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5,「負けさせてくれて、ありがとよ」


 ようやく、日が陰り始めている。
 もう、馬を替えることもないだろう。替えが必要になる前に、リッシュモンは全ての決着をつけるつもりだった。ザザが間に合えば良し、しかしそれを当てにして時間を稼ぐには、こちらも消耗し過ぎていた。リッシュモンはともかく、兵馬が保たない。
 振り返った。攻城塔は本陣を出て、後方中央から等間隔に並んでいる。アルフォンスが何か使い道を思いついたのかもしれないが、リッシュモンの関与するところでもなかった。
 南に目をやると、ブルゴーニュ軍とキザイア、おそらくはゴドフリーとアメデーオの軍ががっぷり四つに組み合い、血の煙る押し合いをしていた。あれは横から突っ込めば相当崩せそうだな、とリッシュモンは思う。フェリシテの騎馬隊は戻ったばかりだが、少し馬を休ませたらあの戦に介入するだろう。逆に言えばキザイアは、フェリシテが出て来るまではあの押し合いを続けるつもりと見た。
 なんとなくだが、戦にはこれで勝ったと思える瞬間がある。敵の姿が見えた途端にそう感じる時もあるし、劣勢に焦っている時に、それを感じる時もあった。
 リッシュモンは、戦に負けたことがない。それはいつもどこかで勝ちの見える瞬間があるからであり、今回のそれは、今だった。
 クリスティーナの様子は、ここからでもなんとか見て取れた。銀の巻き毛が、風に揺れている。キザイアの一部将として部隊を率いている時は堅実な、悪く言えば失敗を恐れる将としか見えなかった。キザイアの意を汲むことには長けていて、母に引きずられるようにして、結果的に戦上手と言える指揮官だった。もっとも、当時の彼女の年齢を考えると、致し方ないと思えなくもない。十代の前半ではなかったか。子供である。
 総大将としてぶつかった前回、これは大将の器ではないなと、すぐに感じた。こいつは、誰かの命令があって初めて活きる将だと。
 たった一度の敗北で、しかし奴は生まれ変わった。いや、あの場であの女の駄目な部分が死んだのだろう。これが本当のクリスティーナなのだとしたら、やはりあそこで仕留められなかったのは痛かった。逃したせいでもう一度、熾烈な戦をすることを強いられている。
 ラステレーヌを放棄させ、クリスティーナを逃がしたのはソーニャだと聞いている。ほとんど勘のようなものだろうが、だとしても馬鹿に出来ない勘の良さだ。そのソーニャを母から奪って副官とし、クリスティーナは総大将として既に、一つの完成に向かっている。今ならまだ、七分咲きといったところか。
 これまでぶつかった敵で、一番はやはり”熱風拍車”ウォーレスだろう。完成された武人であり、軍人だった。惜しむらくは、奴は大抵友軍に恵まれていなかったことか。ウォーレス軍はほとんど無傷であるにも関わらず、味方の潰走の為に撤退を余儀なくされたことも、一度や二度ではない。殿軍にウォーレスが立つと、それ以上の追撃を、誰も行おうとはしなかった。圧倒的な男だった。
 そのウォーレスと過去の南部戦線で何度か直接当たった経験から、リッシュモンはあの男ですら戦場では首を獲れるという確信を得た。一騎打ちでは、五合と保つまい。が、用兵はそういったものを超える。一対一でぶつかる必要など、どこにもないのだ。一対五、一対十。その状況を懸け合いの中で作り出し、敵の首を獲るのが戦だ。
 ソーニャと、セブラン。二人とも明らかに天稟に恵まれていて、一言で言えば天才なのだろう。死地を何度も乗り越えていて、経験でもリッシュモンと大差ない。が、ウォーレスに比べれば、やはりその格は一段落ちる。大陸五強に数えられていないことが、その証左であろう。
 ふつふつと、闘争心とやらが、身体中を駆け巡る。時折顔を見せる弱気の虫を、ぎざぎざの歯で噛み潰した。
 勝った。この戦はもう、勝っている。援軍が来ようが来るまいが、このリッシュモンが決着をつける。
「ここまでは、肩慣らしみたいなもんだ。なあ、あたしらここから、本気で戦うんだろ?」
 歩兵、騎兵、一斉に鬨の声を上げる。身体に染み入る鯢波を心地よく感じながら、リッシュモンは続けた。
「あたしはアッシェンの常勝将軍、”鋸歯”のリッシュモンだ。あたしの手足として、よくここまで戦ってきた。ここらでそろそろ、幕を下ろしてやろうぜ。リッシュモン軍は大陸最強だと、この戦場にいる全ての兵に、見せつけてやれ」
 突き上げられた剣、槍、血にまみれた拳。リッシュモンはゆっくりと、自らの刃を天に向けた。
「アルベルティーヌ・リッシュモン、出るぞ。総員、あたしに続け!」
 馬腹を蹴る前に、馬が疾駆を始めた。
 馬蹄の轟が、大地を揺らす。

 

 ついに、来た。
 あれはまさにあの日のリッシュモンであり、同時にこれまで見てきた中で、さらにあの日の彼女をも上回る、最強の敵だった。吹き上がる闘志が、ほとんど視認できるくらいだ。
 その騎馬隊が、二つに割れた。リッシュモンは左手の部隊の先頭にいるが、右手の部隊はほとんど指示を受けた様子もないのに、迷いなく右に向かって疾走している。このまま突き進めば、南で指揮を執るキザイアの横腹を、まともに衝く格好になる。
 既に、セブランがそれを追っていた。リッシュモン。ソーニャが止めにかかるが、リッシュモンは隊を小さくまとめて左の森すれすれまで疾駆し、毛一筋の差でソーニャをかわした。
 狙いは、こちらか。
 クリスティーナも重騎兵隊に指示を出し、突撃の態勢を取る。まだだ。もう少し、引きつけてから。重騎兵がその暴風のごとき破壊力を充分に発揮するのは、最も速度が出る50mか、よくて100mといったところだ。敵の速度を加味して、機を測る・・・今。
 クリスティーナと併走し、重騎兵隊が前進を始める。加速していくのは、馬の脚だけではない。圧迫感も、それを跳ね返すだけの昂りも、急速に熱を上げていく。ここで、その首を落としてやる。
