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3,「盲点だった。思っているから、今ここにいるのだろう」

 二日続いた雨は、既に上がっていた。
 そして今頃、南の戦線はひどい雨にやられているだろうと、ジルは思った。南と言っても本来の南の戦線ではなく、パリシ攻防を繰り広げる、迎撃軍とゲクラン領の話である。
 北西から強く吹く風が黒雲を吹き払ったが、それはつまりあちらに雨雲が行ったということだ。こちらは既に晴れ渡り、戦をするにはいい日和になっている。
 夜明け前から一人、陣の近くを散歩していたジルだったが、払暁の気配を感じる頃には、本営に戻っていた。軍議は夜明けと同時に始まる。払暁開戦などという、双方共に戦果を求めた戦ではない。しばらく書類の整理などをして時間を潰し、軍議の幕舎に向かった。
「おうおう、ちゃんと言いつけを守ったのう」
 老騎士のゲオルクが言うと、居並ぶ将校たちが笑った。ジルは無言で頷く。
 開戦以来、ジルはこの幕舎に一番乗りし、一時間程前から上座に座って将校たちを待っていたのだが、そういった態度は将校たちに無用の重圧を与えると、老騎士から忠告されたのだった。一番に入ることにこだわりを持っていたわけではないので今日はぎりぎりに入ってきたのだが、これでいいのだろうか。お飾りとはいえ、総大将でいるというのも、中々に難しい。ただジルの顔は他人に威圧感を与えることは自覚していたし、こうした他人の心の機微に関することにも疎いという自覚がある。様々なことに海千山千のゲオルクの言うことに従っていれば、大きな間違いはないだろう。
「今日から再び、本格的な戦闘を再開することになりそうだな」
 ジルが口を開くと、指揮官たちは一様に頷く。
「とはいえ、この戦線では、既に戦略的な目標は達している。アヴァラン公の軍の分断に成功し、指揮官のイジドールをここに釘付けにしているわけだしな。今後も攻めの構えを維持しつつ、かつ小競り合い程度の戦闘で構わないと思うが、諸君らはどうだろうか」
「俺は、取れるもんなら大将首を狙ってもいいかなと思います。今後のこともありますし」
 大柄なヴィクトールが言った。この軍の実質的な総大将であるレーモンの息子であり副官だが、聞いた限り、この二人に血の繋がりはない。養子であった。
「なるほど。何か、具体的な策はあるのか」
「ありません。動きの中で、その機を掴むしかない」
「ふむ。これに、異論はあるかな」
 レーモンが手を挙げる。ジルは頷いて、発言を促した。
「無理をして兵の犠牲を出すことは、避けたいですな。睨み合いに近い戦闘でも、兵の損耗は出るのです。動けば間違いなく、それは大きなものになります」
 これまで、こうした親子の意見が衝突することは、度々あった。しかし二人は深いところで互いを信頼しているので、感情的なぶつかり合いはない。歳の差こそあれ、双方共に大人なのである。
 羨ましい話だ、とジルは思った。ジルは、父であるリチャードのことを、信頼どころか許してさえいない。この身にあの男の血が流れているというだけで、全身を掻きむしりたくなる。普段あの男のことは考えないようにしているが、そもそもジルがここにいるのは、王の血縁に依るものである。動かしようのない事実に、吐き気がこみ上げてくる。血の繋がらない姉、元帥エドナの計らいでここにいるわけだが、いずれは旅の空に戻るつもりでいた。母の死後、まだ幼く、宮殿の生活に慣れないジルに、あれこれ世話を焼いてもらった義理を返す形でここにいるが、そろそろ返すものは返せたのではないだろうか。近々手紙を書いてもいいと、ジルは思った。
「レーモン殿の意見もわかった。既にこの軍は、アヴァラン公の息子イジドールを引っ張り出したことで、戦略目標は達しているのは、先程も言った通りだ。では基本的に、こちらからは大きく動かない。しかし先方が仕掛けてきたら、それこそ敵将を討ち取るつもりで、こちらも動く。これでどうだろう」
 白馬のケンタウロス、アーラインが、にやりと笑う。大将らしくなってきたじゃないか。その目はそんなことを、雄弁に語っていた。
