前のページへ  もどる  次のページへ

 

3,「私は新たな、それでいて古くからいる怪物に負けたな」

 ここに至るまで、敵軍からの妨害は、何一つなかった。
 敵は、明らかな寡兵である。これまでのノースランドのやり方からいっても、頻繁な遊撃戦による行軍の妨害は、充分予期されることだった。軍としての姿を現し、城と砦に立て篭るノースランド軍のやり方は、これまでと明らかに異なる。やはり、ウォーレスが指揮を執るだけで、これだけ戦の有り様は変化する。
 籠城ということはつまり、援軍の当てはあるということである。これから訪れる冬の間にノースランド本島、およびアングルランド北部で援軍を募り、春先には攻囲軍を攻めたてる算段だろう。それが数万の規模となれば、一冬を攻城に費やし、疲弊したアングルランド軍は、一度兵を引くしかないという格好か。
 もっともこの辺りは北に位置するにも関わらず積雪はあまりなく、かつロンディウムからも近いので、戦が膠着した時に、兵の入れ替えはできる。疲弊はあっても、大抵の攻城戦とは違い、援軍を迎え撃つ準備は、充分に整えられると、エドナは考えていた。
 戦略に則って考えれば、まずはこんな展開が予想できた。ウォーレスは必要もないのに、奇を衒った戦をする男ではない。もっとも、その必要があれば、いくらでも変幻の戦はしてくるだろう。ある意味、ここまで遊撃部隊を用いた奇襲がないことからして、意外なのだ。
 あちらはあちらで、こちらには思いも寄らない戦略に沿って動いているのかもしれない。この沈黙は雄弁で、不気味さすら感じさせる。ノースランドの助力者、あるいは同盟者の存在は、早くから示唆されている。それがこの戦に絡むとすれば、敵の戦略が読めないのも当然だった。
 ただこちらはあくまでこちらの戦略に則り、起きたことには柔軟に対応していくつもりだった。下手に相手に付き合うこともない。こうしたことをエドナに実地で教えてくれたのはウォーレスだということが皮肉だが、逆に実際にぶつかり合った時に、ある程度互いの手の内は見えているということだった。籠城と見せかけての速戦も、それが意外であるがゆえにエドナの想定に入ってくるが、速戦を狙ってなお、膠着ということもありえた。多少の不意を衝かれたところで、こちらは相手の五倍近い兵力である。余程下手を打って緒戦に一万近くを削られたとて、なお四倍、かつロンディウムからの補充も可能な戦地なのだ。
 そこまでの考えをかいつまんで話し、エドナは轡を並べるラッセルに問う。
「姉上の見立て、もっともだと思います。ゆえにこそそこに、陥穽があるような気がしますが」
 ラッセルの巨体に、馬は息を荒くしていた。行軍中は通常の軍馬の、かつ体格の良いものに跨がっているが、戦場では父リチャードの乗るような巨馬に乗り換える。希少な馬で、替え馬はない。なので行軍時はこうして他の馬を使い、その巨馬の消耗を避けている。
 が、通常の軍馬に乗っていても、ラッセルの巨躯は、大抵の男と比べても背が高いエドナが、馬上で見上げる程であった。
「長期戦が大方の予想なら、その逆もまた然り。敵の狙いが速戦とわかったら、逆に長期戦に持ち込むべきかな。そこのところまで、読まれてる気もするのだが。まあ、戦は生き物だ。どうなるにせよ、楽な戦ではないという覚悟だけは決めておこう」
 ウォーレス相手に戦術で上回れるとは、エドナは考えていなかった。が、一手二手と失策したところで、こちらにはそれを補える兵力がある。将兵の質も、むしろノースランド軍を上回っていることだろう。
 ふと、南の戦線で新たに元帥となった、クリスティーナのことを思い出した。優勢だったはずの南で、既に大きな敗戦を二度もしており、戦線を大きく下げざるをえない程の、相当な苦戦を強いられていると聞く。
 あの歴戦のキザイアの娘なので、南の戦線のみならず、彼女らがアングルランドに帰ってくる平時には、交流があった。人形のような顔立ちの、生真面目な娘である。冷たい作り物を思わせる外見と裏腹に、胸の内に熱いものを持っているクリスティーナに、エドナは好感を持っていた。
 立て続けの完敗は相手が悪かったことに加え、勝とうとしすぎたからだと、エドナは分析していた。若さも、敗因の一つか。若い時は誰でも視野が狭く、特に目の前の戦に白黒をつけたがる。戦にはどちらが勝ったともいえない、微妙な決着もあるのだ。
 このエドナ率いる鎮圧軍も、場合によってはそんな決着を視野に入れていた。春までにあの城を落とせるなら、それでいい。敵の援軍が現れ、場合によってはそれを迎撃できると判断しても、おかしな賭けになるようだったら、エドナは躊躇なく軍を退くつもりだった。七万で季節ひとつかけて、一万五千の城が落とせないことだってある。想定外の天候不良や、軍に病が蔓延することだってあるだろう。加えて、相手はあのウォーレスである。
 表向きは撤退でも、春まであの城の攻囲を維持できれば。ウォーレス相手に痛み分けに近い形に持っていけるだけでも、ある意味勝ちに等しいと、エドナは考えている。
 ただの、怯懦だろうか。いや、長期戦に持ち込めば、敵の全容も浮かび上がってくる。ハイランド城の一万五千は、遊撃部隊の核になっていた者たちだろう。時間が経つことでノースランドは援軍をかき集めるだけの余裕ができ、同時にそれは敵の真の総数を把握することにも繋がる。
 どの領地からどれだけの兵が供出されるか、完全に叛乱に加担している諸侯と、ハイランド公の危機にあってもアングルランドに忠誠を誓う者。はっきりさせておきたいことは他にも無数にあり、こうしたことはいくら”囀る者”たちが有能でも、実際に軍を動かしてみないとわからないことでもある。
