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2,「そう、初めから戦線は、三つあった」

 ひたすらに、南を目指していた。
 ゲクランに付き従い、パスカルたちは無人の原野を駆けていた。供回りは、五十騎に満たない。
 パリシ奪還作戦は、あまりに意外で、あっけない決着をみた。いや、それは青流団、アナスタシアの動きを誰も予想できなかったからそう感じるだけで、開戦以来、きっとそこには、肌がひりつくような神経戦があった。
 勝負の大きな一手は、レザーニュ近郊のあの軍議の場から、既に打たれていたのだ。あの時何故アナスタシアがあんな質問をしていたのか、確認をしていたかの意味は、今になってわかる。遊軍を命じられた時点で、全ての絵図は描けていたのだろう。アナスタシアがそれを誰にも明かせなかったというのも頷ける。あの場でそれを話していたら、遊軍としての意味は薄れ、奇襲の成功もなかったことだろう。
 いや、本当にそうなのだろうか。
 奇襲のみを狙っていたとすれば、それは一か八かの戦略となる。大胆ではあるが、慎重な将というアナスタシアの印象からは、いくらか外れる。あるいはそういうことではなく、もう一段何かしらの軍略があったのかもしれない。何故か博打を打ったという感じがしないのだ。
 ゲクランと並ぶ知将を自負していたパスカルだが、今はそのことを恥じてもいる。今作戦で、あの戦闘宰相ライナスが、明らかに自分たちより上の軍略を編んできたことは痛恨の極みだったが、さらにその上を行く将の存在には、今さらながら戦慄を禁じ得ない。ただ、同時に新鮮な気持ちでもある。この歳になってまだ学べることがあるというのは、幸運なのかもしれない。
 それよりも、ゲクランである。
 パリシ解放の報を聞くやいなや、兵をピエールに託し、単身南を目指した。パスカルは何とか五十騎近くをかき集め、ゲクランを追走している状態である。
 道中、パスカルは何度かゲクランに真意を問うた。しかしゲクランは曖昧な返事を寄越しただけで、ほとんどパスカルたちを相手にしていない。昨晩泊まった城でも、彼女はほとんど口を開かなかった。あるいは自分がゲクランの機嫌を損ねてしまったのかとも思ったが、違う、一人にしてくれの一点張りだった。
 まだ幼い頃から、ゲクランを見ている。喜怒哀楽をよく表す子供だったが、このように人に冷たく当たるようなことはなかった。ここまでふさぎ込んでいるようなところも、見かけたことがない。概ね冷静とはいえ、陰と陽では、明らかに陽の人間である。
 今朝も、誰にも告げずに城を出ようとした彼女を引き止め、なんとか供回りの五十騎が整うまで待たせた。まだ自領とはいえ、姿を消したリチャード隊の足跡は掴めていない。パリシ解放を聞きつけ、ライナスの軍と合流しようというのなら、いつ鉢合わせてしまっても不思議ではない。
 ゲクランは昼食も摂らず、ひたすら馬を走らせている。速度を頻繁に変え、馬が潰れないようにはしているが、かなり際どい走らせ方をしていた。この調子なら、昼過ぎにはパリシに着くだろう。そう、行き先こそ聞いていないが、パリシを目指していると思って間違いないはずだ。
 しかしその脚は、パリシに近づくにつれ、次第に落ちていった。
 ほとんど並足に近くなったところで、パスカルは馬体を寄せた。見ると、その瞼は先程まで泣いていたかのように、赤く腫れている。
「どうされました、お嬢様」
 パスカルが声を掛けると、初めてゲクランはまともな反応を返した。
「今回の戦、あなたはどう見る」
「はっとするほどの鮮やかな奇襲。そう見ました」
「それだけ?」
「そうですな・・・博打に見えるが、実はそうではない。きっとそれは複雑で、奥の深い用兵なのではないかと推測しますが」
「らしくないわ。間違ってないけど、肝心なところを見過ごしてる」
 言って、ゲクランは黙り込む。鼻を何度かすすっている。
 肝心なところ。その言葉と、ゲクランの悲しみの意味を考えた。しばらくして、パスカルも彼女と同じ考えに至ったと確信した。
「なるほど・・・しかしなんと、悲しい指揮官なのでしょうな」
 ただ一つ、戦線から距離を取った部隊。そしてその一部隊のみの作戦。つまり青流団は、どの部隊の力も必要としていなかった。
 アングルランド軍の総数は、レヌブランを抜かしても十二万五千。それ相手に、青流団の五千だけで勝とうとした。対するアッシェン軍は、十二万弱。これら全てを、アナスタシアは味方として勘定していなかったことになる。
「私は、彼女の理解者になれると思っていた。初めて会った時、それは難しいと感じていたのに。けれど一緒に戦うことで、通じ合えるものはあると思っていた」
「いえ、そこまで理解できているのです。充分、通じ合えるはずです」
「私には、あの子の用兵が許せない。けれどそれ以上に、自分自身が許せない」
 微かだが、前方にパリシの長い城壁が見え始める。
「私はまた一歩、彼女を孤独の側へ追いやってしまった」
 何故、アナスタシアは、アッシェン軍を味方と考えなかったのだろう。確かに、青流団は今回を最後にゲクランの元を離れるため、多少の損耗は今後のことを考えるとむしろ好都合ではあった。次は、敵として立ちはだかるかもしれないのだ。しかしゲクランはそれを潔しとせず、自由に動くことを許した。その時点で、アッシェンが青流団を使い捨てにすることはありえない。
 ありえない、と考えて、パスカルは霹靂団のことを思い出した。ありえないというのなら、まさにあれだろう。スラヴァルの盾として常に損な役回りを演じてきたにも関わらず、霹靂団はまさにスラヴァルによって滅ぼされた。
 アナスタシアの人となりは、以前から調べてあった。疑心に駆られるような、弱い人間ではない。しかし信じていた者たちのほとんどは、あの凍てつく原野で眠りについてしまった。幼い頃から家族の様に信頼しあっていた者たちは、もういない。
 青流団の団長代理は、この戦のみのはずである。それでもアナスタシアは霹靂団と同じように、彼らのことを信じたのだろうか。真偽はわからないが、少なくとも同じように守ることにしたのだ。アングルランドのみならず、アッシェンからでさえも。味方が、敵となる。アナスタシアはそれを、既に経験してしまっている。
