前のページへ  もどる  次のページへ

 

2,「飢える人のいない国は、作れるような気がするんだよ」


 謁見の間に、レヌブラン大使イポリートを呼び出した。
 来訪時と、そしてその数日後の夜に唐突過ぎる宣戦布告を為した時と変わらず、この男は首に短刀を押しつけられているかのような怯えと、それをごまかすように卑屈な笑みを浮かべていた。今は冷え冷えとしたこの広間にふって額に浮かぶ汗を忙しなく拭いながら、アンリの幕僚たちに目を走らせていた。
「交渉の地は、二剣の地、レグル修道院から色よい返事があった。レヌブランに問題なければ、ここを交渉の場とさせてもらいたいのだが」
「は、はい、陛下の仰せの通りに。本国にはそのように、伝えさせて頂きます」
 レヌブラン側の想定の一つに入っていたのだろう。形式以上にまともな権限もなさそうなイポリートからの、二つ返事である。
 この男にこちらを手玉に取るような交渉力がないことは、初見からわかっていた。こちらの意向とレヌブランのそれを取り持つだけの伝書鳩だが、この鳩は時計仕掛けのそれのように、おそらく事前に決められた通りに、突然動き出す。先日の宣戦布告が、まさにそれだった。レヌブラン側からの使者もなく、突然夜中にアンリとの謁見を求め、震えながら宣戦布告を声高に叫んだのだった。
 それにしても、とアンリは思う。イポリートはまだ王太子とされていないようだが、唯一の嫡子を、半ばだまし討ちの使者として送ってくるとは、レヌブランの新王バルタザールとは、どんな男なのだろう。現状唯一の後継者に何かあったら、こちらの怒りを買って人質に、あるいは害されてはと、そんな心配はなかったのだろうか。無論そんな野蛮なことはしないが、そういったことは見透かされていると、はっきりと感じる。
 イポリートの小物振り、若年のアンリにもわかる程の無能さから、やはりバルタザールはこの息子に後を継がせる気はないとみた。ここにいる廷臣たちも、皆感じ取っていることだろう。そのイポリートは今も、こちらに媚びるような眼差しを送っている。
 王とはいえ、自分のような小僧にもあんな顔を見せているということは、逆に相手に力がないとわかれば、必要以上に居丈高になる男でもあるのだろう。権力に媚びへつらう者は、それがない者を見下す者でもある。
 こんな男を寄越す辺り、これはバルタザールの挑発でもあるなと、アンリは感じた。
 身振りだけで可能な限り丁重に退出を促すと、首を振る玩具のようにへこへこと頭を下げながら、イポリートが退出する。不快さに憐憫が負けてしまう前に、この男を視界から消してしまいたかった。
 謁見の間に集まる廷臣たちを前に、アンリは口を開いた。
「突然の宣戦布告、次いで真反対の同盟の持ち掛けと、こちらも随分と振り回されたが、その後の展開は随分と円滑だな。宰相、どう見る?」
 こんな口調も、こういう場では随分板についてきた。まだいくらか気恥ずかしさは捨てきれないが、王たる振る舞いを求められる場面は、日に日に増え続けている。
「結局のところ、我々はレヌブランの手の上で踊らされているということでしょう。初手から何をしてくる相手かわからないと警戒している内に、後手に回ってしまいました。まこと、腹立たしいことではありますが」
 言って、ポンパドゥールその秀麗な面貌を険しくした。才色兼備、時に冷徹な判断で宰相まで上りつめたこの美女はしかし、意外にも感情をあまり隠さない女性でもあった。ゆえにこそ、普段アンリに慈愛に満ちた笑顔を向け、未熟な王を気遣ってくれるその様子に、嘘はないのだと信頼できる。
「こちらからは、誰を出そうか」
 外務大臣が行くのが筋ではあるが、この役職は百年戦争開戦当時から、アッシェンでは長く続けられる者がいない。特に、ライナスがパリシを窺って後は、その水面下での交渉で神経をすり減らしてしまい、半年と保たず辞職を願い出ることが倣いとなってしまっている。常に外務大臣は新任の誰かという状態が続き、先日辞めた男の後は、空席であった。
「リュシアン枢機卿では、どうだろう」
 横に立つリュシアンを見上げ、アンリは言った。枢機卿はいつもの微笑を絶やさず、軽く肩をすくめた。
