前のページへ  もどる  次のページへ

 

2,「直接斬った、あたしを恨むかい?」


 長い休みを申し入れるのは、少し勇気がいた。
 戦場にあまり恐怖を感じなくなって久しいものの、やはり慣れないことには常に怖さがつきまとうと、アナスタシアはあらためて思った。
「来週から一週間程、休みを頂きたいのですが」
 仕事着に着替えると、アナスタシアは真っ先にロズモンドにそう伝えた。
「珍しいな。傭兵隊が、忙しくなったのか」
「いえ、戦場に出ていない限り、こちらとの両立に支障ありません。アンリ王から、戴冠式に招待されまして」
 聞きつけたジジが、カウンターから身を乗り出す。今日のジジは体調が悪そうだが、急に元気を取り戻したかのようだ。
「へええ、すごいじゃん。さすが、パリシ解放の英雄」
「からかわないでくれよ、ジジ。それで、ロズモンド殿、ただの茶会程度なら辞退していたのですが、やはり前回の戦は、王にとっても大きなものらしく」
「わかった。そんなに思い詰めたような顔で言うな。用事の有る無し以前に、体調の悪い時は休んでもいいと、普段から言っているだろう」
 ロズモンドはそう言って鼻を鳴らしただけだが、ジジは少し不満そうだ。もっとも、その目は笑っている。
「あーあ、これでまたしばらく楽ができないわねえ。ま、忙しくなったらリーズ呼ぶから、安心して羽を伸ばしてきなさいな」
 リーズとは、隣のパン屋の娘である。アナスタシアが来る以前は、時折この店を手伝っていたと聞いている。アナスタシア自身は、パンを仕入れる時や、共用の裏庭で挨拶する程度で、彼女自身と深い付き合いがあるわけではない。もっとも、アナスタシアはジジとはまた別に、彼女をこの店で働く人間の先達だと思っていた。
「羽を伸ばす、と言うには、格式張った場だと思うがな」
「ドレスとか、着ちゃうの?」
「戴冠式そのものは、先の戦を戦った軍人としての出席なので、具足姿かな。二次会は宴席で、そちらではドレスに着替えることになりそうだ」
「じゃ、パリシで何か買うの?」
「いや、使いの者に持っていないと告げたら、向こうで用意するとさ。いくつかあるものから選べるそうだから、あまり派手なものにしないようにするよ」
「ジジ、注文入ってるぞ」
「あ、はーい、すぐ伺いまーす」
 ジジが客の方へ向かうと、ロズモンドは流しの横に積まれたじゃがいもの箱を指差した。今日の仕事は、芋の皮剝きから始まるようだ。最近になってアッシェンでも急に普及し始めたじゃがいもだが、この店では早くからこれを出していた。
 先日ハニーローストピーナッツを任されるようになってから、厨房に入る機会が多くなった。以前はたまに入ることがあっても、皿洗いや掃除、保冷庫の氷の入れ替えがほとんどで、芋の皮剝きすらほとんどやらせてもらえなかった。少しずつだが料理人の修行が始まっているのだと、アナスタシアは感じていた。
「寒くなってきました。根菜も、増えてきましたね」
「当然、煮込み料理も増えてくる。煮込みは誰が作ってもそこそこのものができるが、本当に美味いものとなると、途端に難しくなる。店の味となると、特にな。俺に教えられることは、少しずつ教えていってやる。春になるまでには、一人で作れるようになれ」
「はい。ご指導の程、よろしくお願いします」
 今日は、客の入りがいい。寒い時期の方が客がよく入ると、ジジが以前言っていたか。夏場はビールの美味い、あるいは種類の多い店が繁盛するが、冬が近づくにつれ、この蜜蜂亭の蜂蜜酒のお湯割が恋しくなる客が増えるらしい。水割りに氷を入れたものもかなり美味いとアナスタシアは感じているが、この町では蜂蜜酒は温かいものの方が、客受けが良いそうだ。
