだけで、給金のいい仕事にはつけません」
「まさに、差別だな」
「どこか、他人事のような口振りですね」
「今はな。その間違いを正す為にも、お前が必要だ」
「そんなことだけでこの大出世は、腑に落ちないのですが」
「お前を、能力と将来性だけで抜擢した。候補は他にもいたが、私はお前を選んだ」
「エニス島の血が入っているということが、選定の理由ではないのですね」
「違うな。頭の回転が早いと評判で、上官に対しておかしな忖度をしないという点も気に入った。ただお前はその出自に珍しい点がいくつかあった。近々二人だけで話をしたいと、そう思っていた」
 チェリーが、砂糖を入れた紅茶を口に運ぼうとする。が、カップの縁に軽く口をつけただけで、受け皿に戻す。猫舌なのだろう。
「年端もいかぬ頃に、身体を売っていたと聞くが」
「へえ、そんなことまで。軍の名簿じゃありませんね。忍びに調べさせましたか。というよりさっきから、何なんですか。私をいびる為に、側に置こうと考えたのですか。趣味が悪い」
 思わず、エドナは笑った。チェリーは顔を赤くしながら、こちらを睨みつけている。
「すまないな、悪気はないんだが。しかしあだ名通りのお前を見てみたいという気持ちがなかったと言ったら、それはそれで嘘になる」
「からかってるんですか。失言を誘って、罰を与えて楽しみたいんですか」
「それは、まったく違うよ。だがお前には、無駄な気を遣ってほしくない。軍議の場では皆の目があるので自重してもらうこともあるが、今この場に於いては、どんな無礼も不問としよう。アングルランド軍元帥である、リチャード王の第一子、王位継承権一位である。そんなことで、私は私に正面から意見してくる者が少ないのだ。ライナス宰相ですら、私には気を遣っているのがわかる」
「はあ。それはまあ、そうでしょうね」
「好き好んで、この身に生まれたわけではない」
「随分とまあ、贅沢な悩みに聞こえますね。エニスは好きですが、私だって好き好んでこんな境遇に生まれたわけではありませんよ。元帥よりずっと下の位相で、私は私であることを選んで生まれたわけじゃない」
「だが、私はお前を選んだ」
 何かに打たれたように、しばしチェリーは口を噤む。
「・・・中々の、人たらしですね。なるほど、アングルランド軍の頂点に立っているだけはあります。私にも、あなたを選べと」
「いや、それはお前が決めることだ。仕事さえしてくれれば、裏で舌を出していても構わん。それに作戦中でなければ、正規軍の兵はいつだって辞表を出せるだろう? 私に失望したら、軍を辞めろ。なに、恩給はたっぷりとつけてやる」
「何の、実績もないのにですか」
「少佐とした。軍を追放された者に恩給は出ないが、お前がどんな辞め方をしようと、私が責任を負う。それだけは、約束しておこう」
 やや冷めてきたのか、チェリーはカップに再び手を伸ばした。すするような飲み方になるほど、貧民街出身の挙措は出ている。
「父が早く死んだので、暮らしは楽ではありませんでした。母も安い賃金の重労働を強いられていたので、早くに身体を壊し、私が家族を支える必要がありました。妹二人の、女だけの家族です。身体を売っていたことは思い出したくもない過去であると同時に、私のささやかな誇りでもあります。元帥にとっては、愚かな選択に見えるでしょうが」
「悲しくもあるが、立派なことだとも思う。誇りに思っていい」
「誇りって言葉を、軽々しく使ってほしくないんですが。それは私の言葉です」
「お前の持てるもの全てを使って、家族を養った。私が武勲を上げることと、何の違いがあるのか。お前の家族を守ってきたことの方が、崇高なことでもある。それを誇らずして何を誇るのかと、私でなくとも思うことだろう」
 何か言いかけた少女は再び口を噤み、もう一度紅茶を口にした。
「すまんな。どうも私は、先程からお前の頭を押さえつけるような物言いをしてしまっているようだ。しかしこれが私でもある。許せよ」
「何となく、元帥の人となりがわかってきました。仰ぎ見る人が多く、愚痴や陰口をほとんど聞いたことがありません。私が思っていた以上に懐が深い人物であると、あらためて」
「陰口には、どんなものがあった?」
「そうですね・・・少しは休ませろだとか、仕事が多いだとか、そんな感じのものですかね。私も何度かそう思い、実際に口にしたこともあります」
