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2,「この戦は地獄を見る。彼女はそう言っていた」

 二人が幕舎にやってきたのは、夕暮れ前だった。
 書類仕事に一段落つけたエドナが目を上げると、弟のラッセル、そしてアングルランドが誇るこの時代随一の英雄、ウォーレスが入ってくるところだった。二人とも具足姿で、戦塵にまみれたままである。
 部下の何人かはまだ書類に向かっているところだったが、エドナは羽ペンを置き、二人を招いた。その二人に部下たちも手を止め敬礼をしようとするが、ウォーレスは軽く手で制し、部下たちに仕事を続けさせた。軍内の規律を重んじる男だが、同時にこうした気遣いも忘れない。
「只今調練より戻りました、元帥」
 ウォーレスが言った。相変わらず、胸が震えるようないい目をしている。
「ご苦労だった。二人とも、楽にしてくれ。ウォーレス殿、今日の弟はどうだった? ラッセルは随分と絞られたような顔をしているが」
 言いながら、エドナは椅子を勧めた。二人とも大男なので、床几はぎしぎしと悲鳴を上げている。エドナ自身も女としてはかなり大きい方で、三人がこうして卓を挟んでいると、幕舎の中が狭くなったようにも感じる。
 二人は、朝から続く大規模な調練から戻ったところだった。叛乱軍が近くにいない時は、こうした調練は日々行っている。
「ラッセル殿の指揮は、日に日に精度を上げている。もう、俺から教えられるようなことは、あまりないのかもしれません」
 ウォーレスの言葉に、ラッセルは慌てて首を振った。
「当たり前の話ですが、姉上、ウォーレス殿相手では、手も足も出ません。せめて一矢報いたいとは思っているのですが・・・」
 三人の中で一番の巨体であるラッセルがその身を縮こまらせているのは、少し滑稽でもある。
 幼い頃から特別身体の大きな弟だったが、それに反して気の小さい男であった。いや、優しすぎるのか。大きな身体を丸めて犬や猫と戯れている姿は、今でも見かけることがある。それについて、エドナは何も言ってこなかった。部下の前ではもっと武人らしくしろと言うこともできたが、穏やかでとても幸せそうにしている弟を叱ることは、姉としての自分が許さない。
 そんな弟の様子を威厳がないとこぼす貴族もいるようだが、他人を意識して作った威厳など、無駄な飾りに過ぎないとエドナは思っていた。どうせ飾るなら、自らが望むように飾るべきだとも思う。
 一方のウォーレスは、これぞ武人といった風体だった。漆黒の鎧に身を包むその体躯は、引き締まっているにも関わらず、まるで肉体そのものが鎧であるかのように、逞しい。鋭い目元としっかりとした眉は、どんな苦境にも屈しない、強い意志を宿している。
 そんな見かけのみならず、今ではこの男こそが大陸五強の一角、中でも最強の戦士と呼ばれていた。エドナも武には自信を持っていたが、敵わないと思わせる、数少ない人間の一人だ。
 この男の姿を見る度に、惚れ惚れとする。軍の立場ではエドナが上となってしまったが、率直に言って、エドナはウォーレスに、深い敬意を抱いていた。
「いや、ラッセル殿は、本当に腕を上げられた。手も足も出ないということはなく、余計な手を出さず、こちらの隙をじっと窺っている。元より堅陣を得意とするようであったが、それにさらに磨きがかかっているな」
 ラッセルが、軽く頭を下げる。照れ隠しにも見えた。
「いつも弟を鍛え上げてくれて、すまない。が、毎日同じ相手では、ウォーレス殿も飽きてしまうだろう。明日、叛乱軍の接近がなければ、私が相手となろう。どうかな?」
「ラッセル殿相手に飽いてしまうことなどないが・・・相手の指揮官が変わるのは、部下にはいい刺激になるかもしれない。いや、こちらからもよろしくお願いしたい」