 そこに壁があったかのように左手の森から跳ね返ってきたリッシュモンの騎馬隊は、しかしさらにクリスティーナの前方の見えない壁を足場に、砲弾のごとく右前方へと射出されていった。
 向かう先。先程分かれたリッシュモンのもうひとつの騎馬隊が、南から引き返してきている。速度を落とし、突撃を食らいながらも、執拗にセブランの隊に絡み付いていた。そこへ、背後からリッシュモンがまともに突っ込んだ。
 離脱と同時にリッシュモンの騎馬はひとつにまとまり、そのままキザイアの部隊の側面を衝いた。クリスティーナは追いつけないとわかりつつも、リッシュモンを追った。少しでも、近くへ。歓声が上がる。敵のものか。キザイアは部隊の潰走を防ぎつつ、大きく後ろへ下がった。何が起きているのか、群がる兵と土煙に覆われ、ここからでは把握できない。
 クリスティーナの目前を、マルトが供回りだけで横切る。リッシュモンに負けない、弾丸のような速度。セブランの騎馬隊が、動きを止めている。セブランの姿を探したが、どこにもいない。見つけられなかっただけだと信じたい。まとまった隊の後方辺りに、いるはず。そう言い聞かせたが、鼓動の激しさが別のことを警告していた。まさかとは思うが、先の一撃で、セブランは斬られたのか。
 詳細は、わからない。ただ、今はマルトが、その騎馬隊を率いている。
「元帥、後ろです」
 駆け抜け様の、ソーニャの声。反転した。土煙の中から飛び出したリッシュモンの騎馬隊が、突出したクリスティーナの背後を、既に取ろうとしていた。それをさせじとソーニャの部隊が一頭の獣のように、リッシュモンへと猛進する。
 いきなり、リッシュモンの騎馬隊は四方へと、いや隊の原型を留めないまでに、ばらばらに広がった。一瞬クリスティーナ、そしておそらくソーニャも、リッシュモンの姿を見失う。赤い髪に赤い具足の、目立つ将。すぐに、見つけられるはず。
 いた。ソーニャもクリスティーナも無視して、こちらの歩兵隊に向かっていた。単騎ならと思ったが、五騎、十騎、百騎と、リッシュモン自体が一人の巨人と化すように、騎馬が次々と合流していく。
 歩兵の横腹が、まともに断ち割られる。突き抜け、森を手前に急旋回し、もう一撃。さらに反転しかけたところで、ソーニャが追いつく。いや追いつけるはずだったが、リッシュモン隊はまたも、四方に広がった。ソーニャが、逃げ後れた一騎を斬り伏せる。次の瞬間、またも歩兵が悲鳴を上げていた。隊を割られ、兵列を整えようとしていた歩兵に、リッシュモンの歩兵が襲いかかっていた。最後方、白い髭の指揮官が、こちらを見ている。リッシュモンの副官、ダミアンか。
 目が、合っている。クリスティーナはそちらに向けて突撃した。軽騎兵の機動力に比べて重騎兵のそれはもどかしい程に遅いが、接敵した瞬間に、あの歩兵隊を爆砕できる。
 こちらの歩兵が潰走した。ダミアンは会釈のつもりか軽く兜の鍔に触れると、歩兵と共に森の中へと逃げていった。
 奥歯を噛み締め、クリスティーナは鞍を叩いた。森に入られては、重騎兵は役に立たない。轡を持ったダミアンが悪戯っ子のように、木の間から顔だけ出している。抑えられない憤怒に、内臓がひっくり返りそうだった。
 振り返ると、ソーニャとリッシュモンが、用兵の常識を次々と破壊しながら、激しい駆け合いを続けていた。
 双方もはや部隊の体をなしていないが、乱戦にも程遠い。ソーニャ四千、リッシュモン千五百のはずだが、数十騎、数騎単位の小部隊が、激しい駆け合い、そして懸け合いをしていた。
 ソーニャとリッシュモンが、ほとんど背中合わせに剣を振っている。同時に振り返り、二人の剣が流星群のごとき火花を散らす。ソーニャの左肩の包帯は、血が滴るくらいに真っ赤に染まっていた。あれは、敵の返り血だと信じたい。
 突撃の機を探ったが、どう動いてもリッシュモンに利用される気がした。クリスティーナは城へ向かって兵を下げ、本陣手前で再集結を図っている歩兵を回収した。それを伴い、再び戦場へ。
 ソーニャとリッシュモンの戦いは、終わっていた。まだそこに留まっている兵はもう、半数程か。周囲に無数の人馬が転がっている。死体やもうすぐそれに変わる兵の割合は、一目見ただけで自軍の方が多いとわかる。潰走したわけでもないのに短時間でここまで兵を失う駆け合いの過酷さは、目の前でそれを見ていたクリスティーナにも、想像を絶するものだった。
 部隊の中央。ソーニャが大きく目を見開きながら、鞍に手をついている。呼吸が荒い。胸甲を脱ぎ捨て、左脇腹に当て布を押しつけていた。布はぐっしょりと、血を含んでいる。
「ソーニャ、その怪我」
「クリスティーナ様。た、多分、大丈夫です。この場所は、血が出た方が、助かりやすい。血が肺に溜まると、体内の血で、溺れ死ぬんです」
 白くなった顔に、それでも笑顔を浮かべながら、ソーニャは言った。まだ助かると、自分にも言い聞かせているような口調だ。
「一度下がって、傷の手当を。みんな、ソーニャを護送して頂戴。その後、戦える者だけ私に合流して」
 兵たちは頷き、ソーニャを乗せた馬がその手綱を引かれ、戦場から離脱していく。生き残った者もほぼ全員が、なにかしらの傷を負っているようにも見えた。
 南の方で、またもどよめきが起きた。怒号と混乱を蹴散らしながら姿を現したのは、リッシュモンの騎馬隊だった。またも、キザイアの側面を衝いたのか。南の軍は潰走こそ免れているものの、部隊全体がさらに大きく下がっている。端から見ても、劣勢だった。
 そのリッシュモンの部隊は全ての兵が馬を下り、轡を持って駆けている。あれだけの駆け合いが続いているのだ。馬の脚を少しでも温存しておこうという動きなのだろう。こちらにも、あそこまで一気に駆け抜けられる騎馬隊があれば。
 グライー軍の騎馬を率いているのは、いまだマルトであることが見て取れた。そのマルトは猛烈な勢いで、敵騎馬隊の一つと駆け合いをしていた。敵部隊の指揮官は、あのフェリシテか。ここを勝機と、本陣から飛び出してきたのだろう。
