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プリンセスブライト・ウォーロード 第15話
「私の首は、そんなに軽くないだろう?」

 

1,「下衆は、考えることも話す言葉も、全てが似てくる」


 目を覚ましても、身体を動かせなかった。
 指先は、微かに動く。全身に痺れがある様だったが、それに反して感覚は驚く程に鋭敏だった。痛みとくすぐったさが血管中を走り回っており、敏感過ぎる皮膚が、淀んだ風の流れすら感じ取ってしまう。
 暗く、そしておそらくは狭い石壁の部屋だった。光源は、おそらく足の側だろう。牢のような部屋の隅に、ランタンが置かれていると思われる。石壁の放つ淡い反射すら、今は眩しい。すえた臭い。長く使われなかった部屋か。
 もう一度、全身の力を振り絞って、ジルは身を起こそうとした。少し顔を上げることが出来たが、座った体勢に移行するのは、無理だとわかった。
 毒。あれからどれほどの時間が経ったのかわからないが、あのイポリートに毒を盛られ、意識を失った。ここに運び込まれたということはつまり、ジルを殺すつもりはなかったということだろう。どれだけ眠らされたのかはわからないが、殺すつもりならとっくにやれている。
 荒い息遣い。自分のものだとわかっているが、どこか他人事のようでもある。まだ、意識は混濁していた。考えようとする度に、地面から這い上がってくる冷気が、大蛇の様に全身を締め付けてくる。どこからか聞こえてくる水滴の音が、ひどく煩わしい。
「おう、目を覚ました。このまま死ぬとは思ってなかったが、中々目を覚まさないものだから、内心ひやりとしたもんだ」
 イポリートの声。頭の中で千の太鼓が打ち鳴らされたかのように、耳に響いた。その後の僅かな沈黙の間も、自らの心音が、はっきりと聞こえる。
 顎を、何度か開いてみる。それだけでも今のジルには全力で剣を振り続けるくらいの体力を使ったが、何とか、喋ることはできそうだった。
「何が、狙いだ」
「へええ。もう喋れるようになったか。こりゃ、さっさと済ませねえとまずいかもなあ」
 近づいてくる、イポリートの影。映し出されたその顔は、いつも以上に下卑た、そして邪な笑みを浮かべていた。
「なに、殺しはしない。ただお前の生意気な態度には、前々からお仕置きをしてやらなくちゃならないと、そう思っていたんだよ」
 耳を塞ぎたい。何を話しているのかはどうでもよく、とにかく声が耳に響くのだ。
「私を、辱めるのか」
「おうおう、察しのいいこって。ここでしばらくの間、かわいがってやるよ。最後には泣いて喜ぶようになるかもなあ」
 まったく、どこまでも救いようのない男だった。周りの女は全て、権力と暴力で屈服させることができると思っているのだろう。言葉遣いも、下品になっている。いつものあの卑しい態度ですら、この男には立派に飾り立てた余所行きの仮面だったらしい。
 下衆は、考えることも話す言葉も、全てが似てくる。旅の間、こんな男は山ほど斬ってきた。
 仰向けに、転がされた。それだけで、落馬したくらいの苦痛を感じる。シャツの前を、破り取られた。羞恥よりも、何をされても剣で斬りつけられ、戦鎚で殴られたかのような鋭敏過ぎる感覚に、ジルの意識は何度も飛びかけた。
「おい、なんだその目は」
 ぬっと、イポリートの顔が近づく。この男も薬をやっているのか、目には異常な程の憎悪の炎が揺らめいていた。
「私の目が、何だ」
「反抗的な目をしている。気に入らねえな」
「生まれつきでな。今頃気づいたのか」
 猛烈な衝撃を感じ、ジルはしばらくの間、何が起きたのか理解できなかった。殴られたのだと気づいたのは、目の前に散らつく星が、消え始めてからだった。
 何をする、されるにせよ、痛みと不快に感じる程の痺れに感覚を支配されてしまう。痛みには強い方だと思っているが、この感覚は今までとは全く違う。
 それでも忍耐の足しになればと、今までで一番の苦痛を、記憶から掘り起こす。
