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プリンセスブライト・ウォーロード 第14話
何か悪鬼のようなものに、一瞬で軍を喰らい尽くされた

 

1,「一度だけ、思う様、自分の戦をしようと思っている

 天幕の中にいても、朝の清澄な空気を感じた。
 軍議用の天幕だが、今ここにいるのはアルフォンス一人だった。
 “南の戦線”と呼ばれるこのアッシェン南部の戦線は、間もなく崩壊を迎えるだろう。総大将ブルゴーニュ公から作戦参謀を任されているアルフォンスにとっては頭の痛い戦局であり、また、今後の身の振り方も考えなくてはならない時期に来ていた。
 一つだけ、ほんの僅かな希望があるとすれば、あのアッシェンの常勝将軍の一人、リッシュモンがアッシェンに復帰、援軍を連れてこの戦線にやってくるということだけだった。もっとも、率いてくる兵はリッシュモン軍の五千のみ。アルフォンスが期待しているのはその兵力ではなく、リッシュモンの総大将としての軍略である。やはりこの南の戦線はゲクラン、リッシュモンという双璧の内一人はいないと、維持できない。実際、二人が抜けてからは敗戦続きであった。
 先触れによると、今日の昼前には、到着予定である。
「おはようございます。また徹夜ですか」
 そう言いながら天幕に入ってきたのは、アルフォンスの副官であるフェリシテだった。肩の手前で切り揃えた黒髪、縁のない眼鏡に軽く手をやる仕草はいかにも才女然としているが、実際は少し気性の荒いところもある上級騎士である。準男爵であるアルフォンスの方が身分が上なのでフェリシテが副官として下に着いているが、フェリシテは名家シャトールー家の名代としてここに参戦しており、率いている兵は多い。実際、アルフォンスの兵の大半は、シャトールー軍という有様だ。
「二、三時間は眠れたよ。まあ、さすがにこの戦況でぐっすりというわけにもいかない」
「輜重隊の書類は、私が確認しておきます。参謀はどうぞ、作戦の方に集中して下さい」
「いやあ、いつもすまないね」
「・・・何かその言い方、引っかかりますね」
「え、気の障るようなことを言ったかい?」
「いえ、こちらの問題ですので、気になさらず」
 わずかに頬を紅潮させながら、フェリシテは書類の束を広げた。この副官との付き合いは長く気も通じていると想うが、時折、よくわからないところで臍を曲げることがある。
「ん、やはり怒らせるようなことを言ったかな」
「いいえ。ああ、喉が渇いてきました。参謀もそうでしょう? 外で小姓が湯を沸かしていました。あ、私は紅茶で」
「僕もたまには紅茶にするかな。淹れてくるよ」
 席を立ち、首を回す。極力平静を保つよう心掛けているが、やはり崩壊寸前の戦線を抱えているというのは、常に重圧なのだ。少し首を傾げただけで肩から、骨を折ったかと思うくらい、大きな音がした。
 天幕の外にも、見えない悲壮感は漂っていた。朝食の準備を始めている兵の一団の方から笑い声が聞こえるが、その響きにはどこか、やるせないものが混じっていた。
 午前は、雑務の傍、作戦立案に集中した。いつの間にか朝食を摂っていたようだが、皿を片付けて小姓に手渡すフェリシテの様子を見るに、彼女が用意してくれたものかもしれない。アルフォンスが特に戦場の食事に頓着しない性質なので、食事の指示は、大体フェリシテが直接小姓に指示を出していた。アルフォンスは自分の天幕にいる時には、兵と同じものしか食べない。
 昼が近づく頃、僅かだが外から軍楽隊の演奏が聞こえてきた。その楽曲に、懐かしさを感じる。陽気な旋律なのに、物悲しさも感じさせる曲。リッシュモン軍のものであった。
 甲冑の音を高らかに鳴り響かせ、それは天幕に近づく。外にいる小姓の誰何がなかったのは、彼女が誰か、その特徴的な風貌から決して忘れることがないからであろう。
「よう。リッシュモン、ここに参上した。アルフォンス、起きてるか?」
「起きてますよ、失礼な」
 リッシュモンの一言は、アルフォンスの細い目を揶揄してのものである。端正な顔立ちと相反する、恐ろしく悪い歯並び、加えて口調の荒さからリッシュモンはよく、口を閉じてさえいれば美人、とよく評される。
 アルフォンスも何かやり返してやろうかと思ったが、先の展開を想像して、踏みとどまった。リッシュモンの悪い口は、同時に達者でもある。
「フェリシテも相変わらずか。あっちの方は、進展あったの?」
「リッシュモン殿、率いてきた兵力は?」
「五千くらい出そうと思ってる」
「くらい?」
「五千でいいよ」
