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プリンセスブライト・ウォーロード 第16話
「あなたは、一人で泣いていい人じゃない」

 

1,「たった一日で、兵全ての心を掴める者など、そうそういません」

 意外な一言から、ソーニャとの話は始まった。
「クリスティーナ元帥の副官を拝命するに当たり、まず私から謝罪させて下さい」
 先日の、彼女の居室を訪ねた際とは裏腹の、いや普段の彼女の人を食ったような快活さからも程遠い、神妙な顔つきでソーニャは頭を下げた。
 練兵場に指定した城外、傍のこの幕舎には、今はクリスティーナとソーニャしかいなかった。
「あなたに謝罪されるようなことは、何も思い当たらないわ。でも、話を聞かせて頂戴」
 銀の巻き毛の先をいじりながら、クリスティーナは言った。真面目に人の話を聞くには礼を失した態度だと自覚しているが、緊張すると時折顔を見せる、クリスティーナの昔からの癖であった。
「先日、キザイア様が元帥の副官に私を推した際、私からも強く、それを具申すべきでした」
「どういうことかしら?」
「リチャード・ブルーベイ卿が元帥の副官を一人でこなす、ないしはその中心であれば、そう遠くない日にあの人は命を落とす。それが、私にはわかっていました」
 指先から、銀髪が零れ落ちる。
 このベラック城に落ち延びた後、ソーニャを城門で出迎えた際、彼女が一瞬見せた、悔恨にも見えた表情。あれは、まさにそういうことだったのだと今になってわかる。
 しばらく、沈黙が流れた。今日は全体の調練の予定はないが、自主的に練兵場に顔を出し、少人数で調練を行っている兵たちの掛声が、ここまで微かに聞こえていた。
「その件は私が、私のつまらない事情で断ってしまった。あなたの責任じゃない」
「リック様を、愛していた。それは決して、つまらない事情ではないと思います」
「確かに。けれど、戦場に持ち込んではいけない思いだったと、今になってわかる」
「それで、いいのです。何かの思いがなくて戦を行うのなら、それはただの人殺しです」
「あなたからそんな言葉を聞くなんて、意外だわ」
 いつも笑顔を絶やさず、明るさを失わないソーニャは、しかしそれが戦に際してもそうであることを考えると、本心を隠している、あるいは恐ろしく冷徹な印象をクリスティーナに与えていた。あだ名の由来になっている、彼女の好きな漫画の話をしている時以外は、素の感情や思いを表に出す人間だとはどうしても思えなかったのだ。
「そうだとしても、やはり私のつまらない意地や、臆病さが招いた悲劇よ。やっぱり、あなたが謝ることじゃない」
「いえ、リック様が傷つく、あるいは失うことになれば、元帥は指揮官として一回り大きくなるだろうと、不遜にも、あの時はそんなことを考えていました」
 押し込めていた思いが一気にこみ上げかけ、クリスティーナは一つ、大きく息を吐いた。まさに、ソーニャはクリスティーナに必要な人材だった。それを、こんなやり取りで痛感することになるなんて。
「その見立ては、正しかったのでしょうね。だから私はあの後、あなたを訪ね、必要だと訴えた。何か、殻を一つ破れたという気がする。そして今、あなたはこうして私の傍にいる・・・あなたの、そんな顔は似合わないわ。ソーニャ、いつもの笑顔で、私を支えて頂戴。リックの死を、無駄にしない為にも」
 顔を上げたソーニャの笑顔はまだ硬く、作られたものだとわかる。
「私の副官になった以上は、母さんに対していつもそうだったように、忌憚ない意見を聞かせて頂戴。私にも、できるでしょう? 表に出さないよう、そしてあれ以来なるべくそのことは考えないよう努めてきたけど、正直リックのことはこの先、立ち直れるかもわからない。半身を失った気持ちよ。だから、あなたが私の半身になって、頼りない私を支えて。もしあなたに謝罪の念があるのなら、その分、私を一人前にして」