 あれは竜を狩った時に負った傷。石柱のような尾で打たれ、地面に叩き付けられ跳ね上がり、背骨の折れる音を聞いたあの一撃が、今までで一番の苦痛だっただろう。この身に憎き父リチャードの血が流れていなかったら、あの異常な頑健さと回復力が備わっていなかったら、即死だった。逆に言えば常人であれば死ぬ程の痛みに、ジルは耐えてきた。あの後も結局竜との殺し合いを制したのは、ジルだった。
 ズボンと下着を、強引にむしり取られた。何をされても、今のジルには見ていることしかできない。
 旅の間、オークやゴブリンに犯されたという娘の話は聞いてきた。相手が人間であるだけマシかと、ジルはもう、今の自分をあきらめていた。
 イポリート。この男の父であるバルタザールに、ジルは恋心に近いものを抱いていることを、自覚していた。父にある、言葉にはできないジルを惹き付ける魅力が、何故この不肖の息子には微塵もないのだろう。邪なら邪なりに、色気や魅力のある男もいるというのに。
 ベルトを外す音。視線を再びイポリートに向ける。醜い。内面の醜悪さが、そのまま顔に出ている。ジルも怒りの面が張り付いた自分の顔を醜いと思っていたが、ここまで汚らわしいものと感じたことはなかった。
 こんな男に、一瞬でも気を許した。その代償を、これから払うことになる。
 そのイポリートが首を傾げ、じっとこちらを見ている。目に、光がない。
だからさ、その目だよ、目」
「私か? お前のその目も、大概だぞ」
「生意気なんだよ。これから何をされるのか、わかってんのか」
「生意気はさっきも聞いた。語彙が少ないのか? それに、私の裸はお前の嗜好に合わなかったかな。ほら、股間のそいつも元気がなさそうだ」
「・・・口もだな。まったく、お前は自分の立場がわかってねえんだなあ!」
 いきなりの大音声に、ジルは歯を食いしばって耐えた。
 一度視界から消えたイポリートが手にしていたのは、乗馬鞭だった。ぴしりぴしりと、それを自らの掌に叩き付けられている。
「まずは、調教だな。これでたっぷりとかわいがってやる」
「乗馬鞭で調教するなんて、随分丁寧なことだな。それに・・・ッ!!」
 牢に反響する、女の悲鳴。それが自分のものだとはわかっていたが、痛みの奔流の前には、そんなことも些細なことに思えた。
 どこを打たれた? 感覚を探る前に、またも激痛の稲妻が落ちる。腿か。内股を、あれで叩かれている。股ぐらに、熱いものを感じた。失禁している。
「ひひ、漏らしやがった。情けねえなあ。お漏らし姫、もっと欲しいかあ?」
 痛い、痛い。竜の尾を叩き付けられた時よりも、確実に痛い。後はもう、思考は形を成さなかった。痛い。痛い痛い。目の前が、何度も白くなる。
 腹を打たれ、胸を打たれ、そして頬を打たれる頃には、ジルの顔は涙と鼻水、涎で汚れていた。顔面が、熱湯をかけられたかのように、熱い。
「あぁん? おう、大分女の顔になってきたな」
「も、もういい。さっさと、終わらせてくれ・・・」
 何とか、それだけを口にした。満足そうに頷いたイポリートが、上げていたズボンを再び下ろす。破瓜の痛みは、これ以上なのだろうか。普段であれば、それを恐れることはない。が、今の身体でそれに耐えられるのか。あんな非力な男に叩かれたくらいで涙を溢れさせる、今の自分で。
 開かれたジルの脚の間に、イポリートが腰を下ろす。やめろ。言おうとしたが、舌がもつれて、意味のない音を発しただけだった。
 その身体が不意に持ち上がり、石壁に叩き付けられた。突然のことに、ジルの思考は追いつかない。身を起こしかけたイポリートの頬を、巨漢の影が張り飛ばした。軟弱な男はそれたけで白目を剥いて、ジルの傍で気を失った。
 ジルに触れる、大きなあたたかい手。傷ついた身体が、何かにくるまれる。外套だった。壊れ物を扱うようにそっと、ジルの身体は抱きかかえられた。逆光だった男の顔が、ランタンの明かりで照らされる。
「助けに入るのが遅れました。総督、何とお詫びしてよろしいものか・・・」
 バルタザールだった。これも毒の作用なのか、ジルの胸は内側から燃え上がるくらいに熱くなった。
 抱き上げられながら、部屋を出る。牢と思っていたが、単に地下道の一室だったのかもしれない。開け放たれたままの扉は木製で、禍々しい格子のようなものはついていなかった。不自由な格好でランタンを掲げ、バルタザールは地下道を歩き始めた。
