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4,「もしそれが本当にできるのなら、この目に見せてやってくれ」


 山の上の教会から、六時課(正午)の鐘の音が聞こえてきた。
 雨の靄の向こう、既に、ブリーザ村の入り口は見えている。
「シャルル様、雨中、大変ご苦労様です。材木は、あちらの倉庫の方へ」
 雨用の外套を被った村の青年が、シャルルと、連れてきた荷車の列を先導する。
「昼までに着く予定だったんだがな、すまん」
「いえ、道中相当ぬかるんでいたことでしょう。重ねて、我々の村の為に、ありがとうございます」
 叔父の村の者は口調こそ人それぞれではあるものの、この若者のように相手を思いやる部分が、少なからずあった。叔父の人格が、影響しているのだろう。同じく民を治める者の端くれとして、シャルル自身は村にどんな影響を与えているのかと、つい考えてしまう。
 森の入り口に、以前からあるものと並んで、新しい材木倉庫ができていた。荷車が出入りできるよう、入り口側の壁がない型のものだ。下馬したシャルルは、後のことは連れてきた者たちに任せ、隣の倉庫へ向かった。そこでは見知らぬ職人らしき格好をした者たちと、ジャンヌが何かを話し合っていた。シャルルに気づき、少女だけがこちらにやってくる。
「遅刻遅刻遅刻ですようっ。もう、お昼過ぎじゃないですかぁっ」
「う、わあぁ・・・シャルルさん、今日の壊れ方はまた、半端じゃないですね・・・」
「いや、お前の真似だよ」
「そんな気持ち悪い口調じゃないですって! ともあれ、ご苦労様です。お金、今手元にないんで、後でいいですか」
「構わないよ。にしても、随分集まったなあ」
 こちらの倉庫には、数百本はあるであろう、丸太が積まれていた。
「中々、壮観でしょう。家具作りが本格的に始まったところで、レザーニュ伯直々の、攻城兵器の製作まで頼まれちゃいましたからねえ」
「何か、夫人のフローレンス様の方が、実権を握ってるとも聞いたがな。それはそうと、マントレを頼まれてるんだっけか」
「試しに一つ作ってみたら、予想外に材木使っちゃうことがわかって。無駄が出るんですよ。車輪とか車軸周りとか、すっごく。当初は南の方から五十本くらいしか切り出さない予定でしたが、それじゃ、とても追いつかなくて。余った部分は薪にするんで、完全に無駄にはならないんですけど、マントレ作るのに、とにかく必要数が」
「俺が持ってきたのは五十本だが、もうちょい切り出せないか、見直してみる」
「お願いします。森が傷まないか、心配です。今日の天気だとわかりづらいですけど、私たちの森、微妙にスカスカしてきましたよ。間引く段階は、とっくに過ぎてしまって。動物たちが逃げないか、不安になるくらいです」
 台帳を丸めながら、ジャンヌが大人びた眼差しで丸太の山を見つめる。いや、顔つきもそうだが、今日のジャンヌ自身が、ほんの二、三ヶ月前に比べても、やけに大人びて見える。毎週末、山の上の教会の礼拝で顔を合わせているが、こんな変化は感じなかった。なんだろう、シャルルはジャンヌの小柄な身体を、よく観察した。
「ジャンヌ、お前少し、背が伸びたか」
「あ、よくわかりましたねえ。でも、この村に来てから1cmだけですよ。鈍いシャルルさんが、そんな変化に気づくのは意外すぎるんですけど」
 雨の勢いが強い時に、外套だけでそれを防ぎきれなかったのだろう。服が濡れて、外套を脱ぐと秋口とほとんど変わらない格好をしているからこそ、シャルルはその変化に気づいてしまった。同時に、胸を刺す思いがある。
「いや、大人になり始めてるんだな。そろそろ、子供扱いはやめておくか」
「えっ、何です急に・・・あっ」
 ジャンヌは咄嗟に、胸と尻を隠しながら後ずさる。
「いやあ、さすがシャルルさん、エロ盛りのおっさんの観察眼は、侮れませんねえ」
「お前に欲情する俺じゃないよ。が、レディに対して失礼だったな。そんな目で見ているわけじゃないと言っても、不快なものは不快だろう。謝る」
「うっ、そんなに落ち着き払われると・・・って、娘さんのことですか」
「ああ。娘と同じ年頃の女の子を見ると、ついな。ウチのは、まだ本当に子供だから。初潮が来てないことも、最近の悩みの種らしい」
「私の方が一つ歳上ですし、ちょっと早いくらいでしたから。あ、一個下でも、私と誕生日、半年遅いくらいでしたっけ。まあ確かに、私はその時には月のものが来てましたけど」
「俺も十二、三歳くらいと思ってるから別にいいんだが、娘の方が気にしてるんだよな。何かとお前と自分を比較して、落ち込んだりしてる」
「うーん、私はそういうの、いつ来てほしいとかあんまり考えたことないですからねえ。早く、大人になりたいとは思ってましたけど」
「お前はその年頃の娘にしちゃあ自分を持ってるというか、他人と比較するような部分がないからな。ウチのはどこにでもいる田舎の娘なんだ。まあそういう悩みもあるんだろう」
