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3,「私、この人を好きになってよかったって、心の底から言えます」

 少なくとも週に一度は、ブリーザ村に顔を出すようにしていた。
 日曜のミサでもドナルドたちと顔を合わせてはいるが、その時はあまりゆっくりと話しをする暇もないのだ。それに両村の者が一同に会するので、シャルルも他の者と言葉を交わすことが多かった。
 また、普段からそこそこ走らせているとはいえ、週に一度は馬を長く駆けさせる必要があった。シャルルの馬は、まだ若い。よく走れる内に走らせておいた方が長持ちするとドナルドに教えられ、また実戦するのも見てきた。やがてそれが軍馬に適さなくなっても、荷馬や農耕馬としてもしばらく働いてもらうことができる。今の馬はシャルルが騎士になって二代目だが、先代は若い頃にあまり駆けさせなかったせいか、老け込むのが早かったと感じる。
 そういえばもう、ドナルドの馬も替え時だろう。二、三年前から生活を切り詰め始めている気配がある。騎馬として扱えるぎりぎりのところで、次の戦が年内にないようだったら、騎馬としては使えないと思う。本当はしばらく前からそうだったのかもしれないが、ドナルドとアネットが、乗り手としての技量でなんとかごまかしてきたといったところか。
 前回の戦では、多くの騎士と騎馬を捕えたので、身代金がそれなりにシャルルの元にも入ってきたのだが、ドナルドは取り分をほぼ均等に分け、村にも貯蓄させた格好なので、実は叔父の手元にはそんなに金は残っていない。
 叔父が新しい軍馬を購入する際には、シャルルもいくらか金を出すつもりだった。まだ本人には話していないが、事前に話すと遠慮されるのは目に見えている。その時に渡して、余るようだったらアネットや村の者たちに使ってくれと言えば、きっと受け取ってもらえるだろう。
 ブリーザ村が見えてきた。
 村の広場に人が集まっており、そこにドナルドとジャンヌの姿も見えた。先日話していた、組み立て式の家具の試作をしているのだろう。周囲には木片や木屑が散らばっている。手を振ると、二人も笑顔で応えた。
 厩は、ドナルドの家のものを借りる。アネットが桶の水を代えているところだった。
「馬は私が手入れしとくよ。叔父上たちに会いにきたんだろう?」
「頼むわ。例の家具、苦戦しているのか」
「叩き台になるものは、ジャンヌが一日で組み上げたそうだ。長椅子だったかな。今はその案を詰めたり、新しい家具に挑戦しているところだよ。手伝えることがあったら、手伝っていってくれよ」
「わかった。じゃ、馬を頼む」
 広場に着くと、ドナルドたちの他に十人ほどが、斧や鋸、鉋を手にしてあれこれと話し合っていた。
「叔父上、精が出ますね」
「ああ。今までと少し違う商売をするということで、皆いつも以上にやる気を出してくれている。いい刺激だな」
「ウチの村も、何か考えた方がいいですかね。収穫量を増やせれば、多少出来の悪いものは乾果か、瓶詰めにして売れないかなんて話を、村の連中としました。まだ、世間話や思いつきって感じですが」
「お前にとっても、いい刺激だったのかな」
「かみさんは、ちょっと驚いてましたがね。俺、普段からそんなやる気ないように見えてましたかね」
「なに、そういうわけでもないだろうさ」
 二人で、少し輪から離れた。
「そういえばレザーニュでは、ちょっと軍の編成が変わるみたいですね」
「聞いている。アネットが先週砦の方に行った時に、兵の間ではその話題でもちきりだったそうだ」
「俺は行商に聞いた程度で。具体的に聞いてます?」
「先の戦の英雄、アナスタシア殿が新たに傭兵団を旗揚げするそうだ。それに出資しているのが、ゲクラン伯と、レザーニュ伯・・・の奥方の、フローレンス様らしい。先日、我々の指揮をした」
「へえ。じゃ、また戦があるんですかね。ゲクラン元帥は元々西にある旧領を奪還するのが悲願だって話ですが」
「パリシの包囲が解けたので、以前からの作戦を実行に移すといったところだろう。旧ゲクラン領といえば、あのモン・サン・ミシェルがある場所だろう? 西の果てだ。一度や二度の戦で辿り着ける場所じゃないな。二剣の地の特殊性を置いても、橋頭堡となる城は、いくつも必要となってくる」
「それじゃ、いきなり決戦ってわけじゃなく、野戦と攻城戦を繰り返しながらって感じですかね。何年もかけて」
「そうなるだろうな。それにアナスタシア殿を挟んでレザーニュが関わってくるとなると、こちらも無関係とはいくまい。軍の上層部で再編成があるくらいだ。まあ、我々中央から離れている騎士には、編成うんぬんそのものは、あまり関係ないかな。命じられた数の兵を集めて、戦場に向かうだけだ。ただ・・・」
 ドナルドは、家の方へ目を向けた。
「その編成の件で万が一こちらに話が回って来るようなことがあれば、アネットを推挙するつもりだ。無論、砦の方で彼女の有能さは知られている。私抜きで話が進み、私は事後承諾という形にもなるかもな。それならそれでいい。いずれにせよ、アネットは私の家士にしておくには惜しい」
「叔父上の下についているかぎり、俺はそうも思いませんがね。けどこれが他の田舎騎士の下だったらと思うと、叔父上の言わんとしていることもわかります。あいつは上級騎士にもなれるようなタマでしょうからね」
「やはり、お前もそう思うか。私が死ねば、この村をそっくりやれると考えているが、それにしたって田舎騎士で終わってしまう可能性がある」
「死ぬなんて、縁起でもないこと言わないで下さい」
「私も、もう四十三だ。市井の四十台なら働き盛りだろうが、最前線に立たされる軍人としては、充分過ぎるほど生き延びられた。幸運だったと思う。だからもういい加減、次の世代のことも考えておかなくちゃならない時期だよ」
