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2,「ここは私にとって、平和に過ぎます」


 バルタザールが自ら総督府を訪ねて来るのは、極めて珍しい。
 できれば人除けを、ということだったので、ジルは巨体のレヌブラン領主を、狭い応接室に招いた。二人きりということで自然と胸が高鳴ってしまう自分を、ひどく愚かに感じる。小姓が茶を運んで来るまでは他愛無い話をしたが、楽しめるのはここまでだろう。この男がわざわざ総督府を訪ねて来たのだ。難しい、極めて微妙な話であることは間違いない。
 小姓の足音が遠ざかるのを待って、バルタザールは口を開いた。ここからは属国の領主と、宗主国の総督兼全権大使の話となる。ジルは特に指示を出すことをしていないが、”囀る者”の一人辺りが、壁の向こうで耳をそばだてているかもしれない。
 先日、この男の息子イポリートには、酷い目にあった。ジルはもう過去のことと割り切っているが、この男としては、どうだろうか。バルタザールに救われたことで、おかしな話だが、あれだけ恥をかいたにも関わらず、ジルはあれを悪い記憶としては捉えていない。この男にも、あれを負い目と感じてほしくないと、ジルは思っていた。
「アッシェン王アンリ十世が間もなく戴冠式を執り行うと、総督はもうお耳に入れられましたかな」
「いえ。ただ南の戦線に勝利し、一応アッシェン側の戦局は落ち着きを見せた。そろそろだろう、という話にはなっていました」
 ジルのそれは予測だったが、バルタザールは既に知っていた様子だ。忍びを使っているこちらの情報網よりも、耳が早い。どういうことだろうか。カップに手を伸ばし、ジルは話の続きを促す。
「その後、教皇がこちらを訪れたいと申しておるのです。それも、公ではない形で」
 なるほど。教皇本人から聞いていたのでは、ジルたちより早くそれを知っているのも、当然の話である。
「お忍びで? あまり穏やかな話ではありませんね。用件は、伝え聞いておりますか?」
「それが、先方からは何も。ただ、私と直接会って、話がしたいということなのです」
「密談、ということになりますね。しかし、どうしてそれを私に?」
「総督府に黙っての会談とあっては、わかった時に騒ぎとなります。何より、レヌブランの叛意を疑われてもかないません」
「確かに。教皇猊下の手前もあります。この話はできるだけ内密にしておきますが、ライナス宰相と、その側近、特に諜報を担うマイラたちには、伝えないわけにもいきません。ただ、表立った話にならないよう、こちらも配慮致しましょう。その辺り、猊下には書簡でお伝え願えればと思いますが」
「わかりました。ここまでは、先方も織り込み済みかと思います」
「だとすれば、教皇もなかなかに狸ですね。おっと、今のは失言でしたか」
「私も、同じ思いですよ」
 低く笑ったバルタザールは、しかし表情の読みづらい男である。太い眉、その下の細い目の奥に、どんな光を宿しているのか。昔は、獣も怯むくらい、目に力のある男だったそうだ。レヌブラン領主、アッシェンの宿将として対アングルランドとの戦の最前線に立っていた時は、である。
 老齢に達しつつあるこの男は、今や枯れかけた巨木である。こんな男の、どこに惹かれてしまったのか。ジルはしばらく、バルタザールのことをまじまじと見つめてしまった。
「本国の、アングルランド国教会の手前もあります。公にしたくないというのは、こちらの都合もあるのです」
「その点につきましては。会談の候補地が上がり次第、総督にお知らせしようと考えております」
 戴冠式が執り行われると予測されるランスには、大陸鉄道が走っている。式後、鉄道でパリシを通り過ぎ、レヌブランまでやってくるということだ。ここ首邑レヌブラントに大陸鉄道は走っていない為、大分南、レヌブラン中央部辺りが会談の候補地だろう。しかしいくら戴冠式のついでに来れる場所とはいえ、何の企みがあってここまで来るのか。バルタザールは知らないと言っているが、果たして本当だろうか。
 アングルランドが何よりも恐れているのは、このレヌブランのアッシェン復帰である。噂されるゲクランの西進を止められなかった場合、両断された二剣の地の南は、アングルランドに協力することはなくなるだろう。その機でこのレヌブランがアッシェンに復帰すれば、残る二剣の地の北部を、南北から攻め上げることができる。この辺りの動きはライナスが既に想定しているわけだが、逆に言えば二剣の地でゲクランの進撃を阻むことができれば、レヌブランは相変わらず孤立したまま、アングルランドの庇護下から離れないだろうとも言えるわけだ。