「民の方は? 二万近くいらっしゃると思いますが。前回滞陣時には、二万と八十九人と伺っております」
 リッシュモンは流浪の民を引き連れた、領地なき領主だった。
「近辺に、散らしてる。千人ばかり、娼婦とか物売りとか屋台とかが、お前たち相手に商売してると思うけど」
「ばかり?」
「そこまで把握してねえよ。ったく、お前は相変わらず細かいなあ! そんなことだから、いつまで経ってもあっちの方が・・・」
「それにしても、お早いご帰還ですね。三、四年は騎士団領の方から戻られないものかと。それと、パトロンはどうされました? ブルゴーニュ公を除いて、民を含めたあなたたちの面倒を見られる諸侯は見当たりませんし、公からもそういったお話は伺っておりません」
「新王に直接雇われた。民は自分たちだけで、食えるようにしてる。っと、そうだった。辞令を預かってるぞ。新王のものと、あと、推薦状があったな」
「ではやはり、リッシュモン殿がここの総大将に? いやあ、僕としては正直助かります」
「違うよ。どこしまったかな・・・ああ、ここにあった。くしゃくしゃにしちまってすまねえが、封蝋はなんとか生きてるな。これが辞令で、あたしの軍も含めた新編成だ」
 先に親書を受け取ったフェリシテの目が、大きく見開かれる。
「これは・・・参謀、見て下さい」
 アルフォンスはまず自分の立ち位置を確かめる為、新編成、階級一覧を、下から見た。準男爵である。最後尾から見た方が早い。
 が、少将ポワティエ伯ザザ、中将ブルゴーニュ公ジョアシャンと上がっていっても、まだ自分の名を見つけられない。いよいよお払い箱かと残念さよりも安堵感が身を包み始めた直後、アルフォンスはそれを見てしまった。
「いやあ、これはいつものリッシュモン殿のいたずらでは?」
 大将、アルベルティーヌ・リッシュモン。同将は作戦参謀を兼務。さらに、その上。
「新元帥、ブラン準男爵アルフォンス。な? あ、お前って灰色の瞳してるんだな。思ったより綺麗な目をしてんじゃん」
「あ、いや、大体この国の元帥自体、ゲクラン殿お一人でしょう?」
「あいつも元帥のまんまだ。それに一人なんて決まりはないよ。お前は二人目で、ヤツと同格。南の戦線は、お前に託されたってことだ」
 人より冷静で頭の回転も速い方だと自負しているアルフォンスだが、しばらくの間、何も考えられなかった。
 いや、あるいは、これは・・・。
「そうか、これはここまで作戦参謀として負け続けて来た責任を、私一人に取れということですね。時期的にも、ちょうどいい。東洋で言うところの、ハラキリですか。いやはや、そういうことなら安心しました」
「違えよ。それにハラキリに安心すんな。なに、総大将のお前があたしを使って、この戦線一気に反転攻勢ってわけよ」
 事態はなんとなく理解できた。しかし心の方はまるで追いつかず、アルフォンスはフェリシテに、やや見当違いな質問をした。
「ああ、フェリシテ君。元帥って、何ができるのかな?」
「今できるのは、この戦線の編成権。ここにあるのは軍での階級のみですし、実地の編成そのものは、元帥が好きにできると思いますよ。ここに名があるのは爵位持ちの諸侯ばかりなので、それ以外の上級騎士、傭兵隊の編成等も、元帥の裁量次第かと。ですがこれだと総大将と変わりませんがあと二つ、一つは武勲に応じた階級の上下をこちらで決めて、それを本国に事後報告の形で上申できます。もうひとつ、宰相府に作戦に準じた予算案の提出ができます。アッシェン元帥には他にも様々な権限がありますが、この場ではまずこれらが、ただの総大将との大きな違いかと」
「そ、それは助かるね。いや、聞いた僕が悪かった」
「まだ元帥の副官として私を使って下さるのであれば、手始めにリッシュモン卿を一兵卒に落とすことを提案致します」
「あれ、君たちってそんなに仲悪かったの? いやいや、そういうことじゃなくて、ああっ・・・」
 文字通り、アルフォンスは頭を抱えた。
「新元帥就任だ。そこのお前、主だった将をすぐに集めてくれ」
 開けっ放しの天幕から、小姓が駆け出していくのが見える。しばらくして、しかし尚もアルフォンスが衝撃から立ち直る前に、ブルゴーニュ公ジョアシャンが、巨体を揺らして入ってきた。
「聞いたぞ。アルフォンス、お前だったらやると思ってたぞ! 実は俺も、お前のことは幾度も宰相府に伝えていたのだ。俺の兵を貸すから、こいつを総大将にしてやれってな。ま、俺一人の意見が聞き入れられたかはわからんが、とにかくめでたい。長年俺なんかの参謀をさせて悪かったなあ。これからは俺のことは顎で使ってくれ。ハッハッハ!」
