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2,「失敗や挫折から多くを学べる、一人前の人間になったとね」


 思っていたより、水は濁っていなかった。
 蜜蜂亭の厨房、その上水道の話である。
 アナスタシアはもう一杯、水をグラスに取り、しばらくそれを見つめた。水中を僅かに白い粒のような物が舞っているが、沈殿物や上澄みに何かが溜まるようなことはない。料理や飲料には使えないが、食材と食器を洗うには充分綺麗だと思われる。
 ここの所、小雨程度だが雨の振る日は多いので、上水道の濁りについては頻繁に様子を見ている。
 そして、その降雨のせいで、夜の客足は落ちていた。昼は波止場で働く者たちの食堂なので、船が行き来できない程の荒天でない限り客が減ることはない。が、夕方以降は晩飯、または一杯ひっかけて帰るような客は、雨に濡れてまでやってくることは少ない。これは蜜蜂亭に関わらず、どの飲食店に関しても同じだった。川沿いに並ぶどの店も、客の入りは悪そうだった。
 ジジは、扉近くの客たちと席に座り、長い間話をしていた。彼女は恋愛に積極的で、今話している二人の内の一人に気があるようだった。もっとも、ジジに惚れているのはもう片方の男であるようにアナスタシアには思われ、あの卓はちょっとした三角関係になっている。
 今いる客は彼らを含めた五人で、全員が商家か役所に勤めている者たちだ。一日中座って行う仕事は身体を動かすそれとは全く異なる類の疲れがあり、酒の力を借りないと寝付けない者も少なくない。
 ロズモンドは厨房の奥で、何か新しい料理に挑戦している。
 アナスタシアは多少手持ち無沙汰だったが、一応暖炉の傍に佇み、客の注文があればすぐに動けるようにはしていた。店の中央に客はいないのでそこを掃除したい欲求に駆られるが、卓の上を軽く拭き取る以上の掃除をしてしまうと、どうしても埃が立つ。決して広くない店内でもあり、そういった片付けを始めてしまうと、客に帰れという圧力をかけてしまうと、以前ジジが話していた。各卓のランタンや壁龕のの蝋燭も、替える必要はなさそうだった。
 何度か香草や酢を入れてソースの味見をしていたロズモンドが、肩を落とした。どうやら納得のいく味には仕上がらなかったらしい。ふと、そのロズモンドと目が合う。しばしこちらを見つめた後、ロズモンドは手招きしてアナスタシアを厨房に入れた。
「そろそろ、何か作ってみるか」
「えっ、いいんですか」
「暇だし、簡単なものならな」
 唐突だったので感情が追いつかなかったが、何を言われたのかを噛み締める度に、じわじわと胸が熱くなる。いよいよアナスタシアに、本当の意味で厨房に入る日がやってきた。
 手早くエプロンを着け、スカーフを頭に巻いた。ロズモンドは棚を開けながら厨房を一巡りし、やがて言った。
「ハニーローストピーナッツにしてみるか」
「はいっ」
 思わず大きな声が出てしまった。ロズモンドも少し驚いた様子だったが鼻を鳴らし、豆の入った麻袋を取り出す。
 ハニーローストピーナッツは、蜜蜂亭のつまみの中でも、最も人気かつ定番のメニューである。ロズモンドの実家が養蜂場をやっており、この蜂蜜がまた美味い。それを絡めたこの店のそれは、まさに絶品だった。実はここに居を定めてからその蜂蜜を使ってこれを作ったことがあるのだが、どうしてもこの店の味は再現できなかった。
「まずは俺が作る。よく見ていろ」
 ロズモンドが無造作に、豆を鍋の中に放り込む。次いで塩をひとつまみ、鍋を揺らしながら豆に火を通していく。
「二、三粒拾い上げてみろ。そのくらいの温度だ」
 言われるままに、豆を摘んでみる。微妙な熱さで、わずかに豆の水分が飛んでいる気がする。乾煎りではあるが、柔らかさもまだ残っていた。
