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プリンセスブライト・ウォーロード 第25話

「患者の自立と尊厳を守る為。他にあるかい?」

 

1,「人を奴隷と為すものは、自らもたやすく奴隷となる」

 息は荒いが、思考はいつになく怜悧だった。
 激しく上下する自分の乳房を、エリザベスは他人のもののように眺める。先に寝台から身を起こしたパンジーが、エリザベスの身体を、湯で絞った布で拭っていく。エリザベスはされるがままに、壁の、あるいは天井の染みをじっと見つめていた。
 微かに聞こえてくる教会の鐘の音は、三時課(午前九時)のものか。むせ返る程の甘い匂いに満ちた部屋の、鎧戸を開ける。窓一枚向こうが別世界であったかのように、港町の喧騒と潮風が、室内へと踊り込んでくる。
 慌てて、従者の少女はエリザベスに服を着せていく。たまに腕や脚を上げるだけで、パンジーは実に手際よくエリザベスを、淑女提督の姿へと変貌させていった。凍りつきそうな海風が、上気した頬を打つ。それが、たまらなく心地よい。パンジーはまだ裸で、細い二の腕に鳥肌を立っていた。
「私のことは、もういい。お前も早く、仕度なさいな」
 従者を押しやるようにして、エリザベスは鏡台の前に座った。袖をまくってもう一度顔を洗い、手早く化粧を進めていく。それが終わる頃にはパンジーはいつもの従者の格好に、そして首輪をつけてエリザベスの傍に立っていた。手を出すと、首輪に着けられた銀の鎖が、その手に置かれる。軽いが、頑丈な鎖。
 鍵を開け、エリザベスは寝室を出た。春を錯覚させる緑溢れた中庭を見下ろすと、将校の何人かが、長椅子に座ってエリザベスの出立を待っていた。
 昨晩はあまり眠れず、あげく朝食後には気の昂りを抑えることが全く出来ず、パンジーの肉体に溺れた。
 溺れる、という内心の表現に、思わずエリザベスは笑った。これから、船を出すのにだ。提督として初めて船団を率いるという興奮に、柄にもなく呑まれていたのか。
 宰相ライナスの要請により、エリザベスが率いることになったここグランヴィルの船団は、正午きっかりに出航することになっていた。目的地は海を挟んだ北の、アングルランド本国としては南端の、タックスポート。つい先日までエリザベスの上官であり助言役でもあった、タックスポート伯の本拠地である。
 散々吐き出した後にも関わらず、股ぐらのものが再び膨張していくのを感じる。が、これは抑制の利かない性欲ではなく、武者震いにも似た昂りである。
 中庭への階段を下りていくと、気づいた将校たちが立ち上がり、海軍式の、手の甲をこちらに向けた敬礼を寄越す。それに応え、パンジーの鎖を引きながら、エリザベスは笑顔を浮かべた。
「出航準備、整いまして?」
「一隻だけ、荷の積み込みに手間取っております。人夫が、思うように集まらなかったとか」
 エリザベスの叱責を覚悟してか、将校は緊張した面持ちを隠せずに言った。だがそれ以上に、エリザベスに対する嫌悪と侮蔑も隠せていない。ろくに、目も合わせようとしないのだ。
 周囲には陰で”嫌な”エリザベスと呼ばれていることは、承知している。忍びとしても優秀なパンジーの報告により、将校の誰が、自分に対してどのような思いを抱いているかまで、エリザベスは概ね把握していた。目の前の精悍な青年将校は特に、エリザベスへの陰口が多い男だった。
 いつか、その尻の穴を掘ってやろうか。しかしそんな薄暗い怨嗟はおくびにも出さず、エリザベスは再びの微笑で応えた。
「急な要請でしたものね。そういうことも、あるでしょう。正午の出航には、間に合いまして?」
「はあ、おそらく、そこまでには」
「なら、よろしくてよ。まだ時間もあります。あなたたちもそれまでは、どうかゆっくりしていて下さいな」
「準備に遺漏ないか、あらためて確認をして参ります。提督にはまた後ほど、ご報告に上がらせて頂きます」
 再度の敬礼の後、逃げるように中庭から駆け出して行く将校たちの後ろ姿を眺めながら、エリザベスも屋敷の門を出た。
