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2,「この夢は、私を生きさせる」

 妹にはやはり華があると、アナベルは思った。
 女王ブーディカを称する、ティアの、ノースランドへの久々の帰還である。オーガスタスの城内は歓声で溢れ返り、港からここまでの道中も、きっとそれに勝るとも劣らない歓呼の海だったことが想像できた。
 矮躯ながら橙色の髪をなびかせ、大股で広間を横切る姿には、十六歳の娘とは思えない風格がある。
「陛下、よくぞご無事で」
 アナベルが膝をつくと、ティアはその手を取って言った。
「やめよう、姉上。私たちが作る王国は、民も含めて家族同然。格式やら何やらも大事なんだろうが、そういったものは、アングルランドを倒してからにしよう」
 引き上げられる手に思わぬ力を感じて、アナベルの胸は熱くなった。妹は、本当に逞しくなった。
「みんなも、元気だったか」
 廷臣一人一人の手を取り、あるいは抱擁を繰り返しながら、ティアは彼らと言葉を交わした。その緑色の瞳の輝きに偽りはなく、アナベルを含めた全ての臣が、彼女に惹かれる理由を如実に体現していた。
 一通りの挨拶を終えたティアが、再びアナベルと向き合う。
「おかえりなさい、ティア」
「ただいま、姉上」
 抱き締め合う。こんな小さな身体でよく頑張ったわね。それは口に出さず、妹の頭を撫でる。指先に、王冠の冷たさが染みた。
「こちらは万事、滞りないわ」
「さすが姉上。にしても、腹が減った。身を清めたら、食事にしよう」
「すぐに湯を用意させるわ。それにもう、大広間に宴の準備が整ってるわよ」
「ハギスもたくさんあるか?」
「ええ、それはもう、食べきれないくらい」
 女王が、破顔する。その笑顔だけは、幼い頃のティアそのままだった。
 宴は、大いに盛り上がった。旅の、そして転戦に次ぐ転戦の疲れも見せず、ティアは家臣の席を回り、あるいは大道芸人たちと共に踊り、歌い、笑った。全てがティアを中心に周り、全てがティアを盛り立てる。姉妹二人がかつて理想とした光景が、目の前で実際に繰り広げられている。
「はあ、やっぱり皆といると楽しいなあ。が、そろそろ私は退出する。私がいるとお前たちの誰一人、席を立とうとしないからなあ」
 手を振って、ティアが大広間を出る。まさに万雷の拍手で、ティアは見送られた。
 おかしな個人崇拝ではない。集団心理でもない。一人一人が、ティアに夢を見ている。生活をもっとよくしたい、アングルランドの連中に一泡吹かせてやりたい、武勲を立てて出世したい、平和で、本国の人間から差別されない自分たちの王国が欲しい。人の持つ夢は様々だが、それぞれの夢の水先案内人として、女王はその威光と分け隔てない態度で、皆の道を照らし出していた。ティアの夢、ノースランド独立は、全ての者の想いを実現、ないしは前進させる。
 アナベルはティアの後に続き、居室へ向かった。古い、頑健な石造りの壁が、広間の喧騒を遠ざけていく。
「ふう、さすがに疲れた」
 ガウンと靴を脱ぎ捨て、ティアは寝台に腰を下ろした。それを待っていたのか、扉を叩く音が響く。ティアが入室を促すと、廊下の影から浮かび上がるように、黒い外套の忍びの娘が入ってきた。
「直接会うのはいつ以来だったか。お前も宴に出てはしゃいでもよかったんだぞ」
 忍びの名は、ビスキュイ。ノースランドの忍びではなく、今は明らかにされていない、とある同盟者の忍びである。
「い、いえ、アナベル様の計らいで、厨房でたくさんのショートブレッドを分けで、もらいまじだ。でへ、でへへへへ」
 病的に白い肌と、ぎょろりとした目。そして言葉の端々に濁点の入るような、独特の喋り口。ビスキュイは忍びとしては目立ち過ぎるが、そもそも影から出ない類の忍びだった。
「ああ、もうお腹いっぱいですぅ。幸せでずぅ」
 無駄な肉の一切ない平らな腹を撫でながら、ビスキュイは満足そうに微笑した。
「あらためてただいま、ビスキュイ。いつも世話をかけるな」
 ティアが抱き締めると、ビスキュイは青白い顔を真っ赤にして首を振った。