 リュシアンとは今も頻繁に昼食後の散歩を共にしており、師であり、歳の離れた兄のようにも感じていた。
「修道院を交渉の場とする以上、私の、この国の財務を預かる立場では、その中立性が疑われてしまいます。加えて、レグル修道院は教区において、私の管轄外にもなります。私が出張ると、あちらの枢機卿の顔も潰しかねない。陛下の希望により既に、ゲクラン殿の出席が決定していますが」
「彼女は宮廷の人間ではなく、ゆえに補佐的な立場とならざるをえない。戦となれば必ず元帥に任命されるがゆえに、戦略的な交渉事では外せないと、私が判断した。更に言えば、レヌブラン軍はゲクラン領を無断で進軍した疑いが強い。その意味で今回の戦の当事者の一人とも言える。真の当事者、アヴァラン公はイジドール殿を人質に取られ、降伏してしまっているしな」
 ゲクランとアンリの絆は、ここに居並ぶ者の誰もが知っていることだろう。贔屓と取られないよう、ここは補佐役に甘んじてもらう必要がある。本当は彼女のような戦略家が必要であるというのが真実なのだが、それを言い募っても言い訳のように聞こえてしまう為、アンリの真意は黙っておく。
「ボーヴェ伯、貴公ではいかがか」
 そのゲクランと最も近いのが、かつて彼女の父と轡を並べた、軍務大臣ボーヴェ伯である。立場的にも状況的にも、外務大臣の代理として障害はないが、外交の席に立つには、少し問題もあった。
「恐れながら、陛下。私めにそのような大任が務まりますかどうか」
 謙虚な物言いとその態度は裏腹で、ボーヴェ伯はその巌のような肉体を誇示するかのように、大きく胸を反らした。交渉ではなく、戦に臨むかのような佇まいである。
「ボーヴェ伯の武名は、今も諸国の語り草だ。貴公の存在だけで、交渉を有利に進められそうな気がするのだが」
「お任せ頂ければ謹んで承りますが、私より適任の者もおりましょう」
 軍務大臣として優秀な男だとアンリにもわかってきたところだが、一方でこの男は熱くなりやすくもあった。交渉の席でうっかり手を出しかねない危うさは、老境に入った今でも十二分に残している。本人にも、その自覚はあるようだ。
「わかりました。この場は私めにお任せを」
 ポンパドゥールが、溜息を隠さずに言った。ゲクランと犬猿の仲であるこの宰相は、できれば彼女との同席を避けたいところだろうが、さすがにゲクランの横にボーヴェ伯を並べておくつもりはないようだった。実際その組み合わせになれば、先代との友情から陰に陽にとゲクランを支えてきたボーヴェ伯は、ゲクランに交渉の主導権を譲り渡してしまうだろう。アンリはそれでも構わないが、宮廷と宰相自身の面子にかけても、ここは譲れない一線である。
 ポンパドゥールと宰相府の者を中心とした使節団を編成する事で、この議題は終わった。午後からは同盟の是非、ないしはその詳細について小議会で議題に上げることを確認し、一度この場は解散の運びとなった。
「僭越ながら、なかなか宮廷での立ち振る舞いが、板についてきましたな」
 廷臣たちが退出していく中、リュシアンに声を掛けられる。
「そうかい? 枢機卿にそう言われると、見透かされているようで、少し怖いが」
 確かにあの場では、廷臣同士の話し合いとなる前にリュシアン、次いでボーヴェ伯と立て続けに話を持ちかけた。結果、ポンパドゥールを使節として派遣したいという狙いがあってのことだ。
「ボーヴェ伯の名も、立てたつもりだよ。けれど宰相には、悪い事をしたかな」
「ゲクラン殿との関係もありますが、最初に指名されても、宮廷を放り出すわけにもいかないと、固辞されていたことでしょう。あの場では、消去法が最善でした。ですが宰相も帰り際、少し嬉しそうな顔をしていましたよ」
「宰相が?」
 笑ったリュシアンに代わって、いつの間にか傍に控えていた、道化のコレットが言った。
「王様が、日を追うごとに王様になっていく。一見つっけんどんないいお姉さんとしては、弟分の成長が、うれしくもあるのです。いえ、宰相は先王の愛妾でもありましたから、お母さんのように見ているかもしれませんねえ」