 あの時と同じ、一度強く目を閉じたソーニャだが、瞼を開いた後は、いつもの彼女に戻っていた。再びの笑みに、陰はない。本当の笑顔を無理矢理作ることで彼女もまた、何かを乗り越えようとしたのかもしれない。器用で、強い副官だった。
「わかりました、元帥。このソーニャ、命に代えましても、元帥を支えます」
「お願いね。じゃあ気分を変える為にも、我が軍の現状確認と、今後の課題を話し合いましょうか」
「気持ち切り替えるのに戦の話をするなんて、クリスティーナ様も業が深いですねえ」
「まったく。そんな軽口を叩けるのなら、もう安心してよさそうね」
 言うと、ソーニャは今度こそ屈託なく白い歯を見せた。
 天幕の卓の上には、周辺の地図と、戦に関連する書類がまとめられていた。足元に、風を感じた。薄い白地の天幕に、外の陽光が透けている。
「前回の戦の前には七万の兵がいたけど、一週間以内に復帰できそうな兵を含めて、我が軍はどれくらいになりそう?」
「四万六千前後、になりそうですね。この見立てには、多少医療班の希望的観測が入ってますけど、徴兵期間を過ぎても残りたいと言ってくれてる兵もいるので、結局この辺りで落ち着くと思います」
「なるほど。完敗の割には、一応次の戦を戦えそうね。アッシェン側はあの時五万三千がいたけど、あまり犠牲を出していないにも関わらず、多少兵が減ると聞いているわ。徴兵期間の問題ね。ただ、五万は覚悟しておかないと。けどやっぱり、もう一度攻めてくると思う?」
「来ますね。冬までに、もう一戦。じゃなければ、ラステレーヌという籠城に適した城を奪った今、兵の多くを帰しているはずです。けれど、相手は今も、兵の慰留に努めているのだとか」
「このベラックは、東からの侵攻に対して防備のいい城とは言えない。けど、五万で籠城の構えを見せる四万に対して、攻めてくるものかしら」
 古来より、攻城戦は攻囲側に、三倍から四倍の兵力を要するというのが定説だ。いくら大きく兵力を大きく割かれたとはいえ、敵には十五万前後の兵力が必要という計算になる。ただ、このアッシェン南部の城は、まだこの辺りに怪物が跋扈していた時代のものが多く、クリスティーナも攻城戦は数える程しか経験していない。おまけに重騎馬隊を率いていたクリスティーナは、それを遠くから眺めるか、敵の救援に備えて周囲に展開していたに過ぎない。攻城戦に参加した、と言えるほどの軍歴はないのだ。
 ともあれ、前回のあの戦はこちらの兵力が多く、籠城もままならない敵を一息に飲み干すはずの戦だった。が、次の戦がここで行われるとすれば、兵力の多寡、籠城があるかないか等、前戦とは、まるで状況が違う。
「前回アッシェン側はあくまで迎え撃つ立場であって、ゆえに攻城兵器等の用意はなかった。そう考えると自然だけど、計算され尽くした大勝と、どこか食い違ってもいる。敗戦後こちらがラステレーヌ城に籠るというのが自然で、だとすると敵に攻城兵器がなかったことと、矛盾するからね。ソーニャ、あの時私にラステレーヌを放棄させた理由、あらためて聞かせて」
「振り返っても、何らかの罠や仕掛けが、ラステレーヌにあったと考えるのが自然ですね。あの城以西に追撃して来なかったことにも、何かあるのかなと。どうしてもラステレーヌが欲しいのだとしたら、攻城兵器がなかったのは不自然ですし。あのままこちらがラステレーヌは戻るのは危険だった、としか言いようがないのも事実なんですよね。”囀る者”たちも、ここはもう決着が着くものと、大半は北に帰ってしまった後ですし、彼らがいれば、私たちが留まっていたあの城に、何か重大な欠陥が、ないしは罠が仕掛けられていないか、わかったと思うんですけど。ひょっとしたらラステレーヌの北の城壁、途中から高い崖になってるあそこの上に大量の兵が潜んでいた、なんてのも考えられますけど、今となっては確認のしようがありません。私たちが撤退するのと同時にあそこから兵が降りてきて、城門を閉められれば、私たちは全滅です。でもなんか、これって違うだろうって気もするんですよね」
