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4,「よう大将。首をもらう」

 午前の調練を終え、風呂を浴びた。
 最近は夕刻、ゲオルクとアーラインと剣の稽古をする機会も少ないので、本国から預かっている兵の調練は、午前に済ますことにしていた。
 午後からは、総督府で執務である。しばらく前からこの書類仕事が意外と性に合っていたことに、ジルは気づいていた。今も大陸五強などと言われているジルだが、いずれはその名も忘れられていくのではないか。ただ、いつこの仕事から離れてもいいよう、剣の鍛錬だけは欠かさずにいた。旅の空もまた、恋しくなってきているのだ。
 総督府へ向かう間、訪れている将校や騎士から、挨拶されることが多くなった。やはり先の戦、アヴァランとの一戦で、ジルのことを認めるようになった人間は、増えているようだった。武人、軍人から認められるのは、素直に嬉しい。同時に、この武人たちを上から押さえつける立場であることを、後ろめたくも思う。属国ではなく正式にアングルランドに併合されてくれれば、ジルもこんな思いをせずに済むだろう。ただこれは、支配者の傲慢だとも自覚する。
 ともあれ、武人には相手の強さを素直に認めるところがある。レヌブランの尚武の気質に助けられているなと、ジルは感じる。もう少し仕事が楽になったら、希望する者たちに剣の稽古でもつけてやりたい。いずれここを去るジルだが、レヌブランの武人たちに、何かを残せればと思っていた。
 諸侯もまた武人であり、たまに話す者たちもまた、ジルに好意的であった。やれやれ、とジルは思う。これは期せずして、場所を得てしまったか。これまでの人生で自分の居場所などないと感じていたジルには、ここは居心地が良過ぎた。ほんのわずかだが、ここに根を下ろすのも悪くないという気分になっていた。
 仕事を終え、文官たちが帰るのを見届けてから、ジルも帰り支度を始めた。すると、一人の来客があった。バルタザールの不肖の息子、イポリートだ。以前も、あれは戦の直後だったか、同じようなことがあった。見た所、従者の一人も連れていないようだった。
「殿下、いかがなさいましたか」
 あの時のイポリートには、それまでの非礼を詫び、葡萄酒を差し入れてくれたのだった。流血沙汰になりかねない程の険悪な関係だった為、あのイポリートの謝罪には、助けられた部分もある。そしてこの男にも認められたのかもしれないと、胸を熱くしたものだった。
「どうだろう、ジル総督。これから夕食でも」
「これから、ゲオルクとアーラインと、夕食を共にする予定なのですが・・・」
「そうか、ならいい。総督には、しつこくしてしまったようで、申し訳ない」
 かつてと正反対のしおらしい態度に、さすがのジルも悪い気がした。
「いえ、こちらとしても二度も殿下のお誘いを断るのは忍びない。殿下のご予定が埋まっていないようでしたら、八時頃に一杯いかがですか」
「おお、そうか。では八時に、私の居室へ。良いワインが手に入ったのです。総督もきっと喜ばれると思います」
 元より傲慢さしか特徴のないこの男がこうまでへりくだると、ただただ卑屈しかない。微かにこみ上げる嫌悪感を飲み下し、ジルはそれに応じた。
 会食といっても、気取った場所の約束ではない。ジルは城の食堂へ向かった。隅の席。半人半馬のケンタウロスでもくつろげる専用の席で、老ゲオルクとアーラインが、既に皿に手を着けていた。
「おお、遅かったのう」
「それほどでもないだろう。アーラインのそれ、美味そうだな。エスカルゴか。夜はこんなものまで出すようになったんだな。昼にしか来なかったんで、少し驚きだな」
「お前の仕事じゃないのか。最近この食堂は、町のちょっといい酒場くらいには充実しているんだぞ」
「いや、こんな細かい仕事までしていないよ。ただ城内の設備には大分予算を追加した。どう使うかは、部下とバルタザール殿で決めたんだろうさ」