 厨房でやることがなくなったので、アナスタシアは頭に巻いていたスカーフを首に巻き直し、客席の方へ出た。暖炉脇で客が呼ぶのを待っていると、ジジか煙草に火を着けながら戻ってきた。
「手伝おうと思って来たのだが」
「一段落着いたわ。追加の注文やお代わりがあるから、あまりゆっくりとはできないけどね、今晩は」
 そろそろ、ジジは月経の時期である。多少忙しいとはいえ、彼女がここまで疲れた顔を見せるのは、そういう時だけだった。予想通りジジは芝居がかった感じで顔をしかめ、下腹を擦ってこちらを見つめた。
「後は、私がやる。ジジはちょくちょく休んでくれ」
「そうさせてもらう。ま、もう少し頑張ってみるわ。それよりさ、パリシに行ったら、色々食べ歩きとかするの?」
 目の下に隈を作りながら、なおその瞳を輝かせて彼女が訊く。
「時間があれば。パリシから戴冠式の行われるランスまでは、大陸鉄道で一時間とかからないからな。それなりに時間はあるはず。けどその余った時間で、オールドー派の教会に行こうと思ってるんだよ」
「ミサに出るの?」
「それもあるが、正式に、こちらに籍を移そうと思ってる。私の籍はまだ、スラヴァルのものだけだからな」
「ああ。それを済ませれば、アナスタシアもアッシェン人の仲間入りってわけだ」
「スラヴァルとアッシェン、二つの国籍を持つことになりそうだ。まあこの外見だ。周囲も引き続き私をスラヴァル人と見るだろうし、今更それに不都合はない。が、傭兵団の運営に関しては、色々と面倒くさい手続きが、その都度発生するんでな。当分ここに居を構えるわけだし、パリシに行く機会があったら、そうしようと前から思っていた」
「オールドー派の教会はこの辺りじゃ珍しいから、一番近場でパリシだもんねえ。なんだ、時間あったら、何かお土産買って来てもらおうと思ってたのに」
「行きに済ます予定だから、帰りに時間を作るよ。元よりジジとロズモンド殿には、何か買ってくるつもりだった」
「あのエロい下着でいいわよ」
「あれか? 結構値が張るが、頼みとあらば、買ってくる」
「ホント? そこで一番安いヤツでいいわよ。お金も、半分出す」
「日頃の礼だ。金はいい。適当なものを見繕ってくるよ。男物の下着もあったから、ロズモンド殿もそれでいいかな。いや、冗談だ。そんなに笑うなよ」
 ジジは腹を抱え、それでも爆笑の声を洩らすまいと、身を震わせてこらえている。
「ひー、ひひっ、ふう。マスターが飾りのついたぴっちぴちのビキニパンツ履いてるとこ、想像しちゃったわよ。もう、変に体力消耗させないで」
「やっぱり、客席は私一人でやる。ジジは、奥で休んでいてくれ」
「わかった。カウンターに入ってるわ」
 前屈みのまま厨房の中に入ったジジは、木箱の一つに腰掛けた。早速カウンター席にいる常連と話している辺り、力仕事でなければこなせそうだ。
 扉の鐘が鳴り、案内する前に、窓際の席に二人の娘が腰掛けようとしている。いらっしゃいませと声を掛けながら注文を取りに行くと、その二人はアニータとシュゾンだった。
「珍しい組み合わせだな」
「シュゾンさんが一人でいたんで、誘ってみたんですよ」
 アニータが言い、シュゾンが長い黒髪を揺らしてこくりと頷く。一人でいたということは、娼婦たちの所に行って、例の衝動を発散しようとしていたのかもしれない。性欲ではなく、自分を壊してしまいたいという衝動だ。
 娼婦たちの元締めからは、あれから何度か、シュゾンがその天幕群にやってきたという話を聞いている。アニータもこの件については知っており、あるいはそれを思いとどまらせたくて、ここに誘ったのかもしれない。傭兵になるような人間はなんらかの屈託があるとアナスタシアは思い定めている為、全体の調練時以外の行動は好きにすればいいとしているが、アニータにとっては看過しづらいことでもあるだろう。