 ノースランド独立に気勢を上げていた領主が、いざ軍同士の本格的なぶつかり合いを前に、尻込みすることも考えられる。逆に、叛乱に否定的だった領主が、ハイランド公の危機にあって考えを改めることもあるのだ。ウォーレスの離反ほどではないにせよ、今回の叛乱はまだまだ波乱の余地がある。奇襲を繰り返す遊撃戦だけでなく、ともかく見えていない、あるいは定まっていないことが多すぎた。
 戦が長引く程に、そうしたものは炙り出せる。手早く鎮圧軍を編成できた時点で、エドナは戦略的な目標のいくらかは、達成しつつあった。囀る者のかなりの数を、これからノースランドに潜伏させると、マイラはここを去り際に言っていた。これから見えていなかったものが、見えてくる。
 何を必要として兵を動かすのか。クリスティーナが元帥として一人立ちすることを事前に知っていたら、教えておくべきことはたくさんあった。突然の決定はライナスの英断と見ることもできるが、その点だけは惜しいなと、エドナは感じていた。キザイアが元帥とならなかったことの意味までは、聞かされていない。彼女自身がそろそろ、軍務から退くことを考えているのかもしれない。
「敵軍、いまだ姿を見せずか・・・」
 もう遠方に、ハイランド城が見えている。手前の原野で、まずは一戦と予想していた。敵からすれば、一撃離脱でいい。こちらの兵力と気勢をいくらかでも削いでおけば、その分籠城は楽になる。ウォーレスを擁したノースランド軍に、それが不可能だったはずがない。
 最悪ここで、しかも緒戦で一万近くを失うことも、エドナは覚悟していた。ウォーレスが相手だということは、そのくらい危険なことなのだ。ただその際に、千でも二千でも、道連れにしてやろうとも思っていた。緒戦で負けてもいい。ただ敵にも犠牲を出させてやれば、籠城軍には打撃になるはずだった。
「出て来ないか。また一つ、予想を外されたな」
 ハイランド城は、不気味な沈黙を保っている。原野の手前では何の妨害もなく、こちらの兵が本陣の設営に入っていた。
「どう思う、ラッセル?」
 少し前から急に、景色はいかにもノースランドらしいものに変わっていた。木立は少なく、濡れた芝のあちこちから、苔生した岩が転々としている。晴れているが空の青には、どこか黄色と紫が混じっているようにも見えた。
「城は城で徹底的に固め、南東、南西にある砦から、包囲軍に散発的な攻撃を加えていくつもりかと」
「無難、に思えるのだな」
 北西にも砦があるはずだが、城から西に広がる城下町により、その姿は見えない。
「敵の攻撃は、騎兵を中心に行われるでしょう。まずは耐え、迎え撃てれば。馬防柵も有効かと。これら全て、相手がウォーレス殿でなければ、充分に効果的なはずですが」
 ウォーレスの強さは、ほとんど人外の域にある。何をしてくるかというより、当たり前の防御など真正面から撃ち破ってしまうような、怖さがある。
「おとなしく、城攻めをさせてくれるわけもあるまい。が、ウォーレス殿一人を止められれば、勝つこと自体は難しいわけでもない。私とお前で、あの男を止めるぞ」
 音を立てて、ラッセルが唾を飲み込む。ウォーレスと最も調練を重ねてきた弟は、あの男の凄みを最も叩き込まれた男だが、同時に最もウォーレスの手の内を知っている将だとも言える。ラッセルの粘り強さを、ウォーレスも評価していた。戦略的な駆け引きでは遠く及ばないだろうが、実地で矛を合わせれば、あの男の猛攻にかなり耐えうることが期待できた。
「ラッセル、お前は勝とうとしなくていい。部隊を崩されぬよう、それだけに専念してくれ。お前が作った活路で、私がウォーレス殿の首を狙う」
「姉上も、あまり無理はされませんよう」
「無理をすればたやすくやられる気がするし、無理をせねばその首に届くこともあるまい。が、無茶はしないと言っておこう。私の首も、以前ほど安くはなくなってしまったからな」
 万を超える軍同士の戦は、大将の首ひとつ落ちたところで決着とはいかないことも多い。が、叛乱の救世主となったウォーレスと、アングルランド軍の頂点に立つエドナでは、どちらかの首一つで、その軍の士気は落ちるところまで落ちるだろう。実質的な決着となることも、予想できた。
 七万対、一万五千。定石通りやればたやすく負けることはない。いくらそう思い定めてもしかし、やはりこの戦はたやすくないだろうという予感は、肌を打つほどだった。ウォーレスが相手だということ、そして早速、原野での一戦という予測を外されたこと。
 遠眼鏡を、取り出す。ハイランド城南東、南西の砦には、ここからでもなんとか、ハイランド公とロウブリッジ伯、つまりウォーレス軍の旗が掲げられていることがわかった。ウォーレスとその娘で副官のセイディでは、微妙に旗印に違いがあるのだが、さすがにここからでは見極められない。追って、斥候の報告があるだろう。
 部隊を展開していく間も、戦場は静けさに包まれていた。馬の嘶きや将校の命令の声がどこか遠く、現実的ではないような気もしてくる。
 やがて斥候と囀る者双方から情報が入り、南東をウォーレス、南西をセイディが拠点としているらしいことがわかった。ただ両名は、頻繁に城内との往復を繰り返しており、また、北西の砦にはラクランという若い将が控えているそうだ。
「初めて聞く名だな。ノースランド諸侯とその親族を全て把握していねわけではないが、その名は耳にしない。ハイランドのフットボールチームに、同名の人気選手がいるが、おっと、ここでは関係のない話だな」
「いえ、まさに、その男だそうです」
「ほほう。兵として駆り出されたのかな。こんな状況だ。スポーツなどやっている場合ではないのかもしれないが」
 ノースランドの叛乱前は、主にロンディウムで開かれる運動競技の興行は、よく観戦していた。各領が自慢の選手たちを遠征させるわけだが、ロンディウムとハイランドの試合はどんな競技でも、客席で暴動が起きるくらいに白熱していた。特に蹴球という競技は、客を熱くさせる。流血すら伴う試合の中、一人涼し気な表情で競技に臨んでいたのが、ラクランという選手だった。