 国としての争いに今、教会が絡んでくると厄介だ。アッシェンのアモーレ派に対して、アングルランドは国教会という独自の宗派を起ち上げ、レムルサの教皇庁とは、敵対関係と言ってもいい。よって対アングルランドに、教皇庁が水面下で加わって来たところで、不自然な話ではない。
「わからないということですが、推測ではどうでしょう。どうも私では、大した推測の材料も持ち合わせていないようです。教皇庁が、アングルランド国教会をよく思われていないということは、常識の範囲でわかるのですが」
 バルタザールはしばし、顎に手をやって首を傾げた。巨体に見合った大きな手であり、今でも得物にしていたという大剣を振るえそうだ。この男は少し腰が曲がっており、ややがに股気味に歩くが、これは加齢のせいではなく、リチャード王との戦いで負った傷の、後遺症だと聞いた。身体つき、特に筋肉は今でも鍛えているのか、あるいは元々筋肉質なのか、老いによって萎んでいるようには見えない。ただ、この身体ではもう前線に立って戦うことはできないだろう。馬に乗る時も、従者の力を借りないといけないという話だった。
「あまり、思い当たることはありませんな。レヌブランにアングルランド国教会の教会が建つことには、反対の意を示したことがありましたが。それも、形式だけのものでしょう」
「レヌブランでも、ここレヌブラントにしか、国教会の教会はありません。布教に励むでもなく、アングルランドから出向してきた者たちの為の教会です。我々としても、支配する立場で言うのもなんですが、出来るだけレヌブランとは共に歩みたいと思っているのです」
「少し昔の話になりますが、私がリチャード王に敗れ、ここがアングルランドの属国になった際にはすぐに、ここもアングルランド国教会に改宗を迫られるものとばかり思っていました」
「当時の事情はわかりませんが、海外の植民地での失敗が、今の政策に反映されていると聞いています。ライナス宰相になってからは、現地の人間に改宗を迫るようなことはしていないはずです」
「属国に、理解ある宰相であると?」
「それもあるでしょうが、属国を完全な植民地としてしまうことで、叛乱の芽を育ててしまうという危惧があるのではないでしょうか。第四世界帝国ブルガンがその版図を広げていく際、極力現地の政事に触らなかったという話を聞きます。議会やそれに当たるものは掌握するものの、制度はいじらなかったと。法も、その土地で生まれたものには、それなりの伝統や正当性があります。支配者の首だけをすげ替え、後はむしろ自由にさせていたことで、大ブルガンは安定して領土拡大に専念できた。レヌブランもまたそういうものだと、私は解釈しております」
「なるほど。今の話は、宰相から?」
「彼から聞いた話と、私がパンゲアを旅していた時に聞いた話と、半々ですね」
「博識であられる、そう感じました」
「幼少時はリチャードの子であることすら知らされず、よくいる下町の小さな娘でした。以後は旅暮らしで、ゆっくりと書に親しむような時間もなかったのです。聞きかじった話ばかりで、本当はこの地位にいられるような、知識も教養もありません」
「共に、持っておられるように感じます。どんな経緯でも多くを学ばれ、今なおそれを続けています。ジル殿のような御方が総督で、この地は良かったのだと思いますな」
 急に持ち上げられ、ジルはしばし、何と返したらよいかわからなかった。媚びた様子もなくジルをそう評してくれたことが、情けないくらいに嬉しい。まったく、人に惚れてしまうというのは、あらためて厄介なことである。今だけは、張り付いた怒りの面が、この胸の内を隠してくれていることを願う。
 恋に理由ないと聞いた。ジルはこの歳にして初めての恋に、戸惑わずにはいられない。人をそのような形で好きになることはないと思っていただけに、いくらか悔しさに似た思いもある。
「あまり、おだてられませぬよう。私が総督をやっている間は、両国に取って良い形になれるよう、尽力します。ただその私も、いつまでもここにいるわけではないのです」
「別の地に、赴任を?」
