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2,「王となった自分は、一体何を目指すのか」


 扉を開けて入ってきたのは、ゲオルクとアーラインだった。
「おう、思ったより元気そうじゃのう」
「これが、そう見えるか。昨晩ようやく、一人で用を足せるようになったところなんだぞ」
 小姓たちに身を起こしてもらい、ジルは積み上げられた枕の中に身を預けた。老ゲオルグは、白い顎髭をしごきながら、ジルの顔を覗き込んでいた。
「顔色は、いいように見えるぞい」
「全身真っ赤に火照っていたんだ。これでも大分マシになったくらいで・・・」
「まあまあ、良くなっているようで、ほっとしたよ。見舞客にそこまで憎まれ口を叩けるくらいなら、もう安心だろう」
 ケンタウロスのアーラインが身を乗り出し、ジルと自らの額に手を当てる。
「まだ、少し熱っぽいかな」
「医者の話だと毒が抜け切るまで、あと二、三日はかかるそうだ」
「その医者によれば、致死量を遥かに超える量だったそうだがな。ジルの並外れた頑健さが、こんなところでも活きたな」
 父、リチャードの血。考えたくはないが、それに助けられたのは一度や二度ではない。
「それより、二人には世話になった。バルタザール殿に最初に異変を知らせてくれたのは、二人だったのだな」
「なに、あのイポリート殿と差しで飲むなんて聞いて、何かあると思わない方がおかしいぞい。もっともわしらの心配は、奴がおぬしを怒らせて、血祭りにあげられるんじゃないかというものじゃったが。ともあれ少し経って訪ねたところ、おぬしの小姓はまだ帰宅していないと言い、奴のメイドはジルは帰ったとの一点張りとなれば、何かあったと思うのが自然じゃろうて」
 つまり、ジルが考えていたよりも、あの会合は周りの者には危ういと思われていたということか。
「心配してくれて、かつ行動までしてもらったことには、素直に感謝する。まったく、今くらい私は自分を情けないと思ったことはないよ」
 気に入らない者は斬る。冒険者の間はそんな生き方だったので、こういった城の中の人間関係、特に自分に対して恨みや妬みを持っている者の心情は、ジルには測りがたいものがある。今後は、わかるようになるのだろうか。
「一度見舞いに来てくれたが、その時は私が前後不覚でな。バルタザール殿は、その後なんと」
「さあ。イポリート殿は、しばらく謹慎だそうじゃ。とは言っても元々、居室を出るのは下手な狩りの時と、晩餐会に出る時くらいだからのう。いてもいなくても、大して変わらんのがあの道楽息子の悲しいところよ」
 確かに、イポリートはバルタザールの唯一の後継者とは思えないくらい、政に関わっていない。能力かやる気か、どちらも欠けているので定かではないが、かつてはバルタザールの一人息子として、彼が一人前の領主として育て上げられようとしたことがあったのだろうか。
 そこでふと、先日の対アヴァラン戦で出会った、ヴィクトールのことを思い出した。レーモン将軍の養子、つまり血の繋がりがないわけだが、その面影、いや髪や体格、そして声までも、バルタザールの若い頃を想像させるだけの特徴があった。はっきりとしたことは聞けなかったので確信はないが、彼がバルタザールの非嫡子だとしてもおかしくはない。明るい目元、そして闊達な性格だけがバルタザールと違うところだが、これは母の血や育った環境によるものだろう。
 そしておそらくヴィクトールは、レザーニュの軍人の中で、最も強い武人なのではないか。天稟に恵まれた者などそうそういるわけではなく、そこはかつて、状況によっては大陸五強の一人に数えられたかもしれないほどの強さを誇ったバルタザールとの、共通点でもあった。