 よく鍛えているからだろう、華奢な身体つきにも関わらずジャンヌの腰回りは元々太い方なので、シャルルが彼女に感じた一番の変化は、胸の膨らみである。白いブラウスが透けており、その違いが一層感じられるようになっているのだ。
「初潮が遅いと、その分背も伸びるんじゃないですか。初潮後は、あんまり伸びないって聞きますし。その点は少し、残念かも。もうちょっと背が高くなりたかったんですけど、あと2,3cmが限界ですかねえ」
「まあ、そうかもな。ウチのは今でもお前より背が高いし、そう言い含めておくか」
「ですね。あ、お昼は酒場でどうぞ。オッサ村の人たちの分も、ありますから。私も、すぐに行きます」
「ご馳走になる。気が利くな」
「この悪天候の中、大変でしたでしょうから。それくらいは」
 言うと、ジャンヌはまた職人たちの方へ戻っていった。
 オッサ村の者たちに声を掛けた後、酒場へ向かった。雨足は、さらに強くなっている。夕方まで降り続くようだったら、帰りは空荷でも、荷車が動ける天候ではない。今晩はここに泊まりとなるだろう。
 広場に出ると、雨避けの木箱に入れてパンを運ぶ、パン屋の女将と出会った。
「女将さん、一箱、いや二箱持つよ。焼きたてか。美味そうな匂いがする」
「シャルルさんかい。悪いねえ。酒場の裏口まででいいよ」
 昼飯用に卸されるパンだろう。箱を二つ抱え、裏口の棚の上に置いた。勝手口越しに、女将は誰かと話し始めた。
 あらためて表の扉を開け、衣装架けの釘の一つに、外套をかける。狭い店内を見渡すと、暖炉の傍の席に、ドナルドとアネットが既にいた。
「ご苦労だったな。雨とわかっていれば、二、三日ずらしても良かったのだが」
「いえ、ちょっと車輪を取られちまって、時間はくいましたがね。にしても、この時期の雨は古傷に堪えます。俺ももう、若くないってことですね」
 シャルルの分の注文を取ってくれていたアネットが、振り返って言った。
「私でも、この季節の急な冷え込みは、膝にくる。歳のせいでもないだろうさ」
 シャルル三十四歳に対して、アネットはまだ二十二歳である。この歳の離れた従姉妹がそう言うのなら、確かに歳のせいばかりでもないのだろう。
「アネットのは、激戦の証かもしれないな。砦の勤務時でも、よく他の兵と組み打ちをしているんだろう?」
「まあな。十代の時に、もっと身体を作っておくんだった。何度か膝を悪くしたのも、その時だったし」
「ジャンヌとも、稽古しているのか」
「ほぼ毎日。ただあの子といくら激しい組み打ちをしても、全く身体を痛めないんだ。上手いことやってくれてるんだろうな」
 さりげなく暖炉側の席を空けてくれていたので、シャルルはありがたくその恩恵に与った。腰と背中がシャルルの古傷で、主に落馬が原因である。調練で馬から落ちたことはほとんどないが、戦で何度か、ひどい落ち方をしたことがある。ただいずれも落馬しなければそこで死ぬか、不具になっていたかもしれないという一撃をもらってのものだったので、その分命拾いしてきたと思っていた。
 背中を温めながら二人の話を聞いていると、シャルルの昼食が運ばれてきた。
「ここでも、出すようになったんだなあ。俺は、嫌いじゃないな。シチューによく合う」
「何の話だ、シャルル」
「じゃがいもですよ。ウチの村じゃ、酒場の親父が出したがらなくてですね、こないだ行商から何袋か買ったんですが、ほとんど俺の家だけで消化してる感じで。蒸かして食べるばかりですが」
「開拓地からもたらされた、比較的新しい食材だからな。この村では、半分くらいの人間が美味いという。開拓地では主に高地に生えていたようだが、あまり暑い土地じゃなければ、一応育つらしい。まあこの土地でちゃんと育つかは、試してみなければわからないが。北の方に、まだ少し開墾できる余地があるので、試してみるつもりだ。畑一枚で味が変わる程、繊細な植物でもないと聞いた」
「珍しいですね、その、新しい作物を植えるってのは」
「この村を、豊かにしたい。アネットやジャンヌに、報いたいのだ。上手く行ったら、お前の村でも試してみたらいい。村人に受け入れられなくとも、町では買ってくれる商人がいるらしいぞ」
 ジャンヌの変化もそうだが、叔父にもまた、いくらかの心境の変化があったのか。
「単価は安いんですけどね、耕地の広さ当たりで、他の植物よりたくさん採れるみたいなんですよ。なので、それなりの稼ぎになるかなって」
 こちらの話が聞こえていたのだろう。重たそうな外套を入り口の近くに架けながら、ジャンヌも酒場に入ってきた。後からぞろぞろと、オッサ村の人間たちも入ってくる。材木の搬入は、昼飯の後になるのだろう。
「アイデアは、おじさんのものですよ。私たちの為なんて、少なくとも私は、おじさんの傍にいられるだけで満足なんですけどね。けど村の人の為になるんだったら、私たちも大賛成です」
 ドナルドの隣に腰掛けながら、ジャンヌは悪戯っぽい目で、こちらを指差した。
「すぐに、シャルルさんの村より豊かになってみせますよ」
「おお、楽しみだな。とか言ってないで、俺のとこも何か考えてみるか」
