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2,「声なき声を踏みつぶしてこその、王道でございますれば」


 やはり、何かと対峙するような心持ちにはなっていた。
 アンリがその扉に近づくだけで、番兵がきりりと王の訪いを告げた。自分で扉を開けようとしたが、中からそれを開いたのは、枢機卿にしてこの国の財務大臣、リュシアンその人だった。
「ようこそ、おいで下さいました。陛下自らのご足労、まったく恐れ入るばかりです」
 三十一歳と聞いた。枢機卿は赤い、その立派な装束が霞むくらいの、爽やかな笑顔をもった美声年である。この若さで枢機卿まで上りつめたことからもわかるように、その能力は極めて高い。銀行家の娘で金勘定に強い宰相ポンパドゥールが、なお財務はこの男にと、一任した人物である。
 汚れ一つない純白の手袋に促され、入室する。大量の紙と、インクの匂い。リュシアンの執務室はアンリに懐かしい気持ちを思い起こさせる、書の神殿だった。
「陛下の命とあらばこのリュシアン、どんな仕事も放り投げて御身の元に馳せ参じましたところを」
「いいんだ。枢機卿の仕事をあまり滞らせたくなかったからこそ、卿にとって都合のいい日時を選んだ」
「そのお心遣い、陛下に対する忠誠、天を衝く程の思いです」
 ただの廷臣が言えば歯の浮くような台詞だが、この男はそれを本心で言っていることが、わかる。この程度の真偽を見抜く目は、丁稚の頃に養っていた。怖いな、とアンリは思う。なにか底が知れないものを、この男は持っていた。
「本日は宮廷の財務状況について、より詳細にお知りになりたいとのことでしたが」
「小議会では苦しい苦しいばかりで、どういう理由でというのを、個々に精査することもできなかったからね」
「資料となるものを、まとめておきました。その前に、紅茶をどうです? カース島の、上等な茶葉です。渋みが強いので、お口に合うかはわかりませんが」
「初めて飲むものかな。頂こう」
 普段は数人の役人たちと仕事をしているからだろう。アンリの執務室より三倍近く広い部屋、執務机の後ろ、そしてその反対の壁面に、ぎっしりと書の詰まった本棚が、窓際まで続いていた。壁紙などに華美な装飾はないが、豪華な装丁の本が数えきれない程並ぶこの光景は、美しいと感じさせるに充分であった。
 窓辺には既に茶と茶菓子が用意してある。アンリが着席するのを待って、リュシアンも向かいの席に腰を下ろした。ちょうど茶葉が蒸れたところなのか、枢機卿自ら茶を注いだ。
 こうして向かい合うと、枢機卿の美男子ぶりには目を見張る。街に出れば、そよ風のような笑顔を引き立てる癖のある金髪とすらりとした長身で、言い寄ってくる女性には事欠かないであろう。禁欲生活に身を置いている高位聖職者独特の、何か思い詰めたような陰もない。
「後で詳しい資料は見せてもらうとして、簡潔に言って、この国の財務状況の苦しさとは、一体何なのだろう」
「いきなり、本題ですね。ではこちらも前置きなく。まず、税収の少なさです。次に、債務。国内はもちろん、ラテン諸国の銀行、豪商からも借りている金の返済の目処は立たず、ここ数年はかろうじて利息を支払うのが精一杯という状況です」
「解決策は、増税しかないと」
「現状、私どもの知恵ではそうなります。もっとも私を含め、ここには前例を踏襲するばかりの、頭の固い人間ばかりが集まっています。陛下のお知恵をお借りできれば、我々としてもこの苦境に光を見出せるかと」
「僅か十二歳の小僧に、それができると? いや、意地の悪い言い方になってしまったな」
「庶民の暮らしを知っている。それは決して、小さなことではないと考えておりますが」
 なるほど、アンリは子供ながらに、リュシアンは食えない男だと思った。内心馬鹿にするでもなく、どう扱うか迷うでもなく、自分たちにない手札をお前なら持っているだろうと、そう言いたいわけだ。
 枢機卿は、穏やかな笑みをたたえてアンリを見つめている。そこにアンリを侮るような、嫌な輝きは微塵もない。もう一度、アンリはこの男を怖いと思った。ここでアンリが下手を打てば、もって宮廷からさりげなく排除してやろうという企みを感じれば、こちらも別の人間を味方につけて、例えばゲクランだが、対抗することはできる。だがリュシアンはなにか、こちらが何を言ってもそれに従おうという、突きつけてくるような忠誠心と、覚悟を感じるのだ。
「無理と聞いているが、その理由を僕は知らないことが多い。一つ一つ、それができない理由を聞いてもいいかな」
「どのようなものでも」
