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4,「少なくとも軍略において、あれは掛け値なしの化け物だ」

 三日前とは、また違った騎馬隊だった。
 明確な頭が二つあるからだろうと、エイダは思った。ラシェルに、ブランチャ。それぞれが独自に動き、エイダの騎馬隊を翻弄していた。
 替え馬も使っているのか、多少損耗していたはずの辺境伯軍騎馬隊は、わずかながら初日より数を増しているように思えた。ぶつかる前に二千弱と判断したのはこれまでの経緯からで、二千五百はいるのかもしれない。ただ、エイダの四千の方が上であることには変わりはない。それでも尚互角の駆け合いに、エイダは苛ついた。
 歩兵のぶつかり合いは、こちらが押している。騎馬隊を失っていることで、辺境伯軍は堅陣を敷きながらも押されていた。中央も、こちらが優勢に思える。クレメントが上手くやってくれているのだろう。アヴァラン軍との戦いがどうなっているかはここから見ることはできないが、父があの老将に遅れを取るとは思えない。
 ブランチャ。その浅黒い顔がわかるくらいに、近くにいる。右腕を吊ったまま、片手のみの手綱捌きでも、ぞっとするほどにいい乗り手だ。こういう戦でなかったら、一騎打ちをしたくなるほどの相手。しかし今は彼女が手負っていることの幸運を、逃すわけにはいかない。
 このまま押せば、届く。舌打ちしたい気分だ。しかしここで余計に押せば、馬の脚が持たない。ラシェルがこちらの後方に、襲いかかっていた。散ったブランチャの騎馬隊は深追いせず、エイダは反転して隊列を固めた。それを見てラシェルも馬首を返し、こちらと距離を取る。それぞれの隊に、部隊からはぐれた騎兵が合流していくのが見えた。
 まずは、どちらかだ。当たり前のことを自分に言い聞かせて、エイダは苛つきを抑えた。ラシェル、ブランチャ、共にあと一歩というところまで首を差し出してくるのだが、その一歩が、途方もなく遠い。
 馬を止めた辺境伯が、雨を含んだ橙色の長髪を、両手で絞っている。エイダも、返り血で濡れた顔を拭った。雨だけでは容易に洗い流されない程、この身は返り血に染まっている。
 斬馬刀を地に突き立て、エイダは馬の呼吸が整うのを待った。馬が限界に近くなるまで騎馬の駆け合いをしたのは、いつ以来だろう。初陣で一頭、馬を潰した。敵陣を縦横無尽に断ち割り、敵兵を殺すことに夢中になり過ぎて、潰してしまったのだ。自分の体力と、馬の体力は違う。数年前のことだが、遠い昔のことのように感じる。
 あれから、馬の脚には常に気を配ってきた。エイダの得物は巨大なので、余計に気を遣う。この得物を振るうのに充分な強靭さを持つ馬などそうそう見つからず、替え馬も一頭しかいなかった。今は、替え馬を使う余裕がない。
 一度、本陣に帰って仕切り直した方がいいかもしれない。周囲に猛将と認識されることの多いエイダだが、猪武者ではない。忍耐強さは、人一倍だと自負している。
 それでも、本陣に戻ろうとするエイダを遮ったラシェルの動きは、癇に障った。あちらの馬も、限界に近いはずだ。そんなに相手してほしいのなら、叩き潰してやる。
 反転し、挟撃の形を取ろうとしていたブランチャの部隊に襲いかかる。闇エルフは、巧みに部隊を散らした。数人規模になった騎兵が、旋回してこちらの弱そうなところにまとわりついてくる。蠅のような騎馬隊だ。いや、とエイダは思い直した。刺されれば毒にやられる、蜂である。感情に任せて敵を侮ることは危険だった。こういった互角の駆け合いでは、特にだ。憎悪は、確実に人から判断力を奪う。
 ぬかるみに足を取られかけ、一瞬動きを止めた騎兵を、背後から両断した。今のはたまたま敵だったが、こちらももう踏ん張りがきかなくなっている。エイダの見えない所で、脱落した兵もいるはずだ。
 見回すと、乗り手を失った馬が、方々でへたり込んでいるのが見えた。今頃乗り手たちは本営に走り、慌てて替え馬を引っ張っていることだろう。
「もう一息。踏ん張って」
 エイダは馬の首を叩いた。抗議するように、愛馬が低い声でいななく。
 さらに反転し追ってくるラシェルの相手をするつもりだったが、とにかく馬が保たない。

 こちらの馬も、限界に近かった。
 しかしまだ、疾駆してのぶつかり合いに、二、三度は耐えられる。ラシェルはそう見積もっていた。
 こちらの方が多く駆け回るように見せて、その実、脚を残す。兵の練度では互角かもしれないが、こちらは潜ってきた修羅場の数が違う。辺境伯領、長城で怪物相手に戦っている軍だ。粘り強さは大陸一と自負していた。
 エイダの首は、近い。そう、狙っているのはあくまでエイダの首ひとつだった。
 あの将の首を落としたところでこの奪還軍の決定的な勝利には程遠いだろうが、動揺は小さくないはずだ。少なくともある程度、奪還軍は盛り返せる。