「叔父上のような人間こそ、それこそ身分を上げて、後方で指揮してほしいもんですがね」
「武勲を上げるようなことがあれば、そんなこともあったかもしれないな。ただ私は与えられた持ち場を守り、生き残るので精一杯だった。弱い騎士だったことは、自覚している。お前とアネット、二人を守り育て、その二人とも私より強くなってくれたことが、私にとっての誇りだな」
「いやいや、叔父上もまだまだこれからですから、辛気くさいこと言わないで下さい」
「アネットが出世して別の場所に封土を賜るようなことがあれば、お前にここをやるからな。ここには、お前を慕う者も多い」
「だから、それは叔父上が亡くなってからの話です。長生きして下さい。いや、この言い方は四十代にはおかしいな。長く、生き延びて下さいよ。それに俺が先に死んだら、俺の村はアネットのものになるでしょう。ウチは娘一人で、騎士を継ぐつもりもないみたいですし。まあ、そういう形もあるわけですから」
「悲しいことを言うな。私より先に、死んでくれるなよ」
 寂し気に笑い、ドナルドはパイプをくわえた。騎士としてのものを除けば、叔父の唯一の贅沢品がこれだった。それも最近、吸う姿をあまり見かけなくなっているような気がしていた。
 呼ばれて再び村人の輪に加わったドナルドに代わり、ジャンヌが青い瞳をくりくりと輝かせてこちらにやってきた。
「ちょっと、付き合ってもらえません?」
「お、おう」
 ジャンヌとは頻繁に顔を合わせているが、二人で話すのは、あの行軍の時以来だ。なんともいえない居心地の悪さを覚える。それというのもあの日、この十一歳という幼過ぎる少女が、叔父に恋をしていると知ってしまったからだ。
 こちらの気持ちも御構いなしにジャンヌは歩き続け、村の柵の外に出た。刈り入れの終わった農地を横目に、そのまま歩く。
「一日で長椅子を組み立てたって。いや、お前の頭の回転の速さには毎回驚かされるよ。さすがはジャンヌ様だなあ」
「まあ、その話は後で」
 神妙な顔つきを見て、案の定かと溜息をつく。はぐらかすのは難しそうだ。シャルルは肚を決めた。
「で、どうした。進展があったのかって聞くのは、今のお前には酷だよなあ」
「家族としては、うーん、娘のような扱いとしては、大進展中ですよ。私が望む形と違うけど、うん、もう家族だなって思います」
 少し歩くと村に続く道の脇に、座るのにちょうどいい石がいくつも置いてある場所がある。ここで仕事終わりの村人たちが話しているのは、幾度となく見てきた。自分もその一人になるとはと、シャルルは思った。並んで、それに腰を下ろす。
「そういえばシャルルさんって、年上年下、どっち派なんです?」
「年下かな。若ければ若いほどいい」
「後半ただのスケベ親父ですね。奥さんは?」
「同い年だよ。まあ俺には、出来過ぎた嫁だと思ってる。お前もミサの時に話したことあると思うが、いわゆる姉さん女房だな。お前の聞きたいことはわかるぞ。まあなんだ、そういう好みと嫁さん、恋仲でもいいけど、それとこれとは重なる部分はあっても、別物であることは確かだな。ウマが合うとかなんとか、そういうものが大事だと思う」
「本当に真面目に答えて下さいね。すっごく恥ずかしいんで。シャルルさんは私を、恋愛の対象として見られます?」
「・・・うーん、これはまたキツいところを突いてくるな。ちょっと考えさせろ。言葉を選びたい」
 こんなことまで聞いてくるとは、思ったより、いや、相当信頼されているのだと思う。自分を信じる者から逃げてはいけない。昔よく言われた、叔父の言葉だった。ジャンヌが桁外れの人間であることを差し置いても、一人の娘に信用されることは、決して軽くはない。
 ジャンヌの周りに同年代の娘がいないというのが一番の原因だろうが、アネットに相談しづらい理由も、察することはできた。ジャンヌには話していないが、アネットは子供の頃、ドナルドと結婚したいと言っていたのだ。アッシェンのアモーレ派では結婚できない続柄だと知った時は、一日中泣いていたものだ。アネットには今も、恋の残滓のようなものが残っているのだろうか。勘のいいジャンヌがそれに気づき、アネットにこのことを相談できないというのは、ありうる話だった。
「今の俺には、無理だな。知っての通り、お前は俺の娘と歳が近い。仮にお前に惚れるようなことがあっても、どうしたって娘の顔がちらつくだろうからな。まだ未婚だったら、どうなんだろうな。ここらじゃ十五、六歳の結婚は珍しくないから、限度としてはその辺りかな。ただ正直言うと、歳を食う度に、そのくらいの年齢の娘が子供に見えてくる。実際、二十歳以下の娘は、もう子供としか見えないかもな。俺が性的に興味を持つのは若い娘であって、子供じゃない。わかるか?」
「わかります。シャルルさんみたいに若い娘が好きな男性でも、子供は駄目なんですね」
「駄目というと、お前の立場もないだろうが・・・そうだな、五、六年経った後のお前は、魅力的な娘になっていると思う。慰めてるわけでも、お前の能力を買い被っているわけでもない。お前は、その、かわいいよ。綺麗になっていくはずだ。それは、俺が保証する」
「うわ、そこまで言わせてしまって、ごめんなさい。ううん、ありがとうございますですよね。あと、奥さんが、その、歳を取っていくことに関しては、どう思っています?」
「共に、歳を重ねていける。その喜びや切なさは、正直上手く説明できないな。けど、そう思わせてくれる彼女と結ばれたことは、俺には過ぎた幸運だったと思ってる」
「はあ、羨ましいですねえ。ホント、妬けてきます。あ、浮気とかしないんですか? やっぱり、若い娘の方が好みなんでしょう」
「実を言うとかみさんには、町に行く時や戦地なんかで、たまには若い娘を抱いてこいって言われることがある。で、たまに娼婦を抱くこともある」