 ふっと引き込まれるような眼差しで、ウォーレスは言った。
「では、決まりだな。軽く捻られないよう、私も全力でお相手しよう」
 細かい話をした後、二人は幕舎を出て行った。もっとウォーレスと話がしたいと思ったが、特に話すこともないのだった。
 エドナは軽く伸びをした後、自分の幕舎へと向かった。

 斥候の知らせが届いたのは、調練に向かう為、愛馬に跨がった直後だった。
 ノースランド叛乱軍。五千ほどに膨らんだ一軍が、この野営地の北、三キロほどの地点まで迫っていた。
 夜陰に乗じて軍を進めていたのだろう。それも五千を数百、数十単位に細かく分け、野営地のすぐ傍で集結させた。斥候が見つけた時点で五千ということだから、今も数は増え続けているのかもしれない。
 すぐに、全軍に戦闘準備を告げる。調練に向かう予定だった部隊は、すぐにでも出撃できた。全軍といっても、今この野営地にいるのは三万ほどだ。ノースランド叛乱に費やしている兵力は実に七万にも及ぶが、残り四万は、各地に散らばっている。遊撃戦に対処する都合上、どうしても兵力は分散させざるをえない。
 留守居の五千を残して、北に直行し、すぐに丘を占拠した。東西に長く伸びる、小さな尾根のような丘だ。眼下、七、八百メートルほど先に、ノースランドの軍が集結していた。見たところ、三千ほどの軍。
 森を背にしている。二千ほどは、背後の森に潜んでいるのだろう。広めの森で、輜重隊が通れるような道が、何本もある森だ。
 斥候もかなり広範囲に散らしている関係で、敵軍の正確な数はわからない。度々上がる報告から重なるものを抜いて、合計したものだ。やはり森に二千以上の軍がいたとしても、決して驚くようなことではない。
 エドナは双眼鏡で、敵の様子を探った。着ているものも武器もまちまちの集団で、それだけ見れば規模の大きい農民の叛乱といった体裁だ。みすぼらしい、といった感じすらある。が、あの集団は見た目からは想像できないほどに、よく組織されている。平服で行動しているのも、斥候や忍びに発見されないよう偽装しているからだ。ああいった格好の者が数人単位で街道を歩いていたら、見回る斥候も一目では、それを叛乱軍の兵だとは見抜けない。
 平野を挟んで、しばし睨み合いとなった。目の前の平野はこちらの騎馬隊が暴れ回るのに充分な広さだが、同時にあちらの二輪戦車隊を活かすのにも適している。
 エドナは伝令を飛ばし、ウォーレスとラッセルを呼んだ。
「さて、どうしたものか・・・」
 二人が馬を寄せてから、エドナは口を開いた。
「迂闊には手を出せない、と俺は見ますが」
 ラッセルが言う。エドナはこの弟と多くの戦場を共にしてきたが、まず石橋を叩くのが、この弟だった。
「では、どうする。このまま睨み合いか」
「俺が、少しかき回してくるか。場合によっては、あの森を迂回して、敵の背後を窺ってもいい」
 一方のウォーレスは、攻める気である。この二人は組ませれば、案外いい組み合わせになるかもしれないと、エドナは思った。
 そして二人の意見を聞き、決断するのはエドナである。
「いや、ここにウォーレス殿がいることは、先方にも知れていよう。だとしたら、あの森にはただの待ち伏せ以上の、何かがある。ふむ、ここはラッセルの意見を採り、しばらく様子見としよう」
 エドナは振り返り、麾下の兵の動きを見守った。
 丘の稜線に隠れるように、銃兵を配置させている。その後段に、長弓兵。敵がそのまま進軍してくれば、弾丸と矢で、かなりの損害を与えられる。様子見とはつまり、敵の前進に備えるということでもある。
 しばらくの間、そのまま丘の上に布陣していると、叛乱軍に動きがあった。
