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プリンセスブライト・ウォーロード 第23話

「私はどうしても、あなたと轡を並べられる気がしないのですよ」

 

1,「人が人を殺すということ自体、人の営みからは外れている」


 フローレンス一行は、定刻通りにやってきた。
 前回同様、新たな幕僚と、供回りの五十騎程を連れてきている。そしてこれも前回と同じく、アナスタシアが武器の扱いを実演、講釈することになっていた。
 午前の全体調練も、早めに切り上げてある。調練場のそこかしこで、あるいは先に兵舎に戻っていた者たちもフローレンスの来訪を知り、徐々にアナスタシアの元に集ってきた。
「団長の青空教室、始まりますよう!」
 鐘を鳴らしながら兵舎の中を駆け回るアニータの声が、ここまで聞こえてくる。見せ物ではないと言ってあるが、調練を中心とする単調な日常においては、たまの余興も必要ということだろう。
 特にこれまで、アナスタシアは日課の訓練以外で、武器を扱うところをほとんど兵たちに見せていない。全体の調練時でも近づいてきた者を馬上から突き落とすか、素振りをする際も演舞のような派手なことをせず、基本の動きしか見せていない。我流でおかしな使い方をする兵や、まったくの新兵には個々に扱い方の指導をしてきたが、それにしても基礎的なの動作を見せただけだ。
「ようこそ、おいで下さいました」
「アナスタシア様、今日もよろしくお願いします」
 今回は、既に人型には具足を着せてある。が、今回からは接近戦の武器である。飛び道具と違い威力は個々の技量と膂力に左右される為、前回程にそれらを使うこともないだろう。快晴、無風と、今回こそ飛び道具の講釈にぴったりの日和で、そこを少し恨めしくも感じる。
 フローレンスの部下たちと挨拶を交わすと、アナスタシアは早速、槍を手に取った。
「そもそも以前、徴募した兵に槍を持たせるべきか、戟を持たせるべきかというのが、今回の話の始まりでしたな」
 頷くフローレンスと並び、副官のニノンも書き付けを手にじっとこちらを見つめている。先日この二人を、”前髪姉妹”とアニータが言っているのを聞いて、アナスタシアは吹き出しそうになった。二人のぱつんと切り揃えた前髪から目を逸らし、咳払いをする。
「槍は、実に奥の深い武器ですが、それは馬上や個人技においてを含みますので、今は割愛して、徴用兵に持たせることを前提にお話ししましょう。話が脇に逸れることもあるかと思いますが、翻って基本線に繋がる話と解釈して頂ければ」
 槍を構え、それぞれの人型を突く。心地よい音が、原野に響く。鎧は突きを跳ね返すか逸らすかで、素人の腕力ではこの程度だろう。
「槍は、特に集団戦においては、突きが基本です。振り回す、穂先を返して石突きで突くといった技術は必要ありません。大体歩兵の戦列が槍を振り回したら、真っ先に味方を傷つけます」
 何度か、基本の突きを繰り返す。半歩踏み出すと同時に突き、引くと同時に元の位置へ戻る。
「その突きにしても、ある程度体重を乗せつつも、こうした小刻みな動きを教えていくといいでしょう。逆にこの動きの反復だけを教えておけばいいわけで、兵を短期間でそれなりの練度にできるところが、槍の大きな利点でしょうか。脚さばきだけを間違わなければ、片手でもそこそこに扱える、つまり盾を持たせることができるのも、利点でしょうか。それと経費ですが、ご覧の様に鋼をつかっているのが穂先だけですので、武器の中でも極めて安価だというのも、良い点ですね。穂先の鋼の質が多少悪くても、戦列を組む兵としてはあまり影響が出ないのもいい。壊れるのは大体棹が折れる場合で、これはたやすく交換ができる。これは石突きにも金属を使っていますが、なくとも充分実用に耐えます。石突きがあると後ろの方にも少し重心が分散する分、バランスが良くもなりますがね」
「こと歩兵に関しては、利点ばかりということでしょうかっ。欠点は、どこなのでしょうかっ」
 ニノンの質問は、まるでそちらが答えているかの様にハキハキとしている。歩兵は主に、その横で腕を組んで聞いているバルバラの預かるところとなるが、大将付きの副官となれば、一応全てのことに精通している必要はある。
「いや、素人の集団に持たせる武器としては正直、欠点らしいものはほとんどないな。だから古今東西、戦列を組む歩兵の武器は、槍なんだ。ある意味、完成された武器だな。さらに利点を上げておくとすると」
 人型に槍の穂先を刺し、ニノンの方を向く。
「このように、相手とそれなりの距離を保てるのが、徴用兵に関しては何よりの利点かもしれない」
「近づくまでに、何度か突きを繰り出せるからですかっ」
「それもあるが、およそ近接武器で最も、傷つける相手から距離を取れるだろう? これが、心理的に大きい。我々のように戦場に慣れた人間は忘れがちだが、誰かを殺傷力のあるもので傷つけるというのは、本来怖いものなんだよ。殺される恐怖と、同じくらいにな。ニノンはまだ戦歴が浅いようだから、その時の心理をよく覚えているだろう?」
