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4,「ロンディウムに残った民の、末裔です」


 くつくつと煮込まれる音と共に、いい匂いが店内に広がってきた。
 蜜蜂亭の客席の暖炉は、調理用も兼ねているので、店用のものであることを考えても、少し大きい。火の上では今、アナスタシアが初めて任された、蜜蜂亭のブラウンシチューの鍋が、加熱されていた。
 客席の暖炉で作る料理の難しいところは、調理に合わせて火加減を調節するのではなく、客が求める室温に合わせて薪を足すところだろう。
 何度か、具材をかき混ぜる。下の方が焦げ付かないか、とにかく心配である。厨房の中ならとっくに、弱火で煮込んでいく段階だと思った。
 そんなわけで今日のアナスタシアは、ほとんど暖炉の前で待機していた。客から注文を受けると早足でそれをロズモンドに伝えにいき、また早足でここに帰ってくる。特に今晩は冷えるので、店内を暖めるのに火はかなり強めである。
「そんなに心配しなくて大丈夫よう」
 盆に一杯の料理と酒を運びながら、ジジが通り過ぎていく。戻って来た彼女はお玉で小皿にシチューを取り、軽く味見した。
「どうだろう。見た目にはもう、できているような気がするが」
「まだ、鶏の味が汁に充分染み出していない、脂が出てるからそう見えるけど。てかそんなに不安な顔しなくていいんじゃない? そもそも料理は上手いんだし、煮込みも数えきれないくらい作ってきたでしょうに」
「スラヴァルでは、ボルシチばかり作ってきた。具材の違いもそうだが、この店の味になってくれるか、心配なんだよ」
「失敗したら、私たちが食べればいいから。ま、引き続き火の番お願い」
 笑いながら、ジジは積み上げた皿を厨房へ運んでいった。
「なに、アナスタシアちゃんが初めて作る蜜蜂亭の鍋だ。どんな味になっても、俺たちは楽しみにしてるけどなあ」
 暖炉前によく陣取る髭面の常連が、そう言って周囲に同意を求める。他の客たちも、一様に頷いていた。
「昔からこの店の味を知っているあなた方に、首を傾げるものを出したくはないのです」
「なんかこう、アナスタシアちゃんは料理のことになると、人が変わるよなあ。普段はこう、ぼんやりしてるのに」
 客たちは笑うが、アナスタシアはしゃがみこんで、鍋の様子に集中するのみである。やはり、火加減が強すぎる気がする。しかし今晩の冷え方からいっても、火の勢いを落とすわけにはいかない。
 気づくと、珍しくロズモンドが厨房から出てきていた。アナスタシアの横で膝を着く。
「調理用の暖炉や、石釜じゃない。熱はお前が考えているよりも、客席の方へ逃げ出しているんだ」
 目を細めて、ロズモンドはじっと鍋の表面を見つめた。
「二十分弱ってところか。キャベツはそろそろ入れていい。しばらく傍で一服しているか、ジジの手伝いでもしていろ」
「はい、了解です」
 ロズモンドが厨房に戻るのと入れ違いに、ジジかこちらにやってきた。煮崩れしやすい食材を、まな板の上に乗せている。それらを無造作に鍋に落とし、軽くかき混ぜたジジは、すぐに煙草をくわえた。アナスタシアは一度まな板を片付けに厨房へ入ったが、火を見つめ過ぎたせいだろう、暖炉の前に戻ってもまだ、目がちかちかとしていた。
「いきなりシチューじゃなくて、中でフリカッセから始めても良かったかも。ホントはあっちの方が難しいんだけど。あんたの様子見てると、こっちまで鍋が心配になってきちゃう」
 ジジは笑い、紫煙を吹き出した。フリカッセとは、肉に火を通してから鍋に入れる料理で、さっと煮込む分、難易度、特に常に同じ味にするというそれは高いはずである。特に、他の調理や仕込み、清掃まで同時にこなしている厨房では、一つの料理に集中できるわけではない。少しの間、目を離さなくてはならない料理程、難しいのだ。
 あらためて、家で作る料理と店で作る料理は、根本的に違う。その日の気分で味をいじれる家の料理と違い、店のそれはどんな天候、仕入れた具材の状態であろうと、とにかく同じ味を作る。客は、それを求めてわざわざ店に足を運んでいるからだ。
 ジジが鍋の番をしてくれているので、アナスタシアは客席の灰皿を取り替えて回り、いくつかの酒のお代わりを取ったりしつつ、しばし店の仕事に集中した。
「そういえば最近、レザーニュの人がよく来るわね。人集めて、何かやってるんだって?」
 パイプに火を着け、アナスタシアも一息つくことにした。今日はほとんど働けていない気がするが、普段よりもずっと消耗していた。ジジの話に応えつつも、半分は鍋のことで思考が占められている。
「徴用兵に持たせる武器の、講釈をしているんだ。昨日で一応幕とするつもりだったが、兵たちの要望もあって、しばらく続ける。これからも、彼らはここを訪れるよ」
「あの、長い黒髪の騎士、将校さんなのかな、あの人ちょっと、素敵じゃない?」
「誰だろう。三、四人、そんな男がいる。太った男か?」
「違う。何かこう・・・世を憂いている感じの。赤みがかった瞳の、シュッとした二枚目」
「ああ、クロードのことかな。あれはやめておけ。別に惚れている女がいる。玉砕覚悟なら、場を取り持ってやらないこともないが」
「うぅおあぁぅ・・・ま、いっか」
 何ともいえない唸り声で失恋を告白したジジだったが、もう切り替えたのか、火搔き棒で薪を鍋の下から散らしている。なるほど、あれで火を落とさずに余熱に近い状態にできるのかと眺めていたが、その様子はどこかいじけているようにも見えた。
