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3,「気づいてるわよ。とっくに、気づいてる」

 斥候の、報告が上がる。
「昨日昼十二時、リチャード軍、町を出て街道沿いをゆっくりと、東に向かって進軍中です」
 馬上のゲクランは、懐中時計に目をやった。
 普段なら戦場の斥候の報告に、時刻を添えることはあまりないが、それは本来斥候の策敵範囲が、そう広範囲に及ばないからである。今回は領地の端まで斥候を飛ばしている。彼我の距離が長大、かつその進軍が異常に速いことを考えると、どうしても時間差を意識せざるを得ない。丸一日前の情報から敵の次の目的地を予想することは、あの部隊に限っては非常に困難である。
 今回は、ゲクランの領地全てが戦場である。
 その、尋常じゃない速度。一度ぶつかったラシェルの話だと、その突撃は斥候の馬を追い抜いてのものだったという。リチャードの騎馬隊は、名馬揃いと聞く。部隊の規模が大きく、隠密行動もしていない為、位置の捕捉は容易だが、敵も速度を上げていないから可能なのであり、今はかびの生えかけた情報に頼らざるを得ない。ただ常時どこにいたのかを把握できれば、次の目的地もある程度は絞れるはずだった。
 そして問題は、このリチャード部隊の目的地が、わからないことだった。
 おそらく、今ゲクランのいる場所からさらに北、アヴァラン領との境に近い、ゲクランの居城が目的地だと思われる。そこにはアッシェン王、アンリがいるのだ。五千の、攻城兵器を持たないと思われる騎馬隊に落とされるような城ではないが、万が一ということもある。何かまだ、秘められた策があるかもしれないのだ。その万が一に備え、リチャードをアンリの元に近づけさせないに、こしたことはない。
 大きな意味での戦略、ライナスの描いたそれとしては、リチャードがゲクラン領に侵攻したという時点で、既にその目的に達している。パリシ奪還軍の指揮を執る予定だったゲクランを、そこから引き離した。大きな部分で、既に負けている。
「おや、ピエール殿が合流しそうですよ」
 隣りにいるパスカルが言った。この男はいつも、目元に笑みをたたえている。どこか執事然としたパスカルを見ていると、一時、ゲクランも自分の焦燥を忘れることが出来た。
 前方の、丘の上。稜線に次々と姿を現した重武装の騎馬隊は、それが味方とわかっていても、近づいてくる際には強烈な圧迫感がある。馬甲をつけた馬と、全身鎧を着た乗り手たちの重量感はかなりのもので、大地が揺れるのを感じるくらいだ。
 ゲクラン四騎将の一人ピエールの、重裝騎兵隊である。速度こそ軽騎兵に遠く及ばないが、打撃力では兵科の中でも、最も優れたもののひとつだろう。
 銀色の兜の面頬を上げ、一騎が駆け寄ってくる。
「馬上にて失礼します。重裝騎兵隊、五千を集結させました。残りの五千にも各地に通達を出し、数日以内に合流できるよう、手筈を整えてあります」
 太い眉と大きな目、若さが全身からほとばしっているような、精悍な指揮官である。矮躯で童顔の為、まだ十代半ばくらいに見えるが、今年二十一歳、活きのいい立派な軍人である。
 ピエールは、徴兵された一兵士だったところを、ゲクラン自ら四騎将の一人というところまで育て上げた。武勲も多く民に人気の高い男で、このピエールが加わったことで、ゲクランの幕僚最上位の四人は、四騎将などと呼称されるようになった。個人の武も実戦の指揮官としても、ゲクランを抜かせば領内筆頭の戦士だろう。
「ご苦労様。他の二人には今回裏方に回ってもらうわ。今回はあなたが主役よ」
 手を伸ばし、ピエールのしっとりとした唇に触れる。少年のような指揮官は、顔を真っ赤にして顎を引いた。
「い、いえ、そのような・・・私はその、あくまでゲクラン様の槍です」
「槍? ふふ、槍、欲しいわねえ」
 パスカルが吹き出し、危うく落馬しかけていた。このピエールとは何度も床を共にしている。パスカルとも長いし、四騎将の残りの二人とも、ゲクランは寝ていた。
 こういった噂話は耳目を集めやすく、醜聞ばかりを集めた新聞では、ゲクランの愛人は百人などと書かれている。実をいうとゲクランはこの四人以外の男を知らないのだが、それぞれと同時に付き合いがある為、そんな噂が広まるのも仕方のないことだろう。