「崖から北の城壁を伝って、南の、唯一の城門を閉めて私たちの動きを封じる。できなくはないだろうけど、だったらそもそもその兵を私たちの背後に潜ませて、潰走を始めた私たちに襲いかかった方が手間も時間もかからないわよね。兵力がなくても、馬防柵なんかで道を防ぐだけでも、こちらは大混乱だったはず。そうね、崖から兵が、は違うという気がする」
 鮮やかな大勝、何故か無かった厳しい追撃。明らかに矛盾する。リッシュモンの狙いは、何だったのだろうか。あくまでソーニャの勘が、リッシュモンの策の何かを決定的にかわした、という結果だけが今の現状である。
「もし追撃を受けていたら、こちらは今頃、良くて二万があればというところだったかなと」
「そうなれば作戦も何もなく、ここに籠城するのは必至だったわね」
「こちらが亀になるのを避けさせたいんでしょうかね。もう一度、野戦を望んでいる。それだけの兵力を、こちらに残した」
「そうならば、裏をかく為にも、やはりここでの籠城を・・・」
 言いかけて、クリスティーナの背筋は寒くなった。あの鋸歯の将軍に、はっきりと踊らされている感覚があったからだ。ソーニャも、含みのある眼差しを、こちらに向けてくる。
「・・・駄目ね。ここでこのまま籠城を選ぶのは、何かまずい気がする」
「現実的な問題として、ここの兵糧はちょっと心許ないって問題もありますよ。ほとんどは、ラステレーヌに置いてきちゃいましたから」
「城を打って出る、あえて籠城する、この城をも放棄して西に戦線を下げる、どうするにせよ、兵糧は必要ね。すぐに周辺の町や村から、買い集めさせて」
「ではこの後すぐに。なに、軍相手に商売したい者は、この辺りにはたくさんいます。話戻しますと、ラステレーヌとここベラックでは、あちらが籠城が単独で可能な堅城、こちらは平地の城で城壁も高くなく、周囲の砦との連携が欠かせないと、条件が違い過ぎます。にも関わらず相手が先日同様の再戦を望んでいるとすれば、そういった諸条件に関わらず実行できる策が、アッシェン側にはあるということになります」
 クリスティーナはもちろん、ソーニャにもそれが何なのか、まったくといっていいほど、わからない。
 何か、とんでもない敵を相手にしているのだと、今になって認識できた。
 アッシェンの常勝将軍、”鋸歯の”リッシュモン。あの女が来てから、アッシェンはいきなり、得体の知れない強敵となった。いや、同時に敵にはもうひとつ、重大な配置転換もあったか。
「リッシュモンが怪物であることは、私が身をもって痛感した。ところで、新たなアッシェン軍元帥となったアルフォンスについて、あなたの評価はどうなの。リッシュモンの存在感に隠れがちだけど、彼こそが総大将よね。これまではブルゴーニュ公の参謀で、兵の犠牲を避けるそつのない戦をするだけの男だと思っていたけど。直接顔を見た事はないけど、彼とは何年もこの戦線で対峙してきた。なのに私は、アルフォンスという男を、いまだによく知らない」
 通称”白い手の”アルフォンス。大した武勲も上げていないのに、あだ名がつくというのも、よく考えてみればおかしな話でもある。クリスティーナが過小評価していただけで、実はこの男も、とんでもない大物なのではないか。キザイアとソーニャが何か彼ついて話しているのを聞いたような気がするが、軍議では話題に上がらない男でもあった。敵編成の確認時に、その名前が読み上げられるだけだ。
「ああ、あの人は一言で言えば天才ですね」
 実に素っ気ない、それでいて最大の賛辞を、ソーニャは”白い手”に送った。
「・・・詳しく」