 思い返すと、クロードが一度この店を訪れた際、ジジはその卓に頻繁に顔を出していた気がする。当のクロードが熱っぽい瞳でフローレンスを見つめ続けていたことの方が気にかかり、ジジの様子に気が回らなかったのだが。
「そういえばフローレンス様って、妙に色気があるというか、艶っぽいとこあるわよね。髪は短いし化粧も薄いし、びっくりするような美人でもないんだけど」
「お、ジジはそっちの趣味もあったのか」
「違うわよう。そういうアナスタシアは、どう思うの?」
「女と寝たいと思ったことはないが、一度くらい、経験しておくのも悪くないと思っている」
「いやいや、そっちじゃなくて。フローレンス様に色気があるって話」
「まあ、確かに・・・」
 最近はどうだか知らないが、フローレンスが夫のジェルマンに性的な虐待を受け続けていたという話は、アナスタシアのように噂話に興味がない人間にも、自然と耳に入ってくる話だ。まぐわいを重ねることで漂う色香のようなものは確かにあり、彼女の場合はそれが自分の望みで身に着けたものでないことを考えると、いささか不憫な話である。
 先日シュゾンがこの店に訪れた時も、ジジは似たような感想を彼女に抱いていた。その辺りの嗅覚が優れているのか。シュゾンもまた、フローレンスと似たような、性的に虐待されてきた過去がある。
「あれはこう、男を惹き付けるわよね。あ、クロードさんが好きな人って、フローレンス様?」
 アナスタシアは肩をすくめて、パイプに口をつけた。
「なら、チャンスあるかも? ああ、でも身分違いか。苦労するかもなあ」
 仮にそうなったとして苦労するのはクロードの方だが、あえて口にすることでもないだろう。
「あ、もういいみたいよ。味見してみて」
 すぐに跪き、アナスタシアは小皿を啜った。
「ん・・・いいのかな、これで。味はともかく、ちょっと舌に重たい感じがする」
「どれどれ・・・あ、ホントね。煮込み過ぎた。水をグラス半分、赤ワイングラス一杯」
 言われるがままに、それらを厨房から持って来る。
「これで・・・あと五分ってところね。時計、見ときましょっか」
 柱時計の針は、八時五分を指している。八時ちょうどが、食べ頃だったということか。ジジの話に付き合って時期を逸してしまったが、最初のロズモンドの見立てが正しかったということである。味はそれで整うと思うが、芋が煮崩れるかもしれないと、またもアナスタシアの不安の虫が頭をもたげてきた。
 旅の楽士が三人、呼び鈴の音も高く、店に入ってきた。アナスタシアの初めて見る顔だが、ジジは知っている様子だった。
「あら、一年振り? 元気そうでよかった。暖炉の前は今使ってるから、その横でいいかしら」
「ジジも、元気そう。世話になるよ」
 まだ若い夫婦と、その娘か。父親の左足、膝から下が義足である。三人は一礼して楽器を爪弾きながら、周囲に笑顔を振りまいた。ジジと共に暖炉脇の卓を裏口から中庭へと運ぶ。
 店内に戻ると前口上を済ませた楽士たちが、それぞれの楽器を弾き始めたところだった。十歳程の娘が、腰に手を当てて足を踏み鳴らし、かわいらしい声で歌い出す。体格に似合わず、中々の声量だ。
 ジジと揃って手拍子を打つと、客席も徐々に盛り上がってきた。音楽を聞きつけて、新規の客も二人、賑わいを求めて入って来る。
 卓へ案内した二人の注文を取り、アナスタシアは暖炉の前に戻った。八時十分。味見をしてみる。まさに、蜜蜂亭の煮込みの味だった。じゃがいももなんとか、煮崩れずに踏ん張っていた。
 振り返ったジジに、親指を立てる。
 激しく手を叩き続けるジジが、たまらない笑顔を返してきた。

 

 牢馬車の鉄格子が開き、ソーニャは猫のようなしなやかさで原野に飛び下りた。
「おう、大分元気そうじゃないか」
 ソーニャは大きく伸びをして、大口を開けて欠伸をした。
「夜通しこんなとこに押し込められて、今度は風邪引きそうですよ」
 言った割に、ソーニャはベラック城の寝室にいた時よりも、調子は良さそうだった。負傷前よりも足が太くなったように見えるがおそらく逆で、上半身が少し細くなったのだろう。下半身は傷を押しても鍛えてきたと見える。ただこの冬に耐えるだけの厚着をしていてもなお、肩幅はやや狭くなったように感じるのだ。
「馬は、あれに乗ってくれ。逃げ出さないでくれよ。今のお前でも、捕まえるのは苦労しそうだ」
「今更。ここで逃げ出したら、クリスティーナ様の顔に泥を塗ります。捕虜らしく、大人しくしてますよ」
 何度か膝の屈伸をしてから、ソーニャは軽やかに鞍へと飛び乗った。
 周囲にいる兵は、およそ一万。ベラック出発時の七千から、半分以上を帰還させ、同時に農閑期を利用して付近に動員をかけてきた。ただ南部の民たちは長くそして間断なく続いた南部戦線のおかげで、かき集めた徴用兵でも、戦の経験者が多い。覚悟していたよりも、張りぼて感の少ない軍に仕上がっていた。
 ラステレーヌの原野、双方合わせて十万という規模に比べれば、戦自体が縮小傾向だが、アングルランドが最後の防衛線を敷く頃には、またあの規模の、かつ熾烈な戦いが待っているだろう。
 ベラック戦以後は、大量に捕えた捕虜の返還を条件に、多くの町と城を奪還してきた。残すはキザイアの立て篭る城と、ポワティエ。この二つを落とせば、いよいよトゥールに本拠を構えたクリスティーナと、最後の決戦となる。