「ハハハ。いや、人使いが荒いことも、自覚している。ただどんな命令も、必要あってのものだ。もう少し、せめて正規軍の給金くらいは上げてやらねばなるまいな。軍務省に、掛け合っておく」
「陰口を叩かれることに関して、頭に来たりはないんですか」
「それも、上に立つ者の仕事の一つだろう。それすら憚られる組織に、身を置きたいと思うか? 私だったら、嫌だな。上官の悪口を肴にする酒ほど、美味いものもないしな。そんな酒を、懐かしくも思う。今は、私が酒の肴になった」
「はあ。なるほど、なるほど。確かにあなたは、生まれついての大将だ。それは、痛いほどにわかりました。私なんかが元帥のお傍に付いて、役に立てることがあるんでしょうかねえ」
「たくさんあるさ。ただ先日の戦で、一つ聞きたいことがある」
 給仕が、焼きたての菓子を運んで来た。小分けにされた林檎のパイにフォークを刺し、チェリーは次の言葉を待った。
「ウォーレス殿があちらについたことは、戦力的に大きな損失であったことに言を待たない。だがそれ以上に、彼が抜けたことで、諸侯の空気がおかしくなった。軍議でも急にノースランドへの焼き討ちを提案したり、やり取りの中でも彼らを人として見くびるようなものが増えてな。端的に言えば、これまであまり表に出なかったノースランド人への差別感情が、一気に吹き出した」
「まあ、ノースランドの血が流れるウォーレス様がいなくなれば、そうもなりますよね」
「このような感情が諸侯や兵の根底にあることを、私はこれまで気づけなかった。同じアングルランドの民でも、民族的な違いはある。たまに彼らが取っ組み合っているのを見ても、文化の相違が衝突になっているのだろうと、軽く考えていてな。まあ私にも、差別という感情はあろう。能力もないのに、自らの間違いを認められず意固地になる人間を見ては、その者を蔑む感情を抑えることができない」
「それは、差別だとは言いませんね。単に、その人となりを馬鹿にしているだけです」
「これは、差別ではないのか」
「その者がどれだけ優れていて、善良でも、その出自や受け継いで来た信仰だけで蔑み、敵愾心を燃やすのが、差別です。逆にその者が悪人であった時に、出自にその根拠を求めることも」
「なるほど。私は差別が何なのかも、よくわかっていなかったのだな」
「元帥は、いえここではエドナ殿下と呼ぶべきですか、初めから高い所にいすぎるので、見えないことも多いのです。加えて人格者であられたことが、余計にその目を曇らせた。ただこうして、それを見ようとはされている。当事者の痛みを感覚的に共感できることは決してないでしょうが、少なくともその聡明な頭で理解することはできると思いますよ。それこそ、元帥の意志次第ですが」
「なるほどな。頭だけでも、わかっておくべきことだと感じている。そして人を動かす立場である以上、この問題から目を逸らすことはできないとも」
「繰り返しますが、私にエニスの血が入っているから、副官に上げたわけではないのですよね?」
「ああ。ただその出自から、より確度の高い話が聞けるとは思っていたが。お前にはアングルランド軍が抱える問題の一つ一つに、意見を聞きたい。今日はたまたま、ここに招く機会があったのでな」
「アングルランド軍にはびこる差別に、元帥の後ろ立てがあるとはいえ、私ごときが解決できるか、自信はありません」
「いや、こうして話をするだけで、お前は関わらなくていい。私たちがなんとかする」
「へえ。私は蚊帳の外ですか。まさに、差別の被害者なのに」
「この問題は、差別されている人間を、当てるべきではないと考えている」
「だから、どうしてですか。エニス、ノースランドの違いはあれど、私たちの問題です」
「そうかな。差別は、差別する側の問題ではないのかな」
 大きく口を開けたチェリーは、やがて震える手で顔を覆った。
「悔しい。悔しいですねえ」
「何がだ。気に障るようなことを言ったか」
「言いましたよ。ああ、あなたは本質的なことを、ひょっとしたら私たち以上に理解しているのかもって。これは、差別を受ける当事者としては、痛恨ですよ」
「何故だ。また大きな勘違いを、私はしているのか」
「逆です、逆。ああっ! すごく悔しい・・・」
 覆った顔の端、口元が震えているのがわかる。しばしチェリーは、声もなく嗚咽した。