「いえ、腹違いの姉妹にあって、特に私を気遣ってくれたエドナ元帥に対する義理立てで、ここにいるだけです。特に目的があるわけでもないのですが、いずれまた旅の空にと。ここは私にとって、平和に過ぎます」
「血を求めているようにも、見えませんが」
「単に、変化を求めているのかもしれませんね。初めて見る土地や、未知の怪物、食べたことのないものや、今まで知らなかった自分。何でもいいのです。ただ、そろそろそういった刺激も欲しくなってきました」
 本当はそんな前向きな気持ちではなく、いつも何かから逃げるように旅をしてきた。しかしここに来て、やはりジルは変わったのだろう。旅暮らしは懐かしく、そして今なら当時よりもずっと前を向いた心で、そうしたものたちと向かい合えるような気がしているのだ。
 いや、一つだけ、逃げ出したいと思うものがあったか。
 バルタザールへの想いは、今のジルには手に余る。彼と結ばれることが難しいなら、その存在を忘れるくらい、遠くに行きたかった。このパンゲアのどこかにまたジルの好きになれる人間がいて、想いを打ち明けるのになんの障害もない出会いが、待っているのかもしれないのだ。少なくとも今は、こんな自分でも人を好きになれることを知った。
「もうしばらくは、ここにいます。半年か、一年か、長くとも二年は、ここにいないだろうと。ここでの仕事を終えた。そう感じたら、戦とは無縁の地を流れ歩くつもりです。けれど私のことです、戦以外で、血を見ずにはいられない旅路になると思います」
 こんなことは話すべきではなかったかもしれないが、話してしまった。ここにずっと総督として、バルタザールを支配する人間として留まるつもりはない。そんなことを、伝えたかったのかもしれない。
「ずっと旅を続けるのか、どこかで誰かと家族を持ち、その地に根を下ろすのか。あるいは真の主を見つけ、その者の剣となるのか。今の私には、わからない。バルタザール殿とも、そういう形で出会えていたらと思ってしまいます。ゲオルクとアーラインが、少し羨ましくもあります。まさにそういう形で、あなたと出会った」
「総督にそこまで高く買って頂いていたとは、私としても望外の喜びです。翼を休めたくなったら、またこの地へとお寄り下さい。私も、ジル総督とは、一人の剣士として出会いたかったと、そう思います」
 冷めてしまった茶を、一気に飲み干す。思わず、笑みが零れてしまった。
「すみません、こんな話に付き合わせてしまって。けれどバルタザール殿とこんな話が出来て、嬉しいと感じる自分もいるのです。初めはここで、こんなお飾りで重責を担ってしまったことを、後悔もしていました。けれど今は、この土地で今まで触れられなかった様々なものを経験できて、良かったと思っています。あとどれだけになるかはわかりませんが、あらためて、今後ともよろしくお願いします」
 バルタザールが、僅かに口角を上げる。笑っているのかもしれなかった。
 ジルが席を立つと、バルタザールもそれに続く。杖を握るバルタザールの背中を、軽く支えた。今からでもいい、この男を主とし、剣を捧げる生き方ができないものか。しかしレヌブランの敵は目下のところ東隣のアヴァランのみであり、かの要害に囲まれた領地が相手では、戦らしい戦にならないことは、先日の戦でわかっている。
 いや、実のところジルはあのアヴァランを落とす方法に、目星がついていないわけではない。が、自分はレヌブランの将軍ではないし、本国アングルランドにアヴァラン攻略を具申したところで、今は他の戦線の攻防で手一杯だろう。アヴァランを落としたら落としたで、今後はそこの維持も課題になる。レヌブランが独立した王国で、ジルがここの将軍であれば、一も二もなく献策しているところなのだが。
 今のジルがやれることは、日々の政だけである。だからこそ戦の経験のなかったジルが、王の子というだけで、ここに配されたのだろう。
 部屋を出たバルタザールが、供の控える総督府の玄関口に歩いていく。今触れたあの男の背中のぬくもりが、まだ手の平に残っていた。温かく、そして力強い背中だった。腰が曲がる程の重症を受けてなお、やはり彼は鍛錬を続けているのだろうか。
 それが領主としての矜持なのか、あるいは今一度剣を持って戦場に立ちたいという思いなのか、ジルには判断がつかなかった。ただあの男なりに、今も何かと戦っているということはわかった。穏やかな佇まいと裏腹に、その肉体には気が漲っていたのだ。