 ゲクランの細かい動きは伝わってこないし、青流団はいまだ参戦の気配すらない。ボードワンもフローレンスも、どこかで両軍の援護を期待している気配があるが、ラシェルはあくまで、この軍がパリシを解放するのだと思い定めていた。曲がりなりにも、ここがパリシ奪還軍本隊である。ライナス率いる迎撃軍を下し、勢いのまま、パリシを包囲するダンブリッジを撃破する。ラシェルたちがやるべきことは、難しく考えることもなく、単純なものなのである。
 ラシェルが自分を取り戻したのは、今朝のことだ。
 軍議に向かおうとするラシェルに、珍しくブランチャの方から声を掛けてきた。そろそろ、あの馬殺しを狩りますか。優秀な指揮官は、相変わらずの無表情でそう言った。
 あの日、リチャードに陣を爆砕されてから、ラシェルの中で何かが毀れていたのだろう。そうだった。怪物を狩るように、この軍はアングルランド軍を狩るべきなのだ。難しいことではない。アングルランド軍の強さを知った今、それがたやすいことではないと知ったが、死力を尽くせば必ずやり遂げられることだった。なにも、十倍の兵力を相手にしているわけではない。
 エイダの騎馬隊の、脚が止まっている。見た限り、エイダの馬自身がへばっていた。何度も首を叩き、必死に馬を動かそうとしている。焦っているのか、兵に次々と指示を出していた。獲れる。
 ラシェルは敵に向かって駆けた。そのまま突っ込んだ時、妙に腰の弱い構えだと思った。誘いか。間一髪で気づき、慌てて馬首を返そうとしたが、敵の向こう、闇エルフの副官は、真っすぐにエイダに向かって駆けていた。引き返せば、見殺しになる。
 一人二人と戦斧の餌食にし、ラシェルは敵の中央に向かった。
 エイダ。もう、戦斧の手の届きそうな所にいる。

 かかった。網に、罠に。
 あっさりと誘いに乗ったことが、エイダにはむしろ意外だった。
 獲物が、向こうから穴に飛び込んできたようなものだった。この騎馬隊が、エイダが、本当にもう動けないと思ったのか。上手く誘いにかけたが、むしろ腹立たしい。舐めてくれるじゃないか。
 馳せ違う形と違い、今ならじっくりとラシェルとやり合える。互いに兵は入り乱れているが、長物を振り回す二人には近づけないだろう。一騎打ちのようなものだった。初めにあえて崩れた騎馬隊が回り込み、ラシェルの隊をすっぽり包み込んでいくのが見える。もう、奴は逃げられない。
 勝ったな、とエイダは思った。最後に焦れたのは、辺境伯の方だった。
 鉄塊を振り上げ、ラシェルの頭に振り下ろす。戦斧の刃で受け流されたが、その騎馬は膝を折りかけている。もう一撃。かわされたが、肩甲を吹き飛ばした。雄叫びを上げ、ラシェルが渾身の一撃を放ってくる。エイダはそれを薙ぎ払い、戦斧を跳ね上げた。斬馬刀をその勢いのまま頭上で旋回させ、辺境伯を袈裟に斬り下ろす。
 かろうじて突き出された戦斧の柄ごと、ラシェルの胴鎧を切り裂く。馬の頭を両断し、その刃が馬体の背にめり込んだ時、エイダは舌打ちした。浅い。鎧を弾き飛ばしたが、その下の肉と骨を断ち割った感触がない。辺境伯は落馬した。剣を抜き、泥濘から立ち上がってきたラシェルに、今度こそとどめの一撃を振り上げる。
 いきなり、背後から衝撃を感じた。
 ブランチャか。その勢いは想定外の凄まじさで、すぐにここまで到達してしまいそうだ。一瞬だけ、迷う。ラシェルは徒歩ながら、剣を構えている。闇エルフは腕を吊ったまま、突破には両側の兵を使っていた。何故そちらを相手にすべきと思ったのか、迷った自分がわからない。あれは兵に任せておけばいい。戦える相手を、まずは斬り伏せておくべきだ。
 泥にまみれた辺境伯と再び向かい合った瞬間、ばりばりという、しかし雷鳴にしては軽過ぎる音が耳に障り、エイダは半身で振り返った。
 ブランチャ。腕を吊った三角巾を破りながら、既に大きく刀を振り上げている。
 一瞬、目の前を閃光が走った。
 稲妻ではない。そう思った。やけに生暖かい雨が、エイダの顔に降り注ぐ。
 そして何故か今の自分は、空を見上げてしまっている。

 真横から歩兵を断ち割り、陣を大きく乱した。
 反転、再び敵歩兵の海を突き抜け、呼応する形で動いていたラシェルの歩兵が、敵陣を粉砕する。
 そこで旗を振らせ、ラシェルは一度騎馬隊を集結させた。もう、さすがに馬が限界である。崩れた馬体から、投げ出される兵がいた。馬が何とか無事でも、鞍からずり落ちそうな者もいる。人馬共に、もう大きな動きはできなかった。
 しばらくして、追撃していたブランチャが戻って来た。刃の先から、斬った敵兵の血が滴っている。一度振って血糊を払うと、闇エルフは静かに刀を鞘に収めた。
 ブランチャの肩の傷は、刃が振れる程度には癒えていた。彼女からその話を聞いたのは、今朝のことだ。
「一瞬だけ、見誤りました。殺せていません」