「うあぁ、ティア様ぁ、そんなことしたら幸せで死んでじまいまずよぉ」
「あはは。お前に死なれたら、ノースランドは保たない。頼りにしてるんだぞ」
「誠心誠意、お仕えしまずぅ」
 異形と言っていい外見と裏腹に、ビスキュイの内面はおそらく、アナベルが見てきた人間の中で、最も純粋な一人だった。いや、純粋過ぎる。ゆえにどんな汚れ仕事でもできるのか。
 アングルランド北部、ノースランドは叛乱の地盤作りにあたって、ビスキュイの力を借りた。敵対的な小領主の多くを彼女は脅し、あるいは暗殺してきた。その病的に白い肌に、目には見えない多くの返り血を染み込ませているのだった。
「調略の進捗は・・・いや、お前の報告書は細か過ぎるくらいで、今更それを聞くこともないな。が、今晩は直接聞いておきたいことがある」
 ビスキュイの忍びの伝達網は、今のところ完璧である。アングルランドの”囀る者”たちですら、それを看破できた気配はない。逆に言うと、万が一にもそれが破られた時に備えて、この二人には直接やり取りしなくてはならない、最重要の機密事項があるということだ。
「”同盟者”殿は、まだ動けぬのか」
「うぅ、あぁうぅ」
 ノースランドの叛乱を、陰から支える同盟者。本来であればアングルランドがパリシを包囲していた間隙を突いて、動き出すはずだった。
「ず、ずみません。エニス島が大きく動けなかったことで、機を逸したと申し上げておりました。すみません。ずみまぜぇん・・・!」
 平伏、それも地面を額に擦り付けるようにして、ビスキュイは謝罪の言葉を繰り返した。
「そうか。残念だが、ビスキュイ、お前を責めてるわけじゃない。ほら、そんなことをしたらお前の綺麗な顔が汚れてしまう。どうか、顔を上げておくれ」
 言ったティアに代わり、アナベルがその手を取る。鼻をすすりながら、ビスキュイはアナベルの手を両手で包み込んだ。
「エニス島については、私から説明を。要はティア、あなたのような絶対的なリーダーがいないのよ。あなた程ではないにせよ、島内を取りまとめられる人間は何人かいるはずだったのに、その芽は全て摘み取られてしまった。主だった候補は、”囀る者”たちによって、消されたのよ。殺され、あるいは行方知れずに」
 ビスキュイがいなかったら、ティアもまた、今頃消されていたに違いない。
「アングルランド国教会を押しつけられたことで、民の怒りはむしろノースランドよりも強いくらいよ。暴動、焼き討ちは横行していて、アングルランドも手を焼いてるみたい。ただ、エニス島としての叛乱軍というものは、組織に至っていないわ」
「そうだったのか。万事上手く行くとは思ってなかったが、エニス島がその一つだな。小規模でも、軍と呼べるものを集め、歩調を合わせてほしかったのだが・・・」
 ティアが、こめかみを押さえる。疲労も心労も、並大抵のものではないだろう。いきなり疲れた顔を見せた妹に、アナベルは自分の不甲斐なさを痛感した。
 私が、戦場に立てたら。妹ほどでないにせよ、せめて一兵士くらいに剣を振れたら。病弱な身が恨めしかった。この城から出て近隣の町を回るのも難しいくらい、アナベルは生まれつき身体が弱かった。
 ノースランドの再独立は、先代王であった父の悲願だった。その夢は、アナベルが引き継いだ。
 しかし父は若くして病に倒れ、アナベルもまた、いつ病に散るかわからない身である。
 二人の夢を、ティアが引き継いだ。子供の頃から二人の話を熱心に聞いた。お転婆だった彼女はよく城を抜け出し、民とも語り合った。そこで民にも、その数だけ夢や、願望があることを知った。
 実際のところ、ティアはノースランド独立に強い願望を抱いているわけではないことに、アナベルは気づいていた。その夢が自分のものでなくとも、しかしティアは夢の伝導者であった。父と姉の分だけでなく、多くの者の夢を、その小さな身体で背負う。そして全ての夢の集まる場所こそがノースランド独立という一点に収束することを悟った。
 それで全ての願望が満たされるわけではないと知っていても、その無数の光が全ての民の笑顔に繋がっていることがわかっている。