 ただ、素性を曖昧にされてしまったので隠し子と勘ぐってしまったが、案外近い親戚、甥か何かかもしれない。アングルランド側の人間であるジルとしてはどこまで踏み込んでいいものかわからないものの、そもそもあまり話題に出ないレヌブラン諸侯間の血脈、あるいは因習、暗黙の了解のようなものに立ち入ろうとすると、はっきりと壁を感じることがあるのも事実だった。無理もない。あくまでジルは、レヌブランを植民地としているアングルランド側の総督なのであった。ジルがアングルランドを捨て、ここレヌブランに籍を移しでもしない限り、そういったものに触れることはできないだろう。
「バルタザール殿自らに救われて、良かったのう?」
「どうだか。下着を剥がされ、失禁までしていたんだぞ。私にも、羞恥心のようなものはあるのだ」
 老ゲオルクは、笑った。話した記憶はあまりないが、二人は、ジルがバルタザールに惹かれていることに気づいている。ただの男に、あんな姿を見られたわけではないことは、わかっているのだ。
「・・・まったく、二人とも人が悪い。私にとっては本当に笑い事ではないのだ。ただ、悪くないとも思っていたよ」
 言ったジルの顔を見て、二人は虚を衝かれたような様子を見せた。顔を見合わせ、もう一度こちらを見る。
「ん? おかしなことを言ったか」
「いや、そういうわけでもないが、おぬしの、そんな顔を見るのは初めてでのう」
「どんな顔だ? いつも通りの悪相だろう?」
 アーラインが自らを指差し、実にやわらかく微笑する。美しい面貌でそんな顔をされると、女の自分でも思わず赤面してしまいそうだ。
「こんな顔をしていた」
「なっ? 見間違いだろう。私が、そんな・・・」
 いや、いつも自分の顔を見られるわけではない。あるいはジルも、何かの間違いであんなやわらかい表情をすることがあるのかもしれない。
「いや、どうでもいいか。だが、悪くないというのは・・・ああ、正直に言うよ」
 思い出すだけで、胸が熱くなる。今度は本当に、赤くなっていることだろう。
「助けに来てくれたのがバルタザール殿で、よかった。本当に、そう思う」
 二人が同時に肩をすくめるのを見て、ジルは少しだけ自らの戯言を後悔した。

 

 シテ島と、その上に建つシテ城は、狭い。
 パリシ中央を走るブークリエ河の中州に、この島はある。小さな島に窮屈そうに建てられた城と一連の施設は、王城というより牢城に見えたものだと、アンリは庶民の頃の目線で振り返っていた。細長い窓に切り取られた外の景色に、この島と市街地を結ぶ立派な橋が見える。
「陛下、私の話は少々退屈でしょうか」
 アッシェン宰相、ポンパドゥールが、眉をひそめる。前王、つまりアンリの父の愛妾から宰相にまで駆け上がった異才だが、王の心を射止めるだけの美貌、そして宰相を務め上げることのできる知性を併せ持つ、全く希有な存在だった。天はポンパドゥールに、二物以上のものを与えている。これで有名なサロンをいくつも主催し、女官たちの信頼も厚いのだ。
 あえて言えば、もう随分会っていないだろうという夫との不仲、なにより困窮のアッシェンの宰相になっていることが、彼女の不幸か。加えて、王はこのアンリである。
「いや、少し憂鬱な気分になっていただけだよ。すまない。真剣に聞いていたからこそ、気の滅入る話だなって」
 弱冠、と自分で思うのも変だが、十二歳、かつ先日までは下町育ちだったアンリに対して、ポンパドゥールは微塵も侮るようなこともなく、王として接してくれている。そこにかえって、居心地の悪さがないわけでもない。このくらいの若い女性は大抵、アンリを子供としてかわいがってくれてもいた。人として同等以上、そして臣として尽くしてくれる彼女に対して、アンリはいまだどう接するべきか迷っていた。
「増税案の候補は、いくつか挙がっております」
「できれば、税は上げたくない。民の気持ちがわかるというより僕はまだ、そちらの自分の方が大きいからね。小さな印刷所の丁稚の小僧としては、今でも税は重過ぎると感じていた」