「あ、あの、お酒は、あまり・・・」
「紅茶とコーヒーもあるぞ。喫茶店ではないので、茶葉や豆は選べないが」
「あ、あの、コーヒーというものを、飲んでみたい気がします。ずっと、憧れていたので」
 アッシェン最先端の都市パリシ出身とはいえ、貧困と虐待に喘いでいたシュゾンである。それを当たり前に飲む人々を、どんな目で見ていたのか。
「初めてか。苦いぞ。ミルクも多めに付けて、今晩は私の奢りということにしておこう」
「え、い、いいんですか」
「口に合わなかったら、紅茶に替えていい。そちらはちゃんと、金を払ってもらうが」
「じゃあ、それで、お願いします」
「私は紅茶と、とりあえずローストピーナッツ二皿で。もう食堂でご飯済ませて来たんで、とりあえずそれで」
 アニータの同意を求める視線に、シュゾンが小さく首を縦に振った。
 他の卓の追加の注文も受け、それを運んでいる間にも、二人の様子を視界に入れる。アニータが一方的に話し、シュゾンが頷く動きが続いている。あの組み合わせでなくとも、あんな展開にはなっていただろう。シュゾンは問われれば意外と長い言葉で応えるが、元々自分から必要もなく他人と接する類の人間ではない。
 晩飯を食べに来た客の大半が帰り、忙しさの反動か、少し暇になったので、二人の元へ行ってみる。厨房の方では、ロズモンドとジジが話し込んでいた。ジジはもう立ち上がっており、客席の様子にも目が配れるだろう。
「ああ、団長、ランスには、一人で行くんですか」
「そうだよ。私しか招待されてないからな。アニータも来たいか。パリシで一旦別れることになるが」
「いえ、今はこっちが忙しいですから。ボリスラーフさんに全部任せるのも、創立メンバーとしてはどうかと思いますし」
「これは、大きく出たな。初めてお前を、頼もしいと感じた。シュゾン、コーヒーはどうだ?」
「おいしいです、とても。もう一杯、頂いてもいいですか」
「もちろん。気に入ってくれて、良かったよ」
 アニータも紅茶のお代わりを頼んだので、厨房に入る。茶葉を用意するアナスタシアの傍で、ジジが豆をすり潰し、ドリッパーを用意してくれた。
「ねえ、あの、アニータと一緒に来た娘、なんか妙にエロくない? 纏ってる雰囲気って言うの? 女のあたしでも、妙にそそられるっていうか・・・」
「過去に、色々あってな。彼女の許可なしに、話せる内容じゃないんだ」
「あら、ごめん。気軽に話題にしていいことじゃなかったのね」
「その点を除けば、普通に接してやってくれ。屈託があるが、性根の曲がった人間じゃない。むしろ何か純粋なものを持っているがゆえの、屈託かな。生い立ちの過酷さに負けていたら、悪い人間になっていたとも思う」
「あいわかった。難しい客の相手なんて、嫌になるほどしてきたからね。悪い子じゃないのなら、常連になってもらうわ」
 二つのカップを盆に乗せ、ジジがアニータたちの卓へ向かった。
「アナスタシア、頼む」
 ロズモンドが、肉の入った保冷庫を指差す。そろそろ、氷が溶けてくる頃合か。開店中は開け閉めが多くなるので、どうしても氷の消耗が大きくなる。
「はい、すぐに」
 保冷庫の中を見て、ちょうどいい大きさの氷に当りをつける。地下に降り、氷室から氷の板を抱えて戻ってくると、ジジは窓際の席で、シュゾンたちと談笑していた。シュゾンの笑う顔は、珍しい。さすがは、ジジといったところか。
 常連の客に話しかけられ、世間話と酒のお代わりを運ぶと、しばしやることがなくなり、暖炉の前でパイプに火を着けた。