 ティアは、光を束ねた。だからこそこんなにも力強く、光り輝く存在になったのだろう。
 本来はアナベルの夢、民の夢。そして全て叶えるのがティアの夢。
 ノースランドは今、歴代で最高の王を玉座に仰いだ。この叛乱はだから、絶対に敗れることがあってはならない戦いなのだ。
 自らに鞭を入れるような笑顔で、ティアはアナベル、ビスキュイを見つめる。
「そういうことなら、仕方ない。機が熟すまで、私は戦い続けよう」
「あ、あの、そのことですが、一つ、考えているこどがありまずぅ」
「どんなことでも聞くぞ。それは、私自ら動くことか?」
「はいぃ。あの・・・”ホットスパー”をこちらに動かすことはできないものでしょうか」
 思わず、ティアと顔を見合わせた。今まで、考えもしなかった調略である。
「詳しく聞かせてくれ」
 大陸五強の一人、”熱風拍車”ことウォーレス伯は、アングルランドが誇る最強の名将である。そしてこの叛乱の鎮圧に、最前線で駆り出されている将軍の一人だ。アングルランド軍の元帥こそ”黒帯矢”エドナだが、最も獲るべき首は、ウォーレスである。どんな形であれ、かの将が欠けることがあれば、鎮圧軍の力は半減する。
「ウォーレス伯の母君はノースランドの貴族、それも私たち王家の傍流に当たるわ。無論、今のような事態は想像していなかっただろうから、ウォーレス伯の父君もそんなつもりで結婚したわけではないだろうけど。ただ単に、まだアングルランドの一部であるノースランドの貴族の娘と結ばれた、程度のものだったと思う。ただもう他界してるその父君には、ノースランドへの架け橋か、懐柔か、ともかくそういう考えはあったと思う。母君については詳しく知らないけど、そういった考えには気づいていたと思うわ。けれどもう、二人は天に召されている」
 ウォーレスとノースランドには、切っても切れない縁はある。確固としているにも関わらず、しかしそれは今、限りなく細い糸にしか見えない。
 ビスキュイが続ける。
「ノ、ノースランド軍との戦闘では、敗走した部隊を追撃することはほとんどありません。同胞を討っているという思いが、ホットスパーにはあると思われます。ウォ、ウォーレス伯は、あまり内面を表に出しません。しかしこの部分についてだけは、確信を持って言えますぅ」
「確かに負けても、追い散らされるだけという印象はある。かの将が強過ぎるので、私がそう感じているだけかなと思っていたが・・・」
 不意に、ティアの顔が将のそれとなる。アナベルはこういうティアの表情を、あまり見たことがなかった。戦場ではいつも、こんな鋭い目をしているのだろうか。
「ず、ずみません。まだ思いつきの段階で、何をどうしたら良いのか、段取りはなにもありまぜん。けれどティア様がその気になられた時に、直接の面会の機会は作れると思います。その際のティア様の警護も、万全にぃ」
「ふむ、何を考えてウォーレス殿がこの戦に臨んでいるのか、少し知りたいような気がしてきた。こちら側へ引き入れるというのは極端だが、ノースランドと縁のある将兵の一人や二人、味方になってくれる者がいるかもしれない。兵にもノースランドと関わりのある者がいて、それが他の部隊との軋轢になっているとも聞いたぞ」
「その噂は、本当のことです。というのも先日少しけしかけたら、部隊同士の流血沙汰になってじまいまじて」
 それは汚いやり口なのだろうが、こういうことをビスキュイに任せている時点で、アナベルも同罪である。いや、手を汚していない分、アナベルの方が罪が重い。
「余計なことを、とお前に言ってしまうのは、酷かな」
「私が命じたことよ、ティア」
「い、いえ、私の調略のひとづでしてぇ」
「それに許可を出したのは私よ、ビスキュイ。それが罪というのなら、私が背負うべきもの」
「やれやれ、それは女王たる私の責任でもあるのだぞ」
 ティアが苦笑する。この妹はまた、全てを背負うつもりでいる。
「違うのよ、ティア。あなたはもう、充分過ぎるほど背負うものを持っている。私にも、いいえ、あなたが背負うべきでないものは、私にも背負わせて」
