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4,「虐げられてきた者が、なおも虐げてきた者に殺される」


 その晩の蜜蜂亭には、珍しい来客があった。
 アニータと、ドニーズである。気を遣ったのか、夕方の一番忙しい時間を避けて、二人はやってきた。夜の八時半くらいだったか。その時間ともなると、食事よりも酒と、出ても少量のつまみくらいしか注文が入らないので、アナスタシアもジジも、多少暇を持て余すことがある。
「ん、こうかな。うっふん」
「セクシーってよりも、なんか強そうに見えるんだよねえ。あははははっ」
 既に出来上がっているドニーズは、終始上機嫌である。
 事の始まりは、今日のアナスタシアが身に着けている黒い下着だった。先日包囲下のパリシで買わされたひどく蠱惑的なそれが、白いブラウス越しにはっきりと透けて見えていたのである。色のみでなく、過度に装飾的なものであることは、誰の目にも明らかであったらしい。ジジがそのことを二人に話し、今はその下着に似合うであろう格好を、アナスタシアはやらされている。
「視線こっち頂戴。そうそう。ああ、ウィンクしてもいいかも」
「こうですかね。あっはん」
 ドニーズはもちろん、ジジもアニータも、腹を抱えて笑っている。他の客の視線も感じた。ロズモンドがカウンターの奥からじっとこちらを見つめているが、いつものような強面でもなく、むしろ表情を殺しているようにも見える。内心、笑っているのかもしれなかった。
「これだけサービスしたんです。何か追加で注文してくれるとありがたい」
「んじゃ、ビールと、ハニーローストピーナッツ、もう一皿。これ癖になるわあ。城のみんなにも食べてもらいたいから、いくらか包んでもらってもいい?」
「ええ、いくらでも。三皿分くらい、包みましょうか」
「あ、私は、コーヒーもう一杯お願いします」
 アニータも言う。売り上げに貢献できたのなら、この展開も良しとしようと、アナスタシアは思った。おそらく、チップも弾んでくれるだろう。
「にしてもアナスタシア、なんで今日はそんな下着着て来たわけ?」
 二人と一緒に席に座っているジジが訊く。
「高い金を出して買ったはいいが、着る機会がなくてな。こんなフリルだらけの下着を調練で着けていたら、一日で駄目にしてしまいそうだし。こんなに透けるとわかっていたら、ここにも着て来なかったんだが。ブラだけじゃなく下もそうなんだが、これはさすがに透けないな」
 ここでのアナスタシアの格好は、白のブラウスに黒か紺のスカートが基本である。タイツは、茶色か黒。同じようなものを何着か例の古着屋で見繕っており、よく変わるのは厨房に入る時は頭に巻ける、スカーフ代わりのバンダナの、色合いくらいなものか。
 一応蜜蜂亭に来る前に試着はしてみたのだが、光の加減もあったのか、その時はブラウス越しにほとんど透けて見えず、せいぜい黒い下着を着けていることが分かる程度だろうと思っていたが、夕方の忙しい時間に汗をかいたのも手伝ってか、今では想定以上に透けて見えてしまったわけだ。
「私の色気に対抗してきたのかと思ったわよう」
 胸元を少し下げながら、ジジが笑う。ジジは元々、胸の大きく開いた、いかにも酒場の娘らしい格好をしている。
「今日の下着はともかく、今でもこの格好は少し恥ずかしいと思うこともあるんだぞ」
「え、どうして? ほぼ露出ゼロじゃん」
「人から見ると、あまり気にならないのかな。ほら、ここが出てるというか、この格好だと、形がはっきりわかるだろう」
 アナスタシアが足の方を指差すと、三人が身を乗り出してそこを見る。
「足? 特に変だと思わないけど」
「足首が、太い。これは子供の頃から、ずっと気にしていることなんだよ」
 頻繁に浴場で顔を合わせるアニータは、わかっているといった感じで頷いている。
「ああ、言われてみれば。ちょっと触らせて。うわ、ホントだ。すごいがっしりしてる。けど言われるまで気にならなかったけど、なんでだろ」
「それを目立たなくする為にふくらはぎを太くしたり、普段はズボンを履いている。スカートの時は、ブーツだとかな」
「ええ、そんな気にするようなものでもないと思うけど。まあ、本人が気にしてるなら、そういうもんか」
「なのでジジが膝丈のスカートを選んでくれた時は、ちょっと構えたよ。ただ言われなきゃ気づかない程度だったら、言うんじゃなかったな。今でも客の視線が足元に来ると、ちょっと足を引きたくなる時がある」