 波止場にほど近い、かつてはタックスポートも使っていた、提督用の屋敷である。ここに戻ることは、当分ないだろう。振り返ることもなく、エリザベスは港に向かった。私物の入った車輪付きの鞄を引きながら、パンジーが後に続く。
 犬の散歩のようにパンジーを連れ回すエリザベスを見ても、この港ではほとんど、それを気にする者はいなくなっていた。もう半年近くを、このグランヴィルの港で過ごしている。久しぶりにこの港を訪れた者たちは今でも、二人の姿を見ると眉をひそめる。
 赴任以来、こうして港町をパンジーを連れて散策することで、顔は売ってきた。初めてこの港に来た時のことを、思い出す。エリザベスを誰とも知らず、すれ違いざまに肩をぶつけてくるような人間は、もういない。今では自分がそこを通ろうとするだけで、誰もが道を空ける。
 力の源泉が提督という立場、王族の血に対する畏怖でも、自分対する嫌悪感でも、どちらでも構わない。その姿を見せるだけで、混雑した道を急ぐ誰もが、二人の邪魔にならないよう、右へ左へと避けるのだ。
 背筋がぞくりとするような、暗い喜びである。この場を支配しているという実感。場だけではない。何かを支配するということは幼い頃から、エリザベスにとって至上の喜びであった。
 アングルランド王リチャードの子たちは、エリザベスを除く誰もが、支配の快感を拒絶しているように思える。全員に会ったわけではなく大半はその評判を聞いただけだが、いずれも王位継承には消極的だという。
 嫡子である元帥のエドナと、その弟のラッセルですら、王位にはふさわしい者がなるべきという、一歩も二歩も引いた立場だった。二人を馬鹿だとは思わず、むしろその人格と見識の高さに圧倒されたエリザベスだったが、それだけにもったいない話だと思う。あの二人が玉座に対する野心をわずかにでも見せていれば、エリザベスの前途は困難を極めるものになっただろう。
 エリザベスは庶子の一人、そして二人のおかげで王位継承権を得た者の一人として、本気で玉座を希求していた。父であるリチャードからして、王で居続けることに億劫であるという。その話からもリチャードの血脈は権力に対する欲望が希薄で、自分はおそらく異質なのだと思う。が、この異質さがエリザベスの長所であり、他の王子王女に対して、明らかに一歩先んじている点である。
 こんなちっぽけな、腐った魚と男どもの汗の臭いしかしないような時化た港町ひとつ支配しているという実感だけでも、この高揚感なのだ。国一つ手中に収めたと感じた時にどこまで昇りつめてしまうか、想像しただけで肌が粟立つ。怖いくらいだ。またも股間に血が行くのを感じたが、二枚重ねの厚手のスカートの上からでは、その変化に気づく者はいない。
 鼻息は自分でもわかるほどに荒く、頬は入念な化粧を通り越して赤く染まっていることだろう。通り過ぎる何人かが、帽子を取って愛想笑いを浮かべた。祝福の十字を切る者、土着の海の聖人のものか、奇妙な印を切ってエリザベスを見送る者たちもいる。提督として初めて船団を率いるエリザベスが、相当に入れ込んでいると見えていることだろう。
 その側面もあるが、エリザベスの目はその先を見つめていた。王の子らで、海軍に身を置いている者はいない。つまるところ競争相手なしに、エリザベスはこの出世街道を進み続けることができるのだ。
 ここで評価を上げ続け、目指すは海軍元帥である。その地位は、老齢のタックスポートが務めており、かの男は年内一杯で軍人ごとその地位を降りる。その息子たちは宮廷の官僚であり、軍の経験のない者にたやすくその地位を譲らせる程、ライナスも甘い者ではなかった。後継は決まっておらず、しばらくは宰相がそれを兼任すると聞くが、実質的にその地位は空位になったと言っていい。必要以上に責任を背負い込むのがあの”戦闘宰相”の悪い癖であり、付け入る隙である。