「ざっと・・・一万ですか。よくもまあ、これだけの兵力でアングルランドの占領地を次々と落としましたね。
 ソーニャが馬上から辺りを見回して言った。
「一滴も血は流れちゃいない。ま、城を落とすというより、捕虜を売って歩いたって感じだな。進軍路には、頭を使ったぜ」
「小さくたくさん追いつめて、その町に入り切らない兵力にしたところで、大きく捕虜を売る。そして軍を解散させると。キザイア様が籠る城も、その算段で。牢馬車の数から言っても、もう売るものも少なそうですが」
「あそこにいるのは、全員爵位持ちだ。何より、お前が一番高く売れるんだよ、ソーニャ」
 リッシュモンが笑うと、ソーニャは顔をしかめた。
「まるで悪役のような笑い方ですよ、リッシュモン卿」
「お前から見りゃな。けっけっけ」
 ソーニャが吹き出し、次いで腹を抱えて笑い出した。まったく、何をしても絵になる女だ。美人というものは、どんな仕草でも人を惹き付ける。
「そら、あそこの丘超えたら、サント・モール・ド・トゥレーヌが見えて来るぞ。くそ、長い地名だな」
 しばらくして、キザイアの籠る城が見えてきた。遠眼鏡を覗き込み、すぐに異変に気づいた。門は開かれたまま、そして城門楼の上の旗が、一本しかない。風ではためいているのは、市の旗だけである。
「斥候。様子を見て来てくれ。可能なら、中の様子も。歩兵一部隊も、後に続け。おかしいな、昨晩までここにキザイアがいたはずなんだが」
 丘の上、遮るものもなく寒風にさらされながら、城内に兵が入っていく様子を見つめる。やがて斥候が一騎、こちらに戻って来た。
「城内に、アングルランドの兵はいません。軍営も回りましたが、物資の類も全て、持ち去られているようです。市長によると、一昨日にはキザイア殿はここを離れられたようで」
「そうかい。一本取られたな。行き先はポワティエで間違いないだろうさ」
「それと市長が、物資と資金の援助を求めています。市民のものには手を付けなかったようですが、市の冬の蓄えに加えて財貨も持っていかれた為、このままでは役人の給料すら払えない状態だと」
「うわ、本当にやられたな。こりゃ攻めてるこっちが兵糧攻めだ。見捨てるわけにもいかねえしな。プチ焦土作戦ってとこか。市長には、できるだけの援助をすると伝えてくれ」
 がちがちと歯を鳴らしたが、これは震えではなく歯ぎしりである。リッシュモンの歯列では、こんな音しか出ない。
「ソーニャ、どう思う?」
 横のソーニャはクリスティーナの副官であるが、それ以上にキザイアの副官として過ごした時間が圧倒的に長い。彼女の手口を一番近いところで見て、かつ献策してきたはずである。
「ポワティエでも、同じことをしてるんじゃないですか。保険ですかね。この軍は一旦、何としてもポワティエで止めると」
「保険ね。こちとら元々、ポワティエまでの進軍しか考えてなかったけど」
「またまた。あなたのそういうところ、嫌いじゃないですけどね」
 ソーニャが、にやりと笑う。きっと自分も、同じ顔をしていることだろう。
「誰にも言ってなかったんだけどな、お見通しかい。そうだな、状況が許せばだが、ポワティエを無視して直接トゥールを急襲するのもアリかと思った。向こうの備え次第だが、周辺の砦に兵を散らしてたら、城に乗り込み、一気に南部戦線を終わらせてもいいってね。まだ斥候を飛ばしてないが、大方城の方に兵を集中させてるだろうよ。でかい城だしな。だからこれはあくまで、好機だったらってことだな」
 クリスティーナを出し抜くのは赤子の手をひねるようなものだが、やはりキザイア、そしてこのソーニャ相手だと、まともな知恵競べとなる。つくづく、この女だけでもあの戦場で仕留めておくべきだったと痛感した。
「ザザはおろか、アルフォンスにも言ってなかったんだ。二人だけの秘密な」
「キザイア様は、周囲に見立てを話してると思いますけどね」
「それもそうだ。トゥールは正念場になりそうだな。南部だけじゃなく、今後のあたしらにとってもさ」
 リッシュモンは、後方に位置していたザザを呼んだ。顔に大きな傷を持つ指揮官は、すぐにこちらに駆けてきた。
「あの城は、あたしが片付けておく。ザザは主力を連れてポワティエに向かってくれ」
「お気遣い頂いているのなら、無用です。総大将が主力を率いるのが、適切だと」
 ポワティエは、本来ザザの居城であり、近辺の領主だった。ポワティエを失って以降、麾下数十騎だけを伴い、客将の形で南部軍に残り続けたザザに、リッシュモンはある種の繋がりを感じていた。治める土地を持たない領主としての、共感である。
「あたしには、帰る家がない。けどお前は違うだろ。主を待つ人様の家に真っ先に入るのが、あたしの土足じゃいけねえって思ってる」
「ではあの城の事務処理は、手早く済ませてきます。半日、頂ければ。すぐに本隊に追いつきます」
「お前のそういう律儀なとこ、嫌いじゃないんだが」
「律儀なのは、リッシュモン殿の方でしょう。では、早速。あらためて、お心遣い感謝致します」
 馬上で一礼すると、彼女はもう麾下と共に丘を駆け下りていた。十台程の輜重隊が、その後に続いた。
「いい人ですね。ちゃんとお話しする機会があれば、と思いました。戦場で交わす刃でしか、語り合ってこなかったので」
 戦場で対峙する敵同士という意味でなら、ソーニャとザザの付き合いは、長い方だと言えた。