「あら、そうとは知らず、悪かったわねえ。私みたいな、丈長めのスカートにする?」
「いや、それでも足首は見えてる。それにもうこの格好に慣れてしまったから、これでいいよ。せっかく私に似合いそうだと選んでもらったものだしな。選んでもらったこと自体は、嬉しかったんだ」
 話に一段落ついたので、客に追加の注文を聞いて回る。つまみを一品、葡萄酒と蜂蜜酒のお代わりが一杯ずつ。まだ閉店まで時間はあるが、おそらくこれが今晩最後の注文だろう。加えてドニーズの席の注文を告げた後、厨房のロズモンドにアナスタシアの下着について尋ねてみた。
「すみません、ロズモンド殿も、これが気になりましたか」
「今日はえらく派手な下着を着けてるな、と思っただけだ。ちゃんと仕事をすれば、別にどんな格好で働いてもいい。お前が働きやすい格好で働け」
「そう言ってもらえると助かります。以後、気をつけます」
「いや、本当に気にしなくていい。食いもんを扱う店だ。清潔感さえあれば、本当に何でもいいんだ。俺のこの格好も、大分薄汚れてきたからな。替えもこんな感じだし、そろそろ新しいものを見繕おうとしていたところだ。去年の夏なんか、あまりに暑いってんで、ジジなんか上半身裸に近い格好で仕事をしていたぞ」
「裸に近い?」
「上は水着の・・・ビキニって奴だったか。下もえらく丈の短いスカートを履いてな。昼だけだったがな、まあ客からは好評だったらしい。そもそもここは常連が多いし、お前の名を聞いて足を運んだ連中でも、残ったのは味の分かる連中ばかりだ。俺の味への探求という趣味の側面もあるが、他じゃ出さない珍しい献立を出すのは、常連を飽きさせないって部分が大きいんだ。お前たちなりに客を飽きさせない工夫をしようってんなら、俺はそれを止めないよ」
 今回はアナスタシアの失態だったが、基本的に客を飽きさせない為に服装を変えたりするのは、問題ないということだろう。
 元々口数の少ないロズモンドなのであまりこういった話はしてこなかったが、アナスタシアの惚れ込んだ料理人の、別の側面を見たような気がした。定番の料理にはソースの掛け方ひとつでも変えようとしない頑固さがある一方、いやその反動なのか、他のことに関しては結構柔軟なところがあるのかもしれない。
 空いた卓の蝋燭を取り替え、そろそろ客に見えない場所の掃除でも始めようかと思っていた頃、一組の団体客が店の扉を開けた。四人の屈強そうな供回りと共に姿を現したのは、レザーニュ伯夫人、フローレンスである。
「ああ、お会いしとうございました、アナスタシア様。お店、まだやってます?」
「そろそろラストオーダーでしたが、大丈夫ですよ。ご注文をうかがいましょう」
「それと城代のドニーズ様も、ここにいらっしゃっていると聞きまして」
「そこに、いらっしゃいます。ドニーズ殿、こちらレザーニュ伯夫人、フローレンス殿です」
 既に相当酔いが回っているドニーズだが、それでも松葉杖に手を伸ばし、席を立とうとする。
「ああ、お話は聞いております。どうか、そのままで。レザーニュ伯の代理としてご挨拶に伺いました。フローレンスと申します」
「こ、これはこれは。着座のまま失礼致します。パスカル・ド・カトリエマが娘、ノルマラン新城代を拝命しました、ドニーズです。わざわざのお越し、ありがとうございます。先日は、新城代就任のご挨拶まで頂いて」
「夫が多忙なので、あらためて私がここに。以後、よろしくお願いしますね」
 多忙、の時だけそれとなくこちらに視線を向けたフローレンスだが、あの伯が多忙というのは考えづらく、要するにそういったことを口実に、フローレンスも好きなように動けているといったところか。
 実際、新生霹靂団旗揚げの資金の三分の一はフローレンス、つまりレザーニュから出ているわけであり、その予算を組めるという時点で、彼女がレザーニュの議会の、実質的な支配者であると言って差し支えあるまい。議会とは予算を決める場であり、以前ゲクランのいる席ですぐに新生霹靂団の株を買うと言える辺りで、議会を充分掌握していることは想像できた。
「卓、隣りのものとお繋げいたしましょうか、マダム?」
 フローレンスとドニーズという二人の貴族を相手にしても、ジジにはまったく臆するところがない。振り返っても、今晩ドニーズとは初対面だったのに、既に旧知の友人の様に、互いは接していた。二人は同い年でもある。気取らないドニーズと、人に臆するところがないジジで、馬が合ったというところか。