「似た者として、大陸五強の一角、あの”陥陣覇王”アナスタシアがいます。彼女は、こちらではほとんどその名しか伝わってきませんでしたが、現地での評判が高く、大陸五強の一人に数えられるまでになったのでしょう。気になって、私とキザイア様で、彼女の戦がどんなものか、人を使って調べたことがあるんですよ」
「先日のパリシ攻囲戦では、どんな陣でも落とすという、その名に恥じない活躍を見せた。ただ、彼女がスラヴァルで総大将だったとは聞かないわね。一傭兵団が他の将軍を率いるってことはなかったんでしょうけど。おまけに近年のスラヴァルの戦、負け続きだったとも聞くわ。そうね、彼女が当時からそんなにも高い評価を得ていたことは、考えてみると不思議ね」
「陥陣覇王、という名自体は、対グランツ戦初期、まだスラヴァルが押していた時についたあだ名だと聞きます。当時、彼女率いる霹靂団は、戦の先鋒に置かれる事が常でしたからね。しかし、そんな活躍が疎まれたのか、霹靂団はやがて先鋒から外されます。しかし、名折れともなるその後のスラヴァルの連戦連敗で、むしろ彼女の評価は高まっていった。名を上げ始めるのがもう少し遅ければ、”スラヴァルの盾”とか、”北の守護神”みたいなあだ名になっていたかもしれませんね」
「そうなのね。詳しい事について知らないので、私に考える材料はないわ。あなたと母さんが高く評価していた理由、教えて」
「スラヴァルが負け続け、なおグランツと戦を続けられた理由は、単純に、負けても兵力を落とさなかったからです。兵力とはつまり人の命。失ったら、戻すのは簡単なことじゃないですからね。敗走するスラヴァル軍の殿軍には、常に霹靂団がいました」
 クリスティーナは、たった一度の戦で多くの将兵を失った。
「わかってきたわ。一部将であるにも関わらず、アナスタシアは、スラヴァル全体の、負け戦での兵の損耗を減らす役割を負っていた。とすると、白い手のアルフォンスもまた・・・」
「というわけですね。似ているとは、そういった意味で。我々はここのところ、アッシェン相手に連戦連勝、これ以上東に押し込めばブルゴーニュ公国まで邪魔する者は誰もいないといったところまで、彼らを追いつめていました。連戦連勝とは逆に言えば、連戦を強いられているんです。ただの一度も勝ち切る、アッシェン軍を一撃で瓦解させる戦を、成すことができなかった。総大将のブルゴーニュ公ジョアシャンの傍には常に、アルフォンスが控えていました。戦下手なブルゴーニュ公はしかし、ただの一度として軍を瓦解させたことがなかったのですよ。白い手のおかげでですね」
 ふう、と自分にも聞こえるくらいの溜息が洩れた。クリスティーナがこの戦線に配属されて、四年になる。今まで自分は、何と戦ってきたのか。母の指揮下で忠実に任務をこなしてきた自信はあるが、その実、自分は何も見ていなかった。
「なるほど。私もまた、そうと知らないだけでリッシュモンに匹敵する怪物と、長い間戦ってきたわけね。今頃になって、鳥肌が立ってきたわ」
「負け戦で兵の損耗を避け、あまつさえ敵大将の首まで刎ねてみせるアナスタシアは、その個人としての武、そして霹靂団の強さによって、大陸五強の一人に数えられるようになりました。アルフォンスにそこまでの苛烈さはなく、兵も借り物で練度は低いものの、根本的にやっていることは同じです。負けるとわかった時点で兵をできるだけ生かし、かつ敵軍の追撃を抑えることの難しさを、先日私たちは経験したばかりです」
 あの、雪崩を打って軍が瓦解する感覚。キザイアもソーニャも、クリスティーナを逃がすだけで精一杯だった。ソーニャと並んで天才と称されるセブランも、自部隊だけであの劣勢を押し戻すことはできなかった。つまるところ、負け戦で兵の損耗を抑えるのは、歴戦の名将たちでも至難の業なのである。
 “白い手の”アルフォンス。負け続けたアッシェン軍を、しかしただの一度も本当の意味で負けさせなかった男。新元帥就任も、これで納得だった。一方で、母の、ギルフォード家の名声だけで元帥となった自分の、なんと情けない事か。