「た、確かに。いくら戦場とはいえ初陣では、相手を殺してしまう恐怖はありましたっ。今も、少しあるかもしれないですっ」
 横のバルバラが、豪快に笑う。アナスタシア同様、この女にとっても新兵特有の恐怖心は、実際の年月以上に昔のことと感じているだろう。
「なるほど。私は慣れた連中とつるんでたから、私自身が感じたあの怖さを、忘れかけてた。だな。私も今後は新兵を鍛えるんだ。そこを見誤っちゃ、いけないな」
「戦場の興奮が、新兵にそれを感じさせないこともあるよな。が、そういう兵も戦が終わった後に我に返って落ち込み、ひどい場合は心を壊す。大体、人が人を殺すということ自体、人の営みからは外れているんだよ。日常では殺したい程に憎い相手でも、実際にそこまで至ることは稀だし、やる奴は罪に問われる。そいつ自身も、どこかおかしくなっている。それをいきなり、ここは戦場だから人を、それを憎んでもいない相手を殺せと言われても、すんなり納得できる者は、そうそういないよな。そうした日常はある意味余計に、人を傷つけることの抵抗を生む」
 アナスタシアは、霹靂団の兵の方へ目をやった。傭兵を志願するような者はいくらか覚悟をしているものだが、新兵の中には食い潰してここに流れ着き、人を傷つけたことのない者が大勢いる。
「多少余談になりますが、ゆえに歩兵同士のぶつかり合いでは、思った程の死者は出ません。一撃で相手を殺す技量を持っているのは指揮官とその取り巻きくらいでしょうし、一撃もらった相手も、出血に動転して、重症を負う前に後ろに下がります。まあ死者の少なさは現場の話で、きちんとした治療を施されない者が傷口を腐らせて、帰郷を前に倒れるという話はよく聞きます」
 フローレンスが、書き付けに羽ペンを走らせ続けている。その面持ちは、沈痛である。
「槍が与える敵との、心体両面に与える距離感。加えて横に並ぶ者たちも同じような動きをすることで、連帯感も生み出せます。横の仲間が守ってくれる安心感と、罪を分かち合う結びつきですね。ともあれこの槍という武器は」
 人型に向けて、素早く、突きを繰り出す。五つ、剥き出しの木に菱形の穴が開いた。
「歩兵にとって最強ではないかもしれませんが、最適の武器です」
 アナスタシアの演舞じみた動きに、兵たちの間からどよめきが起きる。
「ああ、それともうひとつ。敵の騎馬隊の突撃を受ける際には、このような使い方もできます」
 石突きを片脚で踏みつけ、手で棹を支えつつ、穂先を乗り手、あるいは馬の胸の位置まで上げる。
「駆けてくる騎馬相手には、まずこの構えですね。衝撃で槍が折れることもありますが、両手で槍を構えたくらいでは、馬の突進は止められません。この構えなら衝撃は槍を伝って地面に流れます。この構えに騎馬がまともに突っ込んでくれば、相手の勢いで簡単に串刺しにできるか、馬上から吹き飛ばせます。まあ、騎兵にはこれの対処があるわけですが、それは追々。あと余程肝の太い兵でない限り、盾なしでこの構えを取らせようとしても、逃げ出してしまうかもしれません。すぐ目の前まで、馬群が迫るわけですしね。こういった場合には、騎馬相手に特化した槍もありますね」
 前回と違い、今回は講釈の段取りは決めてある。アナスタシアは兵から長槍を受け取った。
「徴用兵が持つことはないでしょうが、これはパイクと呼ばれる長槍です。実に、長い。これは4mありますが、もっと長いものもある。対騎馬に特化した槍で、先程のように石突きを支えに騎馬の突撃に対するのみならず。通常の槍では後方二列目、慣れた部隊でも三列目までしか前線の先頭に参加てせきませんが、これだと五、六列、あるいはさらに後方の兵も敵に対して攻撃を加えることができます。これを専門に扱うことで有名なスミサ傭兵隊の大規模なものが、南の戦線に参戦していると聞きますが」
「そのようです。実際に、目にしたことはないのですが・・・」
 言ったフローレンスが、部下たちを見回す。そのスミサ傭兵隊について知っている者は、ここにはいないようだ。アナスタシア自身も大規模なものは見たことがないが、そこの出身者を団に招き、長槍の指導を任せたことがある。
「騎馬隊の突撃に対しては、ほとんど無敵の部隊です。4mから後方の援護で1mくらいまで、槍の穂先で埋め尽くされた空間を作ることが出来る。騎馬での突破は、相当の犠牲を覚悟しなければなりませんね。まあ、この長槍はやはり、多少余談ではあります。小規模なスミサ傭兵隊は、探そうと思えばこの辺りでもいると思うので、彼らを雇い、そのまま軍に組み入れるか、あるいは準備期間次第では、彼らに指導してもらって、一部隊作っておくのも手かもしれません。徴用兵には日常がありますが、家士や従者を多く抱える者なら、彼らを訓練することは可能だと思います。さて、次ですが」
 愛用の、戟を手に取る。これと身厚の長剣が、アナスタシアが常に戦場に携行している得物だった。共に戦場で何本も駄目にし、それぞれ何代目かもわからないが、ここ一年程は、あのスラヴァルでの激闘にも耐え、同じものを使えている。