 女王は目を閉じ、やがてひとつ息を吐いた。
「そうだな。進んでそれを成す者がいるというのなら、信頼して任せるのも、上に立つ者の役目だな」
 やはり、ティアは女王を演じている。自分を納得させるような物言いは、ティアの本音が透けて見えた。
「わかった。密会の手筈は整えてくれ。ビスキュイ、大仕事だぞ」
「はいぃ・・・ですので、今回は直接私が現地に赴きます。後は、お任せをぉ」
「そうか。よし、じゃあ私は現地でお前においしい店を紹介するぞ。お前の大好きな、ビスケットのおいしい店をな」
「うぅあぁ、それは楽しみですぅ。楽しみ過ぎまずぅ・・・!」
 ティアに釣られて、アナベルも笑う。ビスキュイは顔を赤らめながら、肩にかかる銀髪を指でこすり合わせている。
 事態も戦況も、薄氷の上に立っていることはわかっている。アナベルの身体も、いつまで保つかわからない。それでも。
 この夢は、私を生きさせる。
 叶うまでは決して死ねないと、アナベルは胸に誓った。

 

 夕方から振り始めた雨の割に、店は活況だった。
 蜜蜂亭である。客の入りは六割ほどか。午後八時。終課の鐘(午後九時)が鳴る頃には、食べ物を頼む客はほとんどいなくなる。今いる客も、酒のお代わりか簡単なつまみしか食べないだろう。アナスタシアはそれとなく客の様子に目を配っているが、今のところ呼ばれる気配はなかった。
 この店の売り上げの半分以上は昼の二時間で上がることは、働き始めて初めて知ったことだ。
 店の前が波止場であり、港湾労働者が昼飯を求めてやってくるのだ。川沿いの店は一軒ではなく、西の大通りを挟んだ先には食堂が並んでいるが、東側、蜜蜂亭の側には、ここ以外に東隣のパン屋しかなく、後は川沿いに倉庫街が広がっている。そちらには荷下ろしに邪魔にならない程度にぽつぽつと屋台が出ているだけで、要はきちんと座って食事の取れる店として、蜜蜂亭は絶好の立地にあるのだった。
 それで、蜜蜂亭の主人、ロズモンドが夜に様々なメニューを試している理由がわかった。夜の常連というのはそれ程多くなく、また彼らが食べるものは大体決まっている。それらをメニューから外さなければ、他のものに関してはある程度冒険できるというわけなのだ。そして常連の中にも、様々な変わったものが食べたいという客がいた。以前この町に逗留した時は、アナスタシアもそういった客の一人だったわけだ。
 そもそもロズモンドには様々なメニューに挑戦したいという願望があり、それを可能にしたのがこの店の立地ということなのだろう。
「アナスタシアちゃん」
 常連の一人が、空のカップを軽く振る。この客はビールしか飲まない。
「はい、只今」
 カウンターの中に入り、樽に刺さった蛇口を捻る。始めはカップを傾けて蛇口に近い所でビールを受け、徐々に底の方へ、木のカップを正対させていく。これで、上部に綺麗な泡の層ができるのだった。
「お待たせしました。空のカップとお皿、お下げしますね」
 卓に置かれた銀貨と共に、食器を下げる。扉の方で客と話しているジジの笑い声が聞こえた。アナスタシアもたまに客と話すことがあるが、まだ自分から話しかけるのは不得手だった。無論人見知りする性格ではないが、日常会話なら不便はないと思っていたアッシェン語も、客と長く話そうとすると、まだまだ不自由を感じるのだった。接客の会話には独特の調子があり、いちいち知らない言葉の意味を聞いていては、くつろぎに来た客にとっては煩わしいだけだろう。わからない言葉は折りに触れ、ジジに聞くようにしている。
 厨房の中に入る。アナスタシアはまだ、調理をするという意味での”厨房”に入ることは許されていない。しかしこの店はカウンターの向こうが既に厨房であり、そこには保冷庫や洗い場もある。皿洗いはもちろん、いくつかある保冷庫の氷を取り替えるのもアナスタシアの仕事だった。ジジが分担しようと提案してくれたが、力仕事や単純な仕事は、志願してやっている。二人に媚を売っているわけではなく、明らかに腕力のあるアナスタシアの方が、こういう仕事は速いからだった。ある意味、こういう仕事だけが今のアナスタシアの強みでもある。