 席に着いたジルは、エスカルゴとバゲット、それに林檎酒を注文した。野菜は二人が既に食べている大皿のサラダを分けてもらうことにする。
 昼の配食と違い、夜は給仕が注文を取りにくる。周りで上がる歓声を聞いても、食堂は完全に酒場といった体裁だ。
「それにしても、安心したぞい」
 ゲオルクが、鼻を真っ赤にしながら杯を傾ける。
「私のことか。なんでだ」
「ここに、馴染み始めている。最初赴任してきた時にはいつ出て行くのかと、心配したもんじゃった」
「あの戦以来、レヌブランには受け入れられていると感じる。植民地の総督、アングルランド全権大使ということで、私も初めは構えていたんだ。恨まれているだろうし、いつ寝首をかかれてもおかしくないとな」
「いや、ジルは最初から認められていたよ。むしろお前みたいのが来て、ここの連中も怒りのやり場に困っていたくらいだ」
 アーラインが言う。近くで見る度、その顔立ちの美しさにはっとさせられる。下半身は白馬だが、これもまた思わず手をのばしてしまいそうな程の、見事な毛艶なのである。
「そうなのか」
「大陸五強の一人とあらば、ここの連中が仰ぎ見なくてはならない存在だ。そんなお前が、誰よりも献身的に働いていた。相当複雑な心持ちであったことだろうな」
「へえ。周囲には私がいつも怒っていたように見えていたと思うぞ」
「ハッハッハッ! いや、ジルもそんな冗談が言えるようになったか。わしゃ嬉しいぞ」
 老騎士が笑う。ジルは怒りの面が張り付いた悪相で、それは数ある劣等感の中でも、最も大きなものだった。これを冗談の種に出来る辺り、自分もいくらか屈折したものを乗り越えられつつあるのかと、そう感じる。
 そこからは、他愛無い話に終始する。食堂には大きな柱時計が一つあり、もうすぐ短針は八時を指そうとしていた。
「今日は、ここら辺で切り上げるよ」
「ほう、宵っ張りのお前さんにしちゃ珍しい。デートの約束かの?」
「そんなわけあるか。イポリート殿と一杯付き合うことになっている。一度断っているので、さすがに今回は断りきれなくてな」
「ほっほう。奴ともついに休戦か」
「終戦、といきたいところだな。元より、ここでは誰とも争うつもりはないよ」
 二人を残し、ジルは食堂を出た。
 回廊を抜ける夜風が、冷たくなってきている。イポリートの居室は初めてだったが、場所は知っていた。
 城の中の離れといっていいその場所に近づくと、すれ違う小姓やメイドは、誰もが暗い顔をしていた。ジルとの関係は氷解しつつあるが、あの男の本質は変わっていないらしい。やや陰鬱な気分になりながら、ジルはイポリートの部屋に訪いを入れた。
 既に食事を終えたらしいイポリートは、卓の前で静かにグラスを傾けていた。隣りは寝室で、間仕切りの向こうのシーツは乱れていた。朝からあのままで、メイドを叱り飛ばさないこの男ではない。つい先程まで女を抱いていたのだろう。甘ったるい香水をいつもよりきつく感じるのは、性の匂いをごまかす為のもので間違いない。
「やあやあ総督、お待ちしておりました」
 酔っているのか、その口調こそ丁寧だが、イポリートにはいつものようなへりくだった様子はなかった。
「お待たせしました。殿下には、ちょうどいいお加減のようで」
「ああ、これがまた格別に美味いのだ。さあ、総督もどうぞ」
 イポリートが手を叩くと、青い顔をしたメイドが、葡萄酒とグラスを運んでくる。それをグラスに注ぐ指先が、震えている。普段どんな虐待を受けているのか、手の甲には幾筋もの赤いみみず腫れが見えた。ジルが礼を言うと、メイドは今にも泣き出しそうな顔で会釈した。
「アキテーヌ産・・・ボルドーですね。普段あまり飲まないものですが、これがよく輸入されているのは知っています」
