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2,「アナスタシア殿の、暗殺」

 シャルルが、負傷していた。
 昼間の戦闘の際、敵の騎馬隊と激突し、落馬したらしい。命まで落とさなかったことにドナルドはほっとしたが、甥の様子は苦しそうである。雨の降りしきる中、篝火に照らされたその顔色は、橙色の光をもってしても、なお悪い。
 一度は後方に下げられたが、部隊への復帰を志願した。そして医療用天幕が立ち並ぶ一角から出たところで、ドナルドたちに出会ったのである。ドナルドは逆に、負傷中の兵を見舞うところだった。辺りの天幕からは、苦しそうな呻き声、泣き声、そして悲鳴が上がっている。
「ちょっと診せて下さい。うーん・・・」
 ジャンヌが嫌がるシャルルのシャツの裾をまくり上げ、患部の様子を診ている。脇腹を中心に、どす黒い青痣が、脇から腰にかけて広がっている。
「いたた! おい、やめろ」
「ひどい痣だ。折れてるんじゃないか?」
 ドナルドが聞くと、甥は顔をしかめながら言った。
「最初は身動きすらできませんでしたけどね。息が詰まってしまって。危うく、敵の馬に踏みつぶされるところでした。自分の馬にも乗れなくなっていたんで、後方に下げられて。今では、多分大丈夫です。まあ、ひびか入ったくらいじゃ、折れた内に入りませんから」
 普段はいくらか感情を大袈裟に表現する傾向のあるシャルルだが、怯懦の男ではない。責任感の強さから、騎馬隊に復帰しようと思っているのだろう。このくらいの傷で戦線を離脱する騎士もいれば、片腕を斬り落とされても戦場に立とうという騎士もいる。シャルルが後者であるかはわからないが、少なくとも前者ではない。ただ、親族としては前者であっても構わないという思いもあった。
「折れてはいませんね。唾つけとけば治りますよ。ほら」
 指先をぺろりと舐めたジャンヌが、その指でシャルルの患部を押す。たまらず、甥は悲鳴を上げた。
「騎馬隊は、動きも激しい。鞍の上で揺られるのも、患部に響くだろう。上に、配置換えを打診してみるか?」
「いえ、なんとか、いけそうです。アヴァラン公や辺境伯のとこみたいに、常時駆け回っているってわけでもないですし。一晩寝りゃ、痣も引くでしょう」
 痣は当日よりも、翌日の方が大きく広がっている。しかしそれは置いておくとして、今は甥が生きながらえたことに、胸を撫で下ろしたい気分だった。
「そういえば私たち、たくさん捕虜を取ったんですよ。大活躍です」
「は? 歩兵はかなりやられたんじゃないのか。叔父上たちに何かあったらと、こっちは肝を冷やしてたんだぞ」
「矢で何人か失ったが、捕虜を取ったというのは事実だ」
「それは戦果ですね。馬は?」
「馬も、捕虜と同じ数だけ」
「数? 一人じゃなくて、何人かですか?」
 そこでジャンヌは、シャルルに向かって見栄を切り、両手を広げて見せた。
「何だお前。馬鹿みたいに見えるぞ。まさか、頭を打ったのか」
「違いますって! 十人ですよ、十人。今たくさんって言ったじゃないですか。馬も、十頭」
「おいおい、嘘だろ」
「本当の話だ。騎士三名、家士七名。馬はどれも上等で、大きな怪我もしていない。お前と隊は離れてしまったが、身代金は私が受け取る手筈になっている。後でお前とも山分けだ。もっとも兵全てとも山分けにする予定だから、あまり期待はするなよ」
 驚いた顔で、シャルルが口笛を吹く。
「金は、まあいいんです。あるにこしたことはありませんが、遺族には、多く渡したいですしね。それにしても、一体どうやって?」
「私が、活躍したんです」
「え、お前のお色気作戦で? まだ子供過ぎるだろ。それこそ一体、どうやって?」
「もおおおぉっ! おじさん、何とか言ってやって下さいよ」
「ジャンヌが組み手で、若い兵たちを次々と投げ飛ばしていただろう? あれだ。あれを、突撃してくる騎兵隊に、やってのけた」
「へえぇ・・・にわかには信じられませんが・・・まあ、こいつは道中、信じられないようなことをやってのけてきました。そうか、でも何か、実感がわかないな」
「どうです、シャルルさん。見直しました?」
「見直した。よし、今からひとっ走りして、明朝までにアングルランドの連中を全滅させてきてくれ」
「ひ、ひどいなあ。ちょっとくらい褒めてくれてもいいのに。いいもん、おじさんに褒めてもらうから」
「すごいな。よくやったぞ」
 冗談めかした雰囲気につられて、ドナルドはついついジャンヌの頭を撫でてしまう。手を離すと少女は耳まで真っ赤になって、俯いていた。
 黙ったままの少女が醸し出す微妙な空気が醸成される前に、シャルルが口を開いた。