「た、助かりました、バルタザール卿」
「これでも、詫びには遠いでしょう。このような息子の不祥事、親としていかなる責任も取る所存です」
「迂闊にも、毒を盛られてしまいました」
「媚薬の類に、痺れ薬や眠り薬、その他の薬品を混ぜたもののようです。かなりの量を飲ませたとのことで、奴のメイドはそれを心配しておりました。すぐに身体を清めさせ、毒を抜いていきます。ご気分さぞ優れないかと存じますが、今しばらくのご辛抱を」
 いつも何を考えているのかわからないバルタザールだったが、その声音には、労りと慰めの響きがあった。
 息子が宗主国の総督に働いた狼藉に対する、領主としての焦りや言い訳はない。元は武人で鳴らした男だ。矜持もあるだろう。しかしこの男が珍しく見せた感情の色に、ジルを思ってくれる気持ちがわずかにでもあったことは、個人的にありがたいことだった。
「私はもちろん、息子の処断もお任せ致します」
「バルタザール殿の、ただ一人の跡取りです。こちらも慎重に対応致します。正直、あの男にいい感情を持てないでいます。しかし、バルタザール殿に恥をかかせるわけにはいかない」
「あなたは、お強い。剣の腕だけではないと、常々思っていました。このような恥辱にあってなお、気丈に振る舞われる」
「こちらこそ、小娘が貴殿の腕の中で何を偉ぶっているのかと、お恥ずかしい限りです」
 毒が多少弱まってきたのか、先程よりよく舌が動く。
「今回は、その、ありがとうございます。あまり人に助けられた記憶がないので、どう申し上げたらよいのか。このご恩は、いずれ」
 外套越しに、バルタザールの腕の、胸のあたたかさが伝わってくる。今だけはこの鋭敏な感覚をありがたく思った。そしてイポリートに辱められた時は何とも思わなかったのに、この男に裸を見られたこと、それも汚れた自分の身体を見られたことが、たまらなく恥ずかしかった。
 しかし、助けに来てくれたのがこの男で、本当に良かったと思う。
 目頭が、熱を持つ。張りつめていたものが切れたのか、とめどなく溢れてくる涙を拭うこともできずにいると、その頬に、太い指が添えられた。どこまでも優しい所作で、涙が拭われる。
 今この瞬間だけは、指一本動かせないことに、感謝したいくらいだった。

 

 麾下と共に、野営の火の始末をした。
 街道脇、馬車宿街の裏の林である。街道を進む、いや撤退する兵たちの中には、負傷している者も多い。
 その者たちに部屋を譲るため、クリスティーナと残った麾下二十名は、外で夜を明かした。今の自分に、温かい寝台で眠る資格はないと、クリスティーナは思っていた。
 夜が明けると同時に、ベラック城を目指す。追い抜いていく部隊は僅かで、ほとんど真っ先に戦場を離脱した自分を、あらためて情けないと感じる。クリスティーナに気づき、手を振る兵もいる。万感の思いで、一人一人に敬礼を返した。
 ベラック城。ラステレーヌと比べると小さく、周辺の砦も西側に偏っている。東からの攻めに対する防備は不安であるが、しばらくはここが、南部戦線の最前線となる。
 敵は奪い返したラステレーヌ城で一度体勢を立て直すつもりなのか、同城以西で追撃を受けたという報告はなかった。ソーニャの進言を聞き入れ西に大きく戦線を下げた形だったが、真意はわからずとも、少なくともこの点に関しては充分に成果を上げたと言える。あのままラステレーヌに撤退していたらどうだったか。その考えもあるが、あの場面では自分より優れた者の意見を聞く以外になかった。それについての検証は、軍議の場でやればいいだろう。
「あなたたちは、先に城内へ。これからやってくる負傷者の救助を最優先に」
 麾下の兵たちに伝える。散り散りになってしまったが、彼らの他にどれだけの麾下が生き残れたのだろう。
「クリスティーナ様は」
「私は、ここに残る。最後の一兵まで、ここで出迎える義務がある」
 クリスティーナがこういうことを言い出したら聞かないことは、麾下の兵たちも知っている。長い付き合いなのだ。互いに顔を見合わせた後、それでは、と城門の奥に消えていった。最後の一人が、クリスティーナの馬の轡を取る。