 戦時である。目の前に敵のいない今でも、血は滾ってしまっている。今すぐにでもピエールを寝床に連れ込みたいくらいだが、この持て余した力は戦にぶつけるのが正解だろう。
 ピエールの隊と合流し、ゲクランは西へ急いだ。幸い、天候はいい。歩兵が休みなしについてこられる、ぎりぎりの速度を保つ。
 ついに、あのリチャードと、直接対決である。パリシより西に戦線があった時には、当たる機会がなかった。南の戦線でもすれ違っていた。ここまでは、縁がなかったのだろう。が、思わぬ形で相見えることとなった。
 ゲクラン軍の目的はリチャード隊の撃破、欲を言えば捕縛だが、ゲクランはリチャードを殺す気でいた。自分が、常勝将軍と両軍から畏怖されていることは知っている。それは、将としての評価だ。軍略を讃えられるのは結構だが、内心ゲクランはいつも自分の采配に迷い、血を吐く思いで決断してきた。常に結果がついてきたというだけで、その本質は知将には程遠いと自分では思っている。
 はっきりと自信を持っているのは、個人としての武である。早くから軍の頂点に立ってしまったがゆえ、さほど多く個人の武を示す機会に恵まれなかったが、これまでゲクランの目の前を遮って、立っていた者はいない。
 ゲクランは並走させている無人の馬に目をやった。背には、ゲクラン愛用の巨大鎚矛がくくりつけられている。矛先は両手で抱える程の球、柄までアダマンタイトでできたそれを、振り回せる者に出会ったことがない。実に重量は100kg以上ある。ゲクランはこれを、片手で振り回す。生まれついての怪力なのだ。腕力だけならアングルランドの怪力自慢、馬殺しのエイダをも凌駕していることだろう。
 不死身と言われるリチャードが、これの一撃を喰らって生きていられるか。もし本当に生きていたら、当初の予定通り捕縛すればいい。
 日が落ちてすぐ、町の明かりが見えてきた。
 小さな、しかし砦としては堅固な城に入る。今晩はここで情報を整理し、今後の工程を話し合うつもりだった。リチャードの行き先がわからない以上、こんな感じで度々腰を据え、臨機応変に対応していくしかない。
 風呂と食事を手早く済ませ、会議室に指揮官を集めた。
 リチャードに、まだ大きな動きはない。村や市壁の低い町を、点々としているようだ。昨晩は町のひとつで大宴会を催したらしい。他人の領土で、好き放題というわけである。こちらを挑発しているのではなく、あの王の性格だろう。戦時のみならず平時においても、その言動は測りがたいものがあると聞く。長く冒険者として生き、日常と戦闘の日々に区別のなかった男でもある。
 ずっと以前から、防衛に向かない小さな町や村には、大軍が攻め寄せて来た場合に、無駄な抵抗をしないよう通達してある。意味の無い抵抗は、流血を招くだけだ。賊徒や怪物の群れなら話は別だが、相手が敵でも正規の軍なら、滞在させるか、通してしまった方が被害は少ない。リチャードの軍はよく統制が取れていて、今の所こちらの民に狼藉を働いたという報告はない。副官にアイオネという、優秀な指揮官がいるとも聞く。
 それだけではなく、リチャード軍は寄った先々で食料や日常品を購っているのだという。いくらか、舌打ちしたい気分である。気前よく金を落としてくれるのなら、どの町も歓待していることだろう。まあせいぜい金を落としてもらおうかしらね。ゲクランは呟いた。
 ともあれリチャードの騎馬五千には、補給線が無い。それが可能なら、やはり脅威だった。それこそ自由に、ゲクランの領地を好きに動き回ることができる。
 指揮官たちは補給船を持たない部隊だと聞いて、皆一様に眉間に皺を寄せた。このままでは撃破どころか、部隊の捕捉すら困難だ。リチャードの行動予測と今後の方針について、様々な意見が飛び交う。今は、できるだけ多くの想定をしておくべきだ。ゲクランはなるべく自分の意見を挟まず、指揮官たちの話に耳を傾けていた。ただ、思考は目の前の戦から、少し別の方向に飛んでいた。
 アングルランド常備軍。まだその数は少ないと聞くが、その発想を知って、ゲクランはずっと羨ましいと思っていた。国の軍、国軍というわけである。もしそんな、いわばアッシェン軍と言えるものがあれば、ゲクランは真っ先にゲクラン領の防衛にそれを当てていた。そして今頃、奪還軍の指揮を執っていたはずだ。その話をすると、ピエールが首を傾げた。
「もしそんな軍があれば、戦線ごとに自由に兵を差配できる。アヴァラン領に二万、私の領土に三万、奪還軍には十万くらいってね。アッシェンも、結局は諸侯の集まり。兵の動員は不自由だし、それぞれが信頼、連携するのも一苦労よ」