「宰相には無理と言われたが、紙幣を発行するというのは、どうだろう。財源として、他の国々では流通し始めているということだが。そもそも紙幣、ただの紙に財貨と同じ価値を持たせる仕組みが、よくわからない。商人たちが使う、手形や為替とは違うのだろう?」
「本質的な部分だけを言えば、同じとも言えますね。財貨の代わりです。この国にはラテン諸国やゴルゴナのような、宮廷から独立した中央銀行がありません。なので今回はそこの仕組みは置いておきましょう」
 リュシアンが、優美な手つきで紅茶を口に運ぶ。つられて、アンリも一口飲んだ。なるほど、渋みはあるが、癖になりそうな美味さである。
「紙幣とはより簡潔に言うと、金や銀との交換券です。実際にそのように使われるかは別として、所有者が望めば、その額に応じた金銀を宮廷が支払うことになっています。アッシェンが今それの増刷をできないというのは、金銀の貯蔵量が、圧倒的に足りないからに他ありません」
「ふむ。金貨五百枚分の紙幣を発行するには、実際に金貨五百枚に相当する財産が必要というわけだね」
「そこが、基本ですね。ですが、これは国にそれだけの支払い能力があるという信用の値でもあります。二つ、例を挙げましょう。アングルランドはおそらくそれだけの財貨、実際に金銀でなくとも、宮廷の所有する財産は充分にあると、民から思われております。また、払い戻しを拒否することもないと。なので本当の財産が金貨百万枚程度でも、二百万枚、あるいはそれ以上の紙幣を発行することができる」
「国に対する民の信用が、実際よりも大きな財力を生むわけか。確かに、アングルランド紙幣には、僕も見たことはあるが、書かれた金額と同等の価値があると感じる。では、もうひとつの例は」
「スラヴァルは、明らかに宮廷の財産よりもはるかに多くの紙幣が発行されています。あそこは政変があろうが内戦があろうが、覇権を取った皇帝、その宮廷に対する”信頼感”が、高いのです」
 枢機卿は信頼感という部分だけ、両の人差し指、中指を曲げて見せる。鉤括弧付きの、信頼感というわけだ。
「民の気質なのでしょうか、諸侯はどうあれ、時の皇帝は信頼に値すると、そう思われているのですね。結果として、宮廷はその財産よりずっと多くの紙幣を発行することができています」
「民の、気質とは」
「御上のいうところには黙って従う、という生真面目さもあります。その一面は、ある種の美徳と言えなくもありません。ただ実際の所、民は国というものに虐げられるのを恐れているわけです。ただでもスラヴァルの民は、圧政に苦しんでいます。もはや、抵抗の意思すら奪われる程に。御上に逆らわないのが、民の処世訓なのだとしたら、宮廷は好きに振る舞えますね。ただ民に不満はないわけではなく、爆発的な叛乱も、時折あの国では起きています。されど多くは、身内か、農奴か、とにかく自分より弱い相手にその不満をぶつけます。無論、全ての民がそんな陰湿なわけではありませんが」
「そうか。悲しい国に思える」
「貧しい、と言い換えてもいいでしょう。本来の豊かさとは別に紙幣を発行できるというのなら、その財政はいつ破綻してもおかしくはない。雪と氷の国が薄氷の上に立っているというのは、なんとも皮肉ではありますね。両極端ではありますが、これが二つの国の、紙幣の大量発行を可能とする仕組みです」
「二つの国の、有り様の話でもあったね。アングルランドのような形を目指すべきだろうが、今のアッシェンにそれが難しいのはわかる。無論、スラヴァルのような圧政は、なんとしても避けるべきだろう。倫理観もあるが、なにより虐げられて大人しくしているような、アッシェンの民ではあるまいね」
 アンリが言うと、リュシアンは白い歯を見せた。ひょっとしたら、試されていたのかもしれない。が、彼を失望させる答えだったとしても、その忠義に揺らぎはないという点で、やはり彼には凄みを感じる。
「少し、話を本筋から逸らしてもいいかな。そのスラヴァルでは、以前から政変の噂が絶えないが」
「今の女帝エリザヴェータ自体が、十皇帝時代という大政変から帝位をもぎ取ったわけですしね。加えて諸侯に、現宮廷に対する不満は溜まっていると聞きます。実際に、水面下での動きはあるのでしょう。その一員か頭目か、どちらにせよ宮廷外にあって極めて高い武力を持つ有力者として、あのアナスタシア殿が排斥の憂き目に遭った。もっとも神の悪戯、いや失敬、神の深遠なるお導きにより彼女がアッシェンの危機を救ったというのは、まだこの国が神に見捨てられていないことの証左と言えましょう」
「そうあってほしい。僕も、そう思うよ」
 十字を切る枢機卿に、アンリは苦笑で返した。