「怪我明けだ。よくやってくれたとしか言いようがない。それに生き残ったとしても、当分エイダに指揮は執れまい。充分さ」
 ラシェルが言うと、ブランチャは鞍を殴りつけた。この闇エルフが感情を露にするところを、ラシェルは初めて見た。
 ブランチャが、エイダを斬った。エイダは一度大きくのけぞった後、鞍の上に前のめりに倒れた。部下が素早く手綱を掴み、指揮官を戦場から離脱させた。ブランチャがその後を追い、何人かを斬り伏せるところまでは目に入ったが、ラシェルが敵の馬を奪う頃には、その姿は消えていた。
 ラシェルは集めた騎兵で敵陣を真横から断ち割り、この場所へ戻って来たところである。エイダの斬馬刀が、草地の中に横たわっていた。聞くと、エイダとそれを守る麾下の兵は、遥か後方、柵に覆われた本営の中へ消えていったそうだ。
「今日のところは、勝った。戦果は充分だろう」
 エイダの軍が崩れ始めるのを見て、ライナスも撤退を決めたようだ。こちらに背を向けつつ、しかし誘いの構えを見せながら、迎撃軍は整然と西へと撤退していく。追撃しようとしていたレザーニュ軍を、なんとかボードワンが止めたようだ。ライナス軍の騎馬隊は北に集結しており、追撃すればまともに側面を取られただろう。その騎馬隊も歩兵と歩調を合わせ、ゆっくりと靄の中に消えていく。
「これで、明日以降はいくらか有利に戦を進められるといいな。敵も、大分削った。もっとも、ライナスがこのまま黙って引き下がるとは思えないが」
「はい」
 返り血は雨が洗い流すに任せ、いつものブランチャが静かに頷いた。

 本営に戻るとすぐに、ライナスは娘の元に向かった。
 医療用天幕の立ち並ぶ一角。将校用のそれに入ろうとすると、中から従軍医師が出てくるところだった。
「エイダは」
「肉と骨が断たれ、しかし傷は、内臓に達しておりません。ただ、血を失っております。生き延びられるかは、本人の意思かと」
 それ以上聞かず、ライナスは天幕に入った。
 奥の寝台に、エイダは横たわっていた。ライナスの姿を見て起き上がろうとするが、看護の兵が慌ててそれを止めに入っている。
「生きているか」
「大丈夫。このくらい、かすり傷よ。周りが大袈裟に騒いでるだけ。それよりごめんね、戦場から離脱しちゃって」
 言ったエイダの顔は、蒼白である。医師の言う通りだろう。紫色の唇から発せられる声は、しかしまだしっかりしている。
 胸から腹にかけて、血の滲んだ包帯が巻かれていた。腕と脚には、まだ鎧が着けられている。断ち割られた鋼の胸当てが、寝台の傍にあった。切り口は、紙を斬ったかのように滑らかで、相手が相当の使い手だったことがわかる。
「辺境伯にやられたのか」
「うん。でも正確には、その副官の闇エルフの方。ドジっちゃった。誘いに上手く、乗ってくれたと思ったんだけど」
 聞きながら、ライナスは腕甲と脚甲を脱がせていった。ふと、この娘のおむつを替えていた時のことを思い出す。外にいることが多かったので、やったのは数える程だ。マイラもそうだが、二人の娘が大きくなるまで、あまり面倒を見てこない父親だった。
 エイダの頬に、わずかに朱が差す。
「後のことは、クレメントに任せれば問題ないか」
「うん」
 逞しい身体つきのエイダだが、今はそれが少しだけ、儚いものに感じた。いくら屈強とはいえ、斬られ、血を流せば死ぬ身である。
 ただ正直なところ、エイダが討たれたこと以上に、それが軍の崩壊を招いたことが意外だった。クレメントが有能な副官でなければ、エイダの軍は丸ごと潰走していたかもしれない。通常大規模な戦では、指揮官が倒れたくらいでは軍に決定的な影響はない。ライナスが思っている以上に、エイダの存在は軍にとって大きなものになっていたのかもしれなかった。
「父さん、忙しいでしょう。私はちょっとしたら現場に戻るから、あまり心配しないで」
 いつも一緒にいたがるエイダが、今はライナスを遠ざけようとしていた。愚痴は平気でこぼすエイダだが、振り返ると、ライナスに弱いところを見せない娘でもあった。
「心配は、するさ。早く、元気になってくれよ」
 娘が瞳を潤ませ、こくりと頷いた。
 天幕を出ようとすると、左腕を切断された若い女の姿が目に入った。目を閉じ、呼吸が浅いのか、生きているのかさえわからなかった。兵装は一般の、エイダの騎馬隊のものだ。将校ではないのに同じ天幕にいるということは、最後までエイダを守ろうとした兵なのかもしれない。
 すぐに軍議の幕舎に入り、指揮官を集めた。
 エイダの存命と、しばらくは戦線に復帰できない旨を伝えると、安堵と狼狽の、実に複雑な空気が幕舎を満たした。
 兵の損耗について、報告を受ける。犠牲は、今のところ約二千。これまでの優勢な戦況と、そして今日の戦闘が半日に満たなかったことを考えると随分と多く、しかし撤退を余儀なくされたことを考えれば少ない、といったところか。ライナスの指揮下の軍も、思ったより多くの兵を失っていた。
