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4,「宿運のようなものなのかもしれない、この出会いは」

 ウォーレス離反の報は、さすがに南部軍の将兵たちを揺るがした。
 アングルランド南部軍、年明け、本国からの援軍に対して、ウォーレス軍を期待する声は、少なくなかった。もしウォーレス軍そのものがこちらの過度の期待だとしても、ウォーレスが北の守りの要となることで、他の有力な諸侯がこちらに派遣されることを、当てにしていた者は多かったようだ。
 この南部軍の連中は世情に疎いなと、あらためてゴドフリーは思った。顔を青くしているクリスティーナを見てお気楽な総大将だと断じてしまうのはしかし、その若過ぎる身で元帥職を務めている彼女には、いささか酷な感想だろうか。
 騒然とする軍議の場でしかし、ゴドフリーはこれも、当然ととまでは言わなくとも、可能性のある帰結のひとつであったと、一人冷静を保っていた。クリスティーナにすがるような目で見られても、肩をすくめるのみである。
「ゴドフリー殿は、あまり慌てられた様子がない。事前に、この情報を得ていたのか」
 若い諸侯の一人が言う。
「いえ、ただ、そういうこともありうるかと。騎士道を重んじる御方です。それに出自もある。宰相は叛乱の鎮圧というより、両勢力の緩衝材として、彼を北に戻したのだと思っていましたよ。南で長く戦わせ続けた結果、徴兵面でも無理をさせていた、という理由もあるでしょうが。逆にノースランド叛乱軍が、彼の領地に侵攻しづらいという心理は、確実にあったでしょう。現にこの北の叛乱で、ロウブリッジ伯領は戦火に塗れていないではありませんか」
 方々に散っている南部軍の事情もあり、今この場に、クリスティーナ以外で、ゴドフリーより爵位が上の諸侯はいない。同じ子爵は何人かいたが、ゴドフリーに居丈高に振る舞える者は、一人もいなかった。議場を、支配しやすい環境にある。
「ではライナス宰相は、ウォーレス殿の離反を予想していたと?」
「ですから、可能性としては考えに入っていただろうということです。私でも、少ない可能性の一つとして、予想できていたのですから」
「宰相が、そのような危険を放置していたとは考えられない。何かの間違いだ」
 間違いだから、なんなのだ。“戦闘宰相”ライナスは、アングルランドの軍人にとって、万能の神なのか。内心舌打ちしたいゴドフリーだったが、これら一連の事件もライナスの計算の内だったかもしれないと、思い当たる節がないわけでもない。ここに集まった諸侯とは別の視点で、ゴドフリーもライナスは大変な戦略家であり、食えない男だと思っていた。
「ノースランドの叛乱の芽を、早い内から摘まなかったのも、宰相の考えあってのことかもしれません」
「その、意図とは」
「前体制の膿を、出し切りたいのではありませんか。叛乱、離反する可能性のある者は、さっさとそうさせてしまえばいい。あんたらの、いえ、失礼。貴公たちのノースランド人への迫害や差別感情は、特に近年、彼らを決起させるに充分なのではないかと、私は感じていました。いえ、中にはノースランドとの接触なく、そのような感情すら持たない者もいれば、逆に彼らと近しい者もいるでしょう。ですが総じてアングルランド人は、同国人であったノースランド人を、見下し過ぎました」
「私の領地では、彼らに土地まで貸し与えてやっている。その恩を、無下にするとは」
「それですよ、それ。元々アングルランドは、ノースランド人の土地だった。畑を、作物を育てさせてやっているなどと、彼らに対して侮辱以外の何物でもないでしょう。恩などと。逆の立場を想像してみれば、わかることです」
「なんと、ゴドフリー殿は、彼らに親和的なお立場か」
「違いますが、だとしたら、なんなのです。上手くやれということですよ。元を辿れば侵略者などと、今更我々が負い目を感じてもしょうがない。ただ、ノースランド人には元々アングルランドは自分たちの土地だったという意識があり、それは歴史的な事実なのです。挙げ句、我々は彼らを支配していた。配慮しろということです。これは、上の立場にいるからこそできること。力が、立場が上であることをよいことに、彼らを虐げてどうするのです。もっとも、今となっては立場は対等ですがね、皮肉にも。今からであれば、彼らを憎むのもいいのではないですか。もう、剣で決着を着ける段階に入ったのですから」
 その諸侯は、聞こえてくるくらいの歯ぎしりをした。別の諸侯が口を開く。
「貴公の言うことは、わかる。だから私は、ノースランド人たちとは、上手くやってきたつもりだ。領民も、分け隔てなく接している」
「ですから、貴公のような思慮深い領主、領民は少数だったということです。ライナス宰相だって、ノースランド人におかしな感情は持っていないでしょう。むしろ各都市の工業化を進めることで、ノースランド人たちをこちらに取り込もうとした動きもあります」
 いっそ叛乱を起こさせて、今度こそノースランド人を完全に屈服させてしまえ。そんな短絡的な男でないところが、ライナスの怖い部分なのである。できるだけ手を差し伸べ、むしろノースランド人に同情的であっただろうに、説得や懐柔に走らず、彼らを好きにさせた。いずれ叛乱が起きるのなら、それを止めようとはしなかったということだ。ウォーレスにしてもあえて微妙な立場に置き、残るならよし、向こうにつくもよし、といったところか。