 ふと、なんとも言えない違和感が、アンリを襲う。しばらく考えたが、アンリにはまだこの感覚の出所がわからなかった。やり取りの内容ではなく、彼の、言葉の端々。いや、アンリ自身に何かしら、拭いきれない違和感があるのか。
「ともかく、今のアッシェンの財務状況、そして信用で、今以上の紙幣を発行できないことはわかったよ。財を成し、地道に貨幣を鋳造していくしかないわけだね。信用は、後からついてくる」
「ですが、財を成すにも元手が必要で」
「そこで、増税か」
「他に手立てがあれば、それに越したことはないのですが」
「税収が落ちているからこその、財政難なのだろう。その原因は」
「短期的には、アングルランドによるパリシ包囲、それによる経済の疲弊です。ただそれ以前から、続く戦乱に民が消耗しているという部分が大きいです。税も払えない、ないしはそれだけの収入がある者が少ないのです」
「ならば、減税してはどうだろうか」
 枢機卿は笑顔を絶やさなかったが、一瞬、その目に鋭いものが宿った。
「と、仰いますと」
「僕が最近まで街の小僧だった目線の話になるけど、商売の傾いた店では、まず商品の値段を下げる。安売りだ。儲けが少なくなったと品の値を吊り上げれば、余計誰もそれを買わなくなるだろう?」
「なるほど。道理です」
「民が疲弊しているというのなら、まずはその民を立ち直らせるのが先決なのではないだろうか。税を納めるだけの財力を蓄えさせる前に増税となれば、余計に減収ということにならないだろうか」
 リュシアンは束の間、眉間に皺を寄せて思案顔になった。窓の外から見える大聖堂を眺めながら、顎の辺りを盛んに擦っている。
「・・・それは、妙案かもしれません。しばしさらなる減収は避けられませんが、わずかな臨時収入は、先日のパリシ解放で得られた軍資金の余剰があります。それをいざという時まで取っておくのが宮廷の方針ではありましたが、今が既にその時なのかもしれませんね。しかし陛下、失礼ながらそのお若過ぎる経験で、よくぞここまでのことを」
「まあ僕の街で暮らした経験もあるが、パリシ脱出後、僕はゲクラン領に滞在していただろう? 町や村、どこも活気に溢れていたので、ゲクラン殿に直接理由を聞いたんだ。すると、税を安くすれば自然と経済は上がっていくと。そして民が豊かになれば、勝手に税収は増えていく。いざという時に多少の増税をしても、そう反感を買うこともないと。それに税が安いとなれば、自然と人も集まってくる。そんな仕組みを、この目で見てきたばかりなんだ」
 聞いて、枢機卿は朗らかに笑った。
「なるほど、なるほど。さすが陛下、よくものを見ていらっしゃいます」
「僕自身には、十二年という街の丁稚の小僧の経験しかないよ。もっとも、その狭い世間でも、小賢しい小僧などと言われてはいたけどね。無論僕の知恵など、枢機卿の経験と真の知恵からすれば小さ過ぎるものだろうが、一市民の視点という点で、普段と違った考えの材料となってくれれば、僕としてもうれしい」
「いえ、まこと僭越ながら、卓見です、陛下。私などは増税と同時に、城仕えの者たちの俸給を削ることすら考えていました。しかし陛下の先程からの視点と照らし合わせると」
「話が早いね。そう、俸給を減らされて以前より一生懸命働く者など、この世にはいないと思うよ」
 リュシアンは、本当に嬉しそうに笑っている。彼の役に立てたのなら、自分も嬉しい。そう思った途端、アンリは先程から感じていた違和感の正体に気づいた。
「ああ、枢機卿は僕を、王にしてくれようとしているんだな。あなたと話していて、僕はなんとも居心地の悪い、それでいて据わりのいい、矛盾する心持ちに置かれていたんだ。枢機卿と話している僕は、なにか今までの僕とは違うぞって。なんだか今日の僕は、やけに偉そうだなとも。わかったよ。今までに触れてきた廷臣たちは、僕を王の様に扱っていた。しかしあなたは、僕を王そのものにしてくれようというのだな」
「お察しの通りで。こちらこそ小賢しい真似をしてしまい、どう非礼をお詫びすればよいものやら。何故、そのことに気づきました」
「教唆はあっても、助言はなかった。僕を操ろうという気配が、一切なかったと言っていい。それはまさに、忠臣の取るべき態度だったのだろう。臣たる者の見本の一つを見せてくれたことで、僕は王の態度、つまり最後は僕がこの国の政事を決定するという王の有り様を、自然と取らざるを得なかったわけだ。大きな意味では、あなたに操られたということでもあるのかな。ただ、悪い気はしないよ。僕は名実共に、王にならなければならないのだから」