「すみません、ではよろしくお願いします。それとここには一人の客として、そして差し支えなければ友人の輪に加えて頂きたいと思って来ました。あなたが、ジジさんですね。どうか私のことは、フローレンスとお呼び下さい」
 気に入った相手には、どんどん距離を詰めていくフローレンスである。ジジはいくらか面食らったようだが、ドニーズの方を見た後、観念したようにフローレンスに手を差し出した。これは、さすがのジジでも他領の領主の夫人となれば、多少腰が引けていたということか。
「フローレンス様とお呼びしますが、多少丁寧な言葉遣いを除けば、特段の遠慮はなしで。こちらこそよろしくお願いします、フローレンス様。蜜蜂亭のジジです。ところで」
 ジジはフローレンスの手を握ったまま、悪戯っぽく笑いかける。
「ウチは蜜蜂亭の名の通り、蜂蜜を使った料理が多いんですよ。飲み物も、実家の養蜂場から仕入れている蜂蜜酒は絶品です」
「まあ、ではそれを頂きます」
「ちょっと寒くなって来たんで、お湯割にしましょうかね。温まりますよ。つまみは特に希望がなければ、今回だけはサービスで、適当にご用意致しますが。今後のご愛顧に期待して」
「それでは、お言葉に甘えさせて頂きます。この者たちにも、同様に」
 供回りの騎士たちにも笑顔を振りまき、ジジは厨房へ入っていった。この辺りの如才なさは、アナスタシアの遠く及ぶところではない。さりげなく、それでいて相手に心地いいと思わせながらも主導権を握るやりとりは、実に参考になる。あそこまで愛想良くできる自信はないが、それでもアナスタシアは、自分に合ったやり方でああいった振る舞いを身に着けたいものだと、あらためて思う。
 ジジに代わり、なんとなく今度はアナスタシアがそこに同席することになった。よく考えるとアニータとドニーズが来店して以降、ジジはここでまかないを食べ、そのまま居座っていたわけだから、しばらくアナスタシアがここにいてもいいだろう。
「このような時間に、どうされました」
「あちらの仕事を済ませてから、急いでここへ。明日の朝でも良かったのですが、アナスタシア様がここで働いておられる御姿を、どうしても一度拝見したく」
「レザーニュ城からここまでは、馬を飛ばせば二時間かからないくらいですか。他に、供回りの者は」
「五十人程。武装した者がいきなり入城しては物々しくなってしまうと思い、橋の前で待機させています。城代の許可を得ようと門兵に尋ねましたら、城に使いを出して頂き、ここにいらっしゃると。それで、私たちだけで失礼させて頂きました」
 城代と言われて、ドニーズが必死に背筋を伸ばそうとする。
「ああ、そんなことがあったのですか、すみません。すぐにそちらの兵の皆様方にも休んで頂ける場所を提供しますので。城の兵舎に、大部屋になってしまいますが、五十人くらいだったらいつでも仕える部屋があります」
 かなり酔っているドニーズだが、真っ赤な顔をしながらも、なんとか城代としての役割を果たそうとしていた。入城許可と、本城の兵への通達だろう、携帯していた紙の束に何かを炭で書き付け、供回りの一人に渡す。それを持って、兵は外へ出た。橋はここの窓際の席からでも見えるくらいに近いので、あの兵もすぐに戻ってくることだろう。
「アニータさん、今晩はコーヒーなんですね。お酒は、ここ新ゲクラン領でも十二歳からと伺っておりますが」
「いや、お酒はまだ私の舌には早いみたいです。十四歳、もうすぐ十五ですけど、まだまだ。いつか、おいしく感じるようになるんでしょうか」
「ふふ。それまでは無理に飲むようなものではありませんよ」
 フローレンスもまた、ジジとは違った角度で、いるだけで場を支配する女である。奥ゆかしい佇まいと言葉遣いとは裏腹に、周囲にいる者たちを惹き付け、あるいは自分から距離を詰め、結果として場の中心に収まっている。先日のパリシ解放戦でも、逃走した夫に代わってすぐに軍を掌握したというのも、頷ける。あの時点でまったくと言っていいほど軍事経験はなかったわけだが、将としての資質は持ち合わせていた。