「私が最も得手としているのが、この戟ですね。近年はこの手の棹上武器は戟という名で通っていますが、遥か東の国々では戟と呼ばれる武器には厳密な区分があるとか。とりあえずここでは、これを戟としておいて下さい。戟の形状は、一定していません。私のこれは槍の穂先と、その下部に斧を付けたものです。ここが戦鎚になっていたり、槍の部分が三日月型の鎌になっていたりと、形状は様々で、もし用意するなら個々人になるべく合ったものを持たせるといいでしょう。逆に、戦法によっては、形状を統一してもいい」
 片手で、何度か宙を切る。当たり前だがやはり、これが最も手に馴染む。
「初めて武器の話題になった時に、徴用兵にこれを持たせるべきではないと、そんなことを話しました。このような複雑な形状故に費用がかかるのはもちろん、槍の下部に別の武器をくっつけただけにも関わらず、近接武器の中でも最も扱いの難しい武器と言ってもいい。槍の持つ軽さ、取り回しの良さ、安定感といったものが、わずかな細工だけで全て消し飛んでしまうのですな。前回お見せした、弩と長弓の関係に近い。私のこれは槍としても斧としても使いづらい分、二つの武器の特性を同時に活かせるのが利点です。この形を良しとし、完全に使いこなせるまでに、それなりの修練が必要でした。いや今も、より掘り下げられるはずと、日々振り回す毎日です」
 三体並んだ、人型の前に立つ。
「槍としては、こんな感じです」
 どすり、と木の人型に、槍の穂先が飲み込まれる。
「重い槍、といった感じですね。それと重さを利用し・・・」
 引き抜く勢いを利用して頭上で戟を回し、その勢いのまま斧の部分を人型の肩に当てる。袈裟掛けに両断された人型が、無惨に砕け散った。
 返す刀で、鎖帷子に一撃。鎖の輪の中に斧の突起が引っかかるのを利用して、こちらに引く。ずるりと鎖帷子が頭から脱げる形になったが、実戦では相手の態勢を大きく崩すことができる。
 板金鎧。両手で力強く胴を横薙ぎにすると、斧は鋼に深く食い込み、さらには中の人型をへし折った。引き抜きながらその場で刃を回し、肩甲の部分を弾き飛ばした。少し悲鳴に近い声が、兵たちの間から上がった。
「人間だったら、二度三度と死んでいるような有様ですね。私のこれは先端が非常に重たく初見で扱うのは難しいですが、全力で振らずとも、この程度の威力があります。ただ先程申し上げた通り、戟は形状により扱い方も様々です。個人の武に優れた者の集団、麾下の兵で扱える者がいたら、そのまま使わせた方が良いといった感じですかね」
 憂い顔の騎士クロードが何か言いたげだったので、アナスタシアは手で話を促した。
「私の率いる騎馬隊は、それなりに鍛錬を積んだ騎士や家士が中心となる。得物は槍で統一するつもりだったが、戟の修練も積ませた方が良いか」
「しっかりと扱えるというのなら、それもいいかもしれない。が、戟は慣れない者が使うと、まず馬の首や脚を傷つける。隊列の変更時に、周りの馬を傷つけることもあるな。個々人の実力次第というところが、この武器の難しいところだ。ただ私もとりあえずは麾下の五十騎はこれを持たせようと思っている。精鋭の部隊になるしな。それと歩兵でも、やはり既に扱えるというのなら、そのまま扱わせてもいいかなと思う。槍との連携は技量次第になるが」
 クロードが頷く。この男がフローレンス直属の部下としては、最も戦の経験が豊富だ。アナスタシアから伝えることは、今ので充分だろう。後はこの男の判断である。
「何でも出来る、威力も充分と、接近戦で最強の武器の一つと言っても良いでしょうが、全て持ち手の技量次第と、最適からは最も遠い武器かもしれませんな」
「仮に費用をかけたとしても、最適にして最強、などという武器は夢物語なのでしょうね。そんな武器が、あると思っていました」
 苦笑するフローレンスの述懐に、アナスタシアは答えた。
「支給を念頭に置くなら、まずは最適かどうかで判断すべきでしょうね。この霹靂団のように、戦いを専門とする集団相手なら、また話も違ってきます。戟のような武器を訓練する時間も充分ありますし、こうしてフローレンス殿とゲクラン殿に出資頂ける分、武具に金も掛けられます。さてと、次は剣ですが・・・いくつか、種類を用意しました」
 長剣、小剣が用意される。
「フローレンス殿はもちろん、その部下の皆さんも、大抵これを帯剣されている・・・と、バルバラは違うんだな」
 バルバラの得物は大小二振りの斧であり、帯剣してはいない。
「ああ、身分の証明にもなるし、親父たちからは持てって言われてるんだけどな。一応、叙勲された時のものは、持ち歩いてはいる。今はレザーニュ城の部屋に置いてあるけど。鞘から抜くのは、手入れする時くらいだなあ。それと一応、公式の場に出る時とか。実戦で使ったことはない。鉈ならよく使うけど」
「お前はもう、武人として独自の境地に達してるからなあ。貴族の子弟として求められる場面以外は、必要ないのかもしれないな」