「まだ用兵については無知故、抽象的な言い方になる。隙あらばすぐに大将首を落とす構えで、しかし一見しては相手に悟られないよう対峙する。このような運用は、できるか」
「剣に喩えて考えて下さい。少将殿は、剣術でそのようなことができますか」
 ヴィクトールが問う。
「できるよ」
「なら、俺たちにもできます。お任せ下さい」
 なるほど、戦いという意味で、武術も戦術も似たようなものだと、この男は教えてくれている。このやり取りだけではない。ここに来てから皆が、指揮官としてのジルを立てるばかりか、成長を手助けさえしてくれていた。ありがたいと、素直に感謝してもいいのだろうか。ジルは宗主国の総督であり、属国のレヌブランの者たちにとっては、心中穏やかではないはずである。
「他には? なければ、これで散会としよう。各自、よろしく頼む」
 頷いた指揮官たちが、幕舎を出ていく。しかし老騎士とケンタウロスが、まだ幕舎に残っていた。
「何だ? 言いたいことがありそうだが」
「それは、おぬしの方じゃろうて」
 はて、今のジルは誰かに話を聞いてもらいたそうな顔をしていたのだろうか。自覚はないが促されるまま、思い浮かんだことを口にしてみる。
「ここの連中といると、自分が子供になったような気がするよ。そして自分が麾下の兵と上手くやれない訳も、わかった気がする。あの連中は、子供なのだ。子供に、子供の面倒は見れない。面倒を見られる方も、子供の言うことはまともに聞かないしな。ここに来て初めて、私は本物の軍人というものを知った気がする。戦とは何なのか、もう一度考えるきっかけにはなったかな」
 アーラインが、腕を組んで大きく頷いた。このケンタウロスと老騎士の夫婦は、今ではほとんどジルの親代わりである。他人に干渉されることを好まないジルだが、この二人は認めていた。あれこれ世話を焼かれるのも、ジルが至らないせいである。いつか、この二人にも義理を返せるだろうか。
「よし、出動しよう。今度は、あの者たちを待たせてはおけない」
 ジルは麾下に招集をかけ、レーモン伯の元に向かった。
「あらためて、今日もよろしく頼む」
 レーモンは重々しく、慇懃な敬礼を返してきた。
 こちらの兵が隊列を整える間に、アヴァラン軍も山道から下りてきた。山裾に沿って、その軍が大きく南北に広がる。
 初日以来の対峙となるが、三日前と両軍の様子はそう変わらない。
「息子殿が、早くもどこかで仕掛けようとしているな」
 大柄で目立つヴィクトールは、隊の前方に位置している。
「機は、見逃さないようにします」
「レーモン殿が、守りを固めたい気持ちはわかる。先程、軍議でも確認したしな。他にも、何かあるか」
「ご覧の通り、大地がぬかるんでいるでしょう。騎馬隊に、少なからず影響があります。馬の動きに制限がある中で、大きく仕掛けるのは難しいのです」
「なるほど。それは用兵の基本的なことなのだろうな。では何故、ヴィクトールはあんなことを言ったのだろう」
「裏を、かきたいのでしょう。多少の山っ気は、若い時には誰もが持ちます。特にこのような静かな戦では、鍛えた兵の実力を見たいという余裕が出てきてしまう。私も、若い頃はそうでした」
 珍しく、レーモンが自分のことを語った気がした。無駄なことは話さない男であったはずだが。
「ならば、血は争えないのかな。いや、本人から養子だと聞いたが、それでもなお、そんな風に聞こえる」
「育て方を、間違えましたかな」
 レーモンが、ちょっと凄みのある笑みを浮かべた。
「血も、あるのでしょう」
 誰の。そう聞きたかったが、それ以上この古兵が、言葉を続けることはなかった。
 アヴァラン軍。ほとんど横一列に、こちらに前進して来ていた。
「おや、向こうから仕掛けてきましたな」
 目を凝らしたが、アヴァランの陣形は特に凝ったものではなく、むしろ静かで平板なもののように見える。しばらくすると、敵前列の兵が、先の分かれた短い槍のようなものを地面に突き立てた。そこに筒状のものを乗せ、こちらに向かって構える。
「銃兵か」