 バルタザールに触れた手を、ジルはしばらく眺めていた。
 拳を握ると、そこにまだ彼の熱が残っているような気がした。

 

 午前の調練を終え、自室で具足を脱ごうとしていた時だった。
 ボリスラーフ率いる旧霹靂団の兵百名が、兵舎の前に現れたという知らせを受け、アナスタシアはそのままの格好で外へ飛び出した。
「ああ、姫、あの時と変わりませんなあ」
「季節を二つ、跨いだだけだ。だからお前も、変わってない」
 白い髭のボリスラーフが馬を下り、こちらに向き直る。どちらともなく、二人は甲冑を着たまま抱擁した。無駄な言葉はいらない。それだけで、互いの空白は埋められた。
 元副官の後ろに控える、百名の兵士たち。あの戦で、生き残った者たちだった。一人一人と手を握り合い、あるいは抱き締め合った。生きている。一人一人が、生きていた。
 兵舎の前には、いつの間にか人だかりができていた。食堂や廊下の窓からも、こちらを見つめている人間は多い。事前に、近々旧霹靂団の面々が合流することは、伝えてある。これがあの霹靂団の生き残りかと、好奇の、あるいは畏怖の目が彼らに注がれていた。隊列を組んだ兵の後ろの方では早速、新霹靂団の者たちが彼らに声を掛けていた。
「この者たちが、かつて私の率いていた、霹靂団の生き残りだ。死地をくぐり抜けて来ただけに、どいつも頼りがいがある。みんな、仲良くしてやってくれよ」
 その言葉が終わると同時に、新霹靂団の面々が押し寄せてくる。早速打ち解けそうな気配で、胸を撫で下ろしたいところだった。
 かつて二千を擁していた霹靂団の、わずかな生き残り。それだけアナスタシアは味方を殺してしまったことになるし、生き残りたる彼らが不吉の象徴として忌避されるかもしれないと、そんな心配もしていたのだ。それに、パリシ解放の英雄としてアナスタシアを見ていた者たちが、自分をそう見ることも、多少は心配していた。自尊心の話ではなく、単純に兵の士気に関わる。が、そもそもアナスタシアをそう見た者たちは、ここに集まらなかったということか。
「見たところ兵の年齢はまちまちですが、団としての若さを感じますな」
 老ボリスラーフが、目を細めて言う。
「以前の霹靂団のように、完成された傭兵団ではない。鍛え上げる時には、気をつけてくれよ。槍を持つのが、初めてという者もいるのだ」
「なんの、新兵の調練であれば、姫よりも経験しているつもりです」
「そうだな。そもそも調練のやり方一つにしても、お前から教わったものがほとんどだった」
 挨拶らしい挨拶も交わさず、二人はもう、調練のやり方について話し合っていた。既に、かつての団長と副官に戻っている。剣が鞘に収まるような、何かそうあるべくしてあるような、据わりの良さがあった。
「ああ、あれはあの時の旗ですな」
 兵舎の入り口に掲げられた三角旗を見て、ボリスラーフの目が遠くなる。
「あれは、ずっとここに掲げておこうと思う。ぼろぼろなので、戦場に連れて行くのもな」
「生き残った旗ですからな。なのでいずれまた、戦場に伴いたいと思うこともあるかもしれませんぞ」
「言われてみれば。私の麾下は、あの旗で良いかもしれないな。縁起がいいとも、言えるわけだ。おお、アニータ、こっちへ来い」
 人だかりをかき分けてやってきたアニータだったが、緊張しているのか、いつもよりしおらしい表情をしている。
「あ、あの、アニータです、初めまして。副官をやらせて頂いていましたが、この階級、早速ボリスラーフさんにお譲りしたく・・・」
「何を言っている。二人とも、私の副官とする。ボリスラーフ、これが今の副官のアニータだ」
「まだ若い娘が副官についているとは、聞いていた。よろしくな、アニータ。我々はまだこの地に疎い。おまけにこの傭兵団では新参者だ。教わることも多いだろう」
 差し出された手を両手で握りながら、アニータはひどく恐縮した様子を隠そうともしなかった。
「あわわわっ。ここ、こちらこそ、その、色々教えて下さいっ」
 手を握ったまま何度も頭を下げるアニータを見て、これで同格の副官としてやっていけるのかと、多少心配にもなる。もっともボリスラーフは軍歴だけで、アニータの人生の何倍もの時を生きている。アニータにも素質はあるが、経験も実力も見た目以上の大人と子供である。この態度も、当分は致し方ないか。
「調練に関しては、ほとんどボリスラーフに任せようと思う。アニータ、お前の副官としての役割は、今まで通り、この傭兵団運用の補佐だ」