「今の前段、大陸五強から褒められてる? へへ、照れるなあ」
 頭を掻きながらはにかむバルバラだが、歯のむき出し方が、どこか野獣めいている。その鍛え抜かれた長身という見た目以上に、この女は強い。武器を振るわずとも充分アナスタシアにはそれがわかる程の強さである。
「ほとんどの方はご存知でしょうから、ここから半分くらいは霹靂団の兵に対しても言葉を発することにします。こちらは逆にちゃんとした長剣を扱う、あるいは持ってもいない者がほとんどですから」
「私どもは従者になった時から、これをまず基本の武器として鍛錬に入りますが、やはり傭兵の間では、そう一般的でもありませんか」
 ジョフロワは先日話を聞いた限りでは、代々続く、まさに生粋の騎士であるようだ。
「元々、貴族や騎士が、身分を示す意味合いが強い武器ですからね。剣の聖十字、というセイヴィア教信者の象徴でもある」
「確かに。騎士であることを示す為に、私などは肌身離さず持ち合わせていますな」
「そもそも長剣自体が、とても高価なものでしょう? 刀身、鍔、そして柄の部分にも芯となる鋼が入っている。槍が安いのは穂先と石突きにしか鋼が入っていないからで、加えてその質が高くなくとも実戦に耐える。逆に剣はそのほとんどが鋼、それも良く鍛えた上質な鋼です。刀身や鍔に装飾、それも貴石を埋め込んでいるようなものは、それ自体が芸術品のように高価なものだ。武骨な、いかにも実戦的なものもあるにはありますが、総じて剣は高い。傭兵などで長剣を持っている者は、多くは質流れか、敵からの鹵獲品です。まあ大抵の場合捕虜となった騎士は、自身の身柄と共に武具も買い戻します。良い剣が安く手に入ることは、様々な偶然が重ならないとないことです。伊達者で、格好をつける為に高い金を出して持つ者もいますか。私は必要あって自分の物を見繕いもしましたが、傭兵でも将校クラスにならないと、中々自分の長剣は持てない」
 言って、アナスタシアは人型に着せていた板金鎧に目をやった。傷みがひどく、使える部品ごとに組み直した方が早いと判断して武器庫で眠っていたものの一つだと思うが、板金鎧はその長剣何本分もの値がするのだ。あそこまで派手に壊してしまうと、一層使える部分は少なくなるだろう。
「良い剣の条件というものはありますでしょうかっ。私が父ジョフロワより賜ったこの剣は、レザーニュ一番の刀鍛冶に打って頂きました。切れ味も頑丈さも中々のものだと思うのですが、アナスタシア様にも、この剣を見て頂けますでしょうか」
 ニノンが、鞘に入った剣を恭しく差し出す。抜いてすぐ、良い剣だと思った。
「まず、バランスが極めて良い。やや身厚であるにも関わらず、そうだな、よく見てくれ」
 地面と平行に、かつ指二本で支えられる支点を探す。剣全体の真ん中ではなく、鍔の下に指を添えると、剣はぴたりと均衡を保った。
「刀身と、鍔を含めた下の部位の重さが同じだ。これはバランスの良い剣の、見本のような一品だな。刀身を長く、ないしは身厚とすることで大抵この支点は刀身の方に移動していくのだが、これは身厚でありつつも、このバランスを保っている。刀身の血抜きの溝が、装飾的であるにも関わらず、重量を下げる役目を兼ねているのだな。この幾何学的な模様の美しさに目を奪われがちだが、実用的なものになるよう、計算された芸術だ。研ぎ方を間違わなければ、名剣の部類に入ると言ってもいい。ジョフロワ殿に、良いものを頂いたな」
「なるほど、ありがとうございますっ。父上にも、あらためて感謝をっ。それとバランスが良いと、具体的にはどのような利点があるのでしょうか。私自身、他の剣と比べて、扱いやすいと実感できてはいるのですがっ」
「単純に、疲れない。戦場ではわずか数合の斬り合いでも、素振り百回以上の消耗を強いられる時があるからな。その点このようにバランスの良い剣ならば、その消耗を大きく減らすことができると思う。重心に近い所に握る手があると、重さを感じづらいんだ。戦場でおかしな興奮に呑まれても、普段通りの力が出しやすい剣とも言えるかな」
 鞘に戻す時も、刀身がするりと吸い込まれる。鞘の方も、かなりの逸品だ。レザーニュにこんな名工がいるのなら、こちらからも何本か発注してもいいかもしれないと、アナスタシアは思った。
「さて、では長剣そのものの話に戻りましょう。槍と同様、戦場で歩兵が、この場合は馬を下りた騎士や家士になりそうですが、槍同様、突きを基本として戦うといいでしょう。ただ槍に比べて小回りが利くので、このように」
 刃を身体のあちこちを滑らすように、最短の軌道で振り回す。
「隣の兵を傷つけず、薙ぎ、振り下ろすことはできます。手数も増やせる。大きく振り回した時がご想像通り最も威力がありますが、乱戦、かつ味方の密集度が低い時に限られますね。あらゆる武器に共通することですが、歩兵が大きく武器を振り回すと、敵より先に味方を傷つけます。なので兵の調練時はこの点を失念しないよう、なるべく密集させて武器の扱いを覚えさせます。ほとんど手打ちに近く、にも関わらず体重の乗った一撃を会得するのは、ある意味通常の剣技を修めることより難しいことかもしれないが、慣れの部分もあります。肩と腰の回転が鍵なのですが・・・と、これ以上は、本題から外れますね」