 自分の思い通りに人を操ろうとするのてはなく、好きにしろ、責任は自分が取るというのがライナスの基本的な態度で、平和裡に事が進めば懐の深さ、有事となれば怖さが出てくる男だった。
 先代、あるいは先々代辺りからライナスのような男が宰相であれば、ノースランド人に反乱の意志などありはしなかっただろう。その意味で、ライナスは宰相就任時から、これまでのアングルランドが抱える問題のツケを、払わされる立場にあった。
「しかしウォーレス殿の離反とは、いかにも痛い」
「それだけでは、済まないでしょう」
「ゴドフリー殿は、どこまで見通しておられる」
「さあ。ともあれノースランドには、背後にたつ支援者か、同盟者の存在が予想できます。今後、その勢力はウォーレス殿の離反に応じるでしょう。ついにその姿を、現すということですな」
 議場が、静まり返る。現状に今更ながら危機感を持った者もいれば、ノースランドに同盟者がいるであろうことも知らず、顔を見合わせている者もいる。クリスティーナがかわいらしい咳払いを一つして、その沈黙を破った。
「それらの情報は、どこからなの、ゴドフリー。”囀る者”たちから、そういった報告は上がっていないわ」
「北の話です。こちらに要らぬ心配をさせぬようにと、本国の配慮でしょう。私は私で、忍びを使って情勢の変化を追っています。なに、その都度金で雇う忍びなので、深い情報までは掴めません。大きな動きについては、それらの話から得た、私の推測ですね」
 ゴドフリーは予想屋でも占い師でもない。正確な未来を予知できるはずもないが、起きうる可能性のいくつかを、見出すことくらいはできる。今回のウォーレスの件もそうだ。可能性自体は、低いと考えていた。しかし、賽子の出目で二回連続で一の目が出る可能性は三十六分の一と低いが、賽子を使った賭け事や遊興にふければ、誰でも何度か体験することでもある。決して、ありえないほど不思議なことではない。そしてアングルランドを取り巻く、可能性の低いとされる危機は、それよりもずっと高い確率で蠢いている。
「二、三割程度の可能性で、ウォーレス殿の離反はありうるだろうと思っていました。ハイランド公が、ウォーレス殿と接触するのを、止められなければ尚更と」
 囀る者がそれを止めようとしたのか、放っておいたのか、あるいは敵の忍びが一枚上だったのかという詳細までは、ゴドフリーにはわかりようがない。もっとも囀る者は、頭領マイラのあまりの有能さで過大評価されがちだが、網羅している地域、作戦が、その規模に対して大きすぎる。マイラのような人間が三、四人といなければ、敵の目論見の全てを看過しようがないというのも、現実にあるはずだった。忍びの世界の駆け引きには疎いゴドフリーでも、戦場では十の力を持つ一人より、八の力を持つ二人がいる方が戦力になることは知っている。諜報と策戦が主となる忍びの世界では十の力は何人もの八の力を持つ者を上回るのかもしれないが、それにしても限度はあるだろう。結論、アングルランドは敵が多過ぎるのだ。
「とにかく、ウォーレス殿ご自身や、あの御方に匹敵する指揮官は、こちらに回す余裕がないはずです。兵力だけは、元帥に粘り強く交渉して頂き、本国からある程度引き出してもらえれば幸いですが」
「わ、わかった。努めてみるわ」
「残存兵力に、せいぜい二、三万の増援ということで、今後の作戦を練っていきます。こちらの兵力は、現在三万弱。アッシェン南部軍は徴用兵を帰す頃なので、現在の正確な数は日々変化してしまうため追えませんが、先日のようにこちらに大規模な戦を仕掛けてくる頃には、五、六万といったところでしょう。ここがアッシェンである以上、徴兵は素早く、かつ補充にもそう苦労しません。本格的な攻城戦となれば、それ以上の兵を、一時的にでもかき集めてくることはできます」
 意気消沈の諸侯を前に、ゴドフリーは続ける。
「リッシュモンの動きが、報告に上がり始めました。基本的にキザイア殿の籠る町を中心に、周囲の城や砦を、反時計回りに落としていっているようです。無血で、人質交換を主とした交渉でそれを為しているようで」
 つくづく、前回の敗戦で捕虜を多く取られ過ぎたことが悔やまれる。が、開戦前にリッシュモンの策が読めなかった時点で、どう振り返っても結果に大きな変化はない。むしろ、健闘したと言ってもいい側面もある。それに一度例の、流浪の民を使った策を経験したことで、こちらもいくらかは、あれに対応できる。
「母さんの城が、最終的に包囲される形ね。けれど城や砦を放棄した兵は、その町に集まっているのよね。リッシュモンが率いている兵は、約七千。母さんの町にどれだけ兵が集まるかわからないけど、二万は固い」
「二万の兵が籠れる程、大きな町ではありませんよ。収容可能な数を超えた兵は、こちらに送ってくることでしょう」
「そうね。けど、一万はぎりぎり籠れる。リッシュモンの七千が、通常の攻城戦で、落とせる戦ではないわ。また、民を使って内側に混乱をもたらすのかしら」
「そう何度も、使う策ではないでしょう。城から兵を出さなければ、万を数える兵相手に、あの手は使いづらい。やらない、とも断言できませんが、ここを決戦と、リッシュモンは見ていないと考えられます」
「なら、どうやって母さんの町を?」
「捕虜を返すという、今までと同じやり方でしょう。向こうには一枚、ソーニャという切り札がいます。ソーニャ一人で町を放棄するかは微妙ですが、身分の高い諸侯を何人かおまけにつければ、キザイア殿は交渉に応じるのではありませんか。少なくとも、元帥の為に」
