前のページへ  もどる  次のページへ

 

2,「次で仕留めてやれよ。あいつの為でもある」

 アンリは、遅れてやってきた。
 大庭園の一角にしつらえられた、茶会の席である。円卓にはラシェルの他に、アナスタシアと宰相ポンパドゥールがいた。
 ポンパドゥールの眉間には皺が刻まれているが、どうやら彼女はこの表情が普通であるらしい。軽く話を交わしてみると、特に不機嫌というわけでもないようだ。アナスタシアが相変わらず茫洋とした様子に見えるのと、似たようなものだろう。彼女もまた、実際にぼんやりしているわけではない。
 ごく内輪の茶会なので、装飾は控えているとポンパドゥールは言っていたが、細かい刺繍のテーブルクロス、複雑な模様が描かれたカップ一つにしても、都会独特の美意識の高さが窺えた。ラシェルも自分の城に庭園を持っているが、比較するとあちらの庭園にどうしても垢抜けなさは拭えない。家令か、執事にでもこの宮殿を見せてやりたいとも思った。田舎貴族でも特に武人の気質に生まれてしまったラシェルでは、ここで見たものを上手く伝えてやれる自信がない。
 席に着いたアンリは、どこか気落ちした様子だった。溌剌とした少年王のこのような表情は、初めて見た。立ち上がって敬礼しようとするラシェルを手で制したので、それぞれが着席のまま胸に手を当て、略式の礼を交わす。
「遅れてすまない。私が来るまでの間、何の話をしていたのだ」
「実に、他愛のない話を」
「ラシェル殿も、そんな話をするのだな。両武人、それもアナスタシア殿とそんな話をしている姿は、ちょっと想像できない」
「どのくらい他愛がないかというと、アナスタシア殿の第一声が、今朝、何時に起きました?でしたから」
「なるほど、それは本当に他愛無い」
 笑ったアンリに、ようやくいつもの明るさが戻った。本来太陽とまでは行かなくとも、月の様な理知的な光を放つ少年である。それは鋭さよりも、夜道を照らす明るさである。
「ここに来るまでに、何か御心を曇らせるようなことがございましたか」
 アナスタシアが問う。
「顔に、出ていたかな。ユーフェミア殿と、話した。そこで少し、彼女を怒らせてしまったのだ」
 注がれた紅茶を口に運んでから、アナスタシアは頷いた。まとめられた銀髪が、陽光を照り返している。顔つきもそうだが、肌の質感が、この娘を少し幼く見せているのかもしれないと思った。肌理が細かく、その頬はやわらかそうだ。
「あの御方は、いつも何かに怒っていますよ。陛下を前にしても、それは変わらないでしょう。怒らせたのではなく、常に燃え盛る怒りの炎に当てられましたな」
 ユーフェミアの身柄は、アナスタシアが確保した。二人のやり取りは、何度かあったのだろう。
「いつも何かに怒っている、か。それは、彼女が不幸な星の下に生まれたということだろうか」
「いえ、充分に恵まれているでしょう。単に臆病過ぎるのですよ。怒りは二次的な感情で、その本質は恐怖と聞きます。全てに恐怖しているから、身を守る為、全てに怒るのです」
「なるほど、アナスタシア殿の話は聞く度に、目を開かれるようだ」
 確かに、この傭兵隊長の人を見る目は図抜けている。だからこそ、先の戦の前、フローレンスの心を一言で鷲掴みにできたのだろう。
「アナスタシア殿はユーフェミア殿と、上手くやれたのですか」
 ラシェルが問うと、アナスタシアは肩をすくめた。
「拒絶の意志がある者とは、上手くいきませんね。互いに胸襟を開いてこそ、やり取りは成されるので。口を開けてただ餌を待つ、ひな鳥のようだと思いました。餌が気に入らなければ吐き出すだけで、自分で餌を探しに行くことはしない。もう大人になっているのに、それが当然のことと思っているのです」
