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4,「こんな気持ちも、戦塵に吹き飛ばされてしまうのかな」


 列車での移動は、思いの外快適だった。
 初めてゲクラン鉄道の列車に乗ったが、速度、揺れの少なさ共に、大陸鉄道のそれとほとんど変わりがない。食堂車はまだ準備中で茶を出せる程度だったが、乗っている時間の短さもあってか、他の不備も、気になる水準ではなかった。寝台車で、軽く仮眠も取れた。列車を降りると、中が暖かかっただけに、寒風が身に沁みた。薪ストーブの温もりが、既に恋しい。
 これもまた建設途中の駅を出ると、そろそろ夜が明けようかというところだった。向かいの大きな厩の前に、身なりのいい戦士たちが集まっていた。ゲクランとパスカルの供回りたちだろう。同じ列車に乗っていた者たちも同様で、彼らの方へと合流していった。
 やがてゲクランとパスカルが、厩の方から出てきた。
「ああ、アナスタシア、予定通りね。どう、ゲクラン鉄道は」
「快適ですね。ちょっと、驚きました」
 駅舎の方では、ドワーフの職人たちが焚き火に当たっているのが見えた。
「見くびらないでほしいわね。けど来てくれて助かるわ。少し身体をほぐしたら、行きましょ。レグル修道院は、ここから馬で二時間くらいよ。レヌブラン側は、昨日からそこにいるって」
 煙管に火を着け、ゲクランは腕を擦って身震いした。これまでは具足にしても平服にしても、その巨大な乳房を誇示するように大きく胸の空いた衣装を着ていたゲクランだったが、今はアナスタシア以上の厚着とその仕草から察するに、意外と寒がりなのかもしれなかった。アナスタシアも、パイプを手に取る。
「アナスタシアはこの程度の寒さ、何てことはない?」
 忙しなく足踏みを繰り返しながら、ゲクランが訊く。
「北の人間だと誤解されがちですが、寒いものは寒いですよ。こちらの人間では想像もできないような、凍てつくそれを知っているというだけです」
「極寒といえばあの、アイスロードを渡って開拓地の北まで行ったこともあるのよね」
「よく、ご存知で。この大地は丸いのだと、実感できました。こちらでは知られていない話だと思ってましたが」
「大陸五強が竜を殺す物語は、パンゲアのどこでも歌になるのよ。実際あなたがスラヴァルの傭兵だったことよりも、そっちの方で知ってる人もいるんじゃないかしら」
「そんなものですか。しかし私は他の英雄と違い、北極圏の白竜を一人で屠ったわけではありませんよ。団員からも、犠牲が出ました」
「白竜は、他の竜の二倍も三倍もあると聞くけど。そりゃ一人で殺すのは無理ってものでしょう。二倍大きいだけで強さは五倍ってのが、怪物の定説だし」
「確かに、北の生き物は、大体大きい。白熊なども、動物の域を超えた立派な怪物でしょう」
「けど、食べ物が少ない寒い地域の生き物がみんな大きいってのも、ちょっと不思議な話よねえ」
「身体が大きいと、体積に対して表面積の比率が低くなる。なので見た目ほど食料を取らなくとも体温を維持できると、そう聞いたことはありますね」
「へえ。そんなものなのかしら。理屈はわかるけど」
 話を続けていると、馬が引かれてきた。厩の小僧から轡を受け取り、鞍に跨がる。こちらを振り返ったパスカルに会釈した後、ゲクランの号令一下、一行は街道を西へと進んだ。具足なしの乗馬は久しぶりで、それを随分と楽に感じる。荷物も、最低限のものだ。
 しばらく進んだだけで、少し土地が荒廃してきたように感じた。伸びた木々の枯れ枝が、街道にせり出している。関がなかったので気づかなかったが、聞くと既に、ゲクラン領を抜けているようだ。二剣の地に入ったわけだが、この地の領主には事前に通行許可をもらっているそうだ。いつの間にかパスカルが、アナスタシアと併走する形になっている。
「ゲクラン領は豊かなのだと、あらためて思いました」
「土地の統括的な管理は、意外と難しいものです。エルネストが力をつける前は、私が領地の内政を取りまとめていたのですが、苦労しました。アッシェンの下にゲクラン法を敷くに当たって、各地の判例をまとめる必要もありましたしね。土台を作るところまではやりましたが、一番難しい仕上げは、彼の功績です」
「エルネスト殿とは、ゲクラン四騎将の」
「ええ。いずれ機会あれば、彼にも会ってやって下さい。病で聴力を失いつつありますが、筆談で話せます」