 ゲクランは続ける。
「もしジェルマンの五万が私の領土を守り、私が奪還軍の指揮を続けられたら、こんなに苦労しないんだけどね。自分の家を、他人に、それも信頼できるかどうかわからない人間には預けられない。今は、王の要請でたまたま諸侯が同じ方向を向こうとしているだけ。いえ、いつだってそうね。もしジェルマンの五万に私の領土を守らせようとしてみなさい。そのまま居座って、隙あらば奪還軍の背後を襲うくらいのことは、あの男だったら平気でする。レザーニュに加えて、私の領土も奪うチャンスが出てくるわけだから。機会があれば、すぐにでも裏切る男よ。ライナスもそれを利用するだろうしね。これがアッシェン軍という名目の元、いえ制度的にもそう確立されたものだったら、信頼できる指揮官の元、安心して領土を守らせることができる」
「アングルランド常備軍も、まだ数はそう多くないと聞きますが」
「それができる制度を作り出した。そこがすごい。ライナスは一国の宰相としても傑出してるわ。これから、常備軍の数は増えていくでしょうね。けど今は、私たちは今目の前の戦に集中しなくちゃね」
 この戦の敗北。パリシが奪還できなければ、もう二度と、アッシェンの名の下でこれだけの兵は集められないだろう。南の膠着した戦線もこの地方からの挟撃を受け、決壊する。アングルランドに帰順する者たちが大勢現れ、抵抗する者たちもそれぞれが独自に抗戦するのみとなる。各個撃破は、容易なことだろう。辺境伯領は今度こそ、アッシェンから独立の動きを見せるかもしれない。アッシェンという国名は滅び、ただアングルランドの領土の、一地方名となる。あるいはイル・ダッシェンを中心とした、属国アッシェンに成り下がるか。
 敗北後の、ゲクランの方針は決まっていた。
 いくらか抵抗を続けるつもりだが、最終的には本来のゲクラン領、遥か西方に位置し今はアングルランドの支配下にあるその地方と引き換えに、帰順するつもりである。抵抗はなくなりつつあるアッシェンという国の為ではなく、あくまで今後の交渉を優位に進める為のものになる。が、無駄な流血になるのなら、それも行うつもりはない。領主としては、もうそう動かざるをえない。そしてそれを責める者など、誰もいないだろう。一諸侯として、民を治める者として、そう動かざるをえないのだ。幕僚たちにも、よくわかっているはずだ。
 しかし、ゲクランには現王アンリに対する、ある思いがあった。二人の関係について、知る者は多くない。無論男女の仲というわけではなく、しかしゲクランは過去アンリに対して、彼がただの徒弟の小僧だった時代に、ある約束をしていた。その約束を破らざるをえないのは、領主としてではなく、人間として大きな挫折になるだろう。実に他愛のないやりとりだったが、再会したアンリは覚えていた。ゲクランも、覚えている。そして王とその臣下という立場で再会した時、アンリはこう言って、屈託の無い笑みを浮かべたのだ。
「ああ、あの時のあなたでしたか。本当に、力になってくれるんですね。僕は、信じていました」
 目の前のこの戦は、死力を尽くして戦わねばならない。アッシェンは裏切れても、アンリは裏切れない。
 戦前は、負けるならそれも仕方ないと、どこか達観していた。運命なら、受け入れる。敗北は死と同義ではなく、ゲクランは何があっても生き延びるつもりでいた。それが今になって、アンリの言葉が胸の奥の棘となっている。戦に負けて尚アンリを裏切らずに済む道は、どこにあるのか。
 あらゆる想定をし、そろそろ結論を出そうかという頃、一つの報告が入った。実のところゲクランも把握していなかった、青流団の所在である。
 遊軍として、自由に動けと伝えた。次々とこちらの手を読むライナスに対しての、少し投げやりな一手である。陥陣覇王と恐れられた将軍の采配なら、あるいはゲクランの思いもよらなかった一手が指せるかもしれない。そう思っての決断だった。
 初め、青流団の所在を聞いても、誰もそれが何を意味するかわからなかった。卓上に広げられた地図に目を走らせる。ゲクランの肌に、粟が生じた。
 しばらくして、パスカルが吹き出した。頑丈な石造りの壁に反響して、その笑い声はいつも以上に耳に障る。次いで、ピエールが青ざめる。まさか、と小さく呟く。