 クリスティーナはしばし、こめかみの辺りを強く揉んだ。人形のような顔の眉間に一筋、小さな皺が刻まれる。
「ソーニャを出してきてもなお交渉に応じるなと、母さんに言えないわね。そもそも、今となっては戦略的に重要な拠点ではないし」
「キザイア殿も孤立した軍を無傷で撤退させる、いい機会になるでしょう。アッシェンは、無血で南部の多くの城を奪還できる。誰も、損はしていないのですよ。だから、相手の要求を飲むしかない」
「ここでも、やり合う前から詰んでいるのね。やはり、リッシュモンの戦か」
「なのでこちらはそのずっと先を見据えて、決戦に備えるのです。トゥールに、バッドを先行させました。季節一つ使って、リッシュモンの民はもちろん、放浪の民や季節労働者といった、すぐに出自を確認できない者を、少しずつ街から出していきます。彼らと繋がりのある住民をあまり刺激しないよう、城外に流浪の民が留まれる場所も、同時に建設していく予定です」
「トゥールといえば、実質的な最終防衛戦ではありませんか。せめてその手前のポワティエで、敵を食い止めることはできないのですか」
 諸侯の一人が、悲痛な声を上げた。
「二つの大きな街を守り切るだけの力は、今の我々、そして増援があってもできないでしょう。ポワティエは、敵将ザザが治めていた城です。リッシュモンのあのような策がなくとも、真の主を前にして、領民たちが何らかの決起を起こさないとも限りません。我々に領地を奪われてなお、領民や有力者に人気のある、公正な領主でしたから。彼女自身も、奪還は悲願と広言しています」
 既に冷め切っていた茶を飲み干してから、ゴドフリーは続けた。
「一方トゥールは、領主の家系は既に絶え、長いことアングルランドの占領下です。主なき街で、住民もアングルランドの支配が当たり前と感じています。どちらで決戦を挑むかと問われれば、トゥールしかないと言わざるをえないでしょうね」
 まだ戦略を明かす必要はないと考えていたが、ここに集まった指揮官たちの顔を見ていれば、安心させるためだけにでも、多少の戦略の開示はやむなしといったところか。現在この南部軍に残っている将兵たちは、アングルランドが勝ち続けている時に参戦した者がほとんどだ。大敗の味を知らず、つまりひとつ綻びができただけで、思わぬ脆さを見せる。ゴドフリーについても経緯は似たようなものだが、アングルランドがこの地で激闘を繰り返して来た歴史については頭に叩き込んである。今生き残っている者だけでも、キザイアが、ライナスが、エドナが、そしてウォーレスがいかにしてこの地で死闘を生き抜いてきたかを知っていた分、覚悟のようなものはできていた。元々、勝って当たり前の戦場ではない。
 そもそもここは、支配し続けるには本国から離れ過ぎているのだ。これも、前体制からの負の遺産か。もっとも、諸侯に外地で戦果を上げさせることで、土地という報奨を与え続けることはできた。今となっては重荷でも、この百年続く戦のある時期には、それなりの意味は持っていたのだ。
 この南部戦線、それでも最後には勝つつもりで、その算段もついている。が、全てゴドフリーの思うように事が運んだところで、負ける時は負ける。ゴドフリーは敵にポワティエを明け渡し、トゥールで現状望みうる万全の状態で臨んだとして、アングルランド軍を押し返し、当分立ち上がらせないだけの打撃を与えられる可能性は、七割と見ていた。勝てる見込みは高いが、やはり負けても不思議ではない。負けた時に犠牲をなるべく抑えて撤退する作戦も、何通りか既に考えてある。
 よく、戦う前から負ける事を考えてどうするという言葉を聞く。が、それは命そのものを懸けた戦場を経験していない、甘ったれた環境に生きる人間の考えである。負けの可能性は、常にある。たった一度の負けで死んでしまうような愚者はつまり、負けて、次に勝つという戦略がわからないのだ。あるいは負けたところで命まで取られる事はないという、これまた甘い戦いしかしてこなかった者の言い草である。
 負け方によっては死ぬのが、戦場だ。買ってなお、死ぬ可能性がある。勝とうが負けようが犠牲をなるべく少なくというのが、ゴドフリーの基本的な戦の考え方だった。ゴドフリーはこの戦に、多くの領民を連れてきている。勝ったところで多くの死傷者が出れば、誰が自領の、そして勝ち取った畑を耕すというのだ。
 それ以上は戦略と関係ない、戦に関する愚痴と雑談に終始しそうだったので、軍議は散会となった。
「ゴドフリー、あなたがいると、安心だわ。作戦参謀を引き受けてくれて、あらためて御礼を言わなくちゃね。信頼してる」
「知恵は、絞りますよ。私は私にできることをするだけです」
 クリスティーナはにこりと笑って、自室の方へ引き上げていった。その後ろ姿を見て、この娘は人が好すぎるな、とゴドフリーは思った。
 この戦でゴドフリーはクリスティーナを、使い切るつもりでいる。後衛の花としておくには、軍人単独として見ても、もったいない。一撃の打撃力では、彼女の重騎兵は、この軍で随一であった。
 クリスティーナが死ねば、唯一の跡取りを失うギルフォード家は、混乱の極みに達するだろう。老い先短いキザイアの後釜を狙っての、血縁同士の跡目争いとなれば、隣地であるゴドフリーのケンダル家に、そこに食い込む余地が生まれる。血縁の者と結婚し、後ろ立てとなれば、ギルフォードの領地の一部か、あるいは二人の間に生まれた子供が、そこに食い込む事になるだろう。