 切り揃えた前髪に軽く手をやりながら、他の者の話にも微笑をたたえて耳を傾ける。あの一戦から少年の様に髪を短くしているが、アナスタシアはそれ以前の、長く豊かな髪の彼女を、一度くらい見ておきたかったという気がした。よく見ると、実は結構な器量良しという気がする。佇まいには間違いなく、凛とした、それでいて儚気な美しさをたたえていた。
 ジジが、フローレンスたちに蜂蜜酒を振る舞う。つまみは肉の切れ端とじゃがいもを適当に炒めた感じのもので、余り物の寄せ集めだが、美味そうである。アナスタシアの小皿と紅茶も置かれたので、後はジジが店のことをやるのだろう。そういえば、まだアナスタシアは、今晩のまかないを食べていないことに気がついた。
「アナスタシア様、ドニーズ様両名が相席されているので、丁度良かった。実はお二人に、相談に乗って頂きたいことがありまして」
「何でしょう。私はフローレンス殿が雇い主の一人でもあるので、無茶な話でなければ。ドニーズ殿は」
「私も父から、レザーニュとは良好な関係を築けと仰せつかっております。フローレンス様、まずはお話を」
「はい。実は私、軍の編成を大幅に変えているところなんです」
 予算のみならず軍制まで手を着けられるというのなら、フローレンスは実質的にという話でなく、もはや完全にレザーニュの支配者といっていい。アナスタシアが想像するよりはるかに、この二、三ヶ月で彼女は力をつけていたようだ。
 そのフローレンスは蜂蜜酒に口をつけ、カウンターからこちらを見ていたジジに、にこりと微笑む。こういったことをごく自然にこなせる辺りが、彼女の力の源泉といっていい。
「意地の悪い言い方になってしまいますが、要はジェルマン伯爵の息のかかった者を、遠ざけることができたと?」
「さすが、アナスタシア様。恥ずかしながら、概ねその通りで。ただ私を支持してくれる者たちというより、レザーニュ領全体を考えてくれる家臣を中心に、編成を進めています。派閥を、できれば作りたくはないので。ここ一ヶ月で、上級騎士以上の全ての者と面談を済ませました。そこから選んだ、忠義厚い臣たちです。先を見据え、経験や功績よりも、能力を中心に選びました。ただそれゆえに、ひとつ問題が」
「軍事に疎い者が少なくない、あるいは身分が低かったので、大部隊の指揮に慣れていない、そんなところですかな。いや、先回りばかりで申し訳ない」
「その通りです。そこでアナスタシア様に、基本的なところから指南して頂きたく」
 雇い主なので当然断る理由もないのだが、多少雑事が増えるとはいえ、彼女には個人的に協力してやりたい気持ちはある。
「構いませんよ。どの辺りから始めます? それと、どの程度の人数なのでしょう」
「本当に、基本的なところから。例えば私が素人なので、こんな疑問が浮かぶのです。歩兵の多くが槍を支給されますが、レザーニュの財力ならばそれを戟に変えることができます。それでも、槍にすべきか。このような疑問でも、今の幕僚の中から出てくる答えも理由も、まちまちなのです。これに関して、アナスタシア様のお考えは」
「槍は、安いからというのが一番の理由でしょうね。が、扱いにあまり訓練を要しないという点、戦列を組んだ兵がただ突きを繰り出すだけで良いという利点があります。戟も槍も、敵歩兵のみならず騎兵にも対抗できるという強みは同じですが、戟には単価が高いことに加えて、兵に相応の技量が必要です。棹の先にかかる刃の重さ以上に、薙ぐ、ひっかける等、様々な動きを可能としています。兵の練度が低ければ、隣りの兵と戟が絡まったり、二列目の兵が前列の兵を傷つけることもあるでしょう。以上の理由から、徴兵された練度の低い兵には、槍を支給するのが理にかなっています」
 手を合わせたフローレンスが、目を輝かせる。アニータ、ドニーズにも同意を求めるかのように視線をやる。二人とも、そうですね、と言わんばかりの頷き方だ。軍務経験者なら、あえて言葉にすることもない常識であった。
「主だった指揮官や、輜重隊の担当者に、そういったお話を聞かせて頂きたく。皆優秀であるがゆえに私に対する質問も絶えないのですが、やはり私では明確な理由をつけて説明できないことも多くて」
「物資を集める者が、軍事に優れているわけではないというわけですな。私などは軍を率いて長いので盲点でしたが、確かに、商才と軍事、両方に長けている者は、少ないかもしれません。何故その武器が、あるいは兵の規模に対してこれくらい、というお話でしたら、私ができると思います」