 兵が中央から二つに割れ、そこを何かが行進している。エドナは再び双眼鏡を手にした。二輪戦車の部隊が、森から出てくるところだった。一列縦隊なら、速度は出せないものの、あの森での進軍も可能である。先頭の戦車に乗っている、赤髪の女。
 時代がかった白いドレスに、肩から斜にかけた緑色のサッシュ。おそらくあれが、叛乱軍の首謀者、ブーディカその人と思われる。
 彼女とはまだ、面識がない。次期ハイランド公ティアとして宮殿に足を運んでいた時期もあるが、不思議とエドナとの縁はなかった。すれ違ってばかりだったが、こうして戦場で相見えているのは、そうした宿運だったということだろう。
 ブーディカは兵たちに向かって、その小さい身体を目一杯動かして、何かを語りかけている。何度か、兵たちがうねるような、弾けるような動きをした。演説でもぶっているようだ。大方、攻めて来ないアングルランド軍を、罵倒でもしていると思われる。ブーディカが大きく拳を振り上げる度に、風に乗ってここまで聞こえてくる、歓声が上がった。
 兵を鼓舞した後、ブーディカは戦車の上から、こちらに向けて望遠鏡を構えた。束の間、双眼鏡を覗き込んでいたエドナと、目が合ったような気がした。
 やがて波が引くように、叛乱軍は森の中へと吸い込まれていった。
「姉上、これは・・・」
 ラッセルが、つぶやくように言う。いつもの不安そうな顔に加えて、戸惑いが見え隠れしている。
「こちらがどう出るか、見ていたのさ。森に待ち伏せがある中、あえて突っ込むか。あるいに何か策があるのか。そして民に偽装して移動する兵を、こちらがどの程度捕捉できるのか」
「今回の動きは、目新しいものでした。あえて先に手札を見せたということは」
「それ以上の何かが、今後あるということさ。もしくは、同じことを、遥かに大きな規模で仕掛けてくるのか。いずれにせよ、様子見であり、調練のようなものだろう。付き合わされたのさ。連中の大規模な調練に」
 いくらか馬鹿にされた格好ではあるが、不思議とそれを、悔しいとは思わなかった。兵の前なので自重したが、エドナはあのブーディカという女に、拍手を送りたいような気分だった。
「こちらはこちらで、実戦の緊張感を得られた、良い調練だったと思おう。少なくとも新兵には、そういう空気を味わわせることができた。もっとも、今日はウォーレス殿と手合わせする予定だったのにな。私個人としては、残念だ」
「それでも、どこか嬉しそうに見えるな、元帥は」
 ウォーレスが言った。この男が、何を感じたのかはわからない。ただ、この男はエドナのことを理解してくれているようだ。
「やはり、ウォーレス殿に隠し立てはできないか。あらゆる手を使って戦に勝とうとするブーディカの姿勢は、それがどんな搦め手だろうと、どこか清々しい。アッシェンでは直接、あの常勝将軍ゲクラン殿とやり合える機会を窺っていたが、この叛乱の女王もまた別の意味で、好敵手だと思える。こちらに配備されて初めて、そのことに感謝したい気分だよ」
「やりたい相手とやる。それは危険なことだと、元帥はよく口にしているが」
「戦場で、相手を選んではいけないということさ。が、今回は向こうの方からやってきた。私はあの女とあらためて、戦ってみたいと思ったよ。きっと、私好みの指揮官なのだろうな。何より彼女は、頭がいい」
「それがわかる元帥も、頭がいい」
 ウォーレスはわずかに、目を細めた。
 笑っているのかもしれないと、エドナは思った。

 斥候を中心とした、部隊の再編。
 偵察範囲を見直し、各部隊長と細かい話し合いを終えて外に出ると、夕刻を前にした涼しい風が、野営地を駆け抜けていくところだった。
