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2,「一瞬にして、絵図は描けたのか」

 秘策は、あった。
 ただそれをそう呼ぶべきかどうか、ゲクランには自信がなかった。どんな結果になるのか、まるでわからないのだ。読めない手を策と呼ぶべきではないと、ゲクランも承知している。
 石造りの家屋は広くはないが、軍議を行うには充分である。向かって右手、二つの大きい窓から、外の光が斜めに差していた。
「挨拶は各々が済ませるとして、ここではいいわね。いよいよ、パリシ奪還よ。今日集まったこの面々で、王都を奪還する」
 席に着いた指揮官たちが、一様に頷く。集まった五人の指揮官と、その副官たち。
 軍議を司会し、今作戦の元帥を務めるゲクランが上座。向かって左、手前に座っているのは、この地を治めるレザーニュ伯、ジェルマンである。名君であった先代とは違い、領主としても人間としても問題のある男だった。卑屈さとそれを覆い隠そうとする尊大さは、そのままこの男の顔に出ている。軍の指揮を執るのは、今回が初めてのはずである。武の嗜みはなく、具足姿がこれほど似合わない男も珍しいだろう。
 その席の後ろ、副官として立っている娘は、伯の妻フローレンスだ。この娘がここに入ってくる時、思わずゲクランは声を上げた。長く、艶やかな煉瓦色の髪が、美しい娘だったのである。その髪を、ばっさりと切り落としていた。うなじの辺りで切り揃えた髪は、少年のようでもある。夫に代わる領地経営、主に文官的な仕事に辣腕を振るっていたフローレンスが今回の戦に副官として参戦すると聞いただけでも驚いたが、この姿を見て、更なる驚きを禁じ得ない。軽く挨拶を交わした際、ゲクランの視線に気づいたのか、首の後ろを押さえて恥ずかしそうに微笑んでいた。
 そしてこのフローレンスも具足姿であった。鎧は真新しく、この戦に合わせてあつらえたのかもしれない。この、戦の経験のない夫婦が今作戦最大の兵力を有している辺り、ゲクランでなくともいささか不安な気持ちになったかもしれない。フローレンスが領主代行としていかに有能でも、その経営と戦では、求められる能力が違う。
 もうひとつ、フローレンスは敵国アングルランドから、和平工作の一環として嫁いできたという経緯もある。祖国との戦い。彼女なりに思うところはあるだろうし、それが気負いになって出ているという様は、充分に見て取れた。
 その奥に座っているのは、アヴァラン公、ボードワン。既に老将と言っていいが、その分実績もあり、ゲクラン自身の幕僚を除けば、アッシェンで最も信頼のおける将軍だ。その背後に副官として立っているのが、息子のイジドール。共に、戦上手である。
 向かって右、手前にいるのは辺境伯ラシェルだった。佇まいこそ静かだが、外の光を背に受けて、その橙色の長い髪は燃えているようだった。
 ラシェルの軍をどう評価するか、ゲクランは決めあぐねていた。辺境伯領が王の要請に応じて出して来た兵は、このラシェルの一万のみ。もっと多くの辺境伯たちの参戦、合計三、四万の兵を期待し、受け入れ態勢を整えていただけに、拍子抜けだった。ただ、その兵は極めて精強だとも聞いている。南の長城で今も、怪物たちの侵攻を食い止めている軍である。行軍中にリチャードの奇襲に合い、一万いた兵は八千にまで減ってしまったが、それでも尚アッシェン兵二、三万に匹敵すると、ゲクランはみていた。
 ラシェルの後ろ、壁際には副官のブランチャが立っていた。窓枠の横に立つ闇エルフは、逆光気味の光もあり、そのまま暗がりに溶け込んでいる。
 辺境伯の奥が、アナスタシアだった。後ろでまとめた銀髪の上で、陽光が湖面の反射のように静かに輝いていた。その横顔は、入念な化粧をして尚、どこか子供っぽい。大陸東の人種のように、顔の凹凸が少ないのだ。今気づいたが、肌の質感もそう思わせる一因だろう。肌理が細かく、赤子の様にぷくぷくとした柔らかそうな頬をしている。
 背後には、青流団二人の副官が立っていた。老ドワーフはこうした場にはもう何百回と出ていることだろう。これまでのゲクランとの戦と違い、今回は副官としての出席だが、いつも通りくつろいだ表情をしている。
 その横に、青流団の麒麟児ルチアナ。ぎらついた目でこちらを睨んでいるように見えたが、どうやらゲクランの後ろ、壁に張られた地図を書き付けに写し取っているようだ。この少女はいつも、張りつめた空気を身に纏っている。まだ十四歳という若年だが、子供扱いは失礼だろう。身体つきは、既に立派な大人のそれである。剣の腕、用兵共に抜群の素質を持っており、すぐにでもゲクラン自身の幕僚に加えたいくらいだ。
 ゲクランはひとつ、息を吐いた。
「結論から言うわ。当初伝えていた作戦概要から、大きな変更がある。それを伝える前にもう一度、これまでの動きを伝えておくわね」
 ジェルマンが何か言いかけたが、ゲクランは壁の地図を指して話を進めた。隅でゲクランの副官パスカルが、何故か笑いをこらえている。
「アングルランド、パリシ包囲軍の数は、およそ十二万。これを打ち破り、パリシを解放、奪還するのが私たちの目的よ。けど、アングルランドもただ手をこまねいてこちらの進軍を許すわけじゃない。パリシを包囲したままだと、劣勢に陥った場合、パリシに籠っている王都軍との挟撃に合うからね。で、包囲軍の中から迎撃軍が編成され、こちらを迎え撃つ形になる。その実数は、先程報告があったわ。七万。十二万の内七万を割いて、"戦闘宰相"ライナスが、直接指揮を執るそうよ」