 昨日の小議会、アンリが庶民の頃に宮廷というものを想像していたものより遥かに狭い一室で行われたその場では、増税は既定路線で、どの税を上げればパリシの民の反感を買わずに済むかに議論の多くが費やされていた。
 王の採決の段になって、アンリは増税そのものを見直せないかと、一時議会を閉会させたのだった。大臣の何人かは、やれやれといった様子で首を振っていた。
 そして今、ポンパドゥールがアンリの書斎にやってきて、いかにアッシェンの財政が危機に瀕しているのかを、様々な資料を紐解きながら、説明してくれているのだった。いや、説得と言い換えてもいいかもしれない。
 ポンパドゥールは机の上の呼び鈴を鳴らし、小姓に紅茶のお代わりを命じる。本題とは関係ないが、彼女は人の使い方が上手い。アンリなどは茶の一杯でも周りの者に頼んでしまうところがあり、かえってそれが彼、彼女らを困惑させていた。命じることに引け目を感じてしまうのだが、相手としたら命じられた方が楽だろうとも思う。
 使われる側として生きてきたアンリにしても、親方に仕事を命じられるのではなく頼まれていたら、やはりやりづらかったと思う。命じられれば、後はその仕事の内容と遂行だけに集中できる。余計なことを考える必要はない。無理や負担に感じるものでなければ、命じられた方が、使われる側にとっては楽なのである。ただ、命令が無茶なものであれば、当然使われる側に反撥がある。
「・・・今しばらくは、一息つくことはできます。先日のパリシ解放の折、東部の諸侯からそれなりに軍資金の供与がありましたので。ゲクランが大部分を使い込んでしまいましたが、それでもなお、余剰金は宮廷に残っています」
 王の召集に応えるのは王家に忠誠を誓った諸侯の義務だが、戦地によっては義務の履行が現実的に困難な場合がある。今回に関しては東部諸侯がいい例で、徴兵期間の平均が三ヶ月程度であることを考えると、まず兵を各市町村から集め、それを軍としてパリシに向かって行軍させるだけでも、徴兵期間の大半を使ってしまわざるを得ないわけだ。なのでそういった諸侯からは、兵力の代わりに軍事費の供出でその代行とする場合がほとんどだ。
 ただパリシ解放に限っては、前王の死去、次王が庶子でまだ幼いということもあって、比較的近隣の諸侯でも軍事費の供出でお茶を濁す者が多かった。これが兵力面においてゲクラン元帥を苦しめることになったが、結果としてアッシェン宮廷に金を落とすことにはなった。
「諸侯に対して、課税をすることはできないんだよね」
「ええ。いくつかの緊急時を除き。免税こそが貴族の特権とも言えますし」
「持てる者に税を課せず、持たざるものから取らざるをえないとは、何かおかしな気がするな。国とは何なのだろうとも思ってしまう。諸侯には、土地を与えることでその土地の安全を守ってもらっているわけだが、同時にあらゆることから自由でもある。いや、今はこんなことを考えてる場合ではないか。税収が上がるのは、僕が統治するこのイル・ダッシェン地方だけなんだね」
「その中心たるパリシは、いまだ市長の置けぬ、半ば独立した都市です。現状、税を取れるのは商売に関するもののみ。陛下の御心中、察するに余るものがあります」
 パリシ市は、市長という王の行政官を、昔から拒絶している。三部会という民、組合、教会の代表者が政治を司っていた。
「いや、いいんだ。僕もパリシ市民だったからね。それに市からの税に加えて教会、加えて国からも重い税をかけられれば、ここは巨大な貧民窟になってしまう」
 眼下に広がるパリシ市街。独立心の強いその市民性をつい先日までは誇りに思っていたアンリだったが、皮肉にも今は敵軍に囲まれ孤立しているような気分だ。
「心優しい陛下にはあまり、お薦めしたくはないのですが・・・陛下自ら、戦を起こすという手もあります」
「なるほど。パリシ解放の時に諸侯から軍事費を供出させたのと、同じ手か」