 ブルゴーニュ公はこの戦線でゲクラン、リッシュモン不在時には、総大将を張ってきた大貴族である。ブルゴーニュ領は公国であり、ジョアシャンはその君主なのだ。本来は両常勝将軍がいる時にさえ、総大将にふさわしい序列と兵力を誇っている。
 が、諸侯としての格、見上げる程の巨体以上に、懐の深い人物だった。弱小貴族のアルフォンスを参謀にまで引き上げてくれたのは、まずその器の大きさによるものだった。その期待に応えられたとは、アルフォンスは思っていない。
「ん、アルベルティーヌ、お前またべっぴんになったなあ」
「よせやい。あたしのパンチを受けてみるか?」
 何故そうなる。次から次へと訪れる混乱を振り払うように顔を上げると既に、リッシュモンは拳を構え、ブルゴーニュ公もまた、両の掌をそちらに向け、拳を受ける体勢だった。
「打ってこい。おおっ、いいぞ。そろそろ俺のとこに嫁に来い。息子二人、好きな方を選ばせてやる」
「言うねえ。だがお断りだ。それそれ!」
 二人とも甲冑を着ているので、天幕の中は騒々しいことこの上なかった。次々と入ってくる諸侯も二人の子供じみたじゃれ合いを見て、大いに盛り上がっている。時折こちらに祝意を伝えてくる諸侯に、アルフォンスは頭を下げることで精一杯だった。
 周りに見つからないようさりげなく、アルフォンスは外へ出た。
 ちょうどこちらにやって来ようとしていた銀髪の将軍と目が合う。”ラ・イル”(憤怒)の名で恐れられる名将、ザザだ。今もこの名で呼ばれる彼女だが、現在は愁いを帯びた眼差しを持つ、物静かな女性だった。顔に残る大きな傷と、具足越しにもわかる鍛え抜かれた肉体がなければ、彼女が以前猛将だったことを想像できる者はいないだろう。
「新元帥就任、おめでとうございます。どこに?」
「すぐ戻ります。中が少々騒がしいもので」
 ザザは天幕の中を覗き込むと、微かな笑顔をこちらに向けた。彼女が笑うところを見るのは、初めてだったかもしれない。思わずどぎまぎとしたアルフォンスは、ごまかすように口を開いた。
「いやあ、リッシュモン殿が戻ると、やはり軍が活気づいて良いですね」
「それだけでしょうか。それと私に対してそのように丁寧な口調で話しかけなくても良いですよ、元帥」
「あ、ああ、かえって気を遣わせますかね。慣れるのに時間がかかりそうですが。考えておきます」
 もう一度微笑を浮かべたザザを見て、ひょっとしたらからかわれているのかもしれないと、アルフォンスは思った。
 天幕を離れ、兵の少ない所を目指す。本陣の柵にもたれかかり、一つ、息を吐いた。
 この戦線がどうなろうと、アルフォンスは死ねないと思っていた。死にたくないというよりも、亡妻の遺したまだ幼い娘を置いて、死ぬわけにはいかないという、父親としての強い思いがある。
 今朝、そろそろ今後の身の振り方を考えなくてはいけないと思っていたのも、そういうことだ。進んでアングルランドに寝返るつもりはないが、別段恨みがあるわけでもない。負けて捕えられた暁には、この戦独自の中立地帯、二剣の地の小領主として生きられる道はないかと、敵大将と交渉するつもりだった。弱小貴族としてそれができる交渉材料はないかと、必死に探していた。
 元帥。いきなりだった。自分に務まるかどうかよりも、突如として預かる命が増えてしまった。借り物だったフェリシテやジョアシャンの兵ですら、とにかく殺されないよう努めてきた。今ここにいるアッシェン軍は、リッシュモンのものを加えれば、五万を超える。さすがに全て守れないことはわかっているが、いかに犠牲を少なくできるか。そして、勝つか。それも今の劣勢を跳ね返すには、大きな勝利が必要だ。
 敵味方の編成、地形、補給。あらゆる要素が頭の中で渦巻く。こんな陽気のいい日にそんなことを考えている自分に、苦笑したくなる。
 肚を決めなくてはならないだろう。元帥が負けて、そのままおとなしく田舎に引っ込んでいますということが通じないことには、とっくに気がついている。
「ここにいましたか」
 背後から、フェリシテの声がする。
「少し、自分を取り戻したようですね。安心しました」
「わかるのかい?」
「ええ、あなたのことは、長く見てきましたから」
 言って、今朝のようにフェリシテは、眉間に皺を寄せて、顔を赤らめた。天幕から逃げてきたアルフォンスの不甲斐なさに、腹を立てているのかもしれない。
 アルフォンスは、天を仰いだ。溜息に聞こえぬよう、大きく息を吐く。
「覚悟を決めましたか」
「ああ、一度だけ、思う様、自分の戦をしようと思っている」
「楽しみです。それに、一度ではないですよ」