 豆を乗せたままの鍋は一度脇によけ、今度は別の鍋に蜂蜜、砂糖、水を注ぎ、弱火の焜炉で熱していく。この店の薪焜炉は強火、中火、弱火と三つのかなごで使い分けられるようになっている。
 蜂蜜が僅かに煮上がったところで、先程の豆を絡めていく。充分に味が行き渡ったところで、豆を油紙の上に上げる。後は豆を重ならないように広げ、冷めれば完成である。
「今のが基本だ。こういう簡単なもんでも、仕入れ時期によって豆の味は変わるし、調理してる時の季節や天候によっても変わっちまう。一口食ってみろ。いつもの味と違うはずだ」
 言われるまま、二、三粒を食べてみる。
「どうだ。どう違う」
「いつもより・・・なんでしょう。味が弱いというか、甘みを感じないというか」
「この程度だったら、塩だな。砂糖だと甘くなり過ぎるか、もっと味がぼんやりとする」
 塩をもうひとつまみ、豆全体にまぶしていく。それを口にすると、なるほどいつもの味だ。
「その味を、よく覚えておけ。まあお前はここの常連でそれをよく摘んでいたから、馴染みの味ではあるだろう。よし、今度はお前がやってみろ」
 同じ行程を、アナスタシアはなぞった。時折、ロズモンドが指示を出す。豆の手触り、砂糖の量。
 味を絡めた豆を、油紙に広げる。扉付近の客はもう帰ったのか、ジジがすぐ傍でアナスタシアの様子を見守っていた。
 一口、食べてみる。味の方はさほど直す必要はないが、それでもどこか焦点のずれたものになってしまった。
「最初に、もう少し炒った方が良かったかもね。ま、これも悪くないけど」
 ぽりぽりと豆を頬張りながら、ジジが言う。
「難しいな、同じ味を再現するというのは」
「料理そのものはアナスタシアも得意でしょ。でも客商売で難しいのはあんたの言う通り、どんな日も同じ味を出さなくちゃいけないってとこかしらね」
 ロズモンドも一粒、豆を口に放り込む。
「味そのものは悪くない。完全に冷やせば、豆にもう少し歯ごたえもでるはずだ。後でもう一度試食してみろ。それでも何か足りない気がしたら、今度は砂糖をひとつまみだ」
 それから何度か、二人に見守られながらハニーローストピーナッツ作りに勤しんだ。先程ロズモンドが作ったものと比較して、味を調整する。完全に熱の抜けたロズモンドのそれは、最初に食べた時よりもさらに美味しく感じた。
 そもそも作り置きしておくものだが、その夜だけで保存用の瓶二つ分を作った。ただ、一度も手を加えずに、この店の味には到達できなかった。出来上がったものは二人が試食し、味を整えていく。
「まだ、素人の舌だな。味が一定していない」
「どうすれば良いのでしょうか」
「慣れだな。腕は悪くない。後は数をこなせば、舌も腕も勝手に覚える」
 剣の稽古と同じということか。力強い一撃は素人でも全力を出せば繰り出せるが、基本の動きは事前、事後の防御も疎かにしていない。そういった正しい打ち方ができるまでには、とにかく正しい形で、剣を振り続けるしかない。そして一度身体がそれを覚えてしまえば、無意識に正しい振り方ができるものだし、応用も咄嗟の判断も、そこから自然と身についていく。
「しばらくは俺かジジが試食をするが、これからは基本的にお前にこれを任せる」
「おお、アナスタシア、うちの看板メニューを任されるなんて、大出世じゃん」
「いや、あの、ありがとうございます。全力で取り組みます」
 頬が熱を持っているのが、自分でもわかった。火に当たり過ぎただけではないだろう。二人に頭を下げる。
「本当に、ありがとうございます」
「ふん、礼を言われる筋合いはない。それが出来るようになったら、他のが待ってる。早く覚えろよ」
「はい。努力します」
「あ、アナスタシアの笑顔、久しぶりに見たわ」
「ん? 私は今、笑っているのか。いや、まあ、確かに嬉しい」