 物流、輸出入。ノースランドの叛乱軍を支援する物資、そして金は、その多くがレヌブラントの港を通っていると踏んでいる。なので総督としてのジルが、特に目を光らせているところだった。もっとも、このボルドーはアキテーヌからここに輸入され、大陸に流れているものなので、叛乱の件との関係は薄いだろう。
「さすが総督、よくご存知で。ささ、まずは一杯」
 飲みかけているグラスを差し出してきたので、仕方なくジルも杯を合わせた。
 林檎酒ばかり飲んでいたので、葡萄酒自体が久しぶりだし、特にこれは以前にいつ飲んだのか記憶にないくらいだ。思わぬ酸味が、口をつく。いや、最初に感じたよりも甘さがあるのか。複雑な味わいに、微かな違和感も感じた。
「さあ、今晩はお互い、積もる話もあります」
「失礼ですが、二、三杯で帰ろうと思っています。明日も早いですし。しかし、殿下のお話は聞きましょう」
 残りを飲み干す。できれば、二杯で帰りたいところだった。瓶を掴み、自ら二杯目を注ごうとする。
 その時、視界がぐらりと揺らいだ。何だろう。食堂でも文字通り、一杯ひっかけただけだが。疲れか。いや、違う。明らかに、身体の感覚がおかしい。視界が上の方から暗くなり、足先から何かに沈んでいくようだった。
 毒なのか? 気づくと、床に横にされていた。口の中に、漏斗のようなものが突っ込まれる。先程のメイドが、ジルに無理矢理葡萄酒を注ぎ込もうとしていた。たまらず、むせかえる。
「馬鹿、そんなに一度に入れたら吐き出してしまうだろう」
 今度はゆっくりと、ジルの体内にそれが入ってくる。毒・・・毒? 思考が混濁してくる。私はあの、不死身と言われたリチャード王の娘だぞ。並大抵の毒なんかで、私を殺せるものか。
「もう一本入れるぞ。こいつは化け物だからな」
「い、一杯でも死んでしまう者がいるのですよ。そこまでしたら、本当に死んでしまいます」
「なに、死にはしないさ。いや、殺すつもりでちょうどいい。貸せ、こうやってやるんだ」
 やめろ。口に出したつもりだったが、喉は少しずつ注ぎ込まれる葡萄酒を、飲み下す一方だった。瞬きする度に、天井が歪んでいく。聞こえる声も既にくぐもっていて、何を言っているのか、わからなかった。身体が熱い。炉の中にでも放り込まれたかのようだ。それでいて、指一本動かせない。
 やがて、意識がゆっくりと、闇に包まれていった。

 

 アッシェン軍五万三千は、布陣を終えていた。
 事前に、敵軍の配置は聞いていた。先行したセブランのグライー軍五千に対して、敵は手を出してきていない。騎兵の多いグライー軍を追い回して先に消耗する程、敵も馬鹿ではないということだ。
 右翼に陣取った五千とは対照的に、こちらの左翼はゴドフリー、アメデーオにそれぞれ二万を与え、四万とした。真正面からの押し合いに付き合うつもりはなく、これは敵左翼ザザの一万五千を、一息に飲み込む為のものだ。
 敵はその右翼のザザを最北に、前線中央にスミサ傭兵隊三千。そのすぐ後ろにリッシュモン軍五千、最南、右翼にブルゴーニュ軍二万を展開していた。中央後方に、新元帥アルフォンスの一万。総勢、五万三千。
 クリスティーナがその軍二万を前線中央に進めると、アングルランド軍もまた、全ての兵、総勢七万の配置を終えた。
 最北、左翼には先程のゴドフリー、アメデーオ二万ずつの、計四万。中央前線にクリスティーナの二万。後方に母、キザイアの五千。これは予備軍で、両翼どちらかの戦況が思わしくない時に投入する。そして最南に、グライー軍の五千。
 この配置だけで、そしてそれをこちらに許した時点で、勝ったなとクリスティーナは思った。もっとも、戦には何が起きるかわからない上、敵にはあのリッシュモンがいる。勝利は確信には程遠いものの、予測としては充分成り立った。