 マロン川に架かる橋を渡り、ゲクランは速度を上げた。青流団が艀を下りたのは、この辺りか。川沿いに木立が点々としており、上陸時、包囲軍にその姿を見られることはなかっただろう。よしんば途中で気づかれたとしても、さすがに五千全部の奇襲は、先方も予測できなかった。夜襲とは大兵力で行うものではない。五百か、せいぜい千といったところだ。見張りが近づく青流団の先頭集団を発見できたところで、その闇の向こうに五千の兵が控えているとは、さすがの宿将ダンブリッジも考えていなかった。
 城外に、駐屯している部隊が見えた。天幕の一群から離れたところで、部隊同士が演習をしていた。
 陣には、青流団の旗が翻っている。
「アナスタシアは」
 ゲクランが、兵の一人に声を掛ける。兵は驚いた様子で彼女を見つめたが、すぐに本陣と思わしき天幕を指差した。
「先程まで、あちらにいらしたと思います」
 ゲクランは馬を下り、そちらに向かって駆けた。パスカルも続く。
 アナスタシアは木箱に腰掛け、ぼんやりと調練の様子を眺めていた。ゲクランの姿を見て周囲の兵はざわついたが、アナスタシアはのんびりとパイプを口に運んでいた。
「アナスタシア」
 ほとんど叫ぶように、ゲクランは言った。パイプをくわえたまま、銀髪の傭兵隊長が振り返る。
「ああ、ゲクラン殿でしたか。無事で何よりです。まだ北にいると思っていましたが、どうされました」
 相変わらずの茫洋とした空気を漂わせたまま、アナスタシアが立ち上がる。
「私は、私は・・・」
「おいしいところを、持っていってしまいました」
「そうね。本当に、そう」
「随分と、急な用事がありそうですが」
「あなたに、会いにきたのよ」
 アナスタシアは、首を傾げた。
「ごめんなさいね。あなたを、一人にしてしまった」
「なんの。指揮官は皆、孤独を抱えているものでしょう」
「そうじゃない。そうじゃないのよ」
 ゲクランは、アナスタシアを抱き締めた。あるいは、涙を見せたくなかったのかもしれない。
「再会した時、あなたは少し、変わっていた。新たに、信頼できる人ができたのでしょう?」
「・・・そうですね。もう二度と、会わないかもしれませんが」
「私のことも、信頼して頂戴。あなたは、私の友だちなんだもの」
「友と、以前も仰られた。私も、そうだと思っていますよ」
「それなら、やっぱりごめんなさいね。信頼させてあげられなくて、ごめんねぇ・・・」
 アナスタシアの肩に顔を埋め、ゲクランは身体を震わせた。
 ゲクランが泣き止むまで、アナスタシアはずっとその背中をさすっていた。

 

 無事、アッシェンの国境線を越えた。
 ダンブリッジのパリシ包囲軍が壊滅してから、一週間が経つ。彼は今、アッシェンに虜囚の身となっている。アングルランド軍中将である。悪い扱いは受けていまい。
 包囲軍の兵も各地でなんとか集結し、保護され、撤退の指示を受けている。大敗を喫したことを考えれば、犠牲は驚く程少ない。すぐには無理でも再起に時間はかからないだろうと、ライナスは思った。
 それにしても、とライナスは思う。ああも鮮やかにやられてしまうと、敗北もかえって清々しい。どうせ負けるのなら不運の重なったものではなく、派手にやられたいと思っていたが、陥陣覇王はそれを叶えてくれた。綺麗に、負けさせてくれた。
 今はリチャードの隊と合流し、北西に進路を取っているところである。予想通り、ここまでアッシェン側の追撃はない。もっとも、少数で追撃してきても、こちらは反撃できるだけの余裕を残してあった。
 二剣の地に入る。今はアングルランド、アッシェン双方に剣を捧げる領主たちの治める、中立地帯である。
 ここからは部隊を細かく分け、それぞれが配備予定の地へと向かう。南の戦線、西のアングルランド領、そして大半はさらに西へ向かい、船で帰国の途につく者たちである。
 リチャードの隊は、相変わらずの放浪を続ける。ライナスと何人かの幕僚は、手近な大陸鉄道の走っている町へ向かい、一足早く本国へ帰還予定であった。ライナス自ら決済しなくてはならない案件が、積み上がっている。戦場の空気が吸えなくなることは寂しい気がするが、しばらくは宰相としての毎日が続くことになるだろう。
 道中、一つ朗報があった。青流団の元団長、あのロサリオンがロンディウムの宮殿にやってきたというのだ。そのまま、街に滞在しているらしい。
 彼の家には、この決戦の前にも訪れた。アングルランドへの出仕も、それを待っていると伝えた。おそらく妻のジネットが他界し、ライナスを訪ねてきてくれる気になったのだろう。ジネットがもう長くないというのは、ライナスがこの目で見た通りである。
 つまり青流団の次の雇い主は、このアングルランドになる可能性が高い。今回、煮え湯を飲まされた相手である。頼もしいことこの上ない。
 しかし、とライナスは胸に手をやる。
 ジネットが、死んだのか。その死は、ライナスを打ちのめす。
 四千王国に生まれ、若い頃はそれなりに擦れた人間だったそうだが、その時の苦労からか、ライナスと出会った時の彼女は、善意の塊のような女性だった。
 戦で敵味方、どれだけの兵が死のうが、ライナスはそれに心動かされたことはない。ただジネットのような、あるいは市井や農村に生きる人々を不幸が襲うと、妙に心がざわつく。おこがましいとわかっていても、どうしても同情を禁じ得ないのだ。
 本当は支配者に向いていないのかもしれないと、自分を振り返る。貴族を代表とする大概の支配者は、自分の取り巻きには溢れんばかりの慈愛を示すが、無辜の民の命など、虫けら程度にしか思っていない。ライナスはその逆だ。力ある者がどんなむごたらしい死に方をしてもどこか当然と考える一方、力なき者が蹂躙されることに、ひどい憤りを感じることが、多々あった。
 向いていたのは支配者ではなく、それに反抗するもの、たとえば叛乱の首謀者といった類のものなのだろう。民草として生まれていたら、きっとそんなものになっていただろうという予感がある。