「ノースランドで、彼のファンだった者は、多かろう。人を惹き付けるものは、確実に持っていた。何より運動神経が良いということは、それだけで武に天稟があるということになろうな。武人としての経験がどれ程かはわからないが、私も油断なく対峙しよう」
 蹴球という競技は、どこか戦の懸け合いにも似ている。どんな運動競技でもその側面はあるが、蹴球は特にそうだとエドナは感じていた。社交の関係上様々な競技を観戦していた為、特に蹴球に詳しいわけではないが、ラクランという選手が司令塔と呼ばれていたのは耳にした。文字通りなら、その面でも将としての資質もあったということだろう。
 城の南の原野に、陣を敷く。まずは、ここを無傷で取れた。ここからだと両砦は左右からこちらを挟む位置にあるが、まだそちらに動きはない。西、左手はそのまま広い原野だが、右手は城の堀を挟んで平行する形の、木立が続いていた。地図によると、この木立は南北には広がっていない。兵が埋伏するには、木立の間が開いており、かつ木々の大半は葉を散らしていた。大規模な部隊が潜むことはできないということだ。要するに、ここからの奇襲もない。
「一応、降伏勧告の使者は出しておこう。落城交渉に、応じる相手ではないだろうが」
 白い使者の旗を掲げた騎馬が数騎、跳ね橋の上げられた城門の方へ駆けていく。再び、遠眼鏡を覗き込んだ。胸壁狭間にも兵は見えず、あるいは本当に無人の城かとも思われた。
 が、城門楼の上に橙色の長い髪を翻した女が、突如として姿を現す。ハイランド公ティア、その人だろう。使者を指差し、何かを叫んでいた。内容までは聞き取れないが、風向きによってはわずかにその声の残滓らしきものが届く。その小さな身体からは信じられない程の、大音声であった。遠眼鏡を降ろしてもわかる程の身振りの大きさに、前方の兵が失笑しているのが見える。
 当然のように、使者は追い返されてきた。
「先方は、なんと」
「堂々と迎え撃つ。要約すれば、そのようなことを申しておりました。後は、我々を批難する演説を、朗々と」
「ご苦労だったな。ではこちらも、粛々と攻城に移るとしよう」
 ハイランド城の西、城下町へと続く大きな跳ね橋も、今は上げられている。城下からの占領も微かに頭をよぎったが、アングルランド人にはノースランド人に悪感情を持っている者が少なくないことを、先日の軍議で知った。諸侯の驕りなら抑えもきくが、一般の兵までそうだとしたら、略奪が発生するおそれがある。できれば避けたいが、膠着がむしろこちらの劣勢に傾いた場合、城下の占領も一応考えておかなくてはならないだろう。
「攻城塔の用意は、まだか」
 背後の本陣前では、攻城塔の他、投石機や雲梯など、いくつかの攻城兵器が組み立てられているものの、まだ組み上がりには時間がかかりそうだった。野戦の間に組み立てる予定が繰り上がり、工兵たちも大慌てといったところか。
 エドナは隠しから、現在ハイランド城に立て篭っていると思われる、主立った指揮官の名簿を取り出した。
 “雄牛の”マドック。懐かしい名前だ。共に、南の戦線で戦った仲である。何度か、杯を交わしたこともあったか。ノースランド出身であるため与えられた階級は低かったが、意欲次第ではそれこそ平民出身から成り上がったダンブリッジのように、アングルランド軍でも上は目指せたはずだ。今にして思えば属国の将として宗主国の召集に応じているという時点で、彼の誇りは踏みにじられていたのかもしれない。雄々しく戦い、頭も切れる男だったが、出世欲というものが、まるで感じられない男だった。
 もう一人。”神弓”グリア。北のドルイド出身ということで、あるいは魔法の使い手かもしれないと、囀る者が身辺調査に当たっていた。すぐにグリアに魔法の才はないとわかったが、それでも通り名に恥じぬ弓の使い手だという。
 アングルランド、アッシェン間の、通称百年戦争では、魔法の使い手を参戦させないという条約が交わされている。開戦当初、双方が雇った魔法使いが、暗殺や破壊工作を繰り返し、もはや戦の体をなさなくなったからというのが、魔術師追放の主な理由とされていた。そもそも魔法使いは祖国よりもゴルゴナの魔法使いの塔、グランツの魔法学校、あるいは魔法連合領の組織に対する帰属意識が高い。こちらからは見えづらい派閥によっても結びついており、双方示し合わせ、見た目だけの戦いや牽制に終始し、大した戦果も上げずに多額の契約金をせしめようとする彼らに、辟易したという側面もあるらしい。支払いを渋った領主の何人かは、殺されたともいう。以来、この戦に関して魔法使いは追放、もし雇っている諸侯がいれば、両国から条約違反を厳しく追及されることになっている。
 グリアに魔法の才がなくて、良かったのかどうかはわからない。あればこちらとしても身柄引き渡し、ないしは糾弾できる格好の材料となったかもしれないが、そもそもノースランドの叛乱自体、百年戦争とは関係のない話である。魔術師が参戦したところで批難できる材料でもない。それもあってドルイドの血を引くグリアの存在は一時こちらの気持ちを波立たせたが、杞憂に終わっていた。逆に言えば、将来アッシェンと同盟を結ぶこともできるわけで、その点に関しては気がかりでもある。
 ただこれまでの遊撃戦では弓兵を指揮しているということで、そもそも注目されている将ではあった。今回の籠城戦ではせいぜい胸壁から他の兵に混じって、こちらに矢を飛ばしてくる程度だろう。そこでエドナは、本陣から東に続く木立に目をやった。季節によっては、あそこに一部隊潜ませることはできただろう。木々の間は透けており、地には落ち葉が堆積している。数人の、忍びの技術を持つような者ならあそこに潜伏することも可能だろうが、やはり部隊単位となると無理だ。今も一人二人と忍びがいるであろうその木立を、エドナはただの景色として軍略から遠ざけた。密生した森であったのならむしろ、こちらが利用したいくらいだった。グリア一人があそこに潜み、エドナや指揮官たちの暗殺を狙うことも、あるのだろうか。