 軽く肩を回し、凝り固まった身体をほぐしながら、エドナは野営地を歩き回った。できるだけ人の少ないところを選んで歩いていたが、それでもエドナの姿に気づいた者は、必ず敬礼してくる。それらに返礼しながら、エドナの足は練兵場に向かっていた。結局今日の調練はなく、夕飯を前にしたこの時間では、わずか十人程度の兵が武器を振ったり、体術の訓練をしているだけだ。
 ここに来てからのエドナは特に忙しく、身体を動かすのは夜更け、身を清める前の一時間、基礎的な鍛錬をする時だけだ。以前は調練も含めて一日の半分を激しい運動に費やしてきたことを思うと、忸怩たる思いがある。今はかろうじて、それまでに作り上げた筋力を維持するのが精一杯だ。
 久しぶりに弓でも取るかと思っていると、こちらに向かって駆けてくる馬の姿があった。二頭の馬上に、エリザベスとパンジーがいる。
「そろそろ帰るか。寂しくなるな」
「お姉様、どうしても、一言だけ」
 ひらりと馬上から下り、エリザベスが言った。馬の扱いだけは、ここに来てから急速に上手くなった。
「なんだろう」
「この戦、地獄を見ますわよ」
 束の間、エドナはどう返したらいいか、わからなかった。
 素人が、戦について何がわかる。そんな思いが頭をよぎるが、それは自分の驕りかもしれないと感じ、エドナは開きかけた口を閉じた。逆に、素人にしか見えないものというのは、確実にある。
 そしてそれは、今のエドナにはわからなくなってしまったものかもしれない。エリザベスがこの後海軍でやっていけるとしたら、彼女もまた、その過程で見失っていく視点なのかもしれない。聞くなら、今を置いてなさそうだ。
「聞かせてくれ。お前が急いでいなければだが」
「いいんですの? 姉様が忙しいと思ったから、一言だけでもと思いましたのに」
「今日は早めに切り上げた。ちょうど身体でも動かそうと思っていたところなんだ。しかし、今はお前の話が聞きたい」
「そういうことでしたら・・・姉様は、これまでにない戦をしようとされています」
「古来より、遊撃戦というものは、あった。第三世界帝国時代にも、蛮族は遊撃戦を用いて、帝国の支配に抗った」
「確かに。ですが、今回のそれは、これまでのものとは違います」
「ふむ。どう違う?」
 エドナは、エリザベスがここに来て以来、彼女との会話を楽しいものと感じ始めていた。この腹違いの妹は、本質的に頭がいい。軍を経験する為に部隊に入ってきたが、大人しいのは調練の間だけだった。何度か夕食を共にしたが、その時は本来の彼女に戻っていた。
 エリザベスが、初めて宮殿に姿を現した時を思い出す。歳も離れていて、地位や実績のあるエドナに対し、少しも物怖じしないで話しかけてきたのが、彼女だった。そういうところは確実に、他の弟、妹たちとは違う。
 いや、この異母妹は、様々な意味で他の兄弟たちとは異質だった。
「ノースランドが決定的にそれらの蛮族と違うのは、まず他国との繋がりがあるということです」
「なるほど。第三世界帝国に対抗した蛮族は、孤立してはいたな。一方でノースランドは、他の国々と交易をしている。規模を考えれば、貿易といってもいい。繋がりのある国は、ノースランドを一つの国として認めているとも聞く。特に、エスペランサか」
「今のような大規模な貿易を始めたのは、つい最近のことですのよ。それまでアングルランドによって交易の量は規制されていたのに、宮廷の反対を押し切った宰相の独断で、全面的な貿易を許された」
「知っている。彼らの悲願であった他国との貿易を解禁した途端に、この叛乱だ。恩知らずとも思ったが、この考えには驕りがあると、思い直したこともある」
「お姉様のそういうところ、好きですわ。必ず立ち止まって、自らの考えが独善的なものでないか、吟味して下さる。でも、これはそういう話ではありませんの」
 笑みを作っているが、エリザベスの眼差しは、どこかねっとりしたものを孕んでいる。こんな蛇のような目をすることが、彼女には時々あった。