 同時に、今の地位に満足している自分もいた。ライナスはこの百年戦争に決着を着けた後、そのまま他のユーロ諸国も併呑するつもりでいる。敵は、強大である。これは、ただの野心に過ぎないだろうとも思う一方、結局のところ、強い者に立ち向かいたいという、青臭い情熱なのかもしれないとも思う。
 戦が終わったとはいえ、今も行軍中である。斥候は、方々に放ってあった。前方、街道の西から引き上げてくる斥候の足が速い。何か、異常があったのだろう。
「前方5km、城外に展開している軍があります。その数、およそ二千ほどかと」
 言った兵の遥か後方に、自軍のものではない斥候の姿があった。まだ敵と認識するには早いが、先方もこちらを探っている。
 ライナスは、馬上で付近の地図を広げた。エクレビヨン、という町が近くにある。一瞬、紋章官を呼ぼうかと思ったが、今はあらゆる情報に通じた囀る者がいる。
「すぐに、マイラを呼べ」
 行軍の速度は緩めない。しばらくして、マイラが馬を駆ってきた。今は兵の身なりで、手には分厚い冊子を携えている。
「エクレビヨンという町の軍が、展開しているらしい」
「少々、お待ち下さい」
 マイラは冊子に目を落とした。様々な情報を収集している囀る者たちだが、マイラ自身はこの地を訪れたことがないと見える。自身で調査したものについては、いちいち冊子など見なくても全て答えられる愛娘だ。
「二剣の地ではありますが、アングルランドに対しては、やや敵対的であるようです・・・いえ、領主、及びその跡取りは従順であるようなのですが、実質的な権力を持った娘が、対アングルランドの旗を振っているようです」
「娘? 深窓の令嬢とはいかないわけか。今時、珍しいことではないが」
「武芸に秀で、また兵たちの信頼も厚いようです。弱冠十七歳にして、エクレビヨン軍の総大将でもあります。兄たちに代わって、自分がこの地を受け継ぐと公言しているそうで」
「とんだじゃじゃ馬だな。そんな娘が軍を展開させているとは、良からぬことを考えてもいそうだ。名は」
「エティエンヌと申します」
 ただ、わずか二千である。つい先程、南の戦線に向かう部隊と分かれたとはいえ、まだこちらには六万近い兵力があった。いや、負傷兵も連れているので、実質的には五万くらいか。ともあれ敵の指揮官は、敗軍であるライナスたちに応戦の構えを取ることで兵を鼓舞し、自らの統率力を高めようという腹だろうか。
「無視するのが、得策かと」
「させてくれれば、そうしよう。いささか侮辱的な振る舞いに、お灸を据えてやりたい気持ちもあるが」
「おう、何だか面白そうなことでもあるのか」
 いつの間にか、リチャードがやってきていた。その身の丈に合う巨馬に跨がる威容には、見慣れていても圧倒されるものがある。
「何もありませんよ、陛下」
「いや、何かありそうだぞ。そして俺は、少し退屈している」
 リチャードの被る略式の王冠は、先のゲクランとの戦で、ひしゃげている。ゲクランを討ち取り損ねはしましたが、陛下は存分に戦を楽しまれたようでした、とはリチャード隊副官アイオネの言だ。
「それに、なにかいい女の匂いもするのだ」
 今は王と宰相という立場だが、ライナスはかつてこの王が冒険者だった時代に、旅を共にする従者だった。当時はリチャードに王位が転がり込んでくるとは考えておらず、ただの伯父と甥の関係でいられた。しかしリチャードは今でも、ライナスをただの甥っ子として見ている節がある。
「おうおう、あれか。最近は目が悪い。誰か、遠眼鏡を寄越せ」
 エクレビヨンの軍。市壁を背に、報告通り二千の軍が展開していた。おや、とライナスは思った。思いの外、統率の取れた軍である。既に臨戦態勢で、いつこちらに襲いかかってきても不思議ではない。
 しばし、使者を出そうか迷った。こちらの兵たちにも、徐々に緊張が走っていくのがわかる。
「一撃を加えて、城に籠ろうといったところでしょう。小賢しい、とは思いますが」
 副官のシーラが言った。冷たい微笑の影に、あるかなきかの嫌悪の線がちらついている。
 補給線の断たれたこちらの軍は、同行しているわずかな輜重隊の糧食で、なんとかやりくりしている状態だ。攻城兵器も持ち合わせておらず、包囲したところで、落とすのにはそれなりの犠牲と時間がいる。まともに相手にするのは下策だ。適当にあしらい、さっさとこの地を去るべきである。しかしなるほど、この兵力差でも一撃を加えて城に籠れば、一応はこちらに勝ったという形は作れる。
「わずか二千で、アングルランド軍六万を追い払ったと吹聴したいのか。面白いな。エティエンヌといったか。しかしどこか、認める気になれない」
「まあそう言うな。見てみろライナス。あの大将は、なかなかのべっぴんだぞ」
 沸き上がり始めたライナスの苛立ちを削ぐように、リチャードが呑気な声を上げた。手渡された望遠鏡で、敵将の様子を見てみる。
「ふうむ。しかしまだ、子供ではありませんか」
 敵大将。兜を小脇に抱え、長く黒い髪を風になびかせていた。少女である。凛とした面持ちで、真っすぐこちらを睨みつけている。
「あれは、いい女になるぞ」
「だから、何だというのです」
「俺は、あの女を抱くことにした」
 白い髭をしごきながら言うリチャードに、ライナスは舌打ちと共に望遠鏡を投げつけた。不敬な行いだが、今この時は、冒険王子とその従者に戻っていた。
「なんだ。またそうやって、臍を曲げるな」
「失礼。陛下のそういったところに、散々振り回されてきたものですから。言っても聞かないでしょうから、好きになさればよろしい」
「では陛下、その娘とやらを捕縛しますか」
 いつの間にかアイオネが、兵を連れてやってきていた。艶やかな黒髪の美しい指揮官である。
「そうだなあ。ただ捕まえて、すんなりと抱かせてくれるだろうか」
 リチャードは、難しい顔をして唸った。この男が真剣な様子を見せるのは、大体こんな時である。本来持っている知性は高いのだが、時折どうしようもない愚者に見える時があった。
「なんなのだ、ライナス。いつまでも不満そうな顔をして」
「いや、これではただの賊だと思っただけです。あの娘を抱きたいと思うのは結構。されど一応、戦の体裁は整えて頂きたい」
「うぅむ。そうだなあ。では言われた通り、戦っぽくやるか。アイオネ、二千を用意しろ」
「すぐにでも。他には何か」