 エドナもまた、”黒帯矢”とのあだ名はどうあれ、弓の名手であることを自負している。どちらの弓が上か、機会あれば試したいと、個人的には思う。的が互いの肉体である以上、勝敗は命そのものが判ずるところだろう。
 左右の砦からの攻撃を警戒して、城から少し下がった形での布陣としていたが、そろそろ軍を前に出してもいいのかもしれない。というよりこちらがいくら様子見をしたところで、敵に動きはないと確信した。いずれ援軍があることを考えれば、時間は相手の味方である。敵を動かす為にも、まずこちらが一手打たねばならない。
 まずは、南門から。胸壁を行き来する兵はまだ少なく、しかしそれは城が無人でないことを語り始めてもいる。斥候の報告から、周囲に敵の部隊がいる気配もない。少しだけ、こうして布陣するこちらに対しての、大部隊での奇襲も警戒していたのだ。城をほぼ無人に、そして一万五千全ての奇襲も、今まで遊撃戦を繰り返してきたハイランド公ならあるいは、とも思っていた。
 落城は早いに越したことはないものの、二、三日はじっくり腰を据えるつもりでもあった。まずは攻撃を南門に集中させ、本隊は両砦からの攻撃を防ぐことに専念する。そこを凌ぎ切ったら、三方から包囲するつもりである。ハイランド城の東側は急峻な崖になっており、あちらから攻める必要はない。この際に、三つの砦も包囲しておきたい。ウォーレスがどの砦にいるにせよ、そこを囲むのが最も苦労するところだろう。
 こうして落ち着いて考えても胸の奥底に逸る気持ちはあるが、これだけの軍を一時に動かそうとすれば、必ず隙は生まれる。全ての部隊が、エドナが思った時に、思ったような動きをするとは限らないからだ。その綻びを、どれだけ繕えるか。総大将の技量は、そこで問われる。
 前進するこちらの軍を見ても、まだハイランド城に動きはない。焦れる。またも、南の戦線の指揮を執る、クリスティーナに思いが飛ぶ。
 あれはとにかく生真面目で、様々なことを自分でこなそうとする傾向があった。どれだけ人に任せることができるか、そしてどれだけいい加減な部分を持てるかが総大将には必要で、そういったことを身につけられるかが、南の戦線の鍵となろう。
 目の前のハイランド城は、いまだ沈黙を保っている。破城鎚が組み上がったとの報告があったので、前衛の部隊に進軍を命じる。今までは城までじわじわと近づいていただけだが、これにて正式に開戦である。進軍喇叭が鳴り響いた。敵兵の姿がほとんど見えないので寄る辺ないが、ともかく、戦は始まった。
 いきなり、南門の跳ね橋が下りた。城内からは怒濤の勢いで、騎馬隊が飛び出してくる。幅の狭い川が少ない雨で激流となるのと同じように、細長い騎馬の列が猛烈な速度でこちらの前衛に迫っていた。先頭を駆けるウォーレスを見て、鳥肌が立った。見えている者たちの間に、はっきりとした動揺が広がる。
 エドナもしばし呆気に取られた後、苦笑で自らを立て直した。そうだ、両砦にウォーレス軍の旗があったとて、どうして彼自身がそこにいる必要があろう。ウォーレスに奇襲や謀の意識はなく、単にあれらの砦を本陣とする意味以上の、特別なものはなかったのだろう。ウォーレスが砦からこちらを攻撃するというのは、こちらの都合のいい思い違いである。そうあってほしいと、エドナもどこかで思ってしまっていたか。
 前衛はあっけなく陣を乱され、潰走している小部隊もいた。大盾を構えた部隊だったが、あれは城からの矢の雨に耐える為のものである。取り回しは悪く、騎兵の突撃に対応できるものではない。大盾を放り出し、逃げ回る兵にウォーレス軍の槍が容赦なく突き出される。何より、ウォーレスの向かうところ兵は恐慌の嵐に巻き込まれていた。そのウォーレスが馬上で戟を振り回す度、兵たちが何か別の物のように、宙高く吹き飛ばされていた。
「迫力だな。ラッセル、止められるか」
「善処します」
 それだけ言い、ラッセルは乗り換えた巨馬を駆って、味方の救援に向かった。重騎兵ゆえ軽騎兵にまともな駆け合いを挑むことは難しいだろうが、ウォーレスはこちらの歩兵の中で暴れ回っている形だ。脚は、活かせていない。
 湿った大地に、土煙はくすぶっており、視界は悪くない。乱戦に近いが、城から飛び出してきた敵騎兵は二部隊、それぞれ二千といったところか。右手をウォーレス、左手の動きもウォーレスのそれとなんら劣るところなく、指揮官は娘の”鉄面”セイディだろう。
 そのセイディと思われる矮躯の指揮官と数十騎が左手の乱戦より完全に抜け出し、そのまま西へ駆けていった。兵の海から次々と飛び出してくる味方を集結させ次第、再びこちらに突撃をかけてくる算段だろう。読めるが、対処するのは厳しい。エドナはそちらに、軽騎兵の一部隊を向かわせた。同数の二千でセイディを止めるのは困難だろうが、再集結を遅らせ、かつ相手の脚も使わせることができる。敵はそもそも、寡兵である。目の前の劣勢だけに囚われず、まずは消耗させることだった。セイディをここで討ち取ろうというのではなく、あの部隊にはせいぜいその邪魔をさせるだけでいい。
 七万の、大軍である。槍すら構えていない部隊が大半で、彼らに恐怖の波が伝播している気配はない。
 ラッセルの重騎兵が、味方の作った間隙を縫って、ウォーレスに近づく。ウォーレスの部隊はその突破力で、右手に強引に逃げ道を作ろうとしていた。一騎二騎、やがて数十騎がこちらの包囲を突き抜けていく。
 ただこのまま行けば、二千の内の千騎は、ラッセルの重騎兵の餌食である。もっとも、あのウォーレスの騎馬である。二百、三百と討てれば、それだけで充分か。
 しかし見たところ、ウォーレスの率いている騎馬の練度は、さほど高くない。主力をセイディに預け、大半をノースランド兵で編成しているなら、あるいは思った以上の戦果が期待できるかもしれない。
