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3,「少なくとも私は、あなたを一人で泣かせたりしないよ」


 人に、胸に秘めた憧れを話したことはない。
 なので、半エルフのフェルサリに青流団への入団を勧められた時には、ルチアナの胸の内を見透かされたようで、腹が立ったものだった。
 “青の円舞”ロサリオン。歌にも物語にもなっているこのエルフの男に、ルチアナは子供の頃から惹かれていた。強さの中に、優しさと厳しさを見た。人間の女との純愛もいい。古強者だが、どこか青臭さもある。
 いくらか脚色されただろうそれらの話を、しかし耳半分で聞いたとしても、ルチアナはこの英雄に憧れていた。ひょっとしたら、恋をしていたのかもしれない。手の届かない、しかし実際にパンゲアのどこかにいて、いつかまた世に出るであろう彼に会ってみたい、そう思い続けていた。他に望みのようなものはなく、それだけがルチアナの生きる希望だった。一目惚れの経験はないが、これが恋愛だったら、まさにそれなのだろう。その物語に触れた瞬間から、ルチアナはロサリオンに夢中だった。
 幼少時から、いつも何かに苛ついていた。特に双子の妹のアニータには、その卑屈な態度も含めて、これが本当に自分の妹なのかと憤ることもしばしばだった。
 血は、どちらかというと母のアンナよりは、父のロベルトのものを濃く受け継いだか。父はあの冒険者集団セシリア・ファミリーの一員で、ある時期からはセシリア邸の執事のようなことをしていた。それと、セシリアが引き取ってきた身寄りのない子供の世話と、読み書き計算も教えていた。飛び抜けた才能はなかったものの、ある意味、万能の人とも言えた。ルチアナは、それら全てをより高い水準で受け継いだというわけだ。
 セシリア邸で生まれ育ったことは、出自と言う意味では恵まれていたと思う。勉強も鍛錬も、好きなだけできた。記憶にはないが、セシリア自身もルチアナの養育をしてくれたらしい。彼女とは数年前に一度会っただけだが、現役から退いたとはいえ、これぞ英雄という佇まいに、圧倒されたものだ。
 身体が大きくなってからは、武術で大人相手にも負けることはなくなった。ファミリーの道場の師範ナザールが、老境に入りつつあることもあったか。彼から一本取った時にも、喜びよりも苛つきが先にあったように思う。
 自分より強いかもしれないと感じたのは、近所で、ほとんど一緒に育ったと言える、ニコールの娘エンマだけだった。剣では、ルチアナの方が上だったと思う。が、組み打ちは明らかに手を抜かれていると感じ、不快だった。
 エンマはその母”掴みの”ニコールの血を色濃く継いでおり、特にその握力は鋳塊を指で粘土のようにこねられる程だった。ルチアナの手首を掴んだ瞬間、骨を砕くことなど造作もないことだっただろう。二つ歳上だったが、いつも姉貴面して勝ちを譲られたことは、屈辱以外の何物でもなかった。もっとも、本気で戦うには二人とも強くなり過ぎていた。
 今振り返っても、当時は荒れていた。ルチアナの成長は早く、今は十四歳だが、十二歳くらいからよく大人と間違われていた。なので下品な口振りで言い寄ってくる男や、出自を知らず絡んでくる下衆に自分から近づいていっては、因縁をつけられ、お返しにと、手当たり次第に殴り倒していた。相手が刃物を取り出した時には、内心ほくそ笑んでいたものだ。そう来るならこちらがいくら叩きのめしても、警備兵に咎められることが少ないからだ。
 それまではあまり家から出ず、セシリア邸の子供たちの中では無名だったルチアナだが、数ヶ月を経たずレムルサでも有名に、いや悪名高くなっていた。そんな時、旅から帰ったフェルサリに振る舞いを咎められ、喧嘩はすぐに立ち合いになった。
 誰が仲裁に入ったのか、そしてあのまま続けていたらフェルサリを斬れていたかはわからない。ただ落ち着いた後この半エルフに、傭兵団、それも青流団に入ることを勧められた。あなたは、いつか人を殺す。そう言われてさらに沸騰しかけたが、周囲にこれ以上迷惑をかけない為にも、家を離れた方が良いとは思っていたところだった。
 たやすく、それも子供が入れるような傭兵団ではなかったが、フェルサリの仲介もあって青流団に入団できた。何故かアニータもついてきたが、ルチアナはこの出来損ないの妹のことはあまり気にしていなかった。臆病で、お調子者のアニータである。いつも、ルチアナの陰に隠れていた妹。いずれ泣きながら家に帰ると思っていた。青流団の調練は、ルチアナにしても生易しいものではなかったのだ。