「手厳しい。あまり、彼女が好きではなかったようですね。ポンパドゥール殿は?」
「はっきりと、嫌いだなと思いました。政治的に難しい血筋に生まれたことには同情しますが、軽く話をしただけで、傲慢だなと感じました」
 どうも、あの地味な娘は皆に好かれていないようだった。ラシェルに至っては、ここで話が出るまで何の関心も抱いていなかった。ただ、アンリを傷つけたということに、軽い不快感を覚えただけだ。
「ユーフェミア殿は、変わるだろうか。おこがましいので、変えようとは思わないが」
「変わる時は、変わるものです。そのきっかけは、彼女自身がどこかで掴むしかない。陛下は、少し優し過ぎますな。ああ、こんなことを私が言うのは、それこそおこがましいことですが」
 アナスタシアの言葉に、ポンパドゥールは眉間の皺を深くする。彼女は先の戦での青流団の活躍を評価しているが、心の奥底ではアナスタシアを信じてはいないようだ。それはアナスタシアが、アンリからの仕官の勧めを断ったことに起因するだろう。宰相を務めるだけあって頭は切れるが、自分の手に余る者を信用しない用心深さが、この女にはある。
 茶菓子に手を伸ばしたアナスタシアが、少し難しそうな顔をした。しばらくの間、口にした焼き菓子を咀嚼している。
「どうされました、アナスタシア殿?」
「・・・いや、これは美味いなと。余ったものは、包んで持ち帰ってもよろしいでしょうか」
 アンリは再び笑ったが、ポンパドゥールはますます不機嫌な様子だった。不作法とまではいかないが、優雅さに欠けるアナスタシアの振る舞いは、宮廷の作法を知り尽くした彼女からすると、苛立ちの対象なのだろう。
「まあ、ユーフェミア殿に関しては、あまり気にされないことです。彼女が変わり、助けを求める時が来たら、手を差し伸べればいいでしょう。今は、傲慢が過ぎますな」
「傲慢、とは」
「先程ポンパドゥール殿が触れましたが、不幸なので、周りが自分を助けて当然だ、そう思っている節があります。確かに、不幸な者がいれば、手を差し伸べたくなるのが人の情というものでしょう。が、助けられる側がそれを当然と思うのは、とても傲慢なことだと私は思いますね。周りを、自らを助ける為の道具としか思っていない。そんな者に手を差し伸べれば、増長するだけです。ただ、ユーフェミア殿はそこまで鈍い方だとも思いませんでした。陛下を傷つけたことを悟ったのなら、それがきっかけになるのかもしれません」
 不意に、ポンパドゥールが穏やかな笑顔を浮かべた。
「アナスタシア殿は、陛下を励まそうとしていらっしゃったのですね。そして、批判されているようでそれとなく、ユーフェミア殿にも助け舟を出している。なにより陛下へのお心遣い、私からも感謝させて頂きます」
 頑なところもありそうだが、この宰相もまた、人を見る目を持っているようだった。少なくとも、言葉の行間を読む力はあるようだ。今この瞬間、ポンパドゥールはアナスタシアのことを認めた。
 それからは、この先のアッシェンの話になった。
 パリシ包囲の消耗は大きく、その損失をいかにして取り戻すか。三人が質問を投げかけ、ポンパドゥールがそれに答える形になった。ラシェルも一人の領主として勉強になる話ばかりだったが、アナスタシアの質問も面白い。アンリとラシェルは為政者だが、アナスタシアは一貫して、一市民としての立場で問いを投げかけている。政事の場には立ってこなかったこの傭兵隊長はしかし、地位に甘んじるだけの小領主よりはよほど、為政者に向いているとラシェルは思った。
 やがて、戦の話になった。
「陛下は最終的に、アングルランドの平定をお望みでしょうか」
 ラシェルの問いに、アンリは考え込む様子もなく答えた。