「へええ。それで?」
「何度か、そういうことはあった。これからもあると思う。ただ、事が終わると、やはり嫁の方がいいとか、早く家に帰りたいとか、そんなことを考えてしまうな。まあ、俺がそういう場所に行くのは、上官との付き合いとか、そういうのがあるからな。かみさんもその辺をわかって言ってくれてるんだと思う。ただその時は良くても・・・って、俺の話ばかりでいいのか? お前は叔父上に対して、好き以外の何かはないのか?」
「うぅ、そうですねぇ・・・」
 丸い頭を何度も傾げながら、ジャンヌは難しそうな顔をする。シャルルの娘ももうこんな風に、村の少年の誰かに恋心を抱いているのだろうか。
「今は、待とうって、覚悟を決め始めたところです。出会うのが早過ぎましたね。私、初めはこの気持ちが恋だって気づかなかったんですよ。たまに村にカッコいい行商のお兄さんが来る事があって、この人好きだなって思う事もあって。恋っていうのは、そういう気持ちの延長線上だと思ってました。けど、恋は違うんですね。この人なんだって、心がわかってしまう。おじさん四十三歳で、私が十一歳ですよ。自分がそうならなかったら、こんなのありえないって思ってたでしょうね。私だって、別にすごい年上が好みとか、そんなの全然ないですよ。同い年とか、ちょっと上くらいとか・・・うわ、えっ、なんだろ、ごめんなさい・・・」
 大きな目から零れ落ちる、大粒の涙。しばし、ジャンヌはその涙を拭い続けた。つらいのだ。シャルルが思っている以上に、この恋はジャンヌにとって、つらい。
「私、怖いんですよ。この気持ちを伝えたら、おじさんどんな顔するのかって。本気で取られないなら、それはそれでいいんですよ。でもおじさんって真面目だから、きっと正面から受け止めて、でもこんな子供は受け入れられないって、苦しめちゃいますよね。ああ、もっと私が大人だったら良かったのに。どうしようもできなくて、すごく苦しいんです」
 慰めてやらねばという気持ち以上に、シャルルはジャンヌをまぶしく感じた。自分は誰かに、ここまで恋い焦がれたことがあっただろうか。嫁とは深い愛情で繋がっているが、何か大事なものを見つける前に、幸せになってしまった気がする。
「はあ・・・でも泣いたら、少しスッキリしました。どんなに苦しくても、今は大人になるのを待たなくちゃ。そういえば、私がなんでおじさんを好きになったのかって、話したことありましたっけ」
「いや、聞かせてくれ」
「初めて会った時のこと、覚えてます?」
 シャルルは頷いた。忘れようもないほど鮮烈な印象を、この娘は残した。この村から兵を取るなと立ちはだかったジャンヌの話を聞き入れ、ドナルドたちは村から引き返したのだった。あの時はこれからどうするんだという苦々しい思いと裏腹に、どこか清々しいものも感じたのだった。
 出会ってすぐ、シャルルはジャンヌの態度に苛ついていたのだが、それは何か、自分にとっても大切なものを見つけてしまったことへの、戸惑いだったのかもしれない。
「二人を見て、なんて弱い騎士なんだろうって思ったんですよ。兵隊さんたちも。私だったら、全員のすのに十秒もかからないって」
 昔だったら世迷い言に聞こえただろうが、今のシャルルにはそれが全くの真実だとわかる。
「なのに、おじさんはそんな私を守るって。おまけに、手を汚させないって。笑うよりも、頭に来ました。で、なんで頭に来たのか考えました。おじさんの態度は勘違いでも驕りでもなく、本当に私を守るって気持ちが伝わってきたんで。混乱して、多分そのことに腹を立ててたんでしょうね。で、わからないまま、それでも旅を続ける内に、おじさんがすごく誠実で高潔で・・・ん、ちょっと違うかな。強い人だなってわかったんです」
 叔父は、シャルルがこれまで出会った中で、最も誠実な人間であることはわかっている。父代わりとしてシャルルを鍛え、また導いてくれた。剣では、すぐに超えた。それでも届かないその背中をずっと追いかけられていたから、今のシャルルがある。
「私、初めての戦場でも、全然怖くなかったんですよ。あくまで、私個人では。だって、私より強い人なんて、そうそういないですもんね。騎馬隊が突撃してきた時も、まあこんなもんかって」
 先の戦で、ジャンヌが騎兵を何人も、手妻の様に打ち倒したという話は聞いている。
「おじさん、実は怖がりなんですよね。だからこそ、この人はなんて強いんだって。おじさんの剣の腕で、あの戦場は相当怖かったと思います。なのにおじさん、私を守るって。私、もし自分より強い人たちが一斉に襲ってきた時に、あんな気丈な態度は取れないですよ。怖くて、逃げ出しちゃうかもしれない。それでわかったんです。ああ、この人は本当の強さを持ってるんだって」
 確かに、叔父はその類の強さを持っている。自己犠牲や責任感とも少し違う、まさしくジャンヌの言う、強さということだろう。
「でも、私にも怖い部分はあったんですよ。おじさんはもちろん、一緒に旅をしてきた人たちが死ぬの、すごく怖かった。で、そこでも気づきました。おじさんは自分のことに加えて、こういう恐怖とも戦ってるんだって。ああ、これは敵わないなって。もう、私がどれだけ強くなっても、この人には敵わないかもって」
 立ち上がったジャンヌは、シャルルの胸を締め付けるような、満面の笑みを浮かべていた。
「私、この人を好きになってよかったって、心の底から言えます。おじさん、最強ですよ。ああ、私もあんな風に強くなりたい。おじさんと出会えて、本当によかった!」
 それに気づけるお前も、最高の女だよ。シャルルは思ったが、口には出さなかった。
「ああもう、全部話したらすごく前向きになってきました。シャルルさん、聞いて頂いて、本当にありがとうございました。私、シャルルさんのことも家族だって思ってますよ。年を食ったお兄さんみたいに」
