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4,「軍人は、命じられたことをやるだけです」


 日が暮れ始め、両軍共に退いた形になった。
 南北に走る薄い幕のような木立を抜け、ラシェルたちは野営地に入る。輜重隊が、既に営地を作り終えていた。ほっとしたのか、すぐに座り込む兵たちもいた。
 この木立は道中、アヴァラン公がこれを背に戦うことを提案したのだが、思いのほか役立ってくれた。最初のぶつかり合い、こちらの陣をあっさりと突き破って背後を取ったエイダに、鳥肌が立った。背後が原野であったなら、再度の突撃を背面からまともに食らう形になっていただろう。
「犠牲、四百二名。既に後方に下げてあります。助からない者、今後の戦闘に耐えられない者の内訳は、追って報告が入るかと」
 片腕を吊ったまま、闇エルフの副官が冷静に告げた。目は、書類の束に落とされたままである。夕闇で、その表情はよく見えなかった。
「強いな。あいつに、殺されかけた」
 ブランチャが顔を上げる。
「殺されることはあるまい。そう思って見ていましたが」
「そうか? 手首がぎしぎしと痛む。オークの族長クラスかと思ったが、トロール並みの怪力だな、あのエイダとかいう将は。おまけに、剣の腕も半端ではない」
「上手く、力を逃がして戦っているように見えました。ラシェル殿のことです」
「それで、精一杯だったのだ。大将が前に出てくれば、首を落とす。そんな簡単な戦にはなりそうもないな」
 あの巨大な大剣。振りの、力が一番入る直前に、戦斧を伸ばして弾いた。ほとんど何も考えずラシェルの身体はそう動いていたが、いつこちらの首が落ちても不思議ではなかった。エイダとは五度、直接馳せ違った。血が滾り、恐怖は感じなかったが、野営地に戻ると強ばった手の指が、曲がったまま震えていた。
 具足を脱ぐ前に、レザーニュ伯の使者が訪ねてきた。夕餉の前に、軍議を開くらしい。ラシェルはもう一度馬に跨がり、単騎で伯の陣に向かった。
 言われた幕舎の中にいたのは老公ボードワンと、ジェルマンの妻フローレンスである。卓の上の蝋燭が、不安気に揺れていた。小姓が、軽食と飲み物を持ってくる。
「いかがでしたかな、あの"馬殺し"エイダは」
 話の切り出しを見つけられないでいると、まずボードワンが口火を切った。
「少し、こちらの人間を侮っていました。強兵とは聞けど、怪物ほどではないだろうと。実際、敵の兵一人とオーク等を比べれば、オークの方が遥かに強いかもしれない。ただあそこまで組織立った動きをされると、オークの集団よりも脅威を感じます。圧力が、半端ではない」
「あのような大きな得物を携えておりますが、エイダ殿の本質は知将です。ライナス殿の血を、確かに引いておりますな。ただの猛将ではない」
「その通りのようです。そして、果断です。知と武、共に兼ね備えた将軍にああいった戦をされると、こちらとしても楽に勝たせてはもらえないようです。いやまったく、北にもこれだけの将がいるのかと、あらためて感心する次第です。ともあれ、こちらの兵も、人を斬ることに慣れ始めました。唯一気がかりだったのが、そこだったのですよ。我が軍はこれまで多くの返り血を浴びてきましたが、そのほとんどは怪物相手です。人を斬るのとは、心理的な壁の高さが違う。ただ、今日の戦で大分人の血にも慣れたかと」
 知らず饒舌になっている自分に気づいて、ラシェルは戸惑った。恐怖が、あったのかもしれない。少なくとも今は、ほっとして座り込んだ兵の気持ちがわかった。
「その、この度は、不甲斐ない戦い振り、誠に申し訳ありません」