「得るところは多そうです。先方が希望してくれているなら、是非。しかしそうですか、少し前まで、ゲクラン領もこの地のようにどこかひなびた土地だったのですね。そういえば兵舎の裏の森を開きたいとドニーズ殿に相談したら、すぐに開墾の話に繋がりました」
「娘は、よくやってくれていますか。先日の二人の様子から、人間関係は大丈夫かなと感じましたが。あれは、まだ戦場に未練がある。戦塵を忘れるくらい、城代の仕事に打ち込んでくれると良いのですが」
「たまに、調練を見に来ます。確かに、少し寂しそうな目で、それを見ていることは多いですね」
 急に道が悪くなり始めたので、二人とも口を噤んだ。蹄で割れた小石の欠片が、顔の近くまで飛んできた。できれば、馬車で通りたくない道である。行商たちも、苦労しているだろう。
 夜が完全に明け切る頃には、悪路も抜けた。木立の向こうに見える村々を横目に、街道を進み続ける。開けた土地に出ると、南の方に馬車数台と、二百騎程の騎馬隊が見えた。掲げている旗は、アッシェンのものだ。
「あれが、宮廷からの使節団でしょ。あなたたちは先に行ってて。私も挨拶を済ませたら、すぐに追いつく」
 十騎程を引き連れて、ゲクランは南に向かった。
 そのゲクランが再び追いつく頃には、視界の先に大きな修道院を捉えることができた。外には、あまり見かけない軍装の一団がいる。五百騎程か。レヌブランの騎士たちだろう。
 下馬すると、レヌブラン側から一人、こちらに進み出る。アヴァランを落とした部隊の指揮官なのか、兵たちと同じく具足姿である。胸に手を当て、丁重にゲクランたちを歓迎した。
「モンス伯レーモンと申します。ゲクラン伯一行と見て、相違はありませんな」
 灰色の髪に矮躯の男だが、目には油断のならない光が宿っている。たとえ素人でも、一目で歴戦とわかる面構えだ。
「レーモン。あのレーモンならずっと以前に、私と会ってるわよね」
「お父上、ベルトラン殿とは多少の親交を得ていました。当時の私は若造に気が生えた程度で、伯はまだこんな小さなお嬢様だった」
 腰の辺りに手をかざし、レーモンが笑った。
「面影が、残ってる。覚えてるわ。懐かしいわねえ」
 レヌブランがまだアッシェンだった頃に、二人は会ったことがあるようだった。アングルランドがレヌブランを落とし、次いでゲクランの父が本来の領土を失ったのは、二十年程前の話だったか。
「モンス伯レーモンって、あのレーモンなのかしらって、ちょっと引っかかってたのよ。私のジャンヌと同じでそう珍しい名前じゃないし、あの頃はまだ先代の騎士だったでしょう。私も、どこの領主の騎士だったかまでは、覚えてなかったから。跡取りだってのも、知らなかったし」
「ええ。時は流れたということですな。以後のゲクラン殿のご活躍は、かねがね」
「知らない仲じゃない。私の領土を通りたいなら、事前に言ってくれれば良かったのに」
「ハハハ。それでは、奇襲とはなりえません」
 無論、ゲクランが事前に察知していたら、レヌブランの奇襲部隊五千騎は、領内のどこかで殲滅させられていただろう。
「アッシェンに対する宣戦布告は、裏技的とはいえ、時間的な筋は通してるのよね。けど領界侵犯に対しては、落とし前をつけてもらうわよ」
「賠償の用意はあります。その点に関しては、大変なご無礼を」
 旧知というには接点は薄いようだが、それでも二人は肩を並べて修道院の中へと入っていった。敷地内での帯刀は許されていない。石壁の前に立つ修道士に護身用の小剣を預け、アナスタシアも門を潜った。振り返ると、互いの兵が修道院を挟んで対峙しているが、殺気のようなものはない。レヌブランの古参兵なら、かつては自分もアッシェンの人間だったという意識があるだろうし、アッシェン側でも、レヌブランを今でも同胞と見ているのかもしれなかった。
 東の壁の向こうに、わずかな土煙の広がりが見える。おそらく、宮廷側の使節団だろう。王の代理として外務大臣ではなく、直接宰相ポンパドゥールが出張ってくると聞いた。アッシェンは宰相に加えて、常に元帥職を任じられるゲクランである。レヌブランも、それなりの陣容で臨んでくるのだろうか。こちらについては、まだゲクランも知らないようだった。
