前のページへ  もどる

3,「誰もが、自らが闇の中にいることを自覚しているわけではないのですから」

 集落から少し離れたところに、その家はある。
 森に囲まれた、小さな家。
 丸太を組んだその家には、どこか牧歌的な情緒が漂っていた。近くの集落は石造りの家が多いため、いくらか異彩を放ってもいる。
 家をぐるりと取り囲む、新しく立て直した木の柵は、野性の動物、特に猪のようなものを防ぐには心許ないようにも思える。が、家の主はそうしたことにも精通しているはずだった。こちらの杞憂だろう。
 ライナスは花束を脇に抱え、控えめに扉を叩いた。扉の奥から、くぐもった返事が聞こえる。ほとんど間を置かず、家の主が扉を開けた。背は高く、穏やかな表情に、異種族の長い耳。
「お久し振りです。前回お会いした時は、大分冷える頃でした」
「外の世界にいると、時の流れは密なのでしょうね。こちらからすると、前回ライナス殿がいらしたのは、つい先月くらいだったような気がしています」
「確かに。ここ数ヶ月は、目の回るような忙しさではありました。しかしそこにいると時間が足りない、過ぎるのが早過ぎると感じるのに、こうしてその場を離れてみると、まだこの程度の時間しか経っていないのかと、少し驚かされたりもします」
 ライナスの話を聞き、家の主、エルフのロサリオンは、静かに微笑んだ。
 "青の円舞"の通り名で知られる、大陸五強の一人。数年でも表舞台から去った者は、大陸五強の呼び名から外されることも多い中、隠遁してから長いこの男だけは、今も五強の中に数えられていた。それはこの男が、大陸五強などという呼び名が広まり始めた頃からの英雄だからか、あるいはエルフゆえの長命だからか、ライナスにはわからない。それでも現在の大陸五強の名を挙げろと言われれば、ライナスは真っ先にこの男の名を挙げるだろう。
 ロサリオンとその妻ジネットは、旅の医師をしていた。十年くらい前までは旅の途上、冒険者のようなことをしていたロサリオンだが、ある時期からはそういう話も聞かなくなった。二人でひたすら、恵まれない者たちに医療を施すことに専念していたようだ。ジネットは四千王国出身の魔法使いで、ごくわずかながら、人の回復力を増やす魔法を操ることもできた。
「ジネット殿に、これを」
 ライナスは花束を手渡した。ロサリオンはにっこりと微笑んで、それを受け取った。
「そこの集落で、村娘に摘んでもらったものです。この辺りでは、珍しいものではないと思いますが」
「妻の好きな花たちばかりです。きっと、喜びます。そこのポーチでお待ち頂けますか。茶を淹れて、持っていきますので」
「気を遣わせて、申し訳ない。何か、手伝えることはありますか?」
「では、ライナス殿が帰る前に妻が目を覚ましたら、一声掛けて頂けますか。いつも私の顔ばかりで、飽きもきているでしょうから」
 ロサリオンが身体をずらすと、奥の寝台で老婆が眠りについているのが見えた。同時に、むせかえるような糞尿と、それをごまかすように強く焚いた香の匂いが鼻をつく。窓は開けているようだが、家の空気はあまり入れ替わっていないようだった。今日は、あまり風もない。
 ポーチの椅子に腰掛け、ロサリオンを待つ。その椅子も卓の上にも、埃一つない。外に出してあるものは二日と経たず埃まみれになる。よく手入れされているのだと、ライナスは感心した。卓の上には灰皿もあった。ロサリオンもその妻ジネットも煙草をやらない。なのでこうした心遣いはありがたい。
 ロサリオンの妻ジネットは、三年前の大病以来、痴呆が進んでいた。エルフの夫と違い、人間で既に八十八歳。かなりの高齢なので痴呆は不思議なことでもないが、病を得るまでは、その歳とは思えないほどに元気で、ライナスが知っている頃のような旅暮らしだったのだという。
 ジネットの病は既に癒えたそうだが、元に戻らないものも多かった。ロサリオンがこの集落で始めた看病は、そのまま介護となっている。
 菜園を眺めながら一本目の煙草を吸い終わると、ロサリオンが、ポットとカップを持ってやってきた。
「遠い所、ありがとうございます」
「いえこちらこそ重ねて、気を遣わせてしまって、申し訳ない」
「時折、外の空気が吸いたくなるものです。元は、旅暮らしでしたからね。ライナス殿の来訪は、私としてもありがたい。他に来訪者となると、手伝いにやってきてくれる、集落の者たちくらいしかいませんので。いや、あの人が一度、娘さんを連れて来てくれたな」