 ポンパドゥールが悲し気に目を伏せたのを見て、アンリは慌てて付け加えた。
「いや、責めるような口調だったね。すまない。ただその話は、甘い密のように感じる。戦をすればするほど、宮廷は潤うという理屈に聞こえるけど」
「あまり繰り返せば、東部諸侯は金づるにされていると反撥を強めるでしょう。もうひとつ、戦では人が死にます。陛下の治めるイル・ダッシェンの疲弊が、何より大きな懸念材料です」
「金が集まっても民が死に絶えれば、それこそ国とは何なのだろうという話になってしまうね」
「まさしく」
「国は民。当然の帰結ということか」
 溜息をつき、アンリは腰を下ろした。沈み込むクッションのあるこの書斎用の椅子は、まだ小さい王には座り心地が悪い。
「少し、お金以外の話をしよう。気分転換も必要だよ」
「・・・そうですね。それで、何のお話を?」
「昨晩、戦のことを考えていたんだ。ああ、お金とは別の話でね。軍人とか英雄とか、そんな話さ」
「はあ」
「パリシ解放では、ゲクラン元帥に世話になった。馳せ参じた諸侯にもね。ただこの近辺、アッシェン北部ではゲクラン元帥が、諸侯としても軍人としても、その中心と言っても過言ではないだろう」
 ゲクランの話をすると、この宰相は少し顔を曇らせる。二人が犬猿の仲であることは、宮廷では周知の事実である。
「南の戦線は、ブルゴーニュ公に世話になっている。いくら王家の近縁とは言え、彼も公国の主である以上、独立独歩の道も選べた。何なら、アッシェンの王位すら望めた。なのに彼のアッシェン王家に対する身を削った忠義には、いくら感謝してもしきれないくらいだ。パリシ解放の際にも、いち早く僕の即位を言祝ぐ使者を送ってくれた。そして今、彼の抱える南部戦線に、ゲクランと並ぶアッシェンの常勝将軍と名高い、リッシュモン殿が戻って来てくれた」
「はい。リッシュモン殿との契約は、今の宮廷には決して安い出費ではありませんでしたが、それでもなお、それ以上の価値がありました。新元帥アルフォンス卿も、南の戦線は押し返せると、書簡で伝えてまいりました」
「アングルランドは二つの戦線で敗北し、本国北部にノースランドの叛乱という危機を内包している。中々に、つらい状況だとは思わないか」
「ええ。一転、我がアッシェンが今は二剣の地と呼ばれる本来の領土を、取り戻す好機だと思います」
「だが、本当にそうなのだろうかと、考えたんだ」
「と、仰られますと」
 宰相は、優雅な手つきでカップをその形の良い唇に運ぶ。
「アッシェンには、二人の英雄がいる。ゲクラン元帥と、リッシュモン殿。いや、アナスタシア殿がここアッシェンに居を定めてくれるというのなら、三人か」
「ああ、仰りたいことがわかってきました。軍事に疎いと自覚している私なので、普段はあまり考えが及ばない話でしたが」
 刺繍の施されたハンカチでカップについた口紅をさりげなく拭ったポンパドゥールは、軽く、そして艶すら感じさせる咳払いをして続けた。
「アングルランドには、音に聞こえた名将が多いですね。北には”黒帯矢”の異名を持つエドナ元帥。”戦闘宰相”ライナス。その娘、”馬殺し”エイダ。南で名を上げ宰相の懐刀となったシーラ・クーパー。宿将ダンブリッジ。南の戦線には歴戦の女傑キザイア、その副官の”コミック”ソーニャ。武門のグライー家にしてその最高傑作と名高いセブラン。そして神出鬼没、無敵の騎馬隊を誇り不死身とすら噂される”冒険王”リチャード一世その人。さらにその上には・・・」
「”熱風拍車”大陸五強最強とされるウォーレス卿。そして伝説の傭兵隊長”青の円舞”ロサリオン殿。さらに今はレヌブラン総督となっている”弾丸斬り”ジル殿。名将揃いの軍にあって、さらに大陸五強と呼ばれる英雄の内、実に三人が集まっている。対してこちらはゲクラン元帥を通したアナスタシア殿一人。”陥陣覇王”の戦は、あまりに鮮やかで、強烈だった。たった一人、そんな英雄が我が陣営で戦ってくれただけで、これなんだ。ジル殿はまだ軍歴が浅いとはいえ、冒険者としてその名を馳せ、さらにレヌブラン総督の任すらこなしていることを考えると、能力そのものが図抜けているのだろう。そこを差し引いても残り二人の英雄。これはちょっと、怖いという気がしないかい?」