 指揮官たちは、一様に頷く。ただ一人、ジェルマンだけが不満げな声を上げた。
「我々アッシェンの兵力はどうなっている。事前には十三万程と聞いていたぞ。が、ここに来てみたらどうだ。半分とは言わないまでも、随分と集まっている兵は少ないように見えるぞ。特にゲクラン元帥。貴殿の兵はまだ到着すらしていないようだが」
「その通りね。この後、説明する」
「アヴァラン軍も、少ないようだ。そして辺境伯の軍は、つまらない奇襲で数を減らしたと聞いたぞ。さらに青流団は、見知らぬ女が率いることになっている。何もかもが、聞いた話と違うぞ」
 その顔を醜く歪めながら、レザーニュ伯は言い放った。ゲクランは内心舌打ちした。質問の形を取りながら、何かこちらの落ち度を必死にあげつらっているように見える。ゲクランは煙管に火をつけ、苛立ちを紫煙と共に霧散させた。
「今、パリシ包囲軍の数は十二万と言ったけど、これにもうひとつ、参戦の有無がわからなかった部隊がひとつ、加わることになった。アングルランド王リチャードの麾下、五千の騎馬隊よ」
 ラシェルが、少し居ずまいを正した。先日の奇襲は、この将にどんな影響をもたらしたのだろう。
「この部隊は常に編成済み、そして決まった所に駐屯していない。その都度、どこにいるのかの捕捉も難しかった。隠密行動をしているわけではないので、足跡は辿れるわ。ただどんな情報にも、時間差が生じてしまう。加えて、気まぐれな王自らに率いられているので、参戦の有無すらわからない。現に、南の戦線ではそのこと自体にあのライナスが頭を抱えていた様子だしね。ゆえに双方とも、いるにも関わらず戦略に組み込みづらい、そういう部隊として存在してきた」
「だから何なのだ。貴殿らは臆病者か。たかが五千、無視すればいい話だろう」
「できるわけないでしょう」
「リチャードの部隊は、精兵です。動き次第では、数万の兵に匹敵する」
 辺境伯が、腕組みをして言う。一瞬場が静まり返ったが、自身の咳払いで、ラシェルは話の続きを促した。
「私としては、現れたら最も厄介なのは、ここだと考えていた」
 ゲクランは、再び壁の地図に手を置いた。
「南からの奇襲。迎撃軍と奪還軍が激突している時の、側面を衝くことになる。背面よりもマシに見えるかもしれないけど、背後はレザーニュ城近郊、動き回るには障害が多い。南がもうひとつ厄介なのは、直前まで位置が捕捉できなかっただろうってことよ」
 ボードワンが、口を開いた。
「このことは事前に、元帥と話し合っておりました。私も、南からが一番可能性が高いだろうと。しかし元帥、この口振りではリチャードの軍の捕捉に成功し、しかもそれが南からではなかったと?」
「西・・・それも、私の領地の西に現れた」
 ボードワンとその息子が、唸った。ラシェルは地図の方に目をやり、歯を食いしばっている。ジェルマンはしばし事態が飲み込めなかったようだが、しばらくして、卓を叩いて怒りを露にした。
「まさか・・・ゲクラン元帥はこの奪還軍を見捨てて、自領に戻られるつもりではなかろうな」
「見捨てはしない。けど、合流は時間がかかるかもしれない。リチャード王の部隊を撃破した後に西進して、北からパリシを窺うことになる」
 ゲクラン領は、パリシからレザーニュにかけての地域の北、東西に長い領土だ。さらにこの北が、ボードワンたちのアヴァラン領である。
「やれやれ、参りましたね」
 アヴァラン領の次期当主でもある、イジドールが言った。斜に構えたところのあるこの男は、軽く肩をすくめて続けた。
「俺はこの後、とんぼ返りで自領の防衛に当たらなくちゃいけない。北、ウチのことは、みなさんもうご存知で?」
 ジェルマンは真っ赤な顔で首を振り、ラシェルは鼻を鳴らしただけだった。まだアヴァラン親子としかこの件については話していないし、そもそもそういった話の擦り合わせがこの軍議なのである。
「二人とは事前の予想はしてたけど、昨日報告が入ったわ。レヌブランが兵を動員し、アヴァラン領を攻めようとしてる。イジドールはこの後すぐに帰還し、自領の防衛に当たる。私はもちろん、了承済みよ」
「まあ、ここには親父と二万の兵を残します。防衛の兵は元々あちらに残してあるし、今いる兵が減るってわけじゃない」
「アヴァラン軍の不足は、こういうことか」
 ジェルマンが、さかんに口を挟む。ここが自領なので、自分が話の主導権を握りたいのかもしれない。が、現状に有効な手だてを思いつかないまま発言しても、茶々をいれることにしかならなかった。相手の話を否定できれば、自分が有利な立場に立てる。思い込み、ただそれだけを繰り返す、馬鹿な男である。
 先程から、アナスタシアが一言も発していなかった。
 手前の大柄な辺境伯に隠れがちな彼女の方を見ると、銀髪の傭兵隊長は目を閉じたまま、微塵も動かないでいるようだった。傭兵のアナスタシアは、スラヴァルのこうした軍議でも末席だったのかもしれない。余計なことは口にしない。そう決めて貝になっているようだった。外で見た、あのとぼけた様子とはまた違った一面を見せている。そしてこの横顔こそが、自分の求めた英雄のものである気がした。
「私は自領の防衛をしつつ、リチャードを追う。私の城には、陛下もいる。万が一にでも、陛下に何かあってはいけない」