「殺すな。殺されるな」
「了解です、陛下。各員、捕縛用の縄の用意を」
 そんなリチャードのやりとりを、マイラが潤んだ瞳で見つめている。ライナスは頭を掻いた。かつてのとはいえ、大陸五強となるとすぐに熱を上げるマイラである。愛娘には手を出すなと、以前リチャードには固く釘を刺しておいた。親族とはいえアングルランド国教会では結婚可能な続柄なので、事前に牽制していなかったら、今頃関係を持っていたかもしれない。
 副官のアイオネは、リチャードの今の愛妾である。新たな女が増えると聞いても、見たところ、平静を保っている。リチャードの抱く女はアイオネだけではないので、一人くらい増えたところでどうとも思わないのだろうか。いや、と思い直す。そんな見方をしてしまったことを、ライナスは胸の内で詫びた。アイオネは、そんな安っぽい女ではない。
 すぐに、二千が編成された。その間ライナスたちの部隊も一応の戦闘態勢を整えつつ、城から距離を取った。
 こちらの構えを見て、エクレビヨン軍に動揺が走っているのが見て取れた。再び、望遠鏡を覗き込む。エティエンヌがきびきびと各部隊に指示を出しているのが見えた。派手な羽飾りのついた兜を被り、その面頬を下ろした。
 使者のやり取りも、そして矢合わせすら行わず、二千の部隊同士が動き出す。
 おもむろに、リチャードが突出した。王は、ただ真っすぐに敵大将に突進するのみだ。少し後ろで全体の指揮をしているアイオネが、部隊を小さくまとめる。
 かわすように、敵騎馬隊は右に向かった。中々に、いい動きだ。回り込み、側面を窺おうとしたのだろうが、ただ一直線に自分に向かってくるリチャードを見て、エティエンヌは焦っているようだ。兜の後ろを流れる、長い黒髪が揺れていた。一方のリチャードはぼろぼろの長衣と白い髭を激しくなびかせて突進を続け、さながら悪鬼のような有様である。
 リチャード隊は二つに分れ、まずは一隊がそのまま後方の歩兵を蹴散らした。兵たちが手を抜いて攻撃しているのがよくわかる。殺すな、という命令通りの動きである。もう一隊は、リチャードの背中を追っている。
 潰走する歩兵を見て、エティエンヌは兜を脱ぎ捨てた。邪魔と感じるのなら、最初から被らなければいい。ライナスはそう思った。騎馬隊同士が、ぶつかり合った。
 一度の馳せ違いで半数近くを突き落とされ、少女の顔にはっきりと恐怖の色が浮かんだ。だが素早く反転し、さらなる突撃に対応しようとしているのは、充分賞賛に値する。恐怖しても、それに呑まれていない。
 二度目の激突で、エティエンヌの周りは百騎程を残すのみとなった。
 よく調練された兵であるのはわかるが、今回は相手が悪過ぎた。リチャード隊は騎馬隊だけなら間違いなく、大陸最強の部隊である。
 むしろこれ相手に互角以上に渡り合ったという先のゲクランとの戦を、ライナスはこの目で見たかったと思う。リチャードの王冠がひしゃげているのも、ゲクラン自身の一撃によるものだ。その戦では一度、リチャードの巨体が馬から宙高く吹き飛ばされることがあったのだという。彼女の操る、破砕棍とかいう武器によるものだ。しかし王の不死身っぷりに驚愕したのはゲクランの方で、その時の顔は見物だったと隊の兵は言っていた。
 三度目。もはや単騎となったエティエンヌを、部隊から飛び出したリチャードが猛追した。反転しようとしたところで王の長い腕が伸び、少女の襟首を掴んだ。そのまま高く腕を突き上げ、エティエンヌは宙づりになった格好だ。
「退けい。お前たちの大将は、このリチャードがもらった」
 こちらまで聞こえてくる大音声に圧倒され、残る敵軍は我先にと城門の中に吸い込まれていった。馬から落ちた敵兵の多くは、既に捕縛されている。地に放り投げられた少女に、アイオネが縄をかけた。
 ライナスは、リチャードの元に向かった。エティエンヌと主だった将校たちが、膝をついて座らされている。リチャードは、座るのに丁度良い岩の上に腰を下ろしていた。犠牲は無し、という報告の声が聞こえる。
「おう。エティエンヌとか言ったかな。どうして我々に、攻撃の構えを取ったのだ」
 リチャードの物言いは、今のところ常識的である。そのことにライナスは胸を撫で下ろした。
「貴様たちこそ、そのような大軍で我らの地に挨拶もなく入り、無事に済むとでも思ったのか」
「ふむ、考えもしなかったな。双方無事で、良かったとは思うが」
 エティエンヌの顔が、真っ赤に上気した。見たところ、両軍に死者は出ていない。ただ、落馬した兵の中には、手足を折った兵くらいはいるだろう。
 立ち上がろうとしたエティエンヌの肩を、アイオネが押さえつけている。
「よい。その縄を解いてやれ」
 解放されたエティエンヌは、どうしたら良いかわからないといった様子だった。やがて困惑を怒りで覆い隠し、威勢よく言った。
「何が望みだ、リチャード。身代金代わりに、エクレビヨンが欲しくなったか」
「いや、お前が望みだ。今日から、俺の女になれ」
「なっ・・・!」
 少女は、短刀の柄に手をかけた。一気に引き抜き、刃を自らの首筋に当てる。
「世迷い言を。この首が欲しいのなら、そう言え。今すぐにでもくれてやる」
 エティエンヌは、かなり激情型の人間のようだ。どこか、純粋なものを持っているのだろう。敗軍の将の、覚悟も持っている。その軍略を小賢しいと思ったライナスだが、こういった部分は嫌いではない。今回のことも彼女自身の軍略ではなく、取り巻きが吹き込んだ策なのかもしれない。
「おう、ますます気に入ったぞ。望みはなんだ。俺にできることがあれば、叶えてやるぞ。ただし、俺の望みも叶えてもらう。俺の女になれ」
 エティエンヌは明らかに動揺し、狼狽していた。口を開いては唇を噛むということを、何度も繰り返している。だが捕縛されたままの部下たちの方を振り返った後、絞り出すように言った。
「部下の、解放を」
「よし、そいつらの縄もほどいてやれ」
「敗軍の将に寛大なるご処置、感謝致します。ただし・・・」
 再び少女は短刀を振り上げ、それを肩口に当てた。そして引きちぎるように、長い黒髪を切り落とす。
「女としての私を望むというのなら、それはあきらめて頂きたい。今この時より、我が身は陛下のもの。後は煮るなり焼くなり、好きになされるがよろしいでしょう」