 ゲクラン自身も、動転しかけているのを自覚していた。落ち着きを取り戻したパスカルが、皮肉たっぷりの口調で言った。
「これはこれは。アナスタシア殿、恐るべしですな。さすがにこれは、一杯食わされましたか。実に、先を見据えておられる。各々方、この配置が何を意味するか、おわかりですかな?」
 裏切り。そんなことを考えていたからだろう。ゲクランには青流団の配置が、実に的確であると感じた。ああ、アナスタシアは実にこの戦をわかっている。戦略眼では自分やライナスと、まったく同じ所にいる。それはわかった。
「気づいてるわよ」
 ゲクランは、何とか声を絞り出した。
「とっくに、気づいてる」
 

 意外過ぎて、わからなかったというべきか。
 二日、ライナスはパリシ奪還軍が戦場に辿り着くのを待った。万を超える軍が激突するにはここしかない、という原野である。痩せた土地なのか、この辺りは開墾されておらず、まばらな草木が生えるのみである。
 奪還軍が到着する前に、現地で調練ができたことは大きい。草木の色、風の匂い。意外とそんなものに慣れたかどうかで、兵の動きは変わったりする。人と人が殺し合うという暴力の勝敗は、そんな繊細なものが影響を及ぼしたりすることを、ライナスは知っていた。最近流行り始めたスポーツ観戦などをしていると、やはり地元で戦うことの有利を感じる。応援もそうだろうが、その地に慣れているかどうかは、やはり重要な要素のひとつだった。
 土地は平坦で、布陣の有利不利はあまりない。ライナスたちの迎撃軍は予定通り、西に布陣する。
 それよりも、青流団の居場所である。
 レザーニュから北北東に進軍、マロン川を渡り、ゲクラン領のノルマランという町に入ったことは、すぐにわかった。ここで一泊し、次はどこに向かうのかと刮目していたところ、なんと青流団は、そのまま町に駐屯してしまったのである。
 誰もすぐには、意図がわからなかった。実際にアナスタシアと会ったことのあるライナスには、盲点だったと言える。
 軍議の場で最初にそれに気づいたのは、彼女と面識の無いエイダだった。
「ねえ、この位置取り・・・奪還軍本隊とゲクラン軍、双方の背後を衝いているんじゃない?」
 思わず声を上げ、ライナスは哄笑した。ありえない。しかし、間違いなくそうだ。青流団の配置は、それがアッシェン軍の一部であるという大前提を取り払えば、アッシェンの主力両軍を、背後から襲える位置にいる。
 いまだに、それがそうだとは信じられない。同席していたマイラも同意見のようだった。それはアナスタシアと会話を交わしたものなら誰しも感じる、悪い娘ではなさそうだという、漠然とした印象に基づくものだった。では果たして二人は、どれだけ彼女のことを理解していただろうか。あまり表情に変化がなく、何を考えているのか、その深層がわかりづらい娘でもあった。
 あの、ロンディウムに向かう列車の中、ライナスはもう二度と、アナスタシアが戦場に戻ることはないと思っていた。それが意外にも、縁もゆかりもないアッシェンの将として立つことになった。そう、元々何か測り知れない、意外性を持った娘だったのだ。
 先日、パリシで再び相対したマイラは、アナスタシアを、何か憑き物が落ちたようだと言っていた。セシリアと会って、何か変わったようだと。セシリアにはセリーナという、リチャード譲りのこれも測りがたいものを持った娘がいる。二人と会って、彼女らの住むアングルランドに与したいと思った、と考えるのはさすがに早計だろうが、アナスタシアの中で何かしらの変化があったことは間違いない。まさか青流団の団長を務めることになるとは、少なくとも誰も思いつきはしなかっただろう。いや、彼女は一度、青流団と接触していた。その時には、団長の要請を断ったと聞いていたが。
 あるいはその際に、青流団の今後の身の振り方について聞いたのかもしれない。元団長ロサリオンの復帰があれば、彼と親交のあるライナスにつく可能性は高い。そしてその時は遠からず訪れるだろう。この戦の後、おそらく青流団はアングルランドに雇われることになる。ならばこの時点でアングルランドについたとしても、おかしなことではない。明確な形で裏切るのも彼らの矜持が許さないだろうが、消極的に戦況を見守るだけでも、こちらとしては充分である。どう動くにせよ、このアングルランド、アッシェンの百年戦争を終わらせるという大義は立つ。しかしそう都合良く動いてくれるのか。いや、この配置自体、両軍にとってまったくの予想外ではなかったのか。