「それは、おかしな言い方ですが、近所といっていい・・・」
「そうです。あの頃と、変わりませんでしたね。それに、いくらか救われた気持ちがしたものです」
 言いながら、ロサリオンは茶を注ぐ。ハーブティーのようだった。
 ライナスがロサリオンと接触を図ったのは、そうとは知らず、ジネットが病に倒れた直後だった。目的は、ロサリオンを軍の指揮官として迎えること。
 さらに、かつて彼が指揮していた、青流団も招くことができれば。ちょうどその頃、それまでアッシェンを中心に活動していた青流団の契約が、切れる頃でもあった。ロサリオン単独で軍に迎え入れるのもいいが、元の鞘に戻れば、抜かれる剣の鋭さは想像以上のものだろうと見ていたのだ。大陸最強の傭兵隊と名高い青流団五千の兵は、これも大陸屈指と自負するアングルランド兵、その五万に匹敵する。
 しかしその目論見は、外れた。ジネットが倒れたことで、ロサリオンはその看病に徹することとなった。
 間が悪かったといえばそれまでだが、しかし青流団との交渉では、あと一歩というところまで行った。ロサリオンを団長として再び迎え入れることができれば、その一歩は確実に歩めるはずであるという、確証も得られた。青流団は今も、ロサリオンが団長に復帰するのを待っている。彼が帰ってくれば、我々は相手がなんであろうと戦うだろう。団長代理をしている老ドワーフのベルドロウは、そうも言っていた。
 そして彼の妻ジネットには、施療院の院長の座も用意してあった。
 時ではなかった。今は、そう思っている。しかし次の時へ向けて、やれることはいくらでもある。
 それらのことについて、既にロサリオンには伝えてあった。全ては最高の傭兵隊長と言われた、ロサリオンを我が軍に迎える為であると。
 交渉事は、相手を騙そう、たぶらかそうと思った時に、ほころびが生じる。人の信頼を得ようと思えば、尚更である。こちらの意図を伝えたら、後は根気よくやるしかない。
「しかしライナス殿はここに来た時以来、仕官の話をされませんね。いや、仕官とも違いますか。ともあれ、少し不思議だと思っていたところです」
「静かな暮らしを乱している、そんな気がしましてな。それに、既に用件は申し上げましたので」
「では、どうして何度もここに?」
「何故でしょうな。古い友が、心を痛めている。声を掛けたくなるのは何故か。その問いは、そういうものだと思っています」
「私を友と認めて下さるのか。ライナス殿は」
「知り合って、十二年になりますか。我々人間にとっては、決して短い時間ではありません。ジネット殿も同様、私の友だと思っておりますよ。もっともジネット殿とは大分歳が離れていますので、母のようなものかもしれませんね」
「ハハハ。それを言ったら私など、あなたの曾祖父でも足りない」
「そうでした。しかしロサリオン殿は外見のみならず、心も若々しく思える。私には同年代か、少し歳上の人間くらいに感じます」
 エルフのロサリオンの年齢は、七百歳を大きく超えている。が、外見上は二十代後半か、多くとも三十代前半くらいに見えた。
 森エルフの寿命は、九百歳前後だと聞いている。人間が二十代半ばくらいから緩やかに老いていくのと違い、森エルフに老いが来るのは最後の百年くらいだとも聞く。あと百年、ないしは二百年と経てば、このエルフにも老いはくるのだろうか。寿命には、個人差があるとも聞く。少なくとも今の時点では、ロサリオンに老いの徴候は見られない。
 ただこのエルフの英雄は、大分疲れた顔をしていた。老いとはまた別のものだ。
 しばらくは、他愛のない話が続いた。
 この時期に菜園で育てている薬草。集落の人間との付き合い。いずれも彼の周囲で起きている話にも関わらず、ロサリオンの口調は、既に遠い昔話を語っているようでもあった。
 ライナスが五本目の煙草に火をつけると、ロサリオンも隠しから、年代物の煙草入れを取り出した。蓋を開け、一本を指に挟む。紙巻き煙草に似ているが、単に青葉をその形に巻いただけのようにも見える。火をつけることもなく、ロサリオンはそれを口にくわえた。
「ああ、これですか。ティーダリンといいます。私たちも森エルフの、煙草のようなものですね。煙草と違い、子供の頃からこれに親しむ者もいます。その意味では、菓子にも近い」