 兵の再編をした。エイダが率いていた二万八千の内、約九千の常備軍は、ライナスが引き受ける。残る二万弱のグラスコール軍は副官のクレメントに任せた。エイダが見込んだ将校だ。充分こなせるだろう。ライナス自身、これまでの戦での働きぶりは評価している。
 クレメントはエイダが見出した指揮官だが、そもそもグラスコールの騎士である。つまり、ライナスの領地の男だった。娘に兵を預けるまでは、その名すらライナスの耳に届かなかった男だ。ライナスの元には世界中のあらゆる情報が入ってくるが、自分の領地ですら全てを知るには程遠いのだと、あらためて思う。足元に、こんな将校が転がっていたりするのだ。
「まだ昼前だが、本日、これ以上の戦闘は無理だろう。各員、奇襲の備えをしつつ、明日までゆっくりと英気を養ってくれ」
 それで、散会だった。
 副官のシーラだけを残した。何か、言いたいことのあるような顔をしていたからだ。
「聞こう」
「青流団のことですが」
「来なかったな。もっともこの天候では、すぐに駆けつけることもできなかったであろうが」
「今日の敗戦は、その点で僥倖だったと思います。もし青流団が、側面を襲う形になっていたら」
「怖いな」
 この迎撃軍を撃破する絶好の機会だったかもしれないが、それがないことはわかっていた。そもそも青流団が今の配置からこの戦場にやってくるまで、最速でも半日はかかる。出陣前の報告で青流団が動いていないことは確認済みだったので、奇襲を受ける心配はなかった。
「真意を見極める為にも、すぐにでも奪還軍本隊を叩くべきだと愚考致します」
 目の前の奪還軍は、敗走となれば東のレザーニュ城に籠城することになるだろう。そしてレザーニュを包囲する際、すぐ北に位置するノルマランは、援軍として最適の位置となる。この迎撃軍の一部をそちらに引き込み、例の地中に仕込まれた馬防柵で、ライナスたちに痛撃を与えるつもりだろうか。今になって、青流団の位置は攻城戦の際に邪魔なものとなりつつある。先を読んでいた、ということにはなろう。
 ライナスはしばし、黙考した。こちらに意図が洩れなければ、その馬防柵はそれなりに有効だっただろう。しかしわからなかったとしても尚、それは下策だったと思う。奪還軍本隊の敗走が前提になっているからだ。
 アナスタシアが霹靂団を率いてスラヴァルの盾となっていた頃、その役目は殿軍が多かったと聞く。彼女自身の名声は、戦とは関係のない怪物退治でのものが多いのだ。彼女が指揮を執り始めた当初は目覚ましい戦果を上げていたそうだが、やがて疎まれ、一番損な役回りに回された。そして霹靂団そのものの名声は、先代のヴラジミルに依るところが大きい。
 負けを、大きくしない為の軍。ひょっとしたら彼女の中には、常にそれがあるのかもしれない。確かに、殿軍なら唸る程の戦績があるのだ。そもそも、殿軍で実績があること自体、アナスタシアの非凡を物語ってはいるのだが。
 紙巻き煙草に火を着けながら、ライナスはそんなことを話した。
「だとしたら、とても悲しい軍ですね」
 シーラは、珍しく感傷的なことを口にする。ライナスは頷いた。
「貧しい軍に、されてしまったとも言える。常に敗北と関わって来たことで、そうなってしまったのか。そして、裏切りにあったとはいえ、先日ついに自身も敗北した。どこかで、小さくならざるをえなかったのかもしれない。だとすると少し、アナスタシアのことを大きく見積もり過ぎていたのかもしれない。しかし翻ってそれが、彼女の狙いだということもありえる。青流団の狙いを明らかにする為にも、よかろう、戦が再開でき次第、奪還軍を殲滅させる方向で動いてみるか。あまり数を減らせなければ、籠城された際に厄介となる。こちらの犠牲も大きかろうが、援軍を機能させないくらいに、削れるだけ削ってみるか」
 ライナスは本来自軍はもちろん、敵軍の犠牲ですらなるべく最小限に抑えたいと思っていた。占領した際、働き盛りの者が少なくなった土地を統治するのは、やはり困難だと思っているからだ。生産性の落ちた地では、徴兵も税収も、ままならなくなってしまう。
 民草は無限に生えてくると思っている支配者は多いが、芽吹くには相応の時間が必要なのだ。荒廃した土地では、一層の時間がかかる。
 ただ、それを気にし過ぎてこちらが負けてしまっては元も子もない。
 奪還軍本隊が壊滅してしまえば、パリシは今度こそ降伏する。あと、一歩なのだ。そうであるがゆえに、慎重になり過ぎていたか。負けるはずがない戦ゆえ、もし負けたらと考えてしまうのだ。不利な戦況を巻き返す方が、まだ精神的に楽である。
 そして本心では、それで動かざるを得ないであろう、青流団を見てみたいと思っていた。今もってなお、その意図を完全に読み切ったという感じがしない。狙いを明確にする為にも、シーラの言う通り一刻も早く、奪還軍は敗走させるべきだ。