「待て。俺の、レザーニュの軍で、迎撃軍、ライナスを撃破しなければならないのか」
「あなたの軍は、五万。ボードワンが二万に、ラシェルが八千。迎撃軍の七万に対して、あなたたちは七万八千。いかにライナスの用兵が神がかっているからって、勝負にならない数じゃない」
「し、しかし・・・もし負けたら、どうなる。奴らはこのレザーニュまで侵攻してくるのではないか? 実際、両軍の激突は俺の領地内になるのだろう?」
 なおも食い下がろうとするジェルマンに対し、後ろに立っていたフローレンスが口を開いた。
「あなた。ここはレザーニュ軍の力を見せましょう。元帥、後は我々にお任せを」
「黙れ、生意気な女め!」
 立ち上がったジェルマンが、思い切りフローレンスの顔を張り飛ばした。
 一気に、室内が色めき立つ。倒れた妻にさらに暴力を振るおうとした夫を、老公が押さえつけていた。屈強な辺境伯は椅子を跳ね飛ばして立ち上がったまま、小さな暴君を睨みつけている。その拳を、闇エルフの手が抑えていた。ブランチャが止めなければ、ラシェルはジェルマンに殴り掛かっていたかもしれない。
「ジェルマン殿、落ち着かれよ。そして奥方は何も間違ったことを言っていない。よしんば不適切な発言があったとしても、手を上げていい理由にはなりませんぞ」
 老公の必死の制止は、しかしジェルマンの逆上を誘ったらしい。
「手を離せ、老いぼれめ。あんたに何がわかる。この女は、俺に死ねと言っているようなものなのだぞ」
 ボードワンはそれでもジェルマンを宥めようとしていたが、今度はラシェルが黙っていなかった。
「臆病者が。そのご立派な具足姿は何の為だ。戦場で死ぬ覚悟のない指揮官は、おとなしく城にでも閉じこもっていろ」
 言いながら副官の手を振り払った辺境伯が、ジェルマンに掴み掛かった。室内が沸騰する中、一人我関せずの態度を貫いているのが、アナスタシアである。目の前の卓の上や天井を、まるでそこについた染みを数えるかのようにしばらく見つめた後、再び目を閉じた。
「やめなさい。陛下が見たら泣くわよ」
 ゲクランは二人を引き離した。こう見えて、腕力には自信がある。ゲクランの思わぬ怪力に、ラシェルは驚いたようだった。ばつが悪そうに、それぞれが自分の席に戻る。
「ともあれここから進発する奪還軍は、迎撃軍を撃破し、パリシを目指す。兵はほぼ同数。苦境というわけでもありますまい」
 ボードワンはそう言ったが、本当は誰よりもこの事態の困難さを理解しているのだ。先日、彼の城でもその話はした。ライナスを破るだけでも大変だが、大きな余力を残しておかないと、パリシ包囲軍は破れない。ライナスは無理をして奪還軍と死闘を演じる必要はなく、適当なところで兵を退き、包囲軍と合流、あるいは独立したまま、包囲軍と協力して奪還軍を挟撃してもいい。それ以前に戦線が膠着してしまえば、一気に兵をかき集めたアッシェン側は、その兵の懲役期間を過ぎてしまう。力と恐怖で押さえつけ、民を兵のままにしておくことは出来るだろうが、士気は落ち、烏合の衆と化すだろう。
 特に、レザーニュ軍が問題だった。領内から兵を集めるのに、時間をかけ過ぎている。辺境伯軍はそもそも兵の懲役期間が長く、超過分に対しては給金や恩賞も出るので長い滞在は可能らしいが、地元であるはずのレザーニュ軍は、この辺りが上手く行っていない。大量動員は、いきなり兵の大幅な損失を迎える時期がくる。ゲクランは兵の入れ替え時期も計算しているし、聞いた所、アングルランドもその辺りは遺漏がない。
 本来ならゲクランの四万が中心となり、十一万の軍勢で、速戦でライナスを撃破、退いたライナスにアヴァラン公を当てて足止め、反撃の機を与えず、リチャードの奇襲も青流団をもって当たる。それでもなお、五分の戦と見ていた。今もパリシ包囲に留まるダンブリッジは宿将であり、五万の兵力を有している。これを相手に有利な戦をできなければ、王都軍との連携は望めない。ただ五分といっても、ゲクランにはそれを成す自信があった。レザーニュ軍の数を活かす、戦術もあった。
 ゲクランが不在となる今、すべての戦略が瓦解している。ゲクラン抜きの奪還軍が、ライナスを二度も破ることが期待できるだろうか。それどころか今や、奪還軍を破ったライナスが、レザーニュまで落としかねない勢いだ。いや、あのライナスなら、充分できる。
 認めたくないが、この戦は相当に苦しい。
 こうなったら何としても、奪還軍が持ちこたえている間に、ゲクランがリチャードを捕えるしかない。王を捕え、身代金代わりにパリシを奪回するのだ。その意味で、充分勝機はあるように見える。ただしあれが、通常の部隊だったらだ。
 あの部隊の撃破は、正直難しい。しかし放っておけば、ただ自領が荒らされるのを見ているだけになる。そうなればゲクランがここに留まったとて、補給もままならない。さらにこちらの王を取られる心配も出てくる。やはり、無視はできないのだ。そして危険であると同時に、捕えただけで勝ちが確定するという、とんでもなく旨味のある果実である。罠とわかっていても、放っておけば後悔以外、何もないだろう。
 現実的に考えればこの戦の間中、ゲクランは自領に縛り付けられることになる。あの身軽過ぎる部隊を、撃破どころか、そもそも捉まえられるのか。リチャードがいなくなるまで、各砦に籠って、牽制を繰り返すだけにならないのか。ライナスも無策に、自国の王という極上の餌を差し出してきたわけではあるまい。決してゲクランには捕えられないだろうという、自信があっての一手に違いないのだ。