 軍というより個人の話で戦を語るのは、おかしなことだとアンリもわかっている。しかし、飛び抜けた軍人に率いられた軍がどれほどの力を発揮するのかを、この国は体験した。
「希望的な側面と、いくつかの悲観的な観測を抱きました」
「まず、希望的なものとは?」
「あまり好きではないのですが、ゲクラン元帥の軍人としての才は傑出しております。パリシ包囲前、ゲクランは南の戦線でその熱風拍車ウォーレス、エドナ元帥、宰相ライナス、ダンブリッジ、キザイアと、各名将相手に互角の戦をしてみせました。いくら私でも、ゲクランがアッシェン護国の英雄と認めないわけにはいきません。充分な兵力と兵站があれば、一人の名将が戦線を維持、ないしは押し上げることは可能なのだと、彼女は証明してみせました。ああ、当時はリッシュモン殿も彼女の指揮下であちらにいることが多かったですね。ゲクラン、リッシュモンと並べば、並みいる強豪相手でも、引けは取らないと。将が一騎打ちだけで戦を決めるような、大昔の、それも小領主たちの取り決めのあるような時代は終わりました。戦力を五分以上にできれば、戦は充分に戦えるということです」
「なるほど、いい話だ。悲観的な要素は?」
「アングルランドの国力そのものが、我々より遥かに上だということです。産業の振興に成功したことも大きいですが、アングルランドは基本的に一枚岩です。正規軍、正式には常備軍の存在も、大きいと思います。常備軍を諸侯の軍に分配することによって、諸侯それぞれがアングルランド軍として機能しています。諸侯の分断を避ける意味でもそれは大きな要素で、我が国がそうそうなし得ないことでもあります」
「常備軍を可能とする国力か。なるほど、こちらの財務状況を考えると、悲観的にもなる。いくつかと言っていたけど、他には」
「今の話と関連しますが、アッシェンはあくまで陛下、王を中心とした諸侯の集まりに過ぎません。いくらゲクランのような者を元帥に据えても、いえ彼女の軍人として傑出したところがかえって警戒を生むのか、諸侯は中々一丸とはなれません。先日の戦の様に、実地に馳せ参じた諸侯の結束はそれなりにあるのでしょうが、そもそも集まる諸侯が少な過ぎました。あのような、国家存亡の危機にもです」
 大きな溜息をついた後、ポンパドゥールは煙管を取り出した。当時を思い出して、憤りも甦ってきたのだろう。かくいうポンパドゥールも慣れない身で軍を指揮して、このパリシを守っていたのだ。
「二つの危機的な戦線を、奇跡的に切り抜けつつあります。今この時に財政、軍事両面で、国を立て直す必要があるのです。もうひとつ悲観的なことを申し上げますと、つまるところアングルランドはまだ、本気を出していないのです。今以上に軍備を増強させ、先の三人の英雄、大陸五強のような英雄たちが総力戦を仕掛けてくれば、この国は保ちません。ただ、こちらの国力を上げる、その方策が・・・」
 大増税か、戦か。今は二択に限られており、いずれも後々を考えると禍根を残すものであることは、アンリにもわかっていた。
 鳩。外に目をやると、何羽かのそれらが輪を描いていたので、思わずアンリはその白い軌跡を目で追った。やがてそれらはこちらへ向かい、同じシテ島に建つ大聖堂の尖塔へと降り立っていった。
「いくつかの緊急時を除き、と宰相は言っていたね。貴族への課税についてだが」
「ええ。詳しい法については、ここにはありませんが、財務大臣の執務室にあるはずです」
「大臣は、枢機卿か」