 彼女が泣き止むまで、エドナはじっと中庭を見つめていた。枯れた葉が一枚宙を舞っている。雨は、止んだようだ。風が、窓を振るわせていた。外は、思ったよりも寒そうである。
「どうして私たちは、そのことに気づかなかったんでしょうねえ。罵倒され、石を投げられ、私たちは悪くないと思いながらも、繰り返し唾を吐かれることで、どこかで私たちに問題があると、思い込まされていた」
「それはさぞ、無念だったことだろう」
「言いたいのは、そういうことじゃない。私たちに、問題はない。そのことに気づけたのが碌に差別も理解してないあなただということが、何より私たちの誰かじゃなかったことが、たまらなく悔しいんですよ」
 チェリーは最早、涙を隠そうともしていない。鼻を真っ赤にし、溢れる涙を何度も袖で拭っていた。
「すまんな。お前の気持ちを、随分と害してしまったようだ」
「あはは。そういうとこはどこか鈍いというか、抜けてるんですねえ。難しい問題に関しては、誰よりも芯を食った理解ができるのに。こりゃ、私がいないと駄目だ。あらためて元帥の副官の任、心の底から拝命致しますよ。あなたには、私が必要です」
「お前が、私を必要とするわけではないのだな」
「私が、じゃない。私たちが、あなたを必要とするんです」
「重いな。その重さにも、慣れて久しいが」
「それにしてもこんな元帥と私が、ノースランドを相手にするんですねえ。私たちと同じように虐げられてきた、あの人たちを。神様も、残酷なことをしてくれます」
「確かにな。流れる血が少ないことを、祈るばかりだ」
 チェリーの話に、完全に着いて行けたわけではない。エドナの一言が、この人前で決して涙を見せなさそうな小生意気な娘を、ここまで泣かせてしまった。エドナにとっては当たり前のことが、彼女にとってはそうでもなかったようだ。
「雨が、止んだな。ではチェリー、明日からあらためて、よろしく頼む」
 エドナが差し出した手を、チェリーが握る。こうした関係でよくある、目上の者に対して両手で相手の手を包み込む動きはない。片手だけの、堂々とした握手だった。まるで何かを代表するような、あるいは背負っているような娘だ。生意気、と言われる所以もわかったが、それは誤解だということもわかった。彼女の、生粋のアングルランド人相手に一歩も引けないという気概が、多くの目には、そんな風に映るのだ。”生意気”など、そもそもが見下されたあだ名でもある。
 乾いた外套を羽織りながら退出するチェリーを、門まで見送る。通りに出た彼女が雑踏の中で背伸びをして、一度だけこちらを振り返る。
 エドナが手を上げると、チェリーは気恥ずかしそうに、小さく手を振った。

 

 さすがに、朝の鍛錬が厳しい季節になっていた。
 白い息を吐きながら、ドナルドは剣を振っている。小道を挟んだ厩の前では、ジャンヌとアネットが、組み打ちの鍛錬をしていた。もう、何本目になるだろう。汗を拭い、しばしその攻防を見守った。
 小刻みな、アネットの掌打の連打。その全てを、円を描く足捌きと片手の動きで、ジャンヌはいなしていく。不意に、アネットは若い木ならへし折るくらいの、強烈な下段の回し蹴りを放った。それを膝を曲げて受けたジャンヌの頭を、アネットが抱え込む。首相撲の態勢から二度、三度と突き上げるような膝を叩き込んでいくが、ジャンヌの腹は十字に重ねた腕を盾に、その膝をことごとく防いでいた。
 一度距離を取ろうとしたアネットの手首を、ジャンヌが軽くひねった。それだけで姪の身体は空中で一回転した。ぱしりと受け身を取る音で、衝撃が最小限に抑えられたことがわかる。
 アネットは下からジャンヌの腕を引きざま、両脚で彼女の首と脇を絞め上げていく。あれは三角絞めという技だと、先日教わった。自分の太ももと相手の肩で、首の両脇の太い血管を絞め上げるのだ。アネットの脚力であれば鍛えた者でも三秒と保たず失神するだろうが、ジャンヌは冷静に体位をずらしていき、腕を取られたままアネットの身体を折り畳んでいった。最後に、下になったアネットの頬に、ちょこんと膝を乗せる。
「参った」
 アネットがジャンヌの膝を叩き、ここで決着となった。
 頬を押さえながら、アネットが身を起こす。ジャンヌの膝は、彼女がよく使う、密着した対象に大きな圧力をかける、あの技だったのだろう。以前、彼女の母、かつての大陸五強”反射の”ヴィヴィアンヌにも、似たような技を見せてもらった。触れた大岩を、一瞬にしてばらばらにしたあの技だ。彼女によるとその技の練度はジャンヌの方が上で、あの大岩を粉々にできるとも聞いていた。