 逆にクリスティーナが生き残れば、ゴドフリーは軍人として一つ二つ、高みに上ることになり、その功績も本国は無視できないものとなる。
 どちらに転ぼうと、自分が生き残りさえすれば、ゴドフリーにとって旨味のある話でしかない。こういった権謀術数に、あの娘は疎すぎる。
 信頼してる、か。ゴドフリーはつぶやいた。戦の結果がどちらになろうと、あの娘に生き残ってほしいと思い始めている自分に、ゴドフリーは舌打ちした。バッドが傍にいなかったことは、幸いである。あの男は、ゴドフリーのこうした心情に敏感である。いくらか情を寄せつつある自分に、目ざとく気づいただろう。
 前髪をかき上げ、ゴドフリーは一つ、溜息をついた。

 

 既に、教皇はバルタザールと密談を始めていた。
 アンリ王の戴冠式が一昨日だったことを考えると、なんとも精力的なことである。もっとも公式には既に教皇は、レムルサに帰還していることになっている。週末、つまり今朝には恒例の、バルコニーから巡礼の旅でやってきた多くの信徒たちへの顔見せがあるはずだが、影武者でも立てているのだろうか。ジルも旅の途中、一度それを見た事があるが、大聖堂の上方にあるバルコニーから顔を見せる教皇の姿は、確かにエルフの目でもなければ、影武者が立っていてもそれと見分けられないかもしれない。
「まったく、元気なご老公だな。教皇はただでも激務と聞くのに」
 ジルが言うと、マイラが苦笑で応えた。
「八十四歳だそうですね。八十歳でようやく巡ってきた教皇の座に、周囲からは以前よりも若返ったと感じる者も少なくないとか」
 マイラは今回の密談の護衛ということで、黒革の忍び衣装に、分厚い外套を羽織っている。平服以外の、いわば忍びとしての正装を纏うマイラを見るのは、初めてかもしれない。均整の取れた肉体、それでいて女としての魅力も感じるその肢体を、ジルは素直に美しいと思った。元々、顔もいい。
「神のご加護かな。人生の最後を信仰の頂点として生きられるのは、聖職者として一体どんな気分なんだろう」
 教皇とバルタザールは修道院の脇にある来客用の宿泊施設を出て、森に囲まれた、枯れた芝生の上を歩いている。バルタザールは熊のような巨体を屈め、教皇の話に熱心に聞き入っていた。腰の高さ程の生け垣ひとつを挟んで、ジルたちはそれを眺めている格好だ。言葉が聞こえる距離ではない。
「どんな話をしているのか、わかっているのか。ああ、聞かせてくれとは言わない。盗み聞いたと知れれば、バルタザール殿の信頼を損ねるような気がするのだ」
「よくわからない、とだけお伝えしておきましょう。私を含め、部下が数人、森の中から読唇術で何を話しているのか探っていますが、ご覧の通り」
 教皇は、大きな袖口で、口元を隠している。バルタザールも長く垂れた口髭で、その下の唇の動きは極めてわかりづらい。ジルの見立てでも相槌は多く、長い返答はしていないように見えた。
 二人がこちらを向いたので、ジルは軽く頭を下げる。ここで見ているが、そちらの話に立ち入らないという、確認のような会釈である。どこかで盗み聞きをしていると疑われるよりは、こうして姿を見せている方がいい。もっとも隣のマイラの存在を、そうは見ていないだろう。
「そういえばジル様、ここを辞められるという話は、本気ですか」
 マイラが訊く。実は先日のバルタザールとの会談の後、すぐに辞意をしたためた書簡を、ライナスに送ってあった。
「近々、総督をやめる。そんな話をバルタザール殿にした後、本当はすぐにでも辞めるべきだと気づいたんだよ」
 自然と、笑みが零れる。が、ジルの悪相である。それが笑顔としてマイラに伝わったのかはわからない。
「このような仕事は、性に合いませんでしたか。立派に務め上げられている。失礼ながら、いささか予想外だったのですが、ジル様は想像以上の能吏でした。そのことを、宰相共々喜んでいたのです」
 素顔のマイラの、加えてこれは本音でもあったのだろう。切ない顔をしている。この女は、大陸五強というものに昔から強い憧れを持っているのだと聞く。ジルもその一人として見てくれていることは初見から感じており、なんとも面映い気持ちになる。この娘自体がとてつもなく強いのに、一体何に憧れているのだろう。
「まともな読み書きもできないまま家を出た私が、高い知性と教養を求められる総督なんてものに就いているのが、そもそもの間違いなのさ。王家の血筋を引いているというだけの、お飾りだとわかっていてもな。小川の水で身体を洗い、廃屋でくたびれた外套にくるまっているような生活が、本当はふさわしいんだ。私の父、と認めるのも癪だが、あの”冒険王”にしても、そういうのが似合っているような気がしないか」
 マイラが笑う。大人びて見える彼女だが、歳は一つ、マイラが上なだけだ。
「あの御方が、好きなのですね。いえ、父君、リチャード陛下のことではありません」
 忍びの視線が、バルタザールの広い背中に向けられる。
「お前程の者が、気づかないわけがないよな。まったく情け無いことだが、色恋に疎くてな。この気持ちにどう整理をつけたらいいか、さっぱりわからない。今の私が、彼に再婚を申し込んでもややこしいことになる。アングルランドにとっては都合のいい話だけに、バルタザール殿もしぶしぶ承諾しないわけにもいかないだろう。だが政略結婚で、彼の気持ちを踏みにじるような形で、結ばれたくはないのだ。再婚を宗主国から強要されない限り、こんな不細工な小娘など、相手にしたくもないはずだからな」