「私一人で決められることではないかもしれないが、終戦の講和を為すのなら、それはこの百年戦争が始まる前の国土まで、と考えている」
 そう言うアンリの口振りには、即位間もない、そしてまだ十二歳とは思えない怜悧さがあった。
 初めて会った時から感じていたことだが、この少年は、何か底の知れないものを持っている。元から利発だったのであろうが、人の上に立つ者に必要な何かは、生まれた時から持っているようだ。天稟か。アンリ程ではないが、ラシェルも幼い頃から人の上に立つ者と目されてきた。それで兄弟を押しのけ、ジョーヌプレリーの領主となっている。もっともそれには、実力至上主義の辺境伯領の気風が追い風になっていたはずだが。
「仮に失地回復がなされればその時点で、おそらくアングルランド本土への侵攻は可能でしょう。そこで兵を止める理由はなんでしょうか」
 鮮やかな桃色のマカロンを齧りながら、アナスタシアが訊く。実に軽い調子だが、その問いは重い。
「奪われたものは、取り返さなくてはならない。それを為さねば、覇者こそが正義だ、ということをこの世界の諸王に示しかねない。私が庶民の出で、まさか王になるなんて思ってもみなかった時から、そういう世の中は間違っていると感じていたよ。力ある者が、力なき者を導くのはいい。それはきっと、大切なことだ。だが、前者が後者を屈服させるのは、どうにも我慢がならなかったんだよ。よくガキ大将に挑んでは、返り討ちにあっていたな。今度も、そうなるかもしれない」
「今や陛下にはそのお志を支え、力強い手足となる者が無数におります。非才ながら私も宰相として、この身を粉にしてお仕えする所存でございます」
 後を継いだポンパドゥールと、この辺りの話は済ませてあったのだろう。熱っぽい瞳で、"アッシェンの光"は少年王を見つめていた。
「可能なら、失地回復をもって終戦としたい。アングルランド侵攻は、仮に平定できたところで、新たな戦を生むだけだろう。私はこのアッシェンだけでも、戦のない世を作りたい。今は遠い夢だが、そこに向かって歩み出したい。まだ、パリシを取り戻しただけだ。南の戦線も、苦しいと聞く。この戦況で、それは夢物語と思われるかもしれないが、アナスタシア殿は、僕の、王としての夢を笑うだろうか」
「戦のない世など、訪れませんよ。人の愚かさが、それを許さない。ただ」
 アナスタシアの表情は相変わらず茫としていて、その真意は読み取れない。
「戦のない百年は、作れるかもしれませんね。こんな王がいる、そのことは覚えておきたいと思います」
 アンリの顔に、少年らしい笑顔が浮かんだ。何か通じ合うものがあったのだと、ラシェルにはわかった。深いところで二人は、通じ合った。
「アナスタシア殿は、やはり市井に?」
「ええ。ノルマランに、腕のいい料理人がいるのです。できれば、そこで修行できればと。受け入れてもらえなければ、また旅の空ですね」
「そうか。ノルマランからここまでは、そう遠くない。それこそ、あなたはたった一晩でマロン川を下られたのだ。あの日のように、またこちらにも遊びに来てもらえれば、うれしい」
「ええ。ここにはオールドー派の教会がありますから。休みをもらえたら、パリシに戻ってくる機会も、少なくないと思います」
「惜しい、と言ってしまうのは、やはり傲慢だろうか」
「いえ、身に余るお言葉です。ノルマランが無理でも、しばらくはアッシェンの中を旅しますよ。戦の折は現地で徴兵された一兵卒として、陛下の元に参上できればと思います」
 その後はまた他愛のない話に戻り、やがて散会となった。
 茶会の誘いを受けた時は、ちょっと変わった面子の集まりだと思ったが、振り返るとそれは、残る者から去る者への、惜別の集いだったことがわかる。ラシェルもこれから辺境伯領へと戻り、再び百年戦争に参戦する予定は、今のところない。