「あ、そうなんですか。ちょっと、ほっとしました。ボリスラーフさんを顎で使う立場なんて、私には想像もできませんでしたから」
「顎で使うつもりだったのか。まったく、お前は臆病なのか恐れ知らずなのか、いまだによくわからないところがあるな」
 二人のやりとりに、ボリスラーフが笑う。その声だけで、何人かが振り返った。長身の副官はそれでも巨体と言える程の体躯をしているわけではないが、体重は100kgを超え、おまけにそのほとんどが筋肉である。いつも近くにいたのでアナスタシアは慣れてしまっていたが、ボリスラーフはその穏やかな佇まいに反して、相当な圧力を感じさせる男だった。笑い声一つでも、迫力がある。
 歳は、今年で六十四だったか。顔にも肌にも老境のそれを感じさせるものの、身体の中身は三十代の脂の乗り切った兵と、そう変わらない。屈強な大剣の使い手であり、今いる指揮官の中でも彼と互角に剣を交わせるのは、エルフのアリアンがようやくといったところか。アリアンはまだ指揮官としての経験が浅いことを考えると、戦場でまみえれば現状、勝つのはこの老副官である。
 右腕を取り戻したと、アナスタシアは感じていた。彼の後継だったグリゴーリィ、ニーカがこの場にいないことは悔やまれるが、新たな指揮官は、またこの男と見つけていけばいい。無論、二人が帰ってくることがあれば話は別だが、いまだにその生死すらわからないのだ。
「一人ずつ、団員として登録することになる。全員となると時間がかかるので、待っている間に適当に中を見て回ってくれ。荷物はとりあえず、食堂の隅にでも置いておいてもらおうか。あと、その食堂と浴場は、好きに使っていい。まずはボリスラーフとあと数人、私について来てくれ」
 残った霹靂団の者たちを、アニータが食堂の方へ連れて行った。
「ふむ、聞くところによると準備期間は二、三か月といったところでしょう? ここまでの施設を作り上げるとは」
 道すがら感心した様子で、ボリスラーフは何度も頷いていた。
「ゲクラン殿の助力あってこそだ。スターリィツァにあった、しっかりとした事務所はないが、代わりに、兵の食と住に関しては、それなりにいいものになっていると思う。が、指揮官クラスの部屋は、まだ寝台と衣装棚、小さな机しかない。大部屋を、そのまま小さくした感じだ。必要なものは、各自で揃えてくれ」
 わずか数人でも、旧霹靂団の者たちは、新兵たちにそれなりの威圧感があるようだ。こちらが道を譲る前に、通りすがりの何人かは、進んで廊下の端に退き、物珍しそうに背後の者たちを見つめていた。屈強で、身体の大きい者たちが多い。そもそもスラヴァル人たちはこちらのユーロ北部の人間に比べて平均的な身長は低いはずだが、旧霹靂団の者たちはスラヴァルたちの中でも大柄な者が多く、具足越しでもわかるくらい、筋肉の質量が多い者がほとんどだ。
 中には背が低い、あるいは小娘といった風の者も何人かいるが、むしろそういう者たちの方が、えも言われぬ威圧感を放っているかもしれない。大男たちに混ざってなお激しい調練についていける者たちは、並外れた運動神経や頑健さを備えている。武に、明らかな天稟がある者も少なくない。そういった者たちが放つ気のようなものは、身体の大きさから感じるそれよりも、ずっと強い圧になって周囲に伝わってしまうものだ。
 団員登録と面接を、一緒に済ませる。既に実力についてはわかっている者たちばかりなので、体力を測る必要はない。駆けられないような者たちは、スラヴァルに留まったのだ。面接も、あの敗戦後にどうしていたかを、軽く聞いた程度だ。
 全員のそれは、思ったより短時間に片付けることができた。やや日が弱くなってきたので、そろそろ風呂に入り、蜜蜂亭に行く準備を始めた方が良いだろう。
 入浴後、部屋で髪が乾くのを待っていると、ボリスラーフが訪ねて来た。
「言い忘れていましたが、今日ここに来た者で、全員ではありません。フリスチーナが何人か、連れてくる予定です」
「おや、あいつが、輜重隊を引き継ぐ形なのかな。そういえば、彼はどうした、叛乱の濡れ衣で、捕まるようなことはなかったと聞くが」
 あの戦では、兵站はスラヴァル軍が担っていたので、霹靂団の輜重隊は、スターリィツァに待機していた。
「病を得ましてな。医者の話では、長くないと。あるいは今頃は、天に召されているかもしれません。父を看取った後、身辺整理をしてからこちらに合流すると、フリスチーナは言っていました」