 戦場で、人を斬った。初めて人を殴った時と比べて、どうということはなかった。罪悪感という点では、同じセシリア邸の子供に、道場での鍛錬中に怪我をさせてしまった時の方が大きかった。鍛えた大人が武器を持ち、本気で殺しに来るというのなら、斬って何が悪いということだ。同じ家で育ったというだけで、他人なのにルチアナを姉と慕い、面倒を見るつもりで怪我をさせてしまったあの子の、血を流して気を失った横顔。怖かった。その恐怖感を超える経験は、それ以後もなかったといっていい。戦場でいくら人を斬ろうと、単に仕事としてルチアナは割り切れた。
 人を傷つけるのが仕事とは、傭兵も因果な商売である。つまるところ、あの半エルフは、ルチアナが人を傷つけずにはいられない人間だと、看破していたわけだ。
 一度団長代理ベルドロウの副官を経験したが、すぐに大隊長の一人になった。一部隊を預けられたので、調練についてこれない者は容赦なく叩きのめした。何が、最強の傭兵団だ。その頃には確実に、団にはルチアナより強い者がいなかった。部隊の指揮にしても、やり方を覚えてからは誰にも負けてはいない。
 そう、あの女が現れるまでは。
 大陸五強、”陥陣覇王”アナスタシアの名は、当然知っていた。初見は、あの村の酒場である。戦に敗れ放浪していた彼女を一目見た時、何かがルチアナの中で変わった。
 それが何かわからず、激しく動揺した。部隊同士を率いての演習で敗れ、その後の立ち合いでも彼女に殺されかけた。あそこまで強いと感じた人間に、これまで出会ったことはなかった。誰かにあそこまで、叩きのめされたことも。
 青流団団長ロサリオン。あの英雄が帰ってくるまで、ルチアナはこの団の頂点であり続けようとしていた。最初の憧れであり、信念であり、彼の帰ってくる場所を守るのは使命だとも思っていた。彼が帰ってくるまで、あと少し。そう思っていた矢先に、アナスタシアと出会ってしまったのだった。
 アナスタシアが再び旅の空へ戻ろうという時、その背中にしがみつきたいと思った。何故そんなことを思ったのか、しばらくしてから気がついた。ロサリオンへの憧れは変わらない。しかしその出会いより以前に、ルチアナは真の主か、友か、あるいは別の何かか。ともかく共にいたいと心の底から思う人間を、見つけてしまったのだった。
 嬉しくはなかった。むしろ、幼い頃からの憧れを、汚されたような気がした。
 だから、アナスタシアが一度だけ青流団を率いると聞いた時には、また会える喜びよりも、憤りの方が勝った。それでも一度くらいなら、彼女の下で戦ってもいい。単なる思い違いで、彼女におかしな幻影を見てしまっただけかもしれないからだ。一時の気の迷いだったなら、それを確かめておきたい。
 だが、直感は正しかった。あまりにも鮮やかな勝ち方に、いつも茫洋としているようで凛とした眼差しに、さりげなくルチアナを気遣う素振りに、本当に自分に必要なのは、そして彼女が必要としているのも自分なのだと、気づいてしまった。
 今度こそ、共にあろう。そう思ったが、アナスタシアは傭兵をやめるということだった。
 悲しかったが、剣を捨てるというのなら、いずれ未練も断ち切れる。そう思い直し、再びロサリオンを待ち受けることにした。心をかき乱されたが、あの英雄に会えば、きっと気の迷いも晴れる。
 そこで、アニータである。
 青流団を抜けると聞いた時には、これでこの妹が戦場で殺されることはないのだと、少しだけ安心したものだ。容姿、性格、何もかもが違うこの双子の片割れとは、いずれ道を分つだろうとは思っていた。
 元気で。別れ際、そうアニータに声を掛けたが、既に彼女の背中は遠くなっていた。青流団を抜ける他の者と合流して、アナスタシアの後を追ったと聞いたのは、数日経ってからである。
 その晩は、久々に荒れた。明け方まで無茶苦茶に剣を降り続け、硬く、豆だらけだった掌の皮が、ずるりと剥けてしまうくらいだった。誰も近寄って来なかったが、もしあの時のルチアナにおかしな言葉を掛ける者がいたら、斬り殺していても不思議ではなかった。
 それ以後、怒りを表に出すことはなかったが、新生霹靂団、その副官にアニータと耳にした時には、肚の中にどす黒いものが渦巻いていた。
 ルチアナが本当にやりたかったことを、思いつきもしない形でやり遂げた妹に、恨みはない。あるとすればそれは、気持ちに正直になって一歩踏み出すことができなかった己の臆病さと、運命に対してだった。
 自分を、壊してしまいたかった。
「大隊長、そろそろ団長がお見えになります」
 兵の一言で、ルチアナは回想から現実へと戻ってきた。
 鑑を見る。下睫毛が濃く、ぎらついた、ちょっと怖い目をしていると、昔から言われてきた。化粧は、入念に施している。いくらルチアナが大人と間違われると言っても、顔のそこかしこに十四歳の幼さは残っている。兵に舐められないよう、自分なりに大人の顔を作っているつもりだった。