「ともあれ、少し安心しました。俺は俺で、死なないように努力してきます。この雨でどうか、身体を冷やされませんよう。ジャンヌ、叔父上たちをよろしく頼むぞ」
 そう言って、シャルルはその場を後にした。ジャンヌは顔を上げないまま、こくりと頷く。
「すまないな、ジャンヌ。頭など撫でてしまって。少し、馴れ馴れしかったかな」
「いえ、その、違うんです・・・ちょっと、嬉しくって」
 顔を上げた少女が、はにかむ。どこか大人びたところのあるジャンヌも、褒められれば嬉しいのだ。その辺りやはり子供としか思えないが、初潮を終え、心身共に急速に大人になろうとしているはずでもあった。ドナルドの思いはどうあれ、おかしなところで子供扱いするべきではないのかもしれない。このくらいの年頃の子は、難しい。
 ただ、子供が何か特別な力を使って魔法のように人馬を投げ飛ばした。そう考えてしまっている自分を、ドナルドは恥じた。
 剣聖と大陸五強の子。才能は、確かなものだろう。加えて、ドナルドには想像もつかないような修練を積んできたのかもしれない。いや、今だってきっとそうだ。道中、ジャンヌは日に一度は行方をくらませていた。ひょっとしたら、その間も鍛錬を続けてきたのかもしれない。帰ってくると決まってすぐに風呂に入りたがったし、汗だくになって帰ってくることも一再ではなかった。
 ジャンヌはジャンヌが培ってきた力で、隊の窮地を救った。あらためて、そのことを実感する。
「ジャンヌ、今日はありがとう。隊の皆に代わって、あらためて礼を言わせてもらうよ。
「あ、いや、御礼なんて・・・こういう時、何て言えばいいんですかね。当然のことをしたまでです、とか?」
「次は私が当然のこととして、君を守らなくてはいけないと思う。役不足だろうが、その思いだけは胸に抱き続けるよ」
 少女は再び顔を紅潮させて、何か言おうとしている。ようやく言葉が出かけたが、やがて溜息をつき、水たまりを軽快に飛び越えながら、部隊の兵が治療を受けている天幕に向かってしまった。ドナルドも、後に続く。
 外にも漏れていたが、天幕に入ると一層、血と糞尿の臭いが鼻をついた。寝台もなく藁を敷いただけの寝床で、傷ついた者たちが横たわっている。看護を続けている兵に労いの敬礼をすると、ドナルドたちは見知った者たちのいる場所に行った。
 腹に矢を受け、ここに運ばれてきた者たちは五人。見ると、内二人は既に息を引き取っているようだった。遺体は今晩中にも、外に運び出されるだろう。ドナルドは十字を切って、しばし黙祷した。残る三人は、目を開けている。
 二人の傷は、内蔵には達していなかったらしい。この度の戦では戦場に復帰できそうにもないが、命を落とさなかったことは、本当に幸運だった。ドナルドたちを見て、力ない笑みを返す。
 もう一人。目を見開いているが、ドナルドたちの姿は見えていないようだった。顔が、土気色になっている。まだ若い。二十歳になるかどうかという青年だった。名前は思い出せないが、見覚えがある。放浪の小作農の一人としてドナルドたちの村々に何度か訪れていた者だが、確か二年前、隣りの村に居着いたのだったと思う。
「ドナルドさんが、来たぞ」
 横の兵が、かすれた声を上げる。死に向かう兵が、手を伸ばした。ドナルドは跪き、その手をしっかりと握った。
「妻と、生まれたばかりの子がいるんです。どうか・・・」
「二人の為にも、生きろ。死ぬには若過ぎるぞ」
「あんたの村なら、幸せに生きられると思いました・・・色々回って、ここならって思えたんです。惚れた女もできました。なのに、俺は・・・」
 兵の声が、急にしっかりしたものになってきた。まずい傾向だなと、ドナルドは思った。手を握り返してくる力も、異常に強い。
「お願いします。あいつらを」
「わかった。二人がこの先困らないよう、取りはからう」
 ドナルドの声は届いていただろうか。青年はもう、瞬きをしなかった。
「いい奴でした」
 隣りの兵が言う。
「そうみたいだったな。そして、いい奴から死んでいく。だがお前たちは、生き延びてくれよ」
 横になったままの兵たちに手を振り、ドナルドたちは天幕を出た。雨足は、少し強くなっているようだ。濡れた周囲が、篝火の光を物悲しく照り返している。
「おじさん、領民に慕われてますね」
「領民などとは思っていないよ。同じ地域に暮らす者たちは、半ば家族のように思っている。それに彼は、シャルルの村の者だ。知らせを聞いたら奴も悲しむだろう。近隣に大きな顔をし過ぎて、あの彼に勘違いさせてしまっていたな」
「じゃあ、シャルルさんが残された家族の面倒をみるんですかね」
「いや、私が彼と約束した。何とかするのは、私だろう」