「勝てればね」
「本当は、勝つつもりでいる」
「負けると、殺されてしまうかもしれないからね。僕だけじゃなく、大勢が」
 敗戦すなわち、犠牲が大きいということだ。今までは作戦立案こそ任されていても、実地では自分の部隊以外の指揮権はなかった。なので、勝負がどう転ぼうと、犠牲の少ない作戦を献策していた。これからは、軍そのものの指揮を執ることになり、かつ勝たねばならない。
 戦は生き物で、初めに立てた想定通り動くことの方が少ない。綻びが出ることを想定して、誰を各部隊の指揮官とするか。誰に、どの程度の兵を預け、任せられるか。あるいは乱戦でも本陣からの命令を聞き、遂行できるのは。指示を待つことなく、その場での最適解を導き出し、動ける者は。反対に、どんな状況でもこちらの指示を待つだけの忍耐力を持つ指揮官は。組み上がる。僅かだった希望の灯火が少しずつ、アルフォンスの中で大きなものになっていく。
 勝とう。ようやく気負いなく、そう思えた。
「あの編成案に、君の名はなかった。後は、こちらで決めろということだったね。フェリシテ、これからも僕の副官を任せていいかい?」
「勿論です。元帥に、命を預けていますから」
「元帥か。まだ慣れないね」
「あなたに、命を預けていますから」
 言い直したフェリシテは、何かを思い出したかのように、天幕の方へ駆けて行った。

 

 調練と言っても、まだ身体を動かす程度だった。
 青流団から抜けてきた指揮官候補、特にアリアンを新兵徴募の部隊に出してしまっているので、基本的にアナスタシア自身が、集まった兵の調練を見なくてはならなかった。徴募隊はまだ戻って来ていないが、近隣や、噂を聞きつけた者たちは、集まりつつあった。
 兵舎の完成は思ったより早そうだが、それでもまだ少しかかる。幸い、集まった者たちはいずれも旅慣れていた。自前の天幕を持っている者も多く、足りない分はこちらで用意していたもので充分足りた。現在、ノルマランの東、作りかけの兵舎と城門の間では、天幕の集落のようなものが形成されつつあった。
 兵としての選別は、まだ行っていない。今ここにいるのは、三十人程か。百人になったら一度選別の試験をやってもいいだろう。落選しても留まりたい者がいたら、その者たちの仕事も用意しなくてはならない。もっとも、兵舎が完成した歳には、そこで働く者は大勢必要で、働き口はその先も、いくらでもある。
 自分の名で集まった者たちだ。できれば、この出会いの後に路頭に迷うようなことに、なってほしくはない。中には、ここを追い出されるとそのまま道を踏み外しかねない者もいる。賊になるならまだしも、自ら命を絶ってしまいそうな者だ。あるいは、そういった自暴自棄の道に走る者。
 特に、シュゾンというまだ十五歳の娘は、明らかにそういった気配を感じる。他は大抵傭兵、ないしは徴兵経験者の男だが、この娘は経歴もはっきりしない。選別時の個別面談の際に詳しく聞こうと思うが、今は簡単な日常会話も交わせない状態だ。調練の指示は聞き、挨拶には軽く頭を下げて返すが、会話をしようと思うと、何かどうしようもない壁のようなものに打ち当たり、やりとりが成立しない。心に大きな傷を負っていることだけは、わかる。調練にはなんとかついてこれるものの、気力だけで身体を動かしていた。肉付きも悪く、何故こんな娘がといった感じで、他の傭兵隊に入ろうとしても、門前払いを受けるだけだろう。明らかに、その存在は浮いている。
 彼女を含めた三十人の他に、町や近隣の村から、兵相手の商売をする者たちも集まってきていた。一つ、屋台も出ていた。甘い、食欲をそそる匂いがここまで漂ってくる。兵の食事はこちらで用意しているが、大柄な者などは、それだけでは足りないと感じているだろう。今日は出ていないが、煮込みを出す屋台も先日は出ていた。
 ノルマラン城に仕える騎士たちが、昼食の準備をしてくれていた。アナスタシアもその中に入って手伝っていると、アニータが屋台の焼き菓子を片手に、こちらにやってきた。
「ふあぁ、私、午後は何をするんでしたっけ?」
 欠伸を噛み殺そうともしない若き副官に、アナスタシアは言った。
「今日は上下水道の敷設の件がどうなっているのか、役所に聞いて来てくれ。そして急がせてくれ。午前中に役人が来るという話だったが、まだ来ていない。私は、二時にはここを出るからな」
「わかりましたぁ。ご飯食べたら行ってきまーす」
 充分寝ている様子だったが、それでもアニータは睡眠不足であるかのように、目をこすっていた。疲れが溜まってきているのだろう。若いのでこれくらいの仕事量はと思っていたが、逆に若過ぎるだけに、役人や職人との折衝は、気疲れするのかもしれない。