「是非。それと、これもお二人に差し支えなければ、兵の合同演習なども。レザーニュの兵が弱兵と笑われていることは、承知しております。霹靂団、そしてゲクラン軍との共同作戦を前に、少しでも兵を鍛えておきたいのです」
 そちらは、大仕事となる。無論、レザーニュがゲクランとの共闘を続けていくというのなら、レザーニュの軍に強くなってもらう必要はある。
「私は、問題ありません。しかし、兵をここに入れるとなると」
 ドニーズに、先を促す。新城代の難しい顔は、事態の問題性よりも、酔いが回って働かない頭を、懸命に動かそうとしているがゆえだろう。
「ここまでの話、私としては、了解です。幕僚を連れてのアナスタシアの講義までは、まず問題ないと思います。一応、父に相談はしてみますけど。合同演習は、千単位の兵がぶつかり合うわけですよね。それなら、そこのマロン川が互いの領土の境界線です。川向こうの原野でやる分には、私も父も文句は言えませんので。川向こうにレザーニュ兵が集結しても、事前の通告があれば、ノルマランへの侵略の意図なしと、住民に布告を出せます。そのような手続きがあれば、私だけでも充分対処できますし、むしろ歓迎します。より友好的な関係の構築に、期待できそうですしね」
「まあ。話が早くて助かります。レザーニュは、新ゲクラン領とのより友好的な関係をお約束します。パスカル様にも、そうお伝え下さい。ドニーズ様、ありがとうございます」
 フローレンスが、頭を下げる。ドニーズは恐縮しきった様子でその顔を上げさせた。一城代と伯爵夫人、それも実権を持ったそれでは、格も、力も違い過ぎる。が、自分よりも下の人間にも自然と頭を下げられるフローレンスは、やはりちょっとお目にかかれないような諸侯である。唯一の弱点である軍事面に関しても、こうして自分で動き、かつ周りにも頼れるだけの行動力と、懐の深さがある。
「あら、戻って来たわね。蜂蜜酒、もう冷めちゃったかしら。身体が温まるわよ。ああ、それは私が頂くから、新しいの注文するわね。ジジさん、蜂蜜酒、もう一杯頂けます?」
 戻って来た供回り一人にも配慮するフローレンスは、やはり只者ではない。はっとする程繊細だが、同時に周囲を飲み込んでいく図太さもある。
 初見、あの軍議の場でちょっと他とは違っているものを持っているような気がして、フローレンスを激励した。あの日から彼女は変わったような話も聞くが、元々こういう人間なのだろう。敵国アングルランドから嫁ぎ、子を成せないことでも虐げられてもきた。にも関わらず自己憐憫に陥らず、少しずつ、その力を蓄え、周囲に広げてきた。たおやかな態度がそう見せないだけで、実際はとてつもない負けず嫌いなのかもしれない。
 人格はどうあれ、フローレンスが傑物だということは、充分見せてもらった。
 これはこちらも気を入れて向き合わなければならないなと、アナスタシアは思った。

 

 そろそろか、という感覚は、どこか戦場で働く勘にも似ていた。
 星の瞬きが篝火に負けてしまう程弱く、月が寂し気に見える晩である。
 ウォーレスはあの夜と同じように、野営地の外に出た。やはり、呼ばれていたか。柵の外の大木の根元に、異形の忍びの影が佇んでいた。
 黒い外套のせいで余計にそう見える、病的に白い肌。ぎょろりとした人間離れした目。まとう死の陰は濃いが、どこかに愛嬌もある。ハイランド公ティアの、いや正確には彼女の同盟者の忍び、ビスキュイだった。
「今晩もまた、ハイランド公はあの店に」
「はいぃ。お待ちしておりまずぅ」
 それ以上は言葉を交わさず、城下の酒場の一つ、銀の羊亭に向かった。先日と道順は違うが、この忍びに付いて行けば道中、物陰に隠れたりしなくても、ほとんど誰ともすれ違わずに酒場へ行けた。一本先の道の人の気配が、この忍びにはわかるらしい。
 酒場の、穴倉を思わせる個室。垂れ幕を開けると、先日と同じような旅装をしたティアが、席を立って出迎えた。
「さすが、”熱風拍車”。先の戦、私の首を獲ろうと思えば、できたのではないか」
「犠牲を厭わなければ。ただ、互いに犠牲を出すような戦だとは思えなかったということだ。そういえば戦場から離脱する際、俺に何か言っていたな」
「次は貴殿と轡を並べたい。そう言った」
「そのことで、今日は俺の方から話がある」
 ティアの緑色の瞳が、今度は好奇心に輝いた。
「エドナ元帥を通じてだが、俺を講和の使者に立てられないか、具申した。ライナス宰相は各地を飛び回っているが、近くにいれば、そう待たずに是非がわかると思う」