 薄暗い天幕から出て、練兵場と指定されたロンディウム郊外の原野を見渡す。この地方には珍しいよく晴れた日で、うろこ雲が西の空に広がっていた。高台の麓に、将校や古兵たちが集っていた。輪の中心に、ロサリオンがいるのだろう。
 気恥ずかしいが、ときめく気持ちがあった。やっと、会える。会えば、あの銀髪の、ぼんやりとした女、アナスタシアのこともきっと忘れられる。
 ルチアナが近づくと、人だかりは二つに分れ、英雄への道は開かれた。”青の円舞”ロサリオンは、じっとこちらを見ている。青の具足越しにもわかる、鍛え抜かれ、すらりとした長身。
「お前がこの団の麒麟児とまで言われる、ルチアナか。噂も、話も聞いている。ロサリオンだ。よろしく頼む」
「ルチアナです。団長、お帰りなさい」
 ロサリオンが、白い歯を見せた。美丈夫だが、想像、あるいは絵で見るそれらよりも、少し険のある顔をしていた。歴戦である。戦塵がもたらした風格のようなものか。差し出された手は細身に似合わず、がっしりとしていた。
「団長が、一度全体の調練を見たいと申しておる。ルチアナ、わしをそれぞれの大将とし、演習をやるぞ。旗持ちを一人決め、それを奪った側の勝利としよう」
 ベルドロウ、長く団長代理を務めてきた老ドワーフは、本来の団長付き副官の地位に収まっていた。ここが彼本来の居場所だったのだと、その佇まいを見てあらためて思わされる。実質的な団長で、ルチアナ自身も彼をそう見てきたが、本物の大将の横に立つ彼の姿は、やはり様になっていた。自身それがわかっていたからこそ、長い間団長と決して名乗らなかったのだろう。
 この光景は、しかしつい先日も見たことがある。ロサリオンの位置にアナスタシアが居た時も、ベルドロウはこんな顔をしていた。
 二つの軍は、素早く編成された。旗は決められた一人の歩兵が持つ形で、旗の受け渡しや速い移動が叶わない為、守兵にある程度割かねばならない。
 ルチアナは配布された、敵味方を識別する襷を掛けた。ルチアナ軍は白、ベルドロウは赤。
 二千五百の兵の内、騎兵歩兵合わせた千五百を守兵に定めた。指揮を古参の大隊長、ルークに任せる。残る騎馬五百、歩兵五百の合計千で、敵の旗を奪う。一方のベルドロウは、守兵は五百程のようだ。二千の攻撃部隊。速戦で決める腹づもりか。
 角笛が鳴らされ、双方進軍を開始する。ロサリオンと対面してから、まだ十分と経っていないと、あまり関係ないことをルチアナは考えていた。
 そのロサリオンは一人、離れた高台で両軍を眺めていた。エルフの目なら、今のルチアナの表情も見えているだろう。私の、憧れの人。どうか、私の戦を見ていて下さい。
 向かってくる敵兵。歩兵を前面に、騎兵はわずかに下げた両側と、実にベルドロウらしい、真っ当な配置だった。ぶつかってからは、しかし変幻だろう。青流団はそうした伝統を持つ傭兵団であり、それをもっとも体現してきたのがあの老ドワーフである。
 敵の軍靴、次いで蹄の音がはっきりと聞こえてきたのを機に、ルチアナは歩兵を疾走させた。敵歩兵は身構え、騎馬隊も両側から絞り上げる動きだ。
 ルチアナは歩兵を見殺しにして、敵の旗へ向かった。騎兵の一隊がこちらに向かってくるが、無視して馬腹を蹴る。この五百騎は、ルチアナが鍛えに鍛え上げた直属の部隊だ。青流団騎馬隊二千五百の、精鋭中の精鋭。
 背後を取られるのも構わず、敵守兵に突撃した。先頭は無論、ルチアナである。
 一気に、歩兵を断ち割る。旗には逃げられたが、相手もまた青流団、一度で旗を取れる程甘くはない。見ると、旗のすぐ近くでベルドロウが指揮を執っていた。彼らしい堅実さに、思わず笑みが零れる。
 歩兵を突き抜けた後、すぐに守備のの騎馬隊に側面を襲われた。百騎程の、槍のような一撃。
 ルチアナは一人、そちら側に立ち、敵騎兵を薙ぎ倒し、あるいは突き倒した。調練用の木剣でなければ、もう少し斬れた。雑兵とて、強者揃いの青流団である。木剣を折らず、かつ相手に深手を負わせないよう落馬させていくのは、さすがのルチアナでも骨が折れる。実戦なら、二十人は斬れた。十人目を突き倒してから、ルチアナはもう一度そう思った。
 自軍、最後の一騎が歩兵を突き抜けるのを見て、ルチアナもその最後尾を追う。反転すれば、再びルチアナが先頭である。
 敵歩兵の頭越しに、置いてきたこちらの歩兵が奮戦しているのが見える。遠方、旗持ちの部隊に敵兵はまだ、一人も届いてはいない。
 今の突撃で双方、それぞれ百人程が戦場を離脱したが、こちらは失った兵力ほどの突撃力を落としていないと見た。騎馬と歩兵では釣り合わないが、その分、ベルドロウの陣に綻びが生じたのなら、それで良しとする。ただ、どこが本当の綻びで、どこがそれを装っての罠か。見極め、あえてルチアナは罠と思える右側面に突っ込んだ。