「いや、アニータ、今日は休んでいい。市庁舎には、私が蜜蜂亭に行く前に寄っていく。飯を食ったら、昼寝するなり何なり、好きにするといい」
「本当ですか? やったぁ! 私、町で行ってみたい店があるんですよ」
「急に元気になったな。まあいい。好きにして、英気を養ってくれ」
 頷いたアニータは手にしていた焼き菓子を頬張りながら、配食の列に並んだ。食べ盛り、育ち盛りだなとアナスタシアは思った。
 城門の方から、十騎程の騎馬がこちらにやってくる。手を上げると、先方も応えた。ゲクラン四騎将の一人にしてこの地の領主、パスカルである。
「どうです、万事順調ですかな」
 ずれた眼鏡を直しながら、パスカルが下馬する。
「まずまず、ですかね。一から傭兵団を立ち上げるのは初めてなので、勝手が掴めない部分はあります。これやあれが必要という部分がわかっているだけ、素人よりはマシだと思っていますが。ですがパスカル殿のご助力は、充分に過ぎる程です。概ね順調、と言い直しておきましょうか」
「ふむ、それは良かった。以後も、アナスタシア殿の思うようにやって頂ければ。そうそう今日来たのは、今の城代が引退することになりましてな」
「高齢ですからね。城代の執務の大変さは、拝見させて頂きました。そろそろ故郷に戻って健やかな余生を送ってほしいものです。後で挨拶に伺います。お世話になりました。城仕えの者たちを集めて、送別会のようなものを開きたいですね」
「相変わらず、気を配って下さる。私は先程、労ってきたところです。父の代からこの町の城代をしておりましてな。武勲なくとも、優れた行政官として尽くしてくれました」
「後は、彼のご子息が継ぐことに?」
「いえ、世襲ではありませんので実は、私の娘が。娘の話は、もうご存知で?」
 パスカルの息子たちについては、時折ノルマランの騎士たちの間で話題にのぼる。娘については、娘がいるという話以外は知らない。
「いえ、そのご令嬢が城代に」
「本人たっての希望でして。一応、軍務経験はあるので、傭兵団のことについても相談に乗れると思います」
「パスカル殿同様、かなり剣を遣えるということでしょうか」
「ハハハ、アナスタシア殿にそう言われましても。ただ、親のひいき目を差し引いても、素質はあった方だと思います」
「あった?」
「初陣で癒せぬ傷を負いましてな。将として羽ばたくのを見たかった一方、これで戦場に散る心配をしなくてよくなったと、内心ホッとしたものです。もっとも、本人の中では今も戦場に心を寄せているようですが」
「差し支えなければ、傷はどのような?」
「左の膝が、伸びなくなりました。落馬した際に後続の馬に踏みつぶされまして。最善は尽くしましたが、おかしな形で骨と腱が繋がってしまいまして。普段は松葉杖をついておりますので、遠くからでも彼女とわかります。ああ、年は今年で二十歳となりました。仕事のない時は同年代の娘として懇意にして頂ければ、親としては幸いです」
「わかりました。会うのを楽しみにしていると、お伝え下さい」
 パスカルが去る。名を聞きそびれたが、ドニーズという名だと、騎士の一人が教えてくれた。パスカルの娘なら、能力は低くないだろう。
 今の城代も中々の人物で、何より公正な男だとアナスタシアは思っていた。できればもう少し付き合いたい人物だったが、こういう別れもあるのだろう。
 食事を終えて一服すると、少しの間兵たちと談笑し、荷物をまとめた。鎧を鎧櫃に収め、調練場を後にする。城に荷物を預ける前に、風呂へ向かった方がいいだろう。市庁舎でどれだけ時間を食うかわからないので、先にできることは済ませておく。夕方からは蜜蜂亭での仕事、本業にしたい大事な仕事がある。その頃までには髪も完全に乾かしておきたい。
 浴場、大きな荷物を預けて脱衣所に入ると、隣りで服を脱いでいたのは、アニータだった。
「ああ、団長とここで会うなんて、奇遇ですねえ」
「今日は別行動の予定なのに、結局普段と変わらないな。いや、お前と来るのは一週間ぶりくらいだったか。今日は、どこかの店に行きたいと行っていたな」
「はい、突然の休暇に、私も俄然やる気になってます」
「なにか、おかしな言い方だな。そのやる気の半分は、明日の仕事に残しておいてくれよ」
「といっても、一応日暮れ前には一度、調練場の方に戻りますよ。団長いないから、夜の食事は私が監督してるんですからね」
「副官としての仕事だな」
「まあ、そうですけど。あ、こうして二人で来るのも久しぶりですし、お背中流しますよう」