「煙は、出ないようです」
「ええ、火はつけませんから。一本どうです?」
 それでは、とライナスもそれを口に運んだ。息を吸い込む。強烈なミントのような香りが、口いっぱいに広がった。
「なるほど、これはいいかもしれません。刺激も丁度良く、気持ちも安らぎそうだ」
「この辺りでは、ロンディウムで手に入りますよ。時折そちらまで足を伸ばす行商に、頼んでいるのです。エルフの居住区で手に入ります」
 もう一度、ライナスはティーダリンを吸い込んだ。一度目は清涼感に驚いたが、二度目はそれを強過ぎると感じ、思わずむせかえってしまう。
「ハハハ。その辺りも、煙草と似ていますね。慣れないと、むせてしまう。吸いすぎると喉を冷やしてしまうので、注意されるといいでしょう。喉が腫れた時には、これが薬にもなるのですよ」
「ティーダリンですか。こんなものも、ロンディウムでは売っているのですね。一年の半分を過ごす街なのに、こういったものがあることすら、私は知らなかった」
「故郷を離れた森エルフが、これをやることは少ない。こちらで手に入れようとすると、たとえばこれなど、質がよくないのに、一本で銀貨七枚もするのです」
「ロサリオン殿の故郷では、それより遥かに安いのですか」
「家の根元、日の当たる所に、よく生えています。タダですよ。自分の家の根元になくとも、大木の根元には、大抵これがあります」
 家の根元、というのは、森エルフ独特の言い回しだ。森エルフたちは皆、樹上に家を建てる。
 まだ見てないもの、見えていないものも多いと、ライナスは痛感した。
「ですので、こちらにいる時は、代わりに煙草をやっていました」
「ほう。やめられたきっかけは?」
「なんでしょう。ジネットと旅をするようになってから、自然と離れていました」
「私が、生まれる前の話ですな」
 言うと、ロサリオンは今日初めて、屈託なく笑った。
「満たされた、心穏やかに過ごされたということかもしれませんな。私もそんな暮らしを得られたら、自然と煙草に火をつけることをやめているのかもしれません」
「ライナス殿は、人の世に生きてこそでしょう。民を導くには、火を起こし続けることですね。誰もが、自らが闇の中にいることを自覚しているわけではないのですから」
「なるほど。ロサリオン殿の言葉からはやはり、学ぶことが多い。どうやら私は、自分を見つめ直す為にここに来ているようだ」
 不意に、雲が陽の光を遮った。陰の濃くなったロサリオンの横顔は、はっとするほどに憔悴していた。
 しばしの沈黙の後、森エルフは絞り出すように言った。
「一つ、つまらないことを聞いてもよいでしょうか」
 ロサリオンの目の光には、どこか切迫したものが漂っている。
 ライナスが頷くと、ロサリオンは続けた。
「早く、ジネットに先立ってほしいと思っていますか? 妻がいなくなって初めて、私はライナス殿の話に耳を傾けることができる。そして今の私は、その時に首を縦に振るという気が、どうしてもしないのです」
「正直に、申し上げましょう」
 ライナスは一度、目を閉じた。瞼を開け、打ちひしがれた英雄の、はしばみ色の瞳を、じっと見つめる。
「宰相としての私は、早くロサリオン殿の気持ちが外に向いてくれることを願っています。いや、こんな言い方では狡いな。一刻も早くジネット殿が他界されることを、願ってすらいる。しかし友としての私は、もう一度二人の笑顔を見たいと思っています。両方とも、偽らざる本心ですよ。矛盾する二つの顔を持つ、それが人というものでしょう。私がジネット殿につぼ料理の作り方を教わったのを、ご存知ですかな?」
「ええ。十二年前、あの武闘会の時ですね。後から妻に聞きました」
「あれは思っていたよりも、難しい。私が料理を不得手としているというのもあるでしょうが。ですが最近になってやっと、あの味に近づけることができるようになりました。一度、ジネット殿に食べて頂きたいと思っているのです。つまらないことのように聞こえるかもしれませんが、戦に疲れた時は、アッシェンの領土一つ取ることよりも、私にとって重要なことのように思える」
「しかし、一方で」
「ええ。先程申し上げた通りです。そちらもまた、偽らざる気持ちです」
 ロサリオンは強く、その瞳を閉じた。吹き始めた風が木々を揺らし、しばしの沈黙を埋める。