 いくらここが湿った、かつ芝が多い大地とはいえ、ある程度の土煙は立ち始め、戦況は段々と見えづらくなっている。エドナは左手に目をやった。セイディは既に、こちらの騎馬を引きずり回すように駆けながらも、味方の大半を吸収し終えている。そちらにさらに二部隊を出し、損害が出る前に最初の部隊は下げるよう指示を出した。そろそろセイディの騎馬隊も脚を使い切るだろうし、あの二部隊でも互角、最低でもこちらへの突撃は防いでくれるだろう。あちらはおそらくウォーレスが連れてきた精鋭ではあろうが、エドナも勝手を知らない相手ではない。どの程度までこちらがやれるのかは、読める。
 前方。ここまではっきりと伝わるくらいに、先程以上の動揺が兵たちにあるようだった。ウォーレスの騎馬隊は既にほとんどが東に集結しているが、当のウォーレスが単騎で、重騎兵の突進を押し返さんばかりに奮戦している。
 歩兵を蹴散らし、東の仲間と合流するでもなく、重騎兵の戦列を突き抜け、ウォーレスはそのまま後方で指揮を執っていたラッセルを、その大剣ごと薙ぎ倒した。
 一瞬、まさに心臓を鷲掴みにされたエドナだったが、折れた大剣を握ったまま立ち上がるラッセルを見て、安堵した。ウォーレスは既に、東の自部隊と合流していた。誰も、あの男は止められない。
「強いな。これだけ畏怖の念を持って当たっても、なおあの男には過小評価だったか」
 “熱風拍車”ウォーレス。当代大陸五強、その最強の男。
「ウォーレス殿の首に、こだわるべきではないのかもな。ゆえにこそ、あの男の首一つで、この戦は決着を見る気もする」
 隣の副官に言ったが、彼は目を見開いたまま、戦場から堂々と去っていくウォーレスの勇姿を、じっと見つめていた。

 

 もう一ヶ月近く、ロンディウムの宮殿に滞在している。
 それは何年振りのことだろうか、とライナスは思った。宰相府の一角がライナスに与えられた居住施設なのだが、半分は”囀る者”たちに解放しており、ライナスは最低限の居住空間を使っているに過ぎない。旅暮らしが多く、あまりこういったことにこだわりもなかった。
 ライナスは旅の間にも、その時の主立った大臣やその代理の官僚を伴っていることが多い。移動式の宮廷と言ってもよく、つまり宮廷が宮殿を留守にしていることが多いのだ。宮殿がそのまま宮廷を意味する多くの国と違い、アングルランドの宮廷は、常にライナスと共に移動している。
 その宮廷はここしばらく、宮殿で羽を休めていた。ライナス自身、ここでしか見極められないものがあると、察したからである。
 先日、マイラとサンドウィッチ伯夫人、アンジェリアについて話をした。ライナスが了承すると、自ら彼女に掛け合うと、娘はすぐにロンディウムを後にした。必要あってそうしているとはいえ、しばらくここで旅の疲れを癒している身としては、申し訳ない気持ちにもなってくる。
 その日の仕事を終え、ライナスは執務室の隣の小さな厨房で、自ら茶を淹れていた。毒殺を警戒し、ライナスの飲食物は給仕や小姓に扮した忍びたちが用意することが多い。今は警護の者以外は大半が出払っていることもあり、こうしてライナスは自身の手で茶を淹れていた。
 従者としての修行はもちろん、リチャードが冒険王子と呼ばれている頃は、あの男の下着まで洗っていたのだ。自他問わず身の回りの世話をすることはむしろ今のライナスにとって、一種の息抜きとなりつつあった。
 昔、アイロンがけがやたらと上手い男だと、あの”掌砲”セシリアに言われたことがある。焼きごてに入れる石炭の熱し方からして堂に入っていると、そう彼女は笑った。思い出し、ライナスの目も自然と細められた。
 何か手伝えることはないかと問いかけてくる給仕たちを手で制し、棚から茶葉を選ぶ。彼女らも今は戦えなくなった忍びであり、信頼できる者たちだったが、今は自分でこうしたことをやりたい気分なのだ。ポットに湯を注ごうとすると、副官、いや今は宰相付き秘書官としてライナスに仕えている、シーラがやってきた。
「宰相、こんな所に。少し、お話が」
「茶を淹れるところだ。お前の分も、用意しよう。茶葉に、注文はあるか」
「宰相と、同じもので」
「先に、執務室で待っていてくれ」
 パリシ攻防戦において南の戦線からライナスの副官として取り立てたシーラだが、軍人だけに収まらないその素質から今は文官としての役職も与えており、引き続きライナスの傍に仕えていた。あの敗戦の責を取り、ライナスは軍人としての階級を二つ落としていたが、それでも中佐であるシーラより二階級高い少将であり、一応軍人としての関係もいびつではない形に収まっていた。
 甘党ではないシーラの為に茶請けとしてスコーンをいくつかと、酸味の強い木いちごのジャムを添え、ライナスは執務室へ戻った。シーラは耳の後ろに薄い金髪をかき分けながら、応接用の机の前で書類の束を広げていた。
「楽にしてくれ。話を聞こう」
「宰相自らのおもてなし、身に余る光栄です」
「囀る者たちから、何か報告があったのだな」
「定期のものに、いくらか詳細が加わった程度のものです。が、いくつか、気になる点が」
 寒村の猟師の嫁だったとは思えない優雅な仕草で、シーラは茶を口に運んだ。”冷眼星”のあだ名通りに冷たい目をしているが、化粧を落とした彼女は、意外なくらいにあたたかい目をすることがある。旅に伴うことが多いので、化粧をしていないこの女の顔も、ライナスは見慣れていた。
 時折、シーラに情欲を抱くこともある。彼女にその気があるなら床を共にしていいと思うのは、あるいはこのような女が自分の妻だったら、とも思いがあるからか。娘のマイラはその母によく似ているが、纏う雰囲気はシーラの方が、よくあの女を思い出させた。