 別館の控え室で薄い茶を飲みつつ、ゲクランとパスカル、連れてきた書記たちの話を聞いていると、しばらくして宰相ポンパドゥールの一行が部屋に入ってきた。ゲクランは手を振るが、ポンパドゥールは一瞥しただけでこちらにやってきた。挨拶は先程済ませたのだろうが、この二人の不仲振りをこうして目の当たりにするのは、初めてかもしれない。
「ご無沙汰しております、宰相」
「アナスタシア殿も、健勝そうで何よりです。アッシェンに留まるのなら、陛下の元に残ってほしかったと、未練がましく思い続けているのですが」
 パリシ解放後の軍議。アンリ王に、仕官を誘われた。固辞したが、あの時のことを後悔することはない。
「申し訳ない。誰かに剣を捧げるのは、もう懲り懲りでして」
 これは半ば方便で、スラヴァルにいた頃も、女帝に剣は捧げていない。あくまで傭兵団として宮廷と契約していたのだが、この辺りの人間は、アナスタシアがその配下であるにも関わらず、女帝に裏切られたと見ている。裏切られたのは確かだが、雇用関係が破棄されただけと、アナスタシアは割り切っていた。契約は守り切るつもりだったが、忠誠を誓っていたかというと、少し違う気もする。ただスラヴァルの盾として、諸侯以上にあの国を守ってきたという自負もある。個人的にも、あの女帝を支える気持ちはあった。
「仕方ないですね。これも巡り合わせですか。ゲクランとレザーニュ伯夫人と共に傭兵団を再び起ち上げる経過については、こちらも把握しています。成り行き、ということにしておきましょう」
「にも関わらず、パリシで兵を募る許可を頂いた。宰相には感謝以外の言葉がありません」
「私も、あなたを買っているのですよ。パリシが解放された、あの時から」
 あの戦、包囲するダンブリッジの軍勢を追い払った後、最初に会ったパリシの将が、このポンパドゥールだった。赤々と燃える空の下、憔悴しきった、それでいて凛とした眼差しでこちらを見据えたあの姿は、今後も忘れられそうにない。
「ゲクラン殿から株を買い上げられたら、私もポンパドゥール殿の指揮下となりますよ。雇用主の言うことは聞くのです」
「ふふふ、面白いことを言います。それはそれで、痛快でしょうね。ただ、あなたが筆頭株主であることは変わらない。飼いならされないよう、手は打ってあるのですね」
「ゲクラン殿とフローレンス殿が、その形を提案してくれまして」
「そうでなくては、あなたも納得しなかったのでしょうね。それはそうと、今日はゲクランが伴った助言役ということですが、私の味方もして下さいよ」
「アッシェンの代表団と心得ております。どちらの味方もしますし、そもそもお二人の関係は、この交渉の場においてあまり関係がない」
「いいですね。私もそのように、どこか達観した境地に立ちたいものです」
 ポンパドゥールが、文官たちに指示を出し始めた。卓の上に、重そうな書類の束が並べられる。パスカルがそちらに歩み寄り、打ち合わせが始まる。見たところ二人の不仲というのは、ポンパドゥールが一方的にゲクランを嫌っている形に見える。今やゲクランと共闘しているアナスタシアはもちろん、その臣下たるパスカルとも話すのに障害がないことを考えると、つまりそういうことなのだろう。
 修道士に呼ばれ、アッシェン代表団は広間へと案内された。長い卓を挟む格好で、会談は行われるようだ。上座ではなく中央に、ポンパドゥールが着座する。その右手は宮廷からの一行、左手はパスカルを挟みゲクラン、そしてアナスタシア、ゲクランが連れてきた書記の一行という並びとなる。
 こうした広間によくあるような、壁紙や壁掛けの類はない。煉瓦色の石造りの広間で別の色彩を放っているのは、上座向こうの暖炉の火と、僅かに開けられた鎧戸のの向こうに見える、灰色の空だけだ。水差しと灰皿すら、赤みがかった陶器である。
 やがて、レヌブランの一行がやってきた。先頭。名を聞かずとも、あれが”弾丸斬りの”ジルだとわかった。噂通りの悪相で、憤怒の面を顔に張り付かせている。癖の強い金髪が、肩の上で踊っていた。
 身長は、150cmに満たないだろう。だが、発している気が半端ではない。大男が導火線に火を着けた火薬の樽を抱えてやってくるような、物騒極まりない空気だ。束の間、アナスタシアは目を細めた。文官たちが唾を飲み込む音が、はっきりと聞こえる。武の素人たちにもわかる程に、強い気だということだ。
「レヌブラン代表を務める、ジルと申します。本日は我々の求めに応じて頂き、誠に有り難く存じます」