「そういうとこ、ホントおじさんだなあって思います」
「どういう意味だい?」
「いいんです。今のは、独り言です」
 しばらく、無言で歩いた。医者のいる天幕に行かない者たちでも、怪我の手当をしている者たちはいた。実際、死ぬかどうかという傷でなければ、徴兵された兵が医療用の天幕に行かされることはない。身分ある者でも医者の手を空けたい者、例えば昨日のアネットなどは、自分で傷の手当をしていた。姪の若い肌に残る傷痕が、できれば小さいものであってほしいと願う。
「いい人から、死んでいく。本当なら、嫌な話ですね」
「私の父が、よくそう言っていたよ。受け売りだな」
「へえ、おじさんのお父さんの話、ちょっと興味あるかも」
「いつか、もっとゆっくり出来る時に話してあげよう。期待する程、面白いものでもないだろうが」
「うぅん、話してほしいです。でもあらためて・・・戦争だから、人は死ぬんですよね」
「そうだな。しかし君が救った命は、多い。今日のこともそうだし、君がアルク村で徴兵を止めたのだって、そうだ。その者たちは、君に感謝してると思うぞ」
 ドナルドの言葉を聞いたジャンヌは、しかしちょっと虚を衝かれたような顔をした。
「あぁ・・・あれ、方便みたいなものです。村の人たちを兵に取られたくはなかったんで、嘘ではないですけど。けど私、前から戦に出たいって思ってましたから。おじさんに出会わなかったら、きっかけ掴めなかったと思います」
「ん、それは、どういうことだい?」
「んん、上手く言えないなあ・・・なんかこう、漠然と思ってたことが、きっかけがあって形になるというか。んー、一気に動き出すような感じがあって、これだ!って思う時って、あるじゃないですか。今がその時だぞ、みたいな。それにその、おじさんと出会っちゃいましたし・・・うーん、わかります?」
「わかるような、わからないような・・・いや、すまない。やはりさっぱりわからないな」
 今までこの少女は、アルク村の一件の責任を取るような形で、ドナルドたちについてきたのだと思っていた。しかし今の話を聞く限り、どうもそう単純な話でもなさそうだ。
「ちゃんと言葉にできないな。一言でこう、みたいな感じじゃなくて。順を追って話したいというか・・・そうですね、この話も、ゆっくりできる時に聞いてもらえますか」
「もちろんだとも」
 ドナルドが言うと、少女はにっこりと微笑んだ。

 夜半に、風雨の勢いはさらに増した。
 自分の幕舎で、ライナスは時折書類に目を通したり、忍びの報告を聞いたりしていた。
 戦場ではいつも、三時間程しか眠れない。気の昂りよりも、寝ている間に、何か重要なものを見落としてしまうような気がするのだ。睡眠時、斥候からの異常なしの報告は翌朝小姓がまとめたものを聞くことになるが、忍び、特に囀る者からの報告があれば、すぐに起こすよう小姓には伝えてある。そんな時にライナスが眠っていることは、稀である。
 本当に眠たい時は、身体が睡眠を求めてくる。戦場では、それが少ないということだろう。
 深夜、十二時過ぎ、幕舎を訪れたのはマイラ本人だった。
「雨の中、大変だったな。ここに来て、少し温まるといい」
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」
 頷いたマイラは濡れた外套を脱ぎ、携帯用のストーブに手をかざした。夏になったとはいえ、ここ北ユーロでは、天候によっては暖房が必要なくらいに寒くなることがある。今が、まさにそうだった。
 火の前で屈むマイラを見て、ライナスは目を細めた。母親に似ていると、あらためて思う。ライナスが、唯一愛した女。瓜二つというわけではないが、成長するにつれて、その面影は濃くなっていった。加えて、手や耳の形といったところに、ライナスの血も感じる。家族愛などとは無縁の人生を歩んできたライナスだが、この娘だけは何があっても守らなくてはならないと思う時があった。
 ただ、最も過酷な場所に、マイラを置いている。
「宰相、アナスタシア殿のことですが・・・」
 二人きりの時でも基本的に、マイラはライナスのことを父とは呼ばない。
「変わった動きは」
「平時であれば、ないというべきでしょう。例の馬防柵のことがあるとはいえ、町の外で兵を調練する日々です。ですので、細かい話ばかりになってしまいますが」
 マイラの報告書の特徴として、余計なことを一切書かないというのがあった。大抵は要点のみを、箇条書きにして送ってくる。しかし今回の件では、何を要点とすべきか、彼女自身決めあぐねているのが、よくわかった。アナスタシアは、どうにも捉えどころがない。マイラ自身がこうして直接足を運んだのも、そういうことだろう。