 これが、自分が料理人として踏み出した、最初の一歩だったのだろうか。実感は今ひとつだが、何ともいえない高揚感はある。
 豆を一粒、口に入れる。
 この店の味だなと、アナスタシアは思った。

 

 自分を責める声は、ほとんどなかった。
 あの一戦後初めての軍議で、諸侯から糾弾されることを覚悟していたクリスティーナだが、ゴドフリー、セブランの妹マルトからも、そういった批難は出なかった。
 意外ではある。ゴドフリーは自らが、マルトは兄こそが総大将にふさわしいと考えているはずであり、この軍議はクリスティーナを責められる、絶好の機会であったはずだ。
 一応本国に敗戦の報は届けてあるが、新元帥を早々と降格させるのは承認した側も格好がつかないだろうということで、クリスティーナに関してはしばらく様子見に落ち着くという見立てだった。無論、まだ余談は許さないが。
 ただひとつ、ソーニャがクリスティーナに、ベラックまでの撤退を具申したことについては話題となった。ラステレーヌ城に籠れば、少なくともまだあの場所で戦線は維持できたはずだという話で、もっともな話である。クリスティーナはあの時、経験豊かなソーニャの意見を取り入れ、その責任は全て自分が取るつもりだったと伝えた。実際それ以上でも以下でもなく、自失しかけていた自分が、あの場で最善の指示を出せていたとも思っていない。
「ソーニャ殿、ご説明頂きたい」
 諸侯の一人が、厳しい口調で言う。ベラック城の軍議に選んだ部屋は広くなく、その男の声はよく響いた。
「敵は寡兵で、おまけに攻城兵器の用意もなかったんですよ。あんなに鮮やかな勝ち方ができるのに、その先は無策なんてこと、あるわけないじゃないですか。それが何だったのかはわかりません。事前に敵部隊が空いた城を押さえにかかったわけでもないですし。ただわかったとして、あの状態からそれを防ぎ得たかどうか。そして敵はラステレーヌ城以西の追撃は行わず、奪取した城に留まった。これは一つ、敵の策謀が上手く機能しなかったことの証左ではないでしょうか。どういうわけかはわかりませんが、敵は大勝したにもかかわらず一度、体勢を整える必要があったということです」
「わからないことばかりではないか」
「ええ。しかし結果として、厳しい追撃は受けずにすみました」
 批難の目はソーニャに向かい続けていたが、当の本人はけろりとしたものである。よほど自分に自信があるのか、胆力があるのか。どちらにせよ、クリスティーナの学ぶべき部分ではあった。
 それからはアルフォンス、ないしはリッシュモンが何を狙っていたのかの考察になったが、全ては推測である。ましてなかったことの話なので、議論は前に進まなかった。キザイアは目を閉じ、最後まで口を開くことはなかった。
 解散となり、クリスティーナが真っ先に向かったのは、そのキザイアの居室である。
「母さん、教えて欲しいことが、いくつかあります」
「そう呼んだということは、母と子の話ですね。いいでしょう。何でも話してごらんなさい。その前に、お茶でも頂きましょうか」
 小姓が茶と茶菓子を用意する間、二人の間に会話のようなものはなかった。椅子にその身体を沈めているキザイアは、戦の前よりも少し老けたようにも見える。だが、その戦の終盤であのリッシュモンと直接渡り合い、多くの兵を生還させてきた。軍人としてのキザイアに、衰えはない。
 小姓が下がると、キザイアは簡素な調度品の並ぶ室内を見渡し、やがてその視線を窓の外へ移した。
「まず、ひとつ。母さんは、私とリックの関係に気づいていましたか」
 リック。その名を口にしただけで、目頭が熱くなる。キザイアは何の表情も見せず、紅茶を口にした。
「ええ。いつ頃からかはわかりませんが、ここ一年で、以前からそういう関係だったのだと感じました」
「リックでは、力不足だったでしょうか。もちろん、私も」