「いやあ、アネットさん、随分強くなりましたねえ。元からすこぶる強かったですけど」
「そうか? 相変わらず、お前の強さは底が見えない。自分が弱くなったと思う時もしばしばなのだ」
「いやいや、出会った時の倍は強くなってます。もうアネットさんを倒せる人は、そうそう見つからないと思いますよ。私が保証します」
 先日まで薄かった胸をとんと叩いて、ジャンヌがにんまりと微笑む。何のきっかけで気づいたのかは忘れたが、ジャンヌの身体は急速に女らしく成長していた。鍛えているからか、元から腰回りと腿は太目であったが、その分上半身は華奢に見えていたものだ。胸はやや膨らみ、尻は丸くなり始めている。十一歳という年齢を考えるとやはり、成長は早い方なのだろう。
「たまには叔父上もどうですか。ジャンヌを相手に」
「これから少し走ってもいいかとも思っていたが、そうだな、ジャンヌが良ければ」
「私はいつでも大歓迎ですよう」
 大鷲の様に大きく腕を広げ、ジャンヌがおどけてみせる。
 剣をアネットに渡し、ドナルドはジャンヌの前に立った。柵から首を伸ばして、馬もこちらの様子を眺めていた。一度息を吐き、少女と正対する。
 もう半年ほど前になるのか。ジャンヌと初めて組み打ちを行った際には、この細い少女相手にどう対したらいいか、腕を軽く取っただけでも怪我をさせかねないと躊躇したものだが、たった一度組み合っただけで、その認識は根底からひっくり返った。
 腰を落とし、構える。ジャンヌも、軽く膝を曲げた。その佇まいは見世物小屋で見たことのある、豹という猛獣を想起させる。以前はまったくわからなかった気というものを、ジャンヌがドナルドに放ってくれているのがわかる。瞳はジャンヌをいつもの彼女と映しているが、心の方は、目の前にいるのがこちらを一撃で殺す獣だということを警告していた。その恐怖に抗いながら、右腕を前方へ突き出し、一歩ずつジャンヌに近づいていく。
 互いの手が触れるかどうかというところで、大きく膝を曲げ、ジャンヌの脚に向けて大地を蹴った。が、いくら手を伸ばしても、ジャンヌの白い太ももは限りなく遠くにあるように思える。首を抱え込まれ、上から体重を掛けられる。40kg前後であるはずの少女の体重が、まるで馬に踏みつけられているかのように重い。
 一度両膝を着き、勢いでその身体を引き寄せる。右腕が、ジャンヌの片脚を抱え込む。肩に乗ったジャンヌの身体を、そのまま横に投げた。はずだったが、ジャンヌは着地と同時にこちらに身体を浴びせかけ、そのままドナルドの身体を抑え込んだ。仰向けで頭を抱えられたまま、ジャンヌの両脚が、ドナルドの右腕を挟み込んだ。
「叔父上、足、足です」
 アネットの助言通りに幾度も宙を足で掻き、なんとか仰向けの態勢から脱出する。ここからどうすべきかを考える間もなく、ジャンヌはこちらから距離を取った。
「じゃ、タックルいきますよ。よーい、どん!」
 地を滑るようなジャンヌの動きは、先程のドナルドの技と同じとは思えない。腰を落として懐を深くしようと試みるが、脚を取ったジャンヌはせり上がるように軽々と、ドナルドの身体を肩に担ぎ上げた。
「落としますよ。せーのっ」
 両脚を引かれ、地面に叩き付けられる。ドナルドがかろうじて、受け身を取れる速度に合わせてくれてはいるが、衝撃は中々だ。半身で抑え込まれる形は先程と同じだが、今度は逃がしてくれる気配がない。抱えられた頭が、ジャンヌの胸の方まで絞り上げられる。鼻先が彼女の胸に付く頃には、首がへし折られていることだろう。
「ま、参った」
 空いた手でジャンヌの肩を叩き、ひとまず決着である。
 荒い息を吐きながら、ドナルドは大の字になった。若く、まだ体力があった頃でも、組み打ちというのは五分も続ければ起き上がれない程に消耗するものだ。一時間楽に走れて、ようやく組み打ちの五分。生前の父には、よくそう言われたものだ。ドナルドは現在、四十二歳である。
「あとちょっとで、一分ですね。おじさん、すごく体力ついてきましたねえ!」
 ジャンヌが、本当に嬉しそうな顔をした。
「いくら加減してるといっても、私相手の一分だったら、普通の人相手に十分はいけそうですよ」