 話すことに集中できているからか、前回程周囲の様子は気にならない。ふと辺りを見回すと、誰もがアナスタシアの話に集中しているようだった。雑談もなく、聞こえてくるのは小さな咳払いのみである。
「次は、小剣です。歩兵に持たせるのなら、これがいいでしょう。見ての通り、単に刀身を短くした剣ですね。なので細かい動きは、長剣よりも習得しやすい。槍の列を搔い潜って接敵してきた相手には、これで身を守らせるのが良いかと。そもそも刀身が短めなので、バランスが良いのも特徴です。飾り立てる武器ではないので、長剣よりも遥かに安価でもあります。名工を捜さなくとも刀鍛冶の工房ならどこにでも大量に発注でき、ゆえに品質にばらつきが出にくいとも思われます。軍資金に余裕があれば、兵にはこれを持たせるのがいいかと。安いといっても槍と盾を合わせた以上の費用がかかるかもしれませんが、兵の生存率を大幅に高めることができます。手ぶらで徴用される者は少なく、自前で鉈や手斧、短刀を携えて来る者も多いでしょうが、いずれも日常の刃物で、戦場で人を相手にするようには出来ていない。徴用兵も、戦が終われば民に戻る。民の命を大切にするならぜひこの、小剣を持たせてやってほしいものです」
 フローレンスと目が合うと、彼女は力強く頷いた。半ばわかっていたことだが、フローレンスは民の命を捨て石にするような為政者ではない。それでいて、民を戦に駆り立ててもいる。その矛盾は、兵の生存率を高めていくことでしか埋められない。
「今日のところは、この辺りで。質問があれば、受け付けます。お前たちも、何かあるか?」
 アナスタシアは霹靂団の兵たちの方を向いた。兵の一人が、手を上げた。
「団長の剣は、ニノン殿の剣と比べて、どうなんですかね。団長の剣だ。業物なんじゃないかと睨んでいるんですが」
「これか。ニノン殿のそれと比べようもない程に、恐ろしくバランスの悪い剣だ。この通り・・・鍔はおろか刀身の真ん中に指を添えて、ようやく地面と平行になるといった感じだな。刀身の先端に向けて、重くなっている。使いやすい剣の、まさに逆だな。振り回そうとすると、振り回されるぞ。ニノン、興味を持ったようなら、試しに持ってみるか」
 ニノンは頷き、アナスタシアの長剣を構えた。両手剣ではないが柄が長く、ニノンは両手でそれを構えたが、切っ先はみるみる内に下がっていった。
「ほ、本当です。すごく、構えづらいですっ。それに持った時より構えた時の方が、遥かに重く感じて。仰る通り、形はさほど変わらないのに、私の剣と真逆のものに感じますっ・・・!」
 ニノンからそれを返され、アナスタシアはそれで宙を何度か切った。ぶん、といかにも重そうな音がする。
「持った時のバランスは完全に捨てて、逆に重さを全て相手に叩き込む形で打ってもらった。重心を切っ先に向けていることで、遠心力も生み出してるんだ。そういえばお前たち、遠心力ってわかるか」
 霹靂団の、特に新兵たちは、読み書きのできない者がほとんどだ。つまるところ、学はそうない。
「遠心力って言葉に馴染みがなくとも、長物を振り回した時に、先端の方に引っ張られる感覚があるよな。石を結びつけた紐を振り回しても、同様の力が生じる。回転するものが先端に向かって発する、あの力のことだ。感覚的には、わかっている者がほとんどだろう。学術的な理屈について興味のある奴は、グラナテに聞いてみるといい。私よりずっと、理論立てて説明してくれるだろう」
 ドワーフの工兵長グラナテは、その遠心力を数値化し、計算に組み入れることができる。あらゆる物体の運動には、その数値を弾き出せる公式があるとも聞いた。これができる者は、特に軍にあっては少なく、工兵長というのはそうそういい人材を見つけることができない。グラナテがアナスタシアについて来てくれたのは、大きな僥倖であり、財産である。そのグラナテは三つ編みの先を指でくるくる回しながら、自信たっぷりに頷いた。
「ともあれ私の長剣は、特殊な仕様でな。この遠心力を使って馬上で振り回すことを念頭に置いて作られている。一応徒歩でも普通の長剣として扱えるよう修練しているが、これがそれなりにいい筋力の鍛錬にもなっている。徒歩でも、普通の長剣に比べて威力はあるぞ。あの人型で試してみる」
 板金鎧の人型の前に立ち、軽く、ほとんど手首のしなりだけで横に薙ぐ。板金を断ち割り、剣は中の木材に食い込んだ。
「ただの長剣ではそれなりの使い手でも、全力を出さないと板金を断ち割ることはできないが、これがこの剣の重さと遠心力なら、軽く振ってもこんな感じだ。この剣は見ての通りかなりの身厚で、板金鎧よりも厚い。板金鎧がそもそも、見た目よりも薄いというのがあるが。薄い鋼に厚い鋼を、垂直に当てれば、こうなるのも道理だな」