 既に遠い記憶だが、恋に、女に強い情熱を抱いたのは、あの時が最初で最後だったのだと、今にして思う。このシーラはマイラが直接推挙した将校だが、娘もまた、シーラに思うところはあったのだろうか。死の間際まで忍びの技を娘に叩き込んだマイラの母は、ただの母子以上に強い絆を結んでいただろうし、その纏う空気、ちょっとした仕草まで、マイラは母をよく覚えているはずだ。
 向かいに座り、あらためてシーラの姿に目をやる。その肢体も有能さも女として充分以上に魅力的だがやはり、ライナスはそれ以上の存在として、シーラを見ないことにしていた。彼女が故郷に残してきた夫と子供に今も想いを捨てていないのなら、ライナスも仕事以上の付き合いを求めるべきではなかった。
 中央の権力に近い所まで引き上げたことで、シーラから感謝され、軍人としても文官としても敬意を持たれていることは、感じている。上昇指向の強い女であった。
 シーラの話を聞きながら、書類の頁をめくっていく。レヌブランの物流に関する内容が、ほとんどである。通る、あるいは出ていく物資、金銭。
「以上です。相変わらずノースランドの影の助力者、彼らは同盟者とも呼ぶそうですが、未だ尻尾すら掴めない現状です。しかしこのところ、物流はレヌブラン内を還流し、その動きは鈍くなったといってもよいのです」
「まだ私の頭の中にしかないが、その同盟者とやらの正体、その存在は絞れている」
 ライナスの言葉に、冷眼星の目が、少しだけ見開かれる。
「マイラ様とは、もうご共有を?」
「いや、本当に、私の中だけだ」
 ライナスは茶の皿を持ったまま、執務室の壁に掛けられた北ユーロの、おそらくは最も詳細に描かれた巨大な地図の前に立った。国境はもちろん、各諸侯の領境まで書き込まれた、壁一面の地図である。
「同盟者とやらの、ノースランドとの合力。アングルランドにとってどこが一番怖いか、この地図を眺めながら、考えていた」
 シーラも横に立ち、北ユーロの中でも北西部に位置するアングルランドとその周辺を、見上げる。
「北にノースランド、西にエニス。その先は海といってもいいでしょう。エニス島の反抗はずっと以前から、ゆえに叛乱の芽を摘み取る体制はできており、いまだノースランドと合力できるような、大きな勢力は育っていません。地理的には合力できれば北と西から挟撃でき、ノースランドにとって最も同盟を組みたい相手でしょうが。今更ここが同盟者というのも、鼻白む話ですね。そもそも、アングルランドからの独立を、初めから隠そうともしてない。こちらの工作もありますが、誰が首領となるかで揉めている有様でもあります」
 この辺りの見立ては、囀る者たちや関係する各大臣で、何度も確認してきたことだ。が、新たな情報や情勢の変化を加味して同じ思考を反芻することで、これまでと違った結論に至ることもある。見方を変えるのも、重要な要素だ。
「南も海ですが・・・アッシェン西岸を縦断した先に、大国のエスペランサがあります。ノースランドとの交易は少なくなく、長弓の原料たるイチイも、今やここからの輸入に頼っている。それは本邦も同じことですが、ノースランドとも独自の交易を為している時点で、緩やかな敵対行為と言えなくもありません。ですがやはり、決め手に欠けるやり方ですね。ノースランドと呼応する以前に、エスペランサは無敵艦隊と呼ばれるあの大艦隊を集結させ、アングルランド海軍に総攻撃をかければいい。それができないのは、西の大海の先の、開拓地での植民に専念したいからでしょう。エスペランサの国策上、ノースランドとの交易は、アングルランドへの牽制以上のものとはなっていません」
 エスペランサとは長年の、しかし一度も正面を切っての争いとならない、水面下での敵対関係にある。開拓地での植民を独占していたエスペランサに、先代までのアングルランドは対抗心を燃やし、いくつかの植民地を作っていた。
 それにしても、とライナスは思う。先代までのこの国は百年戦争という最大の戦線を抱えたまま、よくもここまで舞台を散らかしてくれたものだ。まだアッシェンの一部だったレヌブランとの戦が当時の北の戦線、防備が薄いと見て南、アッシェンからすれば南西部の港をいくつか落とし、内陸部へ侵攻、さらには富を得ようと大海を挟んだ開拓地にまで進出し、国策というものがまるでないかのような惨状に、当時のライナスは頭を抱えたものだ。
 勝てそうなところを探し、小さくともとにかく勝ちを拾う。そこに戦略などないが、先代までの宮廷に、愚者ばかり揃っていたわけでもないことを、ライナスは知っている。王室と宮廷に、求心力と、何より財力がなかった。防衛戦と、進捗のない対レヌブラン戦では諸侯に禄も報奨も用意できず、とにかく財源となるものが欲しかった。財を求めるのは間違っていないが、それを外に求めたのがいけなかった。多少時間がかかっても、国内で回し、そのことで増えていく富に、誰も目を向けなかったのだ。
 リチャードが即位し、ライナスが宰相に就いた時には、国庫は文字通りの空っぽだった。そこでライナスはまずロンディウムの減税から始め、それをアングルランド全土へと徐々に広げ、税収の安定化と、経済の足腰を強くすることに成功した。産業の振興にも力を入れ、他国への簒奪と自国民からの収奪を中心とする財の流れを変えた。国富が苦しくなると増税や戦に活路を求めた先代までとは、逆のことをやったわけである。
 一方で当時、借金を含めて集められるだけの軍費を全てつぎ込み、膠着だったレヌブランを攻略した。そこを属国とすることでアッシェンはアングルランドへの唯一の陸路を失い、海軍力が育たないアッシェンはしばらくの間、アングルランドの経済が持ち直していくのを指をくわえて見ているしかなかったのである。敵国ながら最も経済的な結びつきの強いレヌブランを属国としたことで、アングルランドの国内で回していける富も、大幅に増えた。