 政略結婚にしたって、やり方がえぐすぎる。今いる彼の一人息子を差し置いて、バルタザールとジルの子がレヌブランを継ぐ形になるからだ。
「ジル様があえて人好きのする、優しい御顔をされているとは申しません。けれど私は、ジル様の御顔が好きです。理由は、上手く説明できませんが」
「一人でも、そう言ってくれる人間がいることは、いくらか支えになる。今更、こんな悪相に生まれたことに、くよくよなどしていない。器量良しに生まれていれば、バルタザール殿と接する時に、あまり気後れがなかったような気もするが」
 生まれついての、怒りの面。リチャードが父とわかり、その父にないがしろにされてきたことを知ったことで、より深く、その怒りが面貌に刻まれてしまった。怒りを原動力に生きてきたことの、報いなのかもしれない。
「辞意は、宰相の都合のいい時に受理されればよかろう。その旨も、伝えてある。秋、つまりこの四半期の仕事は終えてある。手を着け始めたこの冬の四半期まで働いてくれと言われれば、そうするさ。一時でも、豊かな暮らしを提供してくれた宮廷には、感謝しているのだ。が、エドナへの義理も、もう果たしたという気がするな。任を解かれたら最後に一度、彼女に挨拶して、旅に出ようと思う」
 極力、マイラの顔を見ずに言う。悲しい顔をしていることが、見なくてもわかるからだ。
「旅に出て、いずれバルタザール殿の元に?」
「この気持ちが本物なら、そうすると思う。まっさらな自分で、というのはこの王家の血が許さないだろう。が、総督という地位まで背負っていては、彼と正面から向かい合えないのだ」
 恋の為に、何かの決断をする。少し前のジルには、想像もできなかったことだ。そんな自分がいることを教えてくれただけでも、ここの暮らしには感謝していた。
「でも、やはり不思議だな。なぜあのような熊親父に、惚れてしまったのだろう。歳も食っている。身体も悪い。そういう性癖だったのだと、今は思い定めているが」
「私も、歳の離れた男性が、好きですよ。できれば親子くらい離れていた方が」
「へえ、意外だな。いや、好みがというより、マイラも恋をするのだと思うと。なんとなく、そういった感情を、超越しているような気がしていたのだ。達観というかな。その器量と、忍び仕込みの話術だ。好きな男をものにするくらい、造作もないのだろう?」
「いえ、そうでも。できるかどうかというより、そういった感情を抱いた相手と、深い関係を持つのが難しいのです。惚れた相手には、必ず隙が生まれるでしょうから。仕事柄、それが命取りになることも、ないとも言えません。この生き方を、苦しいと思うことも」
「なるほど。マイラはマイラで、そういうつらさがあったんだな」
 振り返ると、忍びは眉尻を下げて微笑んでいた。
「任務で、多くの男と寝てきました。なので、性交に関しては、何の抵抗もなくなってしまいましたけどね。任務以外でも、寝るのは大抵同僚の、若い男ばかりです。惚れた人と身体を重ねたことは、あるかなきかといったところなんですよ」
 恥ずかしそうにはにかむ彼女を見て、やはりマイラも素の部分は自分と同じ、十代の娘だと実感する。普段は、二十代の半ばか、後半くらいに大人びて感じるのだが。お互いの重たすぎる立場がなければ、気の置けない友人として、接することができたのだろうか。あるいはこんな会話をしている今まさに、二人はそうなのだろうか。
「ひどく歳上が好きであることに、理由はあるのか? 私自身、自分がそんな性癖を持ったことに、説明がつかないのだ」
「私に関して言えば、父に、強い憧れを持って育ったからでしょう。非嫡子であるがゆえに、父ライナスに、自分を一番の娘と思ってほしかった。それがいつの間にか、父のような男に惹かれる要因になったのでしょう。妹のエイダも父を崇拝といっていいくらいに憧れていますが、彼女は少年ばかりをたぶらかします。が、それもきっと、本当の憧れへの裏返しなのでしょうね。心の底では、父のような男に憧れていると思います。エイダはエイダで自分が正妻との間に生まれたにも関わらず、非嫡子である私を可愛がる、父に対する焦りもあったはずです」
「複雑だな。そして出来過ぎた父を持ったがゆえの、ということなのかな。私の様に父に強い恨みを持つ者は、一体何なのだろうな。父の代理を欲しているのだろうか」
「かもしれません。ただバルタザール殿に、父代わりになってほしいと思いますか?」
「いや、対等でありたい。だからこそ、今の地位も捨てるつもりでいる」
「それなら、単に、年輪を重ねた男が好きだというだけでしょう。あるいは性分から彼を好きになったのではなく、彼そのものが好きになっただけかも」
「そういうことが、あるのだろうか。好みではなく?」
「好み通りの男に惚れるとは限りませんよ。理想と、実際に惚れる男とは、異なることも多いのです」
 修道院横の草地を、教皇とともに往復するバルタザールを、見つめる。好みではなく、あの男だけが持つ何かに、惹かれたということか。あの男に自分は、何を見ているのか。
「そうなんだな。何か、宿運のようなものなのかもしれない、この出会いは」
「誰に、どんな形で惹かれるのも自由です。ゲオルク殿とアーライン殿は、まさにそうではありませんか」
 よぼよぼの老騎士と、神話の女神のようなケンタウロス。確かに、これ以上に奇妙な取り合わせもない。年齢や人種どころか、種族さえも超えている。いや、ああ見えて実はアーラインの方が歳上だったか。ともあれあの二人には、他者があれこれ言う隙間のない、確固とした愛の形があった。