「アッシェン宰相の、ポンパドゥールです。失礼ですが、ジル殿の役職は」
 席に着こうとするジルに、ポンパドゥールが挑むような目つきで手を差し出した。それを軽く握り、鬼の面の娘が着席する。
「アッシェン宰相を相手取るのに、私ごときでは格が落ちますかな。レヌブランは長くアングルランドの支配下にあり、属国、つまり国という形を取りながらも、宰相職はアングルランド宰相ライナス殿が兼務しておりました。大使と総督を兼務していた私が、あえて言えば現場に於いて、それに近い立場でしたでしょうか。といっても内政を能動的に取り仕切る立場になく、本国からの要望を政策として形にしていただけです。予算を組む権限は、総督府に。一応、そのような前歴からこのような場での交渉に適していると陛下は判断されたようですが、私個人としてはアヴァランを落とした将として、ここにいるつもりです」
 上手いな、とアナスタシアは思った。その意外な程に穏やかで流暢な語り口もそうだが、ポンパドゥールの質問にまともな答え一つ寄越さず、論点を拾え切れない程に分散させた。突っ込み所が無数にあり、かつどこから入っても本質から外れていくことは明白だ。アッシェンは宰相自らが出てきているのだぞという、ポンパドゥールの主導権を握りたい一撃を、煙に巻いた形となる。いや、一つ一つのジルの立場を総合すれば、戦を率いたという点も加味して、ジルが力関係で上に立ったとも取れる。
 逃げの一手で、こんなことを述べているわけではないのだ。恥をかく前にそちらの立場をよく考えろ。意図としては、そんなところか。
 隣りのゲクランが肩をすくめて、アナスタシアの方を振り返った。目が、笑っている。
 機先を制そうとしたポンパドゥールの一手などなかったかのように、双方が自己紹介を始めた。こちらの挨拶には各々一瞥をくれただけのジルだったが、アナスタシアが口を開いている時だけは、じっとこちらを見つめていた。常に怒りの形相なので、今ひとつ彼女の心理が読めない。所作は落ち着き払っており、緊張を隠そうとする素振りもなかった。
「まずアヴァラン返還に対する、こちらの要望についてですが」
 モンス伯レーモンが、切り出す。ジルの両隣はそのレーモンともう一人、ヴィクトールという巨漢の青年である。しかめ面のレーモンと異なり、こちらは常に目元に微笑をたたえていた。余裕と言うよりも、この場を楽しんでいるように見える。
 レヌブランの要望は事前に聞いていた通り、アッシェンとの同盟のようだった。ポンパドゥールとレーモンが多少の綱引きをしているが、その線から大きく外れる気配はない。
「盗人猛々しいとは、このことね。ただ、悪い話ではないと思うわ」
 ゲクランが話に割って入り、ポンパドゥールは眉間に皺を寄せた。
「してやられたのは、こっちだしね。戦に負けたとあれば、敗者にある程度の譲歩は必要でしょう。そっちの言い分を丸呑みってわけにもいかないけど。アナスタシア、どう?」
「レヌブランが今後、アッシェンに復帰することはない、そう考えてもよろしいのでしょうか」
 ヴィクトールが声もなく笑い、目を閉じて話を聞いていたジルが、こちらを見た。
「同盟は、結構でしょう。戦が絡んだ。そのやり方を卑怯と批難することもできますが、概ね戦とは卑怯なものです。ただ私の記憶違いでなければ、アンリ陛下の百年戦争の着地点は、百年前のアッシェン領土の復帰、失地回復と窺っております。宰相、この点については」
 軽く咳払いをした後、ポンパドゥールが言葉を継ぐ。
「もう、その話に移りましょう。ええ、アッシェンとしては同盟に期限を設けたいと考えております。三年、こちらはそれを限度と考えておりますが」
「レヌブランとしては、恒久的な和平を望んでおりましたが。しかしこの場だけで両国の関係性を永久に定めてしまうことは、難しいようですな。十年。それでいかがでしょうか」
 ジルの口調は平静そのものだが、正面に座るポンパドゥールは、その形相だけでどこか気圧されているようだった。このままでは六、七年で落ち着きそうな気配である。
「一年、でいいんじゃない? そもそもレヌブランと境界が接しているのは、アヴァラン領しかない。レヌブランがこうもあっさりアヴァランを取引材料に使ってくるのなら、東に向けての領土拡大はないと思っていいわけだし。私の所も、次からは気をつけるわ」