「ラシェル殿はもう、帰還されるのですか」
 余った焼き菓子の包みを確認しながら、アナスタシアが言う。
「いえ、一週間程は、従者を連れてパリシを見て回るつもりです。後学もありますが、まあ役得といったところで。先に帰した兵たちには、少し悪いことをしてしまいました。ブランチャを、きちんとアナスタシア殿と引き合わせる機会があればと思ったのですが、彼女と話す機会はありましたか」
「副官の。最初の軍議と、あの戦を振り返る場で、挨拶を交わした程度です。お強いですね。あの"馬殺し"を討たれた」
「有能な女です。初見では、闇エルフなので、驚かれたかもしれませんが。実は本来私の将校ではなく、辺境伯領のお目付役として、従軍したのですよ」
 それから少しだけ、戦の話になった。宮殿は広く、互いの道が分かれるまでに、多少話せる時間はある。
 憧れていたこの、"陥陣覇王"と話せたことは、大きい。もっと苛烈な、あるいはその父ヴラジミルのように峻厳な将を想像していたが、その実像はどこかぼんやりとしていて、少しとぼけた娘だった。が、その軍略は底無しに深い。将には、こんな有り様もあるのか。ラシェルにとって、学びの多い人間だった。憧れる思いはより強く、そして以前よりも地に足が着いたようにも感じる。
「アナスタシア殿は」
「先程ユーフェミア殿の身代金が決まって、それが私の青流団での最後の仕事となりました。私のところももう、先日別れの宴は済ませていて、団員の多くはアングルランドへ向かっています。ロサリオン殿が、アングルランド側の将として立つことは、ほぼ間違いないということで。真の主の元へ帰ったのです。まだパリシに残っている団員もいるようですが、既に私の指揮からは離れています。これを機に団を抜ける者もいるようですが、その辺りはベルドロウ殿に任せましたので」
「抜ける、というのは?」
「負傷や、充分金が貯まったので、もしくは人間関係、そして個々人の事情もあるでしょう。一戦としては稼がせてやったので、私の様に別の道を目指す者もいるでしょう。五千人を超す大所帯です。それなりに、代謝はあります。徴兵ではなく自分の意志や野心で集まった者たちですので、契約の空白期間に、人の出入りはあるのですよ。ゲクラン殿との長い契約が終わって、今がその時だということですね」
「なるほど。私が自領で雇う傭兵隊はいずれも小規模なので、傭兵とはもっと家族感の強いものだと思っていました」
「気持ちよく送り出してやるのも、家族かと」
 聞いて、ラシェルの胸は痛んだ。北の大地で裏切りに遭い、団員二千のほとんどを戦場で失ったこの傭兵隊長の悲嘆の深さは、ちょっと想像できない。やはり家族、と思い定めていたのだろう。
「アナスタシア殿に、ついていこうという者は」
「傭兵はやめると、伝えました」
「そうですか。しかしあなたは将として傑出し過ぎている。未練は」
「どこまでいっても、満足しないことがわかりました。老兵になる前に、私も夢を追ってみようかと。自分の店を持つ。その夢も、私の中では抱えきれない程に大きなものになってしまった」
「これまでに結構稼いだのでしょうな。店なら、すぐに出せそうですが」
「厨房に、立ちたいのですよ。調理には自信がありますが、何分我流なもので、店で出せるものかというと、こちらは自信がない。まずはその腕を、基礎から磨き直したい。そして出来るなら、将来は一日中厨房に立っていたいと」
「はあ。私は食べる物は昔から、召使いや従者に任せきりです。調理とは、楽しいものですか」