 しばらくすれば程々にその地位を任せられる者も出てくるのだろうが、今までがそうであったように、万事に目を配る性質故にか、対アッシェンに注力し過ぎたからか、かの宰相が海軍に向けている目は、相対的に低いと言わざるをえない。次とは言えずとも、新海軍元帥就任時の再編に対し、エリザベスはさらに高い地位を要求するつもりだった。陸軍に比べ戦功を上げる機会が少ない分、目立った功績を上げてきた者は、少なくともここ十年は、いないはずなのだ。
 名門とはいえ、王家の血の入っていないギルフォード家の跡取りクリスティーナですら、第二の陸軍元帥となった。空位となる海軍元帥に、王位継承権を持つ自分が、辿り着けない道理はない。
 ただこれまでは、西の大海を挟んだ開拓地周辺、あるいはそこからやってくる船団の護衛くらいしか、戦功を上げる機会がないと思っていた。船団が無事であるというだけで戦功となる分、つまり交戦すらせずとも勲功を上げられる分、確実性の高い戦場なのだが、一息に大きな戦功を上げられるわけでもないと、そこは肚をくくって時間との勝負をせざるを得なかった。老王の寿命と、どちらかがといった点で、際どい勝負だったかもしれない。リチャードが明日にでも死に、順当にエドナが王位を継いだとしたら、起死回生と、エスペランサ相手でも、戦を仕掛けるつもりでもいた。
 が、もしもの備えにそこまで複雑なことを考えなくとも、レヌブランが独立し、格好の獲物が手の届く範囲に現れた。この僥倖は、エリザベスに対する神の采配だとしか思えない。
 まだ、宰相府から届いた命令は、タックスポートへの船団の集結のみである。それ以降何を命じられるのか、一提督であるエリザベスには、知らされていない。
 が、緊急の命であり、おそらくそこで本国の兵を乗せ、レヌブランの、あるいは二剣の地の港を手に入れようという目論見だろう。後者はどんな算段でそれを成すつもりなのかはわからないが、面倒なやり取りは、宰相府のお手並み拝見といったところだ。まだ一提督に過ぎないということは、ライナスのやり口をじっくり学べる位置にいるということでもある。
 ふと、波止場の隅でその威容を無駄に見せつけている外輪船、”プリンセス・エリザベス号”が目に入った。思わず、下唇を噛みそうになる。同船は無事進水を終えたものの、処女航海で早速内燃機関に不具合が見つかり、既に三ヶ月以上の間、あの場で修理中である。船渠にもう一度入れようかという話も出たが、結局港の隅で、図体のでかさと、エリザベスの名を冠した醜態を晒し続けていた。
 あの外輪船と呼ばれる最新鋭の戦艦は、間違いなく今後の海戦を変える。長く船に乗ってきた者たちは、自分たちの船こそ最高と考えがちであり、潮目が変わりつつあることに気がつかないのだ。前進を続ける人間が、時代の波に取り残されてはならない。船なら、尚更だろう。
 が、今はあの船についてあれこれ考えたところで仕方ない。年明けには動けるというドワーフの職人たちの言葉を信じるしかなかった。
 ドワーフの職人は人間のそれ以上に頑固であり、脅したり鞭をくれてやったところで、却って態度を硬化させる。なのでエリザベスは彼らの元に、差し入れや激励の為に、頻繁に足を運んだ。それらは、それなりに効果があったと思う。人間の娼婦すら、充てがってやったのだ。
 何かの視察だろうか、市長が用心棒を連れ、波止場の方から戻って来た。エリザベスに、媚びた一礼をする。この男は、散々絞り上げた。通り過ぎる用心棒が、怨嗟の眼差しで傍を通り過ぎる。
 市長や部下たちには厳しく接してきたので、エリザベスを、その地位や血筋を嵩にきて威張っているだけの女と見ている向きが強いだろう。が、そういった連中は大きな見当違いをしている。エリザベスは偉ぶりたいわけでも、他人を虐げたいわけでもない。現にドワーフたちにはこちらから頭を下げ、精一杯持ち上げ続けている。求めているのは、屈服ではなかった。
 要は、人を支配したいのだ。
 銀貨一枚懐にあれば舞い上がるような、平たく言っても貧民だったエリザベスだが、その後に口にしたどんな美食も、それらを手に入れられるだけの大金も、エリザベスを芯から満たすことはなかった。ある時期までは常に人に支配される人生で、隣で首輪をつけているこの少女と出会うまで、その牢獄から出られる見通しすらなかった。