「さすがに、それだけ体力が戻ったとは思えないがな。秋口から多少走り込んで来たので、若い頃の半分は、動けるようになってきた気がする」
 ジャンヌが差し出した手を握ると、立ち上がろうとする間もなく、両足は地面に着いていた。
 それにしても、ジャンヌは強い。こうして組み合うと、そしていつの間にか自分も彼女に鍛えられていることで、かえってジャンヌの途方もない強さがわかる。彼女が本気の半分、いや十分の一程出せば、ドナルドなど開始の合図とともに一瞬で殺せるだけの実力があることが、身体でわかってくるのだ。
 一度ジャンヌに、本気で剣を振るところを見せてもらったことがある。まったく、その振りを視認できなかった。立てた薪を斬ってもらったのだが、見える見えない以前に、いきなり薪が水平に斬れていたのだ。固定した薪ではなく、弾け飛ぶのが普通だろうが、そういう話以前に、斬るという過程が見えなかった。剣先が見えなかったのではない。構えたと思ったら、いきなり斬り終えたという結果になっていた。
 最近は、その剣の稽古もつけてもらっていた。騎士が従者に剣を習うというのもおかしな話だが、そもそも彼女に剣を教えられるものなど、この世に存在しないのかもしれない。伝説の”剣聖”の娘であるばかりか、ヴィヴィアンヌによると、両親はこの娘にもう教えられることがないというのだ。そんな彼女に剣を教われるというのは、パンゲア中の剣士の誰もが憧れることだろう。
 本来ならば自分のような田舎騎士が、それも弱い男がと思ってしまうが、ジャンヌは根気よく、時に笑顔と冗談を織り交ぜながら、ドナルドの鍛錬に付き合ってくれていた。申し訳ないという気持ちがしかし、一人で振る時の剣の一振り一振りに、今までにない真剣味を与えてくれている。
「今日は一日、のんびりですねえ。ちょっと、作業の進捗が気になっちゃいますけど」
 村を挟んだ反対側に、二つの資材置き場がある。ジャンヌはしばらく、それを見つめていた。
「日曜だけは、休む。山の上の教会の礼拝もあるが、休みなく働き続ければ必ず、どこかで村人全員がへばってしまう」
 商売の軌道に乗り始めた組み立て式家具の製作に加え、レザーニュ伯から可動盾の材の発注まで入っている。そろそろ農閑期に入っているものの、冬にまで働く、つまり一年中働き詰めになることを、この村はまだ経験していない。季節ごとの収穫期では、日曜も休まず働くこともあるため、休む時には休むを徹底しておかないと、身体を壊すものが現れかねないのだ。
 汗だくになった服を着替え、軽い朝食を済ませる。広場に立ち、三人は村人たちが集まってくるのを待った。
 先導して山道を登り、教会へ向かう。オッサ村と合同の礼拝なのだが、シャルルたちは先に着いていたようだ。
 礼拝後、外でオッサ村の民たちと軽く談笑する。ジャンヌはシャルルの娘と長椅子に並んで、帰りの時間まで話し込んでいた。輪の中にいることが多いジャンヌなので、二人だけで話し込んでいる様子は、珍しいと言ってもよかった。
 午後はジャンヌを連れて、北の集落に向かった。ブリーザ村とは別に、この北の川沿いの炭焼き職人たちの集落までが、ドナルドの領地である。朝の礼拝の際、そこの一人が床に伏せていると聞いたので、様子を見に来たのだ。
 高い熱と、時折激しく咳き込むことがあるが、その若者は思っていたより元気そうだった。ただ、病の種類まではわからない。三日後が次の市なので、その時に荷車に乗せて町まで運ぶことになった。医者に見せる予定だが、その時までに仕事に復帰できそうだったらこの話はなく、逆に容態が急変するようだったら、深夜にでもこちらに声を掛けるよう言った。馬に乗せて、朝一番で医者のところに運ぶ予定である。医者にかかるのは高額だが、ブリーザ村では、治療費は村の金から出す決まりになっている。ドナルドがこの地を継いでからは、そういうことに決めていた。
「ただの風邪だといいんだがな」
 帰り際、ジャンヌに話しかける。
「それはそれで、周りにうつす危険がありますから。世話をする時、様子を見る時以外は接触しないよう言っときましたけど、ちょっと心配ですね」
 こちらを向いたジャンヌの目線を、不意に近いものに感じた。ドナルドが矮躯であるため、その変化に気づけたのだろう。少し、身長が伸びているのか。