 今度は自ら跪き、エティエンヌは頭を垂れた。白いうなじが、痛々しい。足元の乾いた大地に、雫がいくつも落ちている。
「何だか、かわいそうなことをしたのう。ライナス、どう思う」
「敗軍の将です。自らの軽率な判断で、多くの命を危険に晒した。私なら、首を落としていたかもしれませんね。あるいは、それに匹敵する身代金を要求していたでしょう」
「ひどいことを言うのう。俺が自分の女に、そんなことをするわけがないではないか」
「まあ、これは陛下の戦だったのです。戦利品について、私がとやかく言うことはありませんな」
「女を、物扱いするな」
「はあ。よくその口で言えたものだと」
 アイオネが、口に手を当てて笑いをこらえている。
 ライナスは馬に跨がり、部隊の方へと戻った。先程斬り落とされた黒い髪の束が、ライナスを追い越すように風に舞い、原野に散っていく。
 振り返るとアイオネが、エティエンヌを立ち上がらせているところだった。しかし、その足元はふらついている。倒れかけたエティエンヌを、リチャードが身を屈めて支えた。
 少女は目に涙を溜めたまま、じっと新たな主の姿を見つめていた。

 

 白と青を基調とした内装は、ポンパドゥールの趣味だろう。
 湖畔の間と名付けられた大広間で、締めの軍議が行われようとしていた。
 議場には各部隊の将軍と副官だけではなく、その幕僚、有力な騎士も集まっていた。大半はパリシ奪還作戦に携わった戦士たちだが、文官たちの姿もちらほらと見かけた。
 今回の主役と言っていいアナスタシアは、高さ四メートルはあろうかという装飾窓の近くで、パイプをくゆらせていた。窓の向こうの何を見つめているのか、まぶしそうに目を細めている。ゲクランはその陶器の人形のような滑らかな横顔を、しばらく眺めていた。今日は、いつもよりも化粧が濃い。
 広間の中央、やや窓寄りに、地図が張り出されている。その後ろに青流団の将校の席、中央を挟んで向かい合う形で、諸侯たちの席があった。
 開始の時間が近づき、次々と将校たちが入ってくる。既に到着していたフローレンスが、ボードワンとラシェルを丁重に出迎えていた。この三人は奪還軍本隊として、共に激戦をくぐり抜けた仲である。
 そしてうっかりと見落とすところだったが、辺境伯ラシェルの傍には、副官のブランチャが控えている。闇エルフという本来目立つはずの存在だが、気配でも消しているのか、この女は注意していないとそこにいることに気づかない時があった。今回の戦では、あの"馬殺し"エイダを討ち取るという殊勲を上げている。殺し損ねてはいるが、エイダを倒すことで、奪還軍は一時期その戦況を盛り返した。
 少し遅れて、ボードワンの息子イジドール。遥か北、自領でレヌブランと瀬踏みのような戦をすることとなったが、彼の卓越した指揮に期待できなければ、奪還軍本隊にボードワンとその主力を残すことはできなかった。目立った戦果こそなかったものの、影の功労者である。
 アッシェン王アンリと、宰相ポンパドゥールも入場してきた。アンリは今回の戦いを経験することで、王としての器を身につけることができただろうか。いや、この少年王は初めから、何か底の知れないものを持っていたような気がする。まだ本人が王の隠し子であることを知らない時から面識があるが、その時からゲクランは、この少年に何かを感じていた。
 ポンパドゥールは相変わらずのきらびやかな衣装で、周囲を威圧している。宮中、ゲクランとは犬猿の仲とされているが、事実ゲクランはこの女を好きではない。政治、特に財政に秀で、容姿すらもゲクランより優れていると認めている。人間的な部分で、相容れないのだ。今もゲクランが手を振っても、それを無視して彼女は席に着いた。こういうところが、まず嫌いなのだ。
 最後に、フローレンスの夫、レザーニュ伯ジェルマンが、取り巻きを連れてやってきた。開始時間を過ぎての登場で、戦場から真っ先に逃亡したことまで考えると、どの面を下げてここにやってきたのかと思ってしまう。ただ、この男は怒らせると面倒くさい。ゲクランは放っておくことにしたが、ポンパドゥールはジェルマンを睨みつけていた。今回の戦の経緯については耳にしているだろうし、陛下の御前で遅刻してくるという不敬に対するものなのかもしれない。
 全員が席に着いたところで、ゲクランは立ち上がった。
「さて、全員揃ったわね。今回の議題は、パリシ奪還作戦における青流団の働き、その説明と分析が主なものになるわ。戦も終わったことだし、本来だったら今頃各自は自領に帰って、そこで今回の戦について考えているところかしら。だからアングルランドのような国軍のないアッシェンで、こうした振り返りの軍議というのは異例かもしれないわね。ただ、今後の為にも一度、情報は共有しておいた方がいいと思って。じゃあ議題を進める前に、アンリ十世陛下から、ご挨拶があるわ。一同、傾聴」
 軽く咳払いをして、アンリが立ち上がる。一同の視線を一身に浴びても、この少年に怯むようなところはまるでなかった。
「皆、今日は忙しい中、集まってくれてありがとう。堅苦しい挨拶はなしにしよう。今回は主に、アナスタシア殿、青流団がいかにして包囲軍を破ったかに、つい、て・・・」
 そこで、アンリは何度か咳払いを繰り返した。十二歳のアンリの声は、開戦前のものより少しだけ、低くなっている。声変わりが始まっているのだ。
「失礼。どうも喉の調子が悪くてね。青流団。彼らがいかにしてパリシを解放したか、その方法、軍略についてご教示頂ける機会を設けるべきだと思った。これは、ゲクラン殿の提案だ。僕も、いや私も、そう思う。アナスタシア殿、今日はよろしく頼む。私も含め、今日集まった中にはこうした場に不慣れな者もいるだろう。おかしな質問をすることもあるだろうが、その時はどうか、その寛大な心で許してやってくれ」
 アナスタシアが、頷く。あの時の軍議のように、その顔にはっきりとした表情はない。無表情というより、いつものぼんやりとした顔だ。
「では、あらためて軍議を進行するわね。アナスタシア、お願い」
「青流団団長代理、アナスタシアです。では、ご説明申し上げます。質問等ありましたら、いつでも」