「アナスタシア様特注の剣なのでしょうかっ」
「その通りだな。もう何本目か忘れたが。職人には多少嫌な顔をされることもあるが、意図を説明すれば、こういうものを打ってもらえるよ。重さと頑丈さで敵を具足ごと断ち割るような、武骨な剣だからな。名工じゃなくとも、意図がちゃんと伝われば大抵の者が打てるのも良いところかもな。どんな武器でも、使い続ければいずれは駄目になる。私の様に多く武器を振り回してきた者には自分の特性に合った武器を、名工を探さなくとも製作してもらえるかどうかは、結構重要だからな。私だけが扱えればいいので、量産できるものでもないが。見本用に戟と剣はそれぞれ、予備を持っていたのだが、スラヴァルに置いてきてしまった。これを壊す前にそろそろ、予備の分を用意しなくてはと思っていたところだ。バルバラの剣も、自分の特性に合った剣だったりするか?」
 バルバラに視線を移すと、彼女は緑色の縁の眼鏡を上げながら言った。
「いや、ただの、誰にでも扱える剣だよ。私にとっちゃ、飾りだな。そもそも剣は得手じゃなくてね。剣だけなら私の部下でも、一本取れる奴がいるかもってとこだ。ご存知の通り斧の扱いには自信があるけど、それにしたってあんたの方が上だろ。そもそも、どんな武器を扱わせても、アナスタシア程の使い手なんて、そうそういないだろ?」
「そうかな。お前とこうして出会ったように、まだ名が売れてなくとも、パンゲアにはいくらでも私以上の使い手がいると思っているのだが」
「あんたさ、自分が大陸五強って呼ばれてるの、忘れてない?」
「言われてみれば、そうなのかもな。五強と言われるくらいだ。私以上の使い手は少なくとも、四人はいるということだな」
 兵たちが笑った。あまりおかしなことを言ったつもりはないが、狙っていないところで笑いが起きると、いくらか間の抜けたことを言ってしまったと、自覚せざるをえない。
 ふと、視界の端にノルマランの城門から駆けて来る、十騎程の騎馬の一団が見えた。先頭はこの地の領主パスカルと、その娘で城代のドニーズである。
「何か、緊急の用だろうか。では続きはまた、次回ということにしましょう。霹靂団、指揮官を除いて一旦解散だ。飯でも食ってこい」
 兵が散っていくのと入れ違いに、パスカル一行が到着する。
「パスカル殿自らおいでとは、あるいは有事でしょうか」
「ええ。前置きは省きますが、アヴァラン領が、レヌブランに落とされました」
「なんと」
 振り返るとフローレンスが口を手に当てて、顔を青くしている。先のパリシ解放戦、辺境伯ラシェルと共にフローレンスを支えたのが、アヴァラン公ボードワンだ。あの老公は、無事なのだろうか。
「先日レヌブランが独立したと聞きましたが、展開が早いですな。それも、アヴァランが落ちたのですか。レヌブラン側からアヴァランを落とすのは至難、そう聞いていますが」
 パスカル同様、後ろのドニーズも片脚が不自由とは思えないくらいに、身軽に下馬した。地に片足を着いた時にはもう、松葉杖を手にしている。言葉も、彼女が継いだ。
「このゲクラン領の北端、アヴァラン領との境界ぎりぎりを東進して、アヴァラン領の南唯一の関を突破したみたい。ゲクラン様の居城からも見える、すぐ北の関だよ。輜重も連れてない騎馬だけの部隊が、およそ五千。まさか、部隊単身とはいえそこまでの接近を悟らせなかったのも驚きだけど、輜重隊を連れてなかった、速度だけを重視した部隊だったみたい。ゲクラン様が周辺の兵をかき集めている間にレヌブランは関を突破して、そのまま北上、一気にアヴァランの首邑ノーでキュリーを落としたって話みたい」
「随分と、思い切った作戦ですな。どこかで足を止められれば孤立、一気に全滅しかねない。ですがよく考えると、成功率は高かったとわかります。誰にも思いつかなかったというだけで」
「二つの用件があって、ここに参りました。一つ目の用件はまさにこれで、今回のことについて、アナスタシア殿の見立てを聞いてこいと、我が主に命じられましてな」
 苦笑しながら、パスカルが言う。人使いが荒い、そんな不満は見て取れるが、いつものことと割り切ってもいそうだ。
「はあ。今聞いた話だけで、私がその作戦を論じるのはいささか難しいと思いますが。今のも、ただの雑感に過ぎない」
「しかし、成功率は高いと仰られた」
「こちらにとっては、平時です。国境でレヌブラン軍を発見できなければ、即座に五千という、それも輜重すら捨てた騎馬だけの部隊など止めようもない。アングルランドのように常備軍があるわけでもなし、敵を発見してからの数日で、五千の騎馬の進軍を止める軍など、編成できるものではないでしょう。アヴァラン領の関までその尻尾を掴めなかったそうですが、それが二、三日前でももう、止めようがない。輜重すら持たない騎馬隊なら森への潜伏も選択肢に入り、そして良い道を走り出したら早馬とそう変わらないでしょうからな。ゲクラン殿の居城が攻められなかっただけでも僥倖といったところでしょうか。まあそこを落としたところで守りきれるだけの兵力ではなく、ゆえにそんなことも想定していなくて当然ですが。アヴァラン首邑のノーデキュリーは、どうなのですか」