 右翼、敵左翼ブルゴーニュ軍二万に対してグライー軍五千を当たらせるのは、少し冒険でもある。が、誰もが認める天才セブランが、前進するだけが能のブルゴーニュ軍相手に引けを取るとは思っていない。セブランにはブルゴーニュを引きつけ、あるいは引っ掻き回すだけで良いと伝えてあった。機動力に優れたグライー軍に、その特性を最大限に活かして、敵の前進を遅らせるだけでいいと命じてあるのだ。失敗のしようもないだろう。これで、寡兵の敵はさらにその半数近くを無駄にすることとなる。
 鍵は、左翼の四万がどれだけ早くザザの一万五千を蹴散らすかだろう。
 一時間、慎重にやっても三、四時間で決着は着くと考えている。ここに奇策があり、万が一にでも二軍のどちらかが崩れそうなことがあれば、キザイアの五千が加勢に向かう。左翼が敵右翼を崩した後は、後方のアルフォンスに襲いかかるもよし、あるいは苦戦を強いられるだろうリッシュモンと自分の戦いに介入するのもいい。
 敵の配置は一見均衡の悪いものに見えるが、中央を一軍と考えると、敵右翼が一万五千、中央が一万八千、左翼二万と、実は思ったほど偏った編成でもなかった。
 多少冒険しているのはこちらの方で、しかしこの兵力差でもグライー軍はブルゴーニュ軍の足を止めるだけなら、造作もないはずだ。なのでこちらの左翼に大分兵力を割けた。ここから、確実に崩していける。無論、リッシュモンがそれを手をこまねいて見ていることもないだろう。あの五千は、クリスティーナの二万で食い止め、縛り付ける。
 すぐ傍にいる、副官のリックに声を掛けた。彼が傍にいる。こんなに頼もしいことはなかった。
「おかしいわね。こちらの配置を見て、少しは動くと思ったけど」
「私にもわかりません。ただ、こちらはスミサ傭兵隊の後ろに、リッシュモンを相手にすることになります。油断なきよう」
「わかってる。スミサ傭兵隊は歩兵で蹴散らせる。ここに時間を掛けると、リッシュモンが側面から来るわね。逆に、両翼のどちらかに背後を見せる格好になる。本当に、そんなに稚拙な用兵をするのかしら。絶対、ないわよね」
 中央の配置は、不可解だ。策が、罠があるとすればここだ。が、スミサ傭兵隊を前にした意味がわかりすぎる程わかるのが、却って不気味なのだ。これはクリスティーナの重騎兵に対する構えだ。初手でこちらの重騎兵を使わせることを封じている。それはわかるのだが、むしろクリスティーナが最前線に出た方が、敵としては自分の首を獲りやすいのではないか。それをやるなと、敵は暗に告げているのだ。
 スミサの傭兵隊はパイクという4m近い長槍を扱い、騎兵はその軽重を問わず、近づくことができない。強引に突破を試みれば、相当の犠牲を覚悟することになる。対騎兵に特化した部隊で、逆に言えばしっかりと陣を組んだ歩兵で懐に飛び込めれば、たやすく粉砕できる部隊でもあった。自分だったら今すぐに、ブルゴーニュ軍とスミサ傭兵隊を入れ替える。こちらが原野に入った時点で、それをやるべきだった。そうすればグライー軍はその動きをずいぶんと制限されることになる。が、もう遅いか。こちらは進軍の速度を落としていない。今更配置を代えようとすれば、そこにセブランの騎馬隊が突撃をかけるだろう。クリスティーナは呟いた。一分前に動き始めていれば、ぎりぎり配置を代えることができたはずなのに。
 先に、手札を見せている。アルフォンスとかいう敵元帥の戦は、不気味ではあった。寡兵でこちらに攻め込んできたのに、先に布陣を終え、堂々とやろうと呼びかけているかのようだ。立場が、逆ではないか。
 両軍、原野で東西に分かれ、対峙する。潮合が満ちるのを、静かに待った。ここだろう。そう感じ、クリスティーナは手を上げ、振り下ろした。
 進軍ラッパが一斉に響き渡ったが、一拍遅れて、敵軍のそれも聞こえてきた。全く同時に、両軍は進軍を命じたということだ。
 罠、罠。クリスティーナは考えた。原野の南北にはまばらな木立が広がっているが、ここに敵の伏兵がいないことは、斥候の報告がなくとも視認できる。罠。どこにあるのか。
「長弓隊、構え・・・撃て!」