 来週の今頃はランスか、とアナスタシアはぼんやりと考えた。

 

 最初の城が、見えてきた。
 今からあの城を、交渉のみで落とすつもりである。もっとも、やり方こそ知っているものの、実行に移すのは初めてである。リッシュモンは石膏で固められた左腕を、その上から掻いた。むしろ、中の痒みは強くなった気がする。
「緊張してるのかもな。怖さはないはずなんだけど、それでも、嫌な感じがする」
「何か想定外のことが起きる、初めてのことは、いつだってそんな気がするからでしょう。未知に対して人は、いつも恐怖を感じるものです」
 轡を並べる、ザザが応える。真面目一徹なこの女らしい、いかにもな正論である。リッシュモンと同じ赤い具足姿だが、陽光を照り返す、銀というより白に近い髪と澄ました横顔が、”ラ・イル”(憤怒)という異名を過去のものにしつつあるかのように、独特の落ち着きを醸し出している。
 女にしては肩幅が広く、顔も肉厚な唇をいつもへの字に曲げており、美人というわけではない。おまけに目の下に、顔を横切る大きな傷痕がある。三十を二つ越えた歳で、いくらか容姿も曲がり角といったところだろう。にもかかわらず、リッシュモンは、そしておそらく兵たちも、この女を美しいと感じていた。ザザの纏う凛とした空気が、そう思わせるのか。
 口を開かずにいれば美人とも言われたことがあるリッシュモンとは、正反対の女である。ザザがやや低音の声音で何か話すと、不思議に人を惹き付ける。話す内容に面白味があるわけでもないのに、不思議なものである。いやむしろ、決して間違ったことを言わないから、そう感じるのか。
「そろそろ、隊列を組んでおきますか」
「そうだな。いきなり城門から敵が飛び出してくることもないだろうが、数を示すのは大事だ。頼む」
 リッシュモンの左腕と脇腹はまだ折れたままであり、実戦を戦える状態ではない。医師からはもう少し養生していろと言われたが、じっとしているのも傷が疼いて仕方ない。なのでザザを伴い、リッシュモンは城や砦に立て篭るアングルランド軍を、各個撃破していこうと、こうして軍を動かしていた。リッシュモンも麾下五十騎を率いているが、主にブルゴーニュ軍の兵からなる七千の実働部隊を率いているのは、ザザである。
 そのザザが手際よく、部下と伝令に指示を出す。リッシュモンは前方の城門、その上に立つ指揮官らしき男を見つめた。城壁の上を行き来する兵たちが、胸壁の間を見え隠れする。跳ね橋はもう、上げてあった。
「とりあえず、あたしだけで行く」
「危険ではありませんか。私も」
 副官のダミアンが言うが、リッシュモンは手でその言葉を遮った。
「十人、五十人といたところで、大した守りにならないだろ。少しでも、連中の警戒を解いておきたい。ザザ、何か助言ある?」
「リッシュモン殿ほど、口も頭も回るわけではありません。私からは、何も。ただ、すぐに城を包囲できるようにはしておきます」
 わかった、と目で伝えて、リッシュモンは単騎、城門の前に向かった。一応、使者の白い旗は上げておく。
「この城の指揮官は、お前か。あたしは、アルベルティーヌ・リッシュモンだ。指揮官と話がしたい。お前じゃないなら、指揮官を出してくれ」
 城門の上の楼台が、しばし騒がしくなる。胸壁では弓を取り出した兵もいるが、まだそれをつがえていない。
「私が、この城を預かっている。何用だ」
「騎士道に則って、城を明け渡してもらう交渉がしたい。見たところ、この城に籠れるのはせいぜい千人ってとこだな。こちらは、七千いる。一週間とかからず、この城を落とせると見た」
「単騎でこちらにやってきた勇気に、敬意を表する。だが我ら誇り高き、アングルランド騎士。易々と、ここを明け渡しはせん」