 さらに強くなった雨足が、天幕を激しく叩いている。
 勝っているが、どこかで負けている。胸の内に溜まり始めた靄を、払いのけたかった。

 束の間の、戦捷気分である。
 初めて迎撃軍を撤退させたということで、本営は沸いていた。土砂降りの中でも外で騒ぐ兵がいて、祭のような狂騒を感じる。レザーニュの兵ですら、ラシェルを見ては手を振っていた。これで最終的にも勝てると思う程ラシェルの気持ちは浮ついていないが、軍の士気を上げるのには、大いに役立ったことだろう。まだまだ奪還軍は盛り返せる。
 陣の後方、少し離れた木陰で、女に手を引かれている兵を見つけた。ラシェルがそちらに歩いていくと、壮年の兵はぎょっとしてこちらを振り返った。手を引いている女は、格好からして娼婦だろう。
「何をしている」
「え、いや、その・・・」
 四十歳くらいだろうか。つまりそれだけ、長く辺境伯軍に仕えてきたということだ。若い時の徴兵が終わっても、武勇に優れた者は、希望次第では常備軍のような形で軍に残ることがある。平時は長城の守備警戒に当たっている者たちだ。
 ラシェルは本営の少し後方、軍のものとは違う、天幕の立ち並ぶ一角に目をやった。
 戦についてきた近隣の村や町の者たちで、兵相手に様々な商売をしている。軍営では手に入らない紅茶やコーヒー、菓子のようなものも売っている。もっとも、半数以上は娼婦たちだった。
「敵の奇襲があるかもしれないのに、感心せんな」
 兵は、青くなっている。横の女もどうしたらいいかわからないといった様子だ。ラシェルは、兵に懐中時計を投げて寄越した。
「一時間だけだぞ。一時間後に、その時計を直接、私の元へ返しにこい」
 兵はびしりと敬礼し、女を連れて天幕の方へ駆けて行った。
 奇襲への備えは、万全である。あの兵はいわば非番のようなもので、ここにいなければ今頃は自分の隊の天幕で、ゴロゴロとしているだけだったろう。大将に見つかったのは不運だったが、ラシェルはこうした兵の息抜きを、暗に容認していた。どこかで抜いてやらないと、肝心の時に張りつめることができない。どんな人間でも、張りつめたままではいられないのだ。
 泥だらけの衣服を着替えると、外套を羽織って、ラシェルはレザーニュの幕舎へ向かった。あの二人と、軍議である。朝と夜の恒例となっていたが、今日の戦は午前で終わってしまったので、昼食を兼ねたものとなろう。
 普段、戦の最中に、ラシェルは食事を摂らない。軽く具材を挟んだパンを持参している兵もいるが、その辺りは個人の判断に任せていた。食べないと、夕刻までに力を落とす兵もいるのだ。
 既に、二人は来ていた。用意された食事は少しだけ豪華で、食後にはコーヒーも出るらしい。およそ軍議とは思えない、どこか緩い話し合いだが、それぞれの軍営に戻ってからのものは、各自しっかりとしていることだろう。ラシェルは、そうしている。元々、独立した軍なのだ。この場は、いわば大将同士の意思疎通の場である。親睦会という程緩んではいないし、いつの間にかこの集まりは、ラシェルの戦場での数少ない楽しみの一つになっていた。
 濡れた外套を脱ぎ、小姓に手渡す。
「勝てました。さすがは"辺境の槍"といったところですかな。この歳になってなお、学ぶことの多い戦でした」
 ボードワンが言う。服の裾は泥と返り血で汚れており、あちらも相当の激戦だったことが窺える。このアヴァラン公がライナスを引きつけてくれたからこそ、今日の戦の勝ちがあったと言えた。
「お二人の、援護があったからこそです。思う様、駆け合いをすることができました。明日からは、先方も大きく攻めに転じるでしょう。あのライナス殿が、負けたままでいるとは思えない。その時にはまた、守りに徹するのがよろしいかと」
「その形の方が、この兵力は活かせます」
 存分に引きつけてから、叩く。それがこの老将の戦だということは、これまでの戦いでよくわかっていた。敵が勢いよく攻め込んできてこそ、強い戦ができる男だ。
「そろそろ、青流団にもここに来てもらいたいものです。要請してみるのもよいかと。もっともあくまでゲクラン元帥所属の軍。強い要請はできないでしょうが」
 肉をつまみながら、ボードワンが続ける。フローレンスは、首を傾げてこちらを見た。
「さすがに、そろそろ当てにしたい気分ですな。今日の戦も、青流団がいれば、より痛撃を与えられたことでしょう」
 ラシェルの本心ではないが、ここは老公に合わせる。この面子があくまで奪還軍本隊であるという、ラシェルの思いは変わらない。しかし青流団の動きがないことは、やはり気になるところでもあるのだ。
 同意してくると思ったが、フローレンスは黙ったままだった。外で落雷の音が鳴り響いているからだろう、それが何か、ラシェルの気持ちに引っかかりを与える。