 ゲクランが、自らの被害を元手に、綱を大きく引き戻す。領内への侵犯を不問にするので、こちらに少しは譲歩しろ、という構えだ。
 一年の同盟などあってないようなものだ。表向きゲクランはレヌブランとの同盟に反対の立場に見えるが、そこは歴戦の戦略家、裏の一手をちらつかせてもいる。そもそも先程、同盟は悪くないとも口にした。
「同盟を結べないとなれば、アヴァランを平定した我々は、まずゲクラン伯と対峙することとなります。ゲクラン伯、西進はいつ頃をお考えで?」
 レーモンの一言は脅しにも聞こえるが、最後の言葉はあるいは、西進への協力を持ちかけているようにも聞こえる。
「痛いとこ突くのねえ。私だって、あなたたちとやり合いたくはないわよ。ただアッシェンの総意として、いずれはあなたたちの領土も返してほしいのよね」
 ゲクランの挑発に、ジルが書類の束から顔を上げて応える。
「アンリ陛下を、説得することは可能でしょうか。すぐにという話ではありません。十年もあれば、陛下もいくらか心変わりされるかもしれません。かつての同胞が、自らの足で立ち上がろうとしている。国として、アッシェンはレヌブランの親と言ってもいい。子の成長を、しばし見届けてはくれませんか」
 さらりと、レヌブランはアッシェンに復帰する意志はないと告げている。期間を区切られるのは、本当にレヌブランに取って望ましくないことなのだろうか。アナスタシアはパイプに火を着けながら、軽く探りを入れてみた。まずは、外堀を埋める。
「あくまで敵はアングルランド、そう定めているのですな。共闘は、可能でしょう。アングルランドを奪った後、レヌブランの地をアッシェンに返還する意志は?」
「ありませんな。アングルランドと引き換えに、レヌブランという国そのものがなくなってしまう。我々の目的は確かに打倒アングルランドですが、そちらからの充分な助力があったとしても、多くの血を流した末に治める地を交換しただけでは、これから死んでいく者たちに申し開きのしようもありません」
「もう少し、いいですか。ここにはちょっとした助言以上のものは求められていないと、民間の私としては充分承知しているのですが」
 ポンパドゥールに言うと、彼女は不承不承という顔で頷いた。正直、ジルをやりづらい相手と考えていたのだろう。
「ノースランドとの同盟は、どのようになっていますか。機密事項を知りたいわけではない。期限などがあるのなら、こちらも譲歩できる材料を作れるのですが。それこそジル殿の言われたように、アッシェンにはレヌブランの独立を侵害する権利はない。ただ、信用にも担保が必要ではありませんか」
「対外的に公表したものではないがゆえに、ノースランドとの協力関係に、今のところ期限を区切ってはいません。永久とも言えるし、明日にも切れると言える。そしてレヌブランは何も、諸国を併呑して新たな世界帝国を望むものではありません。ただ独立した王国として、今より力を蓄え、民の安寧と発展を望むばかりです」
 余計な一言が入ったことで、アナスタシアは確信した。レヌブランはパンゲアの覇者、少なくともユーロ地域全土の征服を企んでいる。ノースランド、アッシェンと恒久的な同盟を成してしまえば、狙える領土は限られてくる。そんな小国を打ち立てる為に独立を企図したとはどうしても思えなかったが、世界帝国という言葉を出してしまったことで、レヌブランの野望は今や、その全貌をはっきりと現しつつある。
 レヌブランはアッシェン、ノースランドとの同盟でアングルランドを奪った後、ノースランドという痩せた土地を後回しにし、まずはアッシェンに牙を剥いてくるだろう。つまるところ恒久的な平和など腹芸で、五、六年の同盟が真の狙いと見た。
 ゲクランもそれに気づいたのか、肘でアナスタシアの横腹を突いてきた。でかした、と口に出したいのを堪えてか、口元を隠して煙管を吸い込んでいる。
 ここに来て、ゲクランとポンパドゥールの不和が痛い。二人に、この場での阿吽の呼吸を求めるのは酷だろう。そしてアッシェンとレヌブランの交渉である以上、決定権は宰相たるポンパドゥールにある。
「私が西進を目指すとして、レヌブランはどこまで協力できる? まずはその話をしましょ。それ次第で、同盟の年数が決まっていくんじゃないかしら」
 すかさず、先程は同盟に反対の態度を取っていたゲクランが、譲歩を始める。この辺りの変貌振りと畳み掛けは、さすがにゲクランである。先程のジルの失言は、おそらくこの会談で最初で最後のものだろう。それに気づいたのか、ジルはゲクランの話に乗ってきた。