「そうか。そんなものなのかな」
「いいお母さんで、良かったですねえ。悪いお母さんだったら、我が子に折檻しているところです」
「やはり彼女個人としては、気持ちのいい話ではないのだな。このような小賢しい駆け引きは、なるべく控えるようにしよう」
「人を、チェスの駒のように扱い、弄ぶ。王様にはチェスの名人になる資質が、あるような気がするんですけどねえ」
「わかった、わかった。人事で人を操るようなことは、今後は控える。相変わらずコレットは、痛いところを突いてくるな」
 枢機卿につられて、アンリも笑った。この道化の少女は、アンリが道を踏み外さないよう、常に目を配ってくれている。時に辛辣なその指摘で、アンリが踏み出してはいけない領域を警告してくれていた。
「でも、そんな王様も好きですよ」
「たまには、こういうことも必要だということかい?」
「悪い事をしてこその王道、というのもあるかもしれないです」
「必要悪か。それを単に必要なことと勘違いしないよう、心掛けておくよ」
「さすが、王様。もう立派な王様ですねえ」
「君が、いてくれるからだよ。いつもありがとう、コレット」
 アンリが言うと、コレットは顔を真っ赤にして首を振った。
「道化におべっかを使っても、出るのは皮肉と、手妻で飛び出す満開の花だけです」
 道化が手を振ると、その袖から白い花びらが舞い上がり、城の廊下に広がった。
「王様は今に、物乞いにすらおべっかを使わないか、心配になってきます」
「必要ならば、そうするさ。そしてそれは、悪い事ではないという気がする」
 リュシアンが、今度こそ大きな声で笑った。回廊を歩く何人かが、何事かと振り返る。
 つい先日まで、庶民だったアンリである。去年のこの時期は教会で炊き出しの手伝いをしていたのだ。なので物乞いたちが働かないのではなく、働けなくなった者たちだということは、痛い程に知っている。
「物乞いから何かが出ることはあまり期待できないが、手を差し伸べることはできる。根拠のない自信かもしれないが、飢える人のいない国は、作れるような気がするんだよ」
 何気なく口にしたアンリだが、二人は目を見開いた後、揃って弾けるような笑みを浮かべた。

 

 城館の門の前で、アルフォンスは二人を出迎えた。
「ようこそ、私の大豪邸へ。我が家と思い、おくつろぎ頂ければ」
 フェリシテはどこか気まずそうな、そしてブルゴーニュは木々を振るわせるような豪快な笑い声を上げた。程度の差こそあれ二人とも大貴族であり、アルフォンスの私邸は、狩りの別荘くらいにしか見えていないことだろう。大半の木々は冬支度で、枯れているようにしか見えないのも、わびしさに拍車をかけている。
「いやいや、よく手入れされていて、居心地が良さそうだぞ」
 ジョアシャンが、もう一度笑う。二人の供回り五十名程は、屋敷の護衛と、別室へと分かれたようだ。別室へと案内された者たちに不便のないよう家の者たちには伝えてあるが、充分なもてなしができるかは不明である。特にジョアシャンの供回りは、アルフォンスよりも豊かな者が少なくない。実際のところアルフォンスは、小さな町ひとつと周辺の村々を治めるだけの、弱小貴族だった。
 普段は食堂兼、居間として使っている広間へと、二人を案内する。庭の見えるこの食堂が、最も景観のいい部屋である。壁の一面ほとんどがよく言えば革新的な、悪く言えば突飛とも言える引き戸の窓硝子で、幼少時はここにおかしな大金を掛けている父を理解できなかったものである。だが今この瞬間の為に、この部屋はあったと思ってもいいのではないか。
「綺麗・・・冬の花が、多いのですね」
 感心した様子で、フェリシテが言う。
「そのようです。いや、庭のことは庭師に任せきりで」
 雪をまぶしたような繊細なエリカ、そして色とりどりのパンジーが、庭では咲き誇っていた。一本だけのシクラメンは、かえって貧乏貴族の悲哀を感じさせるが、周囲を引き立たせていると、思えなくもなかった。余所の貴族の庭と比較すればいじらしい程に控えめな庭ではあるが、見栄を張ることにおかしな金を使いたくない自分もいた。ただ、庭師を含め屋敷で働く者たちには、他の貴族と同等以上の給金は出している。人に出す金を渋ると、人心が荒廃するとわかっているからだ。