「二人とも、未熟であったと思います」
「ではなぜ強引にでも、ソーニャを私の副官にしなかったのでしょうか。先日の軍議の場では難しかったと思います。しかしその前日にでも、編成を変える権限は母さんの元にあった」
「あなたには、あなたの道を進んで欲しかったからですよ。私があなたに口を出していたのは、あなたが十五になるまでの間だったはずです。軍を率いて、一年。そこまではギルフォード家の跡取りとしてあなたを導く必要があった。十五のあなたを見た時、当分未熟であるにせよ、もう一人の立派な人間になったと、私は感じた。失敗や挫折から多くを学べる、一人前の人間になったとね」
 確かにその辺りから、母は自分にあれこれと言わなくなった気がする。それまでは自由に憧れるくらい、厳しく躾けられる毎日だった。鍛錬も書見も貴族としての振る舞いも、人とは比べものにならない程、多くのものを課されてきた。
「私にしてやれる最後のことは、あなたの元帥就任でした。実はその話は、ライナス宰相から私に、数年前から打診されていたものだったのですよ。ただ、もう老いを感じ始めていた私よりは娘をと、粘り強く交渉してきました。先日それが承認されたのは何も唐突なことではなく、ようやくそれが実現したということなのです」
 早ければ、十五歳のあの時に、クリスティーナは元帥になっていたかもしれないのだ。実績らしいものの何もない、当時の自分だったらどうその話を受け止めていただろう。考えても仕方ないことだった。今は、軍人としてはキザイアの幕僚の一人として、それなりの経験も実績も積んできたのだ。だからこそ、驚きながらも元帥就任を、受け入れることができた。
「母さんはもう、軍を引退されるおつもりなのですか」
「南の戦線に決着が着いたら、と以前から決めていました。もう十年以上前からの決意ですが、アッシェンも中々、思う通りにはさせてくれませんね」
 キザイアが苦笑する。目尻に入る皺は、年々深くなっている。
「リチャード・ブルーベイ卿に関しては、本当に残念でした。二人がこれからのギルフォード家の未来、その礎を築くまでは、死ねないと思っていましたが」
「いえ、私がおかしな意地を張らず、ううん、あの人との仲を引き裂かれると勘違いせず、素直にソーニャを受け入れていれば、こんなことにはなりませんでした」
 リックのことに関してはまだ、気持ちの整理がついていない。こうして名を口に出す時、あるいは呼んでも傍にいないと気づいた時、胸に空いた穴から、何かが零れ落ちていくような感覚があるだけだ。斬られた瞬間に、泣いた。敗走中も、涙が止まらなかった。だが今は、奇妙な欠落感があるだけで、要は今の自分がそれとどう向き合っているのか、よくわからないのだった。
「こうして、母さんと腹を割ってお話しするのは、いつ以来でしょうか。子供の時はわがままを言って、母さんを困らせていたような気もしますが」
「あなたが大人になってからは、初めてかもしれません。ごめんなさいね、クリスティーナ。私は肝心な時に、あなたとあなたの大切なものを、守ることができなかった」
 促されるままに立ち上がり、抱き締められる。母さんの、温かく、大きな身体。懐かしい匂いがする。自然と、涙が溢れてくる。駄目だ、今気を抜いたら、張りつめていたものが切れてしまう。
「私こそ、ごめんなさい。まだ未熟でも、私は母さんも、いえ、かのギルフォード公をも使いこなす、立派な将軍になってみせます。最初の一歩としてあらためて、母さんの懐刀を奪うことをお許し下さい」
「ええ、あなたは元帥。ここにいる全ての将兵が、あなたの手足なのよ」
 これ以上は、ここにいられない。礼を言い、部屋を出る。
 ソーニャに会いに行かなければ。部屋はどこだったか。ソーニャは軍務と非番をはっきりと分ける傾向が強く、キザイアのみならず、他の将校とも居室を離している。自分の部屋に戻れば、部屋割りの書き付けがあったはずだ。