 フローレンスが頭を下げた。甲冑は汚れていないが、切り揃えた前髪が、汗で額にへばりついている。ジェルマンの副官として動いていたはずだが、彼女がどう立ち回っていたのかは知らない。その部隊が遠くで寡兵に動きを止められているのは見えたが、そちらを気にかける余裕はなかったのだ。
 ただ遠目に少し見ただけでも、稚拙な用兵をしていることはわかった。犠牲も、それなりに出しているだろう。
 中央からの指令がなかったことも気にかかったが、それを訝しむ余裕もない戦だったと言える。
「大将に代わって、副官が詫びることはない。それこそ、大将の役目だ。いや、そういえばジェルマン殿はどうされた?」
 負傷したのだろうか、ここにはいないし、来る様子もない。
「夫は、その・・・病で、後方に下がっています」
 心底申し訳なさそうに、フローレンスが再び頭を下げる。見ていて、不憫になる女だ。あの下衆な男が夫なら、それも当然のことだろう。
「病? 持病か何かを持っていたのか?」
 何か言おうとしているが、口をぱくぱくとさせて言葉を紡げないでいる彼女を見て、ラシェルにも事情がわかった。逃げたのだ。
「フローレンス殿が、伯の代理と思ってよかろう。今後も、そうなりましょうぞ」
 言ったボードワンが、水の入った杯を飲み干した。
 誰も、椅子に座っていなかった。落ち着いて話すには、何かが浮ついている。卓上の地図を睨みながら、それぞれ軽食に手を伸ばす。
「私の部隊の犠牲は、四百ほど。お二人は?」
「私の部隊は、百名ほどですな。いきなりライナス殿が突撃してきた時には、最初の犠牲者が私になるかと思いましたが」
「そんなことが。しかしお見事です。犠牲が少ない。こちらでの戦い方を、よく熟知しておられるのですな。レザーニュ軍は?」
「我が軍は、現時点で・・・二千程と聞いております」
「二千。フローレンス殿、戦の経験は?」
「その、今回が初めてです」
 もう少し楽な戦だったら、初陣でしくじればそんなものだと慰めてやりたいところだが、一兵でも惜しいこの戦で、そんなことを言っている余裕はない。ラシェルは溜息を、杯を口に運ぶことでごまかした。
「レザーニュ伯は、指揮権を完全に放棄したと考えてよかろう。さて、少し困ったことになりましたな・・・」
 ボードワンが、白い髭に手をやる。
「全体の、指揮の話ですね。フローレンス殿の階級は、今回の戦では?」
「中佐とうかがっております」
 アッシェンの戦はこの国古来のもの通り、戦役ごとに軍の階級が通達される。この制度には以前から問題点が指摘されていたが、戦ごとに諸侯の誰が参戦するかわからないのだから、そうするしかない。
 今ここにいる三軍では、レザーニュ伯ジェルマンが大将、ボードワンが中将、そしてラシェルが少将とされている。兵力で上から順に決めていった格好になってしまっているのは、レザーニュ伯の性格を顧慮してのものだろう。ゲクランならともかく、兵力で劣る二将軍のいうことを、黙って聞く性格ではない。
 この後も問題だ。ジェルマンが戦死、ないしは負傷によりこの戦での復帰がないと確定していれば問題なく階級によって指揮系統を決めればいいのだが、途中からおかしな形で復帰されては、指揮が乱れるのは目に見えている。
「倅がいれば、我が軍は奴に任せ、私が奪還軍の参謀、いやいっそフローレンス殿の副官となっても良かったのだが・・・」
 ボードワンは、少し搦め手を考えていたようだ。規律や秩序を重んじそうな老将だが、実際は柔軟な考えの持ち主なのかもしれない。難しい顔をして腕を組み、地図を睨みつけていた。北のレヌブランが動いたことで、兵力よりも、息子で副官たるイジドールを失ったことが、老公にとって痛手だったのだろう。フローレンスが問う。
「ボードワン殿のアヴァラン軍が中央に布陣し、全体の指揮を執られては?」
「それも、考えました。しかし私としては、ここは階級にこだわらず、ひとつラシェル殿にお任せしても良いかと」