 フェリシテの隊は、マルトの度重なる突撃で、もはや隊列を維持するだけで精一杯なようだった。次の一撃で、フェリシテの首を獲れる。マルトもそう思ったのか、大きく剣を振り上げた。それが振り下ろされるよりも早く、リッシュモンの騎馬隊が、背後からまともにぶつかってきた。
 完全なる不意打ちだったにも関わらず、犠牲になった兵以外の全てを素早くまとめ、マルトは森を背にリッシュモンと対峙した。いきなり、リッシュモンはマルトに背を向け、再び南に向かう。
 追おうとしたマルトの騎馬隊は、しかし動きを止めた。竿立ちになった馬から、振り落とされる兵たち。背後の森から、弩の太矢が次々と放たれる。矢を受けた馬は暴れ出し、もはや隊列を組み直すどころではない。射撃が終わると同時に、フェリシテがそれに食らいつく。潰走したマルトの隊は、無惨に散った。グライー軍の歩兵の方へ逃げる数騎の中に、マルトがいる。馬のたてがみにしがみつくように、鞍上で倒れかけていた。まだ意識はあるのかもしれないが、背中に二本、矢が刺さったままだ。
 フェリシテが南に向かうのと入れ違いに、リッシュモンがこちらに戻ってきた。その歩兵たちも、再び森から姿を現す。
 リッシュモンは大きく両手を広げて、こちらを手招きしていた。挑発である。クリスティーナの重騎兵と鏡映しになる形で、横列を組んでいる。
 複雑な駆け合いで側面や背面を取るならともかく、重騎兵と真正面からぶつかって勝てる軽騎兵など存在しない。いや、今、目の前にいるのか。
 沸き上がる闘志と憤怒を、しかし脳裏をよぎった愛する人の、その殺される光景が浮かび上がり、クリスティーナは衝動を抑え込んだ。
 リック、やっぱり私は、あなたを無駄死にさせてしまったのよね。
 前方。リッシュモンは紙巻き煙草に火を着け、余裕を見せつけている。返り血で真っ赤になった顔の陰影が、濃くなっていた。クリスティーナは、紫色の空を見上げた。もうすぐ、日が落ちる。
 負けた。それはもう、わかった。
「全軍へ通達。総員、ベラック城に退避せよ。まずは城壁前の、本陣の負傷兵から。替え馬は中に入れるけど、物資は置き去りでいい。怪我人に負担なきよう、それでいて迅速に。殿軍は、私の部隊が務める」
 これ以上の犠牲は出せない。だが、籠城できるだけの余力は、充分にあった。野戦ではものの見事に負けたが、まだ戦そのものには負けていない。
 駆け出していく伝令の背中を見つめながら、クリスティーナは溜息をついた。ただ、まだ気は抜けない。殿軍は最後に苛烈な戦いが待ち受けている。クリスティーナの部隊一万一千にあまり犠牲が出ていないのは、僥倖でもある。この時の為に、期せずして本隊を温存する形になってしまった。
 南の軍から、折り返しの伝令が来た。
「ゴドフリー様から、提案です。南に展開した軍、ゴドフリー様のそれが、ほぼ無傷であると。元帥のお許しあれば、殿軍はぜひ我が軍にとのこと。総大将が殿軍では、万が一の時にさらなる混乱を招きかねないと、そう仰っております」
 ゴドフリーは諸侯の中でも、特に自軍に犠牲が出ることを嫌う。その彼があえて損な役回りを演じるということはつまり、それだけ総大将を殿軍に置くことは下策なのだろう。
「・・・正論ね。私にも、まだおかしな意地があったみたい。お言葉に甘えて、本陣の負傷兵が退避次第、私も城へ戻る。御武運を、そう伝えておいて」
「畏まりました。それと、もう一つ」
「まだあるの?」
「北に派遣した部隊が、いまだ接敵ならずと。南に派遣した部隊は先程、指揮官ポーリーヌと思われる部隊と交戦を開始したとの話ですが」
 言い終わる前に、斥候が一騎、血の気の引いた顔で駆けてきた。
「ベラック城北の森から、敵軍と思われる部隊が出現。総数不明。引き続き、把握に努めます」
 遠眼鏡を覗き込むと、ベラック城の北の森から次々と、兵が姿を現していた。軍装は、明らかにアッシェンのものである。
「あれは、ザザの五千ね。抜け道でもあったのかしら」
 自分でも暢気と思える口調で、クリスティーナは言った。リッシュモンの挑発に乗っていたらそのまま玉砕か、粘れてもザザにいずれ背後を取られていただろう。その意味で、自分でも少し早いかと思った撤退は、しかしぎりぎりの決断になっていた。ザザを止められなかったことが想定外であることを考えると、運はまだクリスティーナに味方していると感じた。
 南の軍が、じわじわと後退している。アッシェンも慎重に前進しているが、前回のような連鎖的な敗北がもたらす潰走ではない。こちらに迎え撃つ態勢が整っているので、無理に押して来ようという気配はなかった。
 クリスティーナも歩兵を前に出し、自らの騎馬隊を少しずつ下げていく。城の北の森ではザザの兵が集結しつつあったが、全員が森から出るまでこちらに手を出してこないだろう。ざっと見て、二千程度が整列している。全軍で五千という見積もりなので、まだ半数は森の中に残っている。
 リッシュモンは、追って来ないようだった。グライー軍もクリスティーナのところまで軍を下げてきて、リッシュモンに備えている。ソーニャなき軽騎兵も、こちらに合流してきた。
 敵の遥か後方にはいまだ、三基の攻城塔がそびえ立っている。あと何基用意するつもりなのかはわからないが、やはりあれで真っ当な攻城戦を行うつもりなのだろうか。今日の野戦の正確な犠牲報告はまだ上がっていないが、いくら敗れて兵を減らしたとはいえ、まだ八割程度は兵を残している。犠牲として戦場から退いた兵も、全員が死ぬわけではなく、むしろ長い攻城戦を考えると、途中で復帰できる者も少なくないはずだ。彼岸の兵力差三倍から四倍が攻撃側の必要条件だと考えると、やはりアッシェン側の攻城は、いくらか無謀に思える。リッシュモンとアルフォンスという知恵者なら二倍程度で城を落としかねないが、この時点においてもまだ、こちらが相手より多めに犠牲を出した程度なのだ。兵力差二倍にも程遠い。