 途中、アメデーオと出くわす。気障な仕草で会釈を交わすラテン傭兵を、クリスティーナは呼び止めた。
「ギルフォード公の副官が務まる者のリストを、すぐに用意して。一人は今の軍から探すから、正規軍の方で、何人か候補を。二、三日でできるかしら」
「ええ。ということは、いえいえ、ともかくリストはすぐに作成できます。明日の夜には、元帥の元に」
「よろしくね。あと、ソーニャの部屋ってどこだかわかる?」
「適当な部屋が城内にないとかで、確か練兵場の兵舎の一室を使っていたと思いますよ。一番奥の部屋とか言ってたような」
「わかった。ありがとう」
 内城を出ると、晩課の鐘(午後六時)が聞こえた。既に外は暗くなっており、日が落ちるのが急に早くなったと実感する。
 兵舎、一番奥。扉を叩き、訪いを入れる。
「どうしました? もう軍務の時間は終わってますけど、女友達としてなら、いつでも大歓迎ですよ」
 椅子に座ったままのソーニャが、こちらを振り返る。肌寒い季節にそぐわない、下着に近い格好だった。キャミソールにショートパンツ。ロンディウムの服屋で見かけたことはあるが、両方を着ている人間は初めて見た。
 ソーニャの部屋には、本や絵、何かの書き付けが散乱していた。部屋の隅に剣と具足がひっそりと架けられていることを除けば、およそ軍人らしい雰囲気の部屋ではない。
「ごめんなさい、軍のことで来た」
「はあ。今日の私の軍務は、さっきの軍議で終わりです。そういう部分の線引きは、キザイア様相手でもしっかりさせてきたんですけど・・・」
 溜息をつき、ソーニャは羽ペンを置いた。机の上には彼女のあだ名の由来である、漫画の原稿と思しきものが広げられていた。
「それなら、軍人としてじゃなくていい。ソーニャ、私に力を貸して」
「でもその言い方って、結局軍人としての私が必要ってことですよね?」
「そうね、同じことかもね。どちらも、あなただから」
 ソーニャは頭を掻きつつ、自らの太ももを見つめていた。普段あまり見ることのない、困惑した様子である。
「明日、辞令をしたためて、渡して下さい。あなたには、それができるわけですから」
「命令ではなく、私があなたを必要としているの。今の私が一兵卒だったとしても、同じことを言う。お願い、私を助けて」
「・・・へえ、ちょっと、驚きました。クリスティーナ様、急に大きくなられましたね」
「そ、そうかしら。むしろ逆かなと思ってたんだけど」
「今、この瞬間にそうなられたんですかね。もしくはたった今、私がそれに気づいたとか」
「お願い、力を貸して」
「いいですよ」
 不意の、あっさりとした応えに、しばし言葉を失った。ソーニャは先日城門で出迎えた時のような、満面の笑顔で言った。
「あなたが、私を必要とした。今は、それだけで充分です。難しい話は、明日にしましょう。私も、待遇は副官でも一兵卒でも、どっちでもいいです。だから、いいですよ。私が、あなたを支えます」
 その笑顔に、しかしあの時になかったわずかな陰がちらつく。いやあの時も、笑う前に一度強く目を閉じ、何か思うところはある様子だった。
 聞くべきか。いや、母と胸襟を開いて話せたのとは、関係性が違う。ただ互いに一歩ずつ、歩み寄れたという実感はある。そしてこちらから聞かなくても遠からず、彼女はその真意を伝えてくれる予感もあった。
「ありがとう。今度はその、本当に軍と関係ないんだけど・・・それ、どんなものを描いてるの? ちょっと見せてもらえる?」
「うわあ。そういう話だったら本当に大歓迎です。クリスティーナ様ってそもそも漫画って読んだことあるんです?」
 ソーニャの表情は急に幼くなり、同時に先程とは違った目の輝きを見せる。こんな顔をする娘なんだと、あらためて知った。