 シャルルの治めるオッサ村とその周辺の土地には、それなりの規模の果樹園がある。これが付近の村よりも豊かな要因なのだが、その豊かさがかえって、村に新しいことへの挑戦を躊躇わせていた。
「食うに困ることはないが、身に余る程の糧を得られるわけじゃない。良くも悪くも、オッサの人間には欲がないんだよな。それがいいとも思って来たが、いかにも中途半端に見えてくるよな、ジャンヌなんかの姿勢を見ていると」
「上手く行っているのなら、無理に何かを変えようとすることもないのかもしれない。ただ、支給品以上の装備が自前で揃えられれば、戦で死ぬ人間を減らすことはできるかもしれないな」
 林檎酒のお代わりを頼んだ後、ドナルドが言った。
「なるほど、そういう考えもありますね。おう、親父、俺にももう一杯」
 向かいのジャンヌは淹れ立ての紅茶に、何かのジャムを入れていた。
「紅茶と合うんだな、それは。何だ。やたらといい香りがする」
「桃のジャムですよ。シャルルさんとこの、桃のジャムです。さすがオッサの桃、おいしいですよ」
「へえ、それは美味そうだ。女将さん、食後にジャンヌが飲んでる奴を、俺にも」
 市に出る時以外は、シャルルは村の商売に関して何か口を挟むわけではない。その市にしても村の者たちが率先して何を作り、売るかを決めているし、シャルルはその護衛という以上の立ち位置ではない。
「以前から、その桃のジャムはここに卸してるんですかね、叔父上」
「いや、先月からだよ。ジャンヌとアネットで、よくそういう話をしているな」
「シャルルさんのところは、いくらでも商売のやり方がありますよ。もったいない」
「そうか。ちょっと俺も本当に、そういうことについて考えてみるわ」
 この華奢な少女にはその突き抜け過ぎた武の才能だけでなく、商才もあった。端的に言って、頭が良すぎる。それらのことに今更驚くシャルルではないが、叔父がこの娘を持て余していないかはだけは、心配だった。ただドナルドもこの才能を少しでも高いところへやってやろうと、ジャンヌの話を後押ししたり、じゃがいものような、自分なりに何かを考えていたりするのだろう。
 ジャンヌがこの歳の離れすぎた叔父に惚れているという話は、先日聞いた。十五歳か、十八歳か、彼女自身が大人になったと実感できた時に、想いを告げるのだろう。そしてその想いは、遂げられるという気がする。ドナルドの性格から相当な気後れはあるだろうが、人の真剣さを体裁や世間体でごまかし、目を背ける男ではない。
 食事の間は暖炉の火に背中を温められながら、他愛無い話に終始した。食後、シャルルの元にも桃のジャムを添えた紅茶が運ばれてくる。スプーンでそれをかき混ぜている間に、何気なくその疑問が口をついて出た。
「そういやジャンヌ、なんで戦に出たいんだ」
 一瞬凍りつきかけた空気が張りつめ、シャルルはその言葉を後悔した。が、既に出たそれを取り消すことはできない。
「あ、いや、前にそんな話になった時、いずれはみたいになっただろ。叔父上たちは、もうご存知ですか」
「そうだな、あらためて考えると、私の従者になりたいという想いに応えた時点で、戦に対する覚悟もまたあるのだと、当然のこととして受け入れてしまっていたな。しかしながらジャンヌの御母堂は、この子がその力を持て余しているようなことも言っていた。ただ、私の元に残りたいという話がなかったら、戦そのものには出たいわけではなかったんだよな?」
 ドナルドがジャンヌの顔を覗き込むと、彼女はばつの悪そうな顔をした後、恨みがましい目つきでシャルルを睨んだ。
「ああ、その話ですね。おじさんたちにちゃんと話してませんでしたけど、いずれ、戦には出るつもりでした。青流団だったら、父さんと母さんがロサリオンさんと古い知り合いですし、団長代理のベルドロウさんも知らない仲じゃないです。なので十三、四歳になったら、口利きしてもらえるかなって」
「意外だな。詳しく聞かせてくれ」
 アネットの食いつきの良さに、ジャンヌはたじろいだ。
「ああでも、青流団って、アングルランドに行っちゃったじゃないですか。だから、今の話はなしです。アッシェンにアングルランドみたいな常備軍はないですし、なので今頃どうしようかって思ってたかもですねえ」
「それで、私の元に?」
 ドナルドが訊くと、ジャンヌは首を振った。
「それとこれとは、いずれ繋がるかもしれませんけど、今は別の話で。私がおじさんのことす・・・ああ、おじさんの人徳に惹かれていなければ、ここにはいなかっただろうって話で。でもそうですね、最初に出会った時に兵にしてくれと言ったのは、元々戦にでるつもりだったというのはありますね。おじさんが私に覚悟を問うまでもなく、私は私で戦に出るつもりだったんですよ」
 斜向いのアネットが、身を乗り出してジャンヌの手を取る。
「なるほど、この村に残った理由の他に、元々戦に出ようと思っていた動機を教えてくれ」
「あはぁ、その、何言ってんだって話になっちゃいますよ。青流団が駄目なら、一度冒険者になって名を上げて、いい領主さんに召し抱えられてもって思ってましたし・・・」
 もじもじと、さらに視線を泳がせていたジャンヌだが、三人が黙って次の言葉を待っていると、観念したように、ひとつ溜息をついた。