「防衛に優れているわけでも、大きな街というわけでもなく。アヴァランは平時でも常備軍と言ってよいほどに砦に兵を置き、さらに徴兵も迅速ではあるのですが、防衛力のほとんどは、西の山脈か、北の港の防衛に割かれております。ボードワン殿の居城であること、行政機関の多くをそこに集中させていること、それ故の首邑です」
「後方指揮の本陣といった位置づけの首邑なのですね。無防備な心臓部であったと。ゲクラン殿との長い友好関係を維持できていれば、守兵は警備兵を兼ねた最低限、といったところでしょうか」
「まさしく」
「逆にそこから西の山脈の防備の補給を断っても良し、港を陸路から攻めてもよし。五千でアヴァラン領全体を掌握できなくとも、砦群が落ちれば、今度はレヌブラン本土からアヴァランに侵攻することができる。本陣を落とされれば前線が混乱する、そんな戦と似ていますな。ノーデキュリーを落とされた時点で、アヴァランは降伏するしかなかったのは、わかります。しかも、その全てが速かった」
 そこまで考えて、一つ気になったことがある。
「そもそもレヌブランは、アッシェンに対して宣戦布告を為したのでしょうか。それがないなら、今後諸国間での孤立は免れませんが」
「それが、独立後すぐに、先方から大使、それも跡継ぎのイポリート殿下が宮廷にやってきたようなのです。宣戦布告はまさに、ノーデキュリー城が落とされる、前日の夜に」
「なるほど、完全な奇襲でありながら、かつ諸国から糾弾されない形式は整えていたのですな。戦場に通達が伝わらないことを見越しての宣戦布告など、前代未聞ではありますが。責められるとすれば、行軍中のゲクラン領への境界侵犯くらいですか。ですが既に戦は次の段階に移っていて、何を今更という感じもあります。次の一手は、もう打ってきているのですか」
 パスカルが、我が意を得たりと、にやりと笑う。
「さすがです。この状況、アナスタシア殿がレヌブランの君主なら、どう動かれますか」
「もう、次の手があるのですね。新王バルタザールの戦略眼は推し量れませんが、大胆に見えて、ここまで緻密な軍略です。アヴァランの維持は悪手に思えることを考えると、まずはそのアヴァランを交渉の材料に使いますね。高く売れるはずです」
 パスカル、ドニーズ親子が、顔を見合わせる。
「アナスタシア、私初めて、あなたがパリシ解放の立役者だったことが、心底納得できた。試すようなやり取りは、もうやめるよ。レヌブランはまだノーデキュリー城とその周辺しか押さえてないけど、アナスタシアの言う通り、ノーデキュリーとそこにいた跡継ぎのイジドールの命を、交渉材料に使ってきた。アヴァラン公ボードワンは、詳しい情報はまだだけど、噂では降伏して囚われたとも聞いた」
 首邑と跡取りを押さえているという時点で、アヴァランは抵抗の意思を失ったことだろう。
「それをもって、レヌブランは我々アッシェンとの同盟を望んでいるとの話なのです」
「ほほう。新王バルタザールかその幕僚かはわかりませんが、ゲクラン殿やライナス殿に匹敵するような戦略眼を持つ者が、レヌブランにはいるということですね。さらに言えばこの二人よりも野心的で、厚かましくもある。加えて思い切りがよく、この短時間で大胆な作戦を決行できる辺り、決断も恐ろしく早い」
 横で聞いていたフローレンスは、呆然としている。霹靂団の指揮官たちも、レヌブランに底知れぬものを感じているのか、あのアニータですら神妙な面持ちである。
「この話、どう見られますか。何よりまずそれを聞いてこいと、我が主は」
「血は流れましたが、表立った損害がノーデキュリーだけと考えると、最小の被害です。ここは一時的にもレヌブランと手を組み、共にアングルランドと対峙するというのが、最善ではないですか。アッシェンはもちろん、ゲクラン領もアヴァラン領も大いに面子を潰されましたが、向こうから強引にでも手を差し出してきたのです。臍を曲げていると、何をしでかすかわからない相手です。これと事を構えながらアングルランドまで相手にするのは、それこそ悪手というものでしょう」
 アニータが、拗ねるように唇を尖らせた。
「こちらを不意打ちでぶん殴っておいて、俺たちと手を組んだ方がいいって、そういう言い草ですか」
「だな。まだ小国のレヌブランが、大国アッシェン相手に主導権を握るには、しかしこの手しかなかったようにも思える。だがここは、その手に乗るしかないだろう。もしその手を払いのけたら、今度はアングルランドと何かしらの交渉をして、共にアッシェンに侵攻することもできる。それこそ、アヴァラン領を譲ると言ってな。その属国であった先日までは、首輪をつけられて大人しくしていたレヌブランだったが、その鎖を食いちぎり、既に野に放たれた猛獣だ。アングルランドも属国だったレヌブランの慰撫に努めていた手前、彼らに先陣を切らせることもできなかったが、共に手を組むとなると、これまでとはまるで勝手が違う」