 赤い装束に微かな衣擦れの音を生じさせながら、枢機卿は恭しく胸に手を置いた。
「この時ばかりは更なる無礼な物言い、どうかご容赦を。正直、ここまで頭の回る少年だとは思っていませんでした。たとえどんな王でも忠義を貫くと決意していましたが、今は心底、アンリ陛下にお仕えできること、この上ない喜びと感じております」
「といっても、結局は十二歳の子供だよ」
「いえ、だからこそです。これから数年の後に、陛下は更に大きな人物となっていることでしょう。十二歳でこのご見識なら十五歳、十八歳はどれだけの賢王となっていることでありましょうか。久々に、胸の高鳴りを抑えられません。まこと、陛下は王となり、我らを導くにふさわしい」
 ここまでの大人物に褒めそやされると、さすがにアンリも照れくさくなる。頭を掻こうとすると、略式の王冠に指先が当たった。
「あらためて、私からお教えできることはなんでも。最後は、王の采配。そのお覚悟がおありならこのリュシアン、地獄の果てまで陛下とご一緒させて頂く所存です」
「ありがたい。が、たまには助言もしてくれよ。僕の成長には、何より卿のような人物の助けが必要だ」
「その点も、ご命令とあらば」
「そうだ、卿の集めてくれた資料があったのだな。目を通したい。それと、宰相から聞いていると思うが」
「貴族に対する課税、でしたね。大きく分けて、四要件があるのですが・・・」
 二人同時に立ち上がり、執務室中央の卓に向かう。そこで山と積まれた資料は少し頁を開いてみただけでも、彼が能吏であることを充分に証明して余りあるものだった。わかりやすい、それでいて的を得た文章は、こうした行政の文書ではなかなかお目にかかれないものだった。
「おっと、まずはこれをちゃんと見ないとね。ええと・・・王の長男の騎士叙勲、長女の結婚に対しては、諸侯にその費用と祝儀を出す、手続き上も税として収める規定があるんだな。これはさすがに、先の話が過ぎる。もうひとつ、十字軍遠征の費用に関してだが」
「長らく、四千王国への十字軍遠征は、行われておりません」
「これの詳しい定義は・・・思ったより、曖昧なんだね。拡大解釈はできるかな」
「さらりと、恐ろしいことを仰られる。アングルランドに対してでしょう? 確かに今や彼らは我々アモーレ派と袂を分かち、さらにはアングルランド国教会などという新教義まで起ち上げましたが、同じセイヴィア教という大きな枠組みの中では、兄弟と言えます。四千王国のような、異教徒に対する戦と同列には語れません。国教会のゼーレ派に近い教義は分派として言うなれば商売敵とも捉えられますが、かつてゼーレ派に対して、この国は弾圧を行いました。暗い過去を呼び起こすことになりかねません。この対アングルランド百年戦争が宗教戦争の意味合いを帯びてくると、ゼーレ派が勃興しつつあるグランツ帝国との関係性の悪化、最悪、かの帝国とアングルランドの同盟もありえます」
「ただ、アングルランド国教会を、ゼーレ派と断定もできない。まあ、これについてはおいおい考えよう。パリシにいるゼーレ派の信徒たちを、徒に刺激するべきではないしね。いざという時の大義名分の、草稿だけでも頼みたい。財務大臣である前に、枢機卿だ。卿の得意分野だろう?」
「また難しいことを、仰られます。一つ予想と違ったのは、陛下は思ったよりも人使いが荒いのかもしれませんぞ」
「卿を、信頼してのことさ。それと、四要件の最後のひとつ・・・」
 アンリは、それが書かれた箇所を黙読する。これをきっかけにできるなら。思いつきに過ぎないが、今のアンリにできる、もっとも現実的な一手ともいえた。
「さすがに陛下、これが起こる事態は、何より御身に危険が過ぎるかと」
 初めて動揺を見せる枢機卿に、アンリは微笑で応えた。
「もしこうなったら、よろしく頼む。金額が決まる前に、課税できるのも魅力だな。余剰に対する返済の義務もなし、と。ただこれを機に、課税体勢そのものを強化、洗練させることができるかもしれないよ。一度、僕自身で戦を起こす必要があるな。もしこうなったら、後はよろしく頼む」
 小さく頭を振り、リュシアンはアンリの顔を覗き込んだ。
「無論、ご命令とあらば。いやはやなるほど、流浪のアナスタシア殿に青流団を任せる為に、危険を冒してパリシに再び潜入するだけのことはあります。失礼ながら、あれはゲクランの絵図通りに動かされているだけだと愚考しておりましたが」
「当然、僕の意志でもあるさ。何かを成すのに必要なのは勇気だけ、となれば、後はそれを振り絞るだけだろう?」
「確かに。ですが誰にでもできることではありません」