 方陣の角を削り取り、こちらへ向かっていた騎兵を断ち割る。敵が散るのを確認する前に反転し、もう一度歩兵の中に突撃する。これで、敵騎兵が体勢を整える前に歩兵の中に潜り込み、追撃を不可能とした。
 もう、この敵歩兵の陣の中から、出るつもりはなかった。向こう側にもうひとつ、敵の騎馬隊が待ち受けているが、彼らの出番はない。
 周囲の兵を薙ぎ払いながら、ルチアナはベルドロウに猛進した。敵の動揺が収まれば、脚を止めた騎兵は歩兵の格好の餌食となる。とにかく前進し、青の具足の奔流の中、ルチアナは剣を振るい続けた。
 寡兵でのここまでの速戦は、ベルドロウも予想していなかったのだろう。歩兵は今後のさらなる突撃に備えていた為あまり密ではなく、老ドワーフの傍の旗までに、大した障壁はない。
 不意に一陣の風が土煙を吹き飛ばし、置いてきた、崩れかけた歩兵と、遠方に無傷の守兵が見えた。勝った。確信し、ルチアナはさらに剣を振るった。
 ベルドロウ。何に対してなのか軽く肩をすくめ、旗を持つ歩兵を差し出した。旗竿を掴む。それを高く掲げ、ルチアナは雄叫びを上げた。
「剣を下ろせ。我々の勝利だ」
 一斉に、周囲の兵が武器を下ろし、あるいは地に突き刺した。
 ルチアナは、高台のロサリオンを振り返った。どんな顔をして、私を見ているのだろうか。やりました。青流団の最強は、この私です。目で、それを伝えた。エルフの目なら、そして英雄のそれなら、きっとわかるはずだ。
 両軍の兵が一つに集まり、エルフの団長の元へ向かった。
「噂以上だな、ルチアナ。一人で、四十人の兵を討ち取った。実戦で、他の軍が相手なら、あの短時間で百人は斬っていたんじゃないか」
「ありがとうございます」
 胸が、高鳴った。認められた。憧れの人に、お前は凄いと言ってもらえた。頬が紅潮していくのが、自分でもわかる。
「おい、サーシュリン。この中にいるか? まだ生き残っていると聞いているぞ」
「あ、はいぃ。団長、まだ挨拶もしていないのに、それですかぁ?」
 間延びした、女の声が聞こえる。兵をかき分けて奥からやってきたのは、そのおっとりとした性格をそのまま外見に反映させたような、女エルフだった。森エルフのサーシュリン。通称、”昼行灯”。長い耳を除けば人間の女の二十代半ばくらいに見えるが、青流団最古参の一人で、年齢は五百を超える。武に天稟は感じないが、何百年という傭兵経験だけで、それなりの強さ、少なくとも青流団に残れるだけのものは持っていた。馬術にだけは光るものがあるが、剣ではルチアナの隊にあって下から数えた方が早いだろう。
「お久し振りですぅ」
「ああ。だが挨拶は後でいい。健勝そうだな」
「おかげさまで。へへ」
 この女エルフは近々、ルチアナの直属からはずしてもらうよう、進言するつもりだった。この女一人が緩いのなら許せるが、サーシュリンは近くにいる兵たちも緩ませる、独特の雰囲気を持っているのだ。
 エルフにしてはかなり肉付きがよく、肩にかろうじて届こうかという栗色の髪は、面貌のみならず丸い頭の形の良さも引き立てていた。美人とかわいらしさを兼ね備えたその容姿に、男の兵たちが魅入られるのは、わかる。ただそんなこと以前に、とにかくこの女は部隊から張りつめたものを奪う。それが、許せない。今までは青流団の最古参の一人ということで、こちらが気を遣っていただけだ。そろそろ、潮時だろう。最初に預けられた部隊にいたというだけで、ルチアナの部隊に、昼行灯はいらない。
 ひらひらと手を振るサーシュリンに、ロサリオンは苦笑で応えた。こんな雑兵を皆の前で呼び出して、彼は一体何をするのだろう。
「ルチアナ。お前は一兵卒に落とす。サーシュリン、お前がルチアナの隊を引き継げ。副官は、好きに決めていい」
 一瞬、彼が何を言っているのか、わからなかった。
 私を、大隊長から下ろす? 何か、彼の気に障るやり取りでもあったか? たった今、あなたが団を預けていたベルドロウに、完勝してみせたんだぞ。ありえない。何かの冗談か。冗談でも、絶対にありえない。
「理由を」
 なんとか、声を搾り出した。頭の中が白くなりかけていて、それ以上の言葉が出てこない。私は勝った。私が、一番強い。
「兵を、弱くした。お前が強過ぎるからじゃない。これ以上は、自分で考えろ」
 誰も口を聞かず、ルチアナの唾を飲み込む音が、やけに大きく響いた。
「ともあれ、お前が新大隊長だ。サーシュリン、よろしく頼むぞ」
 ロサリオンが手を叩くと、兵たちも応じた。おめでとう、そんな声がいくつも聞こえ、サーシュリンは明らかに戸惑いを見せつつも、それに笑顔で応じていた。