「あの・・・この百年戦争って、アングルランドがアッシェンに攻め込んで来て、まあ継承権を巡ってですけど、ともあれそんな、話し合いとかでどうにかならないからって、戦争を起こして、力ずくって、間違ってると思うんですよね。おまけにこんな、百年近くもこの地が戦乱に巻き込まれてしまって。それはともかく、奪われて、殺されて、これでいいはずがないんですよ。だからアッシェンは、この戦に勝たなくちゃいけないと思います」
 アッシェン、という言葉がジャンヌの口から出ることに、シャルルは少し驚いていた。
「少し、話が飛躍してないか。いや、俺も広い意味ではアッシェンの騎士である以上、その話に異を唱えるわけじゃないが」
「あ、もっと詳しくですね。強い者が奪っていい。それを大勢の人間を束ねる王が、やっちゃいけないと思うんですよ。それこそ力の強い者が正義ってことになっちゃいません? それを認めたら、強盗も殺人も全て正しいってことになっちゃいません?」
 こういうことはやはり、あまり人に語ってこなかったのだろう。必死に言葉を紡ぐジャンヌは、頬を紅潮させている。
「だからアッシェンは、負けちゃいけないと思うんですよね。戦を仕掛けられ、奪われ続けた側ですから。別に、アングルランド憎しとか、そんなこと思ってはませんよ。あちらにも私たちと同じような人たちがたくさんいて、必死に生きる糧を探していて、悪い人もたくさんいると思いますけど、良い人も同じくらいいると思うんです。それこそ、アッシェンの人たちみたいに」
 顔を何度か擦りながら、ジャンヌは続けた。
「私の出来る範囲で、アッシェンを勝たせたい。戦がどんなものか、経験できて良かったと思います。一人の力は、私、誰にも負けない自信ありますけど、それでも一人ができることってすごく小さいんだなって、よくわかりました。けれどそれがわかってなお、私はアッシェンを、私が生まれたこの国を助けたいんです。ひょっとしたら、このまま戦に負けてアングルランドに支配されちゃった方が、戦そのものがこの土地からなくなったり、あるいは経済力のあるアングルランドから何かしらの援助があったりして、豊かになれるかもしれないです。でも、力で屈服させてそれじゃ、おかしいじゃないですか。尊厳っていうと、大袈裟かな、とにかく大事なものを踏みにじられて、それでもへらへらと笑っているような国に、なってほしくないんですよ。あの、私、こんなこと言ってますけど、間違ってたりしますかね。子供のつまらない正義感って、そんな風に思われちゃってますかね。おじさん、どうですか」
「正しい。そして公正であると思った」
「正しいことばかりじゃ世の中回らないとか、そういうのないです?」
「いや、清濁併せ吞むことが必要な時もあるだろう。道徳的な正しさを押しつけて、相手を縛ろうとするのも間違えている。だが今のジャンヌの正しさは、そういった独りよがりな正しさではない。きっと、人が一番大切にしなくてはいけないものが、そこにはある。私は、そんなジャンヌの力になれればいいと思っているよ」
「おじさん・・・その、ありがとうございます。こういうこと話すのが、ちょっと怖くって」
 大きな青い瞳を微かにうるませながら、ジャンヌは言った。確かにシャルルも、彼女が訊いてもいないのにこんな話をしだしたら、いくらか鼻白んでいたかもしれない。愛の告白に近いくらい、この話をドナルドの前で話すのは、勇気のいることだったのかもしれない。
「戦をしたいんだ、人を殺したいんだって思われても、私は構わないって覚悟があったんですけどね。けどおじさんに、失望されるのが怖くって」
 らしくもなく怖い、と二度も言ったのは、その証左といったところか。
「こんな小さな少女が、世を憂いている。それはきっと、我々の責任なのだろうと思う。ジャンヌの生まれてきた世がこのような状況で、戦場に立ってきた者としては、痛恨の思いもある」
「いや、あの、悪いのはアングルランドですから。その人たちってよりもずっと昔の王様が悪くて、それがきっかけで、今では誰もこの戦を止められないでいる。止めたいです、私。おじさんたちと一緒に」
 田舎騎士二人と家士、子供の従者の四人では、さすがに手に余る話でもある。が、シャルルもまた、背筋が伸びる思いがした。
 確かに、ジャンヌは歳の割に考えが大人びている。が、市井で生き、兵に取られる者やその妻や恋人たちの中にも、こういう考えを、ジャンヌ程しっかりした視点ではないものの、持っている者はいたという気がする。いや今も、シャルルが訊けばこんな考えを持っている者たちの数はずっと幅広く、かつ多いのかもしれない。当たり前になってしまっているが、生まれた時から続く戦で、帰って来ない者、不具となってその後の生活に困る者は、親族に一人もいない者などありえない世の中になってしまっている。終わらせることができるのなら、それこそ自分たちの世代でこんなことは終わらせるべきだ。