 正確な年齢はわからないが、三十前後の、若くてちょっと優男風の男だった。アンリのような小僧では手玉に取られそうな印象があったので、これまで積極的な交流を持ってはいない。が、一度きちんとした会談は持つべきだろう。小議会での発言は記憶にない程当たり障りのないものだったが、今のアッシェンの困窮に対して、最も責任の、そして力のある男だった。
 パリシ三部会の長は、教会からの代表者でもある。枢機卿の部下なら、彼とパリシ市との繋がりも太いはずだ。税に関して、事前の根回しもすることだろう。
 つまるところ、枢機卿が全ての鍵を握っている。いきなり、国の仕組みのようなものの一端が、見えた気がした。
「近々、できるだけ早くに、枢機卿とは話がしたい。ちょっとした世間話じゃない。最低でも半日。大臣の都合をつけてくれると助かる」
 アンリが言うと、ポンパドゥールは少しだけ目を見開いた。
「陛下自ら、そのような」
「いつまでも宰相の陰に隠れているだけでは、僕はいつまでもお飾りのままだ。いやそんなことより、僕も王だ。民に金を寄越せ、戦場で死んでこいと命じる以上、僕もまた自分に出来る精一杯はやっておきたい」
 しばらくアンリを見つめていたポンパドゥールは、やがて胸に手を置き、頭を垂れた。
「仰せのままに。極力早く、枢機卿に都合をつけさせます。ご希望の会談場所は」
「彼の執務室がいいだろう。税法についての法典も、そこにあるようだし」
「御意。では早速、大臣の元に赴きます」
 ポンパドゥールは席を立つと、惚れ惚れするような優雅な一礼を残し、アンリの執務室を出た。何の香水だったのだろう、残り香もまた、優美なものである。
 アンリはカップを手に取り、冷め切った紅茶を一息に飲み干す。もう一度窓辺に立ち、大聖堂を見つめた。
 思わず、苦笑が漏れ出る。いまだ即位の実感は希薄で、誰かのひどく大掛かりな、そして手の込んだいたずらに付き合っているような気さえしてくる。
 だが、王になってしまった。あの日を境に、全ての人間が自分を王として扱う。
 歴史を大して知らなくても、わかることはある。有史以前からあらゆる部族長が、やがて諸侯が、王となるべく血みどろの戦を繰り返してきた。その子孫たちも、自らの地位を守る為に、暗闘を続けてきた。その王となる過程に一切の苦労をしていないのだから、自分に実感が薄いのも当然かもしれないと、アンリは思う。
 丁稚は丁稚らしくと、今までの人生を生きてきた。いずれ自分も立派な職人に、あわよくば親方になるために。
 溜息が出る。
 王となった自分は、一体何を目指すのか。

 

 ロンディウムに戻ってくるのは、久しぶりだった。
 戻ってくる、と思った自分に、シュザンヌは笑い出しそうになった。故郷ではない。ここに家を持っているわけでもない。ただ本当に久方ぶりに、文明社会、そして自分の慣れ親しんだ街という場所に帰ってきたという感慨があるのだ。
 アングルランド王都ロンディウム、その波止場だった。曇天の多いこの街には珍しく、気持ちのいい秋晴れである。
 大型の馬車を甲板から下ろすのに、船員たちは苦労している。ユストゥスの四頭立ての馬車は、乗せる時よりも下ろす時の方が、はるかに大変そうだ。
 シルヴィーの墓を訪れて後、そのまま海沿いを南下し、デルニエール唯一の人間が支配する大都市、アキテーヌのボルドーに入った。もっとも所詮はデルニエールの街、アッシェンやロンディウムの都市と比べると、恐ろしく牧歌的で前時代的な街ではあったが。
 ともあれここはその有名なワインの取引をユイル商会でも担っていたため、帰りの船はすぐに見つかった。帰路の速さを考えると初めからこの行路でシルヴィーの墓を参ることもできたのだが、行きだけはどうしても、シルヴィーの最後の旅路を辿りたかったのだ。パリシの彼女の家、さらに潜伏先の下水道と、同じ景色にこだわったのもその為だ。シルヴィーは、シュザンヌと離ればなれになった後、何を見ていたのか。