「もう少し多くの兵を率いていれば、そのお役目仰せつかったことでしょう。が、我が軍は、既に八千を切っています」
「あの、何か問題が」
 この娘は自分の無知をごまかそうとせず、わからないことはわからないと聞く性格のようだ。老公が答える。
「それ自体、問題はない。しかし両翼の運用は、経験がいるのです。側面、背面を取られるのを警戒しつつ、勝機も作らねばなりませんからな」
「加えて、各部隊の指示も細かくなりがちだ。指揮官はもちろん、優れた副官が、臨機応変に事態に対応しなくてはならない。一方中央は、両翼がしっかりしていれば、ただ前進と後退の機を見極めるだけでいい。伝令のしやすさもあるが、戦況全体を見渡すのは中央が最も見やすい。そういう理由で全体の大将は、中央にいることが多いのだ。私のように中央を任されても騎馬で飛び出してしまう将も少なくないが、その場合は信頼できる幕僚たちが残る部隊を固める。大将の動きからその狙いを読み取り、補佐をするべく自らの部隊を動かしたり、両翼に指示を出したりする。将の実力とは、将一人のものではない。その幕僚の力あって、初めて評価されるものだ」
「なるほど・・・我が軍は指揮官の、何より私の経験の少なさから両翼は任せられず、さりとて中央に布陣するには心許ない。そして今作戦で初めて戦の指揮を執る私には、誰が信頼に足る、優れた幕僚なのかがわかりません。問題点は、大体こういったところでしょうか」
 特に卑屈な様子を見せるわけでもなく、フローレンスは言った。おや、とラシェルは思った。この娘は戦の経験こそないものの、その素直さは意外に人物なのかもしれないと思った。少なくとも、すぐに状況を理解できるだけの、知性の高さはある。途中から引き継いだラシェルの話は少し論旨からずれてしまったのだが、それをも汲み取って、ひとつの話として成立させている。
「その通りだ」
「わかりました。その、お二人の足を引っ張りたくはないのです。そして兵、民たちをこれ以上私の稚拙な指揮で犠牲にしたくない。我侭だと承知の上、それでもどうかお二人の知恵をお貸し下さい」
 フローレンスが、二人に請う。その目はどこまでも、真っすぐである。
 ラシェルは思わず笑みをこぼした。同じ顔をしているボードワンと、目が合う。やはり初々しく、素直な娘だ。加えて、責任感が強い。
「全体の指揮は、確かに取りづらい。しかし動きが必要な時には、私の所から伝令を飛ばそう。どうですかな、辺境伯?」
「それがいいでしょう。しかし指揮以前に、ここで全体の動きを決めたらどうですか。例えば、中央のレザーニュ軍は今日よりもやや後方、最後尾は木立の列ぎりぎりまで下げ、我々両翼は少し前に出る」
 ラシェルの意図を察し、老将が言葉を継ぐ。
「敵の押しが強い時は、レザーニュ軍は五千程の援軍を出し、押してきた敵の側面を狙う。両翼共に押されたら、それぞれ五千。この形なら遊んでしまう兵も少なくなりますな」
「そして両翼のこちらが押せれば、敵の中央を遊ばせることができる。レザーニュ軍は両翼とは、一定の距離を保つよう、心掛けて頂きたい。五千に近い形で、部隊を十ほど、編成しておくと良いだろう」
「五千で援軍が足りないと思っても、それ以上は出されませんよう。危険とわかったら、我々も後方に下がります。時にわざとそう見せかけて、反撃することもある。計一万以上は出さず、残りはあくまでレザーニュ軍自体の防衛に。攻撃は敵がそちらに敵が接近してきた時のみでよろしい」
「ふむ、ボードワン殿と私の考えは、ほぼ一致しているようです。この形で行きましょう」
 二人が、同時に頷いた。後は細々と決めず、臨機応変にやった方がいい。轡を並べること自体、初めての者同士の軍なのだ。細かい連携は、望むべきではない。