 有利不利が、頭の中で二転三転する。不利な戦局を打開しようと、必死に希望を掘り起こしているからだ。つまるところ、それは戦略で負けていることの証左である。ゲクランは奥歯を噛み締めた。
 ただそれでも尚、ゲクランに、秘策はある。
「とにかく私はリチャードの部隊を撃破して、あなたたちに合流する。可能なら、リチャードの捕縛。これは一発逆転よ」
「いつだ。二、三日で捕えられるのか」
 ジェルマンの言葉に、今度こそゲクランは大きな溜息をつかざるをえなかった。この無能にこれ以上関わりたくはないが、目下、奪還軍最大兵力という悲劇があった。
「整理するわね。当初我々はここレザーニュにパリシ奪還軍十三万を編成し、パリシ包囲軍十二万と激突する予定だった。ここにリチャードの部隊は入ってないけど、こちらも動きの不透明なパリシ王都軍の兵を頭数に入れていない。と、ここまでがさっきも言った、今作戦の前段階」
 ボードワンとラシェル、副官たちが頷く。
「ここからが、今の状況よ。まず、アングルランド属国のレヌブランに動きが出る。これは私が事前に予想できたことなので、アヴァラン公とは既に話し合い済み。主戦力は、今までの実績から考えても、私とボードワンの二枚看板ってとこだからね、どちらかの戦力を削る動きはあると思ってた。レヌブランは、その意味で最適解のひとつね。次、これは予想できなかったけど、リチャード王の部隊が、私の領土に現れた。これは正直、やられたわね。奪還軍の直接の指揮を執る予定だった私も、離脱を余儀なくされた・・・結果、残った軍でまずライナスの迎撃軍を破り、かつパリシ包囲軍をも撃破しなくてはならない」
 ゲクランは、苦笑をこらえた。口にすればあらためて、絶望的な戦況である。
「北、アヴァラン領は、イジドール、自領の防衛に専念して頂戴。本来なら全軍で防衛に当たりたいところだろうけど、実に半分以上の兵を出してもらった。そのアッシェンに対する忠義、陛下に代わって御礼を言わせてもらうわ」
 アヴァランの親子は、揃って頭を下げる。
「私は、まずは陛下を守りつつ、リチャードの撃破に専念。運が良ければ、捕縛によりパリシ解放を迫る。捕縛が無理でも撃破次第すぐに奪還軍に合流し、勝利を確実なものとする」
 難しいだろう。しかし、やるしかない。できなければ、それは避けられない、アッシェンの滅びの序章となる。
「そして、奪還軍本隊。健闘を祈るわ。私はここの現場を離れる以上、諸侯の健闘を祈るしかない。それと・・・」
 ゲクランは一度大きく、深呼吸をした。ライナスにやられたと思った時、思いついたことだ。これが、秘策となるか。
「アナスタシア。青流団は私と契約した部隊だけど、私と共にリチャードの撃破に当たらなくていい。奪還軍から独立して動く権限を与えるわ。遊軍よ。無論私についてきてもいいし、奪還軍本隊に随行してもいい。そしてどちらにもつかず、青流団独自の動きをしてもらっても構わない」
 アナスタシアが、初めて顔を上げた。そのどこか茫洋とした眼差しからは、彼女が何を思ったのかはわからない。
 戦略で、ライナスに負けた。それは認めざるをえない。では大陸五強、その軍に破れぬ陣はなしと恐れられたこの将ならば、どうか。
「青流団がいかに強兵でも、五千の傭兵隊でできることは、そう多くない。リチャードの部隊のように、全てが騎馬という特殊性もない。私の頭じゃ、青流団をどこに配置するのが最良か、思いつかなかった。いえ、どこに置いても、ライナスの手の内というべきかしら。こと今作戦において、私の戦略はすべてあの戦闘宰相に読まれている。あと私に切れる手は、あなたというジョーカーを切るだけよ。アナスタシア、あなたという手札を得る為に、私と陛下は危険をおしてパリシに潜入した。不測の事態ではもう一人の英雄、あなたの力が必要だと思ったから。今ここで、どんな手があるか示してくれなくてもいいわ。急な話だしね。私に伝えなくても構わない。その方が、読まれなくていいでしょうから。あなたに、あなただけの戦略を与える。どうかしら、アナスタシア。やってくれるかしら」
「徴発は、どの程度可能でしょうか」
 即答にして、思わぬ質問である。一瞬にして、絵図は描けたのか。鳥肌が立つのを、ゲクランは感じた。
「俺の領地では草木一本、徴発することは許さんぞ」
 ジェルマンが叫ぶ。とことん、いない方がいい男である。徴発と聞いて、反射的に領主の自尊心のみが膨れ上がったか。
「私の、臣下のものを含めたゲクラン領では、好きに徴発してもらって構わない。すぐに各町に通達を出すわね」
「わかりました」
「その、レザーニュ領からも、できるだけの援助を・・・」
 レザーニュの内政を取り仕切る、フローレンスの言葉である。その出来損ないの夫は妻を振り返り、今度は殴るようなことをしなかったものの、どんな狼藉よりも暴力的な悪態をついた。
「黙っていろ。この、石女が」
 一瞬で、場が凍りつく。
 二人の間に、まだ跡継ぎは生まれていない。殴られても、気丈な振る舞いで立ち上がっていたフローレンスだが、既にその顔面は蒼白だった。唇が震えている。アングルランドから嫁いできて七年、いまだ子宝に恵まれないことは、この娘にとってとてつもない重荷だったのだろう。
 思わず、ゲクランは口を開いていた。