 四十代の、半ばくらいか。立派な黒い口髭の指揮官はしかし、その語尾を僅かに震わせていた。
「二つ、交渉材料がある。保って、一週間。だから一週間はそちらに手を出さない代わりに、一週間後にここを放棄しろ。それなら、互いに血を見ずに、あたしらは城を取り返し、お前たちはあたしらを足止めしたっていう、格好がつく。二つ目は、まずこれについて前向きな交渉ができそうだったら、提示する」
「少し、相談させてくれ、リッシュモン将軍」
 指揮官が、城壁から姿を消す。主立った指揮官たちと、話し合っているのだろう。つまるところ、あの男は合議せずに全てを決められる程、身分や階級が高いわけではない。
 リッシュモンは煙草に火を着け、気長に待った。遠方、葉を散らした森の上を流れる雲を、じっと見つめる。西の空の雲行きが、多少怪しくなり始めていた。北から吹きつける寒風に、馬が何度も鼻を鳴らしている。
 三本目の煙草に火を着けたところで、先程の指揮官が戻ってきた。
「二つ目の交渉材料について、聞かせてほしい。即時この城を明け渡せと言えるだけの何かが、そちらにはあるのだろう?」
「話が早いねえ。一つ目の条件を飲んだと思っていいんだな。二つ目は、捕虜の返還だ。ここに今護送している捕虜の、名簿がある。お前らの主君か、上官がいれば二十名まで、ここから好きに選んでいい。こういうのわかる奴誰か一人、こっちに下りてこいよ」
 すぐに跳ね橋が下ろされ、潜り戸から同じ男がこちらにやってくる。リッシュモンは下馬し、名簿を手渡した。
「お前でわかるのか? いるなら、紋章官が来るものだと思ってたけど」
「紋章官なのです。それに私より位の高い騎士が、ここにはおりませんで。正規軍の兵も多いのですが、階級の高い将校もおらず」
 男が小声で言う。先程までの威勢の良さは、周囲の目があってのものだろう。
「なんだよ、それ知ってりゃ、十五人って言っとくんだったな。まあ、前言を翻すわけにもいかねえ。そこから二十名、好きに選びな。守兵は?」
「元からここにいた者も含めて、八百程。こちらとしては悪くない条件で、正直ホッとしています」
「くそ。ま、互いに血を見ずに澄んだってだけで、良しとするか。全員こちらの門から出て、武器は置いて行ってくれ。金と馬、鎧までは取らねえ。それと、街道をまっすぐ西に進んで撤退してほしい。今日中に、南西の砦も同様の交渉をかける。その進軍路にお前らがいたら、容赦なく斬り刻むからな」
「わ、わかりました。とりあえず、二十名を私の方で選ばせて頂きました。印がついている方々が、そうです。もう少し身分の高い諸侯も、捕虜となっているはずですが」
「んなもん、もっとでかい城に取っておくに決まってるだろうが。ともあれ、この二十人だな。さすが紋章官、いい手札を抜きやがる。すぐに手配し、解放する。武装してないからな、ちゃんと守ってやれよ」
「剣を、奪われているのにですか」
「八百の兵を襲える賊なんて、この辺りにはいないだろ。もし来たら、手甲でぶん殴ってやれ。撤収がすぐに済めば、アングルランドが占領してる町まで、日が落ちる前に辿り着けるだろう」
「一時間で、撤収させます。リッシュモン将軍、この度は騎士道に則った寛大な交渉、感謝致します」
「け、言ってろ。さっさとしろよ」
 互いに右手を差し出し、交渉成立である。
「その様子では、交渉は上手くいったようですね」
 ザザが、微笑でリッシュモンを迎える。普段の仏頂面との落差もあり、余計にその笑顔を眩しく感じた。
「ちょっと、気前良過ぎたかな。んま、こっちも勉強になった。あいつらがいなくなったら、ここで飯食ってく?」