「どういうことだ?」
「ノースランドは以前より、アングルランドからの独立を目指していた。同じく、西のエニスも。叛乱を起こすならこの二つが同時に、が望ましい。なのに、ノースランドは先を急いだ」
「ふむ。昨晩それについては考えた。やはり、何らかの事情があるのだろうか」
「急がせた、とは思えません?」
 しばし、エドナは考えた。ノースランドは早過ぎた。宰相の言葉が頭をよぎる。まさか、ライナスがこの叛乱を起こさせたのか。
 何故。いや、エニスと同時の叛乱を危惧していたのなら、一応筋は通る。先に片方だけが動いてくれれば、鎮圧する側にとっては都合がいいのだ。思わず、エドナは唸った。
「宰相か。そこまでは、わかった。あくまで、憶測に過ぎないが」
「もう一つ、動かした勢力があると私は睨んでいます」
「エスペランサか」
 南のエスペランサは貿易解禁以前から、ノースランドと交易をしている。南方では良質なイチイが採れ、それはノースランドを含めた北アングルランドの、精強な長弓兵を生み出してきたといってもいい。良い弓が、良い弓兵を育てる。
「まあ、あそこは利が出るのなら、どんな相手とも交易をしますわよ。それで成り立っている国と言ってもいいくらいですから」
 確かに、エスペランサは強大な海軍力を背景に、あらゆる国と交易をしていると聞く。膨大な植民地政策も、広い意味では交易の一環だ。エスペランサの、ノースランドとの貿易は、今のアングルランドにとっては利敵行為になるが、これまで通りアングルランド本国との貿易も続けている。エスペランサはノースランドを国として認めつつも、どちらにも敵対しないという姿勢だろう。さらに言えば、エスペランサはアッシェンとも貿易をしている。
「違う、と言いたいのだな。ではどこだろう?」
「さあ。まだ私にもわかりませんの。この状況はどこにとって有利か、という意味では、見当はついているのですけれど」
「アッシェンか?」
「違うと思います。というよりアッシェンの工作でしたら、叛乱後はもっと大々的に手を組んでいるはずですもの。同盟関係を発表すれば、アングルランドに対する強烈な圧力になりますわ。でも、今の所両者に表立った交流はない。もっとも、この状況はアッシェンにとって、喜ばしいものであることは間違いないのですけれど」
「うぅむ、わからんな。グランツ帝国と我々の関係は悪くないとも聞くし、他国にしても、今のアングルランドと、敵対しても仕方ないはずだ。お前には、見当がついているという話だったが」
「これ以上は、やめておきますわ。確たる証拠はなく、もし私の予想が外れていたら、大変なことになりますもの。ただ、あのブーディカのことです。宰相の手だけに乗って易々と叛乱を起こした、などと考えるのは、過小評価かもしれません」
「確かに、そうだな。わかった。そしてこれは私がどうこうというより、宮廷で話し合われる内容だな。しかし、目の前のノースランド軍は、やはりただの叛乱軍と捉えない方が良さそうだ。いや、この視点だけでも、予想外のことが起きた時に備え、心構えだけはできそうだ。宮廷にいない私は、見えない部分でことが起きても動揺せずにおかねばな。かつブーディカが己の民だけを当てにしているわけではないということを、よく理解しておけということか」
「さすが、話が早い。私にもっと力があれば、こんな話だけでなく、色々と動けることもありましょうに・・・ちょっと、視点を変えた話もしたいのですが、まだお時間よろしくて?」
「もちろん。こうして二人で話す機会は、今後はそうそうないかもしれないからな。いや、三人だったか」
 エドナはちらりとパンジーの方を見た。目が合うとこの従者は露骨に怯えた仕草を示すので、かえってこちらの方が申し訳ない気持ちになる。