 ジャンヌが既に、初潮を迎えていることは知っている。女性の身体は、初潮後にはあまり身長が伸びないとも聞く。が、たまに伸び続ける者もいて、ジャンヌは後者なのかもしれない。逆に考えると、年齢的に小さな子供と見てきたジャンヌだが、このままいくらか身長が伸びたとしても、やはり背が低い部類に収まるのかもしれない。
 なんとなく、いずれは男としては背が低いドナルドの身長を、アネットのように超える気がしていたのだが、今のジャンヌを見ていると、そういうわけでもないのだろう。ドナルドはそれをどこか、意外なものとして感じている。幼くして失った娘がそうであったように、子供は年々大きくなるものだと思っていたのか。
 帰宅すると、アネットが夕食の準備を整えているところだった。日曜はパン屋も閉めているので、昨日買いだめたものを温め直している。
 三人で、食卓を囲む。どこか淡々とした、平和な日曜日だった。
 ゆえにか、大事な話はここでしておこうと思った。
「やはり、ジャンヌをここで腐らせておくのは忍びない。幸い、私はこのような田舎騎士であるにも関わらず、レザーニュ伯に直接剣を捧げた身でもある。ジャンヌ、お前さえ良ければ、伯か、その側近の上級騎士に、従者として推薦できるかもしれない」
 中央に大した伝手があるわけではないが、戦場を共にした知己はいる。レザーニュ伯にしても先代まではこちらの顔と名前を知っていて、遠征中に声を掛けられることも珍しくなかったのだ。今のレザーニュ伯ジェルマンとは新たに剣を捧げ直した際に軽く言葉を交わした程度だが、一応立場的に、中央との繋がりは持っている。頼み事をするにはやや頼りない繋がりではあるが、方々に頭を下げれば、引き取り手は見つかる可能性が高い。ましてジャンヌのことである。一目見て有能であると見抜く騎士もいるだろう。
「え、嫌ですよ。私、おじさんの従者なんで」
 即答である。
「先日、この百年戦争を終わらせたいという志を聞いた。大志はやはり、力のある者の下でしか、成し遂げられないと思う」
「私、おじさんの元で、それを成したいと思ってるんですけどねえ。うーん・・・ん、アネットさん、何で笑ってるんですか」
 隣のアネットは、確かに笑いを堪えていた。
「いや、数年前に叔父上と似たようなやり取りがあってな。中央に、推挙してやると」
「アネットさん、なんて答えたんです?」
「今、ここにいる。それが答えだよ」
 二人が、弾けるように笑った。
「実を言うと、私・・・」
 ジャンヌの大きな青い瞳が、悪戯っぽく輝く。
「従者の武者修行的な感じで、ですかね。主を変えないで余所に修行に出されることもあるって耳にしたんで、ほんのちょっとの間だけ、レザーニュ伯の元に行ってみるのもいいかなって思ったりもしました」
「なら、尚更」
「でも、すぐにそれはないと思いましたよ。ちょっと町で聞き込みしたら、レザーニュ伯ジェルマン様、恐ろしく評判悪いですよね。それに私が初めて出たあの戦で、真っ先に逃げ出したって話で、途中からはフローレンス様でしたっけ? その奥さんが指揮を執ってましたよね。他にもレザーニュ伯に関しては、悪い噂をたくさん耳にしました。その、フローレンス様に、口に出来ないような酷いことを、毎晩のようにしているとか」
 ジャンヌは、顔を真っ赤にしている。ジェルマンの噂はドナルドも耳にしているが、ただの流言なのか本当の話なのかは、わからなかった。先代が人物であった分、あまり知らないジェルマンにも、そういったものを期待してしまっているのかもしれない。幼かった頃は、いつも父の後ろに隠れているような子供だった。
「そうか。ただ噂が本当ならば、ジャンヌをそんな所にやるわけにはいかないな。噂で人を判断するのは良くないが、万が一ということもある。私も探りを入れてから、この話をすべきだった」
「まあ、この子なら城でも上手く立ち回るような気がしますが。それと叔父上、ジェルマン様の噂は、残念ながら信憑性が高いと思います。私も噂で人を判断してはいけないと固く肝に銘じてはおりましたが以前、砦のことで中央に報告と要望を伝えにいった際、ジェルマン様がフローレンス様の頭を、はたいているのを見ました。後頭部をこう、いかにも馬鹿にした感じで。思わず止めに入ろうとしましたが、私が周りに止められてしまう有様で。後にそこにいた城仕えの騎士たちから、よからぬ話も聞きました。噂という水準でなく、伯はその奥方を虐待していると、私は確信しました。毎晩、寝室から彼女の泣き声が聞こえるとか。これは去年の話で、今は何かの奇跡が起きてジェルマン様がとんでもない聖人になっている可能性もありますが」