「よいお手本が、すぐ傍にいたのだな。それに、誰と誰が愛し合うかなんて、他人にとってはどうでもいいことなのかもしれない。初めは奇妙に思っても、すぐに何でもないことのように慣れてしまう。あまり人目を気にしない私が、一体何を気に病んでいたのかな」
「初めての恋なら、怖くて当然だとも思います」
「そうだな。私の一方的な想いだ。振られたら、ひどく傷つくのだろうな。それは、怖い。が、私はもう、私から逃げるのをやめよう」
 言葉に出すと、右往左往していた考えも、決意も固まる。一人思い悩んでいたことすら、馬鹿らしく思えてきた。ジルは一つ、息を吐いた。もう冬のそれとなっている冷たい風が、ジルの髪を肩の上で揺らす。
「私とバルタザール殿、互いの身が落ち着いたら、想いを伝えようと思う。マイラ、相談に乗ってくれて、感謝する」
「いえ、私でも、ジル様のお役に立てたのなら」
 マイラがはにかむ。怜悧で知られるこの娘のこんな顔を見た者は、そうそういないだろう。ジルもいつか、こんな顔で笑えるのだろうか。
 が、その顔が不意に、忍びのものとなる。教皇とバルタザールの会談は、終わったようだ。教皇は修道院脇の来客用施設に入らず、そのまま裏で待たせている馬車の方へと歩いていく。
「ほとんど、何もわからなかったようです。さすが、アモーレ派の頂点というだけありますね。あの男というより、教皇という地位には、様々な守りがあるようです。忍びもいい。周囲を先に固められたのも、痛かったですね」
「教皇の、忍びがいたのか。聞くまで、存在自体わからなかった」
「ジルでしたら、僅かでも殺気を向けられれば、私より鋭敏にその存在を感じ取れたと思いますよ。こちらも表立って事を構えるわけにもいかず、睨み合いに終始しました」
 言われてみれば、木々のせせらぎに何か違和感を感じる。常緑樹が多く、森の視界の悪さは、春や夏と大差ない。もっともマイラの言う通り、その中の一つでもジルに気を向けてくれば、即座にその存在は察知できただろう。伊達に、若い頃より殺し合いを続けてきたわけではない。逆に言えばジルにとって無害であったがゆえに、ここに忍びの集団が潜んでいたことすらわからなかったわけだが。
「先方の忍びも、撤収を終えたようです。収穫はほとんどありませんでしたが、教皇がこの百年戦争に嘴を挟む意志があることは、わかりました。新たな不確定要素の発見、それだけでも、収穫としましょう」
 マイラも、もう気づいているのだろうか。それを聞いてジルも、ひとつ思い当たることがあった。
「ノースランドへの援助、軍資金の流れ。いまだ正体のわからないノースランドの助力者とは、まさか教皇のことなのではないか」
 マイラは指先で顎を擦り、難しい顔をしていた。目は、来客施設の方へ戻るバルタザールを、目で追っている。
「ノースランドは叛乱に当たって、アングルランド国教会を抜け、アモーレ派に復帰しました。かの地は半分近く、国教会に改宗していたのですが。なのであるいは教皇そのものが、ノースランド叛乱の黒幕というのは、考えられなくもありません。ですが、教皇庁は財政難で、金や物資をノースランドに提供するのは、難しいはずなのです。ただこの辺り、宰相と相談して、よく精査してみます。我々としては依然、エスペランサの有力諸侯か、アッシェンの大物、特にゲクランなのではないかと読んでいました」
「エスペランサはノースランドとの貿易が盛んだが、アングルランドへの間接的な攻撃や牽制としての意味合いが強いと、ある程度の結論が出ていた。ゲクランは、私も考えていたのだが」
「ええ、それにしては、動きが鈍いのです。それに噛み合ってもいない。本命は、彼女自身の軍を率いての、西進。いずれ合力することは、むしろ必然といってもいいのですが、今はまだ連携がない」
 ゲクランは、候補から外れるということか。よく考えればゲクランが黒幕なら、何も黒幕でいる必要もないように思えた。表立ってノースランド叛乱を支持すると宣言した方が、アングルランドの動揺は大きい。援助物資は、ゲクランに友好的なアヴァラン領の港を通して、堂々と運搬することもできた。
「それとこれは最近わかったのですが、ハイランド公ティアの傍に仕える忍びは、どうやらアッシェン人のようです。ビスキュイ、と名乗っています。本名でないにせよ、アッシェン語ではありますよね。この存在も、黒幕はゲクランではないかと迷う要素になっていました。しかしこのビスキュイがアッシェン諸侯の誰かから派遣されたとあらば、そのままアッシェンの勢力のいずれか、と考えるのが自然です。無論その名を名乗っていること自体が、陽動なのかもしれませんが」
「デルニエール方面ということも、あり得るのかな。あそこに残っている人間も、アッシェン語を話す」
「人間が治める唯一の大勢力として、アキテーヌ公が考えられますね。あるいはデルニエール手前、辺境伯のいずれか。かの地にはドゥーソレイユ伯という、奸智に長けた男がいます」
「アッシェン諸侯の誰かと考えると、候補が多すぎるな。誰しも、アングルランドの弱体化を願っている。全員に、動機があるな」
「ゆえにこそ資金や物資の通り道、その最後の関として、ここレヌブランに網を張ってきたのです」
 マイラが、こめかみを押さえる。ジルも総督としてこの地の資金や物資の流れに目をやってきたが、いまだその流通経路の全貌は明らかになっていない。