 すぐに、ぱんぱんという乾いた音が、ジルの耳にも届く。場違いかもしれないが、銃声は遠くで聞くとこんなにも玩具じみたものなのかと、ジルは思った。放浪の間、銃を持った者たちとも戦ってきた。敵兵が構えているのは長銃、それもかなりの長物だ。ジルが主に接してきた拳銃とは、比較にならない轟音だろう。前方にいる兵には、ちょっとした大砲くらいの音に聞こえているかもしれない。
 一人二人と、こちらの兵が倒れていく。思ったより被害が少ないのは、銃兵が二十人程だからだ。そしてやはり銃声は通常のものより大きいのか、多少の銃声には慣れているはずの前列の軍馬が、激しく動揺している。あれでは突撃もままなるまい。敵兵は発砲の黒煙に包まれたが、今頃第二弾の装填を急いでいるはずだ。煙が晴れ次第、次の斉射が来る。
 こちらの兵たちが、矢避けの大盾を用意していた。銃撃に耐えられるような、特殊なものなのかもしれない。運ぶのに二人掛かりで、それでも苦労しているようだ。
 実際の被害より、兵の恐怖心は大きいのだと思う。矢と違って、避けようがない。身を屈める者はいないが、ここから見た感じでも、前列の兵は少し腰が引けていた。
「一度、陣を下げます」
 レーモンが言い、将校たちに指令を飛ばした。ゆっくりと、そして整然と、陣が下げられていく。
「やれやれ、やられました」
 本陣まで引き上げてきたヴィクトールが、開口一番に言った。他の主だった指揮官たちも、後方まで下がってきているようだ。
「こちらが押すような戦を初めからしていれば、銃兵も大した脅威ではないのだろうな。だが、待っているこちらの士気を挫くには、あんなものでも役に立つということか」
「まさしく。しかし、それだけじゃありませんよ。しばらく、戦じゃないものが見られる。ありゃ曲芸だ。ああいうことをやられる前に、こちらとしてはちゃんとした戦をやりたかったんだけどなあ」
 顎髭を掻きながら、ヴィクトールが下馬した。レーモンも、既に鞍から下りている。敵陣の中央、一人の将が前に出てきた。望遠鏡を覗くと、少し斜に構えた感じの男が映る。あれが敵大将の、イジドールだろうか。
「狙撃があります。どうか、馬から下りられますよう」
「狙撃? この距離だぞ。ありえない。奴は魔法使いか?」
「似たようなもんです。実際に魔術師じゃないだけ、タチが悪い」
 かつての条約で、この百年戦争での魔法の使用は、禁じられている。もっともそんな条約など無視してしばらく魔術師を雇う諸侯もいたようだが、魔法の使い手は、敵軍にとって真っ先に暗殺対象となる。条約違反のためろくな庇護も受けられず、物理的な暴力に弱い魔法使いたちが百年戦争に参戦しないのは、そんな理由があるからだった。
 ゲオルクとアーラインが、ジルの方にやってきた。
「そろそろ馬から下りた方がいいぞ。イジドールの狙撃は、本当に魔法じみている」
「ショーみたいなものなんだろう? 特等席があるのに、そこから下りようなんて奴はいない」
 二人が、揃って肩をすくめた。当の本人たちはケンタウロスにしか扱えない分厚い鋼鉄製の盾があるので、狙撃を凌ぐ自信があるのだろう。ジルは冒険の旅に出ていた時と同じ、革の胴鎧と腕甲、すね当てだけだった。およそ、銃弾を止められるものではない。
 戦ではなく立ち合いに似た気が、ジルに下馬を拒否させていた。
 イジドールとジル、彼我の距離は800m程か。本来直射で撃つ銃も、長弓の曲射ほどではないにせよ、少し上に向けて撃つことになる。弾丸も落ちることを計算して撃つとこれくらいの距離を稼ぐというが、それはとても有効射程とは言えまい。狙撃となると、尚更だろう。イジドールの銃には望遠照準具がついているようだが、スコープを覗いて映ったものに、まっすぐ銃弾が届く距離ではないのだ。
 いきなり、前方の兵が倒れた。下級将校の男だ。その周囲に動揺が広がるのと同時に、敵陣が歓声に沸いた。また一人。同じく、将校だ。
 ジルは再び望遠鏡を覗き見た。やけに射撃の間隔が短いと思ったのだが、イジドールは装填済みの銃を十本近く用意していたようだ。もう、従者から次の銃を受け取っている。
 揺れる馬上、北西からの強風、さらに下がろうとするこちらの兵の中から将校だけを狙い撃ちにしているというのなら、なるほど、尋常な技ではない。最後尾にいたジルは、下がる兵の流れに逆らって、馬首を前方に向けていた。