「ポワティエまでに追いついて来るなら、話してみろ。真面目一徹で、”ラ・イル”(憤怒)の異名もどこへやらだ」
「”ラ・イル”の頃のザザ卿を、私は知らないので」
「お前がここに赴任してきた頃には、ポワティエは落ちてたか。放棄を決定したのはゲクランだが、前任の総大将やってたあたしが、意地張ってあそこを守り抜こうとしたことが、巡り巡って長くポワティエを捨てる要因になったと思ってる。思い返せばあたしの時に一度捨てれば、ゲクランの時にすぐに取り返せた。小さな戦ひとつ負けられなくてね。結局ポワティエのみならず、周辺の領地も疲弊させちまった。まだ十代だったあたしは、一つの負けでも総大将の地位を追われると、びびってた。なのでザザには、責任を感じてるんだよ」
 最後の方はほとんど独り言だったが、ソーニャは聞き返すでもなくそれに耳を傾けていた。
 そのまましばらく、街道に沿って軍を北上させた。曲がりくねった川沿いに、地図で見た印象よりも良い場所を見つけ、日が陰る前に野営の準備をさせる。
 木立の一角を囲むように垂れ幕を引き、樽の中に熱した石を入れ、即席の風呂とする。この一帯にいるのは、女の兵だけだ。すぐに用意できたのは樽二つで、リッシュモンは一緒に野営の準備をしてくれていたソーニャに、声を掛けた。
「もう、風呂入れる? よかったら、そっちの使っていいぞ」
 熱した石を、苦労して火鋏で引き上げながら言うと、ソーニャは満面の笑みで頷いた。
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
 袖をまくったソーニャが、リッシュモンより上手く、樽の中の石を取り出していく。この手の風呂はどこの軍でもやっているわけではないが、ソーニャは経験があるらしい。
「下着は、兵がそこの川で洗ってくれる。替えは、持ってきてるか」
「一応、上着込みで一着ずつ」
「なら、今きてる上着も洗ってもらえ。そこの洗面具も、好きに使っていいから」
 樽の風呂に、ゆっくりと身体を沈めていく。痺れる程の熱さだが、身体の芯に熱が戻ってくるのを感じた。踏み台に立ってそろりと湯に足を入れるソーニャの裸体は、その顔以上の美しさだった。口を開かなければ美人と評されるリッシュモンと違い、ソーニャは裸でもこちらの期待を裏切らない。ただ左脇腹に、大きくはないが稲妻のような傷痕があり、肉が少し窪んでいる。あれがリッシュモンの仕業であることを考えると、美術品に傷をつけたような、取り返しのつかない罪悪感があった。
「うぐっ、だ、大分熱いですねえ。いつもこんなお湯に入ってるんですか」
「冬だからな。あったまってる内にちゃちゃっと身体洗わないと、風邪引くぞ」
「ふうぅ・・・病み上がりには、心臓に悪い。ただ、身体がほぐれていくような気もします」
 顔を真っ赤にしながら、ソーニャは樽の縁に頭を置き、気持ち良さそうに溜息をついた。
 入浴を済ませた後も、ソーニャとは行動を共にした。監視の意味合いがあるのだがふと、この娘が自分の傍にいるのが自然であるかのように感じ、束の間リッシュモンは動揺した。似たようなことを考えていたのか、ソーニャが微笑を浮かべて言う。
「なんか、私がリッシュモン卿の副官みたいに見えそうですね。今朝からずっと、一緒ですし」
 実際の副官のダミアンは、二人の目の前で兵たちに指示を飛ばしている。
「そんなもんかね。そういやトゥールでお前たちが負けたら、ソーニャは軍を辞めるのか」
「そのつもりですが、ちょっと悔しいと思ってるかもですね」
「お前、負けず嫌いって感じだしな」
「そうですか? 我が道を行くタイプなんで、人との比較はしませんが」
「そういう部分もある。そうでない部分も、同じくらいある」
「まあ、このままトゥールで負けようって気もありませんし。一度は、野戦があるでしょうし。私たちが城に籠った後は、大動員をかけて城攻めに入るのでしょう?」
「ま、流れ的にはそうなるな」
「アッシェン自体が財政難と聞きますし、宮廷からの支援があるにしても、それ一回かもしれませんよ。もし私たちがその攻囲を凌ぎ切ったら、次の包囲まで何年もかかるかもしれません」
「確かに。なるほど。そっちもアングルランド本国からろくな救援も期待できない中、なおやり合うつもりってのは、そこまで見越してのことかい」
「あれから捕虜でいた私の、あくまで推測ですけどね。一、二年は、本国からまともな救援は期待できないでしょう。援軍のない籠城などありえませんが、三年後の援軍を期待して、私たちは長い籠城生活に入ります。物資の蓄えは、それなりにあるはずです」
「実際には三年も必要ないものな。金のないこっちは、包囲が長引く程に追いつめられる。取り返した領地からの税収は、最初の包囲の間はほとんど期待できないし」
「さすが、よくわかっておられます。二、三ヶ月の攻囲ですか。その猛攻を凌げば、南部戦線はしばし、トゥールとポワティエでの睨み合いとなる」
「初めから、膠着が狙いか。やれやれ、やりづらいことこの上ないな」
「やけに素直に認めますね。またも、何らかの策が?」
「いや。が、その場で何か思いつくだろ、あたしじゃなくても。あたしは作戦参謀って肩書きだけどな、アルフォンスだって中々の切れ者なんだぜ?」
 そこで一度、会話が途切れた。リッシュモン自身が捌かなくてはならない件が、いくつかあったからだ。何枚かの書類に署名し、軍相手の商売にやってきた近隣の者たちの代表にも会った。