 クリスティーナが自軍に指示を出す。左翼も同時に、長弓隊の斉射をしている。右翼は矢合わせなどせず、セブランを先頭に騎馬隊が突進していた。その騎馬隊が、鮮やかな手並みで反転する。敵の石弓を射程ぎりぎりでかわしたようだ。さすが。クリスティーナは思わず口に出していた。
 目の前で一つ、意外な光景に出くわした。スミサ傭兵隊は一通り長弓の斉射に耐えた後、こちらの右翼に向かって疾走していたのだ。ブルゴーニュ軍の援護に向かったのか。しかしただでも厚い敵左翼に、これ以上兵力を割いてどうするのか。
 いや、この機に多少の犠牲を出してもブルゴーニュ軍を中央に、スミサ傭兵隊が軽騎兵中心のグライー軍に当たるのか。そう思ったが、これも違った。ブルゴーニュ軍に合流する前に今度は前進し、ブルゴーニュ軍の右前方に陣取った。意味が分からない。歩兵で、走り回る軽騎兵の側面が取れると思ったのか。
 案の定、セブランは部隊をさらに南に寄せ、スミサ傭兵隊を無視する構えを取る。騎馬必殺のパイクを南に向けて並べているが、相手不在のあの配置では、長槍を構えた阿呆の集まりだ。
 不意に、肌を刺す感覚。前方に目を戻すと、リッシュモン軍がその全容を現していた。敵大将リッシュモンの姿は、まだ視認できない。
 前進する。五千。圧力は感じない。こちらの二万で、一息に踏みつぶすか。できる兵力差だが、罠があるとすれば、絶対にここだ。じわじわと締め上げる。クリスティーナは決めた。寡兵には、これが一番堪えるはずだ。こちらが先に動けば、その分隙を作る。リッシュモンがクリスティーナよりも知恵が回ることは、その評価を聞けば充分わかる。だから、知恵比べには付き合わない。ただ、愚直に押す。自分が相手より戦術で劣ると受け入れるのは、勇気がいた。
 消耗戦になろうと、こちらの犠牲の方が大きくなろうと、リッシュモンには最大限の警戒をもって当たると、決めていた。いざとなったら、虎の子の重騎兵二千で圧倒する。ただ、その機だけは見誤るまい。仕掛けてくるとすれば、絶対にそこだ。歩兵一万五千に、厚みのある方陣を取らせる。これで、たやすく突破される心配はない。ひとつひとつ、隙になる部分を潰していく。相手は、クリスティーナが今まで相手にしてきた中で、最強の五千だ。
 歩兵同士が、もうすぐぶつかる。クリスティーナは部隊最後方に位置し、リッシュモンの位置を探った。遠眼鏡を用意させる。騎兵。敵最後方、大きく横に広がっていた。土煙が、時折視界を遮る。いない。中央付近にはいない。歩兵はもう、ぶつかり始めている。太鼓の響きが、その調子を速めていた。
 悲鳴、怒号。前列の兵の交代を告げるラッパの音。クリスティーナは必死にリッシュモンを探した。まさか、ここにはいない? 思った刹那、同じく遠眼鏡でこちらを見ている赤髪の指揮官を見つけた。なんと、部隊の最も左端にいた。クリスティーナが見つけたことを悟ったのか、こちらに向けてひらひらと手を振っている。赤い具足。笑った口の中に、鋸のような歯がびっしりと並んでいる。
「リック、見つけた。見て。あんな所にいる。軽騎兵二千を、左に回して」
 あの場所では、指揮も執りづらいだろう。細かな指揮は全て、ダミアンとかいう副官任せか。
 もう遠眼鏡はいらない。表情まではわからないが、一度それとわかれば、あの赤い具足はよく目立つ。そのリッシュモンがわずかに下がり、次いでやや位置を右にずらした。歩兵に押された自然な動きだったが、それだけに混乱する。一番左端にいたのは、そこから騎馬を一列に、こちらの左側面、あるいは回り込んで後方のクリスティーナを襲う構えだと思ったのだ。が、こちらの歩兵左翼が押すのに合わせて、リッシュモンはその位置を実に中途半端な場所に移した。
 左の歩兵が、さらに押す。味方に押し出されるように、リッシュモンも右に移動する。騎兵の配置は歩兵後方にあくまで横一列、歩兵の後退に合わせて下がっている。
「わからない。本当に、わからないわ」