「それは結局、お前の背中も流せってことだろう。まあいいさ」
 軽く汗を流し、湯船に浸かる。開店直後なので、まだ二人の他に客はいない。しばらく目を閉じていると、やがてアニータが口を開いた。
「あの・・・今日は、すみません。昼くらいまでは、本当に体調悪かったんですよ」
「だろうな。見てればわかる」
「でも午後はお休みって聞いたら、急に元気になっちゃって」
「嘘とは思ってないよ。人間なんて、そんなものだろう。ただ、気持ちが火をつけて、実際は疲れ切った身体に鞭を入れているだけかもしれない。午後は好きにしていいが、羽目を外すなよ」
「ええ、まあ一人で町を見て回るだけですし、そういうことはないと思います」
「ああ、そうか。今のお前には、友がいないのだな」
「うわあ、人を駄目人間みたいに言わないで下さいよ」
「いや、よく考えてみれば、今も、そして青流団の時から、お前の周りには大人しかいなかったのではないか。心細い思いをさせてしまったな」
「い、いえ、まあほぼ同い年の人は、新しく入りましたけど・・・」
「シュゾンのことだな。手に負えるか?」
 しばらく考えた後、アニータは首を振った。
「難しいですね。自分のことを一切話そうとしませんし」
「あれは、私が何とかする。傷が大き過ぎて、同年輩では難しいところがあるだろう。ともあれ今後は兵舎周りで働く人間に、お前程の歳の者も入ることだろうさ。どうか仲良くやってくれよ」
 湯船から上がり、髪を洗う。その頭に、細い指が添えられた。
「頭、洗いますよ。団長髪長いから、いつも大変でしょう」
「お前もそうしてほしいのか」
「いえ、私はそれほどでもないですし。けどなんか、団長にお世話になりっぱなしだなって。だから、これはサービスです」
「そうか。じゃあ頼もうかな」
 目を閉じている間、アニータもまた口を閉じていた。
 頭に湯がかけられる。鑑越しに見えたアニータの顔は、湯気で上気しているにも関わらず、ひどく儚げなものに感じた。
「団長って、実は結構優しかったりします?」
「さあな。自分のことなんて、わからないよ。ただ、再び人の上に立つことになった。できれば、そうありたいと思っているよ」
「優しいですよ。あの、これからもよろしくお願いしますね」
「ああ。これからもびしびし鍛えていくぞ」
 聞いて、アニータは本当に嬉しそうに笑った。

 

 母がそれを読み上げると、諸侯は一様に驚きの声を上げた。
 声こそ出さなかったが、驚いたのはクリスティーナも同じだった。
 ラステレーヌ城の大広間、軍議の席である。宰相府からの辞令。新元帥をクリスティーナに任ずるという内容だった。
 母、アングルランド南部戦線総司令官キザイアが、こちらに目をやる。
「つ、謹んでお受け致します」
 なんとか、声を絞り出す。まばらな拍手は、軍議に出席する皆がこの人事に納得していない証だろうか。目を上げるのが、少し怖かった。
「ではクリスティーナ元帥、どうぞこちらへ」
 母が、上座の席を外し、クリスティーナに着席を促した。言われるままに腰を下ろすと、居並ぶ諸侯とその副官の顔がよく見えた。概ねその眼差しは好意的なものだったが、少年のような顔立ちのゴドフリー少将と、セブラン少将の副官にしてその妹のマルトだけは、笑うことも手を叩くこともしていなかった。ゴドフリーはよくわからないが、マルトは目が合う度にこちらに敵意ある視線を投げつけてくるので、ある意味いつも通りの反応なのかもしれない。
「では、ついにギルフォード公も一戦を退くお考えで?」
 ゴドフリーが口を開く。キザイア・オブ・ギルフォードが母の名である。
「いえ、しばらくは元帥の補佐として務め上げるつもりです。私の階級も大将のまま。ここに集まった諸兄のそれにも変動はありません。ゴドフリー卿、他にも何か」
 ゴドフリーのケンダル家は、謀略家の家系と噂されるせいか、クリスティーナはその端正な横顔が、蛇のように見える時があった。一方母のキザイアは、堂々たる体躯に加えて、がまがえると陰口を叩かれるような、横に広がった面貌をしていた。
 蛇に睨まれた蛙という言葉があるが、ことこの場において、その様相は逆だった。蛇は軽く肩をすくめると、皮肉な笑みを浮かべたまま口を閉じた。
 重苦しい雰囲気を払いのけるように、キザイアの副官ソーニャの明るい声が広間に響いた。
「あー、クリスティーナ様に総大将を譲るのはいいとして、私たちの編成はどうなるんですかね」
 副官として当然の疑問で、クリスティーナもそれを気にかけていた。ギルフォード軍二万五千の内、これまでは二万をキザイア、残り五千をクリスティーナが率いていた。