「この子のことは、気にしないで下さいな。そうそう、ここではあまり銃の訓練をされていませんのね。せっかく銃兵がおりますのに」
「今じゃどこでも、そうさ。元々不足気味の硝石だが、このところ特に少ない。ドワーフとエスペランサの人間たちが、そのほとんどを独占しているからな」
 硝石は、黒色火薬を作るのに必須である。加えて、ハムやソーセージといった食肉加工にも必要な為、需要はいくらでもある。最近は、糞尿から硝石と同じ性質を持つものを作り出す製法があり、それらで代用することがあるものの、こちらはまだ生産が軌道に乗っていないと聞く。
「なので、最近では銃兵の訓練すらままならない。三、四日に一度、一人五発程度の訓練で精一杯だな。それ以上だと、実戦で撃つ火薬がなくなる。なので訓練では主に、石弓で代用している」
 エドナには虎の子といってもいい銃兵が、百人ほどいる。平時から質のいい訓練をさせてやれればと思うことも、少なくはない。
「理想として、お姉様は銃兵をどのくらいの規模にしたいと考えてらっしゃる?」
「理想か。五百。それだけいれば、戦術的に大きく有利に立てる。あるいは、戦略にも影響しよう」
「その理想が実現するとしたら、その分ノースランド側にも銃が行き渡ることになるでしょうね。こちらを凌駕することはないにせよ。姉様が五百の銃兵をお持ちになる頃には、おそらくあちらは二百。」
「なるほど。言いたいことがわかってきた。武装の充実は、そのまま国力を表しているということか。そして国力の増減は、アングルランドとノースランド、決して無関係ではないと」
「こちらが強くなれば、おそらくあちらも。あくまでこのまま睨み合いが続けばの話ですが、両者の関係は、密接です。相手の装備、規模からも、見えづらい国力を測ることはできると思いますの」
「言われてみれば、そうだ。確かに、わかりやすい装備だけではないな。今日のブーディカの行動にしても、そうだ。結局のところ、人を動かすには金がいる」
「現場にいたわけではありませんが、今日のブーディカの行動には、不気味なものを感じます」
「私は、単に軍の動きとしてしか、それを見なかった。が、そもそもあんなことができるというのは、おそらく今までになかったことだ」
 ノースランド叛乱、対アッシェンと、同時に二つの戦を抱えるアングルランドは、戦の上ではやや苦しい展開を続けているが、ロンディウムを中心とした大きな街ではどこも人が足りないくらい、商業が潤っていると聞く。
 軍需産業の勃興。つまり、対するノースランドでも、似たようなことは起きているだろう。
 加えて、今のノースランドはアングルランド北部を浸食しつつある。アングルランドの築いてきたものを、奪われているのだ。今でこそ国力は圧倒的にこちらが大きいものの、彼我の差はじりじりと迫りつつある。
 はっきりと、危険な状況だということが、エドナにもわかってきた。
「エリザベスの視点は、まこと広いな。お前がいなくなって、寂しいよ。副官として残ってほしいくらいだ」
「ありがとうございます。でも次に会う時は、私も舞台に上がっていたいものですわ」
「海軍で、上を目指すのだな。あまり、血筋を利用しすぎるなよ。どうしたって、足を引っ張ろうという人間は増える。もっとも、お前ならそんなことはものともしないのかな」
「ええ、そのつもりです。それと、エドナお姉様は、もう少し自分の気持ちに素直になった方がよろしくてよ?」
「なんだ、薮から棒に。立場ゆえ、いくらか自分の気持ちを曲げなくてはならないものの、私は今の自分に、それなりに満足しているつもりだぞ」
 エリザベスは、口元に手を当てて笑った。
「最後のは、余計でしたわね。そうでした、別れの前に、ひとつ見せて欲しいものがあるのです」