「でも、ここの暮らしを経験できて、良かったと思ってます。私、アルク村に住んでいたとはいえ、父さんと母さんと山の奥に引っ込んで暮らしていたせいで、ちょっと浮世離れしちゃってるかなとも思ってたので。たまに外に出るといったら、パリシとかゴルゴナみたいな大都市への旅でしたし。麦一粒大切に育てる人たちの一員になれて、良かった。おじさんたちと出会えて、だから色んな人たちと出会えて、本当に良かったです」
 そこまで言って、ジャンヌは紅茶の残りを飲み干した。
「じゃ、こんな話はここまでにして、午後の仕事に取りかかりましょうか。この冬までにやらなくちゃいけないこと、山ほどありますしね」
 言って席を立ったジャンヌは、驚く程の速さで入り口の外套を掴むと、また外に出ていった。桃のジャムの紅茶に舌鼓を打った後、シャルルも席を立った。
「俺も、倉庫の方へ行ってきます。おいお前ら、食い終わった奴から倉庫の方へ来いよ。さっさと仕事終わらせて、またここでゆっくりすればいい。今晩はここに泊まりだろうから、日が落ちた後は暇を持て余すくらいだぞ。それじゃあ叔父上、また後ほど」
「お前の寝床はうちで用意しておく。頼むぞ」
 外套を羽織り、作業場へ向かう。一人まだ空の倉庫を見回していると、隣の倉庫からまたもジャンヌがやってきた。
「シャルルさん、ありがとうございます。あの、いつかおじさんたちに、話そうと思っていたことなので」
「ああ、俺も何気なしに訊いちまって、悪かったかなと。少し、林檎酒が回っていたのかもしれない」
「きっかけが、中々なくて。その、重たい話ですし、偉そうな話にもなっちゃいますし」
「お前の覚悟は、二人に伝わっただろう」
「ならいいんですけど。ちょっと今は、二人に会うのが怖いですね」
「怖い怖いって、今日のお前を、ちょっと意外にも感じるよ。ただ桁外れの強さがあるってだけで、お前はまだ子供だったな。まあ、また何かあったら俺たち大人に相談しろよ。お前より長く生きないと見えないものに関しては、それなりに見てきた」
「いやいや、シャルルさんたちってやっぱ立派だなあっていつも思うんですけど・・・でも本当、シャルルさんには助けられています」
 いつになく殊勝にぺこりと頭を下げ、ジャンヌはまた職人たちの方へ駆け戻っていく。
 真新しい材木倉庫。丸太を積んだ荷車は、既に中に運び込まれている。村の者たちの助けがなければ、これを運び込むのは無理だろう。
 その光景が今の自分を象徴しているようで、シャルルはしばし、それを一人で眺めていた。


 

 従者の時代も含めれば、十一歳から戦場に立ってきた。
 実際に剣を、そして銃を取って戦うことになったのは十五歳からだが、父ボードワンと共に戦塵に塗れてから、二十年が経つ。その長い経験をしても、今朝の伝令のその言葉は、聞き慣れない、間の抜けた報告だった。
「南方より敵軍来襲、のようなのですが・・・」
「はっきりしないのはそれが敵軍なのか、あるいは来襲なのか、どっちなんだ」
 まだ、日は昇っていない。自身もはっきりしない寝起きの頭を振りながら、イジドールは上着を羽織って窓の方へ向かった。暖炉に熾き火が残っていたが、小姓が新しい薪をくべ始めた。
 南の尾根。まだ暗いため狼煙の煙が上がっているのか見えはしないが、狼煙台がある場所には、この窓からでも微かな火の明滅が見えた。夜間に役に立たない狼煙ではなく、風が強い日やこうした日の落ちた時間でも敵襲を告げる機能は充分に有している。
 それにしても、おかしい。年に一度の試し以外に、あの狼煙台が使われることは、まずなかった。実戦で使われたのは遥か昔、それこそ百年戦争以前に南の領土、まだゲクラン家がそこを領有する以前だったはずだ。
 アヴァラン領の南の端、ここノーデキュリー城がアヴァランの首邑である。ここに敵軍が接近するなど、ゲクランが健在である限り、ありえない話だ。そのゲクランが変節して、ここを攻めなければの話だが。
 アヴァラン領とゲクラン領は、同盟といっていい信頼関係にある。先日のパリシ攻防戦でも、ゲクランの頼みを聞いてアヴァランは兵を二つに分けてまで、彼女の軍略に従った。王を除けば強い絆で結ばれた唯一の勢力が、ゲクランなのである。パリシ奪還の作戦についても、全体の軍議に先駆けて父とゲクラン、そしてイジドールで、この城で話し合って決めたものだ。
 つい一週間程前、西方の宿敵レヌブランが、なんと正式な王国として独立したという話を聞いた。アングルランドからの独立であり、対するはアングルランドとなるはずだった。初手は力を蓄えるとするなら、南の二剣の地を攻める手もある。
 が、レヌブランが真っ先に攻める構えを取ったのは、このアヴァランだった。言葉のままにまだ構えだけであるが、いくら仇敵と言えども、アッシェンすらも相手にしようというのなら、今は王となったバルタザールは余程の愚者か、あるいはどこか、底が抜けている。アングルランドに敗れた後は腑抜けた領主になったと聞いていたが、変節したか、あるいはかつての荒々しい男に戻ったのか。烈士であったあの男の記憶は、微かにイジドールの中にも残っている。