「道中もエリカが多く、寝ている間に降雪があったのかと、毎朝勘違いしていたぞ。この土地の名、ブラン(白)の由来なのか」
「おそらく。季節を通して、白い花が多いのも特徴で。土地の歴史自体が長く、この領地の年代記は膨大なのですよ。私もまだ、全てに目を通したわけではなく」
 アルフォンス自身も戦場では白い手袋を愛用していることもあり、”白い手”などというあだ名をつけられてしまった。自分の手を汚さない後方指揮、という揶揄も込められていることだろう。ただ白い手袋にはどこにいても、この地を思い出したいアルフォンスのささやかな願いもある。
 給仕たちが、茶と茶菓子を運んでくる。普段アルフォンスが口にしないような高級菓子は、事前に他の町から仕入れたものだろう。地元の来客以外をこの家に入れるのは数年振りで、マカロンなどはやはり久しく目にしていないものであった。
 一つ銀貨数枚はしそうなそれを、ジョアシャンはばくばくと無造作に口に放り込んでいた。その様子を見るに、先の戦の傷は、日常を送るに支障ない程に回復しているらしい。
 南部戦線本隊はあの戦以後、奪い返したベラックを中心に駐屯させているが、一部をより西、アルフォンスの領地であるここブランに移していた。が、両部隊を合わせても、本隊の兵は千に満たない。騎士と家士を中心とした兵の大半は、リッシュモンが連れて行ってしまった。徴用兵のほとんども帰郷させている為、現在、南部戦線の兵は極めて少ない。
 ただ、アッシェンに復帰する支配領域が増えるにつれ、諸侯の兵はもちろん、今後徴用できる兵の数は増える。
「アングルランドは最終的にトゥール、ポワティエ両城を拠点とし、決戦に臨む構えでしょうか」
 焼き菓子をついばむように口にしながら、フェリシテが切り出した。
 ここ数日はブラン城にて定例の軍議を開いていたが、町中にありながらほとんど砦に近いほどに、あの城の住環境の悪い。そこで、軍議の場をアルフォンスの私邸に移すことにした。特にここ数日はそれぞれの将校も伴わない、半ば私的に近い会合になっていたので、こうして自らの屋敷に二人を招いたのだった。
 特にベラック奪還後は、細かい話が主題になっていた。時折入るリッシュモンからの報告を元に、どれだけの兵を帰郷させるか、残った者をどう配置するか、何よりリッシュモンへの補給路をどう構築するか、そういった話に忙殺されていた。戦全体を見た話は、随分久しぶりな気がする。
「ポワティエは、本来ザザ殿の治める街だった。とすると前回のリッシュモン殿の策もある。真の主の帰還を前に、住民の叛乱を危惧してトゥールまで兵を下げても不思議ではないと、僕は見ている。トゥールの領主は、南にアングルランドが攻め入った際に、治めていた一族の家系が絶え、アングルランド軍の行政官を主として長いからね。あの街ならば、腰を据えて戦うことができるだろう。あ、ブルゴーニュ公、私の分も残しておいてくれますか。もてなす側が言うことではないと、百も承知ですが」
 髭の周りにマカロンの食べかすを散らかしながら、ジョアシャンは不思議そうな目でこちらを見上げた。高級菓子をその大きな手で二つ三つと口に放り込むその慣れ切った手つきをもってあらためて、二人の間に大きな金銭感覚の隔たりがあることを痛感せざるをえない。桁の大きく違う軍費の話になると、彼は意外と倹約家でもあるのだが。
「ふむ。トゥールが次なる拠点となると、そこでの勝敗が、この南部戦線の決着となるか。その後はどうだ。南部に散らばって、遊撃戦を仕掛けてくるか?」
 負け続けたとはいえ、ブルゴーニュ公も長くこの南部戦線の総大将を務めた男である。ライナス、ウォーレス、エドナ、そしてキザイアと、アングルランド屈指の名将たちと渡り合うには役不足であったが、戦略眼そのものは持ち合わせているのだ。要は、戦略そのものの話は、充分にできる。
「いえ、ここは相手にとって、敵地です。民を隠れ蓑とする遊撃戦は、住民の協力なくしては成り立たない。なのでトゥールを維持できなくなった時点で敗走、ないしは降伏だと思いますよ。トゥール陥落前に段階的に兵を逃がしていく、というのも考えられますが」