 前回は派手に負け、ほとんどの部隊が潰走した。あのままラステレーヌに籠ろうとしても回収できない部隊が出てきて、今回よりつらい籠城になっただろう。あらためて、あの時のソーニャの判断は正しかったと思える。ただあの時も、リッシュモンは何か秘策を用意している気配があった。今回のそれは、一体何なのか。
 そのリッシュモンは、伝令に何か伝えているようだった。次いで自ら軍旗を掲げ、それを大きく左右に振った。何の合図かわからないが、これは何かある。何なのだ。もういい加減、それを見せてくれ。
 早馬が本陣に帰るより先に、赤髪の将軍はこちらに向かってきた。歩兵も、それに遅れじと駆け始める。本陣からは、フェリシテのものであろう騎馬隊が、再び飛び出してきていた。
 クリスティーナは、思わず舌打ちをした。油断したわけではないが、このまま大人しく城へ帰らせてくれるわけではないらしい。見ると、南の軍も敵の猛攻を受けている。
「ここが今日最後の踏ん張りどころよ。みんな、頑張って!」
 素人のような激励が自然と口をついて出たが、聞こえていた兵には、思わぬ応援となったらしい。それが、さざ波の様に前方へと広がり、兵たちに力を与えていくのがはっきりとわかる。リッシュモンは繰り返しこちらの歩兵に突撃しているが、その決死の兵列を断ち割れないでいる。むしろ傍の敵歩兵の方が、こちらを押し込んでいるようだった。が、粘りきれるだけの士気はあると感じた。
 南でも、小規模な部隊に潰走するものが出始めている。ただ、軍全体としては、崩されていない。安堵しかけたところへの、猛追である。まだ血を見たいのかと、怒りすら湧いてきた。
 あと少し。もう本陣にいた負傷兵は、城内に入っている。歩兵が押されるに任せて、クリスティーナの重騎兵も下がっているが、あと少し城内に近づければ、一気に中へと逃げ込める。本当は残って戦いたいが、全軍撤退を通達した以上、総大将が退かないことには、他の兵が逃げられない。
 中に入れても、しばらくは城門付近での市街戦はある。全ての兵が城内に入らない限り、門を閉めることはできない。ただ城門に敵が殺到する展開になれば、後は力と力の押し合い、それもこちらは次々と兵を交代できる展開となる。胸壁から矢を浴びせることもできるだろう。押し返すのにどれだけの労力を払うかはわからないが、時間をかければ、追い返せる。犠牲が出ても、敵とほぼ同数のはずだ。いや、そこだけ二倍の犠牲が出ようと、その後の籠城に影響が出る程ではない。
 ザザの軍。もうほとんどの兵が、隊列を整えている。あれが城門での押し合いの、先鋒になるのか。こちらへ向かってくる前に、一兵でも多く、味方を城へ入れなくては。
 不意に、目の前の戦場以外から、怒号と悲鳴が聞こえた。開いたままの城門から一騎、こちらに駆けてくる。
「ご報告申し上げます! 城内の至る所で、暴動が発生。規模はまだわかりません。しかし、住民が各門に殺到している様子」
「えっ・・・? ぼ、暴動?」
 暴動? 口にした後も、クリスティーナは何度も頭の中でその言葉を反芻する。いや、言葉の意味が頭で形を成さない。この南部戦線では、住民の慰撫に努めてきた。税も、場所によっては前より軽くした。市の統制も行っていない。好きにさせてきたのだ。陳情の一つも上がっていない。町も、付近の住民も、これまで協力的だったではないか。だから物資の調達も、予想以上にはかどった。先日の市も盛況で、町の宿はどこも一杯で・・・。
 何か、重大な思い違いをしていることに、気がついた。それがまだ、はっきりと言葉にできない。違和感は確かに、戦が始まる前からずっとあった。
 城壁の上に、碌に武装もしていない民たちが上ってきた。数人だった守兵の一人が、胸壁から突き落とされている。相手は素人だが、住民に暴力を加えないよう通達してあったこともあって、守兵は戸惑うばかりである。身を守る為に槍を突き出している兵もいるが、迷いは消せていないだろう。見る見る内に、城壁の上は暴徒によって占拠された。同じようなことが、各門で起きているのか。
 ソーニャが傍にいないことを、この戦場で初めて不安に感じた。主だった指揮官で手近にいるのは、まだ背中に矢を突き立てたままの、マルトしかいない。彼女は鞍に手をつき、それでも懸命に指示を飛ばしている。さすがに、彼女をこちらに呼び寄せることはできない。
 もう一度、城壁の方を見た。一瞬忍びの仕業かと思ったが、規模が大きすぎる。壁の上にいる民だけでも、数百人はいそうだ。門の上で懸命にこちらの旗を下ろそうとしているその様子から、軍務経験者すらいないであろうことが、容易に判断できた。女や年寄りも多い。まごうことなき、民の群れである。
 民。そうだ。開戦直後に近隣の者と名乗った彼らは、一体なんだったのだ。あるいはあれが敵の尖兵かもしれないと警戒し、西の砦へ追いやった。彼らはベラックには入っていない。敵かもしれない者は、中に入れずに・・・。
 いきなり、クリスティーナはリッシュモンの策を理解した。ラステレーヌには既に、あれが仕掛けられていた。ベラック攻略の準備に時間を掛けたのは、もう一度あれを仕掛け直す為だったのか?
 まだ、誰もこのことに気づいていない。どの指揮官の間でも、こんな話は話題にすら上らなかった。だが、クリスティーナは気がついた。再び戦場に目を戻す。リッシュモン軍は、ここが正念場と、最後の力を振り絞っているように見える。そうなのだ。リッシュモン。領地なき流浪の領主。かつてアングルランドに領地を持っていた彼女の祖先は流浪を続け、百年戦争初期から今に至るまで、アッシェン各地を彷徨っている。
 今までこれに気づかなかったことに、愕然とした。兵として戦っている者は、若いか、壮年でも頑健か、いずれかに見える。あれが民の全てであるわけがない。戦いを得手としていない者は? 女子供や、老人は?