「調練の後は職人等を集めて、波止場の倉庫街に行くことが多いようです。何の会合を開いているのかはわかりませんが、これは毎回二、三時間程で切り上げています。あくまで、ここ三日のことではありますが。また、この際にはベルドロウ、ルーク、ジュリアンといった指揮官も伴っているようです」
「何か、重要な話し合いであることに間違いはなさそうだな」
「そこで何が話し合われているかは、まったくわかりません。軍議のようなものなのでしょう。それと、初日に百騎を連れてノルマランを出たルチアナですが、斥候が何度かその姿を確認しています」
 卓の上の地図。何点かを、マイラは指差した。この迎撃軍の北側を中心に、北西のゲクランがいる辺りにも出没しているようだ。
「ほとんど、放った斥候と同じくらいの広範囲だな。当然、こちらの斥候がいない場所にも行っているのだろう。そしてここ三日での移動だとすると、早馬並みに速い」
「実際、特に脚の速い馬を選んでの百騎なのでしょう。それこそ伝令や、斥候用の。狙いはやはり、わかりません」
「ルチアナの動きは・・・読めそうにないな。読めたところで、というのもある。たかが百騎では、軍を襲えない。しかし姿をくらませようとすれば、これはたやすい。気になるが、無視する他ないのかな」
「はい。青流団の兵も、アナスタシア殿の戦略については知らないようです。ただ、兵からの信頼は厚い。以前彼女が客人として訪れた際、その実力は充分示していますから」
 霹靂団を失った後の放浪で、アナスタシアは青流団と接触している。その時に将来の団長候補であろうルチアナを、完膚なきまでに叩きのめしていた。細かい兵の心の機微までは知りようがないが、総体としての青流団は、アナスタシアを認めている。
「その職人筋や、町民からはどうだ?」
「職人で倉庫街に集められるのは、今のところ親方衆のみ。職人の親方が元々そうであるよう、皆、口は固いようです。徒弟や町民からは、特に何も。ノルマランという小さな町に入られたのが、こちらとしては痛恨でした」
 敵地アッシェンと言えど、主だった街には囀る者たちのみならず、個人や少人数で雇える忍びを張り込ませてある。が、戦略的に無価値なノルマランは、盲点であった。以前アナスタシアがあの町に逗留した時同様、マイラや囀る者たちが旅人や行商を装って情報収集に務めているが、小さな町での余所者は、それだけでも目立つ。民に紛れ込んでの情報収集には、どうしても限界があった。深度のある情報は、入ってこない。
「確かに、何かある。何か、しようとしている。そして今の所、ゲクラン軍とも奪還軍とも連携の気配がない。動きもそうだが、何より配置がな。ゲクランには遠過ぎるし、近いはずの奪還軍に、何故か駆けつけない。このところ、戦の間中、青流団についてばかり考えている気がする。戦はお前が推挙したシーラに、任せきりだ。エイダが言ったように、やはり青流団はこの戦から、アングルランドにつこうという構えなのだろうか」
「それはない・・・と以前の私なら言ったでしょうが、今となってはわかりません。私も、あの人のことがわからなくなってきました。ゲクラン、奪還軍共に、青流団の助けを必要としております。そのどちらも見殺しにしている時点で、充分我々に加勢しているようにも見えるのです。しかし、これがアナスタシア殿だとは、どうしても思えない。そこで宰相に、具申したい議がございます」
 マイラの方から、何か策を講じることは珍しい。そして彼女の顔は、ここに入ってきた時から実に穏やかである。それが逆に、ライナスには気がかりだった。
「何だ」
「アナスタシア殿の、暗殺」
「それで、いいのか」
 今のは宰相としてのライナスではなく、父としての自分の言葉である。マイラは昔から大陸五強と呼ばれる英雄に対して深い崇敬の念を抱いているが、アナスタシアに対するそれは、また格別のものであったはずだ。任務に私情は禁物であるが、マイラの場合それが逆に働くことがある。
 マイラは、静かに頷いた。
「一度、殺すべきだと思って、対峙しました。覚悟はもう、その時に」
「あれは、成り行きのようなものだと思っていた。そうか。余計なことを聞いたな。それで、勝算は」
「刺し違える覚悟なら、必ず」
「それは、暗殺とは言わない」
 言葉だけの意味としてなら、刺し違えてでも要人を殺せるというのなら、それは暗殺と言えるだろう。しかし忍びの世界では、それを暗殺とは言わない。誰に殺されたのかわからないのが、忍びの暗殺である。
「お前が生きて戻ってこられる、目算は」
「・・・五割程かと」
「やめておけ」