「誰にでもできることをしていて、アングルランドは倒せないと感じた。失地回復までは、僕はこの国を救う王を演じ続けるよ」
「演じる、とは」
「本当は、ただの臆病な丁稚の小僧なんだ。たとえ王の血を継いでいると言っても、育ちからの僕の基盤はそうそう変わらないだろう。小賢しい思いつきを、卿の知恵で本当の力にしてほしい」
「参りました。私がそう接するまでもなく、あなたは真に王だった。重ねて、この忠義、全て御身の為に」
 それからは、何度かの軽食と茶を兼ねながら、細かい資料を読み漁った。専門用語に関しては逐一、この国最高の頭脳の一人が、端的に説明してくれる。家庭教師とするには、枢機卿は贅沢に過ぎる存在ではあった。
「御料林に関しては、これだけのものを各地に持っているにも関わらず、ほとんど利が上がらない構造と、経費がかかっているんだな」
「御料林長官の俸給を減らして、あるいは人数そのものを減らして利を上げる、とはならないのが陛下なのでしょう?」
「もちろん。これについては携わる者たちの損にならないよう、利を上げる方法を考えよう。ん、何かおかしいかな?」
 リュシアンは先程から、社交的な微笑以上の笑みを、その整った面貌に浮かべていた。
「いえ、楽しいのですよ。私はこれまで、いかに出費を抑えて、かつ増税が可能かどうかだけ考えていた気がします。こんなことは、そこらの小役人にもできることなのですよ。しかし陛下の仰ることを実現するのは、正直言って難しい。私だけでなく、私の執務室に仕える者たちにも、知恵の限界まで搾り出させます。しかしまだこの国にも、やれることはたくさんあるのですね。陛下と話していると、今までになく前向きな気持ちになれます」
「やはり、困難ではあるのだね」
「難しい、だから楽しい。枢機卿に上り詰めることが私の夢であり、血筋や充分な資金のない私の家では、それは非常に困難で、同時に楽しい青春でもありました。あの頃の情熱を陛下に、もう一度与えて頂いた気分です」
 そんなものなのだろうか。本当に能力の高い人間は、難問に立ち向かうことこそが生き甲斐なのかもしれない。
 会合の予定は大きく過ぎ、外はいつの間にか暗くなっていた。
 最後の冊子。宮殿に仕える者たちの俸給一覧の、最も下段に、アンリは気になる記述を見つけた。
 宮廷道化師、コレット。週給銀貨一枚。
「これは? 道化師がいたというのも初耳だが、銀貨一枚という週給も少な過ぎる。少なくともパリシでは大人が働く際に、一時間でもらえる最低限の額だが」
「ああ、一応、名だけは残してある職です。先代は立派な道化師でしたが、後を継いだ娘が、多少問題を起こしまして」
「道化師としては、至らない娘だったと?」
「表向きは。実際は、先王の不興を買いまして。私としては先王には無礼ながら、中々素質のある娘なのではないかと感じていましたが」
 宮廷道化師は王の傍でその行動を、皮肉や冗談で諌めたりする職だと、アンリは認識している。
「会ってみたいな。今はどこに」
「先程の頁の下女の中に・・・ああ、ここですね。現在は、厨房で下働きをしているようです。お呼びいたしましょう」
 リュシアンが扉の外に立っている兵に用向きを伝えると、しばらくして、今まさに仕事中だったのだろう、前掛けを濡らしたままの、下女の格好をした娘が連れて来られた。若い。アンリより歳上だろうが、十代の半ば程度に思えた。
「お、お初にお目にかかります、アンリ十世陛下。この城で働かせて頂いております、下女のコレットにございます」
 緊張と怖れか、金髪の娘は怯え切った様子で、それでも一礼をした。スカートを摘む指先が、震えている。
「あ、あの、私どもがお出ししたものに、何か不備でもございましたでしょうか」
「いや、ここの食事は、いつもおいしい。コレットだな。どうか構えないでほしい。君は、今も道化師ということだが」
「はわわわっ! せ、先代まで築き上げた名を汚し、あまつさえ別途お給金まで頂いていることが、その、問題になりましたのでしたら、お返しできるだけ、お返しします。私には、下女としてのお給金だけで、充分過ぎる程ですので」
 慌てふためく様子に、不憫と思いながらも、アンリは何故か妙に和まされた。
「そのことなんだが、今でも宮廷道化師として働いてくれる気持ちはあるだろうか。なくても、君の道化師としての俸給は奪わない。けど道化師として働いてくれるのなら、君が納得いくだけのものは出させてもらうよ」
「えっ? あ、あの、私、その・・・」
 顔を真っ赤にして俯く少女にそれ以上どう接して良いかわからず、アンリは思わずリュシアンの方を見た。枢機卿はというと、悪戯っぽい笑みを浮かべて、肩をすくめるのみである。