 言いたいことを言い、頼みたいことを頼む。今や多くの者がエドナに何かしらの気を遣う中、そんなエリザベスの態度は、ある意味気持ちがいい。
 が、そんな彼女が社交界で嫌われているという話も耳にする。何故彼女に悪い噂が立つのか、エドナは知らなかった。知ろうともしていない。目の前にいる彼女が、自分にとっての真実である。
「お前の頼みだ。いいよ。なんだろう」
「話に聞く、弓の技。私にも見せて下さりません?」
 エドナの弓に関しては、広く知られていることだろう。黒帯矢などというあだ名も、いつのまにかついていた。今では指揮する兵が多くなり過ぎたため戦場で使うこともなくなったが、それでも馬には常に、弓と矢筒を備えてあった。
「そうだな。どんな的を射ればいい?」
「何でも。同時にいくつもの的を射れると聞いたことがあります」
「わかった。あそこに並ぶ、人型でいいかな」
 練兵場には訓練に使う、木製の人型が並んでいた。
 帰ろうとする兵に声を掛け、まだ休ませていない弓を借りた。二、三度と弦を鳴らす。よく手入れされた弓だった。こんな所でも、兵の質は測れる。
 三本の矢を同時につがえ、放った。
 いずれの矢も、別の人型の頭に突き立っている。エリザベスは手を叩いて喜んだ。それを見て、兵たちもこちらにやってくる。
「すごいですわね。どこでそんな技を身につけましたの?」
「見よう見まねさ。子供の頃、大道芸で見たんだ。面白いと思って、真似てみた。しばらくはそればかりに夢中になってな。ただの遊びだよ」
「その人も、同時に何本もの矢を?」
「三本だったな。私は五本撃てるが、自分で編み出したんだ。撃ち方が、三本までとはまるで違うからな」
「撃ち方って、どういうことですの?」
 同時に三本までは、それぞれの指の間に矢を挟む。それ以上になると、矢をまとめて人差し指の左側と、親指の腹で挟まなくてはならない。手の大きなエドナだからできることだった。そんな話を聞いている時のエリザベスは、いつもと違う無邪気な光を、その目にたたえていた。
「せっかくだ。もう少し派手なものを見せてやるか」
 兵たちに頼み、拳に収まる程度の石を用意してもらう。エドナは馬に乗った。兵たちが同時に投げる石を、宙で射るという、いわば遊びである。
「向こうから走ってくる。誰か合図をして、一斉に石を空に向かって投げてくれ」
「じゃあ、私が」
 その役は、エリザベスが買って出た。
「みんな、失敗しても笑わないでくれよ。いや、しくじったら出来るまで何度でもやろう。場合によっては、お前たちの晩飯は抜きになるな」
 兵たちが笑った。まだ軍での地位が低かった頃は、こうして兵たちと笑い合っていた気がする。
 少し離れた所から、馬を走らせた。
 エドナは矢をつがえた。もう一度、懐かしい気持ちがこみ上げてくる。
「せーのっ!」
 エリザベスの掛声。互いに距離を置いた兵たちが同時に、石を宙に放り投げる。
 それぞれの石に吸い込まれるように、矢は放たれた。次いで、連続する破裂音。
 確認するまでもなく、どの石も綺麗に二つに割れたことだろう。
 命中させるだけなら、鍛錬次第で誰にでも出来る。が、矢はそれぞれが必殺のものでなければならない。でなければ、こんな技はそれこそただの曲芸だ。昔はそんなことをよく考えていたなと、エドナは思い出した。焚き火を囲み、部下たちにそんなことを語りかけていた自分が甦る。若かったのか。
 落ちた石を集め、兵たちが感嘆の声を上げている。その輪の中に入り、エリザベスも笑っていた。
 この戦は地獄を見る。彼女はそう言っていた。
 次に会えるのは、いつになるだろう。
 そんなことを、エドナは思った。

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