 アナスタシアは席を立ち、張り出された地図の方に向かった。ドワーフの副官ベルドロウが、書類の束を携えてアナスタシアの傍に立つ。
「まず、青流団の配置ですが・・・まず、ここノルマランに駐屯したことを不可解に感じられた方もいらっしゃると窺いました。それについて、お詫び、ならびにご説明致します」
 ゲクランは、隣りのパスカル同様、吹き出しそうになった。不可解に感じた者もいる? いや、誰一人、その意図はわからなかったのだ。それは、敵総大将のライナスも含めてだ。いきなり飛ばしてくれるなと、ゲクランは思った。
「我々はこの位置から、一息でパリシを窺えると判断しました。マロン川で働く、その流通を担う者たちは、雨後、増水した川の勢いを利用して、半日でパリシに辿り着くと言います。あるいはそれも可能かもしれないと、私もこの地を旅していた時に感じました」
 早速、フローレンスが挙手をする。アナスタシアは頷いて、発言を促した。
「マロン川は、我らがレザーニュとゲクラン様の領地の、国境線。いわば地元と言っていい地域なのに、私はそのことに気づきませんでした。いえ、艀を使い、かなりの速度で荷を運ぶ者たちの話は聞いたことがあります。それをこんな形で利用できるとは、私には思いつくこともできませんでした」
 言ったフローレンスは、四方に頭を下げた。地元に利用できるものがあることを知らなかったのは、ゲクランも同じである。そこに気づいてか、ポンパドゥールはこちらに視線を送っている。ゲクランも立ち上がった。
「それは、私も同じね。聞いたことはあるし、実際目にしたこともあったのかもしれないけど・・・」
「ノルマランは、ゲクラン様より私が預かった町。まずは主に代わって私めが・・・」
 パスカルまで立ち上がり、いきなり謝罪合戦の様相を呈し始めたことで、口火を切ったフローレンスが慌てている。アナスタシアは軽く手を上げて流れを遮った。
「地元だからといっても、意外とこうしたことは、目が届かないものなのかもしれません。今回の出席者の方々の中には、パリシ在住の方も多いと聞きました。今この街で最も使われている馬車は何なのか、ご存知の方はいらっしゃいますか? 二頭立て、四頭立て、二頭立てに限っても、ディリジェンス、バルーシュ、ベルリーネ、クーペ、他にも様々な車種がこの街を走っています。どなたか、ご存知でしょうか?」
 出席者たちは、顔を見合わせている。
「わかりました。地元の方でわからないのなら、こうしたことを知っている方が稀なのでしょう。お三方、どうか過失とは思われませんよう。そして敵大将ライナス殿が気づかなかったのも、あるいは当然なのかもしれません。ちなみに私が見た限り、マロン川での河川交通の主は、小型船です。それもごく小さなもので、上りは河川沿いに引かれた用水路の両端から馬で引っ張っていきます。これは見たことがある方も多いでしょう。ノルマランで艀が使われているのは、付近で採れる材木をパリシに売っている業者が多いからのようです。この辺の事情は、私も町に駐屯してから知りました。しかし実際のところ、業者は少数です。もっとも、増水した川を艀で下る者たちがいる、というだけで、私には充分でしたので」
「では、増水後に艀を使って大規模な奇襲をかける、というのは、以前から温めていた策なのですね」
 フローレンスがこうした場で堂々と発言していることに、ゲクランは驚いていた。戦後、一皮むけたような感じがしていたが、その成長を目の当たりにすると、わずかだが頬がほころぶ。
「いえ、そもそも奇襲になるとは考えていませんでした。艀のことも、この時点で先方は承知していると想定していましたので。ただ、その上でアングルランド軍にとって嫌な動きができるはずだとも思っていました。ひとつだけ、極めて進軍速度の速い部隊があるわけですから。喩えるなら、剣で戦い合う者たちがいる中で、一人遠くから弓を引き絞っている者がいるといった感じでしょうか。こういう部隊がいることそれ自体が、ライナス殿への圧力になると思っての配置です。どうやら、先方はこちらがそうであると気づくことはなかったようですが。それと、以前からの考えというのもありません。ゲクラン元帥に遊軍を命じられるまでは、青流団はゲクラン軍に随行すると思っていました」
 真っ向から全ての意見を否定されたフローレンスだが、その目は輝いていた。なるほど、これは伸びる。相手の話が上だと感じると、すぐに吸収してしまう素直さが、この娘にはある。下らない自尊心に足を引っ張られることがないのだ。
 今度は、ボードワンが口を開く。
「雨が、降らない可能性があった。しかし雨は降り、これ以上ない最高の機を掴んで、青流団は奇襲に成功した。私には、あの雨が降ることを、事前に予知していたかのように思えるのだが」
「晴天が続く可能性はありましたが、概ね、降るだろうという話は聞いていました。そういう時期だという話を、町や村で小耳に挟みましたので。最高の機、と仰られましたが、私の理想としては、到着後二日目の雨が望ましかったですね。願望の話をしても意味がないことを承知で言うと、その時に激しい雨が降っていれば、パリシ周辺以外、どの戦線でも戦闘が起こることはなかったでしょう。三日後には決着が着き、双方共に犠牲は最小限だったと思われます」
 老将が、唸りを上げた。確かにその形であれば、各戦線の開戦前に、いきなりパリシは奪還できていたことになる。
「細かいようだが、二日、というのは」
「大量の艀を、準備する必要がありました。五千の兵と、替え馬抜きでも二千の騎馬を運ぶだけのものが必要でしたので。用意するのにどの程度の期間が必要か、ノルマランに来るまではわかりませんでしたが、結果として、最低でも二日は必要だったということです。いや、たった二日で揃えられると言った、ノルマランの職人たちの腕前には舌を巻きましたが。ただ丸太を繋ぎ合わせただけでできるようなものでもないようでしたが、この辺り、一応詳しく説明します」