「そうか。彼には私からも祈りを捧げておこう。私の父の代から、よく仕えてくれた。戦場の死に慣れていても、こういう話は胸を締め付けるな」
「フリスチーナも、その父と変わらず、兵站を任せることができるはずです。既にこちらに担当者がいれば、補佐に使ってもいいかと」
「いや、まだ平時ということもあって、日々の補給に関しては、私とアニータでやっている。戦場に出るとなると、専門の者を今の兵から探さなくてはならないと思っていたところだ。正直、やはり旗揚げとなると雑事が多過ぎてな。調練をお前に任せられれば、アニータの負担を減らしてやれる。フリスチーナが来れば、兵站は元より、普段の物資調達も彼女に任せられるようになるだろう」
 兵站部隊長である父の娘、そしてある時からはその補佐として、フリスチーナのことは互いに幼い頃から知っている。ただ兵站部隊の副官とはならず戦場に出たこともないので、戦地でどれだけの能力を発揮できるのかは、未知数でもあった。武に才能があるわけではなく、物資の集積、運搬の手配、つまり兵站線の構築の方に才を発揮していた。要は、兵ではない。補給線が機能し始めるまでが彼女の仕事で、いずれは商売を始めたいとも言っていた。なのでアナスタシアは、仕事上の付き合いがあっても、霹靂団の人間としては見て来なかったし、フリスチーナもそのつもりだったはずだ。市井で、穏やかな人生を送ってほしいとも思っていた。その彼女が兵站部隊を率いてここにやってくるというのは何か、心境の変化があったということなのだろう。
「さてと、私の今日の仕事は、ここまでだ。私が夕方から蜜蜂亭という酒場で働いていることは、もう聞いか?」
「先程、ここにいる者たちから。にしても姫、本当に店を開くおつもりのようですなあ」
「辞めた後のことは、考えておいた方がいい。団の運営に余裕が出てきたら、希望する兵たちに、読み書きでも教えていこうと思う。それができるだけで、次の仕事の幅は、随分と広がる」
「この歳まで戦塵にまみれてきた身としては、耳の痛い話です」
「お前程、傭兵団の運営に知悉している人間は、そうはいない。お前が戦えない程の傷を負ったら、ここの運営を丸投げするぞ。その意味では、生涯傭兵団の一員なのかもしれないな」
「本当に、そうなりそうです。この生き方以外を知らずにやってきましたが、戦えなくなったらなったで、忙しい毎日を送れそうですな」
「その歳までそうやって鍛え抜かれた身体を維持しているお前だ。老いでその位置につくことはないような気すらしてくる」
「どうでしょうか。さすがに、傷の治り等は若い頃とは比べるべくもない。一度大きな傷を負ったら、再び戦場に立つことはないでしょうな」
「負傷せずに、その仕事に移ってもらうのが、一番だとも思う。老いぼれる前にお前を倒せる者は、そうそういないだろうが」
「ハッハッ。なに、当分は若い連中の壁で居続けるつもりです」
 本当に、外見以外にまるで老いの兆候が現れない男である。見た目の衰えはアナスタシアが子供の頃から始まっていたので、自分が今の歳の頃にはとっくに引退しているものだと思っていた。が、強さはあの頃のままなのである。むしろ老獪さが増した分、戦場では一層頼りになっている。
「着替えて化粧をしたら、もう出るよ。お前たちも、まずは長旅の疲れを癒してくれ。他の者の所属や階級等は、明日の朝にでも割り振る」
「わかりました。今晩は、ここの連中に挨拶でもして回ります」
「ここの食堂になってしまうが、近々歓迎の宴を開く。伝えておいてくれ」
 ボリスラーフが出て行くと、不意に肩の力が抜け、言い様もない疲労感が押し寄せてきた。何だかんだと、ここまでは相当に無理を重ねていたらしい。アナスタシアの幼少時から頼りにしてきた存在が再び力を貸してくれるわけで、今後の負担は大幅に減るだろう。少なくとも軍事、平時では調練や兵同士の人間関係などは、今すぐ彼に全て任せてもいいくらいだ。
 団長付きの副官は常に周囲に目を配っており、父の代からそれを続けているボリスラーフの仕事に遺漏がないことは、よくわかっている。
 化粧を終え、アナスタシアは部屋を出た。
 先程の疲労感がなんだったのかと思うくらいに、今は足取りが軽い。

 

 

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