「苦しい時もありますが、その時だけは全て忘れられます。味を追求すれば考えることは多過ぎて、他のことはどうでもよくなるのです」
 言って、アナスタシアは珍しく笑った。
「いや、そんなに後ろ向きな理由ばかりではないな。ただ、面白いのですよ。剣は、人に憧れて始めたものです。料理は、今でこそ憧れる料理人はいますが、そもそも好きだった。その違いはあります」
「陛下と同じく、惜しい、と言ってはいけないのでしょうね。しかしあれだけの戦をしたのです。今後、あなたについていきたいと思う者は少なくないと思いますが」
「そんな者が現れたら、まあ、週末にでも剣の稽古くらいはつけてやりますよ。店で働いていない時は、私も暇でしょうからね」
 もう、宮殿の出口が近づいてきている。アナスタシアは兵舎に向かうので、ここで別れとなるだろう。
「あなたを慕う者は、少なくないと思いますよ、陥陣覇王。いやきっと誰もが、あなたを放ってはおかない」
「面倒くさいことになったら、その時に考えますよ。今は、放っておいてほしいというのが本音ですが、まあ」
 振り返ったアナスタシアは、悲しげな、そして少しだけ凄みのある笑顔で言った。
「私は、人を殺すのが得意ですからね」

 

 呼びかけられた声は懐かしさより、むしろ驚きをもって響いた。
 従者もつけず、宮殿内を歩いていた時である。ゲクランがそちらを見ると、赤い具足姿の女が手を振っていた。
「よう、元気そうじゃないか。慌てて駆けつけりゃ、この有様だ。戦が、終わっちまってるなんてよう」
 少し大人っぽくなっているが、声の主は間違いなく、アルベルティーヌ・デュ・リッシュモンだった。将である。パリシ解放軍を編成する際、そしてアナスタシアに最初に仕官を断られた時、真っ先に頭に浮かんだのがこの娘だった。青流団を任せる最有力候補にして、しかしアナスタシアよりも物理的に無理があった為、早々に断念した。当時リッシュモンは、そもそもアッシェンにいなかったのである。
 アナスタシアを誘った際、自分と並び立つ者がいればこの戦は勝てると豪語したが、実際のところその一年前までその地位いたのが、この娘だ。近年のアッシェンで、元帥職を経験しているのはゲクランとリッシュモンをおいて他にない。今は外国である騎士団領で部隊を率いていたはずだが、何故かここにいる。
「あら、どうしてここに? まだ騎士団領との契約は残っていると思ったんだけど」
 アッシェンもう一人の常勝将軍。通称、"鋸歯の"リッシュモン。自他ともに認める、名将である。
 ゲクランより二つ下の二十三歳。蘇芳色の髪に、少し垂れ気味の青い瞳。まだ顔に少女の面影を残すそれなりの美形だが、にししと笑うその口元には、慣れていてもどうしても視線が行ってしまう。おそろしく、歯並びが悪いのだ。また、可憐な容貌にそぐわぬ言動から、口を閉じてさえいれば美人、などと評されているのも聞いたことがある。
「あたしも一応、アッシェンの人間だぜ? 祖国の危機は見過ごせねえって統轄殿に無理言って、契約を早めに打ち切ってもらったんだ。それなのに、あたし抜きで勝っちまうなんてねえ。寝る間も惜しんで駆けつけたってのに、なんとも格好のつかない話だよ」
 いつも飄々としていて、愛国心のようなものを見せたことのない娘である。意外だったが、かなりの強行軍で駆けつけたことは、裾の汚れた外套からもわかる。
「あんたを探してる途中で、広間に置いてあった報告書は、さらっと目を通させてもらったよ。それに道中、近辺で話も聞いた。どんな戦だったか、大体わかった。にしても、惜しかったなあ」
「絶望的な戦況からの、信じられない大勝よ。惜しいって?」
「あたしが奪還軍本隊の指揮してりゃ、ライナスの首も獲れたんじゃないかって」