「あまり時間に余裕がないものの、南西の砦は明日以降にしますか? 今晩辺り、一雨来そうな気配ですが」
 ザザに言われるまでもなく、リッシュモンも先程、それを考えた。が、既に漂い始めた冬の気配では、やはり先を急いだ方がいいだろう。アッシェン南部と言えども、ユーロ地方として見れば、やや北に当たる。この先雪に降られれば、進軍もままならなくなることがあるだろう。
「いや、急げる時に急いでおくか。ん、なんか乗せられた気がするな。城の中に入ってゆっくりしてないで、さっさと行けってこと?」
 ザザは応えず、少し悪戯っぽい笑みを浮かべるのみである。
「早くとも、年内いっぱいはかかっちまう奪還作戦だ。一度でも嵐に見舞われれば、年を越すことも覚悟しなくちゃならねえ。新兵がどの程度補充できるかも、ちと不透明だしな。よし、ちゃちゃっと飯済ませて、進発しよう」
「わかりました。では夕刻までに南西の砦に辿り着けるよう、努めます」
 ザザの指示で、手早く糧食の準備が整えられていく。現在麾下数十騎が手元に残っただけだが、さすがは参戦当時、ポワティエの領主だっただけある。戦だけでなく行軍やその他の些細なことにしても、この女には万を越える軍を指揮する力があった。領地を失い、多くの将兵を失った。そのことで、ザザは今のような落ち着いた人格を手に入れたと言われている。リッシュモンが初めて顔を合わせた時は既にこんな女だったが、ラ・イルの異名通り、かつては猛将であったのだ。
 そのザザと共に、配食の列に並ぶ。城内の酒場で一杯ひっかけたい誘惑はあるが、酒は鞍袋に用意してある。飲みたくなったら、飲める酒はあるのだと、自分に言い聞かせた。
 手早く行軍の準備を済ませ、六千五百の軍が進発する。五百はここの守兵として残したが、他の城から攻撃される危険がなくなれば、数名の騎士と城下の住人で組織する守備兵で、充分事足りるだろう。残った五百も、近々故郷に帰す予定の徴用兵ばかりである。
 輜重隊が攻城兵器の建材を運んでいる為、その歩みは遅い。捕虜を運んでいる護送車も、決して速度は出せない。
 地図で感じるよりも道が悪かったこともあり、次の砦に着く頃には、日が陰り始めていた。
 この砦は先程の城と比べても二回りは小さく、内部はもちろん、周囲に城下町と呼べるようなものもない。城塞と城塞の繋ぎとして建てられたのだろうが、なかなかどうして、その規模に反して堅牢な砦である。守兵は三百前後と思われるが、胸壁に立てるのはおそらく百五十、つまり交代で絶えず防衛戦を堅持でき、力押しで落とす以外に方策もなさそうだ。
 千の兵で、陥落させるのに、五日はかかる。水をたたえた二重の堀、そこを越えても取り付ける場所が少なく、千で包囲しようが五千で包囲しようが、要する時間は変わらないだろうという意味で、厄介な砦なのである。今の様に敵本軍の指揮が及ばず、孤立した状態でなければ、落とすか無視するか、扱いに困る類の良い砦だった。
 黄味がかった城壁が、陰る陽で煉瓦のような橙色となる。夕焼けが強いということはと西の空に目をやると、雨雲と思われていた灰色の塊は、南の方へと流されていったようだ。
 兵が整列するのを待ってから、先程同様、リッシュモンは使者の旗を立てて城門へ向かった。こちらを警戒する兵の姿は、少ないように思える。もっとも胸壁の陰に隠れている可能性はあり、油断は出来ない。
「アッシェンの、リッシュモンだ。おーい、話のできる奴はいないのか」
 二重の堀で、城門までの距離が遠い。聞こえていないのか、前回よりも相手の反応が鈍いが、しばらくして城門の潜り戸が開き、供を数人連れた老騎士が、こちらに向かって来た。供回りたちが、堀に掛かる橋を、慎重に渡していく。
「リッシュモンだ。お前が、ここの大将か」