 リッシュモン軍、その数五千。この認識はしかし、重大な誤認を含んでいる。
 五千のそれぞれの家族は、アッシェンに傭兵の様に雇われる五千の平時の生活は、誰が支えている。減った兵の補充は。どんな尚武の国でも、民の中から取られる兵は、ごく一部だ。多くともせいぜい二、三十人に一人、よほど軍事に傾倒している領地でも、十人に一人ということはないだろう。当たり前の話で、前提でありすぎる。そうなのだ。五千の兵で戦う流浪の軍はつまり、目に見えない多くの流浪の民によって支えられている。
 あらためて、ベラックの城壁の上で気勢を上げる民たちを見る。ベラックの人口は、およそ二万。市がある時には近隣から人が集まり、一時的に二万五千前後の人が町に集う。宿は満室、練兵場の広場まで解放した。連れてきた荷馬車で寝泊まりしている者もいるだろう。リッシュモンが送り込んだ民の数はわからないが、以前からそういう者たちは入り込んでいて、市の日を頂点として、より多くが集まった。余所者が町に大勢いても、不自然ではない時期があるのだ。
 血の気が引いたのか、目の前が暗くなりかけた。ラステレーヌにいた時も、ここベラックに逃げ込んだ時も、致死量の毒が仕込まれていた。勝機があったとすれば、やはり直接リッシュモンの首を獲れた時だけだろう。あるいは、リッシュモン軍を壊滅させた時か。いやそれをなしてすら、こちらの撤退時にこういうことをされれば、アングルランド軍は結果的に詰む。彼女の軍だけでなく、アッシェン南部軍自体を、あの時に、あるいはこの戦が始まってすぐに壊滅させなければならなかった。
 リッシュモンは、最初から勝っている。これはそういう戦だ。前回、敗走時にラステレーヌに戻らなかったのは正解だった。が、それは今の敗戦を先延ばしにしていたに過ぎない。リッシュモンが南にやってきた瞬間に、それを見破らなくてはならなかった。アングルランド軍の誰に、それが出来た? 秋という、ただでも季節労働者や行商、とにかく余所者が町に多く集まる時期なのだ。
 今もこちらに突撃を繰り返すリッシュモンを、あらためて見つめる。絶望的に見える現状でも、活路は一応あった。先程考えた通り、今からでもリッシュモンの首を獲り、アッシェン南部軍を壊滅させる。それができれば、勝ち目はある。民も、この原野に広がる軍相手では、散るしかないだろう。
 だが、とあまりの悔しさに、涙が滲んだ。なのに、それなのにあの女は、途方もなく強いのだ。
 最後の退路を断つように、鉄格子が音を立てて落ち、城門がゆっくりと閉じられていく。クリスティーナは当然の帰結としてそれを眺めていたが、アングルランド軍全てを飲み込んでいく動揺は、ここにいてもはっきりと感じられた。
 持ち堪えていた軍が、混乱、あるいは事態のまずさを悟った者の恐怖で、急速に崩壊しつつあった。潰走する部隊。膝をついて武器を捨て、降伏する部隊。馬上でただぼんやりと、閉じた城門を眺めている将校もいた。
 ここから万に一つも、勝ちの目はないのか。北からは整然と隊列を組んだザザの部隊が迫っている。全軍をあげての降伏しかない? 南ではブルゴーニュ公が自らの武勇に任せて突出しており、彼の戦下手をよく顕している。あれの首一つ取ったところで、ブルゴーニュ軍そのものは、もう止められないのか。クリスティーナの前面に展開した歩兵は、余力を残していたこともあるだろう、再三に渡るリッシュモンの突撃に、よく耐えていた。ただ、いつまでそれが保つのか。リッシュモンの側面を衝けるだけの力が、ソーニャの残した軽騎兵に、あるのか。ソーニャがいてなお、五千から二千近くまで兵力を落としているのである。彼女のいない今、それが容易く撃ち破られることは、誰でも想像ができることだった。今は歩兵が側面を取られないよう、斜め後方でじっと戦況を見つめていた。
「くそっ」
 今まで口にしたことのないような、下品で陳腐な悪態が口をついて出る。
「くそっ、くそっ!」
 城門。その上で今は、アングルランドの旗が燃やされている。
「負けてない。まだ」
 そう、実際にまだ負けてはいない。このままだと、確実に負けることがわかっているというだけだ。
 ソーニャがいずれ、クリスティーナを題材に漫画を描いてくれると言っていた。物語の主人公だ。どこかに光明を見出し、窮地を脱してみせる。ただ文字通りの、絶体絶命だった。
 こんな時にこそ、何かを閃く。啓示の様に、敵の隙が見えてくる。あるいはこんな危機に駆けつける、頼りがいのある仲間が・・・。
 駄目だ。
 あまりの絶望に、思考が目の前の現実から逃げ始めている。

 

 布を絞ると、ぞっとする程の量の血が、そこから滴り、いや流れ落ちた。
 具足、鞍、馬体に付いた血を拭いながら、さすがにこれは当分飯がまずくなるなと、リッシュモンは思った。二十三歳にして人生の半分を戦塵に生きてきた自分でも、一日にこれだけ大量の返り血を浴びることは、今後もないのではないかと思った。
 騎乗する際に、鞍の上から落ちかけた。体重をかけた鐙に、まだ拭い切れていない血が残っていたようだ。
 水袋を取り出し、頭から浴びる。淑女にあるまじき振る舞いだが、手鼻をかむ。それでもまだ、鼻の奥に鉄くさい臭いがこびりついていた。
 首を何度か鳴らし、敵軍の様子を窺う。
「あれはもう、時間の問題だな」
 ダミアンに語りかける。この男もまた、白い顎髭から返り血を滴らせていた。
「もう一度、いや二度で、さすがに降伏するでしょう」
「そう願いたいね。ただ、見てみろ。髪をいじったり、きょろきょろと意味もなく視線を動かしたり。あれだけ鞍上で忙しくしている指揮官に、冷静な判断力が残っているのかね。ザザの一撃で目を覚ますか、首を獲られるか。今日はもう充分血を見た。前者であってほしいと願うよ」
 うがいをしながら、リッシュモンはクリスティーナを見ていた。黒い具足に銀の巻き毛、ここからでもわかるくらいの、整った面立ち。彼女を守る前列の歩兵はもう泣き出しそうな顔をしているが、彼女もきっと、同じような顔をしているだろう。
「しゃあない。もう何度か、突っついてみるか。にしても、肩がだるい。こりゃ明日からしばらく、肩上がんないかもなあ。斬り過ぎたってのもあるが、ソーニャたちとやり合い過ぎた。セブランを斬った時に一度、肩外してるしな。あそこで剣を放してたら、周りの奴らに斬り殺されてた。さすがのあたしも、一日でこれだけの強敵とやり合うのは初めてだ。二度とごめんだとも思うね」