「しかし、アナスタシア殿はやはり、危険過ぎます。私と宰相でも、まるで考えが読めないのです。今回の戦だけでも充分危険ですが、それにもまして、今後のことがあります。この戦に彼女が生き残り、そしてアッシェンに与するようなことがあれば、とても看過できるような存在ではありません」
「確かに、そうだ。しかしお前を失う可能性があるのなら、首を縦に振るわけにはいかないな。それに私たちは、動かぬ山の影の巨大さに、怯えているだけかもしれないぞ」
「なるほど、それもあるでしょう。そうですね、認めないわけにもいきません」
 マイラが、ちょっと複雑そうな顔をした。やはりアナスタシアにはその表情同様、一言では言えない何かがあるのだろう。
「この際、はっきりと決めておこう。今後新たに私の命令があるまで、アナスタシア殿の暗殺は、禁ずる」
「・・・了解です、宰相」
 マイラには、基本的にかなりの部分、独自の権限で動けるようにしてある。宰相権限同様の印章も持たせてあるのだ。事前に相談の必要がないと判断したなら、ライナスには結果だけを報告するよう伝えてある。なのでこの件に関しては、一度釘を刺しておく必要があるだろう。
 ライナスは天幕の奥の、寝台に腰掛けた。隣りに座るよう、娘にも促す。
「お前とは、気持ちのありようは違うだろう。ただ私も、彼女への思いというものがある。列車の中で、三人で話した時のことは覚えているな?」
 マイラが頷く。その時のやりとりを、反芻していることだろう。
「私はあの時、この英雄に、自分の行く末を見てもらいたいと思った。真の大将は孤独だというが、私も実質的な国の頂点に立って以来、どこかでそれを感じていた。陛下が、あのような調子だしな。はっきりとそれを自覚したのは、アナスタシア殿に出会ってからだな。この孤独をわかってくれるような気がした時に、やはり自分が孤独であることがわかったのだ。言葉にはしなかったが、俺の生き様を見ていろ、彼女には、そんな気持ちが伝わった気がする。思い過ごしかもしれないが、同じ舞台に立ったことで、彼女がそれをわかってくれたような気がしたのだ」
 娘にだから、言えることだ。ライナスは元来、自分の胸の内を他人に明かしたいとは思わない。
「しかし今は彼女の、"陥陣覇王"アナスタシアの生き様を見てみたい。機会は、今回の戦で最後かもしれない。だがもし可能なら、戦場で私自身が、その首を討ち果たしたいのだ。そこに、何かがあるような気がする」
「・・・わかります」
「わかるのか」
「似ている気がしたのです。私はあの日、パリシでアナスタシア殿と立ち合った時、頭ではアングルランドの為にと思いながら、胸の内ではこの人とわかり合いたい、それには、そして今となっては拳をぶつけ合うしかないと思ってしまいました。結果私が死んだら、彼女に私のことを覚えておいてほしいと。ただ、あの場では互いが死ぬ道しかなかった。ルチアナの介入は、どこか救いに思えたものです。複雑です。こんな出会い方をしたくなかったというのが、本当のところです」
「お前には、つらい思いをさせている」
 マイラは、かぶりを振った。
「けれど、宰相の思いはわかりました。アナスタシア殿に関しては、もう少し見極めたいと思います。宰相の、気の済むまで」
「私の命令に従うかどうかも、お前の判断だ。どちらにせよ、私が責任を持つ」
「少し、ずるい言い方に聞こえます」
「そうだな。だが、お前の思いもある。それを聞けて良かったよ。今だけは、父と子だ」
「そうですね。これからも、そういう時がたくさんあればと、思います。父さん」
 マイラの肩を抱く。冷たく、柔らかい肩だった。
 雨粒が、天幕を叩く。
 世界には自分とこの娘しかいないような、そんな気がしていた。

 あれ以来、三人で食事を摂るのが習わしのようになっていた。
 レザーニュ軍の本営、その幕舎である。アヴァラン公ボードワンと、レザーニュ伯の妻フローレンスと共に、ラシェルは朝食を摂っていた。
 夜明けのはずだが、昨日から降り続く雨で、外はまだ暗い。天候にしても戦況にしても、とても清澄な朝とは言えなかった。
「今日は、戦闘はあるのでしょうか。あいにくの天候ですが」
 フローレンスが言う。この三日間での、彼女の成長は著しい。まだ彼女だけで指揮を執るには心許ないが、少なくともボードワンの指令を忠実に実行できる程度には、成長している。やはり、指揮官としての素質はあるのだろう。大将と言うよりは、副官としての資質かもしれない。
「今日までは、あるでしょうな。戦場は草地が多く、この程度の雨ではさほどぬかるみません。おまけに強い西風です。あの長弓隊が、また唸りを上げますな」
 ボードワンが、白い口髭をつまみながら応える。
「なるほど」