「お前から聞くこの話もまた噂。そう言ってくれているのだな。だが伯に直接、という線は少し慎重になってもよいと、私も判断しよう」
 誹謗中傷は、本人に何の過失もなくとも、追い落としたい相手から野火の様に立ち上ることがある。火のない所に煙は立たないというが、その火を放つ相手が本人とは限らないのが、噂話の恐ろしいところである。
「ただその幕僚、あるいは今やその実権をほぼ掌中にしているフローレンス様に、推挙する手はありますね。奥方は今や軍までも動かせる立場にあり、次の戦、ゲクラン伯の西進に協力するレザーニュ軍の指揮は、フローレンス様が執ることで決まっているようです。フローレンス様は今、レザーニュ各地の有能な軍人を捜しているとか。彼女自身の従者であれば、あるいは」
「しかし私はフローレンス様と、ほとんど面識がない。直接頼める相手でないと、難しいかもな。というのもジャンヌにはまだ、実績がない。先日の戦にしても、まだ私の従者になっていなかった」
「確かに、従者を預けるというのなら、直接話せる相手の方が良いかもしれません。なら、ジョフロワ殿では? 叔父上も知った仲ですし、ジェルマン様から遠ざけられていたということは逆に、フローレンス様の元では取り立てられている可能性もある」
「あ、なんか二人で話進んじゃってますけど、私やっぱり、おじさんの傍がいいですよう」
「だ、そうです。私には、ジャンヌの気持ちがわかるので、これ以上は言えませんね。なに、禄が増えるような武功を上げられれば、ジャンヌを騎士に叙勲してやればいい」
「簡単に言うな。名のある将校を捕縛でもしない限り、禄はそうそう増やしてもらえるものではない。が、機会あれば、そういう野心は持っておくべきなのかもしれないなあ」
「あ、別に私、土地持ちの騎士じゃなくていいですよ。自由騎士、なんて言っちゃったりして」
「自由騎士は、土地を奪われたか、何かしらの理由で領地を持てない者たちだ。騎士の家系にない者がそれを名乗ると、かえって出世の道を閉ざすかもしれないぞ。剣聖、そして大陸五強が親というのは、それを広めれば民の間で英雄として大いに愛される可能性が高いが、逆に貴族の世界は、そういう者を、ひどく警戒する。戦場で武勲も立てずに成り上がろうとすれば、必ず足を引っ張ろうとする者が現れる。それも大勢な」
 ジャンヌの存在をドナルドが喧伝できない理由が、そこにある。なのでどう段階を経てジャンヌの志を手助けできるか、悩んでいるのだ。戦を為す者としての階段と、冒険者として民から謳われる存在になる階段は、まるで違うものなのだ。
 冒険者から貴族へと、一足飛びに成り上がれる者はいない。アングルランドの”冒険王”リチャード一世は、冒険者として大陸五強に数えられたが、そもそもが王族である。レヌブラン総督の”弾丸斬りの”ジルも冒険者として当代の大陸五強に数えられたが、総督という軍を動かせる立場になっているのはつまるところ、彼女もリチャードの娘という血統だからだ。血筋のない冒険者から王となれるのは、遥か南の四千王国くらいと聞く。
「私の部隊が、とにかく武勲を上げる。それをジャンヌの手柄にすれば、従者の修行などとまだるっこしい真似をせずとも、一息にフローレンス様に取り立てて頂ける可能性はあるよな。実際に私が武勲を上げるとすれば、それはまさにジャンヌの力によるものであろうし、嘘をつくような形にはならないと思う」
「ううぅ、もう、とにかく私は、おじさんの近くにいたいんですよ! それならもうお二人の言うように、武勲を立ててやりましょうよ。それでおじさんの地位が上がって、得た土地のちょこっとでも譲ってもらえれば、私それで十分ですから」
 膨れ面のジャンヌの頬を、アネットが小突く。ジャンヌの志を少しでも後押ししたいと思っての話だったが、どうもドナルドが考えるやり方では、ジャンヌの望む形にならないようだ。
「将来の話をしておくことは大切ですが、同時に現状ではやれることはほとんどありません。叔父上、今は目の前のことに集中しましょう」
「そうか。ジャンヌの希望もある。余計なおせっかいになってもいけないしな」