 この世に強い未練を残した者は幽霊となって、その魂が取り残されることがある。シルヴィーにもそんな思いがあればと思ったが、彼女は安らかに天国へ旅立ってしまったようだった。喜ぶべきなのだろうが、幽霊、いや生者を恨む亡霊になっていたとしてもシルヴィーに会いたかったシュザンヌにとっては、常の喪失感を確認しただけに終わった。胸に空いた穴とはよく言ったもので、この痛みとはこれからもずっと、付き合い続けなければならない。
「デルフィーヌたちはさ、これからどうするの」
 女としてはかなり背の高いシュザンヌの用心棒、エンマがユストゥス親子に訊いた。滑車を使って下ろされていく馬車を見つめていた二対の水色の瞳が、こちらを振り返る。応えたのはユストゥスだ。
「せっかくここまで来たんだ。俺たちは一度、セシリアに会いにいこうと思っている。彼女の義手の調子を見ておきたいからな」
 セシリア。今は冒険者を引退したかつての大陸五強で、シルヴィーの最後の旅の随行者。彼女が隠居の身になっていなかったら、本来はこの旅を共にしてみたかった、その筆頭の人物である。
「ああ、私が最後に会った時は、義手の調子が悪いって言ってたよ。ある程度は自分で直せるって言ってたんだけど、やっぱ制作者が直接見た方がいいよね」
「ただの義手じゃないからな。魔法を使っているが、セシリアは本来魔法に対する抵抗力が強過ぎる。もっと早く、訪ねておくべきだったか。最後に調整をしてから、五年は経っている」
 今のセシリアの片腕は義手で、それを作ったのはこのユストゥスだと聞いている。
「私も久々にセシリアさんに会ってみたいけどね。ま、シュザンヌ次第だけど」
 帰ってきてからの仕事は、まだ確認していないが、おそらく山積みである。が、セシリアと会えるまたとない機会を、見逃すわけにはいかなかった。
「もちろん、着いて行くわ。彼女の家まで、どのくらい?」
「この馬車で、片道一週間といったところだ。義手の状態にもよるが、二、三日は滞在することになるだろう」
「すぐ行けるの?」
「いや、今日一杯は、ここで部品の調達をする。あらためて、旅の支度もしなくてはいけないからな。今言った一週間は街道を外れた最短距離で、少なくとも三日は野営の必要がある」
「義手の部品についてはわからないけど、旅の支度はこちらで調達しておくわ。パリシ程じゃないけどここにもユイル商会傘下の店はあるし、良い物を揃えることができる」
「なら、そちらは任せる。宿を見つけてからは、別行動かな」
 このユストゥスと旅をしてわかったのは、話に具体性が高く、無駄がないということだった。話しかければ見た目よりも無口でないことがわかるのだが、その話は事務的だろうと情緒的であろうと、ほとんど聞き逃す余地がない。さすらいの魔法医師という希有な生き方をしていなければ、商会に欲しいと思える人材である。
 宿代は引き続きこちらが持つということで、駅前の高級ホテルを取った。大貴族の小姓と見まごう立派な服を着た厩の小僧が、恭しく馬の轡を取った。
「デルフィーヌの発声器の部品も見ておくが、それは俺一人で事足りる。デルフィーヌ、お姉さんたちと一緒にいなさい」
 普段から、常に二人一緒の親子である。エンマと仲良くなった一人娘を見て、彼なりに気を利かせているのだろう。
「ワカった。パパ、行っテラッしゃい」
 赤髪の娘の喉の発声器が、その独特の機会音を発する。初めはシュザンヌも違和感を持ったものだったが、今はこれがデルフィーヌの声だと自然に受け入れていた。思えば、用心棒のエンマを除き、他人とここまで一緒にいたのは初めてだった。季節を一つ、跨いでいる。あまり他人に心を許さないシュザンヌでも、さすがに仲間意識のようなものは抱きつつあった。
 傘下の商会に顔を出し、丁稚に旅に必要なものを集めさせた。あらゆる商品が樽に、木箱に積まれた商会の倉庫には、盛んに人が行き来している。