「胸の内を明かして頂いて、感謝します。正直、綺麗な言葉ばかり並べられたら、私はあなたを斬っていたかもしれない」
 平静を装ってはいるが、ロサリオンはそこまで追いつめられているということだろう。介護は、恐ろしく人の心を削り取っていくという。最強の傭兵隊の団長という栄光を捨て去ってまで選んだ女性が相手だと、それも尚更のことのように思える。全てを投げうち、愛してきたのだ。
 ロサリオンは、大きな溜息を吐いた。が、どこかその表情には、憑き物が落ちたという感じがある。
「もう少し、お時間はよろしいでしょうか。先程も話した通り、ぜひ妻の話し相手になってほしいのです」
 懐中時計に手を伸ばした。日が落ちる前に、町に辿り着かなくてはならない。そろそろここを出る時間だった。
 ライナスは、そっと時計の蓋を閉じた。
「いいですよ。せっかくですから、夕食も共に」
「ありがたい。では、家の中に戻りましょう。妻はきっと、喜びます」
 ロサリオンに続き、中に入る。家の中は、暑い。ジネットが寒がっていたのかもしれない。そのジネットは、既に目を覚ましているようだった。
「ジネット。今日はライナス殿が来てくれたよ。お花も頂いた。そこに活けてあるものが、そうだよ」
 ジネットは曖昧に頷き、不安げな様子で、厨房に向かうロサリオンを目で追った。
「ご無沙汰しております、ライナスです。以前ここに来た時は、結構な量の雪が降っていましたね。今日は、とても良い陽気です」
 話しかけるライナスの声は、しかしジネットにはよく聞こえていないようだった。それでも彼女はこちらを向き、じっとライナスを見つめる。
 痴呆が進んだ者の、あの独特の眼差しだった。大きく目を見開き、じっとこちらを凝視している。ロサリオンもあるいは、こんな目で見られることがあるのだろうか。
 ライナスはなんとか、溜息を微笑でごまかした。

 少し暑いと感じながらも、時折吹く風は心地よい。
 馬の背に揺られながら、アナスタシアは森へと続く小道を進んでいた。道はまだ、森の外側に沿って続いている。
 一見この奥に人家があるようには思えないのだが、小道には浅い轍があった。たまに、しかし定期的に荷馬車が通っている気配はある。それはこの先に人家がある決定的な兆しでもあるのだが、逆に裏付けは、これしかないと言ってもいい。
 集落から離れたこの辺りには、開墾された跡がない。この地域ではそう遠くない過去まで、怪物の姿も見られたのだという。羊飼い以外で、この周辺を通る者はいなかったそうだ。今は、安全だろうとも聞いた。見た所、視界に映る平野は、丘の稜線ひとつとっても、のどかに見えた。
 森の入り口が、近づいてきた。轍のある小道も、森の中へ続いている。
 その森の中から、馬を引いた少年が姿を現した。背は高く黒髪で、引き締まった、それでいてほどよく筋肉のついた、いい身体をしている。まだあどけなさを残すその顔は、アナスタシアを見てわずかに警戒の色を強めた。
 アナスタシアは、久々の具足姿である。構えるのも当然だろう。
「どちらに向かわれますか」
「こんにちは、少年。この先には、家が一軒あるだけだと聞いているが」
「確かに、そうです。あの・・・この先にいる人の、お知り合いかなにかでしょうか」
 この森の中に、誰がいるのかを知っている者は少ない。近隣の町や村を巡っても、なかなかこの場所を突き止められなかった。いるはずである、という強い確信があったからこそ、そこに近づけたようなものだ。それでも直近の集落でその話を聞けたのは、僥倖に等しい。もっとも見つけられるまでは、いくらでもこの土地を捜索するつもりではあった。
「古い、知り人さ。向こうはこちらを覚えているか、わからないが」
 少年はじっと、アナスタシアを見つめている。思わず剣の柄に伸ばしかけた手を止め、その頬をわずかに赤らめた。
「凄まじいほどの、使い手とお見受けします」
「そんなことがわかる程度には、鍛えられているということだな」
「はい。その、この先にいる人に、剣を教わっています」
 ただ強くなるだけの教えではないだろう。人は、自らよりも明らかに強い者にどう対するかで、その本質を見極めることができる。肝が据わっているな、とアナスタシアは思った。自分と対峙しても、多少動じているという程度で、怯えたり反抗的になっている様子はない。少年の眼差しにはむしろ、こちらに対する敬意すら感じる。