「戦場に、男も女もない。こうしてここに集まった面々は、特にそう。けれど今だけは言わせてもらうわ。女として、あなただけは許さない。ジェルマン、この戦に決着がついたら、私はレザーニュを攻め落とす。そして歴代最悪の領主に代わって、最良の、そうね、今あなたの後ろに立っている有能な娘にでも、この地を治めてもらおうかしら」
「なっ・・・! せ、宣戦布告か? 代々続くレザーニュ家の嫡子たる俺を追い出し、あろうことか外国から来た女に家督を譲ると?」
「す、すみません。私がまた、いらぬことを申し上げたばかりに。どうかここは、私のことはどうでもいいので・・・」
「フローレンスが領主になる。民にとっては、その方が幸せでしょうねえ」
「民がなんだ! 俺は貴い血を引く者だ。なあ、ボードワン殿、そもそもこの戦はどうもきな臭くないか。ゲクラン元帥はわざわざ辺境から、何もわからなそうな愚鈍な田舎女を呼び出し、その副官は汚らわしい闇エルフときた。さらにこのアナスタシアとかいう頭の悪そうな外国の女を担ぎ出して、かの名高い青流団の団長につけた。次は俺を追い出し、この外国人を領主とする? どんな陰謀だ。元帥はいずれ王家も廃し、自分がアッシェンの新たな王朝を開こうとするのではないか? このふしだらな女なら、やりかねない。愛国の士ボードワン殿、このアッシェンにとって実に危機的な状況を、どう心得ておられる。外国人の女二人を使って、元帥はとんでもないことを企んでいるぞ」
 この歪んだ演説にはさすがの老公も、開いた口が塞がらないようだった。ラシェルの緑色の瞳には怒りはなく、ただただあきれている様子である。
 気づくと、アナスタシアが小さく手を上げていた。やや場違いな挙手だが、この馬鹿げた空気を変えてくれる、希望の一手に見えた。
「いいわよ、アナスタシア」
「戦略目標は、パリシ奪還。あくまでこの一点と捉えていいのでしょうか」
「その通り。その通りよ」
「了解です」
 それきりアナスタシアは、また彫像の様に目も口も閉じてしまった。
 不意に、散会の機が訪れたようだった。これ以上何か話し合っても、またおかしな方向にしか行かないだろう。編成も、配置の話も済んでいる。後は各自が、やるべきことをやるだけだ。
 散会を告げると、まずアナスタシアが席を立った。二人の副官が、それに続く。それぞれが退出する中、ゲクランはフローレンスを呼び止めた。
「さっきは余計なこと言っちゃって、ごめんなさいね。あなたがあの夫みたいな連中相手に、肩身の狭い思いをしていることは、聞いている。けど今じゃ、領地経営の多くを任されているんでしょう? たくさんの人があなたを支持しているし、何よりも私が、あなたを評価してる。あんな物騒なこと言っちゃったけど、私はあなたの味方よ。お隣りさん同士、これからも仲良くしましょ」
「ありがとうございます。その、私がいたばかりに場が乱れてしまって、本当に申し訳ありません」
 目に涙を浮かべながら、フローレンスは何度も頭を下げた。この娘の健気さには、胸を打たれる。責任感の強さが、彼女を戦場に立たせたのだろう。戸口でその邪悪な夫がこちらを見ていた為、抱き締めてやることはできなかったが、いつでもそうしてやりたい気分だった。今の言葉で、少しでも彼女を勇気づけられたか。
 まだ部屋の中に滞留する気まずい空気から逃れるように屋外に出ると、そのフローレンスに、アナスタシアが歩み寄っていた。気落ちした細い肩を傭兵が叩き、何か言葉を口にしている。一瞬、フローレンスの目が大きく見開かれた。次いで、弾けるように笑う。あんな顔で笑うフローレンスを、ゲクランは初めて見た。
 もう一度フローレンスの肩を叩き、アナスタシアは兵の元へと戻っていった。その背中に、赤髪の娘が何度も頭を下げる。顔を上げたフローレンスに、もう先程までの悲しい面差しはない。
 あの傭兵は、一体どんな魔法を使ったのだ。ゲクランはそう思った。


 エイダの胸は、高鳴っていた。
 父ライナスの副将として、共に一軍を率いているのだ。父とはこれまで、何度か轡を並べたことがある。しかしこれまでのエイダはライナスが多く率いる将の一人で、共に戦っているという実感に、今ひとつ欠けていた。戦時、時折一緒に食事をしたが、食事中も部下に矢継ぎ早の指示を出すライナスを見て、目の前の父が自分を見てくれているかの確信もなかったのだ。
 今、父は目の前にいない。長く伸びる行軍の列の中段にいて、馬上のエイダが振り返っても、その姿は目視できなかった。にもかかわらず、先頭に立つエイダには、父の存在をはっきり感じ取ることが出来た。父が歩む道を切り拓く。そんな高揚感に満ちていた。
「随分と機嫌がよろしいようです。今日の大佐は」
 隣りに並ぶ、副官のクレメントが言った。
「それはそうよ。私はずっと、こんな日を待ちわびていた気がする。うーん、幸せだわあ」
 麦秋の終わり、つまりは初夏も過ぎ、もう夏と言っていい季節である。もっともこうした季節感は、場所によって異なる。地形や風によるものだろう。ここより北が、先に夏になっていることもあるのだ。
 街道の脇の麦畑は、そのほとんどが刈り取られていた。まだ残る畑も、街道脇のものは優先的に刈り終えている。戦の話は民にも伝わっていたのだろう。軍は街道を進むが、あまり隊列が長くなりすぎないよう、兵は街道の脇にも大きく隊列を広げることがある。作物が残っていれば、それは踏みつぶして進まねばならない。この地域では、その心配はなさそうだった。