「東の、レヌブラン。ここを落とされると、相当に厳しいですね。経済的にも、地理的にもここを奪われるのは致命傷になりかねません。とすると敵はやはり、直接レヌブランを叩ける位置にいる、東のアヴァランでしょうか。しかし勢力の規模は別として、何かアヴァラン公が黒幕であることに、違和感は禁じ得ません。息子のイジドールはなかなかのやり手であるようですが、アッシェン王家への忠義厚く、あの形勢不利と言われたパリシ攻防戦においても、あれだけ尽力したことは、理解に苦しみます。ノースランドとの合力であればむしろ、こちらがパリシを囲んでいる間に全兵力をレヌブランに投入し、ここを取る絶好の機を逃したことになります。が、彼らのしたことはパリシ奪還軍に主力を、レヌブランに対してはその動きを封じる為に最低限の兵力をと、やっていることがあべこべに過ぎます」
 これらも何度か話し合ってきたことだが、ライナスは話を継がず、そのままシーラに続きを促した。
「レヌブランが百年戦争の、両国にとっての橋頭堡であることは間違いないとして・・・その南は、二剣の地。近々あるであろうゲクランの西進がレヌブランの南にまで及ぶなら、その時にこそ、アヴァランは対レヌブランで活きるでしょう。ゲクランがアヴァラン公と厚い親交を結んでいるのは、政治的にはこれが大きい。先を見ても、双方に利がある話です。レヌブランを挟撃した後に、レヌブランはアヴァランに譲り、ゲクランはさらなる西進の援助を得る。この頃には周囲の二剣の地もゲクランに迎合しているでしょうから、晴れてゲクランはアッシェンの西の果て、父祖伝来の地を取り戻すことになります。と、これは、ゲクランの戦略の読みになってしまいますが」
「つまるところ、アヴァラン領は、ゲクランの西進の時にこそ活きる。同じアッシェン王を戴く昔から、レヌブランとアヴァランは小競り合いを続けている程に、互いの領土を狙っていた。小さな百年戦争ともいうべきかな。元は同じ血筋の領主同士で、領土の再統一は、互いの悲願でもある」
「やはりレヌブランを落とす必要、および地理的に唯一可能な勢力は、現時点でアヴァランしかありません。が、ノースランドとの合力はあまりにも回りくどく、援助する余裕があるなら一時的にも大量の傭兵を動員し、単独でレヌブランを狙えばいい。が、現状はげゲクランの西進を辛抱強く待っている段階です。ノースランドと結ぶくらいの財力があるのなら、その分ゲクランに援助すればいい。ですがそもそも、アヴァランには王の召集に応じる以上の余裕はない」
「ノースランドの同盟者とやらが、アングルランド国内にいないことは、明白だ。いればそもそも叛乱時に共に立つべきだっただろう。それこそパリシ攻防戦は、これ以上ない好機だった。が、動かなかった以上はつまり、その勢力はアングルランド国内にはいない」
 あくまで推測だがしかし、ライナスはもう、結論に辿り着いている。先の戦でもそうだったが、どういうわけか、ライナスはシーラを試してみたくなるのだ。
 人を試すということは、その人間を信頼していない証でもあるので、普段のライナスは、それを他人にしようとは思わなかった。信用を得るには、まず相手を信用しなくてはならない。相手を信用せず、それでも相手から信用されようとする振る舞いは、何よりも相手を侮辱した行為である。
 にも関わらずシーラを試すようなことをしてしまうのは、どういうわけか。彼女を武官としても文官としても、信頼している。あるいはこうしたやり取りでシーラの成長を促し、教師が教えを授けるような形になっているのかもしれない。答えを教えるのではなく、考えさせ、導く。そういえば昔は、娘のマイラにもそうして導くような態度で接していたかもしれない。エイダに関しては、初めから教えられることを教えていたような気もする。違いは、どこか。職責上マイラの方が過ごした時間は長いとはいえ、二人の娘のどちらを愛していると問われれば、返答に窮する。
 ただ、マイラには自分と同じ景色を見ることを、期待していたのかもしれない。マイラは充分に、それに応えた。シーラは、どうか。
「宰相は、よく私を試されます」
 どこか見透かしたような目で、シーラが笑う。こういう部分が、キザイアに疎まれたのかもしれない。これだけ優秀な将を、いくらライナスの命令とはいえ、人材こそ宝、が座右の銘とも言えるキザイアがあっさりと手放したことに、どこか合点がいかなかったのだ。
「気を、悪くしたか」
「いえ。他の者なら苛ついたでしょうが、宰相とは何か、チェスをしているような、挑むような高揚感があります。この駆け引きは、嫌いではありません」
 この氷のような女はごく稀に、その出自を感じさせる、素朴な笑みを見せる。化粧を落とした時とはまた別種の、素の部分なのかもしれなかった。いつも口元に余裕を感じさせる微笑を浮かべているが、本当に笑う時ははっとするような、子供のような笑顔を見せるのだった。
 すぐにいつもの冷たい仮面を被り、シーラは長い間、地図に見入っていた。今この時間に、シーラは急速に戦略眼を養っている。ライナスは席に戻り、煙草に火を着けた。彼女がライナスと同じ答えに辿り着くまで、静かにその時を待つ。
 今頃は、エドナがハイランド城攻囲を始めている頃か。ウォーレス相手にどこまでできるかといったところだが、大きな負けは考えづらく、兵力差を加味すれば、エドナが押し切っても不思議ではない。野戦ではあのウォーレスを止められる者は、そうはいないだろう。が、城の防衛では、ウォーレスの軍略も、その強さも充分には活かせまい。が、ここまでは兵法の常識や、計算の範疇だ。それを超えるものを、あの男は持ち合わせていた。
 エドナは、アングルランド最高の軍人である。南の戦線で共に天才と名高い”一閃の”グライー、”コミック”ソーニャと戦術で互角に渡り合える上に、彼らにはない戦略眼もまた、歴戦のキザイアや、場合によってはライナスをも凌ぐことがある。国の有り様についてエドナと交わした言葉は少ないが、軍というものに限って言えば、むしろそれに特化している分、彼女の方が見識が深いかもしれない。軍の有り様については、常備軍、諸侯の格に囚われない軍政改革と、エドナがいなければ、とてもライナス一人で賄えるものではなかった。