「ふうむ。これでようやく南部から、アングルランド軍を追い払えるな。どうだ、フェリシテ」
「孤立する西の港町は、先に落とすか迷うところです。ノースランドの叛乱に、動向の読めぬレヌブランの独立。今のアングルランドに、大した援軍を送る力はないと睨んでいますが。ともあれトゥールでの戦いは、熾烈を極めそうですね。仮に落とせないとなると、その後に年単位の膠着もありえます」
 窓の外を眺めながら、フェリシテが言う。少し暖炉の火が弱いのか、カップを細い指で包み込んでいた。
「一度、宮廷に軍費の追加を具申しても良い頃でしょう。奪い返した領地での税収が期待できるのは、少し先の話になります。さしあたっての軍資金が、心許ない。トゥールは守りの堅い街です。兵の大動員からくる負担はもちろん、大量の攻城兵器も必要となります。近隣の町々に材の発注はしていますが、ベラック解放の時に用意したものを使い回しても、まだまだ足りないと、私は見ています」
「トゥールは長く、分厚い城壁に囲まれていると聞いているからね。今晩にでも、宮廷への書簡を用意しておこう」
 壁越しに、兵たちの笑い声が聞こえた。二人の供回りたちも、くつろげているようだ。
「この南部戦線を勝利に導けたら、俺もいよいよ軍人を引退かなあと、そんなことを考えている」
「どうしました、急に」
 今もその巨体で椅子の足に悲鳴を上げさせているブルゴーニュ公に、アルフォンスは問いかけた。
「いや、大将としての器は、ポーリーヌの方が上だと、日に日に感じている。それに俺も、歳を取ったと感じることが多いのだ。傷の治りも、遅い」
 リチャード王に斬られた胸の辺りを擦りながら、ジョアシャンは続けた。
「領地のことも、息子たちが上手くやっている。俺は戦だけやっていればいいと思っていたが、娘の成長を見るにつけ、俺が大将であったことを後悔する日が来ないかと、そんな思いが大きくなってな」
 まだ五十前のジョアシャンだが、その眼差しにどこか、老境に達したかのような、枯れたゆらめきを感じる。
「ブルゴーニュ公は、我々の支えです。私も何度か、命を救ってもらいました」
 アルフォンスが声を掛けるより早く、フェリシテがジョアシャンの拳に手を置いていた。
「人を、まとめる力。仮に戦場での武勇がなかったとしても、ブルゴーニュ公にはそれがあります。私や元帥、そしてリッシュモン卿よりもそれについては、確実にあなたにしかないものを、持ち合わせている」
 その通りだ。いくら戦下手でも、ゲクランやリッシュモンが南部軍の総大将を務めていない間は、それに最もふさわしいのが、このジョアシャンだった。今こうしてアルフォンスが元帥、新たな総大将としていられるのも、諸侯がそれに何の反発も示さなかったのも、結局のところこの男の後ろ立てがあるからだった。宮廷ではどういった評価でアルフォンスを元帥に推したのかはわからないが、ことこの戦場においてはブルゴーニュ公が常にその傍に置き、作戦を全面的に委ねていた男として認識されていたからこそ、アルフォンスは南部軍を掌握できている。
「傷が障るようでしたら、しばらく静養されては。あるいは戦場でも、後方指揮に徹されても良いでしょう。確かに私も、公が常に最前線に立たれることに、心苦しさもありました」
 ジョアシャンの拳を擦りながら、フェリシテは言葉を紡いだ。時に厳しい叱責を飛ばすものの、フェリシテの彼に対する態度は、時に親と子のように感じることがあった。眼鏡の似合うその横顔は近づきがたい才女然としているが、フェリシテが本当はどこか気さくで、優しい女性だということを、アルフォンスは知っている。
「ふう。いや、お前たちの前だからこそ、俺も弱気なところを見せてしまうのだな。それとこのアルフォンスの、温かい家だ。気が、緩んだのかもしれん」
「私たちの前では、弱い部分を見せても構いません。これまで、南部軍の総大将という、重圧に耐えてこられました。アルフォンス様とはまた違った意味で、私が最も信頼できるのはあなたです、ブルゴーニュ公」