「馬鹿野郎、年の離れた、だろう」
「へへ、どっちでもいいじゃないですか。シャルルさんのことも、大好きです。私の悩みを受け止めてもらっちゃって、恩人ですね。シャルルさんのことも私、絶対守りますから」
「へいへい。まあ、戦場のお前だけは頼りにしてるよ」
「私、大人になるまで待ちますよ。その頃までには最強の女になって、おじさんのこと大好きだって、絶対離さないって、自信を持って言えるようになります」
「お前は今でも、最強じゃないのか」
「武術だけは最強の子供、ですね。大人になるまでに、たくさんの勇気を手に入れなくちゃ。だからまだ、子供でいいです。年齢じゃないですね、今の私じゃ、釣り合わない。こんなに意気地のない娘のままじゃ、駄目ですよ。おじさんの傍にいて、勇気をたくさんもらわなくっちゃ」
「俺も、叔父上の背中を見て育ってきた。お前の気持ち、わからないでもないよ」
「ですよねー!」
 なんて、真っすぐに人を好きになれる娘なんだろう。シャルルの胸の内にも、熱いものがこみ上げてくる。
 シャルルも腰を上げると、ジャンヌは村の方に向かって大きく息を吸い込んでいた。
「おじさん、大好きだー!」
 ドナルドのいる広場までは、遠い。それでもドナルドは束の間、こちらを振り返った。呼んでいるわけではないとわかったのだろう、やがてまた、村人の輪の中に戻っていく。
「ま、さすがにこの距離じゃ聞こえないよな」
「いいんです。これが今の私の精一杯ですよ」
 卑下する口振りと裏腹に、ジャンヌの顔はとても輝いて見えた。

 

 クリスティーナの作戦案は、悪いものではなかった。
 周囲の評価はどうあれ、ゴドフリーはクリスティーナのことをそれなりに買っていた。元帥職を新たに一つ加えるという宰相府の決定には驚かされたが、その母のキザイアが六十三歳という高齢である。先日まで最前線で戦っていたという剛毅な性格から、軍務から退く際には、家督ごと娘に譲ると踏んでいたのだ。もっとも現状、キザイアはまだ引退するつもりがないようだった。
 クリスティーナがいずれ総大将になるという大きな読みは外していないが、細かい部分についてはいくつも予想と違っていた点がある。そこにゴドフリーは微かな苛立ちを感じていた。宮廷だけでなく、軍にも政治的な駆け引きはある。そういったものには長じているつもりだったが、今回もキザイアには一本取られたということだ。この怪物のような女は、そちらについても高い能力を持っている。新元帥の話は、それなりの時間を掛けて準備されていたものだろう。あの宰相ライナス相手に、どんな話し合いをしたのか。負けず嫌いを自認するゴドフリーだが、素直に完敗だった。やれやれ婆さん、あんたには敵わないよ。
 ただそれでも、とゴドフリーは考える。時間は俺の味方だ。弱冠二十三歳でこの南部戦線第二位の将軍の地位にいることが、ゴドフリーの圧倒的に有利な点である。キザイア、お前は勝ち逃げでいい。俺は、俺の時代になった時に、頂点でいられればいいのだ。いや、クリスティーナ、引退しないキザイアと続くと、自分はまだ第三位か。それに気づいて、ゴドフリーは軽く舌打ちした。
 地図を指しながら説明を続けていた新元帥クリスティーナが、こちらを見る。舌打ちが聞こえたか。軍議の席である。
「いえ、元帥の作戦案に対してのものではありません。そこから様々な想定をし、練った策が献策に至らないと察し、自分を叱責しておりました」
 納得したのか、頷いたクリスティーナがまた地図に向き直る。
 作戦決行は、天候にもよるが、一週間後。そこで、アッシェン南部軍を完全に叩きのめす。近くにアッシェン軍五万が立て篭れるような城塞はなく、敗走後も抵抗を続ける者がいても、まともな連携の取れない籠城線がせいぜいだろう。そうなればもう、ただの掃討となる。それまでに、どれだけの軍功を上げられるか。あるいは掃討戦になった際に、どれだけ領地を奪えるか。
 先日、アッシェン南部軍には、あの名将リッシュモンが戻ったと聞く。これは厄介なことになったと思ったが、総大将、それも新元帥になったのは、弱小貴族のアルフォンスという男だった。
 その名を知らない諸侯もいたが、ゴドフリーは知っていた。あだ名は確か、”白い手の”アルフォンス。ブルゴーニュ公の下で作戦参謀をしていた男だ。もっとも、猪突猛進を絵に描いたようなブルゴーニュ公の元では、存分に能力を発揮することはできなかっただろう。いくらか、同情したい気分だ。
 アルフォンス。頭は切れる。ただ、大軍を指揮した経験がない。それどころか普段はブルゴーニュ公かシャトールー伯の軍を借りている有様で、万を超える軍の指揮も覚束ないのではないか。単に知恵が回ることと、指揮能力は別物である。頭の良さだけで戦ができるのなら、チェスの名人でも連れてくればいいという話だ。猪武者のブルゴーニュ公でも総大将を務められるということは、つまりそういうことである。
 リッシュモン元帥、作戦参謀アルフォンスだったら、これは強敵だったかもしれない。もはや南部戦線の帰趨は明らかだが、とどめを刺すのにもう二、三度の激戦を必要としたことだろう。
 これまでの実績や評判を元にすれば、総大将のアルフォンスが元帥などというのは捨て鉢になったか、敗戦の責任をこの期に及んで弱小貴族に押しつけたとしか思えない。しかし今回の編成にはあのゲクランが関わっていることは確実と思われ、そこに引っかかる部分はある。
 ゲクランはパリシ攻防戦の最中、自身の最強の手駒青流団を放浪中だった元霹靂団団長のアナスタシアに任せ、おまけに自分の指揮から外すという奇策で、あの戦に勝った。緻密な戦略を練り上げるゲクランにしては投げ槍に見える用兵が、しかしあの苦境を引っくり返したのだ。