 フローレンスのいらえに、ラシェルが言葉を継いだ。
「ただこれ以上雨勢が強くなれば、昼には切り上げることになるだろう。風が強くなり過ぎれば長弓隊は狙いを絞れなくなるし、弓弦が雨を含めば、一層射撃は困難になる。そしてその頃には、騎馬の駆け合いが困難な程に、地面はぬかるんでしまう。まあ、天候の良し悪しのことだ。昼までは戦闘になるだろうが、それ以上はわからないな」
 フローレンスの問いにどちらかが答え、残るどちらかが補足するような流れが、この三人の中ではできている。不思議とそれが、ラシェルにとっては心地よいものになっていた。
「少なくとも午前中は、これまで通りの戦いになるわけですね。ただ、矢については一層の警戒が必要と。昨晩、増産させていた矢避けの大盾が、レザーニュから届きました。今、各部隊に配給しているところです。よろしければ、お二人の軍にも」
「私も辺境伯も、その辺りは大丈夫でしょう。しかし様々なことの想定は、やはり経験が必要になりますな。ともあれ、今日もいつも通りで行きましょう」
「そのことですが」
 ラシェルは言った。
「今日一日、いえ、午前中だけでいいでしょう。私に、時間を頂きたい」
「時間?」
「このままのやり方で、アングルランドが焦れるのを待つ。本来の攻め手が逆になっているものの、この戦い方で間違いはないと思います。少なくとも大きな負け方はしないし、仮に撤退を余儀なくされることがあっても、充分な兵力を残してレザーニュ城に立て篭ることができる」
 老公が重々しく頷き、先を促す。
「ですが一度だけ、仕掛けさせて頂きたい。その為にお二人には半日だけ、私の軍の動きに合わせてほしいのです」
「ふむ、何か策が」
「大したものは、何も。何通りか考えていますが、結局相手を見ての動きになります。ただ、大きく動きたい。パリシ奪還を名目に集まったとはいえ、本来我々は独立した軍。以前の私なら独断で動いていたでしょうが、今はお二人に断りを入れておくべきだと思いました。今は、ひとつの軍だと思っていますので」
 こうして戦を重ねるまでは、ラシェルの辺境伯軍こそはアッシェン最強で、命令を逸脱しない範囲なら、好きなように戦えばいいと思っていた。今も、兵の質ならアッシェン最強という自負は変わらない。しかし今は、二人を戦友だと思っている自分がいた。礼を失さない為にも、二人に断りを入れ、協力を仰ぐべきだと思ったのだった。
「わかりました。本日は私ども二人が、ラシェル殿の援護に回りましょう。フローレンス殿、それでよろしいかな」
 フローレンスが、笑顔で頷く。
「かたじけない」
 ラシェルは、頭を下げた。儀礼の場以外で、人に頭を下げるのはいつ以来だろう。好きな行為ではない。だが今は、それを清々しいことのように感じていた。
「いや、構わんのです。私も"辺境の槍"の戦、一度見てみたいと思っておりました。フローレンス殿、大まかな指示は、私が出します。しかし細かい動きは、自身の判断て下してもらいたい。もう、それができるようになっていると思いますぞ」
「はい。ラシェル殿、非才の身ではありますが、精一杯お力添えさせて頂きます」
 こういう時に腰を引かないのが、フローレンスの美点だろう。
「ありがたい」
 ラシェルはもう一度、頭を垂れた。
 朝食の皿が、下げられる。軍議の場なのでこの後に優雅に茶を一杯というわけにもいかないが、ボードワンはパイプに火を着けた。
「時に、ゲクラン元帥と青流団は、どうされておるのでしょうな。フローレンス殿、そちらに伝令は?」
 本来は奪還軍の総指揮であったレザーニュ軍に、報告は入っているはずだ。フローレンスは少し慌てた様子で、書き付けを取り出した。
「すみません。最初にご報告申し上げるべきでした。昨晩、それぞれから伝令が来ております。緊急性がないと思ったので、つい。ええと、ゲクラン元帥は、リチャード王の部隊と接敵する為、さらに西進中。詳細な戦況報告はありません。青流団も、引き続きノルマランにて待機。こちらも、これ以上の情報はありません」
「ふむ。元帥は難儀な戦をしておられますな。軽騎兵のみ、加えて補給線のいらない部隊など、そうやすやすと捉えられますまい」
「おまけに、略奪ではなく糧食を購っているとなれば、当分の間、領内を動き回ることになりましょう。リチャード王が気まぐれを起こさない限り、両軍の激突はありますまい。とはいっても、元来気まぐれな王だとも聞き及びますが」
「全く、その通りです。しかし逃げ回られれば、やはり元帥の知謀の発揮のしどころはないでしょうな」
 老公は、溜息をつく。やはりゲクラン軍は、よほどの僥倖に恵まれない限り、勝ちを拾えそうにない。もっとも、戦略的な視点を外せば戦闘そのものには負けないので、皮肉にも常勝将軍の名に傷がつくこともないだろう。