 今いる地域、イル・ダッシェンの民がどんな悲しい思いをしようと、エイダには関心がない。ただ収穫を荒らすということは、この地の生産が落ちるということであった。自領の次期領主、そして忙しい父に代わってそれを代行するエイダにとって、それは他人事ではなかった。最終的にこの地を誰が治めるにせよ、その財はすなわちアングルランドの財である。そしてアングルランドの財は、その政治的な頂点に立つライナスの財でもある。そう思うと、遠くで急ぎの刈り入れをしている村人たちの姿すら、愛おしく感じた。
 農夫の子供の一人と、目が合った。父さんの、ライナスの為にたらふく食べて、早く大きくなって、たくさん働いてね。エイダは声に出さず笑顔だけを向けた。
「いい天気ねえ。私たちを、祝福してくれているのかしら」
 クレメントが苦笑する。笑った顔は、少し父に似ている。この男がたくわえる立派な口髭こそ違うが、そもそもどこかライナスに似た雰囲気もある。が、エイダがこの副官を気に入っているのは、別の理由があった。
 騎士階級のクレメントは、その卓抜した指揮能力とは裏腹に、不遇の軍歴を辿っていた。本人の目立ちたがらない性格もあったが何より、その性向を上官に疎まれていたのだ。
 クレメントは、同性愛者である。エイダからすればそれが何だという思いしかないが、それを気味悪がる兵や指揮官の数は、思いのほか多い。能力の高い指揮官の話はよくエイダの耳に入ってくるが、この男の話は、あまり届く機会がなかった。
 ある日気まぐれで、あまり注目されていなかった者たちを指揮官として試している時に、クレメントを見つけた。おや、と思うくらい、その指揮は抜きん出ていた。最近領内にやってきた者や、元傭兵というならわかる。しかし経歴を調べてみると地元の騎士で、軍歴も長かった。他の者たちの話を聞いて、要はその性向ゆえに話題を避けられていただけだとわかった。
 エイダは、すぐにクレメントを第一の副官とした。軍の規模によりエイダの軍の副官の数は異なるが、抜擢して以来、この男は常に傍に置いていた。
 有能である。派手な武勲を上げる類の男ではなかったが、エイダが今の地位や階級を得る為に、不可欠な男であったと思っている。どんな戦も、一人でするわけではない。兵たちはもちろん、それを束ねる有能な指揮官が必要だ。自分にとってクレメントこそが、それである。
「どうされました」
「何でもないわ。ああ、斥候が戻って来たみたいね」
 十騎程の騎馬が、こちらに向かって駆けてくる。一騎だけを留まらせ、残りは後方の父の元へ送った。
「馬上にて失礼します。アッシェン軍、こちらにむかって進軍を開始しております。その数、およそ八万」
「ほぼ想定通りね。多分正確な数は七万八千でしょう。指揮官は?」
「旗を見る限り、アヴァラン公ボードワン、レザーニュ伯ジェルマン、辺境伯ラシェルの軍と思われます」
「内訳は、どうかしら」
「最も多いのが、レザーニュ伯の約五万。続くのがアヴァラン公の、約二万。辺境伯の軍は、一万を割っていると思われます」
 父の予想通りである。
「ゲクランはいないのね。ああ、青流団はどうしてる? ゲクランと共に、北に向かった?」
「そのことですが・・・」
 斥候は少し、顔を曇らせた。
「私が直接見たのではなく、他の斥候隊から聞いたのですが、軍議解散後、青流団はかなりの速度で、北東に向かったようなのです」
「北東? 北西じゃなくて?」
「はあ。ゲクランは供回りの五百騎と共に、北西に向かったようなのですが。この辺りの情報は、まだ追っている段階であります」
「別行動か。おかしいわね・・・」
 レザーニュ城から北東の地域も、一応はゲクランの領地である。ゲクラン領は、東西に長い。が、リチャード王の別働隊が展開しているのはゲクラン領の西の端であり、北西へ向かい、本隊と合流を図るゲクランの行動は真っ当だが、別行動、それも北東へ向かったとなると、エイダにはその意図が全くわからない。
「ちょっと父さんのとこに行ってくる。クレメント、後はお願い」
 エイダは単騎、ライナスの元へ駆けた。既に斥候からの報告は聞いた様子で、やはり青流団については同様の疑問を持っているようだった。傍に、新しい副官が馬首を並べている。冷たい目をした女だなと、エイダは思った。
「この戦は開戦前から、たったひとつを除いて、全て想定通りに進んでいる」
 そのたったひとつの想定外が、アナスタシアの存在だろう。彼女が囀る者たちの追撃を振り払い、パリシを脱出したことは、エイダも聞いていた。何故かゲクランの元に身を寄せたと聞いていたが、青流団の指揮を執ると聞いた時は、少し驚かされたものだ。父はそれを知ってしくじったと思ったようだが、エイダにはそれが深刻なことのようには思えなかった。あの伝説の大陸五強、エルフのロサリオンが残した青流団は、元から精強なのである。アナスタシアという指揮官が加わらなくとも、そもそも最大限の警戒をすべき傭兵隊なのだ。陥陣覇王が加わったことで、弱兵が強兵になったわけではない。
「アナスタシアか・・・彼女が青流団を率いることになって、どんな采配をするか、見てみたい気持ちもあった」
「けど、肩すかしをくらったみたいね。奪還軍とは、別行動をするみたい」
「本当に、そうなのだろうか」
 基本的な予想として、青流団はゲクランに付いていき、共にリチャードの征伐に当たると考えられていた。それ以外では、これはこの軍にとって危険な話だったが、青流団を奪還軍本隊に残し、ライナスたちの撃破を最優先とする配置。だがこれも、違うようだ。