 決戦となるであろう、アングルランド軍とアッシェン軍の間の原野には、大した起伏も、密生した森もなく、策らしい策は打てない。ゴドフリーにも、細かい策はひとつも思い浮かばなかった。あるとすれば策の範疇に収まらない戦略か。そうなると軍を解散させての遊撃戦くらいしか思いつかない。ただ、時間を掛けてそれをやるだけの補給があるのだろうか。
 いや、ないこともないか。パリシ包囲が解けたので、北からの援助は出せるだろう。ならば今すぐに南部戦線を放棄し、一刻も早くそれに備え、軍を離散、潜伏させる方がいい。つまるところそこを目指すのであれば、弱小貴族の元帥就任は、やはり意味がない。強いカリスマ性を持った総大将がいて、初めて遊撃戦は可能となる。古来それらはそういったものだし、今で言えば北で叛乱を起こしているノースランド軍がいい例だろう。ハイランド公ティアというカリスマがいるからこそ、複雑な上に綿密な連絡が取れない遊撃戦、潜伏する戦は可能となるのだ。
 そこまで考えて、ゴドフリーは敵の戦略を読むのをやめた。どの道、自分が総大将として指揮を執るわけではない。与えられた持ち場で、可能な限りの武勲を上げるだけだ。
 配備された常備軍は極力最前線に立たせているものの、ゴドフリーの軍は大半が自らの領地から徴兵してきたものだ。可能なら、一兵も失いたくない。民に戻った兵が生涯どれだけの利を上げるかを計算してみれば、戦そのものが馬鹿らしく思えてくる時がある。やるなら、圧勝。犠牲が大きくなるのなら、それ以上の武勲を。消耗戦になるような戦は、防衛戦以外では避けるべきだ。
 なのでゴドフリーはなるべく、この戦線がアングルランド優位の時に参戦してきた。
 クリスティーナの細かい作戦案を聞きながら、ゴドフリーはこの戦線の伝説、キザイアの方に目をやった。
 でっぷりと太っているように見えて、その肉体の大半は筋肉であることは知っている。いつも通りの無表情で、元帥の立案に耳を傾けていた。見た所、病の徴候はない。たださすがにもう、老いを隠せていない。次の決戦を持って勇退、と願いたいところだ。
 クリスティーナ。今も用意した資料を広げながら、熱心に作戦の話をしていた。こいつの話は長い。知りたくもない発見だった。これまではキザイアの陰に隠れてわからなかったが、人は立場によって思わぬ顔を見せることがある。
 その頬は紅潮しており、白い肌と巻いた銀髪に、そして漆黒の服にそれがよく映える。整った容姿のキザイアの操り人形に、突如命が吹き込まれたかのようだ。いきなりの総大将、それも元帥である。気負う気持ちもわからないでもない。まだ十七歳という若年でもある。
 しかしそれでも、ゴドフリーはクリスティーナを、将としても評価していた。十四歳から軍を率いているので軍歴は三年だが、この激戦地、ゴドフリーよりも多い滞陣日数は、他の戦地の十年分の経験にはなっているだろう。おまけに、人が最も多くを学ぶ年頃にである。
 これまではキザイアから軍を分け与えられる形で五千から一万の兵を率いていたが、ゴドフリーから見ても、数万の指揮の方が相応しいと感じていた。麾下は重騎兵という圧倒的な破壊力を持つ兵科でありながら、それをここという場面まで温存できる忍耐力がある。そもそも、用兵にソツがない。おかしな山っ気もないので、上官として戴きやすい大将でもあった。
 気になるのは、副官としてリチャード・ブルーベイという同い年の上級騎士を使い続けていることだろう。実はブルーベイにも充分な素質を感じるが、キザイアの推薦した”コミック”ソーニャを受け入れなかったのは失策だ。ゴドフリーの斜向いに座っている金髪のこの娘は一種の天才で、副官に置いておけばそれだけで軍の細かい心配はしなくて済む。また軽騎兵を指揮させれば、ちょっと考えられないような用兵もする。先日マルトがこれを欲しがっていたが、ここにいる誰もが、ソーニャを自軍に招きたいと感じているはずだ。
 クリスティーナがその天才性に気づかないわけがなく、おそらくは恋仲であるブルーベイを第一の副官として置きたい気持ちが勝ってしまったのだろう。ソーニャを受け入れてしまえば、彼女を第一の副官に据えないのは、他の将が黙っていまい。それでもブルーベイを第一にとしてしまえば笑い者になるか反感を買うか、どちらにせよ本人たちが隠しているつもりの恋仲まで白日にさらされかねない。
 副官と言えば、思い出す女がいた。パリシ攻防戦が佳境を迎えた際、キザイアの第二の副官として頭角を現しつつあったシーラ・クーパーという将校だ。才気走るところがあり、上の意向を汲み取るというより見透かすような振る舞いがなければ、ソーニャと並ぶ副官となっていただろう。あのシーラだったらこの軍議でも、クリスティーナの気負いを意気軒昂と見せかけるような、上手い間の手を入れていたに違いない。
 先程からブルーベイはクリスティーナの横で頷いていたり資料を渡してやるだけで、彼女が息をつく機を作ってやれてない。今のクリスティーナが大分前のめりになっているように見えてしまうのも、その為だ。
「注進! 失礼します」
 諸侯が扉の方に目をやった。軍議を中断させて入ってこれる伝令は限られている。本国でよほど大きなことが起きたか、敵軍に動きがあった時である。
「アッシェン軍に動きあり。本陣の柵を取り払い、兵も進発の構えです」
「ここに、攻め込んでくるということでしょうか」
「確かなことは。しかし、そのような動きに見えると、各斥候隊から報告がありました」
「わかりました。報告ご苦労様でした」
 これはまた、作戦の練り直しであろうか。まあ、敵が攻めてくるとなれば、やることは限られている。ここラステレーヌ城に籠城するか、野戦で迎え撃つかである。自分なら前者を選ぶが、クリスティーナの選択は、おそらく後者を選ぶ。