 そして逃げ回るだけの役目を肯んじたというのなら、あの王はどこか桁が外れている。その凄まじい戦いぶりは、何よりラシェル本人が経験していた。
「青流団は・・・わかりませんね。こちらの援軍に駆けつけるに、遠過ぎる距離ではないわけですが。お二人はどう思われます?」
 フローレンスが首を振る。ボードワンは少し難しい顔をして、口を開いた。
「少し、考えていたことがあります。お二人は、あのアナスタシア殿に好意を持っておられるようなので、口にするのをためらっていたのですが・・・」
 一度パイプを深く吸い込み、紫煙を吐き出しながら、老公は続けた。
「先程ラシェル殿は、奪還軍に大きな負けはないようなことを言われた。私も、そのように軍を指揮してきたつもりです。具体的には、仮に撤退となっても、レザーニュ城に籠れる。ただこの際、私か辺境伯、場合によっては両軍が城の外に残ることになりますな。砦も、いくつかある。そして籠城は、援軍があって成り立つものです。目の届くところにいないにしても、誰かが助けに行かなくてはならない。さもなければ、立て篭った軍は干上がります。城の外と内、その挟撃があって、初めて成り立つ」
 パリシの現状が、まさにそれだろう。援軍なき籠城は、要は城に閉じ込められているのと同じである。パリシは完全包囲するのが難しい大きさゆえに半包囲の形になっているわけだが、逆に考えると、援軍となる部隊を、おびき寄せている形にもなっている。パリシを包囲することで、どれだけのアッシェン諸侯が立ち上がるか、見極めることができるのだ。そして集まった諸侯を倒せば、王都は完全に終わりである。そう、アッシェンがパリシを取り戻せるかどうかの戦は、これが最初で最後なのである。
 戦というものがわかりかけてきた若きレザーニュ伯夫人が、少し切羽詰まった表情で言う。
「私たち自身が、既にパリシの援軍になっている。つまりその私たちをさらに外部から助けに来る援軍は、ないというわけですね」
「情けないことですが、アッシェンの命運がかかっているのに、集まったのは我々だけなのです。何もここにいない者たち全てが、アッシェンを見殺しにしたというわけではござらん。戦場が遠過ぎるゆえ、参戦を見合わせた者も少なくないでしょう。徴兵期間の問題もあります。ラシェル殿のように、アッシェンをほとんど縦断するような形で参戦されたのは、むしろ例外です。そうです。今戦場にいる軍で、なんとかやりくりするしかない」
 ラシェルには全てわかっていたことだが、フローレンスにはいくらか衝撃だったようである。ラシェルが言葉を継いだ。
「思ったよりも集まった諸侯が少なくなったことで、籠城が長期に渡っても、徴兵期間の問題はなんとかなろう。諸侯が兵の代わりに供出した軍資金は、むしろ余っているくらいだそうだ。それを、今いる兵に分け与えればいい。ただフローレンス殿が言われた通り、籠城するにしても、援軍のことを忘れてはいけない。王自らの要請ですら、アッシェンの中からこれだけしか集まらなかったのだ。我々が窮状を訴えて、誰が助けに来る、という話だな」
 ボードワンが頷き、続ける。
「アッシェンに、忠義の臣がまるでいないわけではありませんぞ。拮抗した南の戦線にこそ、優れた者は多く、そして今もアッシェンの国境を守っています。私はちょうど兵の入れ替えの時期に当たったので一度領地に引き返し、そして今はここにあるわけですが、時機によっては、別の者がここで指揮を執っていた可能性もあります。戦の、それも国のこととなると、調整しなくてはならない問題は多岐に渡る。様々なことの重なりで、今の軍が編成されているわけです」
 南の戦線から援軍は期待できないのか。それは少し、ラシェルも考えた。どうやら今のボードワンの話では、無理そうである。こちらの窮地を救う程の軍は出せないということで、ひょっとしたら拮抗ではなく劣勢なのかもしれない。そしてボードワンの話だと、徴兵期間で兵を入れ替えたということは、もう兵力に余裕もないだろう。ここもそうだが、南もぎりぎりだとすると、やはりこの戦でパリシが奪還できないとなれば、アッシェンは終わりということだ。
 この理屈だと、パリシを奪還した所で、南の戦線が崩壊すれば、引き続きアッシェンの危機は続く。しかし現状の兵力を維持すれば、なんとか凌ぎきれるということでもある。南の戦線についてラシェルはほとんど知らないが、アングルランド側も、それ以上の攻め手がないのかもしれない。なので、パリシを包囲した。一見王都が陥落の危機にあることの方が重要に思えるが、これも南の戦線を干上がらせる為の方策なのかもしれない。ただどちらの戦線が崩れるにせよ、それでアッシェンは滅びに向かう。