「遊撃隊、ということは考えられないでしょうか」
 新任の副官、確かシーラという名だったか、彼女が口を開いた。
「こちらに次の手を読ませない為、一度後方に下がった。戦場を見極め、ゲクランか奪還軍か、その時に必要な場所に加勢する。その進軍速度を考えれば予想外の動きも考えられます。これは少し、怖い手だとも思います」
 なるほど。予備兵力とも両面作戦ともいえるもので、どちらに参戦するにせよ、こちらは最初の一撃を不意打ちに近い形でくらう。青流団の進軍速度は極めて高く、騎兵ほどではないにせよ、歩兵はほとんど休憩を取らずにかなりの速度で進軍できるという。その高い能力を最大限に活かすという意味で、悪い手ではない。
 青流団の配置は、引き絞った強弓といったところか。おそらくまさかという距離から、矢が飛んでくる。このシーラという女は、中々頭が切れるようだ。
「・・・少し、雑な気がするな。知略を駆使し、青流団の能力を知る指揮官なら、誰が思いついても不思議じゃないし、そもそもゲクラン殿の戦だという感じがしない。二、三枚重ねの周到な知略と、思い切った用兵が持ち味の指揮官殿だ・・・いや」
 ライナスは苦笑した。何か、わかったのだろう。頭の回転の良さでは、エイダは父以上の人間を知らない。
「狙いは、ゲクラン殿にもわかっていないのかもしれないな」
「どういうこと?」
「これは、ゲクラン殿の手ではない。長く渡り合ってきたので、それはわかる。さりとて、ちょっと知恵の回る程度の人間の話に、耳を傾けたとも思えない。彼女自身、すこぶる知恵が回るからな」
「じゃあ、一体・・・」
「指揮を、放棄したのさ。青流団の動きそのものを、アナスタシア殿に放り投げた。投げやりだが、これはこれで厄介だ。ゲクラン殿の戦略を読み切り、その上を行った確信はある。しかし今度はアナスタシア殿の考えを読まなくてはならなくなった。自分の考えが読まれていることを悟り、別の何かに賭けたのさ。そしてこの思い切りの良さは、彼女の性格に一致する。いや、繰り返すが本当に厄介だぞ。早速マイラに、青流団の動向を探らせよう」
 マイラの名前が出て、エイダの胃はむかついた。あの腹違いの姉は、仇敵といってもいい。あいつよりも頼りになるところを、見せてやる。
 目をやると、眉間に皺を寄せ、こめかみに手をやったライナスは、しかしどこか楽しそうでもあった。

 

 その歩みは、蝸牛のように遅い。
 パリシ奪還軍の、この進軍である。原因は、兵の波に飲まれるような格好になっていたドナルドたちにも、明らかだった。レザーニュ軍が、他の二軍との歩調を合わせることに、執着してしまっているのだ。上でどういうやりとりが行われているのかは知らないが、数の少ない辺境伯軍、次いでアヴァラン軍と先行させておけば、行軍は今よりもずっと滞りなかったことだろう。街道がなければ、ちゃんと西に向かって進軍できているのかすら、定かではなかったに違いない。全体を統括しているのは、レザーニュ伯か。アヴァラン公が指揮を執っていれば、こんな失態はありえない。あるいは三人の将軍が、同格に近いのかもしれない。そもそもこの奪還軍は、ゲクラン元帥自らが指揮を執る予定だった。
 前方、街道の交わる場所。南北それぞれから来た馬車が、この行軍が通り過ぎるのを待つ為、長い渋滞の列を作っていた。馬車を下り、その脇で軍列を眺めながら飯を食っている者たちもいる。街道を駆け回る行商の馬車は、人の身体に喩えれば、血液の流れのようなものだと聞いたことがある。血が止まっている状態だなと、ドナルドは思った。
 快晴、心地よい風も吹いているが、人熱れで目眩がするくらいだった。人馬がこうも密集していると、ただただ空気が不快である。
「まだレザーニュ城が見えますよ。おじさん、進軍っていつもこんなに遅いんですか」
 ドナルドの座る鞍の後ろ、馬の背の上で器用に立っているジャンヌが言った。そこはいくらか涼しそうだと、ドナルドは思った。
 以前までのジャンヌは、気づくとドナルドの前に立っていることが多かった。が、ここ数日は、いつの間にか後ろに立っていることが多い気がする。子猫の様にすばしっこく、気まぐれな子である。
「いや、こんなに遅い進軍は、おじさんでも初めてだよ。ジャンヌ、そこから何が見える?」
「隊列、広過ぎちゃって、北と南の兵隊さんたちは、畑を踏み荒らしちゃってますね。あーあ、もったいない・・・ん、もう収穫できそうなものは、兵隊さんが収穫を手伝ってますよ。それで余計行軍が遅れてますけど、まあ食べ物を踏みつぶして歩くよりはいいですよね」
「そうだな。食べ物を粗末にしてはいけないし、ここで働く者たちの生活もかかっているからな」
 戦とは、病のようなものだとドナルドは思う。戦が生み出すのは、なにも怪我人ばかりではない。
 が、今はより大きな病巣、パリシ封鎖を解く方が肝要なのだろう。そう自分に言い聞かせ、ドナルドは手綱を握り直した。
「あ、アネットさんがこっちに来ますね。この行列で、ちゃんとこっちまで来られるかな?」
 密集してしまった行軍の列を行列と表現するジャンヌに、ドナルドは苦笑した。なるほど今の状況は、町で人気の店にできる行列にも似ている。ただその数、実に八万の行列である。
 しばらくして、アネットがやってきた。それに合わせ、この部隊最後尾にいたシャルルもやってくる。