「よく働くな。朝も身体を動かしているんだろう」
 珍しく、ロズモンドの方から話しかけてきた。業務以外で声を掛けられるのは、ほとんど初めてといっていい。
「少しでも、この店のことを知りたいので。発見が多いです」
「今日の客は、もう飲み物のお代わりしかしてこないだろう。ピーナッツも既に仕込んであるものがある。客に呼ばれるまでは、のんびりしてていいぞ」
 言って、ロズモンドはパイプに火を着けた。紫煙を吐き出しながら、油で汚れた天井を見つめる。
 店内に目をやると、ジジが手招きをしていた。その指には既に紙巻き煙草が挟まれている。二人とも、店の呼吸のようなものがわかるのだろう。
 暖炉近くの壁に寄りかかり、アナスタシアもパイプをくわえた。炉の燃えさしで、それに火を着ける。
「あらためて、この店をロズモンド殿とジジで回していたのは、大変なことだったのだと気づかされたよ」
「そう? あんたのおかげで夜の客は二割くらい増えたけど、このくらいなら裁けないほどでもないし。まあ慣れちゃったからね。本当にヤバい時は、隣りのリーズが手伝ってくれたりするのよ」
「パン屋の娘の? 朝は早いんじゃないか」
「だから、夕方とかね。遅番で忙しくなるのは、やっぱその辺だし」
「おとなしそうな娘だが、こういった店の接客もやるのか」
「パン屋の時と一緒で、あんたより無口だから、心配しなくていいわよ」
 大口を開けて、ジジが笑う。
「アッシェン語はまだ苦手でな。ジジも教えてくれるし、段々と慣れていくと思うが」
 今ジジと話しているのは、共通語である。
「共通語に、母国語がスラヴァル語なんでしょ? 加えて、アッシェン語も話そうとしてる。あたし、共通語とアッシェン語の二つだけよ」
「挨拶や、物を買う程度なら、グランツ語も少しは話せる。後はラテン語かな。古語の方じゃなく、今の。これもちょっとした日常会話程度だが」
「わお。どこで覚えたの?」
「傭兵団には、様々な者が流れ着くんだ。そういった者たちと焚き火を囲んでいると、少しずつ覚える。またそういう者たちは共通ごと混ぜて話してくるから、余計に覚えやすい」
「はあぁ。やっぱあんたって、見た目の印象と違う人間なのよねえ」
 客が呼んでいる。ジジは灰皿に吸いかけの煙草を残して手早く仕事を済ませ、こちらに戻って来た。
「ああ、私もここでは紙巻き煙草にしようかな。こういう時に、便利そうだ」
「パイプ用の灰皿が、確か倉庫のどこかにあったような気がする。ここに来る客は紙巻きか煙管が多いし、マスターも底が欠けたカップを置き場所にしちゃってるけど、ちゃんとしたヤツは地下にあったよ。今度探しとく」
「すまない。よければ、こちらで用意してもいいよ。パイプを吸う客が来ることもあるだろうから、二つばかり、見繕ってくる」
「じゃ、頼むわね。二つともこっちでお金出すから、備品扱いで。それはそうとさ、あんた、この店に来る客で、好みのタイプに近いのっているの? 私そういうのは目が利く方だとおもってるんだけど、あんたはさっぱりわかんなくてさあ」
「タイプかあ・・・あまりそういう目で客を見ることがないからな。少し、考えてみよう。ええと、うーん・・・」
 常連の顔が、何人か浮かぶ。働き始めて二週間が過ぎようとしているが、名はわからないものの、どんなものを頼むかくらいは把握しつつあった。
「名は知らない。聞かれてもまずいしな。それで構わないか?」
「問題ないわ」
「あそこに座っている、あの男。扉の近くの、黒髪の」
「若い方ね。へえ、ああいうのが好みなんだ。わかるような気がする。結構ハンサムだしね」
「それと、今日は来ていないが、目の前の席に座ることが多い、口髭の男」
「ん? 随分年齢差あるわね。五十は超えてるわよ」
「年齢はあまり気にしないんだ。あとは・・・」
「まだいるの?」
「実際に惚れているわけではなく、タイプだろう? 今惚れている男はいないよ」
「わかった。後は誰?」
「今カウンターの三番に座っている、くたびれた感じの」
「市庁舎に勤めてる彼ね。んん、これで完全にわからなくなったわ。顔、年齢、体型、全部違う。三人に、共通点ってある?」