 沈みかけ、しかしクリスティーナは両頬をぴしゃりと叩いた。自己憐憫に浸ったところで、誰の得にもならない。経緯はどうあれ、今は自分がこの軍の総大将である。情けをかけられる側ではなく、かける側だ。
 こちらの様子を見ていたのか、ソーニャが少し、目を丸くしている。
「いや、驚きました」
「何? 私の心を読んだの?」
「ええ、結構分かりやすいですからね、クリスティーナ様は。惨めになりかけた自分に活を入れ、いきなり大将の御顔になられました。キザイア様の目に狂いはないなって、あらためて。自信持って下さい。クリスティーナ様は、私たちの総大将ですよ」
「あなたとセブラン卿、軍略で二人の足元にも及ばないと、充分過ぎるほど自覚しているけど」
「だから、私たちを使って下さい。それが、総大将の役目ですから」
 そうだった。何も、自分が二人より優れている必要はない。心強い事実として、盾と矛を持つ二匹の怪物が相手でも、こちらにはそれを倒しうる天才二人を抱えているということがあった。
「ありがとう。あなたのおかげで、私は総大将とは何なのか、わかり始めた気がする」
「これからもっと、わかっていきますよ。私にはクリスティーナ様の才能、わかってますから」
「私の才能? さすがにその自覚はないわ」
「成長する力、ですよ。ご自身ではわからないのかもしれませんね。前から私は気づいてました。クリスティーナ様は時折、瞬き程のわずかな時間で、飛躍的に成長することがあります」
「そうなのかしら」
「ええ、私が保証します。褒められようが叱られようが、勝とうが負けようが、何かのきっかけで、正しい結論に一瞬で到達する。それがあなたの才能です。本当は私、この南部戦線に決着が着いたら、軍をやめるつもりでした。でも今はもうちょっとだけ、クリスティーナ様の成長を間近で見てみたいと思ってます」
「あなたは正規軍の所属だからね、辞めることを止めることはできないけれど・・・でも、一日でも長くあなたが傍にいることを、私は望んでる」
「勝ちましょうね、次は。けど負けても、この人なら大丈夫って思いました。だからその御命だけは、この身に代えてもお守り致します」
「ありがとう。私がいつか栄光を掴んだら、あなたの漫画の題材にしてくれる?」
「もっちろん! いや、それ最高です」
 言って、ソーニャは力強く親指を立ててみせた。

 

 アリアン、グラナテが徴募の旅から帰ってきたのは、三日前のことである。
 それ以前にこの町の募集だけで集まってきた者たちを合わせると、新生霹靂団の団員候補は、総勢五百名ということになった。
 二日、名簿の作成だけに追われた。アナスタシアとアニータだけでは手が回らず、アリアンたちにも手伝ってもらうことになったが、いずれこうした書類をまとめる部署は作る予定である。選抜試験に落ちた者たちの中で、読み書きができる者がいれば、真っ先に声をかけるつもりだった。話では小規模の傭兵団を率いていた、ないしは指揮官だった者も少なくなく、そういった者たちには初めからある程度、事務能力がある。
 元青流団の者たちを連れて、ノルマラン城を出た。城外の、仮の駐屯地。天幕の群れも、それなりの規模になってきている。傭兵候補と、それ相手に商売する為に近隣から集まってきた者たちのものだった。以前から、酒保もいくつかできていた。荷馬車を利用した屋台では、アナスタシアも時々何か食べることがある。
「選抜試験は長距離走のみということじゃが、それだけで大丈夫なのかのう?」
 ドワーフのグラナテが、かわいらしくも年寄り染みた口調で言った。ドワーフ特有の矮躯であることを除いても、彼女は人間で言えば二十代に満たない少女に見えるが、歳は五十を過ぎており、人間の傭兵の古兵と同等以上の経験を持っている。もっともドワーフはエルフほどでないにせよかなり長命の種族で、ドワーフの中ではこのグラナテも小娘といった年頃なのだろう。いずれ青流団の工兵部隊を率いるであろう期待の若手だったようだが、こちらでは初めから工兵隊を任せることになる。旧霹靂団でも工兵は重宝したが、グラナテ以上の土木知識を持った者はいなかった。