 思わず、リックの顔を見る。副官もまた、首を横に振るだけだった。
 次いで、中央の歩兵も押し始める。右、敵左側だけの歩兵だけが踏ん張っているが、この兵力差、どれだけ保つのか。両軍、まだ犠牲らしい犠牲は出していない。敵歩兵も犠牲を少なくする為に、下がっている格好だ。
 どこに、罠がある。リッシュモンは徐々にその位置をずらしつづけ、もう中央付近にまで来ている。戦況は不気味な胎動を続けているが、自分とリッシュモンの距離だけが、変わらずにいる。
 一瞬、肌が粟立った。まだ地に根を張り続けているスミサ傭兵隊が、いつの間にかすぐ真横に迫っていたのだ。
 クリスティーナは後方の歩兵一部隊を、そちらに向けさせた。が、スミサ傭兵隊はこちらを無視するように、南と西に槍列を並べ続けていた。長槍隊の突撃は歩兵で対抗すれば怖くないが、こちらのことなど初めから眼中にないというように、愚直に同じ姿勢を取り続けている。
 重騎兵で打ち砕くか。背後を見せている今なら、歩兵と連携してそれができる。いくら長槍隊相手でも、今ならそれができる。が、傭兵三千相手に動いて、リッシュモンに隙を見せるべきではなかった。あれは、餌だ。
 左翼。土煙でよく見えないが、ゴドフリーとアメデーオの四万は、ザザの一万五千を揉みに揉み上げている。ザザが円陣を組んでいる為側面を取ることができず、まだ突破できてはいないが、初めからあれは時間の問題で、いずれ決着は着くだろう。軽騎兵同士が、その横で睨み合いを続けている。
「斥候。後方のアルフォンス軍に動きがないか見てきて」
 今のところ、ほぼ全ての局面で、クリスティーナの思う通りに戦は進んでいる。大きい部分で言えばだ。小さな亀裂。スミサ傭兵隊の配置、リッシュモンの謎の動き。この二つだけが確かに、クリスティーナの理解を超えている。
「アルフォンス軍、動きはありません」
 あの一万の奇襲を警戒したが、それすらないようだ。ならば、先の二つの用兵には、絶対に何かある。
 リッシュモン、最後方をさらに右に移動している。その姿がわずかに大きく見えるのは、こちらの歩兵が押し続けているからだ。歩兵左翼は大分押し、中央も優勢。右を押せれば、このまま潰走もありえる。
 変幻の戦、閃きの将。”鋸歯”以外に、リッシュモンをそう評するのを聞いたことがある。押している。もう一度自分に言い聞かせた。兵を密着させ、敵の動きを封じている。小さな綻びを抜かせばこの戦、クリスティーナの思う通りに進んでいる。
 同時に、これは何かまずいことになっていると、戦の勘が告げていた。
 今すぐ逃げろ。さもないと・・・。
 いきなり、スミサ傭兵隊が、二つに分れた。一方はそのまま南のグライー軍に槍を向け、もう一方はクリスティーナたちの背後を目指し、配置についた兵から、東西に向けて槍を並べている。
 包囲にはなっていないが、グライー、そして後方のキザイアとの連携が阻まれたことを、クリスティーナは悟った。
 いや、馬鹿にしているのか。クリスティーナの退路を塞ぐ配置。押しているのは、こちらだ。二万で、五千を押しているんだぞ。
 振り返る。リッシュモン。いつの間にか部隊の一番右側にいた。それも、何故か位置を近く感じる。錯覚ではない。遠眼鏡なしでも、その出鱈目な歯並びがはっきり見える場所にいる。口元に、にやついた笑みが浮かんでいた。どうして、いつの間に、こんな近くに。
 歩兵。方陣であったはずが、気づくと斜陣になってしまっている。最後方のここから見て、ようやくわかったことだ。歩兵自身が、それに気づいているとは思えない。隣りには常に味方がいる。どこも突出せず、横一列を維持していると感じているはずだ。
 リッシュモン、右手を大きく振り回し、下ろした。トランペットが鳴り響く。太鼓が打ち鳴らされる。クリスティーナは束の間、目の前で起きたことに思考がついていかなかった。
「えっ・・・?」