 ラステレーヌ城は大きな城だが、兵の収容は周囲の砦と合わせてもせいぜい五万。二万が城外という形になるが、これとの連携は、初の総大将では荷が重たいだろう。下手を打つと、城外の味方が殲滅させられてしまう。なお城攻めをする兵力はアッシェン軍にはないだろうから、この二万を討って、揚々と引き返すだけでいい。後は野戦で同兵力となったこちらと決戦に臨む形だ。
 ゴドフリーが総大将だったら、城外の二万は西のベラックまで引き上げさせる。五万と五万での籠城線なら、よほどの奇策がない限り、籠城側が敗れることはない。敵より兵力があってなお籠城を選ぶことで臆病者のそしりは免れないだろうが、そんなもので落ちるのは頭の回らない連中からの評判だけで、馬鹿は好きに吠えさせておけばいい。幸い、今のアングルランドで武勲を評価するのはこういう低能な連中ではない。元帥の評価となれば、王か宰相しかできない。現王はあまりそういうことに口出ししないので、結局は宰相のライナスということになる。彼なら、わかってくれるだろう。ここで、敵の博打に乗ってやる必要はないのだ。
 進言するか。いや、とゴドフリーは思い直す。万が一失敗でもしたら、ゴドフリーが責を問われる。助言を求められれば別だが、進んで献策した所で、何の得もなかった。自分が総大将だったら。今はその時を待ち、想定を繰り返すしかなかった。
 クリスティーナは野戦を選ぶだろうが、それはそれでいい。負ける可能性は低いだろう。ゴドフリーが武勲を上げる機会でもある。もし負けたとしても、大敗はないだろうから、その時は結局籠城を選ぶことになり、アッシェンにそこから先の展望はない。
 同じ帰結に至るとしても、犠牲は少ない方がいい。なのでゴドフリーは籠城を選ぶ。いや、敵が先に動いた時点で、なんらかの勝算はあるはずなのだ。それがわからないからこそ、ここは最大限の警戒をするべきだった。
 ともあれ、侵攻に向けての軍議だったので、一時解散となった。ちょうど昼前だったので、続きは昼食後ということになる。
「どうです、共にお昼でも?」
 帰り際、セブラン・ド・グライーに声を掛けられた。
 くすんだ金髪の美声年で、ソーニャとはまた違った意味で軍事の天才である。五つ上の二十八歳だが、ゴドフリーを若輩と侮ることのない、良い先輩格だった。
 その傍に付き添う妹のマルトは一族で唯一容姿に恵まれておらず、怨霊のような目つきでゴドフリーを睨みつけている。
「セブラン殿からお誘いとは。ええ、ぜひご一緒に」
 グライー家はこの百年戦争開戦時に、アッシェン諸侯でありながらアングルランド側についた、いわば裏切り者の系譜である。もっとも、それが最初で最後の裏切りで、以降の当主は皆、アングルランドの忠臣であった。ただこのことが足枷となり、出世は限られている。そういうことがなければ、ゴドフリーにとって最も目障りな存在になったことだろう。逆に言うと、出世争いを意識せずに済む分、付き合いやすい数少ない将の一人でもあった。
「天気もいいですし、中庭でどうでしょう。あの東屋なんかはいいですね。風が気持ち良さそうだ」
「いいですね。食事は、こちらで用意致しますよ、セブラン殿」
「ゴドフリー子爵、兄(あに)様と会食できること、誇りに思うといいのです」
 マルトが怨嗟に満ちた口調で言う。セブランは朗らかに笑いながら、妹をたしなめた。この兄妹は、全てが正反対だった。いや、将としての資質だけは似通っていたか。
「それよりアッシェン軍の動き、ゴドフリー卿はどう見られましたか」
「気になりますね。今更玉砕ということもないでしょう。もっとも、敵の補給に問題があるのかもしれませんね。あるいは、兵の入れ替え時期が迫っているのかもしれません。時期的にも、敵がまだ五万近くを維持していることは、意外でした。まあ今から村に帰したところで、刈り入れ時期には間に合わないと判断したのかもしれませんが」
「こちらはもう、ある程度は自領に帰していますしね。兵力を拮抗できる、今がぎりぎりの時期なのかもしれません」
 現在のこちらの兵力は、七万。対するアッシェンはリッシュモンの兵を加えて、五万三千。なるほど、まだ二万の差があるものの、セブランの言う通り、今が兵力差を縮められる、最後の一時かもしれない。
「仰る通りだ。とすると、敵はこれを決戦と考えているのでしょう。自領の収穫を捨ててまでというのが、捨て鉢にも見えますが」
「パリシ包囲が終わったことで、北から物資の補給があるのかもしれない。それは軍ではなく、各領地の減産に対しての補填に使えば」
「なるほど。今回アッシェン側が兵力を落とさなかったことの説明がつく」
 セブランのような頭の切れる将と話しているのは楽しいと同時に、この天才と会話が噛み合うことに喜びも感じる。
「しかしそれでも、敵がこちらに勝つことは困難です。装備も士気も、我々が上回っています。不運が重なって、こちらが撤退を選ぶこともあるでしょう。しかし、大敗を喫するとも思えない。アッシェンにしてみれば、ただの勝利程度では、今後の戦線は維持できないでしょうし」
「あるいは勝機以上に、こちらに痛撃を与えるだけの策があるのでしょうか。リッシュモン殿が戻って来たというのは気になります。私の部隊が敗れるとすれば、それはきっとあの将によるものと考えていますから」
 グライー家の騎馬を中心とした部隊は、五千という規模では大陸屈指である。あの王の騎馬五千とも、張り合えるとの評判だ。
「セブラン殿がそこまで仰るのなら、私もより一層警戒しなくてはなりませんね。私としては、兵を分けて籠城するのもありかと思っていました」
「卓見です。いなしてしまえば、少なくとも目の前の目論みは外すことができる。いやあ、私はどうも野戦のことしか頭になくて」
「セブラン殿の部隊は、野戦でこそですからね。私のような非才の身では、まず自分の身を守ることを考えてしまいます。ですが、元帥はおそらく、次でとどめを刺せればと考えるでしょう。実際、こちらが負ける要素は少ないし、誤った判断ではない」