「剣や槍、馬術は私なりに欲しい技術があるので、それを一から教える。なので知りたいのは、体力、怪我の有る無しだけでいい。体力のない者は鍛え直してまた選抜試験を受けるもよし、あるいはこちらでやってほしい仕事を持ちかけてもいい。怪我も、治せるものなら治してから、癒えぬ古傷なら先程同様、働き場所はある」
「あいわかった。ペースはいつもの、城内の調練場と同じ速度でいいかの」
「ああ。ただこの川沿いから始めて、兵舎前、北の森の手前、城門前、そしてここまでの順路を、五周してくれ」
「あのペースで走るには、結構な距離だのう。わしら元青流団の連中には全く問題ないが、新兵のどれだけがついてこれるか」
「走りきれなかった者、周回遅れになった者を落選とする。まあ、八割くらいは残るんじゃないか。落としたいわけじゃないがこれが出来ないようだったら、剣の腕以前に全体調練で大怪我をする者が出てくると思う」
「まずは体力、か。青流団には元々腕っ節に特別な自信がある奴ばかりが集っていたからのう。こういう選抜試験というものもなかった」
「大陸最強の傭兵団に入ろうという連中だ。最初から、並の者たちじゃないのさ。ただ私には、パリシ解放の英雄なんてものがついてしまったからな。人を集めやすくはなったが、その分質にもばらつきが出るだろう。よし、アニータ。兵を集めて、試験の概要を伝えて来てくれ」
 まだ眠そうに目を擦っていたアニータが、了解というように脱力感たっぷりの敬礼をした。
「私も走るんです? 生理中なんで、少しキツいかもです」
「馬に乗って、最後尾から様子を見てくれればいい。ほら、副官なんだ。新兵の前でだらしない顔を見せるなよ」
「はーい」
 腹をさすりながら、兵の集まる天幕の方へ向かうアニータを、グラナテは苦笑で見送った。
「しまらない副官で、すまないな」
「なに、この緩さも嫌いじゃない。一つ一つ手作りみたいで、傭兵団の旗揚げというのも良いものじゃと。団長、おぬしについてきて正解だったという気がするよ」
 アナスタシアは、頭を掻いた。手作りというより手探りだが、一方で完成されていた旧霹靂団を継いだ時とは違う、新鮮さもある。それに旧霹靂団でも、峻厳さが顔を出すのは駐屯地を出てからだったという気がする。青流団のような常在戦場といった張りつめたものはなく、これから作る新生霹靂団も、グラナテの目にはやはり緩く映るのかもしれない。
「やはり、アニータだけでは心配だな。アリアン、補佐してやってくれ」
 頷いた黒髪のエルフ、アリアンは元々無口である。ただ、調練の場ではある程度饒舌にもなる。この選抜試験でもそれなりに口を開いて、アニータの補佐をしてくれるだろう。任せてくれと軽く手を上げ、頼りない副官の後を追った。
 兵舎は、もう遠目には完成しているように見える。が、外壁に漆喰を塗っている最中であり、内装はまだ半ばといったところだ。当初の予定よりずれ込んでいるが、とりあえず秋の終わりまでには竣工していると思われる。これ以上寒くなる前に、少なくとも兵たちには屋根のある所で休んで欲しいものだ。原野を挟んで向かいの北の森は、もう随分と紅葉が深くなっている。
 秋にしては日差しの強い朝、川岸に集まった五百名。万という兵同士がぶつかる戦を経験してきた、旧霹靂団二千を寡兵と思ってきたアナスタシアにとっては一つの小部隊といった感じだが、アナスタシアと元青流団二十名から始めた団としては、五百はやや壮観なものにも見えた。
 アナスタシア自らが喇叭を吹き、グラナテを先頭とした一団が駆けていく。青流団の者も中に散っており、声を掛けたり、苦しそうにしている者がいないか、各自様子を見ている。