 フローレンス。生まれ育ちはアングルランドということだが、今アッシェンの民を率いて祖国と相対している現状は、心中穏やかではないだろう。しかし彼女はそういった逡巡や悲壮感を、表に出していなかった。正直、指揮官としての彼女を、ラシェルは下に見ている。しかし人間的には、ラシェルなどよりよほど立派な娘なのだろうと、率直に思う。ラシェルが人に誇れるのは、自分の武と用兵くらいなものだ。領地の経営も、夫に任せきりである。
 ただ今回の軍議で、軍にようやく一本芯が入った気がした。ゲクランがいないことで、やはりこの軍にはそうしたものがなかったのだ。新たな大将となったボードワンが、パイプを取り出した。火をつけ、ゆっくりと紫煙を吹き出す。
「北は、どうなっておるのでしょうな。元帥、及び青流団からの伝令は、お二人の元に?」
 肩をすくめて、フローレンスの方を見る。彼女も首を横に振った。
「青流団は、やはり元帥と共にリチャード王を追っているのでしょうか。にしては、二人は別々の方向に進軍したようですが・・・」
「何か、考えがあってのことでしょう。そう言えばフローレンス殿は、出立前にアナスタシア殿と何か話しておられましたな?」
 その光景は、ラシェルも目にしていた。言葉は聞こえなかったが、ごく短いやりとりだった気がする。
「いえ、その、挨拶のようなもので。作戦や、青流団の行き先については、何も」
「そうですか。いや、押され気味とはいえ、まだ互角の戦。ここに青流団がいれば戦術の幅も広がっただろうにと。これは私も、少し臆病風に吹かれたかもしれませんな」
 老公はそう言って笑った。今の一言で、一見好々爺に見えたこの老将が、ジェルマンに相当の憤りを感じていることがわかった。しかし邪魔な指揮官が消えたことで、明日の戦は仕切り直せる。
 青流団がここにいれば。ラシェルもそう思った。戦局もそうだが、陥陣覇王の戦を間近に見てみたいという、ラシェルの願望もある。
 フローレンスが、二人を励ますように言った。
「あの方には、あの方の考えがあるのだと思います。私たちは、ここで頑張りましょう」
「ハッハッハ。思ったより、頼もしい指揮官だ。いや、偉そうに言ってしまって申し訳ない。ただ指揮官の素質はあると、私は思いますぞ」
「同感です。時にフローレンス殿は、アナスタシア殿と以前から面識が?」
「いえ、あの軍議の場で、初めて会いました。スラヴァルで活躍された、大陸五強の一人。それ以上、あの方のことはよく存じ上げなくて」
「そうなのか」
 それで、散会ということになった。軍議としては、これ以上話し合うこともない。
 が、自陣へ戻る間、ラシェルはフローレンスのあの口振りが気になっていた。あの場で初めて出会い、一言言葉を交わしただけの者を、あの方、などと呼ぶだろうか。陥陣覇王のことも、よく知らなかったのだという。単に言葉の綾かもしれないが、既に親交があるかのような調子で、アナスタシアの行動の不可解さを真っ先に擁護した。あの娘なら、一緒にどこに行ったのかと思案を巡らせると思ったのだが。どういうわけか、信じ切っているように見える。何か、違和感は拭えない。
 篝火の横、自陣の端で、ブランチャが待っていた。見渡したところ、夜襲に対する備えは万全のようだ。
 フローレンスとアナスタシア、二人の関係性。
 しかし今のラシェルにはそれどころではないと、頭の隅に追いやった。

 

 五百の麾下と共に、戦場に到着した。
 いや、正確には四九七名か。三名、脱落した。面倒を見切れず、途中の町に置いてきたのだ。ただの行軍で兵が脱落しただけでも情けないが、結果戦場に辿り着くのに遅れたのが腹立たしい。ジルの心は、ささくれだっていた。