 一万五千近い歩兵が、敵の五千に側面を取られていた。密着していたはずなのに。いや、だからなのか。斜陣。こちらの意図したものではなかった。敵。こちらに前進していたはずが、今は左に向けて突撃している。
 兵の向きを変えただけだ。それだけで、こちらの歩兵全てが側面を取られていた。
 呆気にとられた。雪崩を打って潰走する歩兵に巻き込まれ、左翼に回した軽騎兵と、重騎兵の左半分が身動きを封じられている。目の前で自軍の兵列が崩壊していく様が、信じられない。たった今まで、押しに押していたはずなのに。
 リッシュモン。自らを先頭に、騎馬全軍でこちらに突進して来ていた。右翼に展開させていた軽騎兵五百が遮ろうとするが、隊列を整え切れていない薄い戦列は、あっという間に蹴散らされた。具足と同じ赤い髪が左右に揺れる度、騎兵たちが馬上から姿を消す。
 リッシュモン。もう、すぐそこにいる。
「よう大将。首をもらう」
 初めて聞く、リッシュモンの声。その顔に、先程までのにやついた笑みはない。
「重騎兵、集結!」
 叫ぶような、リックの声。残った重騎兵を、なんとかまとめようとしていた。衝撃から立ち直れないクリスティーナは、手綱を握ることすらできなかった。
「すぐに退却を。ここは私が食い止めます。皆さん、クリスティーナ様を頼みます」
 馬群に包まれながら、後退する。麾下が周囲を固め、クリスティーナは大きく後ろに下がった。
「リック!」
 手を伸ばす。届くはずがない。鋸のようなリッシュモンの刃が、陽光をぎらりと照り返す。無数の火花が散り、リックの身体は兜ごと両断されていた。
「リック!!」
 それはもう、悲鳴だった。刃の血を払った赤髪の悪魔は、そのままこちらに向けて突進を続ける。
 その騎馬隊に、まともにぶつかっていく騎馬隊があった。キザイア。母さん。
おお、キザイア、元気そうで何よりだ!」
 悪鬼の鋸刃と、キザイアの戦斧がぶつかり合う。板金を鋸で切るような、いや実際そうである甲高い金属音が、クリスティーナの耳を貫く。一合、二合と撃ち交わされる度に、心が掻きむしられる。
「元帥、こちらへ」
 クリスティーナの手綱を握る手。ソーニャだった。頬から出血している。負傷しているソーニャを、クリスティーナは初めて見た。
 真っすぐ後ろに下がらずに、北に迂回する。スミサ傭兵隊。救出に来たキザイアの騎馬隊の多くが、その長槍にやられていた。血の匂い。倒れて苦しむ、騎馬とその兵。
「とにかく、元帥は西へ。ラステレーヌ城は放棄して下さい。リッシュモンのこの勝ち方、何か大きな策の一部という気がします。このまま城に立て篭るというのは、いかにも当たり前過ぎませんか。危険な感じがします。敵の裏をかけている自信はありませんが、その先の、ベラックで落ち合いましょう。戦場に残る兵は、私とキザイア様でまとめておきます。ではどうか、ご無事で」
 言うと、ソーニャは傷ついた騎馬隊を率いて、戦場へ戻っていった。
 右翼、グライーは寡兵で援軍もない状態では、さすがに攻めあぐねている。犠牲は出していないようだが、ブルゴーニュ軍を引きつける役割は、今となっては役に立たない。
 左翼、後方に控えていたアルフォンス軍がついに動き、勢いのついたリッシュモン軍の歩兵と共に、ゴドフリー、アメデーオの側面を襲っていた。味方の動揺は、ここまではっきりと伝わってくる程だ。
 あっという間だった。つい先程まで、戦をしていた。なのに何か悪鬼のようなものに、一瞬で軍を喰らい尽くされた。
「リック・・・」
 クリスティーナは、嗚咽を止められなかった。負けた。愛する人を、目の前で無惨に殺された。大切なものを、数えきれない程失った。
 風に乗って聞こえてくる、怒号、悲鳴、金属音、馬蹄の響き。
 全てを塗りつぶすように、クリスティーナは泣き続けた。

 

つづく

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