 ジョアシャンの目には、僅かに光るものがある。アルフォンスも自らが総大将となることで、よく耳にする、ある言葉の真意を理解した。軍の頂点に立つ者は、常に孤独である、ということである。ゲクランやリッシュモンのように我が強い、そして戦も強い人間ならともかく、その個人的な武勇を抜かせば戦そのものに弱いジョアシャンの孤独や葛藤は、アルフォンスのそれよりもずっと重荷だったかもしれない。
「いやあ、フェリシテ、お前は優しい。さすが、アルフォンスの未来の嫁だけあるな」
「は?」
 驚きの合唱は、アルフォンスとフェリシテ、二人によって織り成された。
「いやいや、話が飛躍し過ぎていませんか。私がこの世話のかかる男と、どうして結婚を?」
 世話のかかる男。信頼する副官にそう思われていたことに傷つきつつも、アルフォンスも続いた。
「あ、あの、ブルゴーニュ公。私たちは、そう言う仲ではありませんよ。大体、彼女の家とは格が違い過ぎる。分不相応というもので」
 こちらを振り返ったフェリシテが、アルフォンスをきっと睨んだ。いや、その一言に傷つきつつも彼女の家格を保ったのは自分の方なのだがと、理不尽なものを感じずにはいられない。
「そうなのか? よく二人でいるし、そういうものだと思っていた。なに、いずれそうなる。フェリシテの父君には俺が話をつけてやる。家の格がどうとかは、気にしなくていい。それともフェリシテは、もっと大きな家に嫁ぎたいのか」
「い、いえ、私自身は、あまりそういうことを気にかけませんが・・・」
「なら、何の問題がある。アルフォンス、お前はどうなのだ。俺が仲人では不満か。貴族間の結婚で、恋愛感情がある相手と結ばれるのは、中々の幸運だぞ」
「また、話が先に進んでますね。一つ問題があるとすれば、私たちが恋仲ではないということですか」
 フェリシテの、恨みがましい視線が痛い。優しくジョアシャンの手に置いていたその指先は、今や甲の手をつねり上げていた。
 しかし彼女の様子を見ていると、ついフェリシテが、自分にそちらの好意も抱いてくれているのかと錯覚してしまう。それがどうあれ、フェリシテが女性として魅力があるのは間違いなく、そんな彼女を出来るだけ立てたいと思っているのだが、どうもやり方を間違えているらしい。自分ごときの妻になるような女性ではないとジョアシャンに伝えるには、どうすれば良いのか。この手のことについて回る知恵を、アルフォンスは持ち合わせていない。戦の駆け引き以外は、あまり考えてこなかったのだ。
「痛い痛い。そうだアルフォンス、お前の娘を連れてこい。フェリシテに見せてやりたいし、俺も見てみたい」
「は、はあ。昼寝が終わったら、二人で挨拶するよう言ってありますよ。そろそろ起き出す頃だと思いますので、様子を見てきます」
 ふとフェリシテを見やると、彼女は顔を真っ赤にしている。子供が、好きなのだろうか。アルフォンスは部屋を出て、二階の娘の部屋へ向かった。
 ちょうど、娘は侍女に余所行きの服を着せられているところだった。三歳である。生まれてからの四年間の多くを、娘の顔も碌に見ず、戦場で過ごす羽目になってしまった。いまだ戦時中だが、少しでも多くの時間を、この娘と過ごしたい。常々、アルフォンスはそう思っていた。
「パパ、抱っこ」
「さ、おいで、アリーヌ」
 歩き始めに時間がかかったということもあって、アルフォンスは帰郷する度によく娘を抱き上げていた。十ヶ月後になんとか歩けるようになったのを見て、心底ほっとしたものだった。今では元気に外を走り回るようにもなったが、アルフォンスがしばらく家を空け、そして帰宅する度に、一週間程は顔を会わせる度に抱き上げることを望んでくる。ブランに戻って一週間程経つのでそろそろ抱っこも終わりかと思っていたが、来客のこともあって、娘も緊張しているのかもしれない。
 大分重くなった娘を抱えたまま、居間に戻る。フェリシテが、あまり聞いたことのない嬌声を上げた。
「ほらアリーヌ、立ってご挨拶なさい。そこの熊のようなおじさんがブルゴーニュ公ジョアシャン殿。こちらの綺麗なお姉さんがシャトールーのフェリシテさんだ」