 また、一人。少しずつ、ジルに近づいているのがわかる。もう一人。ヴィクトールがジルを下馬させようとしていた。裾にかけられた手を払いのけ、ジルはその時を待った。音は、当てにならない。この距離だと、銃声よりも銃弾が速い。
 何か、見えた気がした。
 ジルは、首を横に傾けた。耳のすぐ横、ものすごい速さで、銃弾が巻き毛の中を駆け抜けていった。
「すごいな。いい腕じゃないか」
 立ち合いに似たものを感じてジルは敵の的になることを選んだのだが、結局のところ、ジルの得物は刀である。こちらからは、手の出しようがない。
 ジルは、馬を下りた。耳の外側が、少しひりひりとする。手をやったが、血は出ていないようだった。いつの間にか自陣全体が、しんと静まり返っているのにジルは気がついた。
 身を屈めていたヴィクトールが、こちらを見て大きく目を見開いている。出血していたか。ジルはもう一度耳と側頭部に手をやったが、指先には一滴の血もついていない。
「まさか・・・まさか、あの銃弾を避けられたんですか」
「そうみたいだな。馬上だったので、かろうじて避ける形になったが」
 兵がざわつき、ひそひそとした声で、周囲に何事かが伝えられていく。
「そうか・・・大陸五強ってのは化け物だって聞いてたが、本当に、そうなのか」
「弾丸なら、避けられるよ。旅の間、銃を持つ人間とは、それなりに渡り合ってきた」
 あのレーモンですら、ジルを見て驚いている様子だ。まだ馬上にいるゲオルクが、愉快そうに笑う。
「こいつは"弾丸斬り"じゃぞ? 弾丸を避けるくらい、朝飯前じゃろうが」
 兵たちが、歓呼の声を上げる。何かとんでもないことをしてしまったかと、ジルは赤面した。
「凄まじいな、大陸五強ってのは。ひょっとして本当に、弾丸を斬れるんで?」
「まさか。試そうとも思わない。それに失敗したら、痛いじゃないか」
 兵たちが、どっと湧いた。ヴィクトールのみならず、レーモンですら口を開けて笑っている。ジルの名が、束の間兵の間で連呼された。
 何かようやくこの軍の一員になれた気がして、ジルの胸は少しだけ熱くなった。

 やり方を変えてきたか、とエイダは思った。
 昨日までとは違い、奪還軍は前進を続けていた。こちらは相も変わらず長弓隊の射撃を攻撃の核に据えていたが、このまま敵軍が前進を続ければ、矢の霰をくぐり抜ける形になる。頃合を見て、射撃は止めるべきだろう。石弓や短弓、銃とは違い、長弓は最大射程でこそ威力を発揮する。曲射が、落下の力を利用できるからだ。
 このところ矢の補給を上回る射撃を続けていたので、これはこれで好都合だとも思う。実際、矢は尽きかけていた。西風は強く、しばらくして奪還軍は射程の内側に潜り込んできた。発射角度を変えてなおも射撃は続けられているが、敵の大盾は大部分の矢を吸収してしまっている。ライナスが指示を出したのだろう、長弓隊は後方に下がった。
 敵も焦れたのかしらね、とエイダは雨足の強くなった空を見て思う。アヴァラン公の待ちの戦に焦れていたのはこちらなのだが、今は奪還軍がそんな動きをしている。全体の指揮が、代わったのかもしれない。よく見ると敵左翼、辺境伯軍が前に出過ぎているように思えた。次いで中央のレザーニュ軍、少し遅れてアヴァラン軍と、全体で見ると緩やかな斜陣となっている。これだけで、両翼を前に出していたこれまでの形と、随分違う。
 雨の勢いは、さらに強くなる気配がある。昼までに、戦を切り上げることになるだろう。馬体を通してでも、地面が急速にぬかるんでいくのを感じた。エイダの巨大な得物は、馬がしっかりと地面を踏みしめていないと、扱うのが難しい。
 辺境伯軍に合わせ、エイダは騎馬隊を連れて陣の最右翼を目指した。呼応するように、ラシェルの騎馬隊が出てくる。軍そのものはクレメントに任せ、エイダは辺境伯の相手をすることにした。
 こちらの騎馬は、四千を集めた。残る千は、本隊の援護に回す。ラシェルは、全部で二千騎程か。