「ある、ある。あくまで印象だが」
「うーん、ちょっと待って。ってなんか、クイズ遊びみたいになってきたわね」
「十、九、八・・・」
「あ、制限時間まであるの? うーん・・・ああ、駄目。あんたの好み、さっぱりわからないわ」
「ヒントはいるか」
「いらない。さっさと教えて」
「夜が、強そうじゃないか?」
 ジジは、飲みかけていた水を、盛大に吹き出した。
「あはっ、げほっ、んぐぅっ、あははははは!」
 店内の目が、一斉にジジに注がれる。アナスタシアは厨房の方を見つめて、素知らぬ顔を決め込んだ。
 ひーひーと腹を抱えて座り込むジジが息を整えるまで、五分はかかっただろうか。アナスタシアが食器を片付けて帰ってくると、ジジは涙を拭いながら新しい煙草に火を着けているところだった。
「いやー、笑った笑った。確かにみんな、絶倫感盛り盛りだわ」
「男は、顔や年齢じゃないよ」
「ひひっ、もうやめて。そんな真顔で言われたら、当分あの人たち見る度に思い出し笑いしそうだから」
「今の三人の相手は、私がするよ。卓の担当が乱れてしまうけど、いいかな」
「いいわよいいわよ。その三人のチップも、あんたのでいい。アナスタシアのこと、またひとつわかった気がする。あんた、見た目と中身、ホント違うわね。いや、この店の常連だった時から気づいてたけど、こういう話するとホント、あんたって・・・」
 言いかけたジジは、またも座り込む。
「アナスタシア、水」
 厨房のロズモンドが、飲み水の入った樽を顎で指し示す。
「すぐに、用意します」
 樽の一つは、ほとんど空だった。担ぎ上げ、中庭に運ぶ。ここは東隣のパン屋、北隣の肉屋と共用の中庭だった。
 残った水は捨て、井戸から新しい水を汲み上げる。ポンブ式なので、見る間に樽はいっぱいになった。しっかりと蓋をし、厨房の所定の場所に運ぶ。
 その横には上水道の蛇口があるが、こちらは店の南のマロン川ではない、町の北の川から直接引いたもので、飲み水として使えないこともないが、大抵は食器や食材を洗うのに使う。今晩は雨なので、明日の上水道は濁ってしまい、食器を洗うのがせいぜいだろう。その食器も、最後は綺麗な水ですすがなければならない。ガラスのコップで、水がどんな状態か確かめる。今の段階では、食材を洗うところまでは問題なさそうだ。
 こんなことを考えているのが、アナスタシアにとってはたまらなく楽しかった。店を回す。ただ美味い料理を作れれば店を出せると思っていた自分が、少し恥ずかしくなってくる。貯めた金ですぐに店を出していたら、あっという間に潰れていただろう。傭兵団を組織するのと同じで、覚えること、考えることはいくらでもあった。あちらは大まかな指示を出せば細かいことは部下がやっていたが、自分が出す予定の小さな店では、そういうわけにもいくまい。今アナスタシアは、店の回し方を学んでいる。
 地下の倉庫に、いくつか大きめの樽が余っている。店を閉めた後は、それらに井戸水を貯めておいた方がいいかもしれない。その前に、まだ使える上水道で、樽を洗っておく必要があるだろう。
 そのことをロズモンドに話すと、彼は相変わらずの仏頂面で頷いた。
「気が利くな。頼む」
「はい。お客さんが帰った後に、やっておきます」
「少し、店のことがわかってきたな」
「ありがとうございます。まだ肝心なことは何もわかっていないと痛感していますが、そう言って頂けると、励みになります。嬉しいです」
 言うと、ロズモンドは少し虚を衝かれたような顔をした。
「嬉しいなんて言葉を聞けるとは、ちょっと意外だな」
「嬉しいですし、楽しいですよ。こういう店を、私はやりたいんです」
 ふん、と鼻を鳴らし、ロズモンドはそれには返事を寄越さなかった。

 

 雨が、上がった。
 マイラはずぶ濡れの外套を脇に置き、再び屋根の上に腹這いになった。
 パリシ、商業地区の一角。まだ雲に隠れた月を逆に照らさんばかりに、大通りは光を放っていた。手にしていた望遠鏡を、覗き込む。