 ずっと、孤独だと思っていた。しかし、ここまでそうだと感じたことは、これまでの人生にない。腰の辺りを軽く叩かれ、ルチアナは視線を下げた。ベルドロウが目元を擦るような仕草をして、ルチアナが涙を零していることを教えてくれた。
 涙を拭う。老ドワーフは、今は泣くな、とでも言うように、小さく頷いた。
 それからのロサリオンが、何を話していたのかはわからない。奥歯を噛み締め、嗚咽をこらえる。そのことに精一杯で、何も頭に入ってこなかった。
 どれくらいそうしていたのだろうか。もう、周囲に兵は残っていなかった。日が、陰り始めている。面を上げると一人だけ、ルチアナの傍に立っていたことに気づく。
「もっと、泣いてもいいんだよ。けど、ちょっとお腹すいちゃったねえ」
 サーシュリンだった。先程祝福の渦の中心にいたエルフはしかし、その後もずっと、ルチアナの傍にいたのか。
「何の用ですか。隣りでずっと、私を笑っていたんですか」
 切なさを凝縮したような微笑で、エルフは首を横に振った。
「一人で、泣いちゃ駄目だよ。あなたは、一人で泣いていい人じゃない」
「意味が分かりません。一人で泣くことの、何が悪いのか」
「私も、みんなも、胸が押し潰されちゃうよ。少なくとも私は、あなたを一人で泣かせたりしないよ」
 抱き締められた。人にそんなことをされるのは、幼少時に母にそうされた時以来か。あたたかい。ただ、そう思った。
「それで、私に何の用ですか」
 エルフのやわらかい身体を押しのけ、ルチアナは言った。
「一緒に、ご飯食べに行こう? お腹、すいたでしょ?」
「わかりません。ただ、私は食事は一人ですることにしています」
 つい先日まで、アニータが時折やってきて、食事を共にしていた。向こうが勝手にやってきただけだ。それをもうずっと昔のことのように、ルチアナは感じた。
「そんなこと言わないで。大隊長として、命じちゃうぞ」
「そんな権限は、ないはずですよ」
「それじゃあ、今後のことを話し合おう。食事がてらね」
「雑兵に、何を話すことがあるんです」
「ルチアナちゃんは、私の隊の副官だよ。団長、好きに決めていいって言ってたし、私、すぐにそう決めてたから」
「一兵卒に、話すことなど」
「だから、たった今昇格だよ。おめでとう。お祝いに、今晩は私が驕ってあげる」
 なんとしても、このエルフは自分と食事がしたいらしい。ルチアナは盛大な溜息をついた。これ以上抵抗するには、今のルチアナは疲れ過ぎていた。
「わかりました。ただ、サーシュリン隊長は今晩辺り、皆が大隊長昇格の、祝いの席を設けるのでは?」
「すごく申し訳ないけど、明日にしてもらった。今晩だけはルチアナちゃんといたいって言ったら、みんなわかってくれたよ」
 手を引かれ、街へ向かって歩く。ロンディウムは市壁外の家屋の広がりが大きく、城外にはかなりの数の酒場がある。市壁の下には多くの明かりが、夜空に先駆けて瞬いていた。
「どうして、私なんですか。団長には、三行半を叩き付けられたばかりなのに」
「それなら、私が大隊長って方がわかんないよ。私、こんなに長く青流団にいるのに、指揮官って初めてなんだよね。だから、色々教えてよ」
「一からですか。十四歳の小娘に」
「年齢は関係ないって、私見ればわかるでしょう? あーみんな、絶対今頃私で大丈夫かって心配したり、笑いものにしてるって」
「私は、何がいけなかったんでしょうか」
「わからないねえ。私には、さすがルチアナちゃんの指揮だなって感じたよ。そういうのも、これから話し合って、一緒に悩もう」
 何故かはわからないが、胸が熱くなった。優しくされてるのか頼られているのかわからない、サーシュリン独特の物言いだった。
「いい加減、手を放して下さい」
「あ、ごめんね。ちょっと、馴れ馴れしかったかな」
「そもそもさっきから、馴れ馴れしいなんてものじゃないですよ」
 サーシュリンが、花のような可憐な笑顔を見せる。
 釣られて笑いそうになったルチアナは、それを必死にこらえた。
 今は、それが精一杯の強がりだった。

 

 午前中はおろか、市が開いて二時間と経たず、それを売り切ってしまった。
 ジャンヌが提案した、組み立て式の家具である。
 ある程度売れることを見越していたが、こんなに早く捌けてしまうことは、ドナルドはおろか、ジャンヌの予想すら上回っていたらしい。今は噂を聞きつけてやってきた客から、予約の注文を取っているところである。
 今回は共についてきたアネットが、それらを帳面に書き込んでいた。予約料ということで、先に値の一割を客から取っている。残りの九割を、商品を引き渡す際に受け取る格好だ。これはアネットの提案で、彼女らしい慎重な考えである。
「ふむ、さすがにこれ以上注文を受けるとまずいんじゃないかな。御料林の木材だ。一度に伐採できる数にも限りがある」