 あらためて、四十二歳である。今の自分は実に中途半端な位置にいると、ドナルドは痛感した。戦場で自ら武勲を立てるには、歳を取り過ぎた。老将と言われるまで最前線に立ち続ける者もいるが、ドナルドにはそうした積み上げがない。さりとてアネットに領地を譲り、隠居するには若過ぎる。
 パイプに火を着け、ドナルドはしばし黙考した。いや、今は後進の為に身を犠牲にしてでも、道を切り拓くべきなのかもしれない。職人も、自らの腕が落ちる前に、弟子に全てを伝えようとする。ジャンヌとアネットにドナルドが残してやれるものは少ないが、ゆえにこそまだ身体が動く内に、二人に託せるものは、大きくしておくべきだろう。それがまた、村人たちの豊かさにも繋がるはずだ。
 ジャンヌにもアネットにも、羨む程の若さと、溢れんばかりの才能がある。ドナルドの下にいるべき人間ではないし、彼女たちの足枷になることは、誰の幸福にも繋がらない。
「おじさん!」
 ジャンヌに強く腕を掴まれ、ドナルドは思考の沼から引き上げられた。
「どうした」
「いや、おじさん今、なんかこう、すごく・・・」
 それ以上何も紡がず、少女は口を閉じた。
「まるで死地に赴くような顔をしていましたよ、叔父上。やめて下さい。私たちは一日でも長く、あなたと暮らしたいと願っているのですから」
「お前たちは、こんな私にも優しいのだな。そんなお前たちに、残せるものを・・・」
「おじさん、そういうの駄目です。私たちを思ってくれているのは、わかります。けどそんな顔するの、本当にやめて下さい・・・」
 瞳を潤ませるジャンヌを見て、自分はどんな顔をしていたのかと、申し訳ない気持ちになる。死地に赴くような、とアネットは言ったか。そんな自覚はないが確かに、彼女たちの未来の為だったらいつ、どんな死に方をしても構わないと、覚悟を決めていたところだった。
「心配をかけて、すまない。むしろお前たちを、心配していたつもりだったのだがな」
 ドナルドは、笑った。上手く笑えていたのかは、わからない。
「私、おじさんから、毎日学んでいます。まだまだ、これからもずっと、教えて下さい」
 既に村のことについてのほとんどを、ジャンヌには教えている。この子の賢明さなら、今すぐ村を任せても、ドナルド以上に上手くやっていけそうだ。加えてジャンヌは、村の限られた資源で、ここを豊かにする方策を、次々と思いつく。
 アネットにしても、やはりドナルドの後を継がせるに十分過ぎるものを持っている。要は、ドナルドがまだ生きていて、この狭い土地を治めていることが、二人の未来を閉ざしているように思えて仕方がないのだ。
 頭を振り、ドナルドはパイプに口をやった。いや、上に立つ者がこのように自らをないがしろにしていては、いけなかった。こういう気持ちは村全体の空気を悪くするし、気持ちそのものが伝播した場合、老いた者は自らを犠牲にすることを良しとする風潮すら起こりかねない。若く、自分のことしか考えられない者は、老いた者の世話をせずに済むと喜ぶかもしれないが、そうした者たちもいずれ、歳を取る。老いた者がないがしろにされる土地がどこも衰退していくのは、安心して老いることができないからでもある。
 ブリーザをそんな村にしたくないと、ドナルドは思った。自分自身については、どこかでそれでいいと思っている。小さくとも領民の為に尽くすのが、領主だと思っているからだ。が、それを誰かが真似するようではいけないとも考えた。村人はいつも、領主の背中を見ている。これも、父の教えだった。
「やはり、いらぬ心配をさせてしまったようだな。重ねて、すまない。私なら、大丈夫だ」
 微笑んだアネットが、食器を片付け始める。ドナルドもこの一服を吸い終えたら、手伝うつもりだった。
 気づくと、ジャンヌが卓の上のドナルドの手を握っていた。組み打ちの時を別にすると、ジャンヌはやはり年頃の娘らしく、ドナルドと軽く身体が触れ合うだけで、顔を真っ赤にして距離を取る。
 そのジャンヌが、いつまでもドナルドの手を握っていた。やはりおかしな心配を、そして彼女を不安にさせてしまったようだ。
 どこか大人びた、そして思い詰めた顔で、ジャンヌはいつまでもドナルドの手を握っていた。

 

 

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