 最後尾。馬を駆るアニータの前、なんとか集団についていってるのは、例の陰のある少女、シュゾンか。華奢で小柄で、とても傭兵向きとは言えないが、どういうわけかこの場所に居着いてしまった娘。
 目に光がないのが印象的で、話しかけてもあまり要領を得た会話にならず、何故この傭兵団になど入ろうとしたのかは、わからない。選抜に受かった者たちには個別の面談を予定しているが、彼女がこの長距離走を走りきれるとは、とても思えない。現状、置いていかれそうになっているのはシュゾンだけだ。選抜後、彼女はどうするのだろう。初めは身なりもぼろぼろで所持金もほとんどなく、どう見ても食いつぶしてここにやってきたとしか思えなかった。
 ただその佇まいには妙な嗜虐心をそそられそうな気配があり、アナスタシアはそれとなく彼女の安全に目を配っていた。しかし、酒保の方の天幕で、娼婦たちと一緒に身体を売っていたという噂も聞いた。真偽はともかく、その醸し出す雰囲気通り、かなり危うい生き方をしてきたことはわかる。
 本人にその気があれば、シュゾンを兵舎の方で働かせてやるつもりでいた。もっとも、彼女の希望はわからない。ただこの選抜後は、他の新兵候補に混じって配食を受け取る、今の生活はできないのだ。救貧院の炊き出しに並ぶ彼女の姿が、なんとなく想像できた。十五才とか言っていたか。これまでどんな生き方をしてきたのかはわからないが、辛酸を舐め続けるだけの人生を送るには、若過ぎる。
「おお、やってるねえ」
 松葉杖をついたノルマランの新城主ドニーズが、こちらにやってきていた。松葉杖というと怪我人の印象があるが、彼女の傷は、もう癒えている。ただ、片方の脚がおかしな癒え方をしてしまったというだけだ。少し離れた川岸に、二頭の轡を持った小姓らしき者がいる。どうやらドニーズは、この脚で器用に馬を乗りこなすようだった。
「長駆? 他にもやるの?」
「長駆だけですね。基礎体力と、怪我の有無を見たいだけですので」
 もはや走ることの叶わないドニーズは、少し寂しそうな顔で新兵たちを見つめていた。やがて懐から出した遠眼鏡で、一行の様子を詳しく見始める。
「思ったより女の人も多いし、いかにも傭兵っておっさんもいる。子供っぽい子もいるな。結構、色んな人が集まるんだねえ」
「兵として動ければ、性別や年齢は関係ありませんので」
「生理中の女の人は、機会をあらためて?」
「いえ、関係ないですね。戦の時に月経が来ることは珍しいことではありませんので。私も月経は重い方なので気が滅入りますが、まあ命のやり取りをしている時に、そんなことを言ってもいられないですからね」
「ま、それもそうか。私は唯一出た戦場で、そこの苦労する前に怪我しちゃったからねえ。調練も、生理中は軽く流す感じだったし」
「調練の時は、休みたい者は休ませるつもりです。一応、最悪の体調の時に自分にどれだけの動きができるのか、何度か確認はしてほしいと思ってはいますが。どこまで備えれば、下着を汚さずに済むかもですね。この辺り、既に余所で傭兵をやっていた女性兵もそれなりにいるので、新兵にも知識は共有されていくことになるでしょう」
「なるほどねぇ。あ、戻って来た。これで終わり? 何周かするの?」
「五周ですね。八割くらいは、最後まで駆けられるでしょう」
「うわ、このペースでそれは、結構つらそう。あ、何人か離脱してるね。横についているのは、青流団の人たちか」
 三人の新兵候補が、青流団の者に連れられて集団から離れた。まだ走れそうな気配もあるが、古傷でもあるのか、このまま走らせるのは無理と判断されたのだろう。三人は川沿いに集められ、青流団の兵は息一つ上げずに、集団の方へ駆け戻っていった。
 先頭のグラナテは速度を維持しつつも、振り返って手を振ったり、集団に声を掛けたりしている。元青流団である以前に、鍛えられたドワーフの体力は無尽蔵である。金髪のお下げ髪が、元気いっぱいといった感じで激しく揺れていた。