 まずは彼女を知ることだ、とクリスティーナは思った。

 

 

 コンピエーニュに来るのは、久しぶりだった。
 その領主、エルネストと会うのも久しぶりだったのだが、この男とは頻繁に書簡をやり取りしている為、ゲクランにあまり邂逅の感慨のようなものはなかった。彼から届く領内の統治の様子、方針の報告書は週に一度は届くし、細かい書簡のやり取りも別途行っていた。
 町ゆく人々の姿には、活気がある。ゲクラン領を豊かにしていく内政の責任者、そのお膝元である。他の街以上に、この領地の人間は豊かさを享受しているようだった。
 ちょうど市が開かれていたようなので、麾下と共に回ってみる。野菜や果物の色艶は良く、出来は良さそうだった。価格も、安すぎずといったところで、この辺りの物価調整の腕前には舌を巻く。政治が介入し過ぎたり、ましてや価格を決めてしまうと、確実に景気を歪める。そうと気づかない程度に税率をいじることで、理想の物価に落ち着けることは、どんな領主にとっても至難の業だった。
 茶菓子を買い、ワインも何本か買う。一日中見て回りたいくらいだったが、ゲクランも多忙である。それに周囲がゲクランに気づき始めた様子なので、馬を繋いである場所に戻り、再びコンピエーニュ城を目指した。
 先触れは出してある。白亜の青い屋根瓦の城内に入るとすぐに小姓が案内につき、まっすぐにエルネストの執務室へ向かった。
「手紙のやりとりでは、訊きづらかったのよ。エルネストはまだ、耳が聞こえる?」
「いえ、もうほとんど。大きな音には反応を示されますが、それは何か、空気の振動のようなものを肌で感じるのだと、ご主人様は仰っていました」
 小姓の笑顔は寂し気だが、話題そのものに動揺した様子はない。主の現状には、もう慣れているのか。
「普段は、筆談?」
「はい。それ用の小さな黒板とチョークがありますので、ゲクラン様もそれをお使い頂ければ」
 エルネスト、世間でゲクラン四騎将と呼ばれる、ゲクランの側近中の側近である。以前、南の戦線に彼を伴った際、熱病に冒され、以来日を追うごとに聴力を失っていった。他の部分に障碍は残らず、すぐに健康を取り戻したものの、耳だけは日に日に聞こえなくなっていったのである。
 その後も何度か戦場に出たが、耳が不自由だということは、こちらが考えている以上に戦に支障があるらしい。現在三十七歳と、将としてはこれからが円熟期だが、体力に陰りも出てくる年齢である。武人としてはもう伸び代がないと、エルネストはあっさりと軍務から身を退いてしまった。
 惜しいとゲクランは思ったが、元々領主としても卓越したものを持っていた。ゆえに今はゲクラン領を一つの国とするなら宰相的な役割を与え、内政の大部分を任せていた。パスカルから引き継ぐ形だが、何の問題もなく権限は委譲されつつある。元々、パスカルが権力で私腹を肥やす男でなかったことも大きいだろう。それに二人は、兄弟の様に仲が良いというのもあった。思考も性格も違うが、昔から妙に馬が合うのである。
「ようこそ、ゲクラン様。久方ぶりの邂逅、楽しみにしておりました」
 部屋に入るなりエルネストの声が聞こえ、ゲクランは多少面食らった。
「あなたも相変わらずのいい男ね。それに、羨ましいほどに変わらない。でもちょっと、痩せたかしら?」
 ついゲクランも返してしまったが、エルネストは少し首を傾げ、微笑を浮かべただけだった。
 昔から老け込むことのない、淡い金髪の美男子である。四十歳も近いというのに、二十台前半にしか見えなかった。そう見えることが彼の秘かな自慢で、肌や髪の手入れも怠っていない様子だ。
「今、”鴉たち”の者に、読唇術を習っております。いずれはゲクラン様のお言葉も、読み取れるようになる予定です」
 どう反応したらよいかわからず、窓辺に立つエルネストを、ゲクランは軽く抱き締めた。この男とは寝たこともあるが、今は家族のような絆を感じるのみである。