「いえ、私はマルト様の麾下で、歩兵を預かることの多い、一介の将校です」
「お、ここはグライー軍が逃げ込んだ所だったか。先日は、世話になった。左脇腹も折っちまってるが、これはお前らの歩兵に突っ込んだ時の傷だ。あるいは、お前の一撃だったかな?」
 物騒な話題ながら、できるだけ気さくに話しているつもりのリッシュモンだったが、老騎士の表情は底無しに暗い。
「マルト様が、この砦の指揮を執っておられます。落城交渉に来られたのでしょうが、マルト様は現在、とてもお話しできるような状態ではなく・・・」
「ウチの歩兵の弩で、やられたんだったな。何本か矢が刺さったままその後の指揮をしてる姿は、あたしも見てる。あまり矢が深く刺さらなかったのか、気力だけで動いていたのかまでは、わからなくてね。離脱後、すぐにくたばってても、不思議じゃないと思っていたが」
 忠義厚い騎士なのだろう。リッシュモンの言葉を聞いている間もマルトの様子を心配してか、皺の深くなった目尻に、光るものを溜めていた。
「容態を、聞かせてくれ」
「矢を抜かれました後も、思った程の出血はなく、一週間程は寝台の上から我々に指示を出していたのです。ところが三日前から高熱を出され、昨晩から意識も戻らず」
「傷が、膿んでいたか。身体の中に、毒が回ってるな」
 老騎士が、一層沈痛な面持ちで頷く。
「わかった。こちらには医者がいるし、エルフの万能薬も、少しだけある」
「万能薬・・・ですと?」
「知らないのかい? そう呼ばれてるが、本当に万能薬ってわけじゃないよ。あたしの民が、たまに手に入れてくる。魔法の品じゃない。が、傷口が膿んだり腐ったりして身体に回った毒には、かなり効く。化膿した部分を切除してこいつを服用すれば、意識を取り戻す可能性は、あるかな。賭けてみるか? マルトが意識を取り戻し、担架に乗せられるようになったら、この砦は無血でこちらに譲り渡す。どうだ?」
「・・・わかりました。マルト様の御命が、それで助かるというのなら、私の責任で、その申し出に乗りましょう」
「まずは医者に状態を診せてみないと、そこはわかんねえから。とりあえず、医者とその助手たちは、中に入れさせてもらう。もしマルトが助からなくとも、手を出させるなよ」
「そこは、誓って」
「マルトがくたばっちまったら、医者たちを外に出してから、一から交渉をやり直す。それでいいか」
 老騎士はこちらが同情したくなるほどに、何度も首を縦に振った。一度、兜から面頬が落ちてしまったくらいである。再び面頬を上げた男の姿を見て、この男は見た目よりも若いのかもしれないと思った。老境に達しつつあるのは間違いないが、動きの激しいグライー軍にいられるということは、ダミアンと同じ程度の年齢かもしれない。が、この男は心労で、身も心も萎ませていた。長く、グライー兄妹の傍で仕えてきた男なのだろう。
 医者たちを中に入れ、その日の晩は城外に野営した。
 そろそろ、野営がきつい季節である。来週には、もう冬としか思えなくなっていることだろう。その夜は毛布を二重にしてよく眠れたが、一度だけ、寝返りを打った際に左腕をどこかに打ちつけ、飛び上がるような激痛で目を覚ました。痛みが多少治まる頃には、また深い眠りを満喫できた気がする。
 明朝、天幕から這い出したリッシュモンが小川で口をすすいでいると、ザザが書類の束を持ってこちらにやってきた。既に、具足姿である。
「周囲に敵影はありません。それと先程、アルフォンス元帥から、周囲の状況をまとめた書簡が届きました。今後の予定について、いくつかある選択肢からリッシュモン殿が選べるよう、各地の情勢とわかりうる範囲の各城の状況も書かれた資料が」