 客足が一度引けた機に、ドナルドは言った。聞こえていたのか、隣りの出店のシャルルが話に加わってきた。
「なら、ウチの村からも出すのはどうです? 俺のとこじゃ、あまり御料林使ってないですからね。ちょうど町に来てるんだ、後で庁舎の方に行ってきますよ」
「助かる。が、一時の流行に終わるかもしれないからな。後々売れ残っても困る」
 積み上がっていく銀貨の山を小袋に分けていたジャンヌも、顔を上げた。
「別の町にも行ってみるというのはどうです? 同じくらいの距離で、三つくらい町ありましたよね。大きめの集落なら六つくらい。町には、露店を出す許可を事前に取っておかなくちゃですけど。今回の儲けだけで、いつもの収入に加えて、荷車と馬が一頭買えますよ。そうすれば、より多くの木材を運べます。繰り返せば、商売の規模はどんどん大きくできます」
 聞いて、シャルルは目を丸くした。
「え、そんなに儲かったのか。お前は商人にでもなった方がいいんじゃないか?」
「ふふ、シャルルさんにもやっと私の凄さがわかったようですねえ。あと、おじさんの心配もわかりますけど、このお金を村の整備に使って、収穫量の増加にも繋げられますよ。そうすれば食べ物に困ることも今より少なくなるでしょうし、余った分をシャルルさんとこみたいに売ることもできます。組み立て式家具は、行商の人に仲介に入ってもらうのもアリですね。先に余所で注文取ってもらってその分だけ木を切り出していけば、作り過ぎて困るってこともないですし。まあ、ちょっと先の話ですけどね。他の町を回るのもいいですけど、この調子であと三回くらいここでこれを続ければ、周囲の町や行商人さんたちにも、評判は広がるんじゃないでしょうか」
「な、なるほど。本当にジャンヌは、冴えてるな」
 えへへ、とジャンヌはその大きな目を細める。銀の小袋の数を数えていたシャルルが、もっともらしい顔をして言う。
「金を稼ぐのは大事なことだが、俺たちはそれぞれ騎士、家士、従者と、その本分を忘れちゃいけないぞ」
「ご指摘ごもっともです、サー。私たちが道筋をつけたら、後は村の者たちが引き継げるよう、はからって参ります。けどやっぱりシャルルさんも、このくらい儲けたいですかあ?」
 小袋を卓の上で抱き寄せながら、ジャンヌはちょっと意地悪そうな笑顔でシャルルを見上げた。
「ま、まあそこまで考えてるならいいんだ。にしても、一日どころか二時間でこれだけ稼いだのか。予約料だけでも、まだ増えるんだよな」
「お金っていうのは寂しがり屋ですからねえ。一カ所に集まろうとするんですよ」
 銀貨の小袋をかき集め、ジャンヌはその上に顎を乗せた。
「やれやれ、他の使い道も考えてるのか?」
「他というより、村の整備をまずやってからですね。水車を新しくしたいんですが、あれはさすがにウチの人たちだけじゃ手に余るんで、余所から職人さんたちを呼ばなくちゃで、それなりにお金かかると思います。もっとお金入るようだったら私、おじさんとアネットさんに新しい軍馬を買いたいんですよ。今の馬はもう戦場に出すのはかわいそうですし、交代で乗る二人の安全にも関わりますから。あと武具の新調とか、さらに余裕あったら、私も部分鎧でいいんで、何か欲しいですね。ほら、いつまでもこの格好じゃただのかわいらしい村娘って感じで、おじさんが他の騎士さんたちに軽く見られちゃうでしょう? 私が良くても、おじさんが従者一人の装備も揃えられないのかって思われるのは、正直癪ですし」
 袋の山の上で丸い頭をころころと転がした後、ジャンヌはこちらを見て、ですよね?と言わんばかりの眼差しを向けてくる。
「豊かであることに、越したことはないな。それと村の者が収入源を多く持つことは大切なことだ。それにしても馬の心配までジャンヌにさせていたとは、全く持って自分が情けない」
「いえいえ、従者として主の栄達を望むのは、当然のことですから」
 そこで、シャルルは何か意味有りげな視線をジャンヌに投げた。少女はそれに気づいて顔を赤くし、やがて袋の山に顔を埋めた。
 この二人には、仲が良いというよりも、何かしらの絆が育まれているようだった。思えば二人は反発するようで、しかし初めから仲が良かったという気がする。シャルルに従者はいないので、いっそこの甥のそれになっていた方が、この娘の為になっていたのではないか、とドナルドは思う。
「ああ、さっきのシャルルさんとこの御料林の話、たくさん仕入れますから、割引いて下さいね」
「そういうとこは本当にちゃっかりしてるよなあ。じゃあ叔父上、ウチの店もちゃんとやってるようですし、ちょっと庁舎の方に行って、御料林長官に話つけてきますよ」
「わかった。頼む」