 レヌブランと、アッシェンの国境。前方に、南北に伸びる山脈の麓。両軍は、既に対峙していた。ジルの到着を知って、部隊の一つからケンタウロスが駆けてくる。その背に小柄な老騎士。ゲオルグとアーラインだ。今回の戦で、部隊の一つを任せている。
 二人が口を開く前に、ジルは詫びた。
「すまない。総大将が戦場に遅れるなど、どれほどの失態なのか、私には想像もつかない」
 腑が、煮えくり返っている。ジルは両手で挟み込むように、思い切り自分の頬を叩いた。余程大きな音がしたのか、後列の兵が驚いて振り返っている。
「まあまあ、そんなに気張るでない。戦はまだ始まっておらんでな」
「言い訳はしない。どんな処罰も受ける所存だ」
「お前が総大将なのだ。ここでお前を裁くことができる者などいない。後で本国にでも報告すればよかろう」
 ぴしりと、アーラインが言う。その下半身は白馬であり、さらに白銀の鎧を身に纏ったケンタウロスは、美しいのはもちろん、既に神々しさすら感じる。戦場の張りつめた空気が、より一層彼女をそう見せているのかもしれない。
「レーモン殿は? ともあれ、戦況を聞きたい」
 手前、四つの方陣を組んでいるのがレヌブランの軍である。東、部隊の遥か先には南北に伸びる尾根を背に、アヴァラン軍が展開している様子が見えた。尾根の麓に沿って、薄い陣形を布いている。
 二騎、部隊から離れてこちらにやってくる者がいる。一人はこの地の伯爵で兵の徴集も務めた、レーモン伯だ。ジルはお飾りで、実質経験豊かなこの男が総大将といってもいいだろう。もう一人は副官だろうか、若い偉丈夫で、ジルには初めて見る顔だ。赤茶色の髪に、短い顎髭だけを生やしている。
「レーモン殿、遅れてすまない。事情は後で話す。挨拶抜きで、まずは戦況を聞きたい」
「睨み合いが続いております。まだ、両軍の衝突はありません」
 髪に白いものが多くなった、古強者の指揮官が答える。男としては小兵だが、精悍さと獰猛さを失っていない将軍である。かつてのバルタザールの右腕で、彼が敗れ、戦場から退いた今も、こうして戦場に立ち続けていた。
 もう一人の、若い副官に目をやった。ジルにはすぐわかった。おや、と思うくらい、この男は腕が立つ。
「そちらは?」
「息子のヴィクトールです。私の副官をしております」
 確かに名簿には、レーモンの副官の一人としてそんな名があった気がする。
「ヴィクトールです。以後、お見知りおきを」
 言って副官は、笑顔で片目を閉じてみせた。物怖じしない、なかなか人を食った男のようだ。二十代半ばくらいか。
 この親子は、まるで似ていない。息子は母親似なのだろうか。その190cm近い巨躯は、レーモンの息子というより、まだバルタザールの息子と言われた方がしっくりくるくらいだ。
「アヴァラン軍、進軍を開始した模様です」
 伝令の報告が入る。その兵は一瞬、ジルとレーモン、どちらに情報を伝えるべきか、迷ったようだった。結局、少将でありこの軍の総大将たるジルに向かって報告は成されたが、誰も真から、ジルが自分たちの指揮官だとは思っていないだろう。お飾りの総大将である。赤面しているのを自覚し、ジルは俯いた。振り返ってこちらを見ている兵たちの視線が痛い。
「ヴィクトール、お前が指揮を執れ。私はしばらく、少将殿のお傍に控える」
「お任せを」
 親指をぐっと立て、若い副官は馬に飛び乗った。惚れ惚れするような乗り手である。老騎士とケンタウロスも、手を振って自分の部隊へ戻る。程なくして、開戦の角笛が響き渡った。
「レヌブラントでは、ごく少数の兵を率いて調練の真似事をしているが、戦に関しては素人だ。レーモン殿、ご教示よろしく頼む」
 ジルが言うと、レーモンはちょっと驚いたような顔をした。
「お役に立てるならば」