「やってくれるかな? 急な話だ。じっくり考えてもらっても構わない」
「や、やります、やらせて下さい! 陛下にはたくさんのご無礼を働くことになりますが、御不興を買いましたら、また下女にするなり、城から追放してもらうなりして結構です!」
 本当は、ずっと道化師に戻りたかったのだろう。急な展開にまだ狼狽を隠せていないが、こんな決意は今日昨日考えて出てくるものではない。
「素質はある、と枢機卿に聞いている」
「い、いえ、素質なんて。でも、一生懸命やりますっ」
 道化師とはもっと斜に構えた、あるいは余裕たっぷりに皮肉を投げつけてくるものだと思っていたが、どうもコレットは違うようだ。
 事前の想定とは違うが、歳が近いことで、彼女とはいい友人になれるかもしれない。道化としての振る舞いは差し置いても、アンリに忌憚ない意見を聞かせてくれる存在を、今は求めていた。
「そろそろ、僕の執務室へ帰るところだったんだ。道すがら、今後のことについて決めていこう」
「はわっ、もうお帰りですか。その、今後のお話も、ぜひぜひです。では遅ればせながら新アッシェン王アンリ十世陛下、その歩まれる王道に、私からも祝福をば」
 前掛けの隠しか、あるいはどこから取り出したのか。コレットが両手を大きく振り上げると、宙に大量の白い花々が広がる。絢爛よりも質実さの目立つ枢機卿の執務室には、場違いなくらいの華やかさだ。
「手妻か。すごいな。けど・・・」
 今やアンリから扉の前までは、一面に白い花の絨毯が敷かれている。
「踏みつけるのがもったいないような、綺麗な花だ」
「踏みつけ、潰し、足跡を残してこそ。王の穢れなき靴底に接吻をしたいと、花たちは声も出さずに申しております。ささ、遠慮なく。摘み取られた花は、嬌声も悲鳴も上げません。声なき声を踏みつぶしてこその、王道でございますれば」
 一瞬の静寂の後、アンリとリュシアンは共に爆笑した。この城に来て、ここまで肚の底から笑うのは、初めてのことだった。
「これは、やられたな。先程まで僕は、枢機卿があまりに持ち上げてくれるもので、民に愛される立派な王になれそうだと、自惚れ始めていたところなんだ。そうか、そうだな。王とは、こうだった。君のおかげで、僕は危うく道を踏み外すところだったよ」
 当のコレットは、これ以上ないくらい頬を紅潮させて、胸の前でせわしなく指を動かしている。今にも、泣き出しそうだ。
「まさに、僕の求めていた人材なのかもしれない。行こう、コレット。さあ、手を出して」
 恐る恐る差し出された手を取り、アンリは片膝を衝いて接吻した。気障な貴族の見様見真似だが、コレットの今にも爆発しそうな赤い顔を見つめて、片目を閉じてみせる。アンリなりの意趣返しだった。
 ただの悪ふざけのようなものだが、不意にアンリにも、俗に言う大人への階段というものが、見えた気がする。街角で気になる娘にこんなことをしても、ただの冗談の種になるだけだが、ここでアンリが行うこと全てには、後戻りできない意味合いが出てくる。責任、というものが、これか。
 若い道化師の手を取り、アンリは扉に向かう。
 無論、無垢な花々を二人で踏み潰しながらである。

 

 物資は、滞りなく集まりつつあるとのことだった。
 報告を受けた先程の軍議で、クリスティーナは軍の大雑把な動きを伝えた。
 緒戦は、野戦。一度、アッシェン南部軍に打撃を与えてからの、籠城。野戦で戦局不利となれば無理をせず、すぐに籠城。後の細かい動きは、敵の出方次第である。防御側に取れる動きは、限られていた。戦術面ではいくらかやりようもあり、この辺りは副官のソーニャ、それにグライー卿を交えて詰めていく方針だった。諸侯の要請あれば何度でも軍議を開き、意思疎通は図っていくつもりである。
 会議室として使った広間の前で、ソーニャと別れの挨拶を交わす。元帥であるクリスティーナに厳密な意味の非番はないものの、一応今日の予定は今の軍議で最後である。ソーニャはさっさと自室に籠ってしまい、夕飯時に食堂に顔を出す程度であろう。あるいは浴場で顔を合わすこともあるかもしれないが、基本的にソーニャはその日の予定を終えると、そのあだ名の由来である漫画のこと以外では、他者と関係を持たない。緊急の伝令以外は、部屋に通すこともないのだ。この辺りは徹底しており、ゆえに軍議後のクリスティーナは少しばかり、手持ち物沙汰となっていた。