「数としては入れ替わりますが、私の部隊から元帥の軍に一万五千を加え、元帥二万、私が五千で行こうかと思います。そして副官ですが・・・」
 再び母が、こちらに目をやる。
「私としては、ソーニャを推挙したいと思っています」
 先程に比べれば大人しいが、それでも一同は驚きの声を上げた。ソーニャはキザイアの懐刀で、ここ南部戦線でも最高の人材の一人である。これを手放すことは、新元帥に匹敵する驚愕をクリスティーナにもたらした。
 確かに、欲しい人材である。だが、受け入れられない理由があった。クリスティーナの今の副官の問題である。ソーニャを受け入れてしまうと、彼を第二の副官としなければならない。あるいはソーニャを第二の副官とすることは、他の諸侯が黙っていないだろう。
「いかかです、元帥。私の立場では、これはあくまで提案に過ぎませんが」
「いえ、その・・・」
 自分の唾を飲み込む音が、クリスティーナには聞こえた。
「引き続き、リック・・・リチャード・ブルーベイ卿に副官を務めて頂きたいと思っています」
 詰問されるかと思ったが、母はこちらをじとりと見つめただけで、何も言わなかった。
「ギルフフォード公がソーニャを手放すというのなら、ぜひ我らがグライー軍に招き入れたいのです」
 セブランの副官、マルトが言う。彼女は美男美女が多いグライー家においては珍しく、容姿に恵まれていない。そばかすだらけで目つきは悪く、口角が下がっている為いつも不満顔に見えた。いや言動もまた、不平不満が多かったか。
 ちなみにソーニャはギルフフォード家の家臣ではなく、アングルランド正規軍の軍人である。その意味で、一応ここにいる諸侯の誰の下に着いても問題はない。ただ人事権は、これまでキザイアが握ってきた。それがたった今クリスティーナの手に渡ったわけだが、南部戦線の至宝とも言えるソーニャを、みすみす余所の家に渡すつもりはなかった。
 ただでも最近、母がもう一人目をかけていた副官、シーラ・クーパーをパリシ包囲軍に引き抜かれたばかりである。この上母から、ソーニャまで奪わせるわけにはいかなかった。
 そこまで考えて、クリスティーナははたと気づくことがあった。元帥となって、軍の人事権を得た。それも元帥のものとなると、宰相府の要求を突っぱねることができるはずだ。これは想定していたよりもずっと、大きな力を得たということではないのか。アングルランドにはこれまで一人、ノースランドの叛乱を抑えているエドナにしか元帥職は与えられていなかった。エドナは”黒帯矢”というあだ名通り軍人という印象が強いが、同時に王の嫡子、王女である。今まで王家の者にしか与えられなかった力。母ですら、この南部軍の総大将といっても、そしていくら軍功を上げても、階級は大将止まりだったのだ。それで、優秀な人材を数多く、北の、あるいはパリシ包囲軍に奪われてきた。今後、元帥クリスティーナは、それに歯止めをかけることができる。
 そもそも何故、この時期に自分が元帥となったのだろう。母はもう六十三歳という、軍人としては充分過ぎる程高齢なので、近々クリスティーナにギルフォード軍自体を譲ることは予想できた。だがその前に元帥とされたことに、どういった意味があるのか。
 何気なく、ラテン傭兵のアメデーオと目が合った。この男は、数ある傭兵団の団長としては唯一、軍議への出席が許されている。
 それはアメデーオが次々と優秀な人材を発掘、売り込んでくるからであり、いわば裏の人事権と言えるほどの影響力を持っているからである。機密事項の多い軍議であるが、ここで出された案に適切な人材を素早く用意できるのが、この男の強みだ。軍での階級がないことで逆に、誰とでも対等に近い話ができるという強みもある。
「いやあ、親心ってヤツですかねえ。次の戦が当戦線の決戦となるでしょう。この勢いのままアッシェン軍を打ち砕ければ、敵の南部軍は間違いなく崩壊します。クリスティーナ様の軍歴にも箔がつくってもんで」
 目を合わせただけで、アメデーオはクリスティーナの疑問を氷解させてみせた。聞きたかったのはこれでしょう、と言わんばかりに、片目を閉じてみせる。
 なるほど、それで先程の、ゴドフリーとマルトの反応に合点がいった。
 ゴドフリーは野心家なので、いずれはこの南部軍の頂点に立とうとしていたのだろう。子爵で少将だが、軍功次第では階級が上がるのが、今のアングルランドである。近年では、パリシ包囲軍のダンブリッジがいい例だ。あの男は、平民から中将にまで成り上がった。もっとも、パリシ包囲軍は敗れ、降級は免れないだろうが。