 エイダが馬を疾走させると、鏡合わせでラシェルが出てくる。初日以来の、本格的なぶつかり合いになりそうである。先頭の辺境伯。挨拶代わりに、エイダは巨剣を一閃させた。ラシェルは戦斧でエイダの一撃を跳ね上げた。文字通りの、火花が散る。ここまでは先日と同じで、仕留められるかは体力差が出てからの話だ。負ける相手ではないので何合でも馳せ違っていいのだが、一騎打ちではないのであまり悠長に構えていたくはない。できれば今までと違った動きの中で、早めにあの辺境伯の首を獲りたかった。脚を止めての乱戦なら、確実に獲れる。
 敵騎馬隊を突破するやいなや、エイダは騎馬隊を反転させた。後方の騎馬隊が動きを止め、まだこちらを突き抜けていなかった辺境伯と、しばし乱戦になる。エイダはそこに突っ込み、敵兵を薙ぎ倒した。このようなぶつかり合いは兵の損耗を招くが、兵力はこちらが上回っている。互いに同数が倒れるのなら、こちらが有利だということだ。いくら避けたくても、こういう犠牲は仕方がない。敵も、勝負をかけてきているのだ。
 三人目の兵を、その馬の首ごと跳ね飛ばしたところで、側面から迫る騎馬隊があった。先頭はラシェル。いつの間にか乱戦を抜け出し、別の場所に騎馬を集結させていたらしい。あえてそちらに向かわず、エイダは残った敵騎兵を倒すことに専念した。こちらの後方が部隊を分け、そのラシェルの側面を衝く動きをする。各部隊長の判断はいい。これも、日頃の血を吐くような調練の成果である。
 エイダの首をあきらめ、ラシェルはこちらの追撃を振り切って兵をまとめた。しばし騎馬隊同士の睨み合いとなる。
 ラシェルは、騎馬隊を大きく二つに分けていた。もう一つの騎馬隊の先頭に立つ指揮官を見て、エイダは少し驚いた。あの、闇エルフの女。副官のブランチャが相変わらず腕を三角巾で吊ったままであるが、騎馬隊を率いていた。
 これは好機だなと、エイダは思った。ラシェルの首を落としたところで、あの副官がいれば辺境伯軍の戦力は、そう変わらないと踏んでいたのだ。大将首が落ちても、動揺し、士気が落ちる時間は限られていただろう。むしろ佇まいからして冷静沈着なあの闇エルフの指揮官に、エイダはやりづらさを感じていたのだった。今なら、二人をほぼ同時に斬り伏せることができる。またとない好機。
 すぐ近くに落ちたのか、轟くような雷鳴があった。見間違えではないというかのように稲妻が、闇エルフの浅黒い肌を照らす。
 頬を伝う大粒の雨が、吊り上がった口角に沿って、曲線を描く。
 歯を剥き出して笑っている自分を、エイダは自覚していた。

 軍を、二つに分けた。
 ピエールの率いる二万と、ゲクラン自身が指揮する三万とにである。
 リチャード王の部隊はここのところ真っすぐ街道に沿って東進を続け、あるいはこのままゲクランたちと激突しそうな気配であった。
 雨は、好都合だった。大地は緩み、軍は水はけのいい街道を中心とした進路を選ぶ他ない。リチャード王麾下の五千が厄介なのは速度だけではなく、大地が乾いていれば道を無視して原野を駆け回ってしまうことだった。輜重隊を引き連れていないというのも、それを可能にしていた。寝床などはどうしているのかというと、こちらの町や村をそれに使っている為、天幕なども持ち歩いていないらしい。必要最低限の物は、分担して持ち運んでいるのだろう。
 外套の頭巾を目深に被り直しながら、ゲクランは街道と併行して東西に走る線路に目をやった。まだ建設途中だが、近々ゲクラン領の東西を結ぶ鉄道となる予定である。兵の迅速な移動はもちろん、領内の経済をさらに加速させる事業になるだろう。そしてこれが自分の為になるか、アングルランドの為になるかは、この一戦にかかっている。
 奪還軍本隊と迎撃軍のぶつかり合いはほとんど膠着、ややこちらが劣勢という報告が入っている。ほぼ予想通りの展開だ。ゲクランが軍ごと抜けてしまったことを考えると、よくやってくれている方だと思う。ボードワンはアッシェン指折りの名将だが、さすがにライナス相手だと役者の違いが出てくる。そもそもアヴァラン公は、守りの名将であった。
 ただ、レザーニュ伯ジェルマンの離脱により、軍はまとまっているようだ。味方の大将の逃亡が有利に働くとは、なんと情けない戦だろう。
 気になるのは、青流団である。