「姫、レヌブランはノースランドと手を組んでいるという話もあります。アングルランドと手を組む可能性は、低いのでは」
 ボリスラーフが、副官らしく、アナスタシアの視界を広げる。
「確かに、低いと思う。ゆえにこそ最初の表立った同盟の相手として、アッシェンを選んだ。が、ノースランドの件は表立ってそれを諸国に発信していない以上、その隠れた共闘関係を破棄しないという保証もないよな。ノースランド叛乱を、これまで裏で焚き付けたのだろう。そもそもレヌブランが独立した王国として立つことすら、誰も予想できなかったのだ。今後の動向もまるで読めない中、唯一こちらに見せている手札が、アッシェンとの同盟だ。加えて当面のところ戦略的に見ても、既に緒戦を取られていることを考えれば、損な部分がまるでない。対アングルランドという一点に限ってだが。してやられたのだな。今や主導権はレヌブランにあり、かつこちらにとって悪くない話を持ちかけてきている」
 どこか納得がいかないのは、ここにいる誰もが同じなのだろう。しかしアナスタシアは、レヌブランに素直に感心していた。
「アッシェンとアングルランドが今更手を結ぶ事はないという点を、見事に逆手に取られましたな。両国とも、レヌブランと同盟できるならそれに越した事はない。そしてレヌブランはどちらと手を組んでも、その勢力を増していくことでしょう。二剣の地に対して、何の障害もなく侵略できる点も大きい。アッシェン、アングルランド双方に剣を捧げていることはレヌブランにとって無関係どころか、征服の口実にもなる。アッシェン、アングルランドに剣を捧げている手前、両国はそのどちらも二剣の地を守る必要が、さらに余裕もない。しばらくは、レヌブランの勢いは止まらないでしょう。それはそうと、もう交渉は進んでいるのでしょうか、パスカル殿」
「いえ、後はアンリ陛下の裁可次第です。ただ宮廷でも、議論は紛糾していることでしょう。どうなるにせよ、交渉自体は行われ、その舞台も二剣の地の東部の修道院ということで、調整が進んでいるようです」
 修道院や教会は、国という組織とはまた別の枠組みである。ゆえに戦時に於ける国同士の交渉事は、そういった場所で行われることが多い。セイヴィア教の宗教施設は、流血が固く禁じられているのも、理由の一つか。
「ともあれ、私の見解は以上です。もう一つ、用件があるとか」
「交渉は宮廷の面々が中心に進めるようですが、ゲクラン様の出席が陛下から求められております。そのゲクラン様の幕僚として、書記を除いた二名の随行が許可されておりまして。一人は、私です」
「もう一人が、私ですか」
「まさしく。助言役として、我が主はあなたを望んでいます」
「私は、ゲクラン殿の配下ではありませんが・・・ただ彼女の出資なしにこの傭兵団は起ち上げられませんでしたし、こうしてパスカル殿の領地を使わせてもらってもいる。その他諸々の援助を考えても、頼みとあれば、断る事はできませんな」
「無理強いはできませんが、私からも、ぜひ。交渉は長期に渡るかもしれませんが、流れが決まるのはほとんど初日でしょう。その最初の一日だけでも、と」
「了解しました。日程は」
「今週の土曜か、翌週末。金曜の夜更けにここを発たれれば、すぐ北の鉄道の駅を使って、土曜の早朝にはゲクラン領の西の端まで行けます」
「ああ、ゲクラン鉄道は、もう完成しているのですか」
「まだ、試験運転ですが。逆に言えば、好きな時間に走らせることもできるわけで」
「蜜蜂亭の仕事を理由に、断る事はできないわけですね。仕事が終わった後に、ここを出る段取りですか。まあそれを理由とするには、事が大きいことはわかっていますが」
 パスカルという腹心を直接遣わして、かつお膳立ても整っている。断れる理由が一つもない。
「わかりました。お役に立てるかわかりませんが、日程が決まり次第、ご一報頂ければ。ゲクラン殿にも、よろしくお伝え下さい」
「助かります。ではあらためてよろしくお願いします、アナスタシア殿」
 パスカルの手を握る。疲れているのか、握り返してくる力は、以前よりも弱かった。いつもの皮肉っぽい笑みにも、どこか陰がある。
 フローレンスたちとあらためて挨拶を交わし、パスカルたちは町の方へ戻っていった。
「大変なことになってしまいました。ボードワン様は、ご無事なのでしょうか。ゲクラン様の西進は、予定通り行われるのでしょうか」
 フローレンスが、不安を隠さずアナスタシアに寄り添う。
「時期は、交渉次第で前後するかもしれませんね。ゲクラン殿の悲願であることを考えても、中止ということはないでしょう。我々は今まで通り、戦に備えることです」
 ふと、北の方に目が行く。手前に山があるので見えるはずもないのだが、あの山の向こうの山脈の上に、ノーデキュリー城があるはずだ。
 その北に広がりつつある曇天を、少しだけ不吉なものと、アナスタシアは感じた。

 

 

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