 食事を終えてから、兵の損耗の話をした。各軍犠牲は二百ずつといったところで、これまでと比べて随分小さい。やはり戦は攻めなのだ。口には出さず、ラシェルはそう思った。
 ただ、アヴァラン公の采配もわかる。ラシェル自身、最初は守りから入り、一気に攻めに転じる類の指揮官だ。だが隙を見つけ次第前に出るラシェルと違い、ボードワンのそれは敵が焦れて陣を乱すまで、じっと耐え抜く。今日のところはラシェルの動きが大きな戦果をもたらしたが、長い目で見ればアヴァラン公のそれが正しかったということも、充分あり得た。そしてラシェルは長く戦塵に生きてきたこの男のやり方を、信頼している。
 散会前にまた、ボードワンが青流団の話をした。切実なのだろう。ラシェルも気持ちを脇に置いて考えれば、今すぐに欲しい戦力でもある。
 しかしこの軍が撤退、籠城となれば、援軍として必須である。援軍のない籠城には意味がない。劣勢なら籠城の援軍としてそこにいてほしいし、勝ちを狙うなら今すぐここに来てほしい。老公も揺れているのだろう。青流団の動向が読めないのは、やはり困る。
「あの方には、あの方の考えがあるのだろうと思います」
 以前聞いたようなことを、再びフローレンスは口にした。
「それは、そうです。しかし、裏切らないという根拠は」
 単刀直入に、老公が言う。やはり、ボードワンは青流団の背信を疑っているようだ。青流団を率いているのがジェルマンのような男なら、確かに裏切りと映るような配置である。奪還軍の背後を襲わないまでも、傍観している時点で離反といっていい。
 ラシェルは、軍人としてのアナスタシアを、尊敬している。大陸にその名を轟かせる、偉大な軍人である。裏切るはずがないというのは、しかしラシェルの希望に過ぎないことを、今や自覚しないわけにもいかなかった。
「フローレンス殿。アナスタシア殿とはあの元帥も含めた開戦前の軍議の場が、初対面だと言っていたな。そして言葉を交わしたのも、散会の際が初めてだと。加えて"陥陣覇王"のことは、よく知らないとも言っていた。なのに何故フローレンス殿は、アナスタシア殿のことを初めから信頼しているのだ?」
「それは、その・・・」
 レザーニュの若き妻は、赤面する。その顔を見て、まるで恋する乙女だとラシェルは思った。
 ラシェルは再度、あの時のフローレンスについて思い出していた。
 二度程、発言らしい発言をしていた。いずれも邪悪な夫に一度は暴力、二度目は下衆な罵倒でそれを遮られている。どちらも軍議が荒れる原因となったが、その時のアナスタシアは一人、我関せずという態度を貫いていた。二人に、接点はない。
 接触を持ったのは、やはり一度きり。散会後、アナスタシアの方から歩み寄り、おそらくは一言、フローレンスに声を掛けただけだ。
 信頼を寄せるなら、軍議の時にジェルマンを制止したボードワンや、彼女の為に立ち上がったラシェルだろう。ゲクランもそうだが、三人がフローレンスの援護に回る中、アナスタシアはじっと目を閉じていただけだ。なのに、何故。
 ボードワンが口を開いた。
「退出の際、アナスタシア殿は、フローレンス殿に一声掛けましたな。あの時、何を言われたのです?」
 老将も、あの時の光景は目にしていたのだろう。そして沈み込んでいたフローレンスが、いきなり元気づけられたのも、見ている。目に、光が宿ったというべきか。初めは儚い花の様に見えた娘があれ以来、気丈に振る舞うことになった。
「その・・・私は、アングルランドから嫁いで来た身ですので・・・」
「今は、立派なアッシェンの人間じゃないか。どうして今になって、そんなことを」
「私も、フローレンス殿が敵国の人間だとは思っておりませんぞ。夫君が、なんと言われようと」
 不意に、何かわかった気がした。一見繋がりのないように見えた、二人の共通点。アナスタシアもまた、アッシェンから見れば外様である。
「そ、その、勇気づけられたんです。私はアングルランド出身ということが、ずっと負い目でしたので。けれど、あの方の言葉を聞いて、むしろそれでいいんだって・・・」
 老公は、目を細めた。
「二人の間のことです。どうしても言えないようなことでしたら、構わんのですぞ。ただアナスタシア殿が掛けられた言葉で、あなたが彼女を信頼しようと思ったのなら、私たちもそんな言葉を聞きたいと思っただけです」
「信用してくれ、とは言われていません。でも私はその言葉を聞いて、やってやろうって思ったんです。やってやるぞって。あの方は、私に・・・」
 ひょっとしたらこの娘は、実際は負けん気が強いのかもしれない。あの時の、夫を逆上させるとわかっていただろう発言。敵地から嫁いで来て、今や内政を執り仕切るという、前に出る意志。華奢な見た目と穏やかな態度に騙されがちだが、この娘は、ただの可憐な、頼りなく風に揺られるだけの花ではない。逆境でなお自分の立ち位置を作る、自立した女。