 最後尾、シュゾンはその長い黒髪を振り乱して駆け続けている。体力はとっくに尽き、もはや根性だけで走っている様子だが、アニータや青流団の者が近づく度に、速度を上げて集団に追いついている。
 三周目。一気に脱落者が増え、既に七十人程になっていた。ただここまで走れれば、残りは最後まで駆け続けられる者がほとんどだろう。
 四周目。最後尾のシュゾンは、もはや走る形も崩れ切っている。顎が大きく上がり、手は身体の横で交互に揺れているだけだ。が、青流団の者が近づく度に、速度を上げる。なんとしても脱落したくないという、執念を感じる。馬上だったアニータも何かを感じたのか、馬を引いたまま、一緒に駆け始めた。
「あの子、なんかすごいね」
「二周目からは、気力だけですね。それでも走りきれれば、体力がつけば相当のものになりますよ。おまけに彼女、ちょうど月経中だったようです」
 シュゾンの膝丈のスカートの下。膝の内側は、赤く濡れていた。
「事前に聞いていれば、次回の選抜に回していましたね。やめさせたいところですが、ここまで来てやめさせるのも、かえって酷でしょう」
「頑張れ、頑張れ・・・」
 ドニーズの、呟きが聞こえる。もはや最後尾からも大きく離され、アニータと二人だけで、原野を駆け続けていた。他の青流団の兵も、彼女のことはアニータに任せたようだ。
 先頭集団が、アナスタシアの元にやってくる。これで五周目。大概は走り終えると倒れるか座り込むかだったが、二、三割は充分に余力を残していた。傭兵や冒険者の経験者はかなりいた。このくらい問題なくこなせる者は、一定数いるのだった。
「おぬしら全員合格じゃ。ちとそこらで休んどれ」
 言うや、グラナテは弾丸のような走りで、シュゾンたちの所へ向かった。あと半周。シュゾンは今にも倒れそうな気配だが、それでも何とか脚を前に進めていた。
「あいつは、合格だな」
 ほとんど汗もかかずに走り終えたアリアンが、傍に来て言う。もう走らせるな。言外にそんな意味も込められていたような気がした。
「最後まで、走らせてやろう。きっと本人が、そう望んでいる」
 城壁の横を抜け、シュゾンたちがこちらに向かってくる。整った面貌が、涙と涎で汚れていた。それでもこちらを、アナスタシアを真っすぐに見つめ、シュゾンは走っていた。
 グラナテとアニータが、声でシュゾンの背中を押している。膝下の靴下が、赤黒く染まっている。走り切った者、脱落した者たちも皆、声を張り上げてシュゾンを応援している。
 全身ぐちゃぐちゃで、もはや歩いた方が速いくらいの足取りで、それでもシュゾンはこちらへ向かっていた。アナスタシアが両手を広げると、その胸の中にはっとする程軽い、少女の身体が倒れ込んできた。
「よくやった。お前程の根性がある奴を、私は初めて見たよ」
「い、一番最後でしたが、合格ですか」
「ああ。私が落選と言っても、周りの者が納得すまい。見てみろ」
 周囲全ての者が、シュゾンの感想を祝福していた。拍手、歓声、口笛。傍のドニーズは、俯いて目頭を押さえている。
「すぐに、医者に診てもらえ。面談は、身体を癒してからでいい。おい、誰か担荷を用意してくれ。町の医者の所まで、運んでやるんだ」
 担荷で運ばれるシュゾンが、首だけこちらに向けて、アナスタシアを見つめていた。頷くと、シュゾンは少しだけ笑った気がした。
「彼女、いい兵になりそうだね」
 ドニーズが鼻を啜りながら言う。
「いや、いい将校になりますよ。たった一日で、兵全ての心を掴める者など、そうそういません」
 遠ざかっていく担荷の周りには、それを運ぶ者以外のにも、多くの男女がついて行っていた。
 アナスタシアはそれに軽く敬礼し、残った兵たちの方へ戻った。

 

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