「行ってらっしゃーい。おじさん、予約終わったならもう撤収準備して、村のみんなとご飯食べに行きましょうよ。これだけ売れたお祝いに、今日はちょっと豪勢にいってみても良いかも」
「気が回るな。よしみんな、今までよく頑張ってくれた。今日は私の奢りだ。食堂でも屋台でも、腹一杯食わせてやるぞ」
 村人が、一斉に歓声を上げる。
「土産も、買っていってやらないとな。この家具の製作に携わった村人は、多い」
 見本として残された組み立て式家具に触れながら、ドナルドは言った。ジャンヌの話だと村に稼ぎ、それも相当なものを見込めそうだが、今ひとつその実感はない。小さな村で少ない金をやり取りしてきたので、貧乏性が板についてしまった自覚はある。先日の戦で捕虜と鹵獲した馬からかなりの額を手にしたものの、それらは徴兵で倒れた兵の遺族や癒えぬ傷を負った村人の生活補助に使う為、手を付けられない金である。なので使い道の定まっていない大量の金が目の前に現れたら、その時になって戸惑ってしてしまうのではないか。
 アネットが帳面を紐で閉じ、次々回までの予約を取れたと伝えてきた。今日買ってくれた客が出来に満足すれば、ジャンヌの言うように評判は広まっていくかもしれない。期待する程のものじゃないにせよ、あと二回は今回と同じだけの収入は確保したので、それだけでも充分過ぎる成果だった。
「こうやってみんなで苦労して作り上げたものが売れるのは、嬉しいですね。でもおじさん、冬までにはきっと、さっき言ったように商人さんが話を持ちかけてきますよ。けどシャルルさんが注意したような、お金儲けの為に私がおじさんの従者になってるわけじゃないんで、安心して下さいね」
「いや、そこまで先のことは正直、私の頭では考えられなかったよ。ただ私の為ではなく、まずジャンヌに立派な装備や、欲しい物を買いたいとは思っていた。それにしても私たちは、ジャンヌに助けられてばかりだ。今日の私の取り分は、ジャンヌが使ってくれ」
「いえいえいえ、私、おじさんの為にやってるんですよ。順序が逆です。あ、お店片付け始めましたね。おじさん、ちょっと重たいですけど、お金、いくつかにまとめておいて下さい。帳簿もここに、確認お願いします。これを私がやっちゃうと、職責を超えちゃう気がするんで」
 村の者たちが忙しなく働く中、ドナルドは銀貨の入った大量の小袋の数を帳簿と照らし合わせ、三つの大きな麻袋に分けた。一つだけでも、ずっしりと重い。なるほど、これとは比べものにならないほどの金を扱う商人たちが、現金の代わりに為替を使うというのも頷ける。金は集まると、こんなにも重いのだ。手数料はかかるが、今後は幾らかは金貨に両替していってもいいかもしれない。いやその頃には、ジャンヌの予想通りなら、村の方に商人がやってくるのか。
 後は馬車で運ぶだけになったので、荷物の見張りをシャルルの村の者たちに頼み、一行はアネットの見つけてきた大通りの酒場に入った。昼前の空いた時間だったので、中央の大きな卓を独占できた。好きなものを頼んでくれと言ったが、皆、安目の注文しか取らなかった。
 今回は大きな儲けが出たが、今後については半信半疑の者が多いのだろう。かくいうドナルドも、シチューにバケット、エールを一杯しか頼んでいなかった。村を預かる身としては、皆が安心してたらふく食べられる日が来たらと、心底思う。
 後ろの席の、おそらく行商たちの集団から、戦の話が伝わってきた。今回の市で知り合った者が多いのか、自己紹介を兼ねたような、商売の話をしている。
「ゲクラン様の戦に、本当にレザーニュ伯が付き合うってんなら、俺は一儲けできそうだな。兵糧が、大量に必要になる。もう話をつけてある農場がいくつかあるんだ」
「どこに攻め込むつもりなのかな。俺のとこの商会は二剣の地も回ってるからな。日用品が主力だ。行軍を避けて村の人間が疎開するようなことがあったら、商売上がったりだ。逆に町の人間が取引先に疎開してくれりゃあ大儲けだが、今までそうなった試しがない。ゲクラン軍は統率取れてるんで略奪とかはまずないだろうが、びびって逃げ出す村人の気持ちもわかる。今後の為にもそろそろ、販路を見直した方がいいかもなあ」
 なるほど。ひとつの戦で得をする商人、あるいは逆もあるわけか。ドナルドたちの当面の商いも、この辺りが戦火に飲み込まれれば、儲けどころではないだろう。これから敵が攻めてくるという時に、家具を買いたがる者などいない。
 隣りに座っていたアネットが、席を寄せて耳打ちしてきた。
「叔父上、砦にいる騎士たちの話によると、戦は年明けが濃厚な気配です」
「本当か」
「最近は私も、砦周辺の道の整備の監督をやっているんですよ。レザーニュ各地でも同様との話で、兵を迅速に移動できるよう、伯、いえフローレンス様が各地の職人に馬車の注文をしているとの噂もあります」