 しばらくは、地図を睨んでの細かい話し合いとなった。アナスタシアとしては充分役目を果たしたという達成感もあり、後は両国の駆け引きを耳に入れる程度である。
「そろそろ、昼食としましょう。腹が減ってるとお互い、カリカリしていけませんや」
 それまでほとんど口をきかなかったヴィクトールがそう言ったことで、誰もが一瞬、そちらに目をやった。ジルとレーモンが揃って相槌を打ったことで、この男の存在が、いきなり大きなものとなる。レーモンの義理の息子、先のアヴァラン戦の副官という紹介だったが、二人の態度からいっても、この男がレヌブラン側の真の代表なのかもしない。だとすれば、ジルが冒頭自らの立場を代表という言葉以外で曖昧としたのも、頷ける話だ。
 先方の話を鵜呑みにすれば、しかしこの男の態度に整合性が取れなくなってくる。実際はバルタザールの近縁の者なのだろう。新王自身も巨漢と聞く。隠し子、というのが一番強い線と感じた。そして、いずれは王太子として立てるつもりか。器が大きいことは、すぐにわかる男なのだ。
「ほら、ちょうど六時課(正午)です。なにやら、美味そうな匂いもしてきました」
「では、そちらがよろしければ、一度昼食にしましょうか」
 既に椅子を後ろにずらしながら、ジルが言う。ポンパドゥールも頷き、一時閉会の運びとなった。
 ひとまず回廊の方に出て、アナスタシアは大きく伸びをした。目の前の中庭では、冬の花をつけている木々が並んでいた。草花も、ちらほらと咲いているものがある。大きな修道院であり、中庭も方々にあることだろう。あるいはこの中庭は、常緑樹で揃えているのかもしれない。どこの中庭も冬支度の枯れた色では、長い冬を索漠とした気持ちで過ごす羽目になる。
 日差しは強く、長椅子の上などは、あの暖炉の遠い広間よりも、よほど暖かそうに見えた。
「アナスタシア殿」
 掛けられた言葉の意外さに、束の間パイプを持つ手が止まった。
「ジル殿。どうされました」
 口角が僅かに上がっているのは、彼女なりに笑おうとしているのだろうか。笑う時もあるのだろうが、作り笑いは苦手とみた。かくいうアナスタシアも、いつもぼんやりとした顔をしていると人から言われ、愛想笑いが下手である。
「よろしかったら、二人だけでお食事でもいかがですか。日の当たる場所は、かえって室内より暖かそうだ」
「私も、同じことを考えていました。そこのベンチで、どうでしょう。そういえばここでは、どんな食事が出るかご存知ですか」
「パンとチーズと、豆のスープだったかな。あと、林檎酒か。食後に、ハーブの茶。いずれも、ここの修道院で作られたものだそうで」
「ヴィクトール殿のような偉丈夫には、物足りなさそうな献立ですね」
「なに、戦場の糧食も、似たようなものでしょう」
「確かに。ある意味、ここも戦場だ」
 ジルは修道士の一人に声を掛け、食事を運んでくれるように頼んでいる。他の者たちはこちらの様子を物珍しそうに眺めながらも、それぞれの控え室へ戻っていった。
 長椅子に、並んで腰掛けた。中庭、向かいの回廊、そして冬の空。見えるのは、それだけだった。
「遅ればせながら、初めまして。一度、お会いしたいと思っていたのですよ」
「初めまして。大陸五強のジル殿が、私などに?」
 聞いて、ジルは本当におかしそうに笑った。怒りの面とは真逆の、見る者の胸を締め付けるような、ちょっと泣き出しそうな笑い方をする。
「あなたも、そうでしょう。”陥陣覇王”アナスタシア」
「あまり、そういう自覚はないのです。見知らぬ人間がこちらを知っていると、今でも居心地が悪い」
「私など旅暮らしの間は、この顔と名がもっと知れ渡っていればと思っていました。無論有名になって下らない自尊心を満たしたいわけではなく、こんな小さな女が一人で旅をしていると、よく物騒な連中に絡まれるのです。その度に、無駄な血を流させることになった」
 “弾丸斬りの”ジル。数年前までは、当代最強の冒険者と称されていた。
「失礼ながら、今年でいくつになりました? 相当若い頃から、その旅をしていると見受けられる」
「十八歳です。確かに、十二歳からの旅暮らしです。この歳になった今でも、アナスタシア殿から見たら、小娘でしょう。アナスタシア殿は確か、二十一歳でしたか」