「早速だが、この戦、どう見る。敵軍は、あれでどの程度の兵力なのだろう。パリシ奪還軍に参戦せず、領内に残ったアヴァラン軍は、一万五千と聞いている。あそこに集まっているのは、どのくらいだ?」
「一万二千ですな」
 レーモンが即答する。
「領内に、おそらく三千程しか残してはいない。しかしアヴァラン領はどこも堅牢で、すぐにどこかの砦が落ちるというような心配はしていないでしょう。むしろ一見要所に見えるあの尾根こそが、実は最も防備の薄い所なのです」
 アヴァラン軍の背後。かなり急な、しかし軍が通るには充分な幅の坂道があり、あそこから敵軍は出入りするのだろう。国境も、ちょうどあの辺りだったはずだ。南北に伸びる山々は、それが城壁であるかのように急峻で、岩肌の露出しているところは、ほとんど崖に近い。ジルは地図を思い浮かべた。あの坂道を上り切った先は長い渓谷となっており、狭く曲がりくねった道沿いに、無数の小さな砦が点在していたはずだ。軍が通ろうとすれば長く伸び切った隊列に、左右から激烈な攻撃を受けることになる。地形そのものが、長大な罠である。
「こちらの兵力は、四万であるはずだが、どうだろう、少し少ないように見える。どこかに伏兵のような形で伏せてあるのだろうか」
「今展開しているのは、三万です。一万はあえて近隣の者たちで、召集をかけ次第すぐに武器を持って集まれるようにしてあります。早ければ半日で、大半はここに集結できるでしょう。もうひとつ、二日以内に、さらに一万を追加徴集できる形を整えてあります」
 四万を召集せよという指令とは、少し異なる。現場に一万少ないが、もう一万の予備兵力があるようだ。なんと言うべきなのか、わからない。戦の細かいことは、全てこのレーモンに任せてあった。
 自分はこの戦に対し、何も貢献できていないとあらためて感じた。本国アングルランドの意向を、レヌブランの実質的な統治者であるレヌブラント伯バルタザールに告げただけである。ジルには他にレヌブラン総督としての仕事があったとはいえ、何とも情けない気分になる。おまけに昨晩着くはずだった戦場に、半日以上遅れた。この責任を、どう取るべきか。その思いが、どうしても頭の中をちらつく。
「なるほど。責めるわけではないので、教えてほしい。一度に四万を徴集しなかった意図は?」
「余力のある戦だからです。今回の出陣の目的は、奪還軍に加わる予定だったアヴァラン軍の一部を領内に留めておくためと聞きました。できれば、アヴァラン公の右腕たるイジドールをここに留めておくことと。既に、その戦略目標に達しております」
「そうか・・・ではひょっとしたら、もう戦う必要はないのかもしれないな」
 両軍、じりじりと距離を詰めているのが見える。まだ悲鳴も怒号も聞こえず、軍楽隊の単調な拍子に合わせて、兵が歩みを進めている段階だ。あちらの前衛が、大盾を用意している。こちらがそうしているかは、ここからは見えない。
「そうかもしれませんな。なのでこちらは布陣した後、動かずにいました。こうしてあちらが進軍してきた以上、こちらも何もしないわけにはいきますまい」
「アヴァランが、進軍してきている、意図はなんだろう」
 レーモンが、くぐもった呻きを上げた。ひょっとしたら、苦笑したのかもしれない。続けた言葉に、そんな感情が混じっている。
「それはもう、こちらが侵攻の構えを見せたのですから。仕掛けたのはこちらで、それを見た先方も、いきなり砦に籠るという怯懦は見せますまい。こちらがとんでもない大軍ならいざ知らず」
「なるほど。それも、そうだ」
 脅されたので、やり返す。アヴァランにすれば当然の対応で、しかしこちらには本格的な侵攻の意図はない。何かこのやり取りは、馬鹿げたことのように思える。