「パリシ解放から、半年でまた戦か。どれだけの徴兵がかかるかな」
「そこまでは、なんとも。ゲクラン伯への援助だけなら少なくて済むかもしれませんが、逆に農閑期ゆえに、それなりの規模になるやもしれず」
「どちらに転ぶかは、まだわからないということか」
 兵は、大抵働き盛りの者が集められる。戦地での犠牲はもちろんのこと、それらの者たちが故郷を離れるだけでも、村にとっては損失である。実際、前回の戦でブリーザ村の収穫は、残された者たちにとって大きな負担となった。一年以内に二度の徴兵となれば、それは負担を超えた痛手となる。
 もっとも前回の戦はジャンヌの活躍で思わぬ収入となったが、失った村人はもう帰ってこない。たまに勝ち戦の僥倖があったとしても、負ければ多くを失い、おまけに代わりの何かを得られることはそうそうないのが、農村部の真理だった。
 店を出た後は九時課(午後三時)までは各々自由行動とした。村の者たちには、今の店で贅沢しなかった分、小遣いを多めに持たせる。
 アネット、ジャンヌと共に、ドナルドは屋台や店に入り、残った村人たちへの土産を物色した。それ以外にも家具の商売が大きくなることに備えて、工具の類も見て回る。
 ふとしたやり取りから、鑿や鋸を扱う露天商の主は、ゲクラン領にも商売に行くことを知った。
「親父、戦の話は聞いているか」
「ハハ、騎士様にも知らされてねえことを、あっしがどの程度知ってるかは疑問ですがね」
 具足姿ではないものの、外出時のドナルドは基本的に帯剣している。それで騎士か、それに近い身分だと、相手にはわかる。相手が家士でも従者でも、騎士と言っておけば礼を失することはそうそうない。傭兵や冒険者だと、もう少し主張の激しい格好をしているものだ。
「ウチらの間じゃ、北のゲクラン鉄道、南のレザーニュ馬車道って、そんな話になってます」
「ここら辺りでも、急に道の整備を始めたということだが。ゲクラン領の鉄道も、少し前から噂にはなっているな」
「兵站っていうんですかね。それを整える動きが、ここのところ早急に進められてるそうで。ゲクラン鉄道は元々完成間近、レザーニュの道も元からあるもんですから、そう時間もかからないって話ですが」
「戦が近い。それは間違いないわけか」
「そんな空模様は。あっしもこの後、レザーニュ城に行ってみるつもりです。物は不足しているそうで、商売になりそうです。しかし、戦は困りますね」
「商売になるのにか?」
「戦じゃ、必ず人が死ぬ。やがて売る相手がいなくなりゃ、商売も何もあったもんじゃありません」
「全く、その通りだな。ありがとう、親父。いくつか買わせてもらう」
「おじさん、これおいしいですよ。ほら、おじさんの分も買ってきました」
 ジャンヌとアネットが、こちらにやってきた。手にはクレープだろうか、甘い香りのする包みを持っていた。
「ハハハ、可愛らしいお嬢さんです。いや、おじさんと言っていたから姪御さんかな」
 店の親父が声を掛けると、ジャンヌは真面目くさった様子で背筋を伸ばした。
「これなる我が主、ドナルド卿の従者、ジャンヌです。親父さん、こういった工具、ウチの村にも売りに来て下さいよ。これからもっと必要になってきますし。隣りの村の人も呼べますから、市のない日にも稼ぎになると思いますよ」
「へえぇ、ここから近いのかい?」
「東門からそのまま街道を真っすぐ東に向かって、街道が南に折れるとこを曲がらず、そのまま林の道を東に突っ切ったとこにある、ブリーザという村です。馬車なら、二、三時間くらいですね。隣村はオッサという所でさらに東ですが、ブリーザとは同じ教会に通ってるくらい、近いです。行商人さんが来たとわかれば、あっちからも人が来ますから」
「ブリーザか。勿論、この町で商売してる以上、名前くらいは知ってる。ここが俺の販路の東の果てだったが、嬢ちゃん、いや従者様の勧めとあらば、もう少し足を伸ばしてみるか。いい話、ありがとよ。騎士様、そんなわけで近々そっちにも寄らせてもらいます」
「大歓迎だ。うちに来る行商は、大半が雑貨商でな。こういった専門的な行商が来てくれると、本当に助かる。御料林を扱う許可もあるのでな、需要はそれなりにあると思う」
「この子に関わると、大抵の人間は得をします。これも良い縁となってくれたら」
 アネットが言うと、行商の親父は嬉しそうに笑った。
 この姪の言う通りだと、ドナルドは思う。不思議な力ではない。実に論理的で、合理的な力を持った娘。
 そう、ジャンヌは関わった人間を、希望に導いていく娘だった。

 

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