 初めて人を支配したと実感した時の愉悦は、それまでの人生で経験したことのないものだった。あれが、忘れられない。あれ以上の恍惚を得るには、人を、もっと多くの人間を、支配し続けるしかない。一度、学のある人間にこう評されたことがあった。
 人を奴隷と為すものは、自らもたやすく奴隷となる。
 上の者に媚び、下の者に居丈高になる下衆を蔑む言い回しだが、その男の意図とは違った角度で、この言葉はエリザベスに合っていると思った。
 最底辺から、這い上がってきたのだ。寂れた鉱山町の娼婦宿の、落とし子である。母は、冒険王子リチャードがその町に立ち寄った時に抱いた女だという自尊心だけが、支えだった。時期的にも、エリザベスがリチャードの血を引いていると、確信していた。しかし母が死ぬと、エリザベスはたった一人の親を、唯一の後ろ立てを失い、異形の娼婦として、ひたすらに弄ばれるだけの人生を送った。死にたいという気力すら奪われ、食い、排泄し、虐げられる、それだけを繰り返していた。
 今は、違う。
 王となれないのなら、いっそ奴隷のままでいい。いや、奴隷のまま人を支配できるのなら、それすら厭わない。尻に口づけし、靴を舐める代わりにその者を支配できるというのなら、喜んでやる。そんなことを恥と感じる程、恵まれた人生を送ってきたわけではない。
 そして今自分は、玉座への階に、片足を乗せている。アングルランドを支配できるのなら、いつでも自分は王冠を被ったまま、全ての民の奴隷となろう。
 権力、嫌悪、恐怖。ありとあらゆる見えない力が、波止場の混雑を蹴散らしていく。やがて、エリザベスが今回乗船する、旗船が見えてきた。
 ブラックベリー号。ベリーは果実のベリー(berry)だったが、腹の意味のベリー(belly)に変えさせた。船長の顔が怒気のあまり黒ずんだ時のことを思い出して、エリザベスは吹き出しそうになった。
 舷梯を上がり終えると、その船長が憂鬱そうな表情でエリザベスの傍に着く。艦橋に向かいながら、船団出航の進捗を聞く。エリザベスは操舵士の後ろの、一段高い席に座り、船長に下がってよいと手を振った。
 正午に出航予定だが、軍船以外でも混み合う港だ。三十分前にこの旗船が舫い綱をほどくくらいで、ちょうどいいだろう。天候に不安なく、夕方までにタックスポートに入港することは、難しくないと判断する。何の問題もなければ、三、四時間程度の航海だ。
 懐中時計に目をやると、まだ九時半である。船内を見て回ってもいいが、意味のない徘徊で船員を萎縮させる必要はなかった。それで仕事をしたような気になるほど、エリザベスは馬鹿でも弱い人間でもない。威嚇し、鞭をくれてやるのは、それで相手が支配できると踏んだ時だけである。
「三十分前に、出航します。部屋から出てくるまでは、緊急の用事以外は、報告の必要はありませんでしてよ」
 それだけ言うと、室内にいる者は万事承知といった様子で頷いた。私物を置いて再び入室してきたパンジーに、あごをしゃくって意思を伝える。
 船長室の下に一つ、エリザベス専用の、狭い部屋を用意してある。機密性が高く、外に音が洩れにくい部屋だ。二人で入り、寝台に腰掛けながら、パンジーが甘い香を焚いていく様子を眺める。
 懐中時計のねじを、巻き直した。これから溺れる快楽の海に、しかし時を忘れるような失態だけは、許されなかった。
 この部屋でどんなことをしているのか、大体の船員は予測できているだろう。が、実際に起こっていることの詳細までは、誰一人知らない。
 エリザベスの秘密を知っている者は大抵、消してきた。自分を虐げた者の顔は、それがどんな暗がりでも、決して忘れないのだ。目の前で服を脱ぎ始めたパンジーと、故郷の村の何人かだけが、エリザベスの正体を知っている。
 スカートの裾を上げると、パンジーが中へと潜り込んでくる。枕の脇の、懐中時計。もう一度見つめ、エリザベスは思った。
 時間はまだ、充分過ぎる程にある。

 

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