「やはり、あるとすればリッシュモン殿ですかね。総大将でない以上、最前線で使ってくるでしょう。私の部隊が当たりたいと思いますが、元帥次第ですね」
 天才め。ゴドフリーは声に出さず毒づいた。今この軍でリッシュモンと直接当たりたいと思うのは、お前とキザイアくらいのものだぞ。
「進言してみては?」
「いえいえ、私たちはそのようなことを具申できる家柄ではありませんので」
 暗に、ゴドフリーに進言するよう頼んでいるのだろうか。いや、今の一言は彼の本心だろう。そういった回りくどい駆け引きは、戦場以外では一切しないのがこの男の流儀だった。剣を握っていないセブランは裏表のない、ちょっとお目にかかれないような好人物なのだ。
「まあ、元帥のお手並み拝見といきましょう。ただセブラン殿の見立て、心に留めておきます。敵が大勝を考えているのなら、捨て身の特攻もありえる。これまで以上に慎重にと、我が軍の将校には伝えておくつもりです」
 言うと、セブランは太陽のような笑顔で応じた。
 まったく、ソーニャといいセブランといい、この軍は立ち位置に恵まれない者が多い。
 それでこそ、ゴドフリーが上を目指せる素地があるわけだが。

 

 納得が半分、懐疑が半分といったところか。
 アルフォンスが作戦の説明を終えると、ブルゴーニュ公ジョアシャンの娘で副官でもあるポーリーヌが、早速手を挙げた。
「それで、ぽんと敵を蹴散らせるのか、私にはちょっと疑問なんだけど。まあ、アルフォンスの作戦が大きく間違ってたことはないから、信用してる。けどやっぱ私の頭では、難しいかなあ」
 ポーリーヌの気取らない口振りは、アルフォンスが元帥となった今でも変わらなかった。それが、アルフォンスには少し嬉しかった。上意下達の軍も悪くないが、こうした疑問を気軽にぶつけてくれた方が、軍議は活気づくし、実戦での対応力も高い。
「いくつかの想定はあります。十通りばかり、ここでご説明いたしましょうか」
 副官のフェリシテが眼鏡の縁を光らせながら言うと、ポーリーヌは露骨に面倒くさそうな顔をした。父のジョアシャン同様、細かい用兵よりは兵をよくまとめ、士気を高めることに注力する将校である。女丈夫といった言葉がぴったりで、アルフォンスも公私共々、彼女には面倒をみてもらってきた。
「まあ、難しいことは抜きにすると、要はなるべくブルゴーニュ公の軍はまとまってもらって、無視されたりいなされたりしないように動いてほしいということです」
「ああ、わかった。でもザザに一万五千しか貸さなくて大丈夫なの?」
 ブルゴーニュ軍はその兵力の多さから、多くの部隊に兵を貸し出している。この異常なくらいの大らかさ、気前の良さによって、この南部戦線は支えられてきた。ゲクラン不在時には、元来脆弱な軍なのだ。
「私は防御に専念、ということでよろしいですね」
 ラ・イルことザザが言う。今回の戦で、最も地味でつらい仕事を与えることとなる。
「すみません。目立った戦功を上げられない。その上失敗もできない、最もつらい持ち場となってしまいました」
「いえ。私はただ、ブルゴーニュ公よりお借りしている兵を、一人でも多く生き残らせるだけです。難しいお話は元帥に一任します」
 その落ち着いた風格は知将の雰囲気すら漂わせているが、ザザは以前のラ・イルの頃と、本質的には一緒だった。実戦となれば、ただ目の前の敵を薙ぎ倒す。猛将と呼ばれた頃と違うのは、兵の命を第一と考えるようになったところか。以前は突進するだけの将だったと聞く。現在、前進か後退かの指示は、あくまでこちらの命を待つという構えである。
「モーニカ隊長、質問はあるかな? 戦況に合わせて、君には大分動いてもらうことになるけど」
 アルフォンスが話を振ると、これまで一言も口を聞いていなかった、若過ぎる傭兵隊長は、露骨に狼狽した様子を見せた。
「は、はわわわっ! 私ですか? いえ、その、頑張ります。命令を頂ければ、全て、その時の指示に従いますっ。あと私、隊長代理です・・・」
 スミサ長槍傭兵隊を率いるモーニカは、先代である父が戦死した際、内輪揉めから後継選びが難航した為、仕方なく臨時として選ばれた隊長である。元々兵として従軍していたわけではなく、おまけに過剰なくらいの臆病さはとても傭兵隊長が務まる器ではないが、そのことが却ってスミサ傭兵を団結させるという、皮肉な結果となっている。将にはこういうあり方もあるのかとアルフォンスなどは感心したものだったが、当のモーニカは一刻も早くこの任から降りたがっている。
 気持ちはわかるが、モーニカが逃げ出せば、スミサ傭兵隊は今度こそ瓦解するかもしれない。隊の派閥同士はいがみあっており、かつ勢力は拮抗している。誰にとっても利害のないのが、父を見舞っていたモーニカしかいなかったというのは、この傭兵隊にとっても彼女にとっても、不幸な偶然の産物であり、アッシェン南部軍としては僥倖なのだった。
 十六歳の、それまで剣も握ったこともない娘になんという重荷を背負わせているのかという罪悪感は誰の胸にもあったが、モーニカには逆に戦のことがわからない分、上の指示に素早く、迷いなく従うという美点もあった。調練も周囲の古参兵の話をよく聞いて真面目にこなし、報告も遺漏がない。暴力に対する恐怖感は強過ぎるくらいだが、元来有能な娘なのではないかと、アルフォンスは思い始めていた。
「そういえばリッシュモンは、この作戦立案にどう関わっているのだ? 最初から最後まで、アルフォンスの話だったぞ」
 ブルゴーニュ公が訊く。張り出された地図の横でうたた寝をしていたリッシュモンは、眠そうな目をこすりながら口を開いた。