 夕食時は焚き火の前、ソーニャと、戦と関係のない、話さなくてもいい話をした。家督を継ぐ前は女友達の多いリッシュモンだっが、民を率いる立場になってからは、そういった娘たちとは部下か民として接している。立場を考えずにつまらないことで盛り上がれる、友というものを、いつの間にか失っていた。ソーニャとも本来は敵軍の捕虜という明確な壁があるはずなのだが、何故か友のように話せた。いや、きっと今の自分には相応しい友なのだろう。
 食後もそんな話が続く中、リッシュモンはふと、こんなことを口にした。
「なあソーニャ、軍を辞めたら、漫画家ってヤツに専念するんだろ? その後、また軍人をやりたくなるような時が、くるんじゃないか?」
「どうでしょうねえ。今はとても考えられませんが、身体が動くようだったら、心変わりするようなこともあるかもしれませんね。物語のネタを仕入れる意味でも。未来の選択肢は、無限にあります」
「旅に出たくなったら、どうだ、あたしについてくるのは」
「私に、アングルランドと敵対しろと?」
「いや、あたしも百年戦争にべったりってわけでもない。また騎士団領に向かうかもしれないし、アッシェンに留まるにしても、アングルランドを相手にするとも限らない。レヌブランが、独立したって話も聞くしな。ちょっと、お前を欲しくなった」
 断られるなら、それでいい。むしろその可能性がずっと高いと思って話を持ちかけたのだが、ソーニャの応えはまるで方向性の違う、かつ予想外のものだった。
「天下の大将軍が私を買ってくれていることには、感謝します。それよりリッシュモン卿、あなたはいつか、父祖の地に帰りたいとは考えていないのですか? このまま、流浪を続けるおつもりで?」
「まさか、そんな話を振られるとはな。アッシェン王アンリの百年戦争の終着駅は、失地回復だ。この南部はもちろん、二剣の地、そしておそらくレヌブランを取り戻したら、それで戦はしまいとする。それにここまで出来りゃあ、その時のアングルランドに、再度のアッシェン侵攻は無理だろう。アングルランドの中枢にいる連中も、ずっと代を遡ればアッシェンの人間だ。だから百年前、アッシェンに後継者問題が浮上した際に、時のアングルランド王はその王位継承を唱えて、今に至るわけだからな」
「リッシュモン卿、あなたの血脈はその名の通り、アングルランド、リッチモンドの領主であるはずです」
「その通りだが、この戦自体に反対し、一部の民と共に、アングルランドを追われた。百年前のことだ。今更あたしがどうこうできる話じゃない」
「義によってアッシェンに落ち延びたにしても、父祖の願いは、リッチモンドへの帰還にあったのでは?」
「そうだろうよ。ある時まで、あたしの家系はアッシェン語のリッシュモンではなく、この地でもリッチモンドを名乗っていたらしい。まさかその後百年も、流浪を強いられるとは思ってなかったろうがな。既に自分たちでも、リッシュモンと名乗ってる有様だ」
「リッチモンドには今も、”正義の人”リッチモンド卿の銅像が立っています。町の英雄なんです」
 ソーニャの表情に珍しく、切迫した何かを感じる。
「そうなんだ。ああ、お前はロンディウム出身だもんな。同じ市壁の内側にあるっていう、リッチモンド市に足を運んだことくらい、あるってわけだ」
「私は対外的には、ソーニャ・ロンディウム、軍でもそう名乗っています。姓を持てるような家柄どころか、貧乏のどん底にいましたからね。ただのソーニャで、必要に応じた姓として、ロンディウムを名乗っている」
「まあ、庶民はみんな、出身地を仮の姓とするよな。おかしな話でもない」
「ロンディウムの中では、そう名乗りません。広いロンディウムの中では皆、職業か、生まれた市で姓を名乗ります」
「そいつも、わかる。何が言いたい? お前はロンディウムじゃ、何て名乗ってる?」
「ソーニャ・リッチモンド。百年前、”正義の人”リッチモンド卿について行けず、ロンディウムに残った民の、末裔です」
 自分が、どんな顔をしてそれを聞いたのかはわからない。ただ、ひどく間抜けな顔をしていたに違いない。
「へ、へええ。そうなんだ。今更、それが何?」
「アルベルティーヌ・リッシュモン卿。ロンディウムに残ったリッチモンドの民は今でも、あなたが帰って来ることを、待ち望んでいます」
 ソーニャの真剣な眼差しに射抜かれ、リッシュモンはしばし、言葉を失った。煙草の灰が膝の上に落ち、ようやく我に返る。
「ああ、あ、そうなんだ。待たせちまって、悪いな。百年もだけど」
「百年戦争、どちらかの勝利で決着したら、帰ってきて下さい。アングルランドがアッシェンを併呑しても、アッシェンが失地回復して終戦を宣言しても、あなたにはもう、流浪を続けて戦う理由はなくなる。その時はリッチモンドが、あなたたちの帰りを待っています」
 胸に込み上げるものがあり、またもリッシュモンは言葉を失う。万感の思いに押し潰されまいと、強く目を閉じた。
「ああ、そうか。あたしらにも、帰れる家があるんだな。すまん、ちょっとだけ、その、一人にしてくれないか」