 “囀る者”たちから、マグゼらしき人物が数人を連れて、あの高級レストランに入ったと報告があった。商家の者はもちろん、諸侯や役人たちも利用するレストランだ。五、六人が密談できるような個室がいくつもある。
 マグゼは変装の達人なのですぐにそれとはわからないが、傍に控えていた背の高い女は間違いなくその用心棒格、ゾエだということだった。逆算して、背の低い娘はマグゼなのではないかと推測した。他の人間は馬車からすぐに店に入ってしまった為、誰なのかの推測も難しいということだった。見張りを立てていたわけではなく、たまたま通りがかった部下が見つけた情報。情報の精度が低いのは当然で、むしろ引っかかるものを見つけてくれたその部下の幸運に感謝したい。
 話を聞いて、マイラには感ずるものがあった。マグゼとゾエがパリシにいることに不自然な点はない。部下や協力的な諸侯と会っていたとしても、彼女の日常的な仕事の範疇を出るものではない。そこから新しい情報は出てこないだろう。しかし、何かがマイラの気持ちに引っかかる。勘のようなもので大した根拠はないが、マイラの勘はよく当たると、自身では思っていた。
「長いわねえ。裏口からも連絡ないし」
 すぐ傍でマイラ同様監視を続ける、キャシーが言った。病は癒えたようだが、雨上がりの夜風は身体に障るだろう。もう、秋の気配が濃くなってきている。
「ここからは、私一人でいいよ。キャシーはまだ病み上がりだし、大事にして」
「ええっ。せっかくここまで待ったんだから、もう少しいるわよ。それに病気してる間も、各地を飛び回ってたんだから」
「そうだったね。でも、少し心配だよ」
「ふふ、ありがと。今のマイラちゃんの一言で、元気出ちゃった」
 ちろりと桃色の舌を出して、キャシーが笑う。それに微笑を返して、マイラは望遠鏡に目を落とした。
 敵の忍びの頭の位置を押さえておけば、ぼんやりとだが、やりたいことや、やろうとしていることは見えてくる。忍びの考えていることは、推測の材料が少ない。動きを見て判断するしかないわけだが、一番に知っておくべきは、やはり頭領の動きだった。同様に、マグゼもマイラのことは必死に探しているだろう。まさか、またパリシに来ているとは思ってもいないだろうが。
「ねえ、あれじゃない? ああ、ゾエがいるもの。間違いない」
「意外ね。変装してない」
 レストランから出てきたのは、おそらく素顔に近いであろう、マグゼだった。ハーフリングの忍び。人間の子供に変装していることが多いが、今は胸の膨らみを隠していない。
 共に出てきたのは、見間違えようのない特徴を持つ女、ゾエ。この女は変装をすること自体が少ないが、185cmと推測されるあの高身長では、化けられる人間の種類が限られている。男に変装することが多いようだが、男でも充分高身長で、すなわち目立つ。今はまったく変装の気配がないのでもう一つの特徴、あの荒んだ目つきが彼女であることを決定づけている。
 次に、誰が出てくる。マグゼが変装していない以上、次に姿を現す人間も、変装はないと考えられる。
 停まっている馬車の列。どれもありふれた辻馬車に見えるが、一台だけ、どこか作為的なものを感じた。たった今やってきたものだが、御者はかなりの使い手とみた。車内に四人は入れるような中型のもので、店内にいる要人を迎えにきたのだろう。最低一人以上、中にも手練が乗っていると想像できる。
 一人。出てきたのは金髪を後ろに束ねた女だった。胸と尻の張り出し具合。そして何よりもはっとするような美人であり、ゾエとは違った意味で、一度見たら忘れられない女だった。眼鏡が、よく似合っている。
「あれは、誰かしら。私は初めて見るわ。マイラは?」
「多分、王家の忍びだった、シモーヌだと思う。忍びは引退して、父と一緒に探偵社をやってるって報告があったけど」
 ということは、次に出てきた黒ぶち眼鏡の中年男は、マティユーその人なのだろうか。状況を推測する前に、マイラは思わず舌打ちをした。
 中年の小男。黒ぶち眼鏡。それ以外の特徴が、何もない男だった。あの眼鏡を外しただけでマイラはこの男を見失うか、中年の小男全てがマティユーに見えてしまうだろう。