 クリスティーナは城門の脇に立ち、帰還する兵を待ち続けた。
 陽が中天を差す頃、部隊の一つが戻ってくるのが見えた。この部隊に目立った負傷者はいないようで、足並みは揃っている。部隊長はこちらを見て驚いたようだが、クリスティーナが敬礼で迎えると、すぐにその顔が引きつった。慌てて馬を下りる。
「元帥、何故このようなところに」
「一人一人に、労いと謝罪を。あなたたちも、よくぞ無事に帰還されました。生き残ってくれたことに、感謝します。城内でゆっくりと休息をお取り下さい」
「はっ。それでは、失礼します」
 何か思うところがあったのか、部隊長は目に涙を溜めながら敬礼を返した。
 それからも続々と帰還する兵たちに、クリスティーナは同様の礼を続けた。
 途中一度、城門の守兵が水と食事を持ってきてくれた。感謝を述べた後、兵の列が途切れるのを待って、クリスティーナはそれらを口にした。
 二日目、帰還する部隊の中に、輜重に乗って運ばれていく負傷兵の姿が目立つようになった。クリスティーナの話は後続の部隊に伝わっているのか、皆、敬礼を返すか、手を振るのみだった。時折、城内からクリスティーナ自らが決済を下す必要のある案件が飛び込んで来たが、あくまでクリスティーナは城門を離れず、部下たちに命令を伝えた。
 三日目。主だった指揮官たちが帰還を始めていた。ゴドフリー、アメデーオ。二人とも負傷はしていないようだったが、率いる兵は随分と減っていた。
 セブラン率いるグライー軍は、犠牲こそほとんど出していないようだったが、殿軍の一つとして奮戦してくれたことは、伝令によって知らされていた。犠牲は少なくとも、どの兵も憔悴しきった様子だった。
「元帥、ご無事で何よりです」
 ただ一人、セブランだけが、春の風のような爽やかな様相を保っていた。
「セブラン卿。我が軍屈指のグライー軍を上手く活用できなかったこと、心からお詫び申し上げます」
「いえいえ、戦では、こういうこともあります。元帥も、あまり気落ちされませんよう。兵たちもその御姿を見ています」
「ええ。だからこそ、私はここに立ち続けなくてはならない。あらためて、セブラン卿。此度の戦での奮闘、お見事でした」
 その日の夕方、母、キザイアの率いる部隊も到着した。
「明朝帰還予定、ソーニャたちが率いる部隊が、この軍の最後尾です。クリスティーナ、それがあなたの元帥としてのありようなのですね」
「はい。不甲斐ない指揮を執りました。申し開きはありません。ただ、私を信じ、あの戦を戦った者たちに、私なりの敬意を表したいと思います」
 キザイアは頷くと、疲れ切った兵馬を率いて、城門の中へと去っていった。
 ここまで、一人の捕虜も見られないが、さすがにあの敗戦で捕虜を確保している余裕はなかっただろう。対して、こちらはどれだけの将兵が囚われたのか。
 四日目。部隊長が率いる兵列は、半分以上が輜重に乗せられた負傷兵だった。もう、息をしていないと思われる者たちもいる。その最後尾。ソーニャはこちらの姿を認めると、ゆっくりと馬を寄せてきた。
「馬上にて失礼。アングルランド南部遠征軍四万五千、これにて帰還完了です」
「お疲れ様でした。ソーニャ大佐も、中で戦塵を落とされますよう」
 ソーニャは、ひらりと馬から飛び下りた。
「と、ここからは軍人としてじゃなくて。クリスティーナ様、ずっとここにいらしたんですか? ご飯とかトイレとか、大丈夫でした?」
 いきなり日常に引き戻されそうになって、クリスティーナは苦笑することで足元から崩れそうになるのを堪えた。
「食べる物は、城門の守兵が差し入れてくれた。トイレは守備兵の詰所で、兵の列が途切れた時に。城門を閉めた後は、その詰所で少しだけ眠れたわ。どうしたの、こんなこと聞いて」
 知らず、クリスティーナの口調も砕けたものになってしまっている。
「いやあ、報告聞いた時に元帥、軍の頂点がやることじゃないなって。でも、これがクリスティーナ様なりのけじめのつけ方なのだとしたら、悪くないかもって思っちゃいました」