 フローレンスは、耳まで赤くなっている。次の言葉を聞いて、ラシェルはアナスタシアのことも、何かわかった気がした。彼女はすぐに、フローレンスという人間を看破していたのだ。なるほどアナスタシアはたった一言で、孤独な女の理解者となり、その心に火を着けた。フローレンスが全幅の信頼を寄せるのも、無理はない。
 アングルランドから来た娘は、一度深く息を吸い込んで、こう言った。
「私に、こう言ったのです。外国の女二人が、アッシェンを救う。それはそれで痛快なことではないですか、と」

 夜明け前に、目が覚めた。
 何か、嫌な夢を見たという気がする。夢の記憶は現実を取り戻すに連れて急速に薄れていくが、ただひとつ、夢で見たアナスタシアのあの青緑色の瞳だけは、しっかりと目に焼き付いていた。振り返って、こちらを見ていた気がする。
 ライナスは、寝台に腰掛けた。息が荒く、全身が汗で濡れている。雨は、もう上がっているようである。天幕の外で、虫が鳴いていた。
 夢の中にまで出てくるとは、あの陥陣覇王の存在は、やはりライナスの強烈な重圧になっているようだ。
 時計を見ると、五時間程眠っていた。昨日のこともあり、少し疲れが出たのだろう。立ち上がり、軍服に着替える。兵が起き出すにはまだ早いが、そろそろ斥候の定時報告がある。
 しばらく地図や報告書の類に目を通していたが、誰も幕舎に訪いを入れてくることはなかった。気になって、外で不寝番をしている小姓に声を掛けた。ここ八時間程、伝令の類は全て、異常なしということだった。異常のない報告は、睡眠時のライナスに、直接報告しなくてよいことになっている。ただ斥候の報告は全て、この軍に近いところのものからのようだ。北からの報告はない。
 雨は上がったが、まだ大地はぬかるんでいる。斥候が移動に手間取っていても、不思議ではない。有用な情報があと少しで手に入るという場面に出くわしたら、斥候は現場に留まる。定時の報告に多少の遅れがあっても、仕方ないことも多いのだ。そう自分に言い聞かせるが、北からの斥候が一騎も戻って来ていないのは、気にかかる。北の斥候は十人一組にしてある為、誰も報告に来ないというのは、やはりおかしいのだ。
 ライナスは初めて、うなじの毛が逆立つような感覚に襲われた。
 北の斥候は、青流団への警戒である。場所は、マロン川に架かる二つの橋と、ノルマラン近郊の渡渉可能地点。
 身体は、正直に反応する。ライナスのこめかみを一筋、冷や汗が流れた。あるいはこの瞬間、青流団の位置を見失っているのではないか。報告がないことと位置を見失ったということは簡単に結論づけられることではないが、身体は最大限の警告を発していた。次の瞬間にも、青流団はこの本営に夜襲をかけてくるのではないか。
 夜襲への警戒は、万全である。しかしあの大陸最強と名高い青流団が相手では、何が起こるかわからない。さらにアナスタシアだ。夜襲は本来少数で行うものだが、常識はずれの五千全部の夜襲もありえた。いくら万全の警戒を敷いているといっても、五千の軍での夜襲は、日中の合戦で背後を取られるくらいの被害が予想できる。最悪、潰走である。
「すぐに、兵を起こせ。全軍、戦闘準備」
 本営を、伝令が駆け回っていく。しかし何か、間違っているような気がする。何故今になって、というのがどうしても引っかかるのだ。
 こちらの斥候の足を心配するくらい、地面が緩い。青流団もまた同様のはずだ。おまけにマロン川に架かる二つの橋は細く、五千の軍が渡るのにはかなり時間がかかる。渡渉は、この雨で川が増水していて、不可能に近いだろう。用意していたという、大量の木材。それを橋に使うという手も、考えられないことはない。が、ある程度幅がある川に橋を架けるのには、かなり時間がかかる。そんな時間があったら、橋を渡ってしまえばよい。なんなのだ。何故今になってここを急襲するのだ。ライナスの裏をかくにしても、これは悪手である。
「斥候を三隊編成し、北に向かわせろ。十人一組だ」
 指令を飛ばす間も、疑念は晴れない。思い過ごしだろう、という気もしてくる。ただ、絶えず嫌な予感に襲われている。ライナスは軍議用の幕舎に向かった。ランプに火を着け、卓上の地図に見入る。何か、見落としている。それはもう予感ではなく、はっきりとした実感だった。
「宰相」
 シーラが、駆けるように幕舎に入ってくる。肌着に、上着をつっかけただけの格好だ。いつもは入念に施されている、化粧もしていない。素顔は思ったよりも、冷たさを感じない女だとライナスは思った。そういうちょっとした、そして場違いな驚きをきっかけに、ライナスの思考は少しだけ冷静さを取り戻していく。ただ、まだ鼓動は早い。
「青流団の狙いが、わかったような気がします」
 よほど慌てていたのだろう。それだけ話し、シーラは息を整えるまで、何度も呼吸を繰り返した。朝の弱い女である。しばし、ライナスは待った。