 考えれば考える程、アナスタシアという人間のことが、わからなくなる。あのスラヴァルで無敵を誇り、帝国の盾となっていた霹靂団がよりにもよってスラヴァルの裏切りによって壊滅したことも、その後アナスタシアが単身放浪を続けたことも、向かった先が隠遁していたセシリアの元、挙げ句今は青流団の団長と、全てが意外性の連続である。大陸五強、陥陣覇王、その他数多の通り名は全て彼女の足跡が生んだ名であるが、その全てが虚像に思えてくる。
 傭兵を引退し、店を開きたい。そんな話をされた時から、アナスタシアのことなど誰もわからなくなっていたのではないか。
「アッシェン軍が、姿を現しました」
 斥候の声で、ライナスは顔を上げた。
 アッシェン、パリシ奪還軍。次々と入る報告で、その数がこれまでと変わっていないことがわかった。今は、南北に幕のように薄く走る木立によってその全容は見えていないが、離脱した部隊もなく、遊軍を編成して側面を襲うような動きもないようだ。その数、七万八千。こちらの七万と、ほぼ同数と見てもよかろう。
 エイダが、馬を走らせてくる。肉体同様、その騎馬も大きく、逞しい。彼女の得物が、巨大であるからだ。
「どうした?」
「いや、あののんびりとした軍を見てよ。隊列整えるまでに昼になりそう。今の内にいくらか叩けるけど、やっぱり待つの?」
「待とう。ここで打ち砕こうとすれば、乱戦になる。敵を、散らしてしまうことにもなろう。集めて、叩く」
 奪還軍にはなるべく、秩序だった戦を望んでいた。今殲滅させられるならそれが最上だが、兵力は同程度だ。ここでの不意打ちは、敵の分散を招く。
 分散、たとえばアヴァラン軍や辺境伯軍が少数の精鋭を率いて戦場を離脱、背後のパリシ包囲軍に襲いかかる。ライナスはこれを警戒していた。
 もっとも、こちらの追撃をかわす程の速過ぎる進軍なら、パリシに着く頃には兵は消耗しきっていることだろう。その状態で、かつ一日以内に包囲軍を撃破できなければ、今度は引き返したライナスたちに挟撃を受ける形になる。この戦場での敗北が決定的にならない限り、そのような無茶はしないだろうと思える。が、戦場のことだ。一か八かの何かに賭けることもあるだろう。用心にこしたことはない。
 騎馬だけならこちらの追撃を楽にかわし、一日だけでパリシに辿り着くことも可能かもしれない。しかし騎馬だけでダンブリッジとその有能な息子たちの堅陣を崩すことはできないだろう。騎馬隊は、歩兵と組んで初めて打撃力を発揮する。リチャードの隊のような例外はあるが、先日の様に辺境伯の軍に完勝してなお、削った兵は全体の二割ほどなのだ。それも、後から合流した歩兵による戦果が主である。騎兵が陣を崩し、歩兵が仕留める。騎馬の限界はそこにあり、太古から続く、それは戦の摂理だった。
 快晴で、無風である。ライナスは振り返り、西の空を見た。こちらと違い、遠方の空に曇天の気配はあるが、その歩みは遅い。今日明日は、天気が崩れることもないだろう。
「まあ、大将首だけは別だ。下の指揮官の首も、狙えるなら狙っておけ」
「了解。私は、ラシェルと当たることになりそう。ふふ、楽しみ」
 この迎撃軍は、北にライナス、南にエイダの形で布陣している。敵は南、敵左翼側に、辺境伯のようだった。いち早く、陣を組み終えている。おそらく北、敵右翼はアヴゥラン軍、中央にレザーニュ軍だろう。
「辺境伯軍と、やり合いたいのか」
「ラシェルとやり合いたいのよ。その副官のブランチャっていう闇エルフも強いらしいけど、陛下と当たって怪我をしたっていうしね」
 戦いたい相手と戦う。それは危険なことだと常々口にする、北の指揮官のことを思い出す。元帥エドナから、北の叛乱について特に変わった報告はない。パリシ攻防のこの戦線に一段落着いたらこちらから兵を回し、叛乱鎮圧に向けて確実な一歩が記せるだろう。しかしノースランドが取るあの厄介な遊撃戦は、多少の戦力増強では終息に向かわないかもしれない。ならばあるいは、長く膠着を続けている、南の戦線に決着を着けるか。このパリシの攻防が終われば、どちらも苦戦はするまい。
 全てが、上手く回っている。そしてその全てが目算である。危険な徴候かもしれないと、ライナスは思っていた。油断こそがまさしく大敵である。逆の立場に立って考えれば、わかることだ。どれだけ絶望的な状況でも相手が油断しているとわかれば、いくらでも手の打ちようはある。