「他の兵には、気を悪くさせちゃったかしら。ただ慣例や権威を考えず、これが今の私にできる精一杯だと思った。戦も、元帥としてのありようも、独りよがりと言われても仕方ない」
「いやいや、私はその話聞いた時、クリスティーナ様のこと、ちょっと好きになりましたよ。戦です。生き残った、死んだ兵の仲間たちの中には、キザイア様の方が元帥としてふさわしかったと思う者もいるでしょう。けどそれ以上に、こんなクリスティーナ様の御姿見たら、支えなくちゃって思う兵の方が、圧倒的に多いと思いますね」
「そういう意図を持ってやったわけじゃない。そこまで器用じゃないわ」
「でしょうねえ。失礼ながら、あらためて不器用な方だなって」
「本当に。私はいつも、自分のことで精一杯で・・・いえ、あまり自分を卑下しては駄目ね。それはあの戦場で散っていった兵たちに、礼を失することになる」
 全力で戦って、負けた。細かい敗因はいくつもあるだろうが、最も大きいものは自分が総大将となったことだろう。
 聞いて、ソーニャは一度だけ、強く目を閉じた。瞼を開けるとまたいつもの、太陽のような笑みを浮かべる。
「ともかく、お互い生き残れて良かったです。ただいまです、クリスティーナ様」
「おかえり、ソーニャ」
 どちらからともなく、手を差し出した。
 ソーニャの笑みにつられて、クリスティーナも笑みを零していた。

 

 兵に聞いた通り、リッシュモンは胸壁の上にいた。
 先日の戦は、大勝だった。ただ、全てが上手く行ったわけではないことは、アルフォンスの他、数名しか知らないことだった。
「もう日が落ちますよ、リッシュモン殿。宴の準備もできています。主役のあなたが来ないことには、盛り上がりに欠けますから」
 アルフォンスが声を掛けても、リッシュモンは振り返らず、胸壁の狭間に頬杖をついて城の外、原野の片隅を見つめたままだった。
「お前が主役だろ、アルフォンス元帥? あたしは後から行く。なに、その時は盛り上げてやるから、心配すんな」
「そう言われましても」
 アルフォンスが頭を掻いていると、自分同様、胸壁への階段を昇ってくる初老の男の姿を認めた。リッシュモンの副官、ダミアンである。目礼を交わす。
 どこかしら執事然としたこの男は、実際にリッシュモン家の執事であり家令であり、ともかく流浪の民と軍を率いる、リッシュモンの右腕であった。
「姫、戦捷の宴が始まっております。やはり姫のいないことには・・・」
「あーそれ、今そこの細目から聞いた。後で行くって。考え事があるんだよ」
 赤髪の将の見つめる先。戦のあった原野の隅では、連日、死んだ兵たちの埋葬が行われていた。アッシェン兵、アングルランド兵と埋葬地は分けており、ここからかろうじて見えるのは、アングルランド側のそれである。ぽつぽつと見える人影の中で唯一黒い点として視認できるものは、おそらくまだ城に残っていたアングルランド国教会の司祭だろう。埋葬人に指示を出しているのか祈りを捧げているのか、さすがにここからは判別できない。
「どう思う、ダミアン? こっちにいたの、アングルランドの連中にばれてたかな」
「どうでしょう。わかっていたからこの城を放棄したのなら、そもそもほぼ全軍で野戦に打って出たこと自体が矛盾しているかと。”囀る者”たちも、主だった者は北にいる様子。もっとも先方は、我々をあの原野で粉砕するつもりだったでしょうが」
「こちらの策を読み切っての背水、には見えなかったよな。ならもっとがむしゃらに来るか、腰が引けるか。あのクリスティーナは、元帥として腰の据わった戦をしようとしていたように感じたぜ?」
 戦後のリッシュモンはずっと不機嫌だったが、それは策を一つ、外されたことによるもののようだ。リッシュモンの策略。上手くはまれば、ここでアングルランド軍を殲滅できた。今回の戦は表向きは完勝だが、これはリッシュモンが描いた、そしてアルフォンスと副官のフェリシテが戦慄していたものとは、少し違う。
「まあまあ、こちらとしては大した犠牲も出さず、まごうことなき大勝です。より多くの血を見なくて済んだ。今はそれで良しとしましょう」