「大した自信ね。ただ、あなただったらやりかねない」
 戦場での知恵比べなら、ゲクランやライナスはもちろん、あのアナスタシアにすら負けていないかもしれないと、この将は思わせる。いや、予想外の戦略を組み立てられるという意味では、陥陣覇王と鋸歯には、近いものはある。アナスタシアのあの戦略を聞くまでは、ひらめきではリッシュモンに敵う者はいないとも思っていた。それだけ、この娘は頭が切れる。
「戦全体としては、どう見た?」
 二人は、中庭の長椅子に腰掛けた。通りすがりの召使いに、適当な飲み物を頼む。
「"陥陣覇王"か。あの状況だったら、あたしも似たようなことを考えていたと思うよ。あくまで結果論だけどさ。もっとも、あいつはちょっと孤高過ぎたな。自分に与えられた兵力だけで、なんとかしようとし過ぎた。そういうとこ、嫌いじゃないけどな。北のアヴァラン軍との合力は、あいつの性格じゃしなかっただろ。あんたを孤独にしないための方便さ。にしてもアナスタシアのことは前々から噂になってたけどさ、当代の大陸五強の一角、実際どんな娘なんだ?」
「いつもぼうっとしてるみたいで、そのくせ色んなことを考えてる」
「ふぅん。一度、会ってみたいな。ま、それはともかく、あたしだったらあんたの軍、リチャードを追うと見せかけて、ライナスを挟撃してたね」
「ちょっとだけ考えた。けど、領地を空けることはできなかったわ」
「そこがあんたの限界だよ。つっても領主だからな、気持ちはわからんでもないけどさ」
 リッシュモンは、領地を持たぬ貴族である。アングルランド、それもロンディウム内にあるリッチモンドの後継なのだが、百年戦争開戦当時、今から五代前の領主がアッシェンについたため、領地を没収されてしまった。まだ今程国境が意識されていた時代ではなく、血縁は両国を又にかけたものも多かった。以来アッシェンにわずかに残っていた領地に移り住んだが、やがてそれも失った。以来、リッチモンド家はわずかな家臣とその一族を中心とした、流浪の軍となっている。リッシュモンが傭兵隊長をしているのは、その為だ。ただ、アングルランドの人間だったにも関わらず当時のアングルランドの侵攻を諌め、ついにはアッシェン側に立ってくれたことに恩義と敬意を表して、代々の当主は今でもリッシュモン伯爵と呼ばれる。
「リチャード隊がいくら精強だって言ったって、所詮五千だろ? あんたの領土全てを占領できるわけじゃない。放っときゃいいんだよ」
「簡単に言うわねえ」
「言うさ。で、ライナスを討つ。勢いで、ダンブリッジの包囲軍を討つ。リチャードは放っておいて、南下、南の戦線にケリを着ける。どうだ、簡単だろう?」
 ゲクランは思わず唸った。アナスタシアと南北が違うが、なるほど、パリシ奪還軍を使うという点では、こちらの方が確率は高く、失地回復はそこで大きく前進したかもしれない。百年戦争前の国土を取り戻すことが悲願と、アンリは考えている節がある。ならばそこで、この百年戦争は終戦まで階ひとつだったかもしれないのだ。残す大きな領地は、レヌブランだけだった。レヌブランを奪還できれば、今は二剣の地と呼ばれる中立地帯も、全てアッシェンに返ってくる。
「まったく、あなたたちには驚かされるわねえ。アナスタシアと、あなたよ」
「あんたにしてもライナスにしても、戦略が細か過ぎるんだよなあ。軍略は、でかく構えねえと」
「本当に、その通りね。自信失っちゃうわ」
「そう言うなって。ま、ライナスはとにかく緻密だからな、あんたも引きずられたんだろ。よくついていったと思うが、相手のペースに合わせることなんてねえんだから。いつものあんたらしく、でっかく構えてりゃいいんだよ」
 にしし、とリッシュモンは、鋸のような歯を見せて笑う。