 そもそも、百年戦争に参戦の経験がない辺境伯領にまで号令がかかったのは、そういうことだったのである。ラシェルが今ここに来なくてはならない程に、アッシェンは追いつめられているのだ。今、目の前の戦が、全てを決する。
 なるほど、とラシェルは思った。目の前の戦場に、実質的な国の頂点である戦闘宰相ライナスがいるというのは、そういうことなのだ。この奪還軍を潰してしまえばそれは、王都パリシ攻防のみならず、アングルランドそのものの勝利が決定づけられる。敵は宰相、さらに王自ら参戦している。これは決戦なのである。
「いずれにせよ、しっかりと籠城の形を取れるよう、兵の損耗は抑えてきたつもりです。主に私が、その援軍として外に残るつもりで。私たち奪還軍と迎撃軍の兵力は、いくらかこちらが少なくなったとはいえ、まだ拮抗しております。籠城した軍を破るのに、包囲した軍は四倍の兵力が必要と古来から言われておりますし、実際にそうでしょう。不名誉なことではありましょうが、攻撃する側の我々があえて籠城を選べば、勝機はあるわけです。ただ、この用兵にはひとつだけ、明確な弱点があります。援軍である私が、別の軍に背面を衝かれれば、その時点でこの戦略は瓦解する」
「わかりますが・・・迎撃軍が軍を分けた際、対峙する我々には、それがわかるはずです。巧妙にやるにしても、背面からの奇襲が有効になる数、たとえば数千単位の兵が離脱すれば、見落とすはずがない。両面から攻撃を受けることには変わりないでしょうが、奇襲とは違う。対応は、できるはずです。脱落したと見せかけて、少しずつどこかに兵を溜める。あの軍略家のライナス殿なら、可能かもしれないが、もう一軍編成されたところで、奇襲にはならない」
「いえ、ラシェル殿、そうではないのです」
 ボードワンは節くれ立った手で、地図を指した。
「まさか」
「青流団は我々の背後を衝くのに、絶好の位置にいます。まさか、とは私も思います。川を渡るのにも、多少の時間は食いましょう。しかしながら、青流団が直前まで我々に気づかれることなく背後を、おまけに奇襲という形で衝くことは、たやすいと思いますぞ」
「ありえません」
 いきなり、それもはっきりと断定したフローレンスに、ラシェルとボードワンは面食らった。あまり、こういった物言いはしない娘だったのだ。二人の様子に気づいたのか、フローレンスは赤面した。
「す、すみません。その、少し感情的になってしまいました」
「ハッハッハ。いや、構いませんぞ。軍議とは、もっと喧々諤々とした議論を戦わせる場だと思っております。して、その根拠は?」
「いえ、その・・・あまり、ありません。ただ、青流団が裏切るようなことはないと思ったのです。あれば、負けてしまいますね・・・」
 ボードワンが、再び笑う。フローレンスを馬鹿にした笑いではなく、場を和ませようとしたのだろう。どこか好々爺然とした口調で、老公は続けた。
「いや、私も青流団が裏切ると、本気で思っているわけではありません。ただ、その位置があまりに絶妙なので、頭に思い浮かんだことを口にしてしまった。最初にお断り申し上げたつもりだが、やはり軽卒でしたかな。お二人の気分を、害してしまった」
 ラシェルは手を振る。
「いえ、私は問題ありません。田舎者の私の印象では、ここアッシェン中央では常に諸侯同士の権謀術数が渦巻いているものだと思っていました。諸侯間の対立や裏切りなど、当然のことと。むしろお二人の、こう言っては失礼かな、素朴な人柄に驚いていたくらいですから」
「私も、繰り返しになりますが、感情的になってしまって、申し訳ありません。ただ、ボードワン殿が仰られることも、わかります。戦場では、何が起こるかわからない。そのことは、心しておきます。少し戦に慣れてきたことで、慢心していたのかもしれません」
「ふと思ったのですが、この三人は意外と・・・」
 苦笑しながら、ラシェルは言った。
「馬が、合っているのかもしれませんな。少なくとも私は、お二人の力になりたいと思える。正直、ここに来るまでは軟弱な中央の連中に、辺境伯領の兵の力を見せてやろうと、おかしな気負いを持っていました。今は違った意味で、お二人に力を見せたい。そんな気持ちが先走ったわけではありませんが、今日は私の戦に付き合って頂きたい。必ずや、戦果を上げて見せましょう」
 二人が頷いた。実に、いい目をしている。ラシェルは思った。
 指揮官たちがこういう目をしている戦は、負けない

 

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