「あぁん、どこまで話した? ん、あたしはとにかく、敵の総大将がいるとこを叩く。それがどこかわからない内は、モーニカの尻にひっついてるよ。向こうで、新しく元帥になったのは、キザイアの娘のクリスティーナだろ? あいつはソツない大将って感じだったから、多分、前線の中央だろうけどよ。万一を考えて、あたしは両翼どちらにも動けるようにしとくってわけ。最初の配置は中軍だけど、結局あたしのいる位置が最前線になる」
 大口を開けて欠伸しながら、リッシュモンは答えた。鋸のような歯並びに、思わず目が行ってしまう。口振り、口そのもの、つくづく口さえ閉じてさえいれば美人と言われる理由を再確認する。
「で、あたしがどう関わってるかだっけ。作戦参謀としてあたしが言ったのは、とにかくあたしを敵総大将にぶつけろってこと。二、三十分でいいから、あたしに他の部隊の相手をさせるなってな。あたしがここの総大将やる時って、後ろから指示することがほとんどだっただろ? たまには無敵のリッシュモン軍を、お前たちにも見せてやろうって思ってな。へへ。まあ見てなって。ああ、ここで一部隊長として戦うのって、いつ以来かな」
「お前が大将にぶつかるよう、アルフォンスが策を練ったわけか。おいおい、それじゃまるで役割が逆だぞ?」
「そうかもな。けどあたしが総大将じゃ、前に出にくいだろ? 出てもいいけど、でかい肩書き持ったままじゃ、相手も警戒するし、標的にもなっちまう。あと・・・本音言うと、騎士団領であのアウグスタの命令で最前線で戦ってた時に、ああ、あたしはホントは総大将ってガラでもないのかなって。まあアルフォンスが死ぬまでは、この体制でよろしくって感じ」
「死ぬなんて、そんなにあっさり言わないで下さいよ」
 アルフォンスが抗議すると、リッシュモンはへへ、と意地の悪そうな笑みを返しただけだった。
「ともあれ、こちらが攻め込むことで、敵は原野での野戦で応じると思われます。兵力に劣り、かつ崩壊寸前の我々相手に城に閉じ籠るようでは、最後に勝ったという意識は低く、今後の平定戦にも影響が出るでしょう。そして今作戦は、リッシュモン軍を縦横に動かし、確実に敵大将に当たらせるだけの広い原野を前提としています。この一点に懸け、全軍の配置が考えられています」
「わかりました。しかし敵が必ず、原野で迎え撃つという確信は?」
 ザザが問う。これに答えたのはリッシュモンだった。
「へへへ。その際にはちっと考えてることがある。一応、作戦参謀だからな。ただ、敵もそう馬鹿でも臆病でもないだろうから十中八九、原野でぶつかることになるよ。んで、あたしらは完勝して、敵は大きく戦線を下げることになる。とまあこんな感じ。なに、この戦線はまだまだイケるよ。いや、あたしも騎士団領の契約を破棄してまでアッシェンに帰ってきたんだ。それだけのモンは見せてやるって」
 こんな言い草が自信過剰に聞こえないのは、アルフォンスだけではないだろう。ゲクランと並ぶアッシェンの常勝将軍と言われたリッシュモンの言葉である。最前線に立つ姿を見るのは久しぶりだが、大雑把なことしか言わないリッシュモンの言葉には、しかし言いようのない期待感がある。
「ま、あたしがクリスティーナの部隊に接敵できた時点で、絶対に勝つ。お前たちはそれを信じて、とにかく敵を引きつけてくれ。もしクリスティーナが後方から指揮するようだったら、何としてでも血路を切り開いてくれ。これだけは、ホント頼む。一対一の状況を作ってくれさえすれば、クリスティーナが何万を率いていようが、あたしの五千が打ち砕く。これは約束する」
 その物言いは、まさに総大将のものだった。やはり真の元帥はリッシュモンなのだと、アルフォンスはあらためて思う。同時に自分はその補佐なのだと思えれば、アルフォンスの元帥職という重荷は、いくらか軽くなった。さらにこうしてリッシュモンを一部隊の長として使える立場は、総大将としてなんとも心強い。
 先に言い出されたので口を閉じていたが、リッシュモンを敵総大将に当てるというのは、初めにアルフォンスが考えていたことでもあった。その意味で、アルフォンスが思い描いていた絵図と重なる。
 いや、とアルフォンスは思い直す。自分が考えていたことを察知して、リッシュモンは先にそれを言い出したのかもしれない。表向きリッシュモンが言い出した形になれば、敗戦の戦犯の比重は、リッシュモンにかかるところが大きい。この娘には測りがたいところがあり、信じられないくらい先を見通す一方で、目の前の人間の心の機微も、見逃さない繊細さがある。この軍議のやりとりでも、敗戦の場合の責は自分にあると、皆に思わせるものであることがわかる。本人に直接言うと本気で嫌がられそうなので言わないが、リッシュモンは本当は優しい人間なのである。
 ただ、同じくらい敵に残酷なのだという一面は、既に見せている。昨晩、リッシュモンと軍議の打ち合わせをしていた時に、彼女の真の作戦案を聞いて、アルフォンスは唖然とした。その図抜けた戦略は、敵があえて籠城を選んだ場合によるものだった。その策を聞いて、アルフォンスは唸り、横にいたフェリシテは顔をしかめた。
 敵が籠城を選ばない確率は高いので、まずは原野で敵を撃ち破ることだった。敵が退却し、駐屯するラステレーヌ城に退こうとした時、本当の地獄が始まる。
 このような名将が参謀につき、かつ自らも最前線に立つ。目の前の戦もその先も、負けるわけがなかった。
 四つ年下の、それでいて生まれてきた時から戦塵を生きてきたこの娘は、人をそういう気持ちにさせる、戦の女神だった。この喩え自体は、アルフォンスのセイヴィア教に対する信心のなさゆえかもしれないが。
 目が合うと、リッシュモンは悪過ぎる歯列を剥き出しにして笑った。
 戦の申し子かな、とアルフォンスは思い直した。

 

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