 ライナスは馬上で小さな地図を広げた。この地域、イル・ダッシェンを中心とした周辺図である。
 アナスタシア、青流団の配置。昨晩の軍議では、その配置はアッシェンにとって致命的だという結論に達した。が、大きく西進すれば、北から今のライナスたちを窺える位置でもある。まだ青流団が、こちらに付いたという確信はない。迷っているのかもしれないし、こちらを試しているのかもしれない。青流団の中で反撥する者がいて、その説得に時間がかかっているのかもしれない。まだ、その動向は読めないのだ。既にゲクランが接触を取り、再びアナスタシアを説得しているかもしれない。ライナスはただ、黙してその真意を測るのみである。
 その、位置。西進してもライナスたちを襲うにはマロン川の渡渉が必要で、おそらく奇襲という形にはなるまい。橋は三本、いずれも軍が渡るには狭い橋で、全軍渡り切るにはかなり時間がかかる。そして川を渡渉できそうな箇所は、一カ所。この時期川の流れは速く、渡渉可能地点は、ノルマラン近郊のそこを除いてなさそうだった。先日そこを通って、青流団はノルマランに入った。橋はもちろん、ここにも斥候は配置していた。何かあれば、奇襲の形の前に、報告は届く。
 もっとも、奇襲でなくとも側面攻撃の形を取られれば、厄介であることには違いない。極めて精強な青流団である。ライナスはその五千を、二万の戦力と見積もっていた。今ライナスたちの北に二万が布陣したら、いかに対峙するアッシェンの兵が惰弱とはいえ、やはり安穏とはしていられないだろう。最も兵力を有するレザーニュ軍が無視していい程に弱いとしても、アヴァラン、辺境伯両軍は、そう楽な相手ではあるまい。一気に、五分の戦を強いられる。
 が、青流団の狙いは、やはり別のところにある気がする。北からの奇襲を目論むのなら、これがあの霹靂団の団長かというくらいの悪手である。こちらの側面を窺う、ないしは牽制したければ、初めからゲクラン軍と奪還軍の間に布陣すればよかったのだ。それはこちらの想定のひとつではあったが、それゆえに当初からこれを楽な戦だとも思っていなかった。この迎撃軍を二軍で編成したのは、青流団には直接ライナスが当たらなければならないと思っていたからだ。その戦いが、雌雄を決する鍵となると。いくらか、肩透かしを食らったようにも感じる。本来ライナスたちは、もう少し西に布陣する予定でもあった。パリシ奪還軍の歩みがあまりにも遅く、青流団もここから北東に位置している為やや東に布陣することになったが、今は目の前の奪還軍さえ破ってしまえば、ライナスたちはレザーニュをも落とせる位置にいる。
 何か、罠の気配がある。戦の嗅覚はそれを感じつつあるが、しかし何の罠なのか、ライナスを持ってしても、さっぱりわからない。青流団が、何をするにも遠過ぎる位置にいるのが、全ての原因だ。間違いなく言えるのは、どれだけの速度でこちらに進軍しようと、奇襲はない。戦線から、離脱してしまっているようにすら見える。
 そういえば、マイラがひとつ気になる報告をしていた。青流団がノルマランに到着した夜、百騎程の騎馬隊が町を出たというものだ。斥候程度の数で、実際にその通りなのかもしれないが、半ば戦線から離脱した青流団が、何を偵察するのかがわからない。ただ、この百騎はあの傭兵隊の麒麟児、ルチアナが率いていたらしい。不気味ではあるが、やはり百騎程度でできることは少ない。その寡兵ゆえこちらの斥候に発見されずにどこかを奇襲することはできるだろうが、それでもただの百騎なのである。その程度の数では、どこを奇襲するにしても跳ね返されるだけだ。たとえ、どれだけ青流団が精強であってもだ。
 この百騎自体は無視していい。しかし、青流団がこの百騎を出した意図は謎であり、警戒を要する。それは青流団があたかもアッシェンを裏切るような動きを見せた今では、一層の注意が必要だ。アッシェンを裏切ると見せて、こちらに付く交渉時に、隠れていた百騎がライナスを奇襲。いや、とライナスは頭を振った。稚拙に過ぎる。
「敵軍布陣、完了したようです」
 副官のシーラが言った。ライナスは地図を折り畳み、隠しにしまった。
 すぐにアッシェンの陣から、開戦の角笛が響き渡った。散々待たせておいて、とライナスは苦笑した。こちらも進軍を指示し、開戦の喇叭が響き渡る。