 レヌブラン東方、つまりこちらにとって西方の領境沿いに軍が集結しつつあると聞き、父ボードワンがすぐに麾下を引き連れ、西に向かった。今頃は南北に広がる山沿いに転々と構築している防御網の砦の一つに、到着している頃だろう。
 百年戦争開始時でも互いの領土を狙い合ってきた両勢力が、共に手を取り、アングルランドと対したのは、わずかな期間である。というのもレヌブランが、アングルランドに敗れ、その支配下となってしまったからである。
 念の為、軍服の方に着替えながら、イジドールは思案した。そのレヌブランが南から攻めて来るということが、果たしてありえるのだろうか。あらためて、南はゲクランの領土が広がっているのである。初めイジドールがもしやと思ったのも、ゲクランの居城からならこの城に向かって北進するだけで、防備の薄いこの首邑に達することができるからなのである。
 もうひとつ、レヌブランは独立した王国となっても、まだどこの国にも大使を送っていないのではないかと思われる。少なくともアッシェン側に大使が派遣されたという話は聞かない。これは、重要な点である。領地同士のいざこざならともかく、国同士の争いとなると、まずは相手国に宣戦布告を為す必要があるのだ。いかに教皇が認めた正式な王国とはいえ、これなしに戦を仕掛けるような野蛮な国は、諸国にまず”国”として認められない。
 ゆえにこそレヌブランも西の国境付近に兵を集めているという報告のみであり、それらの手続きを無視するなら、アングルランドの植民地であった時同様、こちらに届く第一報は西の砦群が攻撃を受けている、であったはずである。アングルランドとアッシェンという図式の中では宣戦布告は百年前に行われており、以後はいつ相手に奇襲を仕掛けようが、それは諸国に咎められるような行為ではない。
 小姓の出した水を口にし、イジドールは一息ついて、再び狼煙台の方を見つめた。
「賊、というのも考えられなくはないが、最近あの辺りに狼煙を上げるだけの大集団がいるなんて話も、聞いてないよな」
「狼煙台が火事、なんてことはないでしょうか」
「想像しづらいが、だとしたら報告があるはずだ。狼煙台の奴らも前の狼煙を見て火を焚いているに過ぎない。案外俺たちよりも、半信半疑で狼煙を上げているのかもしれないな。伝令より情報が速いからこその、狼煙であるわけだし」
 自分を落ち着かせるように、あえてのんびりとした口調で言ってみたが、嫌な予感は拭えない。鼓動は、高まり続けていた。
「何が起きたのかはわからないが、すぐに周辺の町と村に、徴募を掛けてくれ。今この城に残っている守兵は、どれくらいだっけか」
「警備兵を兼ねる者を合わせても、おそらく三百程度かと」
「敵の規模がどうあれ、少なすぎるな。徴募は、朝まで待たず、今すぐにだ。この城は、三千あれば充分、援軍が来るまで持ち堪えられる。敵が何万でも、親父が駆けつけて来るまで、耐えきれる。が、大半は親父が連れて行っちまったばかりなんだよな・・・」
 叩き起こされたのだろう、将校たちもぼさぼさの頭や赤い目を擦りながら、イジドールの居室の前に集い始めていた。
「往復一日以内の周囲の村から兵を集められるだけ集めて、どのくらいになる」
「ボードワン様が、徴募をかけたばかりですので。ごねずについて来てくれたとして、二百程度かと。そいつらにしたって、先の戦で駆り立てたばかりの連中になっちまいますが」
「金を出すことにして、何としても来てもらう。合わせて、せいぜい五百か。二、三日、城門を維持できればってとこだな。すぐに、親父に伝令を。騎馬隊だけでも戻してもらえりゃ、何とかなるかもしれない。敵の数によるが」
 このノーデキュリー城自体は、堅牢な城というわけではない。ここに至るまでの地形が、何重もの分厚い城壁と言っていい構造なのだ。敵は既に、その防衛線を、いくつか抜けているかもしれない。まだ麓にいるかもしれないし、あの尾根のすぐ下まで来ているかもしれない。前者の可能性が高いはずだが、そもそもあの南の狼煙台が使われているということ事態が、百年振りという珍事でもあるのだ。何が起きていても不思議ではないと、最大限の警戒をすべきだ。
「すぐに、斥候隊を編成してくれ。とにかくそれが敵として、正体と数が知りたい。それと可能なら、輜重をどれだけ連れているかも。ここまでの地形だ、敵がばらけていると総数は掴みづらいが、まとまっているはずの輜重が見つけられれば、規模はわかるはずだ。進軍速度も、割り出せるかもしれない」
 麓のゲクラン領からここまでの峠道を大量の輜重が通るなら、きつい上り坂を考慮しても、三日程度か。騎馬だけなら半日程度。敵の斥候は、既に近くまで来ているかもしれない。
「三日以上かけてもいい、一人でも多くの兵を集めてくれ。出稼ぎで、この街に来ている周辺の者もいることだろう。加えて、傭兵がいたら即契約でいい。質は問わない。千いればとりあえず形は作れるし、後は俺の方で上手く立ち回ってみせる」
 自身が戦上手であることは、自他ともに認めるところだ。ただ、野戦で駆け回るわけではない。防衛戦でできることは限られているし、最低限の兵も必要だ。