「その話し合いなら、今ここでできように」
「公の席であれば、ティア殿の返答も変わろうというもの。俺とティア殿ではなく、アングルランドとノースランドの話となる」
「先に言っておく。ノースランドの独立か、それに匹敵する待遇。それ以外に、こちらが譲歩できる線はない」
「まったく、頭の痛い話だ。相当のものがなければ、ハイランド公は話し合いの席に立つことすらないのか。これは俺も、機会あれば風の噂として宰相に伝えておこう」
 ちょっと悪戯っぽく笑って、ティアは運ばれて来た料理に口をつけた。
「今晩の話だけで、ウォーレス殿がこちらについてくれないことは、わかる。なので今晩は、私の話を聞いてくれまいか」
「ティア殿自身の話か」
 頷いたハイランド公の眼差しは、いつになく神妙である。怯えているようにも見えた。なぜそんな顔をしているかの答えは、話を聞けばわかることだ。
「・・・私には、夢というものがなかった。なに、大抵の人間はそうだろう。ただ私の周りには夢や希望、野望や願いを持つ者が、多かったという気がする。廷臣しかり、何よりも、父と、姉アナベルがな」
 奥の壁に寄りかかり、幕の方を向いて話しているティアだが、視線は遥か遠く、あるいは今でない時間を見ていた。
「父と姉の、ノースランド独立。これが、一番大きな夢だった。幼い頃の私には、二人がなぜそんな望みを抱くのか、わからなかったよ。生粋のアングルランド諸侯に比べて貧しいとはいえ、民に比べれば食うに困ることのない、充分贅沢な暮らしだったからな。ドレスはアナベルのお古で、新しいものを買う余裕すらない貧乏貴族だった。が、私には、それでも充分過ぎた。しかし民にとっては、苦しい暮らしが続いていたのだな。私たちの暮らしは、そんな彼らから搾り取った税で成り立っていた。ノースランドの税は、本国に比べて低かったが、そもそも民に税を払う力はなかった。貧しい国なのだ、本来ノースランドは。アングルランドに支配される前は、王国を築けるくらいに豊かであったはずなのに」
 ウォーレスは、頷いた。アングルランドの支配以来、表向きはその形を取っていないものの、ノースランドはアングルランドの植民地といってよかった。
「幼い私は多少お転婆で、供も連れずよく城下の町に出ては、様々な者の、様々な痛み、苦しみを見て、聞いてきた。時には、私が身分を伏せていたからだろう、町の小僧たちと取っ組み合いの喧嘩になったこともあったよ。鼻血を垂らしながら城に帰って来た私を見て、執事なんかは卒倒しかけていたものだ」
 幼少期を語るティアの目は、初めて見る穏やかさをたたえていた。数年前のことだろう。ウォーレスにしてみれば最近の出来事だが、この少女からすれば遥か昔の出来事なのだ。
「誰の夢を聞いてもそれに私が感化されるようなことは、実のところなかった気がする。私が空っぽな存在だと気づいたのはしばらくしてのことで、ひょっとしたら父が死んでからのことかもしれない。病弱な姉の代わりにハイランド公の家督を継いだ私は、空っぽであるがゆえに、皆の望みを叶えなくてはならないと思った。微かな希望も見出せない民に、何の望みもない君主では、民が不憫に過ぎる。いや、ちょっと違うかな。私にもきっと、その時に望みができたんだ。大好きな人たちの、願いを叶えたいという望みがな」
 振り返ったティアに、ウォーレスは再び頷いた。頷くことしかできなかった。
「だから私の夢、ノースランド独立は、本当は私の自己満足に過ぎないのかもしれない。ただそんな私の自己満足が多くの民、ノースランドに生まれた者たちの希望になるのなら、悪くないと思った。たとえ叛乱が失敗しても、こんなちっぽけな命、さっさと使い切ってしまおうと。おっと、私は自分を卑下したいわけじゃないぞ。自尊心などほとんど持ったことのない私だが、誇りだけは持った」
 自尊心はないが、誇りはある。そのハイランド公の有り様は、どこか歪なものに感じた。同時に、それを悲しいことだとも思う。
「自分なんて大したことはないと思っていても、人はそうは見ない。そういう星の下に、私は生まれてしまったのだな」
「俺にも、誇りはある。ティア殿の、誇りとは」
「人に、感謝された。少しでも民によかれと思うことをすればするほど、それは大きくなった。私はその時まで、知らなかった。誇りとは地位や功績、そういったものが育むのかと思っていたが、違ったな。それでは肥大した自尊心と、変わるところがない。誇りとは結局、どれだけ人に感謝されたかどうかだと知った。感謝の土台の上にしか、誇りという城は建たないのだな」