 戦の始まりとも思えない妙にあっさりとした開戦に感じたが、それはこちらが長く待ち過ぎたせいもあるだろう。たった今ここに辿り着いたアッシェン側の兵は、いずれも決死の形相である。振り返ると、こちらの兵たちの顔からは、今ひとつ覇気が感じられなかった。先にこの土地の空気に慣れたことは良いことだったが、どうも利点ばかりではなかったらしい。緊張感が抜けている。戦とは、人の心とは、なんと難解なものだろう。
「少し、動かすか」
 ライナスは呟き、騎馬を集結させた。麾下を先頭に、アヴァラン軍に向かって速度を上げる。
 こちらの長弓隊を警戒していたのだろう、大盾の列に身を隠していたアヴァラン兵たちが、困惑していた。慌てて石弓兵たちが顔を出すが、ライナスは斜線から外れる為に左、北に進路を変え、次いで急旋回した。陣そのものを回り込む形。
 後方に控えていた、アヴァラン公ボードワンの姿が見える。これまで幾度となく矛先を交わらせてきた、歴戦の勇将。地鳴り。先頭を駆けるライナスの背後には、しっかり騎馬隊がついてきているようだ。白い髭をたくわえた、老公の顔が近づく。心臓が脈打つ。風が、頬を打つ。
 ライナスは抜剣し、老公を守ろうとする兵たちの槍の列を払いのけた。ボードワンも部下を押しのけ、剣を抜き放つ。既にこの奇襲じみた突撃から、老将は立ち直っていた。さらに速度を上げ、ライナスは剣を振り下ろした。両者の刃が唸り、火花が一瞬、兵たちのくすんだ甲冑を照らす。ご老公、健勝そうで何よりです。そっと呟く。
 そのまま速度を落とさず、敵陣を突破した。ライナスの身体を、熱い血が駆け巡る。全身が沸騰しそうだが、思考は冷たい鋭さを増している。さらに旋回し、追ってきた敵の騎馬隊と激突した。馳せ違い様に、敵の一人を斬り落とす。返り血が、ライナスの顔を濡らした。鋼鉄と怒号の海を、再び突き抜ける。
 自軍。どの兵たちの目にも、暗い死の炎が揺らめいている。ライナスは、笑った。
 これが、戦だ。そう、胸の内で呟いた。

 

 左翼は、早くも激戦のようだった。
 エイダの軍も、敵に向かって進軍していた。中央、レザーニュ軍五万が、呼応するように突出してくる。一目で、弱い軍だと看破した。そちらに五千程の歩兵を回し、全体としては敵左翼、辺境伯の軍と対峙するよう兵を進める。
 待ちの軍だな、とエイダは感じた。辺境伯の軍である。前列に盾を構えた兵。すぐ後ろに石弓、槍と続く。どの兵も、落ち着いたものである。怪物相手に戦ってきた軍だ。騎馬の突撃くらいでは怯みそうもない。前列はそんな感じだが、全体としては懐の深い、やや横に伸びた方陣である。
 歩兵を前に出しつつ、慎重に隙を窺った。矢合わせをしても良かったが、左翼が激戦を繰り広げているので、今さらという気もした。敵戦列の後ろの土煙。歩兵を回り込んで、騎馬隊が出てきた。合わせて、歩兵がわずかに後退する。惚れ惚れする程に、動きがいい。
 エイダは右、南側に騎兵を進めた。エイダ自身が先頭である。敵も、先頭は総大将のようだった。橙色の髪に、赤い鎧。柄の長い戦斧を手にしている。出来そうな奴だ。あれが"辺境の槍"ラシェルだろうか。残る歩兵に方陣を組ませ、敵歩兵に前進させる。
 エイダが駆けると同時に、背後の騎馬隊も一斉に走り出した。指で手招きし、斜め後方を併走する従者から、身の丈ほどの鉄塊を受け取った。斬馬刀。エイダ愛用の大剣である。見ると、ラシェルもこちらに駆けてきている。
 馬殺しの剣、たっぷりと味わわせてやる。エイダは呟いた。ただし、少し寄り道をしてからね。
 エイダは急激に進路を左に変え、敵歩兵に襲いかかった。敵はこちらの歩兵に備えていた為、ほとんど側面を衝く形になる。
「飛んでけ」
 渾身の力で、大剣を振り上げた。斜に両断された敵の身体が何か別のもののように吹き飛び、前方に向かって激しい血の雨を降らせる。右、左と斬馬刀を振り回し、その度に悲鳴と、血しぶきが上がった。勢いのまま、敵陣を突破する。
 ラシェルの軍の、背後に立つ形となった。が、もう一度突撃をかけるには、距離が近過ぎる。助走の為の走路がない。敵の背後に並んでいた、木立が近すぎるのだ。もっともこの辺りは計算済みで、ここで脚を止めてもいいように、こちらも歩兵を前進させていたのだ。逆に言えばこの木立があることで、敵は正面からの騎兵の突撃をあまり警戒していなかったと思っていい。エイダは続いていた騎馬隊が敵陣を割ってここに集結するのを待っていた。半数が集まったら、ここから移動するつもりだ。全騎馬が集まると、本当に身動きが取れなくなってしまう。軽騎兵は、動いてこそである。