 あの最強の傭兵隊がどちらの戦線にも参戦しないことは、大きな誤算であった。独立して動くよう指示したのは、臨機応変に両戦線に対応してほしかったからだ。それが今や、レザーニュ伯もかくやというくらい、後方で愚鈍な駐留を続けている。ひょっとしたら今頃はライナスの首を落としているかもしれないと思っていた甘過ぎる見通しに、ゲクランは頭を掻きむしりたい思いだ。
 まだ、青流団の活かし所はある。奪還軍が撤退しレザーニュ城に籠った時に、城内の部隊の援軍とできる。が、最強の部隊を保険の様に使うのは、三流の戦略であった。今になってそれが活かせるかもしれないということであって、そもそもそんなまだるっこしい戦をすることはないのだ。初めからそんなことを考えていたのなら、どうしようもない悪手である。
 ひょっとしてアナスタシアは今作戦を、二段階あるものとして考えているのだろうか。ゲクランがリチャード隊を撃破できれば、両軍で迎撃軍を挟撃できる。確かにこの形なら、当初考えていた戦よりも、勝利の確実性は上がる。仕切り直しは、こちらに圧倒的に有利な形で進むだろう。ライナスを倒した後ならば、残る兵力が多少損耗していても、後顧の憂いなくダンブリッジの待つパリシ包囲軍とやり合える。
 なんとなく、アナスタシアの考えが読めた気がした。そうであるならゲクランの責任はより重く、加えて奪還軍の犠牲も少なくはない。何か、彼女の手の平の上で踊っているような感じで、少し癪である。総大将は、あくまでゲクランであった。
 そのことを副官のパスカルに話すと、彼はいつものように吹き出さず、神妙な面持ちで言った。
「なるほど、我々が考えているより、アナスタシア殿は長い目で戦を考えているのかもしれませんな。確かに、今となっては良い作戦であると思います。こちらは兵站だけは万全で、長い戦に耐えられますからな。二つ、問題点がありますが」
「挙げてみて」
「まず、ライナス殿がやすやすとそんな手に嵌ってくれるのかという点。ただこちらの狙いがわかったところで、それに乗らざるを得ない秘策が、アナスタシア殿にはあるのかもしれません。こればかりは彼女に聞いてみなくてはわかりませんし、あったとしても状況次第でしょう。なんといっても、戦は生き物ですから」
「そうね。場合によっては、あっと言わせる何かがあるのかもね。もう一点は?」
「まず我々が、リチャード王の部隊を叩き潰さなければならない。これは、信頼されていますな。ぷっ・・・くくくくっ!」
 そこで、いつものパスカルに戻った。吹き出した勢いで、落馬しかけているところも含めてだ。ゲクランは顔をしかめた。
「まあ、我々が思う程に、アナスタシア殿は切羽詰まっていないのかもしれませんな。今頃、足繁く通っていた蜜蜂亭で、一杯やっているのかもしれません」
「だとしたら、気に入らないわねえ。こっちは濡れ鼠になって行軍を続けてるのに。私も全部投げ出して、彼女と一杯やろうかしら」
「それこそ妙案です。どこまでもお供いたしますぞ」
 アナスタシアとも青流団とも、あと一戦限りの契約である。青流団は、いずれアングルランドにつくだろう。アナスタシアの今後は、どうなのだろうか。店をやりたいという話だが、この戦が終わった後、すぐに店を開くのだろうか。
 ゲクランは自身を若い将軍だと思っているが、アナスタシアはさらに若い。まだ、二十一歳だったはずである。その若さにそぐわぬ戦歴は、既に彼女に第二の人生を考えさせているのだろう。だがゲクランは、なんとか今後もアナスタシアとの繋がりを持ちたいと思っていた。伝説になるには、早過ぎる。
 スラヴァルであまりいい使い方をされてこなかったことも、彼女に次のことを考えさせる契機になったのではないか。あの狂気の女帝と比べるまでもなく、自分なら陥陣覇王を上手く使いこなせる。そう考えて、ゲクランはパスカルのように吹き出した。現状、アナスタシアは自分の手に余っていないか。
「伝令。ピエール隊、配置についたとのことです」
 報告を受け、ゲクランは自分の戦場に思考を戻した。アナスタシアに関しては、肝を据えるしかない。仮にゲクランを裏切るのなら、それはそれでいいという気さえしていた。賭けたのだ。負けることもあるだろう。勝負なら、それでいいのだ。