 先程までとは違う自己嫌悪が、ジルの胸の奥からせり上がってきた。紙切れ一枚の命令書で、人同士が殺し合いをする。何かとんでもないことが起こっているはずだが、今ひとつ実感が持てない。そのことにも、嫌な感じがするのだ。そしてこの戦場の責任者は、ジルである。深く悩みもせずに辞令と指令を受け取った自分に、嫌気が差してくる。
 人など、旅の間にいくらでも斬ってきた。今さら血が流れることに大した抵抗はない。ただしそれは、あくまでジル自身の為で、殺すことの責任も自ら背負ってきた。全て、自分の手の届く範囲だった気がする。他人が殺し合うのに関わるのは、自身で斬ってきた命のやり取りとは、まるで別のものに感じた。殺すのではなく、殺させている。その重荷を、この身一人が背負えるのか。
 しかし自分がちゃんと兵を率いた戦なら、また別の感情があったことだろうとも思う。ジル自身が先頭に立って戦う戦なら、兵に死ねと言える気もするのだ。実際、今率いている麾下五百騎には、共に死ねと言える。
 今さらながら命のやり取りに混乱してきて、ジルは少し話題を変えた。
「今回はこのような戦なので、こちらも必要以上に兵を出さなかったということだな。実際にアヴァラン領を落とすには、どれだけの兵が必要なのだろう」
「二十万、といったところです」
 レヌブランの総兵力がどのくらいになるか、ジルは総督の立場から計算した。十七、八万といったところか。戦ごとの徴兵なので実際どの程度まで可能なのかはわからない。徴兵期間を無視すればこれより遥かに多くの兵を動員できるかもしれないが、期間が過ぎれば一気に兵を失うので、現実的ではなくなってくる。それに戦となれば攻め返されることもあり、町の防衛にも多くの兵が必要になってくるだろう。
 つまりレーモンの答えは、レヌブラン単独でアヴァランを落とすのは難しいと言っているに等しい。
「多いな」
「まともに、やり合えばです。もっとも、兵の多寡に関わらず、やりようはあるかと思います」
「何か、策が?」
「今の時点では、特に。そう命じられれば、その時に考える。一万で落とせと言われれば、一万で落とす方法を考える。軍人は、命じられたことをやるだけです」
 ジルは、そう語るレーモンの横顔を見つめた。きっと、いい軍人なのだろう。この男とはレヌブラントの宮廷で面識がある程度だったが、素顔の一面を見たという気がする。ジルはまだこの歴戦の古強者について、何も知らないと言っていい。軍歴や、伯として治める領地の状況。書類ではあらゆる情報が入ってくるが、そこから人の本質を見抜くには、ジルにはまだわからないことが多過ぎる。
「なに、大した戦闘にはなりますまい。向こうは戦上手のイジドールです。この戦が戦略的にどのような位置づけかわかっているでしょうし、どこかで山っ気を出しておかしな押し方もしてこないでしょう。アヴァラン軍を指揮するのがイジドールでなかったら、こちらも色々仕掛けてもよかったかもしれませんな」
 レーモンが淡々とした口調で言った。その目は遠く、両軍の方に注がれている。
 ぶつかり合いはあったが、その日の戦闘において、双方の犠牲は少なかった。形だけの戦という格好だった。
 夕食を済ませて、自分の幕舎に戻る。外では麾下の兵たちが、天幕では寝られないと愚痴を零しているのが聞こえた。アングルランドの下級貴族や、商家の子弟たちで構成された部隊である。ジルの姿が見えなくなると、息をするより多く、不平不満を吐き出し続ける。ジルは旅の暮らしが長かったので、凍死する心配さえなければどんな所でも眠ることができる。もっとも旅慣れた者たちに言わせると、ジルはもう少し寝床に気を遣った方がいいらしい。
 聞こえてくる声に苛立ちが募り、ジルは幕舎を出て野営地を散歩した。敬礼に一々返礼をしなくてはならないのが鬱陶しく、兵の集まる所は避ける。