「ありがとさん。砦の方からまだ反応がないってことは、マルトは死んでないな」
「ダミアン殿が、仕留められたのですよね。私が戦場に辿り着いた時には、グライー軍は撤退を開始しておりました」
「いや、仕留め損ねた。背中に矢が刺さったまま、奴は指揮を執ってたよ。それ以前の攻防でも、軍事の天才と言われる兄貴と遜色ないと、あらためて感じたね。大したもんだよ。あの傷で死なないってことは、命に縁があるんだろうさ。にしても、今朝は格別に冷えるなあ。ああ、早くこの腕治して、風呂に入りたい。身体を拭ってるだけじゃあ、芯の部分に冷えが残っちまってなあ」
 立ち上がり、リッシュモンは右腕だけを突き上げて、大きく伸びをした。脇腹に、大きな痛みはない。
 牢馬車の方でも何人かずつが馬車から出され、火に当たっているようだ。中には身分の高い諸侯も混ざっているが、軍人として戦場に出た者たちである。こちらに毛布や食べ物の追加の要望こそあれ、それ以上のおかしなわがままを言ったり、脱走するような者はいなかった。
 捕虜となる者たちは大抵、撤退時に逃げ後れた、つまりは味方を逃がそうと少しでも長く戦場に留まっていた者たちで、責任感も、誇りも高い。騎士であれ爵位ある貴族であれ、平民からのし上がって階級を得た者であれ、そうした気位や思いやりのある人間が犠牲になったり、捕虜になったりする。戦のない世であったなら、それなりにいい領主であったり、良い人間であったのだろう。
 昼前になって、砦の門が開き、跳ね橋が落とされた。こちらの医者たちと共に出てきたのは、担架に乗せられたマルトだった。
「リッシュモン、御礼を言いますです。まだ立ち上がることも出来ませんが、私の部下が約束した通り、この砦は明け渡すのです」
「こりゃまた、ひでえ顔になってるな。こうして話している間にも、事切れちまいそうだ。いや、さながら屍鬼ってとこかな」
「器量のことを言われているわけではないとわかっていても、気分が悪い言い草です。鋸の歯を持つお前に、言われたくありませんね。それより一つ、聞きたいことがあるのです」
 懸命に身を起こそうとするマルトの頭を、あの老騎士が支える。
「兄様は、どうされましたか。ここには本隊からの伝令もまともに来ず、戦場を離脱した後のことは、ほとんどわからないのです。ごく近くの城とは、連絡を取り合っていましたが」
「生きてるんじゃないか。セブランが死んでたら、おそらくこっちでも話題になってる。お前より早く、戦場を離脱してるからな。こっちも所在は掴めていない」
「兄様は、生きていると」
「だから、わからないって。大きな部隊と合流できりゃ、安否くらいはわかるだろ。ただあたしの刃には、それなりの手応えがあったがね。直接斬った、あたしを恨むかい?」
「・・・いえ、戦場でのことです。もし自分を斬る相手が現れても、その者を決して恨むなとは、兄様が私に何度も言ってきたことです」
「立派だねえ。いや、本当にそう思う。兵の練度だけじゃなく、捕虜の様子見てても、アングルランドの連中は強いなと、心底思う。あたしが来なかったら、この南部戦線はとっくに崩壊してたな」
「その言い方は、少しだけむかつきますです」
 リッシュモンは笑ったが、マルトは不機嫌そうに視線を横に向けただけだった。
「せっかく助けたんだ。つまらねえことで死ぬなよ。次に戦場で会ったら、今度こそ、あたしがその首叩き落としてやるからな」
「その言葉、そっくりお返しするのです」
 去り際にリッシュモンが手を振ると、マルトも軽く手を上げてそれに応えた。

 

 

 

前のページへ  もどる  次のページへ

 

 

inserted by FC2 system