「あれがマティユーだと思いたい自分と、信じたくない自分がいる。キャシーから見て、あの男に何か特徴ある?」
「・・・ないわね。感心するくらい何もない。多分今の身長は155cmくらい。やだ、小男を見る度に彼かもって警戒しちゃいそう。踵の高さは、わからないように変えようとするなら、プラス10cmくらいかな。もっとも、今の時点で変えてるかもしれないけれど。あそこまで特徴を消せるなら、三十歳から八十歳くらいまで歳を変えられそうね。やだ、変装だけが私の取り柄なのに、自信失っちゃいそう」
 キャシーは時間を掛ければ、顔だけでなく耳の形、体格まで変えられる特異体質で、まさに変装の為に生まれたような才能の持ち主だ。それはもう変身といっていい。
 素体そのものを自在に変えられるからこその達人なわけだが、あのマティユーには素体そのものがないような、得体の知れなさがある。
 さすが、王家の忍びの頭領を、長くやってきただけある。マイラがあの男に勝てるのは、純粋な戦闘能力だけかもしれない。いや、と思い直す。王家の忍びは一度解散している。野に下って、戻らない者もいるだろう。囀る者の組織力なら、あるいは。
「次は・・・ああ、なるほど」
 少し派手なドレスを着た女が、ハイヒール独特の歩き方で店から出てくる。これは、二人ともよく知っている。”アッシェンの光”と称される、宰相ポンパドゥールだ。”鴉たち”、王家の忍び、アッシェン宰相府。この三つは共闘関係を築いたのだろうか。ここしばらく王家の忍びに代わって、鴉たちがアッシェン政府に協力していることは知っている。それはそれで厄介だったが、鴉たちだけで自領ゲクランのみならず王家の仕事をこなすのは無理だと思っていた。前作戦から人数は増やしているだろうが、元々少数精鋭の忍びである。人手が必要な時だけ、流しの忍びを使う程度だった。
 先王との不仲で解散した王家の忍びが復活とあいなったら、これは面倒なことになる。両忍びとも、これから組織作りに着手していくのだろう。そこに、宰相府が金を出す。こんな流れが想像できた。その為の、話し合いの場だったということだ。
「最後に、お出ましね」
 アッシェン王、アンリ十世が姿を現す。幼王などと言われていたが、十二歳という育ち盛りだ。数ヶ月前に見た時とは、印象が違っていた。身体の成長もあるだろうが、立場が、以前になかった風格を与えつつあるのか。
 アンリとポンパドゥールは、例の違和感のある馬車に乗って、大通りを去った。なるほど、ここからシテ宮殿までは遠くない。路地という路地に、忍びを配することができるだろう。警護は万全というわけだ。
 残った四人は、しばらくの間、談笑していた。マティユーと思われる男の姿を少しでも目に焼き付けようと努めたが、やはり特徴を記憶するのは難しそうだった。
 やがてマティユーとシモーヌも、馬車に乗り込んだ。東、探偵社のある方へ馬車は進んでいき、やはりそこはアジトの一つにしているのだろうとわかった。
 マグゼとゾエは、徒歩で帰るようだった。路地に消えるまで、二人の姿を達眼鏡で追う。
「大収穫ね。アッシェンの忍びたちは、王の元に共闘関係を結んだと思って間違いない。頭の痛い話ねえ。あらマイラ、もう帰らないの?」
「もう少し。多分、あの路地に消えると思うけど」
 マグゼが話し、ゾエはただ頷いていた。俯いて見えるのは、二人の身長差だ。
 二人が、路地に消える。思った刹那、ゾエがこちらを振り返った。
 目が、合う。
 いや、ありえない。直線距離で500mは離れており、加えて下からの街路の明かりで、この屋根の上は完全な死角になっている。見えているわけがないのだ。
 勘のようなものだろう。こちらは様子見で、殺気すら出していない。それでも達眼鏡越し、ゾエの視線はマイラを刺し続けている。
 強いだけの女ではない。勘のいい女だ。
 マイラがゾエの認識をあらためていると、マグゼに袖を引っ張られたのだろう、少し体勢を崩しながら、ゾエは影の中へ消えていった。

 

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