 二千いたリッシュモンの騎兵は、もう千を切っている。犠牲のほとんどは今後戦えなくなる傷を負う前に下がらせたが、原野に転がったまま動かないのは百人弱、もう百人程が深傷を負って、今本陣で手当を受けているが、中には助かりそうもない者たちがいる。
「ダミアン、お前のとこの犠牲は?」
「おかげさまで、五十人にとどめております。おそらく死者は二、三人になるかと」
「いい指揮だ。これだけ駆け回ったんだ、あたしのとこの犠牲も仕方ないと思いたいよ」
 前方。敵歩兵の戦列の前でうつぶせになったまま動かない一人とは、先程本陣に戻った時に、軽く言葉を交わした。以前から騎馬隊にいたが、その時初めて名前を聞き、同い年だとわかって、ちょっとした連帯感を持った。あと一息、やってやりましょうと、純朴そうな目を輝かせていた。正味一分と話してないのに、リッシュモンとこんなに話せて嬉しいと、笑いながら言っていた。
 そいつは今、自らが作った血の海に顔を突っ込んだまま、微動だにしない。斬り飛ばされた左腕からの出血は、少し前から止まっていた。
「・・・面倒くせえ。次で仕留めちまうか」
 誰に言うでもなく、リッシュモンは呟いた。
 ザザの部隊が、クリスティーナの背後に迫っている。既にその軽騎兵は突撃可能範囲だが、歩兵との連携を待って、脚を止めている。”ラ・イル”の異名に似つかわしくない、それでいて実に今のザザらしい慎重な用兵だった。おそらく、重騎兵に対抗するなんらかの手立ても、用意していることだろう。
 ふと、南の様子に、微かな違和感を感じた。またジョアシャンが何かやらかしたのか、などと考える。ただあの巨体の熊親父は見た目より更に頑健で、二、三度斬られて落馬したくらいではくたばらない。そうやすやすと死んだとは思っていないが、この局面で捕縛されたりすれば、戦局に水を差す。それだけは勘弁してくれよと、リッシュモンは思った。今更趨勢が覆ることもないだろうが、盾に取られれば追撃もしづらい。
 一度攻撃の手を緩めれば、こちらも崩れる危険はある。両軍疲労困憊だからこそ、優勢を維持できているに過ぎない。気持ちを切らせば、潰走する部隊もあるだろう。
 いや、とリッシュモンは刮目した。さすがに、様子がおかしい。スミサ傭兵隊が、よりによって騎兵に蹴散らされている。余力たっぷりの騎馬隊だ。南から戻って来た部隊か。いやいや、森でポーリーヌを足止めをさせる為に、あんなに活きのいい騎馬隊を温存していたはずはない。
 だとすると、援軍。西の砦に隠していたのか。にしては、あれは数が多すぎる。数千はいる気配だ。あれを今更投入するくらいなら、何故もっと早く使わなかった。あの練度は、もしリッシュモンに当てれば、それだけで苦戦を強いられていたはずだ。ソーニャやグライー兄妹にあれが加わっていたら、確実に負けてた。斥候は今も、ベラック周辺を駆け回っている。発見できなかったのは、どういうことか。とんでもない距離から、とんでもない速さで飛んできたとしか思えない。
 全身に、粟が生じる。その騎馬隊の一部が、城壁を背景に疾走している。あの常識破りの速さには、見覚えがある。パンゲアのどこを探しても、あれだけ速い騎馬隊は、一つしかない。
「まさか、とはこういう時に言うんだろうなあ。あたしがあまり口にしない台詞だが」
 ダミアンの方を見ると、彼の方が衝撃は大きいようだった。いつもの、どこか人をくったような微笑は消し飛んでいる。
「いや、あたしは、ほんのちょっぴりだけ、こういうこともあるかもしれないと思ってたよ。言っても仕方ないことだから、口にしてはこなかったけど。アッシェンで戦う人間は、どっか頭の片隅にあれがあるだろ。んなもんで、斥候はいつもより、遠目を見張らせた。けどあれの前じゃあ、そんなものは役立たなかったな。なんせあの騎馬隊は、早馬すら追い越しちまう。ほら、あの後ろから必死にこっち来てんのが、ウチの斥候だよ。まったく、笑えるよな」
 この可能性を常に考慮していたら、戦など成り立たない。どんな手札も役に立たないジョーカーを一枚、アングルランドは持っているのだ。
 ブルゴーニュ軍のいくつかは、既に潰走を始めている。不幸中の幸いは、アングルランド軍にそれを追う余力が残っていないということだけか。
 野火の様に立ち上る土煙から、それは飛び出してきた。
「やれやれ、今のあたしらで、あれを止めなくちゃいけないのか。厄日だな。それに、何も思いつかねえ。殺り方は、ぶつかりながら考える。クリスティーナはもう放っといて、全力であれに当たるぞ」
 先頭を駆ける怪物のような巨体と、まさに怪物である巨馬。白い髭とぼろぼろの外套が風を切り、それ自体が自らの意志で動き回る生き物の様に見えた。
「よく来たなあ、リチャード。お前を狩れる日が今日だとは、期待してなかったぜ」
 パンゲア最強最速の騎馬隊、リチャード軍五千。子供が棒を振るように無邪気に大剣を振り回しながら、アングルランド王リチャード一世その人が、リッシュモンに向けて驀進、いや爆進してくる。大地が揺れ、その迫力に知らずと目を細めてしまう。
 これは、好機だ。
 自分に言い聞かせ、リッシュモンも突撃を開始した。

 

 束の間、クリスティーナは眼前の光景の意味を理解できなかった。
 異常に速い騎馬の一部隊が、こちらに向かってくる。五百騎程か。軽く手を上げて、敵ではないことを示していた。赤薔薇の旗。味方であることは間違いない。
「あなたは。それにあの部隊は」
「馬上にて失礼致します。リチャード軍が将校の一人、エクレビヨンのエティエンヌと申します。陛下より直々、クリスティーナ元帥の安全を確保せよとの命を受けております」
 十代の、半ばくらいだろうか。いや同年代か。青みがかった黒髪を短く切った、凛とした少女である。
「あれは、陛下の軍なのね。今まで、どこに・・・」
 言いかけて、リチャードの軍がアングルランド、二剣の地、そして時にアッシェンを常に放浪していることを思い出した。いつどこにいるのか、おそらくは宰相のライナスくらいしか把握できない軍。
「ポワティエで戦の噂を聞きつけ、参上致しました。到着が遅れまして、申し訳ありません。言い訳になってしまいますが、敵がもう一度攻めてくるという話は、つい三日程前に耳に入りまして」
「ポワティエから、三日で?」
「はい。可能な限り、急いだつもりでしたが」