 旅の前は、こういった細々とした旅の必需品などは、帳簿の上でしか見たことがなかった。今はそれが何で、どう必要なのかを実体験で理解していた。これは大きな勉強になったと、シュザンヌは思う。
 ハンザ同盟のものも含めれば、ユイル商会の流通網は、ユーロ北部全域に張り巡らされてるといっていい。そこで扱う品目と地域ごとの値のほとんどをシュザンヌは記憶しているが、それが実際にどんな形、重さ、用途を持っているのか、その半分も把握していない。もっと知らなくては、学ばなくてはと思う。
 午前中に用事は済んでしまったので、昼食を摂る場所を探しがてら、三人で街を散策した。雑踏の中でもエンマの姿はよく目立つのだろう、振り返る人間が何人もいた。
 とあるガラス張りの本屋の前で、デルフィーヌが足を止めた。展示品の一つを指差している。
「コレ、面白いヨ」
「あー聞いたことある。アングルランドの軍人さんが描いてる、エッセイ漫画だよね。まだ読んだことないけど」
「ソーニャ南方行軍記、番外編その二ね。ああ、番外編の二巻が出たのね」
 シュザンヌが言うと、二人はあからさまに意外そうな態度を示した。
「え、シュザンヌこういうの見るの?」
「いえ、読んだことはないわ。ただ、彼女の漫画は大陸鉄道の貸本屋で売れ筋だってことは知ってる。漫画は今、貸本屋でブームなのよ。ほら、すぐ読めるから、乗る時に借りて、降りる時に系列の貸本屋に返せるでしょ。当日返しは、借り賃も格安だし。列車を使って仕事する人間にとって手軽に時間を潰せる漫画は、まさにうってつけってわけ」
「さすが、見たことのない物の値段まで把握してる”銀車輪”様だけあるねえ」
「嫌みのつもり? 大陸鉄道の物流は外から見たものしか知らないから、聞いた話よ。ついでに知ってるのは、作者はアングルランド正規軍所属の軍人、通称”コミック”ソーニャ。その表紙の絵が誇張じゃないくらい、明るい顔の美人だそうよ」
「サスガ」
「デルフィーヌ、それ欲しいなら買ってあげる。後で、私にも見せて。ああ、番外編でおまけにその二か。本編は別にあるのよね。十・・・三巻だったかな。全巻買っておこうかしら。ちょっと荷物になりそうだけど、エンマ、お願い」
「太っ腹だねえ。わかった。全巻揃えてくる」
「私が先に読む。いいわね」
 シュザンヌが言い終わる前に、二人は店内に入っていった。
 実を言うと旅の間中、エンマが主にデルフィーヌに話しかけ、彼女が短い反応を返すというやりとりの中、シュザンヌはかなり手持ち無沙汰だったのである。荷物になっても聖書や分厚い経済書の一冊でも持ってくるべきだったと、その点に関しては後悔していた。
 二人を待つ間、シュザンヌは長椅子に腰掛けて通りを眺めていた。先日の包囲下のパリシとは違い、街には活気が溢れている。工房地区の方からは、こちらからでもはっきりと見えるくらい、蒸気と黒煙が青い空を汚していた。ロンディウムの排泄物といったところだが、この街が生きているという証でもあった。
 これから、あのセシリアに会える。聞きたいことは、たくさんあった。シルヴィーを追っていたユストゥスと違い、最後まで彼女と交流のあった人物である。シルヴィーの元メイド、アンナからもたくさんの話が聞けたが、セシリアしか知り得ない話も少なくないだろう。
 シルヴィーは、生き残った人々の思い出の中で生きている。従姉妹だが、お姉ちゃんと呼び、慕い続けたシュザンヌの目標。彼女の遺志を継ぐことが、シュザンヌの使命だと思っている。が、若過ぎた晩年の彼女が本当は何を見つめていたのか、知る者はいない。
 それを見つけ出し、必ず自分が果たしてみせる。
 あらためて、シュザンヌは決意を固めた。

 

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