 リッシュモンは、なおも城外を見つめていた。日暮れの閉門前に、慌ててこちらへ向かってくる行商の馬車や、荷物を背負った旅人たち。アルフォンスはリッシュモンの傍に立った。へそを曲げた様子でも、こうして口を閉じている彼女の横顔は、美しいとさえ思う。その柔らかそうな赤い髪が、風に揺れていた。
「血は、量じゃねえよ。どれだけ流れようが、いずれは流れるもんだ。それなら一発で終わりにしたかったもんだ」
 言ってまた、リッシュモンは膨れ面で黙り込む。どうしましょうか、とダミアンに目で語りかけると、その副官は肩をすくめるだけだった。
 ラステレーヌの城門が、大きな音を立てて閉まっていく。同時にリッシュモンも、溜息をつきながら立ち上がった。
「バレてない、に賭けたいと思う。ダミアン、規模は小さくなるが、ベラックで同じことができそうか?」
「その想定に立って、三週間程お時間を頂ければ」
「やってみるか。元帥、徴兵した連中は、いつまで拘束できる?」
 元帥、と呼びかけられたことを聞き逃してしまいそうになるくらい、彼女の態度は以前と変わらない。もっともアルフォンスは今までこの方、リッシュモンが誰かに頭を下げたり媚を売っているところを見たことがない。領地なくとも一国の主。本人のその性格以上に、彼女はこれがあるので諸侯はもちろん、王とでも対等に接する。
 いや、やはり本人の性分もあるか。下々の人間と接する時も、リッシュモンは偉ぶったり下に見るようなところはない。
「徴兵期間はとっくに過ぎ、補填として用兵の様に給金を出している有様です。それで何とか繋ぎ止めていますが、いい加減、故郷に帰してやらないと」
「あと一ヶ月だけ、我慢させてやってくれ。宰相府の方から金は出てるんだろ? 二倍にすれば、多少はやる気を出してくれるだろう。あたしも、兵たちの中に入って説得してみるよ。兵役義務が解けてる奴らに、強制なんてできない。だから、頼み込む。それでも帰りたい奴は、引き止めない。これでどうだ?」
「ええ、リッシュモン殿自らそこまでして頂けるなら、かなりの兵が残ってくれるでしょう。ああ、もう一度仕掛けるっていうのは、既に決定事項なんですね」
「ここで一気に戦線を押し上げて、冬を迎える。本当は農閑期にこそ、兵を集めたかったんだけどな。その余裕はなかったってのはわかってるし、そんな悠長なことしてたらあたしが来る前に南部戦線は崩壊してた。これはあたしが用意した舞台じゃないが、踊るのはあたしたちだ。だからこそ、やるぜ」
 溜息をつく。元帥として彼女を止める力はあるが、リッシュモンのような名将がここを勝機と見ている時にそれを諦めさせるのには、別の種類の勇気がいた。勝てる時に勝たないと、この先の南部戦線を考えた時、きっと後悔することになるだろう。年明けにも、アングルランドは大幅な兵を補充してくる。
「わかりました。やりましょう。三週間後でよろしいですか」
「いや、ぴったりじゃない。その前後で、そうだな・・・市の開かれる、その次の日がいい。ベラックでいつ市が開かれるのかは、ここの町のもんなら知ってるだろう」
 言って、ようやくリッシュモンは笑みを浮かべた。その微笑に僅かな陰りを感じるのは、落日のせいばかりではなさそうだった。
「よし、じゃあ今晩は飲むか。なに、主役のあたしが行かないと始まらないって? それなら急ぐとするかな。アルフォンス、今夜は眠らせないぜ」
「そういう誤解を生むような言い方はここだけにして下さいね」
「どうですかな、アルフォンス殿。これを機に、姫の婿となられますのは」
「いいねえ。あたしはともかく、民にはそろそろ羽を休める場所を作ってやりたい。お前の領地はこの先だし、冬を越すのにちょうどいい」
「いやいや、勝手に縁談を進めないで下さい」
 リッシュモンが、鋸歯の大口を開けて笑う。
 冗談と本気、虚と実の壁を平気ですり抜けるこの娘の相手をするのは大変である。いや、とアルフォンスは思い直した。
 本当に大変なのは、戦場でこの将と対峙する側だったか。

 

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