 分けたピエールの軍は、ここより北の谷に埋伏させていた。
 リチャード隊の、東進。街道をこのまま進むなら、狙いはおそらくアッシェン王アンリの捕縛。ゲクラン領北部のゲクランの居城に、アンリはいた。本筋なら、この先の分かれ道で北東に進むことになる。ただ裏をかいてそのまま直進、途中で進路を北に変えることも考えられた。ゲクラン領の街道は南北のものも多く、途中で進路を変えることは容易なのだ。そしてその場合、ここにいるゲクランとの激突となる。
「リチャード王の部隊、騎馬五千。西、10kmの地点にいます」
 近い。斥候の報告に、ゲクランの鼓動は速まった。もう5kmほど進むと、そこで北東か東かを選ぶことになる。立ちこめる靄が、疎ましかった。望遠鏡を覗き込むが当然のこととして、遠方は乳白色の靄に阻まれている。
 兵を、急がせた。雨足は強くなっているが、辺りは陣を敷くのに充分な広さの平野である。
 北東のピエール隊は、谷間に隠した埋伏の軍だ。そちらに向かってくれれば足止めはおろか、かなりの痛撃を期待できる。後からゲクランが駆けつければ挟撃となり、殲滅も可能だろう。つまり戦略的には北東に向かってくれた方が望ましいが、ゲクランは武人として直接リチャードとやり合いたいと思っていた。ゲクランの長い戦歴の間、しかし何故かあのアングルランド王には縁がなかったのだ。ようやく当たれると思った今回も、血なまぐさい鬼ごっこに付き合わされている。
 ただ、何か大きなものが自分に近づいている。それは感じた。戦場でのこうした上手く説明できない感覚を、ゲクランは大切にしている。日常ではまるで当てにならないそうした感覚は、不思議と戦場ではよく当たるのだ。それらに助けられてきたことも、一再ではない。
 ゲクランは、外套を脱ぎ捨てた。熱く火照った身体に、降り注ぐ雨が心地いい。すぐ後ろにつく馬から、ゲクランの得物、巨大な破砕棍を受け取る。腕に、全身に、ずしりと重い。
「リチャード王、西、4km」
 斥候が、叫ぶように告げる。こちらも1km程前進しているので、ちょうと分かれ道の辺りだろう。そして噂通りの俊足なら、そしてこちらに向かっているのなら、次の報告が入る前に激突することも考えられる。
 前方の、低い丘の稜線。靄の中に三騎程の騎影が浮かび、ゲクランは確信した。敵の斥候。リチャードは、すぐそこにいる。
「伝令。すぐにピエール隊をこちらに戻して。いえ、万が一そちらに逃げた時のことも考えて、五千程は残しておいて頂戴。さあ、行ってらっしゃい」
 伝令が要点を復唱し、速度を上げて北に向かう。
 丘を上り、眼下に目をやった。前方2km程の所にもう一つ小さな丘があり、この先は山間の様に濃密な霧が立ちこめている。視界が悪く、一瞬だけ躊躇したが、それでもゲクランは進んだ。待ってどうする。追っているのはゲクランである。
 丘を下り切った刹那、稲妻が一瞬、戦場を照らした。敵影は、思っていたよりずっと近い。大声で呼びかければ、声が届いてしまう程の距離だ。
 突如として強く吹いた西風が、束の間、敵の全貌を露にした。
 先頭の騎馬が、異常に大きい。馬もそうだが、乗り手がだ。
「やっと会えたわね、リチャード」
 つぶやいた声が聞こえたわけではないだろうが、巨躯の王は、風雨に負けない大音声で返してきた。
「そこの乳のでかいの、お前がゲクランだろう? やっと会えたな。探したぞ」
 聞いて、ゲクランは戦慄し、自分がとんでもない勘違いをしていたことに気がついた。
 勝てると思っているのか、この兵力差で。この私に。盲点だった。思っているから、今ここにいるのだろう。
 ゲクランがリチャードを探していたのではない。初めから、リチャードがゲクランを探していたのだ。
 ぼろのような装束に、白い髭が別の生き物の様に蠢いている。雨ではなく、汗が一滴、ゲクランの頬を伝った。雷鳴とまごう哄笑が、戦場に響き渡る。
 アングルランド王リチャード一世が、こちらを見て不気味に笑っていた。

 

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