 リッシュモンは立ち上がり、野営地を歩き回った。この軍の兵の内、今は千五百程がリッシュモン軍である。そろそろ寝る支度に入る者、一杯だけ支給されたワインをちびちびと啜りながら焚き火に当たっている者、離れた所で、無心に剣を振り続ける者。誰もが、リッシュモンが近づくと笑顔で手を振る。何人かと、他愛のない話をした。町に行ったら食いたいもの、具足のほつれが直せないだの、月が綺麗だの、どれも明日になったら忘れているような話ばかりだ。ただ誰もがリッシュモンを信頼し、主として愛してくれているのがわかる。痛い程、それが伝わってくる。
 自分は彼らに、何をしてこれただろうか。
 戦となれば、並の傭兵以上に金を配ってやれる。病に倒れた流浪の民がいれば、民の間の医者か、こちらが金を出して高名な医者に診せるようなこともする。ただでも過酷な旅暮らしに、できるだけ不自由がないように努めてきた。歴代のリッシュモンよりずっと上手く、それをこなしてきた。
 ただ、報いてやれてるかというと、そうでもない気がした。というよりこいつらは、もっと報われてもいいはずだ。
 幕舎の方へ戻ると、ソーニャはもう寝ているとのことだった。一人用の幕舎に一人、見張りがついている。
「昨日の話だけどさ・・・」
 翌朝、小川で顔を洗っているソーニャに、リッシュモンは話し掛けた。
「リッチモンドの人間のどれ程が、その、あたしらをそこの人間と捉えてるんだ」
「全員ではないでしょうね。というより、アッシェンの常勝将軍リッシュモン卿が、”正義の人”の子孫だと知らない人もいます。ただ知っている者は私も含めて、あなたを真の主と思っていますし、流浪の民を同胞の片割れと思っています」
 赤くなった手を焚き火にかざしながら、ソーニャは悲しげな微笑で言った。
「昨晩のお誘い、ちゃんと答えておきますね。私は、クリスティーナ様を裏切るつもりはない。あなたは、騎士団領との契約を打ち切ってまでアッシェンを救いにくる程、この国を愛してる。この二つが喧嘩しないという状況がもし生まれたら、その時にまだあなたが私を必要としてくれるのなら、ええ、私はあなたに剣を捧げてもかまいませんよ。ソーニャ・リッチモンドの主は、あなただ」
 ずっと、主の帰還を待ち続けるリッシュモンの民。欲しいと思った女は、実はずっと以前から、リッシュモンの帰りを待っていた。
「そうか・・・そうかい。ありがたいな。お前も、リッチモンドの人間も」
「・・・まあ、現状はどうにもなりませんけどね。アングルランド、アッシェンどちらかが勝ち切った後の話というのが、一番現実的な話ですし。その頃までに二人とも、剣を振り回せればいいのですが」
「二人とも、婆さんになってるかもな。リッシュモン軍にしたって、代替わりしているだろうさ。あたしは老いを感じるか、戦えなくなったら、家督は別のモンに譲るつもりでいるしよ。親父がそうだったように」
「未婚ですよね。跡継ぎは」
「同年代の従姉妹が何人かいて、新兵を戦場に出せるまでに鍛える任を負ってる。あいつらの誰かになるな」
「ああ、先に兵として仕上げてるんですね。リッシュモン軍は全て強兵、補充される新兵も水準がまるで落ちないのも、納得がいきました」
「これ、という人間がまだ若過ぎたら、かえってダミアンみたいな歳食った奴に、短期間の中継ぎを任せてもいいな。まあ一応、”正義の人”リッチモンドの血は絶やさないでやってるよ。ダミアンも、血族だしな」
「なるほど。あなたの要望、私なりの返答をしました。私の方からも、一つ言わせて下さい。一市民の、しがない要望となりますが」
「聞こうか。リッシュモンはその民の、どんな陳情も聞き入れるぜ」
「重ねて、可能な状況ができましたら、リッチモンドの主となって下さい」
「・・・そうだな。先程の話を前提に、具体的にはどうすればそれが可能になると思う?」
「アッシェン併呑後、ライナス宰相は、ゲクラン伯をアッシェンの残党を率いさせる、第三の元帥になさるおつもりです。アッシェンが属国になった際、あなたはリッチモンドの返還を要求して下さい。その時の私に発言力があれば、私からも民を代表して宮廷に進言させて頂きます」
「逆にアッシェンが失地回復を成し得、終戦を宣言したら、同じようにリッチモンドの返還を要求しろってか。悪くないな。どう転んでも、動く手はあるわけだ・・・にしても正直、あたしはリッチモンドの人間があたしらのことを待ってるなんて、思いも寄らなかった。今あたしについてきてる連中だって、この戦が終わったらアッシェン王に土地を与えられて、どっかしらの田舎で、のんびり暮らせればいいと思ってるくらいなんだぜ」
「あなたが仰った通り、”正義の人”リッシュモン伯も、まさかここまで戦が長引くとは思っていなかった」
「だな。ただ、受け入れられるのかな。”リッシュモンの民”、あたしが管轄してる数では二万とちょっとだが、連中が方々でこさえた家族なんかを含めると、五、六万でもきかないかもしれないんだ。一応繋がりさえあれば面倒を見てるが、あたしの民に含めていいのか、微妙な人間も多い」
「その方たちも、生粋の民と同じように面倒を見てるんですよね。その意味で、あなたは優れた為政者です。血筋も、民の家族も大切にしていらっしゃる。ああ、受け入れ人数ですね。リッチモンド伯領そのものは、今のロンディウムの一部となっている場所よりも、もっと広い。今はリチャード王の直轄地になっていますが、郊外に手つかずの土地も多いのですよ。そこを、拓いていけばいい。あなたなら、容易いことかと」