 それからはベルドロウと交互に、艀を用意し、港湾労働者たちの協力を仰ぎ、実際に運用に至るまでの道筋が説明された。川を下る際、五十の兵と、三十の騎馬を失ったことも報告される。兵はいずれも助かったが、騎馬三十を失ったのは痛恨の極み、とアナスタシアは語った。艀は艀の船乗りたちが先導したものの、多くは団員たちの手によって操られており、こちらが思っていた程すんなりと事が運んだわけでもないらしい。
「今回の私の用兵を鮮やかな、と口にしている方々もいるようですが、実際は泥水にまみれ、上陸時にはとても見られたものではなかったと思いますよ」
 聞いて、議場の何人かは笑っていた。アナスタシアの語り口は流れるようで、求められればこんな話し方もできるのかと、ゲクランは少し驚いていた。口数が少ない、という印象だったからだ。この娘は、実に様々な顔を持っている。
「雨は降るだろうということでしたが、もし仮に降らなかったら、どうするおつもりだったんで?」
 ボードワンに続き、イジドールが訊く。
「二週間くらいは、待つつもりでした。その頃は各戦線の趨勢も決まっていたので、その後の動きはそれ次第かなと。いくつか、想定はありました。一つ目として、奪還軍本隊と迎撃軍への介入。奇襲とはならなかったでしょうが、背後を取れれば挟撃となり、また敵輜重隊の進路を塞ぐ事にもなります。二つ目として、ゲクラン軍とリチャード隊への介入。リチャード隊は全てが騎馬という特殊性があったのでどんな戦いになったかはわかりませんが、艀の木材は先端を尖らせ、地中に埋める馬防柵として使えるようにはしてありました。それも、こちらの願望よりも降雨が遅かったので、できたことですが。川が増水せず、艀の移動に速度が得られない場合、まずこの二つを考えていました。ただ・・・」
 ただ、の先を、ゲクランは期待した。艀を馬防柵に使う周到さはさすがだが、ここまでだったらゲクランでも思いつく。
「三つ目として、そのまま川を下り続け、途中で北上。レヌブランに入ることは検討していました」
 アヴァラン公親子から、驚きの声が上がった。
「実際にレヌブランに入ってみなければわかりませんでしたが、首邑レヌブラントを落とすことも、あるいは可能だったかもしれません。今回のパリシ奪還作戦に即した青流団の奇襲と評されていることは承知していましたが、こちらとしてはそんな意識はなく、私が考えていた奇襲案が、これです」
 さすがに、ゲクランも感嘆の声を上げずにはいられない。アヴァラン公領の国境線の戦は、あくまでこちらの兵力を削る為のもの、それに対する防衛戦だと思っていた。なるほど、戦端が開かれた以上、これを利用する手はあったのだ。
 そう、初めから戦線は、三つあった。
「まあいかに青流団が最強の傭兵団といっても、加えて完全な奇襲だったとしても、レヌブラントの陥落にはかなり手こずったかもしれません。仮に落とすことはできても、占領を続けることはできなかったでしょう。防衛戦では、兵の質以上に、その数も必要です。ただ、レヌブランを混乱させた後に、本命のレヌブラン本隊を叩くつもりではありました。首邑が危機に陥り、さらに背後を衝かれたとなれば、いかに大陸五強の一人"弾丸斬り"のジル殿率いる精鋭部隊でも、うかうかとはしていられなかったでしょう。こちらもどこかで、小さな町の一つも落として補給する必要が出てくるでしょうが。ともあれこの場合、既に出兵しているイジドール殿の軍が活きます。挟撃できれば、撃破も難しくなかったと考えました。その後二部隊で混乱したレヌブラン内を動き回れば各街の門は閉ざされ、同時にこちらを野戦で撃破するだけの兵も徴兵できなかったと推測できます。そのまま戦火を広げるも良し、イジドール殿と合流し、再びパリシを目指すも良し・・・先日、ゲクラン殿は私が青流団のみで決着をつけるつもりと考えていたようですが・・・」
 銀髪の傭兵隊長は、初めて、こちらに笑いかけた。
「一応、私も他の部隊との合力は考えていたのですよ」
 ゲクランは奥歯を噛み締め、目をきつく閉じた。勘違いを正されたからではない。この三つ目の想定は、降雨の有無、各戦線の状況、あらゆることの状況から、可能性の極めて低い戦略だったと理解できる。アナスタシア自身、頭の片隅にちらついていた程度だろう。彼女の性格から、青流団のみで片をつけることが、第一であったはずだ。先日のゲクランの読みは、大きなところで外れてはいない。
 ただ、レヌブラントの陥落となれば、アングルランドもパリシ包囲どころではない。属国レヌブランの混乱は、パリシ包囲軍のみならず、南の戦線にも大きな影響を与えていたかもしれない。それで全てが解決するわけではないが、この百年続く戦を、アッシェンにかなり有利な形まで押し込めた可能性は高い。
 ゲクランは呟いた。ああ、これが軍略なのだ。
「もしレヌブランに打撃を与えたとして、アングルランド本国からの増援を、危惧すべきではありませんでしたか」
 それまで黙っていた、ポンパドゥールが口を開く。戦の機微に疎い女だが、さすがに頭は切れる。
「ええ。なのでこの作戦は危険が多く、私としても最後の一手ではありました。可能であればノースランドの叛乱軍と連絡が取れればと思っていましたが、アッシェンが、アングルランド内でのノースランドの叛乱に、どういう見解をお持ちかは存じ上げませんでしたので、私個人でそこまで戦火を広げることは憚られました。下策だったかもしれません。一介の傭兵隊長が思慮を巡らせるのは、過ぎたことなのでしょう」
 肌が、粟立つ。いや、そんなところまで想定を広げられれば、いきなり対アングルランド百年戦争自体に、終止符を打てたかもしれない。
 何なのだ。ゲクランは、こと戦に関して、アッシェン最高の頭脳であると自負していた。今交わされている話は何だ。混乱する。ノースランドの叛乱は日々拡大し、アングルランド本国はそれに手を焼いていると聞く。アッシェンは無論、敵国の叛乱に好意的である。合力できた。
 首都パリシを奪還する戦も、やりようによってはアングルランドそのものを叩き潰すことができたのか。いやそもそも今作戦、パリシ奪還の可能性すら、低いものと見積もっていなかったか。いつの間にか、そんなことが小さな話になっている。負け戦を覚悟しつつ、それでもパリシを取り戻そうと必死だったこの場にいる指揮官は、陥陣覇王の目にはどんな風に映っているのだろう。アナスタシアの話を聞いていると、先日までの悲壮感に、滑稽さすら感じる。各自、胸の奥底では負けた後のことを考えてはいなかったか。アッシェン衰亡の危機に、最後の意地を見せられればと思っていなかったか。