 まだ、青流団はあの町に留まっているのか。それを確認することが急務だった。シーラの予測も、それ次第では無意味になる。
 そのシーラが何か言う前に、幕舎のすぐ外で、馬のいななきが聞こえた。血相を変えて、マイラが中に入ってくる。黒革の隠密用の衣装を着ているが、膝から下が泥だらけだった。口を開こうとするシーラを制し、まずはマイラの報告を優先させる。
「ご報告申し上げます。青流団、五千、ノルマランから姿を消しました」
 いきなり、ライナスの中で全ての符号が意味を成した。
 戦線から離れた配置。隊から離脱した、ルチアナの百騎。徴発で集めた大量の木材。マロン川の増水。
 何故、今まで誰も気づかなかった? きっと、それがあまりにもあからさまだったからだ。
 そう、アナスタシアは何も隠してはいなかった。むしろ狙いがわかることを前提に、ゆえに戦線から遠く離れた町へと下がったのだ。おそらくは作戦の成功しうる、ぎりぎりの距離まで。
 すぐに、迎撃軍全体で青流団を追うべきだったか。いや、それは奪還軍本隊を野放しにすることになる。一兵も失わず、奪還軍はパリシに辿り着いていたことだろう。パリシを包囲しながら無傷の奪還軍八万を相手にするのは、さすがのダンブリッジでも厳しい。こちらの軍を分けても、同じようなものだ。むしろ、その悪手を誘っている。
 おそらくはまだ青流団の狙いがわかっていないだろう、ゲクランに負けた。自らが持つ最強の兵を与え、アナスタシアを解き放ったことで、あの女は賭けに勝った。今もそのことに気づいていないだろうゲクランに、ライナスは奇妙な仲間意識すら感じる。
 シーラの方を見る。彼女は頷いた。ライナスと同じ結論に、この副官は数分早く辿り着いた。しかしそれではあまりに遅過ぎた。だが一週間近くも前に、この手を予想できた者がいるのか。そこまで時を遡らなければ、青流団を止められない。
「まさか・・・初めから、詰んでいたと?」
 マイラも、気づいたようだ。この二人はライナスと同等の戦略眼を持ち合わせていることを、あらためて認識する。いや、場合によっては少し上かもしれない。どちらが上にせよ、しかしその差は微々たるものだ。これまで戦略において、明確に自分より一段上の存在に、ライナスは出会ったことがなかった。
 いるのだ。桁違いの戦略を持つ指揮官が、そこにいた。
 マイラの言うように、初めの一手が、いきなり詰みだった。青流団の狙いが、奪還軍との戦闘直前にわかっていたとしても、これでは手の打ちようがない。初めて青流団の動きを掴んだあの日に、既に打てる手はほとんどなかった。あの瞬間に気づけて尚、ライナスに何ができただろう。全てがわかっている今でも、どうすべきかわからないのだ。
 ライナスは、声を上げて笑った。陥陣覇王。どんな陣でも落とすという名は、指揮官として至高のものに聞こえる。初めは大仰な通り名だと思ったが、今ではその名すら、とんだ過小評価だったとわかる。
 皆、あの娘の、どこかぼんやりとしたところに騙されているのだ。少なくとも軍略において、あれは掛け値なしの化け物だ。
「伝令!」
 小姓が声を上げ、血にまみれ、肩に矢を突き立てたままの伝令を通す。その兵の姿を見ても、今のライナスは何も意外だとは思わなかった。よくぞ、生きて辿り着いてくれた。ただ、そう思った。
 息も絶え絶えに、伝令が口を開く。
「パ、パリシ包囲軍、青流団と思われる部隊に夜襲を受けております。遅れながらも呼応し、パリシ城内の兵も包囲軍を攻撃しております。ダンブリッジ中将、敵により捕縛された模様。その他、多くの将兵が討ち取られております。被害甚大。パリシ包囲軍、潰走中です」
 シーラが、天を仰いだ。マイラは、じっと地図に目を落としている。ライナスの手は、震えていた。先程と違い、今度は身体の反応が後から来る。
 北の大地、スラヴァルの裏切りと英傑フーベルトの十一万に挟撃されたアナスタシアの二千は、壊滅し、撤退しながらも、一日で八万を討ったのだ。完全に、包囲された状態で。あれを彼女の敗北と捉えていた自分は、どうかしている。とんでもない戦果ではないか。
 最強の傭兵隊、青流団を率いる、アナスタシア。この認識は、どこかで間違えていた。兵は、指揮官によってその性質を大きく変える。雷雲は去ったが、稲妻に打たれたような気に、ライナスはなっていた。まさに、霹靂。鮮やか過ぎる用兵だった。
 この戦は、負けた。しかしライナスは長いこと、この時を待っていたような気がする。そう、これを、待っていた。
 なんとか、声を絞り出す。
「これだ、これだよ・・・」
 そう、相手にしていたのは、まぎれもなく。
「これこそが、霹靂団の戦なのだよ」
 霹靂団の、アナスタシアだった。

 

つづく

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