「それ以外にも、多くを学んでいそうだ。なに、私の強さは、お前よりわずかに上という程度さ」
 この少年の腕前も、相当なものだ。十代の半ばくらいだろうか。同じ年頃の自分が立ち合ったとしても、勝てるかどうかは際どいところだったろう。轡を取る様ひとつとっても、実に様になっている。
「そうなのですか。俺にはあなたが、測り知れないほどの腕前を持っているように感じます。わずかだなんて、とてもそんな」
「そのわずかを埋められないまま、終わる剣もある。十年かかる時もあれば、次の瞬間にも、そこに辿り着いていることもあるさ」
「なれるでしょうか、俺は」
「さあ。自分に聞いた方が、早いと思うぞ」
 少年は、俯いた。まだ綺麗な瞳をしているが、屈託もある。アナスタシアは青流団の麒麟児、ルチアナのことを思い出していた。この少年もまた、育ててみたいと思わせるものがある。
 が、ルチアナの時と同じだった。今は、すれ違うだけの縁のようだ。
「強くはなるよ、お前は。先達より、道だけは見失うなと言っておく。さらば。馬上より失礼した」
 アナスタシアは少年を置いて、森の中に馬を進めた。振り返りはしなかったが、名前くらいは聞いておいてもよかったかもしれない。
 この先にいるあの人は、今では弟子を取らないと聞いている。近隣に住んでいるというだけで、たやすく剣を教えたりはしないだろう。にも関わらず剣を教えられているあの少年は、やはりそれだけのものを持っているということか。
 が、そんな想像など、無駄なことだと思い直した。元よりアナスタシアは、この森を生きて出ようとは思っていない。
 木と木の間は密ではなく、木立の間を駆け抜ける風も、森の外と変わらない爽やかさである。
 黄緑色の木漏れ日は、淡いのにも関わらず、まぶしい。光の道を、進んでいるようにも感じた。
 旅の終わり。各地を彷徨いながらここまでやって来た気がするが、その実ここまでの道程は、驚くほどに迷いなく、まるで導かれていたかのようだったことに気づく。
 アナスタシアは、隠しから聖画像を取り出した。手の平に収まるほどのそれに、そっと口づけをする。あまり信心深い方ではないと自覚しているが、今は神に感謝したい。
 森の中央に近づいてきた。開けた土地に、小さな屋敷が建っているのが見える。
 アナスタシアは馬を下り、戟に被せてある覆いを解いた。これを振るうのは、霹靂団を失った、あの戦以来か。束の間、あの戦のことが頭をよぎる。吹雪、血、鋼の匂い。が、今は驚くほど、全てが遠い。
 女が一人、ポーチの椅子に腰掛けていた。長い金髪を風に揺らしながら、ゆったりとした様子で煙管を吹かしている。右腕は、女のすらりとした肢体に似合わない、武骨な義手だった。
 戟を構え、アナスタシアは気を送った。訪いには、これで充分だろう。
 女はこちらに気づいた様子もなく立ち上がり、屋敷の中へと戻っていった。とアナスタシアが思う間もなく、抜き身の剣を手にして、再びポーチに姿を現した。
 アナスタシアは、森を出た。ゆっくりと女に近づき、もう一度戟を構える。こちらを向いた女の髪が、強い風に揺れた。束の間それは天使の片翼か、黄金の川のように見えた。
 女はアナスタシアの方を見て、眉根をひそめ、目を細めた。何度かそのような仕草を繰り返したが、険しいのは目元だけである。ひょっとしたら、目がよく見えていないのかもしれない。
 気を送り続けるアナスタシアをものともせず、女はゆっくりと、左手に剣を構えた。構えらしい構えではないが、わずかに半身で、剣先はこちらをぴたりと指している。かちゃりと小さな音を立てたのは、アナスタシアの鎧か、女の義手か。
 アナスタシアはひとつ、大きな息を吐いた。この戦いから、生きて戻れる自信がない。そのことにどこか、喜びを感じていた。いや、安らぎか。潮合を待つ。打ち込める隙は、今のところない。顎の先から一筋、汗の雫が流れるのを感じた。
 どうやら私の旅は、やはりここで終わることになりそうだ。
 アナスタシアは、あの頃とほとんど変わっていない、女の顔を見つめた。整った面立ち、青い瞳。
 女の名は、"掌砲"セシリア。
 かつての大陸五強、その最強と謳われた戦士だった。

つづく

前のページへ  もどる

inserted by FC2 system