 寂しそうに笑って、ティアは飲み物に少しだけ口をつけた。こちらに目を向けたのは、話の続きを引き取ってくれということだろう。
「なるほど。俺にも武人としての誇りがあるが、そこにはたくさんの人々の笑顔や、何かしらの思いがあったという気がするな。時にそれが敵からの賞賛であったりもした。俺は戦場でどれだけ圧勝できたとしても、逃げ惑い、命乞いをする敵の姿が思い浮かぶ戦に、誇りを持ったことはない。もっともこの考え方だと、俺の誇りは常に流血を伴っていたのかもしれない。味方の感謝は敵の、巡り合わせでたまたまそうなっただけの者の、犠牲によってしか成り立たないからな」
 それゆえにだろう、ウォーレスもまた、自分の戦歴をあまり誇らしいと思ったことはなかった。謙虚だと評されたことがあるが、そんなつもりはなく、人に誇ることとはどこか違うとも感じていたのだ。誇りは、ある。ただ武人の誇りというものは胸に秘めておくもので、人に対して見せびらかすようなものではない。
「まこと、武人の業というべきか。そして私も戦場に立つことによって、ウォーレス殿を筆頭とする武人たちの誇りを、少しだけ垣間見ることができたという気がする。小娘一人が、とても背負いきれるものではないともな」
「ティア殿は、もっと大きなものを背負っている」
「ゆえにこそ、誰かに助けてほしいと願うことがある。ほら、私の本当の望みなど、私自身だけのちっぽけなものだろう? いや、これはそれこそ小娘の泣き言だな。忘れてくれ」
 ごまかすように、ティアは顔を軽く拭った。
「前回の戦では、手心を加えてくれた。私は武人ではなく、その矜持もない。ゆえにこそ、一人でも多くを生還させてくれたことに、感謝したい。それでウォーレス殿の立場が危うくなってしまったのなら、ただただ頭を下げるしかない」
「俺は、戦で手を抜いたことはない。あれはあれで、俺の精一杯だった。可能なら殺さず、殺されず。それを戦で為すというのは、俺にとって非常に難しいことだった」
「そうか、そうだったか。敵大将が言うことではないが、厳しい戦をさせてしまったのだな。重ねて、謝罪したい。ただ」
 不意に、ハイランド公の目が強い光を帯びた。
「これからは、あのような瀬踏みの戦をするつもりはない。次に当たる時は、全力でウォーレス殿の首を狙いに行く」
「望むところだ。だが俺の戦は、ノースランド軍に対しては、今後もあのような形になるだろう。やはりノースランド人を、これ以上虐げてはならないというのが、俺があの戦で得た結論だ」
「何故。貴殿にノースランド人の血が半分流れているからか。ならばもう半分、アングルランド人の王に、私は弓を引いているのだぞ」
「ノースランド人が、アングルランド人に殺される。虐げられてきた者が、なおも虐げてきた者に殺される。それはやはり、どこかおかしい。今の俺には、それがやっとわかりかけてきたのだ」
 あるいは講和の道など探らず、ウォーレスはティアと共に戦うべきなのかもしれない。アングルランドの軍人として生き、多くのアッシェン人を殺してきた。軍人は余計なことを考えず、ただ命令に従うことを美徳としてきた。今更正義に目覚め、ノースランドにつく? そんな都合のいい話が、道理であるはずもない。そう思いつつも、騎士道の天秤は確実に叛乱の女王に傾きつつあった。だが、それはここで口にするべきことでもないだろう。
「貴殿と、戦いたくない」
 ぽつりと、少女が呟いた。
「まこと、貴殿こそ私が求めていた人間だと、こうして話せば話す程に、わかってしまう。武人としてだけではない。頂点に立つ者は皆孤独というが、まさにその通りだな。互いに立ち位置は違うが、ウォーレス殿も大陸五強最強などと言われ、孤独なのではないか。先程の私の話、人に語ったのは初めてだった。理解して、少しでも共感してもらえたのなら、こんなに嬉しいことはない。私には、貴殿のことがわかるような気がする。そんなウォーレス殿と、私は戦わなくてはならないのだなあ。こんなに悲しい話もない。こんなことになるんだったら叛乱なぞ、いや女王になんかなるんじゃなかった」
 言って口元を引き締めたティアは、何かを必死にこらえていた。が、小さく肩を震わせた後、溜息とともにハイランド公は、諦念の表情を浮かべた。