「なので、似たようなものでしょう。童顔なので、たまに子供扱いされることもあります。それもまた、不愉快ですね」
「私ほどではないでしょうが、互いに顔で苦労しているようですね。アナスタシア殿は、綺麗な顔をしていると思いますが」
「造作は良くないと自分では思っているのですがね、ぼんやりしてるだとか眠そうだとか、よく言われます。ただこの辺りの人間からすると、肌を羨ましがられることはあります」
「肌理が細かい。思わず、見とれてしまいそうだ」
「北の女は、概ねこうですよ。ジル殿は、はっとするような笑顔をされますね。いい笑い方です」
「そうなのですか。初めて言われました。ああ、食事が来たようです」
 盆を膝の上に乗せ、しばらくは食べることに集中した。ジルの食べ方はどこか上品で、無礼と知りながらも、つい目が行ってしまう。
 焼きたてのパンは香ばしく、チーズの癖がやや強いと思ったが、深みのある豆のスープと、すっきりとした林檎酒で、鼻の奥に残るチーズの臭みも気にならなくなった。修道士はこちらに目を配っていたのか、食べ終わるとすぐに、香草の茶が運ばれてきた。
「私は、ハーブティーについてはよく知らないのです。これは、何なのでしょうかね」
 ジルが、茶のカップをじっと見つめながら言った。
「ローズヒップじゃないですか。様々な効用があり、私の様に煙草を吸う人間には、特に良いとか。美容にもいいと言われていたかな」
「なるほど、私もこれを常用して美肌を目指しても良いかもしれませんね。アナスタシア殿のように。いい味だ」
 その香りを楽しみつつも、ジルは茶を堪能しているようだった。目を閉じた時の表情も、ジルのそれは鬼の面とは程遠い。眉間に深く刻まれた皺がすっと消え、可憐な少女の素顔が見える。少し丸い鼻先も、愛嬌があった。
 本当に笑った顔や、まして目を閉じた顔など、鏡で見ることはできない。アナスタシアが口火を切ったとはいえ、先程から顔の話題が多かったのはやはり、ジルがそれを相当気に掛けているからだろう。
 気に病むことを避けるか、進んで話題にするかで、見えてくるものはある。ジルは、自分の悩みから逃げない後者であろう。ゆえにこそ先程うっかりと、世界帝国などという言葉が出てしまった。本心を引っ張り出してやろうと誘ったアナスタシアだが、何が出てくるかまではわからなかったのである。
「一目見て、私より強いと感じました。以前は滅多に感じなかった感覚ですが、こちらに来てからは、何度かある。スラヴァルから出て、世界は広いと感じています」
 少し申し訳ない気持ちもあり、違う話題を振ってみる。目を開けたジルの顔は、怒りのそれに戻っていた。が、その表情と裏腹にジルの機嫌が悪くないことが、今はわかる。
「立ち合いなら確かに、私の方が強いかもしれません。私は、私より強いと感じる相手に、久しく会っていないもので。組み打ちだけなら、名はご存知でしょうが、”打骨鬼”マイラが、私よりあるいは、と感じた程度です」
「マイラとは、一度立ち合っています。やはり私よりも、強いと感じた。助けが入り、今も生き延びている次第です」
「ああ、確か奪還前のパリシで会っているのでしたね。立ち合ったとまでは聞いてなかった。それと、先日まで同じアングルランドに仕えていながら、”熱風拍車”ウォーレス殿と、対面する機会がなく。が、おそらく私の方が強いか、せいぜい互角でしょう」
「良い自信をお持ちです。まぶしくもあるな」
「ですが私も、軍を指揮する立場になってしまった。指揮官としては歩き始めで、戦場ではあなたやウォーレス殿の前では、あっさりと首を獲られてしまうことでしょう。軍人としての強さと武人としての強さは、根っこは繋がっていても、咲いている花がまるで違う。この強さではあなたたちはもちろん、そこそこ名が売れた将くらいでも、私を斬り伏せることができそうです。そういうことが、わかり始めました」
「指揮に慣れれば、ジル殿も強い将になるでしょう。ある時、立ち合いと同じものだと、気づくはずです」
「同じことを、初陣で言われました。それを掴めるのが、いつになるのか。初めての指揮は瀬踏みに終わり、二度目は奇襲でした。兵の調練はしてきましたが、遊びのようなものです。私はまだまともな戦の経験がなく、奇しくも相手は同じイジドール殿だった」