 アネットはその太い眉に溜まった汗を指で弾くと、二人に告げた。
「この部隊から一騎、騎馬隊に編入されるそうです。人選は、こちらでとのことです」
 遅いのは、進軍だけではない。編成も、滞っている。行軍中に、あるいは戦の最中にも兵の損耗に合わせた編成替えというのはあるが、今回は最初の編成すらまともに成されていない。
「シャルル、お前が行くか?」
「え、いいんですか。そりゃまあ、それはそれでいいんですが」
「遠慮するな。私の馬は、老い始めている。いや、私もそうか」
 騎馬隊に編入された騎士は、伯から手当が出る。武勲を立てる機会も、あるかもしれない。加えて、騎馬隊の方が犠牲が少ないという面もあった。もっともこの軍を見る限り、騎馬隊だろうが、ここに残って歩兵の指揮を執ろうが、危険さは変わらないのかもしれない。
「二名なら、私とアネットでも良かったのかもしれないな」
 言葉で、シャルルの背中を押す。本当は二名でも自分はここに残るつもりだったことは、この甥も気づいているのかもしれない。
 家士のアネットでは、手当も少ない。そういう事情で一名のみの召集なら、アネットよりはシャルルを出した方が、生き残った後のことを考えると得策なのだった。
「じゃ、今回は俺が。ジャンヌ、ふざけてないで、叔父上をしっかり守れよ」
「一命を賭して御守りする所存。お任せあれ」
 まだドナルドの馬の背に立ったままのジャンヌが、笑いながら敬礼する。その長い金髪が、田園を駆け抜ける風に乗って、揺れた。
 シャルルは冗談であんなことを言っていたが、ジャンヌがいかにその若さで武に秀でていようと、この子を守るのは自分たちの役目だと、ドナルドは思っていた。十一歳である。兵になるには、あまりに幼過ぎる。
 大きな町に立ち寄った際、アルク村には手紙を書いた。今頃はとっくに村長の元に手紙が届き、ジャンヌの親にも話は伝わっているだろう。できれば集結前に追いつき、引き取ってほしかったが、それは叶わなかった。
 ここまでは長旅で、おまけに急ぎの旅でもあったので、ジャンヌを村に帰してやることができなかった。そもそもあの男爵領、この少女と再会した時点で、アルク村から遠く離れ過ぎていた。今思うと部隊はアネットたちに任せ、自分だけでも馬を飛ばしてジャンヌを帰してやるべきだったと、後悔する。無論、ジャンヌがそのことに激しい抵抗を示さなかったらの話だが。何故かジャンヌはドナルドたちについていくことに、執着があるようだった。
「辺境伯の、ラシェルって人の軍でしたっけ? あそこの人たちは、強そうです。なんか、気迫が違うっていうか」
 いまだ馬上に立ち続けるジャンヌが言った。馬首を並べていたアネットが振り返る。
「そりゃあ、私たちとは違うさ。私も見てきたが、あそこでは徴兵された者でも立派な軍人だな。この戦では、活躍してくれることを期待してるよ」
 アネットとジャンヌは、姉妹のように仲がいい。アネットがいてくれたことは、ドナルドにとって大きな助けとなっている。ジャンヌの扱いも、遠慮や無駄な気遣いがない。それでいて、細かな配慮に満ちているように感じた。ドナルドはこの姪が幼い頃から面倒を見ているが、向こう見ずでやんちゃな子供だった彼女が、こうも大人になるものかと、感慨深いものがある。
 小さい時のアネットはよく、騎士になると言っていた。しばらくその手の話はしていないが、自分のような田舎騎士の家士であることに、満足しているだろうか。ドナルドが死ねば、その土地を引き継いで騎士になれる。その話をした時に、ひどく悲しそうな顔をしたアネットを覚えていた。
 妻がするようなことに加え、家士でありながら従者のようなこともさせてしまっている。アネットに報いてやる為、ドナルドができることは何なのだろうか。少々煩雑になるが、生前からアネットに身分と土地を譲渡できるよう、動いてみてもいいのかもしれない。自分などより余程、騎士にふさわしい人間だった。
「相手の騎士を捕えたらお金がもらえるって本当ですか、おじさん」
 誰に聞いたのか、ジャンヌはそんな話を始めた。
「そうだな。身代金を請求できる。相手が私のような貧乏騎士だったら、そうもいかないだろうが」
「お金持ちだったら、できるんですよね。あと、鹵獲? 馬を捕まえても、お金になるって」
「馬の種類にもよる。でも確かに、軍馬はお金にはなるぞ」
「へええ。私、頑張っちゃおうかな」
「無理をしてはいけない。君に傷ひとつつくことがあったら、私はご両親に謝罪の言葉もない。私を自裁させるような真似は、しないでくれよ」
「大丈夫ですって。でも相手方の騎士さんたちをたくさん捕まえて、みんなにおいしいもの食べさせてあげたいですね」
 ここまでの旅が倹しいものだったからか、この少女に余計な心配をさせているようだ。
「ジャンヌは部隊の真ん中にいるんだ。そこが一番安全だから」
「でもこの調子じゃ、中々戦場に着きそうにありませんね」
 ドナルドの言葉には応えず、身を屈めてジャンヌが言う。
「そうだなあ。ただ、着いてしまえば、血が流れる。辿り着かなければいい、とも思ってしまうな」
「みんな、無事だといいですね・・・」
 周囲の兵、これまで旅を共にして来た者たちを見渡しながら、少女は言った。
 本当にそうだなと、ドナルドは思った。

 

 

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