「わかった。アッシェンの勝ちは譲れねえが、どういう流れになるにせよ、リッチモンド伯領の返還要求は、頭に入れておく。こんな話して、お前をますます好きになった。あの時お前が言った、戦、早く終わってほしいってのは、このことだったんだな。戦場で、お前に変な情がわかなけりゃいいんだが」
「戦場での私は、隙あらば容赦なく斬って下さい。リッチモンドの人間として、私は役目の一つを終えたと思っています。私は逆に、あなたを斬れますよ。後継者が別にいると聞いて、安心しました。あなたこそ相応しいと思いつつも、あなた程に扱いにくい人間じゃなければ、この話も、もっと楽に進められるかもしれません」
「言うねえ。ま、互いに戦場じゃ、存分にやり合えるわけだ。お前も所詮リッチモンドの人間の一人、あたしも血筋の一人に過ぎない。どちらが倒れても、後のことは、後を任された人間が上手くやるだろ」
「ですね。そして今の私たちには、互いに譲れないものがある」
「あ、そういやお前、あたしのこと漫画の悪役にしてるって言ってなかったか? そりゃお前、あたしがリッチモンドに帰るのに、えらい悪影響じゃない?」
「ははーん、まだ私の漫画読んでないんですね。まあ、ベラック城を出た後はずっと行軍中だったら、それも当然か。悪役は悪役ですけど、美人で格好よく描いてるんですよ。そして意外と、主人公のライバルには人気が出るんです。”鋸歯の”リッシュモン、作中でもかなりの人気です」
「へえ、そんなもんなのかね」
「あなたがいつか帰ってくるかもしれない、そこまで計算してやってますから。まあさすがに、あなたとこんな話をすることになるとは、まったくの想定外ですけど」
「なあ、この話も漫画にするの?」
「それとなく、ほのめかす程度ですかね。どういう形にするかは、これから考えます」
 ソーニャの笑顔に、リッシュモンもつられた。これまで以上に、この女をまぶしく感じる。
 ゆっくりと進発し、日の落ちる前にポワティエに着いた。
 ポワティエの南門は開かれており、その前にキザイアと供回りの十人が立っていた。少し離れた所に馬車の一群があり、返還された捕虜を運べるよう、待機していた。
 リッシュモンはソーニャを連れて下馬し、黒い具足姿のキザイアと対峙する。地に、鞘に入った剣を突き立てたまま、老将は微動だにせずこちらを見つめていた。
「落城交渉だ。もう細かい話は必要ないよな。残った捕虜全てと、この城。異存はあるか」
「受け入れましょう。兵は既に北門へ集結し、いつでもここを出られる準備を済ませています」
「倉の中身は空っぽなんだろうけどよ」
 キザイアと戦場以外で向かい合うのは、いつ以来だったか。まだリッシュモンが南部軍の総大将だった時に何度か交渉の場を持ったが、あの時程の威圧感を、今のキザイアに感じなかった。身長は同じくらいだが、堅太りの、大きさを感じさせる女である。がまがえるなどと陰口を叩く者もいる老け顔で、あの婆などとリッシュモンも言っていたが、六十を超えた今の彼女を見て、本当に老境に達しつつあることを実感する。
「この土地にまつわる、そして家に関わる財には手を着けていません。この地の真の主の血筋が絶えていない以上、侵略者がそれに手を着けられるわけもなく」
「ザザが、まだ生きているもんな」
「ラステレーヌの一戦で、ここ南部を完全に制圧できた暁には、ザザをここに据えるつもりでしたよ。アングルランドの人間としてですが」
「ああ、ソーニャのどこか律儀なとこ、お前に似たのかもな」
 今はクリスティーナ直属だが、ソーニャはこのキザイアに見出され、鍛えられた。
「ソーニャを無事に返してくれたこと、感謝しますよ。軍人としてだけではなく、個人的にも」
「礼はいい。けどお前とこうして話せる機会は、そうそうないよな。ちょっと、付き合ってくれるか」
「構いませんが、一刻も早く、この城を奪い返したいのではないですか」
 リッシュモンは兵に合図し、捕虜を牢馬車から出した。兵に先導され、あちらが用意した馬車へと誘われていく。
「ザザを、待ってる。暇つぶしに、付き合ってくれ」
 重々しく、キザイアは頷いた。こいつも中々、人が悪くない。
「決着が着く前に聞くのもアレなんだが、あんたこの南部の戦が終わったら、どうするつもりなんだ。勝ち切ってたら、軍を引退するって噂を聞いたぜ」
 キザイアの老いよりも、むしろその佇まいを見て、リッシュモンは彼女がそう長く戦い続けるわけではないと、確信していた。目の光が、澄み切っている。
「軍人は引退して、領地の経営に専念しますよ。本来はずっと早く、そうするつもりだった」
「指揮自体はできるし、武人としてお前に勝てる奴も、まだ多くはないだろうがな」
「領地の経営も、戦と変わらない大仕事です。特にギルフォード領は本拠の公領のみならず、伯領、子爵領、無数の男爵領を抱えています。今後のクリスティーナを支える体制は、まだ充分ではありません。あの子が戦場で倒れた時に、どの親類に領地を継がせるのかも」
 愛娘を戦場に出している時点で、そこの覚悟はできていたということだろう。
「そうかい。お前を殺し損ねたとしても、次があんたとあたしの、最後の戦なんだな」
 頷き、キザイアは少しだけ目を細めた。この女の長過ぎる戦歴からすれば、リッシュモンなどその最終期に少しだけ関わった、小娘に過ぎないのだろう。
「あんたが戦ってきた中で、一番の戦上手は、誰だった?」