 対してアッシェン最高の軍人は、国策を含めた大戦略ならゲクラン、実地での戦略、戦術の巧みさでリッシュモン、戦略目標の達成、その実行力の高さなら、先日ライナスも辛酸をなめさせられた、アナスタシアだろう。戦場での”陥陣覇王”は、ライナスがこれまで対峙してきた軍人の中でも、化け物と言っていいくらいだった。
 それら含めてなお大陸最高の軍人は誰かと問われれば、やはりライナスはウォーレスを挙げる。パンゲアにはまだ見ぬ強豪として騎士団領統轄のアウグスタなど規格外の化け物はいるとも聞くが、この百年戦争に数多いる英雄の中で、過去の文献を漁っても、ウォーレス以上の軍人は存在しない。その意味でまた、ウォーレスも規格外ということか。
 ウォーレス造反の可能性は、以前から感じていた。おそらく、本人がそれを自覚するずっと以前からだ。出自もある。その半分の地の故郷である、ノースランドの惨状があった。アングルランド人には拭いがたい程のノースランド人への差別感情を持った者が多数いるが、何かを下と見ないと自分を保てないのは、心根が貧しい者なら誰でもありうることだ。アングルランドの英雄ウォーレスという存在はしかし、内心快く思っていない者も少なくなかったはずだ。そういう者たちはまた、半分はアングルランド人であるという彼に対する同胞意識が、何故か欠落する。
 が、ライナスはアングルランドを真に豊かな国とすることで、その者たちの茨の心根も、解きほぐしていくつもりだった。ノースランドの叛乱前にそれを成し遂げたかったが道半ば、まだアングルランドが豊かなのは、表面的な富だけである。
 間に合わなかったとはいえウォーレスには、アングルランドの未来を感じ、身の処し方を天秤にかけて欲しかった。が、そんな希望を見せられなかった時点で、ライナスは負けたと感じた。自分自身に対してである。ウォーレスと直接そのことで話し、思いとどまらせることはできただろう。しかしそれは、どこか根本的な部分で、卑怯だとも思った。それでもなお引き止めるべきか、ライナスは最後まで迷った。
 ウォーレスの造反は結果、皮肉にもライナスを卑怯な男にしなかったとも言える。ウォーレスもまた、ノースランドの苦しみを見て見ぬ振りをする、卑怯な男にならなかった。道を分つのは、宿運だったということだろう。
 不意に、執務室の空気が変わった。立ち合いで相手の気を感じ取るように、戦略家としての階をまたひとつ昇ったシーラを、ライナスは顔を上げずとも認識できていた。
「レヌブランを取られるのが怖い、ここを守らねばというのが、盲点でした。敵は我々の想像以上にしたたかで、忍耐強かったのですね」
「長い時間を、費やしている。辛抱強く、ただその時を待っていた。私が宰相となる前から、この計画はあったのだろう。ノースランドの叛乱がこちらの予想より早かったのも、この者の謀だったと考えられる。暴発寸前だったとはいえ、火を着けたのはこの者だ」
「しかし、機先を制されました」
「アングルランドが勝ったその日から、既に反撃は始まっていた。まったく、恐ろしい男だよ。さすがにかつては、大陸五強に列するほどにあっただけある。いやその狡猾さは、そんな枠では測れないか」
「今からでも、止める手立ては」
「もう、動かせる軍が、あまりない。敵の備えもある。出した所で返り討ちに遭うのは、目に見えている。気づいて、その時ばかりはウォーレスを離反させるべきではなかったと、後悔したよ。今は、守りを固める時期に入ったな」
 ライナスは、溜息をついた。しかしこの溜息の意味を理解できる者が傍にいることは、心強くもある。
「いつ、立ち上がるとお考えです?」
「今、すぐにでも。アンリ戴冠式後の動きを見るに、それこそまだ知らせが届いていないだけで、今頃正体を現していても不思議ではない。が、理想的な形は、ハイランド城の攻防戦、ノースランド軍がアングルランド軍を打ち払えれば、といったところか。明日でも三ヶ月後でも、もはや手が出せないだろうという意味では、似たようなものだ。ここまで、少なく見積もっても十年以上は、待ち続けたのだ。今更数ヶ月待ったところで、大差あるまい」
「しかし一ヶ月以上の時間があるのでしたら、囀る者たちを使っての、工作が可能では?」
「教皇を、拉致しろとでも言うのか。それにあそこは、既に敵地だ。現地で、それを悟った者もいない。まずは一度、囀る者たちを撤収させる。敵の仕掛けが早いのなら、既に何人かは消されているかもしれない」
「わかりました。すぐに、撤収命令を」
「頼む。ただ、それと気取られぬだけの慎重さで。忍び以外の者たちに知らせる機は、測りたい。目立った動きをすれば、彼らが皆殺しにあう危険もある。いきなり、人質にされたな。まだどう動くかさえわからないが、彼らに何かあれば、私の責任だろう」
 動くことはわかっても、いつ、どう動くかが、わからない相手でもある。そこが、ライナスを後手に回らせている要因でもあった。ただ動き出してくれれば、こちらも手の打ちようはある。
「戦において、”陥陣覇王”アナスタシアという怪物に、負けた。国を治める者としてもう一つ、私は新たな、それでいて古くからいる怪物に負けたな」
「取り返せる、アングルランドには、その力があります」
「この負けを、どう挽回していくか。まったく、気の休まる時がないな」
 冷めかけた茶を、ライナスは一息で飲み干した。
「しばらく、北は荒れるぞ。文字通りの、血の雨が降る。覚悟しておいてくれ」
 口元を引き締めて頷くシーラに、今のライナスはいくらか救われた気持ちになっていた。

 

 

前のページへ  もどる  次のページへ

 

 

inserted by FC2 system