 北を見ると、すぐ近くに敵の一団がいた。レザーニュ軍のようだが、前進する本隊から置いてけぼりをくらっているように見えた。百人程の集団である。
 中央の指揮官が、落馬しかけていた。錯乱しかけた乗り手に代わり、部下が必死に手を伸ばして手綱を握っている。鎧の豪華さから察するに、あるいはレザーニュ伯ジェルマンその人だろうか。武人ではないと聞く。まさに、あの指揮官はそんな感じだ。ここで、斬っておくか。
 その男はずり落ちかけた兜を脱ぎ捨てると、なんとか馬首を回し、木立の中へ逃げていった。
 逃げた指揮官は放っておき、エイダは集結しつつある騎馬隊を率いて、木立沿いに南に駆けた。右手に見える敵歩兵は既に隊列を組み直し、エイダが開けた穴を埋めつつあった。前列は先程の突撃の動揺を感じさせず、こちらの歩兵とやり合っている。エイダが完璧な突撃を敢行してなお、辺境伯軍は崩れていない。
 さすがだな、とエイダは思った。並みのアッシェン軍なら先程の突撃だけで陣を乱し、歩兵の餌食となっいるだろう。どの敵兵もエイダを見て恐怖していたが、部隊そのものが恐慌に陥ることはなかった。まだ血の滴る斬馬刀を見つめる。エイダもせいぜい、恐怖の度合いでは怪物程度だったということか。
 そのまま、敵歩兵の後ろを駆ける。後列はこちらに槍こそ突き出しているが、無駄なちょっかいは出してこない。よく統率された軍だ。中央、馬上でこちらをじっと見ている指揮官がいた。闇エルフのブランチャ。羽虫でも見るような目で、こちらの騎馬隊を眺めている。しばし、目が合った。闇エルフは右腕を吊っている。その負傷がなければ、今すぐにでもそちらに向けて進撃していたかもしれない。それほどに、好敵手の香りがした。
 敵の後ろをすり抜け、反転しようと思ったところで、側面から猛烈な突撃を受けた。騎馬隊が二分される。
「あらやだ、ごめんねぇ。待たせちゃって」
 突撃をかけてきたのは、ラシェルを先頭とした騎馬隊である。迫ってくる。ほとんど並走する形で真っすぐに、逃げる形のエイダの首を狙いにきていた。麾下の五百騎だけを反転させて、エイダは戦斧を構える敵将に向かった。
「馬ごと死ね」
 斬馬刀を横に薙ぎ、ラシェルの首を、馬の首ごと斬り落とす。馳せ違う瞬間、見えない壁に当たったかの様に、エイダの剣は上に逸れた。振り返る。手綱を握り直し、ラシェルが再びこちらに向かってきていた。
「さすが」
 斬馬刀の一撃を、こうもあっさりと弾き返されたのは、初めてかもしれない。一騎打ちでもしたくなるような、胸の震える相手である。ただ、今は他にやることがある。
 エイダはラシェルを振り切り、騎馬隊と合流した。反転、北進し、最初に出した五千の様子を見に行く。追ってくるラシェルは、クレメントが止めてくれるだろう。
 こちらの五千に合わせ、ライナス軍も同数を鏡合わせのように展開し、レザーニュ軍を挟撃していた。方陣を組んで前進しようとする敵に対してやや斜め、西に行くに従って両部隊の距離が近くなるよう陣を組んでいるので、敵の先頭集団は押し潰されるように小さくなっている。クレメントの敵をいなす動きも良いが、父がすぐに呼応してくれたので、配置としては完璧に敵の頭を抑え込む格好になっていた。あの部隊を出すよう指示したのは副官のシーラかもしれないが、エイダはそれが父の采配だと信じたかった。
 五万のレザーニュ軍が、五千の部隊二つに苦戦している。数を活かせていない。中にはいい部隊もいるのかもしれないが、全体の指揮が悪過ぎた。中央で遊んでしまっている兵が多過ぎる。
 エイダは南に引き返しつつ、再び騎馬隊を集結させた。五千の騎馬隊だが、少し兵を減らされた気がする。わずかな変化なので、失ったのは百騎ほどか。先程は、エイダにしてみれば散歩程度の駆け合いだったが、やはり辺境伯は強敵のようだ。時期を見て、今度は本格的な駆け合いをする必要がある。まだ続く歩兵の押し合いは、膠着しているようだ。
 エイダが騎馬隊の先頭に立つと、敵の騎馬隊もラシェルが先頭に出てきた。彼我の距離は、五百メートルくらいか。
「楽しませてくれるじゃない」
 聞こえたわけではないだろうが、辺境伯はこちらに向かって頷いてみせた。

 

 

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