「講和の話、もしあるとしても、その使者に貴殿が選ばれることはないだろう。そしてリチャード王自らが来たところで、我らの、いや私の答えは否だ。もう、後には引けぬのだ。わかってくれるだろう?」
「そうだな。本当は、わかっていたのかもしれない」
 叛乱が寛大な処置で許されたとしても、よくて、ティアとその親族は打ち首だろう。自分は何をしようとしていたのだろう、そう思った。
 それ以上は何も言えず、自然と散会という流れになった。どちらが先に席を立ったのかはわからない。しかしウォーレスは大きな喪失感と共に、店を出た。
 城下町の、裏通り。ビスキュイに手を引かれるように歩いていたティアは、別れ際に満面の笑顔で言った。
「ああ、楽しかった。そして私の、本当の私の想いを話せる相手がいて、うれしかった。これからは、戦場で。ウォーレス殿に首を打ってもらえるなら、本望だな。今なら、心の底から言える。この屈託から私を解放してくれ。頼んだぞ」
 白い歯を見せて、叛乱の女王は目を細めた。
「こんな出会い方じゃなかったらと、やはりどこかで思ってしまう。けれどウォーレス殿、あなたに会えて、良かった。本当に、良かったと思っているよ」
 手を振り、ティアは路地の奥へと消えていった。ビスキュイが肩を抱き寄せて、さかんにそれを擦っている。一度だけ振り返った忍びの目には、光るものがあったような気がした。お前ともお別れだな。ウォーレスはその背中に語りかける。二人の背中が見えなくなるまで、ウォーレスはずっと、その場に留まり続けていた。
 ティアには、夢がないと言った。いや、彼女にそれはあった。少女の理解者こそ、彼女が真に求めていたものだった。
 彼女はもう、限界なのだろう。女王の、それも叛乱の首謀者としての重圧に、早晩押し潰され、自壊してしまうかもしれない。次のハイランド公の戦は、おそらく玉砕覚悟のものとなる。
 並び立つ者。ティアにはそれが必要だった。周囲が思う程、彼女は強いわけではない。年相応の、それでいて誰よりも優しい娘。しかしあまりに重たいものを、背負ってしまった。本当はウォーレスもわかっている。その孤独に寄り添えるのは、おそらくウォーレス自身しかいないだろう。
 頑丈な柵に囲まれた、野営地の入り口。前回と同じように、そこには愛娘のセイディの姿があった。
「心配をかけたか。すまん」
「心配です、とても」
 ウォーレスの佇まいから何かを感じ取ったのか、セイディはそんなことを口にした。
「次は、私も連れて行って下さい。もう、そんな父さんの顔を見たくありません」
「俺は、そんなに情けない顔をしていたか」
「いえ。けど、悲しい顔です」
「そうか。俺は、そんな顔をしていたのだな。だが、次はないのだ。あるとすれば、戦場だ」
 セイディには、察しがついているのだろう。だからウォーレスも、それとなく告げた。
「父さん、お願いが」
 珍しく、セイディがそんなことを言った。
「何だ、稽古をつけてくれとか、そういう話じゃなさそうだな。だがお前の望みは、何であろうと叶える」
 そう、以前彼女がそういうことを言ったのは、一度きりだ。軍に入りたい。そんな、ウォーレスにとって最も避けたいことでも、セイディの望みは叶えてきた。ウォーレスにはこの、表情も声音も変えない娘の心が、わからない。おまけに娘は、そう易々と自分の願いを言わない。だからこそ、彼女の言うことは全て、これからも叶えていくつもりだった。
「しばらく、軍を離れさせて下さい。理由は、聞かないで頂ければ」
 思わぬ返答に、ウォーレスは束の間、言葉を失った。どんな意味合いで言っているのか、”鉄面”と呼ばれる娘の顔からは、何も読み取れない。
「それが、お前の望みなら。どれほどの時か、教えてくれるか」
「わかりません。ただ、そう長くはないだろうという気がします」
「そうか。軍に混乱なきよう、手筈は俺が整えておく」
 頷いたセイディは、それ以上何も言わなかった。
 翌日、別れも告げず、セイディは軍から姿を消していた。彼女が軍に入って以来、離ればなれになるのは初めてのことである。そして娘の不在によって、ウォーレスにも気づかされたことがある。
 自分の本当の理解者は、愛娘一人だったのではないか、と。

 

 

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