「あれを使えばいいのね」
 ゲクランが机の上に置かれた小さな黒板を指差すと、エルネストは笑顔で応えた。
 筆談の練習がてら、他愛無い話から入った。こちらは口を開いていないのに、エルネストは声で返す。何か奇妙な感じがしたが、ゲクランはやり取りを続けた。
「このように声を出してお話できるのは、あるいは今日で最後かもしれません」
 どういうことか、と尋ねると、自分の声が聞こえないと、次第に声そのものがおかしくなっていくらしい。
 言われてみれば、エルネストの話し振りには既に、どこか違和感があった。以前よりもぼそぼそと喋っていたかと思うと、時折、芝居がかった口調に変わる。
 傍に控えていた小姓が、エルネストはもう一度ゲクランと話す為だけに、発声練習を続けていたと伝えた。聞いて、ゲクランは思わず目を潤ませた。
「こら、余計なことを言ったな」
 エルネストにたしなめられ、小姓は慌てて首を横に振った。
「次に会う時は、私が筆談で、ゲクラン様にはそのままお話して頂く形にできればと。短い言葉なら、既になんとなく言っていることがわかるのです」
「やだ、筆談にもようやく慣れてきたのに」
 ゲクランが言うと、言葉というより自分のふくれ面と素振りに反応したのだろう、エルネストは昔と変わらない声で笑った。
 小姓には外で控えてもらい、ゲクランは冷めた紅茶を飲み干した。ここからが、本題である。今日ゲクランがここまで足を運んだのは、書簡のやり取りでは難しい、エルネストの記録した膨大な資料や事業計画に、直接目を通す為である。
 ゲクラン鉄道。ゲクラン領を東西に走る鉄道は、もう完成が近かった。十以上に分けた区画ごと、さらにそれぞれが東西に向けて線路を敷設していくことで、わずか二年で鉄道そのものは完成に近づけた。パリシ包囲がなければ、もっと早かったか。
 列車、大陸鉄道のそれのような速度は出ないものの、商人やその他の商売で動く者たち、ちょっとした旅行や巡礼者を運ぶ客車。これはもうドワーフの技術者たちが作り上げていた。走行実験も既に終えている。
 物資を運ぶ貨車、そして軍事用の兵馬を運ぶそれも、出庫が近いようだ。これが出来上がれば、兵站は飛躍的に向上する。西への戦。パリシ解放軍程の規模でないにせよ、それなりの兵力で挑むつもりだった。
 アナスタシアの霹靂団がいつ頃機能するかはまだ未知数だが、半年、悪くても一年以内の遠征をゲクランは計画しており、レザーニュのフローレンスにも、霹靂団旗揚げの際に声を掛けている。というよりあの時は、ゲクランの霹靂団の出資に、フローレンスも乗ってきたのだった。いつ頃西進となるのか、そろそろフローレンスとの話も詰めておく頃合いだろう。鉄道をすぐに用意はできないが、レザーニュでは馬車網を使った迅速な徴兵を考えていると、彼女は書簡で伝えてきていた。
 鉄道の事業計画には他にも、列車が東西を走ることにより生まれる失業者をいかに掬い上げるかも、事細かに記してあった。こういうところはエルネストだと思うし、この男に任せて正解だったとも思う。
 駅馬車、行商、河川運輸などは、列車が走ればその経営に打撃を与える。なので運行当初は、特に貨車の料金はあえて高めとし、同時に南北の道、そして販路を切り拓いていく。ゲクラン領は東西に長く、南北に通す道の数は、かなりのものとなる。が、今までになかった販路を開拓することで従来の商人、運輸業者たちはゆっくりと事業を切り替えられるし、何よりもそれぞれの町や集落がより有機的に結びつくことで、領内の収益も上がる。
 さらに上手くいけば、東西に高速の販路が出来上がるにも関わらず、南北の販路の方が良い収益を上げることになるかもしれない。金の、物資の巡りは、これまでの何倍もの規模になるのだ。上がる税収だけでも、二倍は固い。