 愛用の銃を三丁抱え、イジドールは部屋を出た。超射程の狙撃銃だが、毎日訓練しているので、後は弾と火薬を込めるだけ、すぐに撃てるようにはしてある。城の中庭には既に、篝火に照らされた五十騎が待機していた。
「出るぞ。何が起きているのかわからない。油断はするな。とりあえず一番近くの狼煙台まで、様子を見に行く」
「本当に、敵なのですか。賊徒同士がたまたま遭遇して、やり合ってるだけだとか」
 麾下の一人が、欠伸を噛み殺しながら言う。
「そういうことを含めて、確かめに行くんだ。あの高台なら、遠眼鏡である程度の距離まで見渡せる。敵の斥候がうろついてたら、こいつで仕留めてやるつもりさ」
 戦上手という評価以上に、イジドールは長銃の名手である。そしてこの改良を加えた銃なら500m先の目標をも外さない。無論、動き回る標的に対してである。
 最悪なのは、ゲクランの裏切りである。もっともそれだったら血を見ずに、先方の降伏勧告に応じるだけだ。不愉快極まりないが、彼女が軍を動かすとすれば、数万単位だろう。仮に充分な守兵が揃ったとしても、守りきれる算段がない。そもそもここを包囲された場合、ゲクランへの救援要請も計算に入っているのだ。
 だがやはり、ゲクランが裏切る理由が見当たらない。この機であることも、おかしな話だ。彼女がその気なら、もう何年も前にこの地は併呑されている。逆に言えば防備が手薄な南の峠を、ずっと守ってくれているとも言えるのだ。
 西の動きから、やはりレヌブランと繋がった何かであることは間違いない。が、二つの疑問は残る。
 ひとつ、万単位の軍が、ゲクラン領をたやすく突破できるのか。アッシェンの常勝将軍ゲクランが、こちらに知らせも寄越せないほど早く撃ち破られる等、それこそ考えられない。
 もうひとつ、敵がレヌブランだとして、アッシェンに対する宣戦布告はまだなのではないか。その知らせが届いていないと考えて、イジドールはここに一つの見落としがあることに気がついた。
 昨日、それこそ昨晩でもいい。その時点でレヌブランの大使がパリシに到着し、宣戦布告を出していたら。そうだ。この形なら国の戦という体裁を保ちつつ、それこそ同時刻に戦を始めることもできる。極端に言えば、それが為されるのは、たった今でもいい。今、パリシの宮殿にレヌブランの大使がいるならだ。事前にそれを為さねばならないという絶対の法則があるとはいえ、宣戦布告は、一方的な通告でもある。
「賊徒だったら、のんびり狩り出してやりましょう。しかし東から来たとすると、随分道に迷ったみたいですねえ」
 轡を並べる一人が言うのを聞いて、イジドールは南の敵が賊徒ではないことを確信した。その通りで、東の森から現れるであろう賊徒が、周辺の村や町を襲わず、直接ここを、それも南から窺う道理がない。そもそも東の森に賊徒が集まれば、その時点で報告があったはずだ。
「レヌブランだ。確信した。問題は、規模だ」
「じゃ、あの話は本当なんですね。レヌブランが独立したっていう。にしても、どうやって南から。まさか、ゲクラン伯と手を組んで」
「彼女も、意外と信用がないんだな。いや、それがわからないから、俺も混乱している。何か大きな見落としがあるな」
 城門を出て、原野を進む。狼煙台の火は、今も赤々と燃え続けている。近づくにつれ、事故や火事でないこともわかってきた。
 敵の正体が何であれ、大軍ならここに辿り着くまでにそれなりの時間がかかるはずだ。大した数じゃないなら、たとえこちらが寡兵でも、持ち堪えられる。
 その確信があるはずなのに、何故だろう。何かまずいことになっていると、戦の勘が告げていた。どういうわけか近づく狼煙台が、不吉なものに見えてくるのだ。いや、そもそも事前に出した斥候が、まだ戻って来ていない。まずは近場に異常がないなら一騎、それを伝えにくる者がいるはずだ。
 空が、急速に白み始めている。その姿が完全に見える前に、イジドールは素早く三丁の愛銃に装填を開始していた。あえぐような、麾下たちのどよめき。
 目線を上げる。まず、一騎。そう思った時には既に、丘の稜線に騎馬の列が並んでいた。敵影は次々と、不気味な影絵のように立ち上がってくる。
 その、中央。一人だけ背が低い、指揮官らしき者が、剣を振り上げた。上り始めた微かな朝の光が、束の間、その刀身を照らし出した。
 騎馬が、波のように、一斉に駆け下りてくる。その後ろからも次々と兵が姿を現すが、全て騎馬だ。どうやってこの峠を、どのくらいの規模でなどという話は、すぐにイジドールの頭から消し飛んだ。
 イジドールの視力ならこの薄明かりでも、そして照準器を覗き込まなくとも、先頭の指揮官の正体がはっきりとわかった。先日の戦でも対峙したので、よくわかる。西の峠の麓でレヌブラン軍を率いていた、あのアングルランド側の総大将。あの日唯一、弾丸避けの大盾すら使わず、イジドールの狙撃から逃れた指揮官。何故必殺の狙撃を躱されたのか、ずっと疑問だった。戦場でイジドールが外した一発は、今をおいてもあれが最初なのである。
 白い外套を翻しながら、それはまっすぐにイジドールの方へ向かってくる。