 ポワティエから三日は、早馬を次々と乗り継いでもどうかという距離だ。多少の替え馬を用意していたとしても、野営を繰り返してここまで三日で辿り着くというのは、俄には信じられない行軍速度である。
 動き出したリチャード軍は、斥候や伝令が役に立たないという話も頷ける。
「城を占拠され、さすがに我々だけで勝敗を引っくり返すというのも難しい。ですが、アングルランド南部軍の撤退の機は、我々が作ります。元帥は、私についてきて下さい。ここから西に向かいますが、全軍が籠るには、どの町も小さすぎる。元帥の許可あれば、各軍の配置も、私どもに任せて頂ければ」
「陛下の名代なのでしょう。任せるわ」
 このエティエンヌという将校は、初めて見る。軍歴は、長いのだろうか。いや、この年齢でそれはないだろう。幼く見える顔立ちだが、せいぜい自分と同い年くらいだ。そもそもこの若さにしてリチャード軍の将校の一人ということは、ソーニャやセブランのような傑物なのかもしれない。エクレビヨンというのも初めて聞く名なので、名家の引き立てということもない。何より元帥の自分より、一将校の彼女の方が、よほど堂々としていた。
 唐突に身体から力が抜け、クリスティーナは鞍から落ちかけた。猛烈な吐き気と頭痛に耐える以上のことが、しばらくの間できなかった。
「元帥、どこかお怪我を」
「いえ、ずっと後方にいて、直接の戦闘もしていないわ。ごめんなさい。なのに、急に、気分が悪くなって」
「南部軍の頂点として、これだけの命を預かる戦を指揮された。どれだけの圧に耐えてきたのか、私のような者には想像もできません。心労で、身体を壊す指揮官もおります」
「情けない。でも、あなたの言う通りかもしれない。これだけの大敗をしているのに、陛下が助けに来てくれて、ほっとしたのね。敵味方問わず、これだけ人を殺しておいてね。本当に、私は情けない」
 エティエンヌに先導、時に後方を守られ、クリスティーナは戦場を離脱した。
 立ち上り、その度に風で吹き流される戦場の土煙も、既に遠い。

 

 ブルゴーニュ公が、馬上で強烈な一撃を受けた。
「ジョアシャン、下がれ! こいつの不死身っぷりは、てめえの丈夫さとはわけが違うぞ」
 叫びながら、ブルゴーニュ公とリチャード王の、半ば一騎打ちとなっていた戦いに介入する。
「俺は、まだ、やれるぞ」
「やれねえよ。くそ、どけ。てめえの兵ごと、一旦本陣まで下げろ。戦下手が、あたしなんかを助けようとするんじゃねえ!」
 実際は、ジョアシャン自ら駆けつけたこの重騎兵隊がいなかったら、今頃リッシュモンの首は飛んでいたかもしれない。感謝の代わりに面罵したが、今度はリッシュモンがジョアシャンを救う番だった。
 リチャードに馬体ごとぶつかり、渾身の一撃で胴を薙ぎ払う。血と肉片が飛び散り、しかしリチャードはなんの痛痒も見せず、大剣を振り下ろしてきた。
 一撃、二撃。剣を受け止めるというより、破城鎚の一撃を身体で受け止めるような衝撃。
 三撃目。鋸の刃が、半ばから折れた。四撃目は、かろうじて左の腕甲で弾き返す。前腕の骨がぽっきりと、場違いな程に軽快な音を立てて、折れた。
 剣を投げつけ、次いで最後の飛刀を放つ。剣はまともに顔に当たり、飛刀は喉に突き刺さった。しかしリチャードはその飛刀を引き抜き、血を吐きながら咳き込んだのみである。
「う、ぐお、喉をやられた。ぐほっ、けほっ。う、上手く喋れんぞ」
 喋れんぞ、じゃねえ。あれで即死しねえのはてめえくらいのもんだぞ。
 毒づきを口に出す余裕もなく馬首を返し、リッシュモンは部隊を下げた。もう少し粘れたかもしれないが、馬が怯えてしまって、長く戦えそうになかった。ブルゴーニュ軍は既に、本陣に到達しようとしている。ザザの軍が駆けつけ、なんとか敵の騎馬隊を防いでいるようだ。
「あ、どっかで落としたのか、取られたのか。予備の剣がないじゃないか。あぶねえ。誰でもいい、剣貸してくれ。おう、悪りぃな。鞘を抜いてくれるか。左腕をやられちまってる」
 ダミアンの歩兵はなんとか一割程度の犠牲で済んでいるが、リッシュモンの騎馬隊は半数、既に五百を割り込もうかというところだ。これまでの損害は兵が深傷を負う前に離脱させた者が大半だったが、リチャードとの戦で減った兵は、実際に命ごと失ってしまった可能性が高い。この短時間で、とんでもない損害だ。隊がまだリッシュモンの指揮下にあることが、奇跡に近い。
 初めから万全の状態でやれていればと思うが、これが戦だ。この劣勢からしかし、リチャードの首ひとつ獲れれば。
 そのリチャードの隊はいくつかに分散して動いているようだが、リッシュモンにぶつかってきた二千程は、まだほとんど削れていない。
 どうする。どうする。
 リチャードはもちろん、実質的な指揮を執っているという副官の、確かアイオネとかいう女の首。どちらかを獲れれば、活路が見えてくるかもしれない。顔は覚えている。面頬のない兜を被っていたはず。リチャードの周囲に何人か兜に羽飾りをつけた将校の姿があるが、どれも男か、面頬のある兜で、性別が判断できない。くそ、アイオネは他の部隊か。本陣に戻りかけているブルゴーニュ軍とザザの部隊を追い立てている、あそこにいるのか。
 考えろ。アウグスタだったらどうしてる? ジャクリーヌみたいに、片腕がなくても戦えるはずだ。勝てるなら、腕や脚の一本もくれてやる。ジャッキー姐、頼む。あたしに、知恵と勇気を。
 その時はっきりと、退き鉦の音を聞いた。リッシュモン軍のみに退却の命令を伝える、聞くことはないだろうと思っていた、鉦の音。
 ダミアンの部隊が、一斉に弩の太矢を放つ。何本かがリチャードの隊の馬に刺さり、王の軍は一度大きく距離を開けた。退くなら、今をおいてない。ダミアンに頷きかけると、歩兵は一目散に本陣へ駆け出した。
 その、ちょっと無様な姿に、リッシュモンは苦笑する。だよな、その振りをする調練はしてきたが、本当に逃げ出す駆け方なんて、やったことないもんな。
 反転する。顔を上げると、三基並んだ攻城塔が、真横に倒れようとしていた。
「おっと、あたしらを下敷きにすんなよ」
 アルフォンスの狙いはわかった。あれを倒して馬防柵、というより即席の防壁を作ろうという判断か。偶々ではなく、等間隔に並んだ攻城塔は、全て横倒しになれば戦場をほぼ縦断する形とになる。兵と馬が下敷きにならないよう、二角に斜めに縄を架けて引いているので、横倒しにするのに手間取っていた。いや、これも計算の内か。おかげで、リッシュモンたちが本陣に帰る時間はある。