「絵図としては、完璧ね。実行力に関しても、あなたならきっとやり遂げられると思うわ」
 思わず口にしてしまったが、表情から察したのだろう、エルネストは満足げに頷いた。
 ゲクラン鉄道の初期の構想は、西進への兵站をいかに強化できるかということだった。
 物資はもちろん、兵の迅速な移動も課題だった。徴兵期間が問題で、東から集めた兵と西側の兵では、稼働できる時間に差ができてしまう。移動中も、兵役期間に入っているからだ。移動に数日もかからないなら、ほぼ徴兵期間の揃った兵を一時に集められる。
 ゲクランの思いつきを、ここまで大きく、そして豊かなものに仕上げたのは、やはりエルネストの力と言う他ない。内政の力はアッシェン宰相、あのポンパドゥールにも引けを取るものではなかった。個人的にはあの女が瞠目すれば、いくらか胸のすく思いもある。ただ贔屓目を抜きにしても、エルネストはゲクラン領の光である。
 何か、不思議な巡り合わせだとも思う。エルネストには悪いが、彼が軍務から退き、内政に、それもゲクラン領全体の統轄をするようになったのは、今となっては二人にとって天命だとも感じる。
「南北の道は、鉄道敷設が終わり次第、その労働者たちを街道の開通に当たらせます。道が通る頃には、その交易路も人手が足りなくなっていることでしょうから、そちらに。今鉄道敷設に集まった季節労働者たちには、余所から来た者も少なくありません。給金は、相場の二倍近くを出していますしね。やがては、このゲクラン領に居着いてくれるでしょう。町を、いくつか作る必要もあるかもしれませんね」
 人、物、仕事、全てが増える。それも豊かな形で。これぞ領地経営であり、経済だった。
 今日は、いい話が聞けた。実際の資料や書類を見て、以前から書簡でやり取りしていたことの輪郭に、中身が伴うことだと分かった。
 全部、あなたに任せて良さそうね。
 ゲクランがそう書き記すと、エルネストも笑顔で応える。
「ええ、後はゲクラン様が戦で勝ち続けるのみです。後方支援はお任せ下さい」
 あらためて、固い握手を交わす。
 今晩は、ここに泊まる予定だ。明日の朝食時がおそらく、エルネストの声が聞ける最後の機会で、先程できなかった分、きっと個人的な、あるいは軽い話題に終始するだろう。
 部屋を出ると、自然と溜息が出る。エルネストとは今後も頻繁にやり取りするし、会うのも今日が最後ではない。場合によっては遠征時、前線の兵站、つまり輜重隊を指揮させるようなことも、あるかもしれない。
 それでも、もう。
 あの男と文字通り轡を並べて戦うことはないのだ。槍の腕ならパスカルはもちろん、ピエールにもアルノーにも劣らない、まさにゲクラン四騎将の一人であり、筆頭だった。あのやわらかな物腰と女のような外見に反して戦は猛々しく、一番槍は大抵あの男だった。
 大将は常に孤独と言われるが、その孤独にも深度はある。エルネストが横に立たない戦はあれから何度も経験してきたが、いつか彼がまた、その傍に立つと、どこかで期待してもいたのだ。もうそれはないと悟り、ゲクランの孤独は、一層深まった。
 ただそれとは別の、もっと大きな力を得た。そう思い定めることで、いくらか寂しさを紛らわすことはできる。
 より強い将校、あるいは友との出会いは、これからもあるだろう。しかし、エルネストの代わりは、誰にもできない。能力ではなく、存在として人を見れば、そもそも誰かが誰かの代わりになるということ自体、ないのかもしれなかった。
 西への、故郷への道は、まだ遠い。
 これから何を得て、失っていくのか。
 そんなとりとめのないことを考えながら、ゲクランは客室へ向かった。

 

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