「地から湧いたように、いきなりレヌブランのそこかしこに大量の物資や軍資金が現れ、そして消えていきます。レヌブランの領境を、どこかで通っているはずなのです」
「いざとなればレヌブランの全港を封鎖する・・・とは、いかないよな」
 元は、アッシェンだったレヌブランである。ここの諸侯に反発されれば最悪、アッシェンへの復帰や、ノースランドとの合力もありえる。
 今回こうして教皇と密談の場を持ったように、バルタザールは総督府の目を逃れてアッシェン側との接触を持っているのだろうか。いや、だとすると、今回の件を総督府に報告したこととの整合性がつかない。レヌブランは、アングルランドに対して、恭順の意を示している。
 “囀る者”が血眼になっても、レヌブランの港に集まっているであろう闇の流通経路は、わからない。時にそれは途中でレヌブランの産物に替えられたりもする。ただ金や物資が同じ形のまま馬車や船で運ばれているわけではないのだ。
 あまり考えたくはないが、やはり可能性として、バルタザールがいまだ謎の勢力であるノースランドの助力者とハイランド公の、仲介役になっていることも、考えられた。直接レヌブランが動くことはなくとも、面従腹背を貫いていることもあるかもしれないのだ。今回の教皇は、それを示唆させる。
「・・・しかし宰相は、もうこの件に関しては、捜査を一旦打ち切る方針でいます。本日教皇の密談を監視したのが、この地での私の、最後の仕事となります」
「ほう。あきらめた、というのは誤った認識なのかな」
「半分は、そうだとも。というのもノースランドとウォーレス様が結ばれた時点で、その勢力は近々姿を現すと考えられるからです」
「なるほど。いくらウォーレス殿を軍勢に加えたとはいえ、ノースランド単独でアングルランド全体を相手にするには、多少無理があるな。戦そのものはウォーレス殿が勝ち続けると考えられるが、遊撃戦ではなく、表立った戦を続けるだけの、正規の軍を動かし続けるだけの体力が、おそらくノースランドにはない」
「エドナ元帥も、戦上手です。たとえウォーレス様相手でも、大きな負け方はしないでしょう。少なくとも、消耗戦には持っていけます。ですがアングルランドとノースランドが短い間でも、がっぷり四つに組み合っている際に、その新勢力が立ち上がるとすれば・・・」
「その勢力の規模にもよるが、アングルランド自体が、危機に瀕する可能性もあるわけか」
 本国北のノースランド、南部戦線、そしてゲクランの西進に備える為に、二剣の地に派遣された諸侯。既にアングルランドは三つの戦線を抱えている。四つ目の戦線がそれに比べて小規模だとしても、これ以上の将兵を派遣する余裕が、今のアングルランドにあるのか。
「ライナス殿は、なんと」
「肝を据えて、第四の戦線に備えてもいいと。私との会話の中だけで、まだ全体の決定ではありませんが、ここまで狡猾に、その力を隠し続けた相手です。ならば姿を現した時にしか叩けないものと、そう覚悟しております。奇しくも、と私は考えていますが、あるいは宰相は、ウォーレス様がノースランドにつくことで、その正体を炙り出せると、そう踏んでいるのかもしれません。これは、いい機会だと」
「ライナス殿が、ウォーレス殿を裏切りに走らせたということは」
「それは、ありません。最悪ウォーレス様を暗殺してでも、止める術はありました。ですが、宰相はあの御方の動向に対して、何も手を打たなかった。それはひょっとしたら、事態がこうなることで、未知なる敵に姿を現してほしかったのかもしれません。宰相が今の地位を手に入れる前から燻り続けていたもの。戦線をいくつも抱えるというのは、戦略として悪手に過ぎます。しかし父が力を持った時点で、南部戦線と、ノースランドの、抑えきれない反発があったのです。二つが暴発する前にとパリシを窺いましたが、これは失敗に終わりました。ならばノースランドの叛乱をさせるがままに、同時に長年探し続けていた助力者の正体を炙り出す。南の戦線は・・・」
「最終的には、捨てるのだろうな。長くあそこで戦い続けた者たちには、酷なことだろうが」
「時間稼ぎは、期待しているでしょう。南の戦線はそもそも、リッシュモン将軍が不意の帰還を果たさず、あのままアッシェン南部軍を崩壊させたところで、ブルゴーニュ公国との戦が待っていました。より深く侵攻し、周囲を制圧し続けるにも兵が必要です。そんな状態で、小国とはいえブルゴーニュ公国を相手にできたでしょうか。いえ、勝ったところで、パリシ奪還作戦にも参戦してきた南の辺境伯領を、相手にする危険性も高い。何度か宰相があの戦線に参戦したことで、あそこでの戦には、限界があると悟ったようです」
「諸侯の武勲を上げさせ、領地という報酬を与える場として、優勢を保ち続けたあの戦線を、たやすくは放棄できなかったのだろうな。ライナス殿の苦悩は、よくわかる。自分が開いた戦線でないのなら、尚更だ。負けさせることで、あの戦線は放棄したいのだと、私にもわかった。ただ援軍の派遣を無下にする露骨なやり方は、諸侯の反発を招く、か。ようやく私にも、ライナス殿の苦悩と、アングルランドが抱える問題が、わかってきた」
 南を捨て、北の叛乱を招くことで、長年謎だったその助力者を見つけ出す。南も北も、ライナスが宰相となる前からの負の遺産であり、さっさとその黒幕の正体を暴いて叩き潰し、本来の百年戦争の形に戻してしまおうと、そういうわけなのだろう。
「だがやはり、ノースランドの助力者が立ち上がることで、アングルランドの各戦線にかかる負荷は今以上に大きくなる。保つのか」