 歩兵がその横を駆け抜けるのに合わせて、リッシュモンは本陣に戻った。ほとんど同時に、攻城塔が次々と倒れ始める。これで、リチャードの隊はこちらにやって来ることはできない。森に入って回り込んでくることはできるが、むしろそうしてくれれば、あの騎兵隊の脚を殺せる。
 横倒しにされた攻城塔に、梯子が架けられる。弓を携えた兵たちに混ざって、リッシュモンも防壁の上に立った。集結したリチャードの騎馬隊は、しかしこちらを遠巻きに眺めている格好だ。
「リチャード、まだ終わってねえぞ!」
 聞こえたのか、リチャードは一騎だけを伴って、壁の近くまで馬を寄せてきた。
「おう、これは俺たちの負けだなあ。アイオネも、そう思うだろう?」
「陛下が、そう仰るのなら」
 長い黒髪の女は、具足に返り血を浴びながらも、淑女である雰囲気を纏ったままだった。
「はあ? ウチらをこれだけメチャクチャにしておいて、何言ってやがる」
「いや、俺の馬では、その壁を乗り越えられそうにない。森に入るのも、億劫だなあ。そこまでする戦とは思えんし。それにあの城も、お前たちの手に落ちたんだろう?」
 実に暢気な口調で、巨躯の老王は、こちらを見上げていた。
「なら、俺たちの負けではないか。おいリッシュモン、俺たちが勝っているように見えるか?」
 こめかみから血が噴き出す程に、リッシュモンの怒りは頂点に達した。
「ふざけんな、あたしらは勝ってねえ! こっちのザマ見て、誰が勝ってると思うよ。さあ、かかってこいよ。ここから仕切り直しだ」
「いや、これはどうあっても手詰まりだ。やはり、お前の勝ちだな」
「くっ・・・この、つまんねえ勝ちをつけんな! 来い! かかって来い!」
「アッシェンの常勝将軍、お前はそう呼ばれているんだろう? なら俺たちが負けるのも当然だ。これは勝てんと、今思った。とにかく、俺はもう帰るぞ」
「リッシュモン殿」
 隣のアイオネが、凛とした声で言う。
「我々の到着があと半日、いえ二時間も早ければ、勝敗の行方はわからなかったと思います。しかし我々がここに到着した時には、既にその趨勢は決まっていました。なれば、我々の為すべきは、一人でも多くの味方を救出することのみ。あなたがたは勝っています。救援としては間に合いましたが、援軍としては間に合わなかった。アングルランド軍は負けたと、私も思っています。だからこそ、味方を逃すことに注力致しました。期せずして戦局が膠着しましたが、ここで互いに矛を収めるべきではありませんか。それでも納得がいかないご様子なのは、あのまま懸け合いを続けていれば、ご自身の首が危なかったとお考えだからなのでは?」
 図星である。だからといって、この展開に納得がいっているわけではない。
「なら、痛み分けってことにしといてやる。次こそは決着だ。”冒険王”リチャード。次はその首、叩き落とす」
「おう、怖いのう。俺は中々死ねんだろうから、痛みに耐えかねたら降伏する。その際には優しく扱ってくれよ。一応、俺は王なのだ。殺さんでくれ。俺が死ぬと、またライナスの仕事が増える」
「けっ、言ってろ。やる前から命乞いすんなっつうの」
 この王にとっては本当に、勝敗などはどうでもいいのかもしれない。存分に暴れられなくなったので、帰る。そんなところだろう。この男はどこか桁が外れていて、閃きという味付けこそあるが、一つ一つの作戦の積み重ねで戦の勝利を目指すリッシュモンとは、話が噛み合ない。この老王が見ているのは、根本的には勝ちとか負けではないのだ。
 旧い友にそうするように軽く手を振り、リチャードたちは西へと去っていった。沈みかけた夕陽が逆光となり、その影だけがいつまでも、原野に長い尾を引いていた。
 リッシュモンは、混雑する本陣の柵の中に引き返した。ダミアンから犠牲の報告を聞いて、うんざりする。左の腕甲を外すと、前腕が赤く腫れ上がっていた。とりあえずこれに、添え木だけでもしてもらおう。が、医療用の幕舎にできる長蛇の列を見て、自軍の兵にやってもらってもいいかと思った。担架で運ばれる兵に道を開けると、衛生兵の一人から、先に診ると言われた。指揮官の治療は、優先されるからだ。
「いや、命に関わる傷は負ってない。死にそうな奴から助けてやってくれよ」
 言って、リッシュモンはそこから離れた。アルフォンスが、こちらに駆けてくる。
「リッシュモン殿、申し訳ありません」
「え、何が?」
「退き鉦を、打ってしまいました」
「ああ、それね。お前にはあたしが、負けるように見えたんだろ?」
「いえ、しかし、このままではと」
「初めて、まともな退却をしたよ。欺く為ではなく、明確に、あそこから逃げ出したと感じた。振り返るのが、怖いとも思った。あたしが自分じゃ負けられないって話、フェリシテから聞いた?」
「はっきりとそう伝えられたわけではありませんが、私はそう解釈しました」
「じゃ、あたしの性格がわかって退き鉦を打ってくれたわけだ。お前の判断は正しい。あそこで引けなきゃ、今頃死んでた」
 アルフォンスは総大将らしからぬ様子で、頭を下げる。その肩を叩き、リッシュモンは言った。
「負けさせてくれて、ありがとよ。皮肉で言ってんじゃねえぜ。命もそうだが、正直、少し肩の荷が下りた」
 自分の天幕に戻り、右手だけで煙草に火を着けた。この一本を吸い終わったら、そこらの兵に、左腕の添え木をしてもらおう。片手だけでは、具足も碌に外せない。椅子に座ると、ずきりと左脇腹が痛んだ。ここも、折れてるかもしれなかったな。
 さと、と。
 ベラックより西に、万を超える軍が立て篭れる町も砦も、ほとんどない。逃げたクリスティーナは、軍を細かく分散させることになるだろう。一つ一つの城を落とすのは難しくないが、こちらもこの後、徴用兵のほとんどが故郷へ帰る。追加の徴兵の準備は進められているだろうが、その規模はアングルランド軍の配置を見てからになる。リチャードはその性格からいって、南部軍が各城に入る頃には、この地から姿を消していることだろう。しつこさとは、無縁の男だ。
 ひとつ、盛大な溜息をつく。
 年明けまでゆっくりできるかな、とリッシュモンは紫煙を見つめながら思った。

 

 

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