 盛大に焚かれた篝火のせいもあるだろうが、あまり星の見えない夜だった。西の空は、少し雲がどんよりとしている。天気が、崩れる。目で見たものよりも空気の湿り具合で、ジルはそれを確信した。陣を離れ、近くの木立に足を向ける。
「一人で、夜のお散歩ですかい?」
 声を掛けられ、ジルは振り返った。月明かりに、その巨体が浮かび上がる。レーモンの副官、ヴィクトールだった。
「ああ。貴殿は、そんなところで何をしている?」
「少将殿と同じですよ、多分ね」
 ジルがこんな面相でなければ、笑いかけていたかもしれない。無理に笑いかけようとすると、大抵の人間は怖がる。悪相なのだ。
「女性がこんな夜更けに一人だと、何かと心配になります」
「なんだろう、貴殿に言われると、不思議と馬鹿にされたような気がしないな」
 どちらが誘うでもなく、共に野営地の端を歩いた。立ち上る草の匂いが、すっかり夏のものになっている。
「今日は、何故到着が遅れたんです?」
「麾下が、だらしなかったんだ。長駆で体調を崩す者がいて、結局三人を町の宿に置いてきた」
「こちらの兵でも、そういう者はいます。進軍に支障があると思ったら、さっさと離脱させることでしょう。臆病風だって、病みたいなもんです」
「なるほど、そうか。私も含め、皆実戦は初めてだった。人の血に慣れた私では、臆病風など思いもよらなかった」
「本当に、病だったのかもしれませんしね。ま、結局やることは一緒です」
 言って、ヴィクトールは笑った。何故か、胸の奥が温かくなる。
 彼の笑顔にそう感じたのかもしれないし、遅れた理由を誰かに聞いてもらいたかったのかもしれない。
 微風に乗ったヴィクトールの匂いが、鼻腔をくすぐった。思わず、胸が締め付けられた。それはあの男、バルタザールのものによく似ていたからだ。あの男に関するものは、いつでもジルの心をかき乱す。
「つかぬことを聞きたい。貴殿は、その、レーモン殿のご子息ということだが・・・」
 ジルが言い淀んでいると、ヴィクトールは立ち止まった。
「ああ、似ていないでしょう? これまでにも、そんな話をされたことがあります。養子なんです。地元の連中は、みんな知ってますがね」
「養子。元は、誰の」
「少将殿。人にはあまり、聞かれたくない話ってのもあるんです」
 何と返したらいいかわからず、ジルは俯いた。続くこの男の闊達な笑い声に、いくらか救われた気持ちになる。
「ハハハッ。まあ、気にしないで下さい。少将殿が沈んでいると、部隊が暗くなる。総大将は、でんと構えてりゃいい。仮にも大陸五強の英雄様だ。誰もが、軍に箔がついたと思ってますよ。みんな、少将殿を待ちわびてたんだ。あれが"弾丸斬り"かって、嬉しそうに話してましたよ。そこにいるだけで兵の士気を高められる人間は、そうはいない。もっと、自分に自信を持って下さい」
「剣の腕なら、自信はある」
 先程より大きく、ヴィクトールは笑った。あの男が大笑いするところを見たことがないが、やはり似ている。バルタザールの隠し子か、少なくとも甥か何かの近い血縁だと思われた。
「ま、これからもよろしくお願いしますよ。軍の立場を抜きにしても、あんたは認められそうだ」
 急に砕けた物言いになったが、悪い気はしなかった。この大男の方が歳上なのに、何故か新しい弟ができたかのような錯覚に陥る。何か、親しみを感じるのだった。ゲオルグやアーラインのように、傍にいると安心する男だ。ジルが他人に対してそう感じるのは、極めて珍しい。
「私こそ、あらためてよろしく頼むよ」
 自然と手を差し出すと、ヴィクトールが、目を大きく開けた後、微笑んだ。
 ひょっとしたら今のジルは、上手く笑えていたのかもしれない。

 

つづく

 

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