「とりあえず、お疲れさん。まあ既に騎士団領との契約は切っちまったし、しばらくはこの街に留まって、パトロンを探すよ。あんたか、新王か、雇ってくれるならそれなりの働きはするぜ」
「助かるわね。考えとく。そうそう、騎士団領はどうだった? 統轄のアウグスタ、武名通りの人物だったかしら」
「ああ、それだけど・・・」
 一瞬、リッシュモンの顔に陰が走る。再び笑顔を見せるが、口調は真剣なものになっていた。
「あれは、掛け値無しの化けモンだな。あの人だけじゃねえ、騎士団領そのものが、化け物の集まりだよ。世界は広いねえ」
「あなたが言うのなら、相当ね」
「アングルランドは、アッシェンを平定したら、そのまま東進してグランツや周辺諸国、果てはスラヴァルまで侵略の手を伸ばすつもりだろう? が、騎士団領だけは落ちねえよ。周りがみんなアングルランドにやられても、あそこだけは絶海の孤島みたいに残るだろうさ」
 騎士団領は、ユーロの地図の面積で見れば、小国である。が、領内に産業の強い基盤を持ち、多数の鉱山を有する傍ら、近年は金融にも力を入れているそうだ。見かけ程の小国ではないわけだが、商売以外での人の出入りは禁止、要は余所からの移住は原則認めておらず、隣国アッシェンにとっても、謎の多い国となっている。
 ふと、回廊を行く一団の姿が目に入った。警備兵に先導されているのは、敵将ダンブリッジと、その従者たちのようだ。青流団の案件なので経過は知らなかったが、身代金の交渉が終わったのだろう。
 ゲクランは一行を手招きした。気づいたダンブリッジは、そのずんぐりとした身体に似合わず、機敏な動作でゲクランに敬礼をした。顔は、少しやつれたか。
「解放されたのね。どう? 今晩一緒に、一杯」
「元帥のお誘い、身に余る光栄にございます。しかしこの身は一刻も早く祖国を目指し、査問を受けねばならぬ身故」
「律儀ねえ。まあ、あなたらしいわ」
「ご無礼つかまつります。それと先日、虜囚の身ながら、我が息子たちの葬儀に参列させて頂いたご恩、生涯忘れませぬ」
 ダンブリッジは先の戦で、後継者であり有能な指揮官でもあった三人の息子を失っている。
「ツイてなかったな、ダンブリッジ。息子さんたちには同情するが、負けたこと自体には気を落とすなよ。あそこは誰が守ってても、結果は似たようなもんだったろうさ」
「リッシュモン殿、ご健勝そうで何よりです。戦場のことゆえ、覚悟はしておりました。お心遣い、感謝致します」
「それよりどう、ダンブリッジ? アッシェンにつく気はないかしら。あなたが今持っている領地以上の禄は出せる。あなたを、評価しているのよ」
「これはお戯れを。されどそこまで高く元帥に評価されていること、武人としてこれ以上の誉れもございませぬ」
 取りつく島もないが、今のこの男には酷な誘いか。
「あなた程の将軍が私の幕僚にいてくれたらって、いつも思ってるのよ。でもそうね、もし私たちが生きている間にこの戦争が終わったら、一度遊びに来て頂戴な。これまで何度も戦ってきた、そしてこれからも戦うであろうあなたを、私はどこか戦友のようにも感じている」
「お心遣い、重ねて感謝致します。また戦場でお会いできる日を、待ち望んでおります」
 ダンブリッジは深く礼をすると、再び警備兵の元へ戻った。
「次にやる時は気をつけな。息子どものこと、相当堪えてるぞ」
「そうね、目に、どうしようもない暗さがあった。どっちに転ぶかしらねえ」
「一度落ちて、上がる。次で仕留めてやれよ。あいつの為でもある」
 小さくなっていく敵将の背中を見つめながら、ゲクランはひとつ、溜息をついた。

 

前のページへ  もどる  次のページへ

inserted by FC2 system