「本当に、そんな話がしたいのですね。これも何かの、肚の探り合いではなく。いいでしょう・・・ベルトラン・デュ・ゲクランが、それに当たります。今のゲクランの、父君ですね。その全盛期に、武人として並んだ自負はありましたが、軍人としては今になっても、彼が一枚上手だったと認めざるを得ません。娘のジャンヌは、彼の戦い方をよく踏襲していますね。彼女が幼い時にベルトランは倒れ、轡を並べる機会すらなかったのに、不思議なものです。彼の幕僚たちが、その伝統を上手く伝えていったのでしょう」
「じゃあ、味方で頼もしかったのは?」
「ウォーレス殿でしょう。戦略家ではありませんが、軍略に限れば、今後も彼に勝る存在が現れるとは、到底思えません」
「それは、あたしも痛感してる。奴相手でもあたしは負けなかったが、犠牲はこちらの方が大きかった。振り返って、負けていたんだと思うよ。それが、今になって受け入れられる。表向きは勝ったが、振り返ってどちらの戦略が勝っていたかと問われれば、奴に軍配が上がって当然だ」
「大きくなりましたね、アルベルティーヌ」
「その名であたしを呼ぶくらい、お前は歴代のリッシュモンと戦ってきたんだよなあ。ウォーレスは、あたしとどう対峙してた?」
「無理が出るところは、勝たせておこうと」
「だよなあ。あいつを相手にする時は、いつも勝った気がしなかった。勝たされている、とはどこかで感じてた」
「アルベルティーヌ、私にこういったことを訊いてくるとは、ソーニャに何か言われましたか」
 まだこちらにいるソーニャに一瞥をくれたキザイアは、しかし表情は変えずに言った。
「そういうのも、お見通しかい」
「ソーニャは、リッチモンドの出身ですからね」
「ああ、ああ、こいつに言われたよ。どんな形にせよ、帰ってこいとな」
「私の祖父は、当時のリッチモンド伯と懇意だったと聞きます。ギルフォード家が彼についていたら、この戦自体なかったかもしれませんね」
 言って、キザイアは少しだけ笑った。
「ただの出自と、歴史の話みたいなもんだと思っていたが、あたしとアングルランドの繋がりは、今もあるんだな。ソーニャと話していて、それを思い知った」
「ソーニャは私の部下に成り立ての頃、いつかリッシュモンを父祖の地に帰したいと、よく語ってくれましたからね」
「リッシュモン卿、あれを」
 そのソーニャに肩を叩かれ、リッシュモンは街道の南に目をやる。土煙。ザザに預けた軍が、合流しようとしているのだろう。
「話に付き合ってもらって、礼を言う、キザイア。トゥールへの総攻撃は、年明けかな。遅くとも、春までに。今年の冬は、若いあたしにも堪える。それまでにつまんねえ病で死ぬなよ。トゥールで、散らせてやる。隠居暮らしより、あんたもその方が本望だろ」
 キザイアは何も言わず、先程とは微妙に色合いの違う微笑を返してきた。どこか、達観した笑みである。
「ソーニャ、その馬はお前にやるよ。他の連中も、さっさと行っちまえ。次に会う時は、戦場だ」
 キザイア一行が立ち去るのと入れ替わりに、ザザの軍が合流した。相当飛ばして来たのか、額に汗を浮かべている。
「馬に乗れない者は、守兵として残してきました。交渉は、つい先頃まで?」
 紅潮しているせいか、顔を横一文字に駆ける傷痕が、いつもより目立って見えた。
「いや、それはとっくに。お前が来るまで、立ち話をしてた」
「そうでしたか。お心遣い、重ねて感謝致します。あるいは、キザイア殿にも」
 開け放たれた南門の向こう、大通りでは気の早い民衆が、通りに花びらを撒いていた。雪のような、それでいて暖かい光が舞う。
「麾下と共に、最前列に立ちな。あたしは少し、後ろに控える」
「この軍の総大将は、リッシュモン殿ですが」
「こんな時くらい、硬えこと言うなって。ほら、誰もがお前の帰還を喜んでいる。応えてやるのが、領主ってもんだろ」
「そうですね。本当に、そうだ」
 僅か数十騎の麾下を集結させたザザが、一万の軍の先頭に立つ。
 ゆっくりと、まるで馬に行き先を任せるかのように、ザザたちが城の門を潜る。通りの両脇に、そして家々から身を乗り出していた領民が、歓呼の声と空一面の紙吹雪で真の主の帰還を祝福する。
 ザザは手を振って、それらに応えている。その横顔が笑顔であることも貴重だが、頬を流れる涙は、初めて見た。人々の熱気はすさまじく、舞い散る花びらと色とりどりの紙吹雪と相まって、一足早い春の訪れを錯覚した。
「あたしがリッチモンドに帰ったら、これの半分くらいは喜んでもらえるのかな」
 誰に聞かせるでもなく言ったが、この大歓声の中、それでも隣のダミアンが耳聡くそれを聞きつけた。
「これに、負けぬ程。姫は、人気者ですからな」
「そうかい? そうだといいけどな」
 花道を進むザザの後ろ姿を見て、感極まる。目頭を押さえて下を向くと、駆けてきた幼い少女が、リッシュモンに花輪を渡そうとしていた。
「あたしにもくれるのかい? ありがとよ」
 鞍から身を乗り出してそれを受け取り、少女の頭を撫でる。
 花輪を胸に当てながら、リッシュモンはザザの背中を見つめ続けた。その遥か前方には、立派な白亜の城が見えた。
 振り返ると、長い行進の列の最後尾が、門を潜るところだった。歩兵の一人が、民に手を握られて困っていた。彼の代わりに苦笑し、リッシュモンは再び前を見据えた。
 歓呼に応える領主、その先の白い城。
 あたしにはまぶしすぎるなと、リッシュモンは思った。

 

 

 

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