「そこが、正念場と考えているのでしょう。そこを乗り越えれば、アングルランドは全力でアッシェンと、いえパリシ攻略に向かえます。ゲクランが西進を開始していない今が、最後の好機です」
「負けること、追いつめられること、それも戦略か。もうすぐここを去る私には、やはりそれは、とてもついていけることではないな。が、こういう世界もあるのだと、垣間見せてくれた。初恋一つで頭を悩ませていた、自分が恥ずかしい」
 ジルは暗雲立ちこめつつある、修道院の上の空を見上げた。
「総督職を下りたら、バルタザール殿に剣を捧げてもいいかもしれないな。一度は、軍を率いた。私も一介の将校として、アングルランドを助けることができるかもしれない」
「ジル様の想いも、遂げられるかもしれませんしね」
 マイラが、屈託ない笑顔で返す。
「国の争いだ。総督を下りた私一人の力など、取るに足らないものだろうが」
「ジル様の勇名は、大陸に轟いておりますよ。今の総督府の兵、貴族や商家の子弟で構成されたお飾りの軍などを率いるより、レヌブランの将兵を率いれば、大陸五強の名も輝かれると思います」
 ノースランドの助力者。その規模こそわからないが、レヌブランにまで危険が及ぶようなことがあれば、ジルはこの地に再び馳せ参じようと思った。バルタザールのことがある。そして何より、この地が落ちればアングルランドは完全に孤立しかねない。
 もしその者がそこまで考慮に入れているのであれば、その正体はレヌブランとは共にアッシェンに属していた時から争いの続く、東隣のアヴァラン公ということもありえるのではないか。レヌブランの北は海、西はアングルランドへと続く海に挟まれた隘路。南は二剣の地であり、有力な敵対勢力は東のアヴァラン領しかない。国境は南北を走る山地が自然の防壁となっており、レヌブランから攻め入ることは難しい。それは前回、ジルがレヌブラン軍と共に戦うことによって、経験できた。アヴァランは、レヌブランというアングルランドの属国に位置しているにも関わらず、軍事的な脅威にさらされていない領土なのである。
 しかし、素人の思いつきだろうとまだ誰にも話していないが、ある時期、毎日周辺の地図を睨みつけている内に、あるいはというアヴァラン領攻略の一手を、ジルは見つけていた。
 事が動き出す前に、バルタザールに進言すべきだろうか。が、失敗すれば多くの将兵を失う、賭けになる。今のジルなら、総督としてそれを、半ば強制することはできる。ゆえにこそ、言い出せない。もしジルがレヌブランの将軍であったら、責任は自分で取れる。もっとも、ついてくる将兵には申し訳ないが。
 ともあれ、思いつきを実行できてしまう今のジルの立場は、進言するには重すぎた。そもそもアヴァラン公が助力者でなかった場合には、さらに戦線を広げてしまうことにもなる。もうライナスに敵の出現を待つ覚悟があるのなら、余計なお世話もいいところだろう。
「どうしました? 難しい顔をされて」
「その通りの、少し難しい事を考えていた。その助力者、アヴァラン公という線はないか」
「伏せておくつもりでしたが、ジル様自らがお気づきになったのなら。はい。有力な候補として、上がっております。アヴァラン公自身に衰えなしと、前回宰相は直接お確かめになりました」
 パリシ攻防の際、ライナスはアヴァラン公と刃を交えた。加えてあの戦線で、辺境伯ラシェルやレザーニュ伯夫人フローレンスの予想外の奮闘があったとはいえ、ライナスの軍を退けているのだ。あえて脚光を浴びず、戦果を二人に譲るかのような振る舞いは、今にして思えば充分に怪しくもある。
「やはり。なに、レヌブランからアヴァラン領を落とせないか、思案していたところだよ」
「ひとつだけ、可能性のある作戦が」
「いや、今は聞かないでおこう。老アヴァランがそうと決まったわけではないし、事が起きた時に、私がここにいるとも限らないしな」
 まだ総督であるから、こんなことを考えてしまうのだろう。辞意は、既に宰相府に届いている。事態が動き出すというのなら、その前にジルの任は解かれるはずだ。アングルランドから派遣された役人たちは優秀であり、ジルでも平時はお飾りの総督として赴任できたが、有事となれば本国の優れた行政官がそれを務めることになるだろう。いつでも引き継げるよう、ジルはその準備も整えつつあった。
「マイラは、これからどこへ向かう?」
「一度、エドナ元帥の元に。現地の囀る者たちと、今後の方針を相談しようと」
「そうか。しばしの別れかな。宰相共々、色々と世話になった」
「こちらこそ。ジル様、どうかご健勝であられますよう。いつか、また」
 一つ頭を下げ、マイラは厩の方へ走っていった。
 しばらくの間、その場に佇む。ふと、この地を去ることに、言い様もない寂寥感を覚えた。思えば、生家を除けば、最も長く留まった土地だったか。レヌブランに愛着を感じ始めている自分を、ジルは認めないわけにもいかなかった。もう、第二の故郷といってもいいだろう。
 バルタザールが、施設から出てきた。小姓たちが、ジルの荷物を持っている。厩の方から、供回りの二十騎程が出てきた。馬車も、もう走れる準備が整っているようだ。
 先に馬車に入ったバルタザールが、巨体を折って、ジルに手を差し伸べる。
 その大きな手を取って、ジルは階を上った。

 

 

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