「ジョアシャン、フェリシテ、ご機嫌麗しゅう」
 スカートの裾をつまんでちょこんとお辞儀をするアリーヌを見て、フェリシテは口に両手を当てて感激している。ジョアシャンは肚の底から豪快に笑い、娘を存分に怯えさせた。
 アリーヌはとてとてとフェリシテの前へ進み、両手を広げた。
「フェリシテ、抱っこ」
「まあ、いいんですか?」
「おい、俺のことを避けているのか」
「子供は、素直ですから」
「いや、そこは少し俺を立てても良くないか?」
 娘を抱き上げるフェリシテの姿が思いの外、絵になっていて、アルフォンスはしばしその光景に目を奪われた。
「ハハ、娘はお前と違って、甘えん坊だな」
「成長が少し遅かったので、大分甘やかしました。けれど抱っこを盛んに求める以外はおとなしく、あまり我侭も言わないようです。性格ですかね。厳しく躾けたりするのは気が進まなかったので、そこに関しては助かっております」
 アリーヌに対して頬ずりをしているフェリシテの姿は、また彼女の新たな一面を見た気がする。というより眼鏡を外して笑っている彼女自体、滅多にお目にかかれない。馬上にあっても眼鏡を外さない彼女なのだ。眼鏡の曇りを拭き取る視線がいつも下を向いていることもあって、レンズを介さないフェリシテと目が合うのは、ひょっとしたら初めてかもしれない。
「抱き上げるには、重くなっているだろう。その癖だけは、どうしても抜けてくれなくてね」
「いえ、とてもかわいらしい。今日は暖かいし、アリーヌ、このままお庭を散歩しましょうか」
 二人が外に出ると、侍女が新しい紅茶を持ってきた。ジョアシャンの隣に座り直し、フェリシテの笑顔を見つめる。
 不意に、胸に込み上げてくるものがあった。目頭が熱くなるのを止められず、アルフォンスは眉間に手をやった。
「妻を、思い出しているのか」
「ええ。彼女の無念を思うと」
 妻は、娘を生んで半年後に他界した。産後の肥立ちが悪いことを心配している内に、本当にあっという間の出来事だった。訃報を聞いたのは、ここから遠く離れた戦場である。葬儀も、既に済ませたという話だった。すぐにそれを知らせなかったのは、妻の遺志であったらしい。
「俺の傍に置いてしまって、すまなかったと思っている」
「いえ、アングルランド軍が妻の待つこの地を侵さぬようにと、私も必死でしたから」
 容態が悪化しても、妻はアルフォンスに娘の様子を、手紙で知らせてくれていた。妻の体調を訊いても、彼女はいつも、私は大丈夫と返事をくれた。
「ブルゴーニュ公、正直に言います。リッシュモン殿が到着した、敗色濃厚なあの戦でそのまま負けるようなことがあったら、私はアングルランドに進んで投降し、娘とこの地を守れるならアングルランドにつくことも厭わないつもりでした」
「おう、人の親として、それは当然だろうさ。誰がお前を責められよう。才能を感じたが故に、お前を平和を望む一領主から、真の軍人にしてしまった。悪いことをしたと、そう思っている」
「いえ、取り立てて頂いて、感謝しています。誰が悪いということもなく、ただ妻の傍にいてやれなかったことが、心残りで。助からないとわかっていても、妻の手を最後まで握ってやりたかった。言っても、仕方のないことなのですが」
 妻譲りのくすんだ金髪を、フェリシテが指で梳いている。アリーヌを抱えたまま、フェリシテは室内へ戻って来た。すぐに暖炉の前に立たせ、二人で掌をかざしている。
「あまり、父親に似ていませんね。髪の色もぱっちりした目も、母譲りでしょうか」
「ああ。妻に、よく似ている」
「そうでしたか。あらためて、お悔やみ申し上げます」
 心配そうにフェリシテを見上げるアリーヌに、彼女は寂し気な微笑を返し、その頭を撫でた。
「本当に、かわいらしい。元帥、またここに来て、彼女を抱き上げてもよろしいでしょうか」
「ああ。そうしてくれると嬉しい。アリーヌもきっと、それを望んでいる」
 言うと、フェリシテは眉尻を下げた笑みを浮かべて、小さく頷いた。

 

 

前のページへ  もどる  次のページへ

 

 

inserted by FC2 system