 食堂に夕飯が配食されるまでは時間もあり、クリスティーナは城内を散策することにした。人からは、巡回と取られるか。これまでの攻める戦では考えることが、用意することもたくさんあり、暇であると感じることはなかった。母キザイアからの、急な呼び出しもあった。いざ自分が軍の頂点に立ち、細かい部分は優秀な者に任せた方が良いことに気がつくと、時間は以外と持て余すことに気がついた。誰かの部下で、かつ攻める戦とは、真逆の時間の流れである。
 いや、先日までは少しでも時間が空けば、それは全て恋人のリックとの時間に当てていたのだ。リックのあの、はにかんだ横顔。頭を振り、過去に引きずり込まれそうになる自分に、クリスティーナは抗った。
 今いるのは、本城正門の、ちょうど上辺りか。天井の低い渡り廊下を歩いていると、少し珍しい光景に出くわした。矢狭間を兼ねた細長い小窓から外を眺めているのは、ラテン傭兵のアメデーオである。この伊達男は異常に人脈が広いが、それは彼があらゆる会合、宴席に顔を出しているからであり、逆に言うとこうして一人でいるところを見かけるというのは、新鮮でもある。
「どうしたの、気になることでも?」
 その横に並び、クリスティーナは声を掛けた。
「これは、元帥でしたか。いえ、まあ気になるっちゃあ、なるなとか、そんな具合ですかね」
「あなたにしては、歯切れの悪い物言いね」
 アメデーオの視線の先。本城前の大通りであり、人の動きは活発である。荷馬車の出入りが、検問をしていてなお、ひっきりなしといった具合だ。
「明後日、市が開かれますね。今でも充分かもしれませんが、明後日の市に近隣の物売りが多く集まり、さらに物資を集められると」
「物資云々よりも、実際に敵が目前にでもいない限り、市を開かないわけにもいかないわよ。宿を予約している者もいるそうだし」
「まあ、わかります。俺らはここじゃ、占領軍ですからね。敵地で、あまり現地の人間の反感を買うわけにもいかない。ああ、市を開くなって話じゃないんです。何かこう、もう少し妨害があってもって気がしたんですよ」
 そこだけ伸ばした顎髭を引っ張りながら、アメデーオは荷馬車の列を見つめている。
「そうね、順調に集まり過ぎている。物も、人も」
「敵さんからすりゃあ、籠城は頭に入っている、いやどうあれ籠城の形に落ち着くってことは、わかりきってることでしょう。緒戦が野戦だろうが、初めからだろうが、籠られる利点が、あちらにはない。年明け、さらに春先まで粘られるのは、嫌なはずです。最低でも春までには、こちらは本国からの援軍が期待できます。年明けは今更防げないにしても、このまま春先まで粘れるだけの物資の調達は、防ぎたいはずです、本来は。それができる土壌でもある」
「仮にアッシェンの間者がいて実はこちらに年明けの援軍がないと洩れていたとしても、ここに落ち延びた時はほとんど空だった倉に、既に春まで保ちそうなくらいの物資が貯まりつつあるわね」
「籠城してくれ、みたいな話です。あるいはどうぞご自由に、か」
「私は後者と睨んでるけど、どちらにせよ同じことよ。あるいは、ここを無視してさらに西へ進んで、そことラステレーヌで、挟み撃ちとか。けどそれをやるだけの兵力を、アッシェンはこの後維持できないはずよね。本当はもう徴兵期間を過ぎてるし。別途給金を出すにせよ、あと一戦、それも近日中が限界のはず。残る兵は、今よりずっと少なくなる。寡兵で挟み撃ちは、こちらが隘路に閉じ込められてるならともかく、籠城する相手には意味がない」
 おそらく一週間以内に、両軍はぶつかる。敵を粉砕しようとすれば、前回の戦ぶりからしてもこちらが厳しいとは思う。が、先の戦とは、全ての状況が違い過ぎる。こちらは籠城、それも充分な物資を持ってそれが可能、かつ敵は包囲するだけの兵力も、時間もない。戦局不利とあれば、退却するのに苦労もない。
「ああ、間者についてだけど、ここに残った”囀る者”たちの話では、敵に忍びらしい忍びはいないそうよ。もちろん、ここらの住民から、こちらの情報はある程度洩れてるだろうけど、それは素人仕事で、まあ物資が集まってるとかこちらの兵力とか、その程度の情報よね。そればかりは、防ぎようがないし、こちらからくれてやってもいい情報だわ。もっともここに残った囀る者たちは三、四人といったところ。一人、ラステレーヌに残してあるけど、敵は粛々と進撃の準備をしてるって話だけで、大した情報は入って来ない。攻城兵器の用意もあるみたいだから、ここに攻め入ろうという形は取ってる」
「こちらが籠城したら、いくらかこちらが寡兵とはいえ、落とせる兵力差でもない」
「なので、リッシュモン、あるいはアルフォンス、彼らが考えていることは、今もって、わからない」
 こんな話をしている間にも、かなりの数の物資を積んだ荷馬車は、眼下の正門を潜り続けている。