「縁があったのですな。すぐに、強くなりますよ。指揮官に成り立ての者は、己を鍛えることと指揮を覚えることを同時にこなしていくのですが、あなたは既に、個人の武を極めてしまっている。指揮だけならコツを掴むと、自然と上手くなるものです。ただそれ以前に、ジル殿には大将としての資質もありそうだ。指揮官を見る目には、多少の自信があります。もっともそれが私にとって、どう転ぶかはわかりませんが」
「何年になるのかはわかりませんが、レヌブランはしばしアッシェンと手を組むことでしょう。でも不思議だな、アナスタシア殿。私はどうしても、あなたと轡を並べられる気がしないのですよ」
 ジルはあの、泣き出しそうな笑顔で言った。
「だからあなたとこうして、二人きりで話したいと思ったのかもしれませんね」
 アナスタシアは、パイプに口をつけた。紫煙が、冬の空と同化していく。
「短い付き合いでしたが、青流団の者たちを、友のように感じました。ジル殿も、まるで旧い友のように感じている」
「私も、アナスタシア殿とは、出会ったばかりなのに、奇妙な友情を感じます。これもまた、不思議なものです」
「友だと思っても、戦場で対したら、斬る。軍人の宿痾なのでしょう」
「それはやはり、胸が張り裂けそうなものなのでしょうか。私は自分が斬るべきだと思った相手しか、斬ったことがない」
「いや、そうでもない気がします。そして斬られるなら友にと、そうも思っています」
「私はまだ、こうして話したアナスタシア殿を、斬りたくないと感じている。こんな気持ちも、戦塵に吹き飛ばされてしまうのかな」
 しばし二人で、澄み切った空を見上げていた。控えの間の扉がどちらともなく開き、両陣営が広間へと向かう音が聞こえる。
「私たちは交渉が終わるまでこの地に留まりますが、アナスタシア殿は他に用事があるとか。いつまで、いらっしゃいます?」
「午後の交渉までは。日が落ちる頃には、ここを発ちます」
「ではもう少し、一緒にいられますね。あの広間での、やり取りになってしまいますが。あまり、いじめないでやって下さい」
「気に障るようなことを、言ってしまいましたか」
「二度、してやられたと思いました。このような仕事も慣れてきたつもりでしたが、駆け引きでは、敵わないな。あの宰相も知恵者ですが、軍略家ではなく、内政に長けた者なのでしょう。どこか、手の内が透けて見える。あなたが代表だったら、手玉に取られていたとわかります。この後も、どうかお手柔らかに。ああ、そういえば、これを聞き忘れるところだった」
 広間の様子を気にしつつも、ジルは立ち上がろうとしなかった。
「アングルランドの忍びの話では、先日あのセシリア殿の家を訪ねられたとか。二人に、どういった繋がりが」
「初めて剣に憧れたのが、あの人だったのです。最後も、あの人で終わろうと思った。生かされて、帰ってきましたが」
「ああ、アナスタシア殿も。私も宮殿を出た際に、あの人に剣を教えてもらおうと、いや、もっと大切なものを求めて、家を訪ねたのです。ただ、すげなく追い返されてしまいました。それで、旅に出たのです。きっと、世を拗ねてしまったのですね」
「なんと言われました?」
「あなたは強すぎる、そして強くなるには弱すぎる、と」
「今のジル殿には、その言葉の真意がわかっているのでは」
「そうですね。本当に、そうだ」
「しかしジル殿はもっと、狷介な御仁だと思っていた。こうして顔を合わせると、実に話しやすい」
「私も、今日三度目の不思議ですね。このように肩肘張らずに話せる相手は、あなたが初めてかも知れない。胸が、痛い程です」
「ジル殿は、人を惹き付ける魅力がある。それは指揮官として最も大切な資質で、誰もが持ち得るものではない」
「それも、初めて言われました。怖いな。アナスタシア殿とは、いつまでも話していたくなる」
「私もです。そろそろ、行きましょうか」
 駆け寄ってきた修道士に食器を返し、二人は同時に立ち上がった。
「平和な世が訪れたら、ゆっくり話しましょう。傭兵をやめたら、酒場をやるつもりなのです。今はその修行中で、ジル殿にも、何か振る舞えたらいいと思っています」
「それはいいな。その時が楽しみです。ああ、本当に楽しみだ」
 ジルが、顔をくしゃくしゃにして笑う。
 いつかまたこの笑顔が見たいものだと、アナスタシアは思った。

 

 

 

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