 違う。あの娘の中に見えていたものは、まったく違う。
 勝てたのだ。アングルランドそのものに。
「ともあれ、青流団の戦略目標はパリシ解放にありました。そこまでは一応、滞りなく遂行できたかなと思っております」
 議場が、静まり返った。呆気にとられるとはこのことだろう。しかし議場の空気にアナスタシアは居心地の悪さを覚えたらしく、パイプに手を伸ばそうか、あるいは席に着こうかと逡巡していた。珍しく、年頃の娘の様にもじもじとしている。その様子を見て、パスカルが吹き出した。ゲクランも同じ思いだ。この童顔の傭兵隊長は、どんな賢者も思いつかなかった大戦略を開示して見せたという、自覚がないのだろうか。
 ゲクランは自身の持つ最高の戦力を与え、かつアナスタシアを自由に行動させた。それですら、この陥陣覇王の力の、何分の一かも引き出せなかった。
「なら、いっそのこと、この女が奪還軍の総大将でも良かったんじゃないか」
 何とか話についてこれたのだろう、ジェルマンが言った。爵位もなく、かつ外国人のアナスタシアがそうなることは、ここアッシェンではまず考えられなかったが、もし仮にゲクランやアンリがそのような英断を下せていても、真っ先に反対したのがこの男だったろう。どの口が言うのだ、とゲクランは思った。この男なりの嫌みなのだろうか。
 アナスタシアはパイプに火を着け、ジェルマンの方を振り返った。
「あまり、意味のない想定です。ありえないことは想定から外すというのは、様々なことの基本だと心得ておりますので」
 もっともだが、自分の言葉を否定されたジェルマンは、そのこと自体に反撥した。
「偉そうに。ありえないことの想定の、何がいけないのか」
「もし私と同じ強さの兵が十万人いたら、三年でユーロ全域を平定してみせますよ。これはそういった類の話だということです」
 今度こそ、ゲクランは笑った。つい、アナスタシアが十万人いるところを想定してしまう。だが大陸五強と同じ強さの兵が十万もいたら、地の果て、海の果てまであっという間に征服できるだろう。
 アナスタシアは、少し気まずそうに肩をすくめた。
「これは、少々自惚れが過ぎましたかな。大陸五強の末席にある私ですが、とてもそのような名を冠する資格なく、強い者などこの世界にはいくらでもおりますので」
 数多の戦場を駆け抜け、魔物をも相手にしてきたアナスタシアである。人の身では手に余るような怪物、比喩か文字通りかは別として、を相手にしてきたのだろう。なのでこの謙遜は、安っぽい譲歩とは違う。
 辺境伯ラシェルは特に発言せず、ただ真剣な面持ちで陥陣覇王を見つめていた。
「では最後に」
 アナスタシアは、青流団の席に着いていた少女に、立ち上がるよう促す。ルチアナだった。数日前に見た時には頬がこけるほどに痩せていたが、今は以前と同じ程の肉付きに戻っている。若さか、とゲクランは思った。
「斥候、及び敵の斥候への攻撃、その他情報に関する様々な作戦行動は、そのほとんどを彼女が率いる百騎のみで行いました。真の功労者はこのルチアナと、百人の勇士たちだと思っています。彼女は私の戦略をこちらが説明する前に理解し、指示以上の働きを見せてくれました。パリシ奪還作戦に従事した全ての戦士が讃えられるべきだと思っています。ですが今この時だけでも、彼女に格別の敬意を示して頂ければ幸いです」
 議場に、さざ波のような拍手の音が響く。起立したルチアナは、頬を上気させて俯いていた。
 これで締めかと思ったが、アンリが手を挙げていた。アナスタシアもそれに気づく。
「恐れ多くも、陛下」
「これまでのアナスタシア殿の話、今の私にどれほど理解できているのかはわからない。ただ、問いたい。アナスタシア・ヴラジーミロヴナ。私の剣とならないか」
 議場をどよめきが包む。アナスタシアは一瞬まぶしそうに若き王を見つめ、返答した。
「恐れながら。禄を頂戴するようなお話は、スラヴァルにいた頃を含め、全て辞退させて頂いてきました。これからも、それは変わらないと思います」
「そうか。すまない。困らせるようなことを言ってしまった」
 席に着くアンリに、アナスタシアは宮廷風の返礼ではなく、敬礼で返した。今気づいたが、それはアナスタシアが初めて見せる挙措でもあった。
 ああ、とゲクランは溜息をつく。スラヴァルにいた頃から、何故この娘が爵位や領地を持っていないのか不思議だった。持てなかったのではなく、持たなかったのだ。禄をもらう話も、同じように固辞してきたのだろう。
 そこで少しだけ、アナスタシアを裏切り、霹靂団を壊滅に追いやったスラヴァルの女帝の気持ちがわかった。決して自分のものにならないアナスタシアを、彼女は恐れたのだろう。霹靂団の壊滅にあれだけの兵を動かしたことからも、彼女が陥陣覇王の実力を理解していたことがうかがえる。
 掴み所のないアナスタシアのことも、わずかだが理解した。領地など持っていなくても、彼女は一国一城の主だったのだ。それは軍人や武人としての矜持かもしれないし、あるいは自分の足で立っているという、彼女なりの生き方の表れなのかもしれない。
 誰の風下にも立たないと決めているアナスタシアの、精一杯の誠意が、今の敬礼なのだろう。アンリも感じるところがあったのか、今は穏やかな瞳で銀髪の傭兵隊長を見つめている。
 ゲクランが締めの言葉を述べ、散会となった。真っ先に席を立ったフローレンスが、アナスタシアに熱っぽい口調で語りかけている。アナスタシアは窓際まで追いつめられ、気圧されたように身体をのけぞらせていた。
 ゲクランも席を立ち、議場を出た。なんだろう、とても落ち着かない気分である。初めて恋をした時のような、同時に失恋をした時のような気持ちの置き所のなさに、思わず胸を押さえる。
 それでも、あなたは私の友だちなんだから。
 声には出さず、ゲクランはただ胸の内で呟いた。

 

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