「”弾丸斬り”のジル。あの時の答えを、ここで見せてもらおうか」
 銃を構える。照準器が示す十字の上に、ジルの癖の強い金髪。
 撃った。しかしジルは、何もなかったようにこちらに駆け続けている。まさか、外したのか? 500mは切っている。弾丸がわずかに落ちる角度も、計算に入っている。原野に僅かに残る草の動きを見ても、風を読み違えたとは思えない。
 外す要素が、見当たらない。
「お前らは、城に戻れ! 俺は、奴を仕留めてから追いつく」
 何か声を掛けられたが、それは頭の中で意味を成さなかった。後方、麾下の遠ざかる音。前方、それをかき消すような馬蹄の響き。
 幼い頃は麒麟児とよばれ、周囲の期待は高く、自身もそれに応えてきた。だが軍人としても武人としても、上には上がいた。ある程度の評価を得ても、常にどの分野にも天才がいた。血の滲む努力を繰り返してたったひとつ、イジドールがこのパンゲアで一番と誇れるものがある。狙撃だ。弾丸が届く範囲で、外す標的はなくなった。これだけが、自身が唯一、大陸五強と呼ばれる達人たちを凌駕する、必殺の技だ。
 だから、あの時の疑問の氷解は、命懸けでなさねばならない。これだけが、イジドールが自らを誇れるものなのだ。
 残りの二丁を抱えて、イジドールは下馬した。片膝をつき、万全の態勢で構えを取る。意外なくらいにあっさりと、覚悟はある一線を超えた。奴を仕留める為なら、ここで、死んでも構わない。
 300m。イジドールの照準機は、ただまっすぐに向かってくる、ジルの面貌を捉えていた。引き金を、ゆっくりと引いていく。
 先の戦、まさかとは思うがあの娘は、銃弾を首を傾げて躱したようにも見えた。ただの偶然と割り切ろうとしたが、あるいは武を極めた者特有の、何か気のようなものを察知して咄嗟に取った態勢が、偶々そうだったということか。しかし、銃の、弾丸である。音速を超えるそれが人の目で視認できるとは思えないし、できたところで、それに反応できるはずがない。人の目は、それを視認してから反応するまで、十分の二秒程かかると聞いたことがある。大陸五強と言われる化け物がその半分、十分の一秒程で反応できたとしても、見えた時には当たっているのが銃弾だ。飛んでくる弾丸を見て避けることなど、できるはずがない。万が一、それが見えたとしてもだ。
 銃口が、火を吹いた。一瞬、ジルの頭上に白い光を見た。それが何だったのかはわからないが、ジルの脚が止まることはない。
「まさか、だろ」
 ひとつ大きく息をつき、イジドールは最後の一丁に手を伸ばした。今ならまだ、追いつかれる前に、城に戻る麾下に合流できる。一瞬、膝を伸ばしかけた。敵騎馬の中に一つ、異質な影がある。ケンタウロス。乗っているのはあの老騎士か。レーモン、そしてヴィクトールの顔も視認できた。レーモンは兜の面貌を下ろしているが、具足の特徴から、見間違えようもない。長く戦ってきた相手だ。一人だけ影武者である意味は、この場においてないだろう。レヌブランの誇る名将たちが今、ノーデキュリー城に迫っている。敵の規模はともかく、これは敵の主力だ。城は既に落ちたと、イジドールはすぐに諦念をもって受け入れた。
 軍人として、既に負けた。どうやってこの規模の軍を、という疑問は、今はわかりようがない。
 武人としての矜持が、イジドールに再び片膝を着かせた。構える。いや、すでに矜持すら遠く、子供の頃には確実にあった、奇妙な好奇心だけがイジドールをその場に留まらせていた。
 見てみたい。本当にそんなことができるのなら、見てみたい。
 彼岸の距離が100mを切り、イジドールは照準器を外した。普段の自分なら、目をつぶっても当てられる標的。ジルの乗馬は巧みで、疾駆する馬上でもほとんど身体が、今から狙う的が、上下していない。
 地に根を張り、銃身の一部と化したこの身に、ほんのわずかな照準の狂いもない。先端、銃口の上の照星が、ジルの胸を指す。馬蹄の響きを、大地から感じた。
 イジドールだな。ここで斬らせてもらう。
 ジルの唇が、そう動くのがわかった。怒りの面を顔に張り付かせた、生意気そうな娘。十代の半ばにして単身竜を斬り伏せた、大陸五強の一角。言うなれば、生ける伝説。お前が誰でも、何でもいい。もしそれが本当にできるのなら、この目に見せてやってくれ。
 三度、必中の銃口が火を吹いた。
 ジルは既に、刀を一閃させている。微かに散った二つの小さな煌めきは、あるいは断ち割られた弾丸か。
「おいおい、あんた。あだ名通りの化け物なんだなあ」
 ジル。もう目の前にいる。刀が、振り上げられた。
 背中に、衝撃を感じた。仰向けに倒れたのだろう。斬られたようだが、まだ痛みはない。顔を上げようとすると、自分の胸から血が噴き出しているのが見える。引き金に指をかけたままの腕も、頭の脇に落ちていた。
 白い、光。
 それを見たと感じたのは、イジドールの目の前が暗くなった後だった。

 

 

 

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