 マルトはグライー家、というより兄のセブランに軍功を上げさせようと、傍目にもわかるくらい躍起になっている。当のセブランは野心の欠片も見せないアングルランドの忠臣だが、その妹は違う。
 他にも内心、クリスティーナの突然の元帥職に、胸をざわつかせている者も少なくないだろう。だが、とクリスティーナは考える。
 それら全ての嫉妬や不満を撥ね除けるだけの力を、私は手に入れた。
 上座から見回すと、全ての視線がクリスティーナに注がれていた。瞳に揺れる表情は様々だが、ともかくたった今、自分はこの軍議の議長となった。皆、クリスティーナの次の言葉を待っている。
「今日の軍議はこれで閉会としましょう。アッシェン南部への侵攻は、次が決戦となります。明日、私の方から作戦の立案をします。その際には諸兄、忌憚ない意見をお聞かせ下さい。最後に新元帥として、非才ながらこの身全てをアングルランドの勝利に捧げることを誓います。では、解散」
 言い終えて、クリスティーナはひとつ息をついた。声を震わせず、淀みなく言えただろうか。緊張はしたが、思ったより重圧は感じていない。話がいきなり過ぎたので、まだ感情がついてきていないだけだろうか。
 いや、力を得た。その喜びが、重圧と戸惑いに勝ったのだ。
 これでクリスティーナは、副官のリックを手放さずに済む。もう誰も、母でさえも、自分のやることに口を出せない。
 各々が席を立つ。皆が退室するのを、辛抱強く待った。今すぐ、リックの元に駆け出したい。
 部屋を出たところで、アメデーオに声を掛けられた。
「あらためて新元帥就任、おめでとうございます。こちらで宴席を設けますよ。ぜひ、副官殿とご一緒にいらして下さい」
 クリスティーナとリックの仲は秘密だが、この男にはその程度のことはお見通しなのだろう。以前はそういうところを警戒していたが、このような男が自分の部下になったのだと思うと、途端に心強くなる。気の利く男でもあるのだ。
「ありがとう。ぜひ、出席させて頂きます」
「そうそう、お人形みたいに澄ました顔も素敵ですが、クリスティーナ様にはやっぱり笑顔が似合いますぜ」
 帽子の鍔を少し上げ、ラテン傭兵は笑った。そういった伊達者の仕草も、今は鼻につかない。
 城門を目指す。周囲に人が少なくなった所で、クリスティーナは駆け出した。城を出て、厩へ向かう。馬番が鞍をつけるのももどかしく、準備ができた馬にクリスティーナは飛び乗った。町の門を出て、調練場へ向かう。
 リックはちょうど、兵を率いて原野から帰還するところだった。その胸に飛び込みたい衝動をなんとか抑え、先頭のリックに馬を寄せる。
「どうされました? こんなに嬉しそうなクリスティーナ様の御顔を、久しぶりに見たような気がします」
 リックことリチャード・ブルーベイ上級騎士は、クリスティーナの初恋の男で、今はこうして恋仲である。もっとも、その関係を知る者は少ない。誰にも話していないが、先程のアメデーオのように、勘のいい人間には気づかれているだろう。
 母は、どうなのだろうか。名家ギルフォード家唯一の跡取りがたかが上級騎士と逢瀬を重ねていると知れば、きっとリックとはもっと以前に引き離されていただろう。だから、母は知らないはずだ。
「私、元帥になったの。この南部軍の、頂点よ」
「ちょ、頂点というのは・・・」
 クリスティーナと同じ十七歳だが、リックの面立ちにはまだ充分過ぎるほどの幼さが残っている。子供っぽい男が好きというわけではないが、初めて知り合った時の面影が残っているのは悪い気がしなかった。どうあれ、リックの全てが愛おしい。
「もう誰も、私たちのことに口出しさせない。私は、そういう力を得たのよ」
「お、おめでとうございます・・・! まだ、実感が湧かないのですが」
「馬鹿。それは私の台詞でしょう。次の戦に勝ったら、私はあなたとの仲を公表する。もう、誰も私を止められない」
「す、少し声が大きいです」
 振り返ると、兵たちは一斉に目を逸らした。わざとらしく口笛を吹いている者までいる。ここにいる兵五千は、クリスティーナが十四歳の頃から率いてきた、いわば家族のような存在だ。二人の仲を知っていても、誰も母に告げ口しなかった、忠実な部下たち。
「み、皆さん、急によそよそしくなられましたね」
「そうね。みんな、私の味方だもん。私、幸せよ」
 言って、クリスティーナは馬体がぶつかるまで馬を寄せた。
 驚いた馬が離れる前に、一瞬だけ、唇が重なる。

 

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