「あの小麦の袋の中に、敵の忍びがいたりして」
「一応、検分の方はしっかりやってるみたいです。まあ凄腕の忍びなら検問をくぐり抜けて五、六人と忍び込むこともあるでしょう。多く見積もってもそんな数で、しかしそれで何ができるかって話です。籠城したこちらの城門のひとつくらいは開けられそうですが、そんなものは一時の混乱で終わりでしょう。兵力差十倍とかならそんなことでも致命傷でしょうが、ほぼ同数なら敵も開けられる城門前に、騎馬隊なりなんなりを集中させなくちゃいけませんしね。今から奇襲しますよってんなら、それは不意打ちにはなりえない。門を開けられるのが止められなくとも、内側に同数以上の兵を配置すりゃあ、市街戦に持ち込むことすらできません」
「まったくね。私とソーニャは、今は敵の細かい動きを予想するのを控えてる。ただ何が起きても対処できるよう、備えるだけだわ」
 何か、読もうとすればする程、泥沼にはまっていきそうな気がする。それも敵の狙いのひとつだろう。幻惑に対抗するのに最も有効なのは、真っ当な戦をすることだ。
 ただ、まだソーニャ以外には伝えていないが、少しだけあのリッシュモンの裏をかく策を用意してある。効果の大小はわからないが、さらにその裏をかく術はない、捨て身の用でいて堅実な一手である。仮にある程度予想できたとしても、最初の一手は敵もそう動かざるをえないという点で、あのリッシュモンに一泡吹かせることはできるだろう。
 確実だが、それがどの程度彼女を動揺させるのか、そして戦局に影響を及ぼすのかはわからない。
「毒、かもしれませんねえ」
「毒? まさか兵糧に毒が仕込まれるなんて、そのままの意味じゃないわよね」
「ハハ、何万という兵に一斉に毒を仕込めるような手立てはありません。どの食料も、まずまずの品質のようですよ。仰る通り、喩えとしての毒ですが」
「裏切り者がいる、というのはどう? ただ、いずれの諸侯もここでアッシェンに付くだけの利点は・・・ないわよね、ねえ?」
「あ、俺ですか? いやいや、疑われると返答に困る立場の傭兵隊長ですが、契約期間内に敵方につくとありゃあ、信用ガタ落ちです。相手方にも信用されないでしょう。安心して下さい。あっちに付きたくなったら、契約満了時にきちんとお別れと感謝を伝えますから」
「何か、あなたはなんだかんだ言って私たちを助けてくれそうな気もする」
「今更、アッシェンにつくのもどうかと思ってます。それはそれとして、囀る者の話では、本当にここに敵の間者が大勢いるということはないと」
「いると、それとなくわかるそうよ。もっとも索敵に割ける人数が少ない以上、敵の腕が良ければ二、三人の見落としがあってもおかしくないとの話でもある」
「忍び以外の、何かを見落としてるような気がしますね。所詮数人の忍びでできることなど、元帥の・・・いや、すみません」
「私の暗殺か、敵に城内の様子を知らせるか。私の暗殺は、かえって敵に有利に働くかもしれないわよ。母さんかソーニャか、あるいはグライー卿が総大将になった方が、敵にとっては難儀でしょう」
「またそんなご冗談を。ともあれ、付近の住民にしてみりゃ、我々に大量の物を売れる、絶好の機会で、忍びが紛れ込むには充分な好機でしょう。くれぐれも、ご用心を」
「ええ。ここに集まった優秀な幕僚が気づけないのなら、私なんかに気づけるわけもない。肚は据わってるわ。私は、私の戦をするしかない」
 少しだけ目を見開いて、ラテン傭兵は笑った。
「いや、一つの戦で大きくなられました。胆力ですな。俺も元帥の歳の頃は命知らずなんて言われてましたが、それは恐怖の裏返しで、そこまで肚が据わってはいなかったな。おっと、そろそろ時間か」
 懐中時計を取り出したアメデーオは、慌てた様子で帽子の角度を直す。
「失礼します。外せない宴席がありまして。ああ、キザイア様の副官候補の件、既にご本人にリストを渡していますから」
「いい人材を発掘するのも、日々の努力ね。いってらっしゃい。良い宴を」
 ぴしりとした敬礼に同じ形で返し、クリスティーナは駆け去るアメデーオを見送った。
 何かを見落としている。彼もまた、そう言った。それが何かわからないだけで、ひょっとしたら誰もがそんな疑念を胸に抱いているのかもしれない。
 それにしても、胆力か、と一人呟く。私がそれを持ち得たのは、あななたちのような優秀な指揮官がここには大勢いると、あらためて気づかされたからよ。
 そう彼の背中に伝えたかったが、既にラテン傭兵は通路の奥に消えていた。

 

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