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プリンセスブライト・ウォーロード 第10話
「一歩、踏み出してみろ。自分に足があったことを、思い出せるかもしれないぞ」

 

1,「大好きなお姉ちゃんは、もう行ってしまったのだ」

 まだ、夜明けには少し遠い。
 それでもシュザンヌたちは焚き火を囲み、早めの朝食を摂っていた。森の中である。少し入ったところで、馬車は舗装されていない道に停めてあった。
 旅の疲れもあるが、今朝は特に食欲がわかない。元々、朝は弱いのだ。大柄なエンマは、干し肉のたっぷり入ったスープをかき込んでいる。赤髪の少女デルフィーヌは、パンをスープに浸して柔らかくしていた。少女の父であるユストゥスも朝は弱いが、旅の間、その日初めの食事は腹にきちんと収めていた。
 シュザンヌは、なんとか具の少ないスープを飲み干した。
「水場は・・・この森の奥か。ちょっと行ってくるね」
 食器を集めたエンマが、立ち上がる。
「飲み水も、足しておこう。エンマ、樽の方を頼む」
 ユストゥスが言い、馬車から空になった樽を抱えてきた。エンマはそれを受け取り、ひょいと肩に担いだ。水を満たした後も、こんな感じで帰ってくるはずだ。剛力である。食器はいつの間にかデルフィーヌが受け取っており、その父親も後に続く。留守番が心細くなったわけではないが、結局シュザンヌもついていくことにした。
「アレ、何?」
 少し進んだところで、デルフィーヌが機械の力を借りた声で言う。発声器の調子は、まずまず良さそうだ。
「大木が・・・斬られているね」
 素人のシュザンヌにも、その切られた木の様子がおかしいことは、すぐにわかった。切断面の高さは、大体胸の辺り。ランタンを近づける。表面にはきのこが生えていたが、それでも切られた時には何か鋭利な刃物で一息に斬られていただろうことがわかる。ちょっと、考えられないような切り口だ。木の太さは、大の大人が二人で手を繋いで、ちょうどくらいか。
 ユストゥスが、溜息混じりに口を開く。
「そうか、ここだったか。デルフィーヌ、ここで、母さんとセシリアが戦ったんだ」
 シルヴィーの旅の仲間と、それを追ったジャクリーヌとユストゥス。今回の旅は、その足跡を追っている。しかしこれまでのところ、旅の痕跡のようなものは、あまり目にしなかった。当たり前の話だ。十五年も前の旅では、轍の一つも残っていない。直近の町ミュラセでも、当時のことをよく覚えている者はいなかった。セシリアとテレーゼのことを見たことがあると言った兵が、二人程いただけだ。近辺に怪物の潜むデルニエールである為、死を含めた人の入れ替わりは多い。
 デルフィーヌは、じっとその木を見つめていた。ここで、母ジャクリーヌが戦ったという痕跡。少女は何も言わなかったが、様々な思いが胸中を駆け巡っていることだろう。
 小川で用事を済ませ、四人は馬車へと戻った。もう、海が近いはずだ。
 まだ朝日は見えないが、空は明るくなり始めていた。赤紫に染め上げられていく空が、シュザンヌの鼓動を早くする。
「ここに来ることは、もう二度とないかもしれないと思っていた。妹の墓参りというには、あまりにも危険な旅だからね。シュザンヌ、エンマ、君たちには感謝している。この旅に誘ってくれて、ありがとう」
 御者台の小窓から、ユストゥスの声が聞こえてくる。この先にある、シルヴィーの墓。その横には同じようにこの地で命果てたユストゥスの妹、セブリーヌの墓がある。
 潮の香り。森を抜けて最初に感じたのはそれだった。長城を越え、トロールの住む沼と、広大な原野を抜けてきた。
 もう、すぐそこまで来ている。
「あなたはジャクリーヌと共に、いくつもの冒険をこなしてきたんでしょう?」
「そうかもしれない。だが君が思っているほど危険な旅をしてきたわけじゃないよ。本当に危ない依頼は、妻が一人でこなすことが多かった」
「・・・死者の魂が、まだそこに留まっていると思う?」
 これまで、誰にも言えなかった。シルヴィーの墓に行けば、まだそこに彼女の魂はいて、シュザンヌを導いてくれるのではないか。そんな可能性も、皆無ではないはずだ。
「お姉ちゃん・・・シルヴィーは、お母さんが描いた、青い空と青い海、それを最後に見たかった。でも、彼女が見たものは・・・」
「ああ、朝焼けと夕焼けの違いはあるが、こんな海だったと思う」
 六頭立ての馬車が停まった。あの高台の先に、シルヴィーの墓がある。かすかに、波の音が聞こえた。
 馬車を下りても、なかなかシュザンヌの脚は動かなかった。ユストゥス親子が、手を繋いで高台を上っていく。エンマがこちらを振り返ったが、少し目を細めただけで、先に行ってしまった。
 何度も、息を整えた。それでもシュザンヌの心臓は、激しく打ち続けていた。シルヴィーが強い無念を残して死んだのなら、そして様々な魔力的な偶然が重なれば、今も彼女はそこにいるはずだ。
 無念でなかった、はずがないのだ。今のシュザンヌより遥かに若い身で、この世の真理に気づいていた。病に冒されてなかったら、今頃ユーロの流通、経済を全てその掌中に収めていた。シルヴィーの話を寝台の横で、遊び半分で聞いていただけのシュザンヌが、今では物語の主人公のように"銀車輪"とあだ名され、その指先で世界の経済の半分を回す、などと謳われているのだ。笑える。お姉ちゃんだったら本当に、この世界を支配できた。
 ただの、病弱な商家の娘として散った命に、無念さがなかったはずがない。そうだ、きっとそこにいるはずだ。たとえ世を恨むだけの悪霊になっていたとしても。そして今こそ自分は、お姉ちゃんの話をちゃんと聞こう。今ならきっと、シルヴィーの話が理解できる。そこに至るまでの、研鑽を積んできた。今、この瞬間の為に。
 空が、赤い。シュザンヌは、駆けた。墓石代わりか、二つ並んだ人の頭ほどの石の前で、ユストゥスが跪いている。
「お姉ちゃん」
 石の前に立つ。わずかに盛り上がった土。道中で摘んだ花が、風に揺れている。
 何も、起きなかった。
 シュザンヌが何度呼びかけても、草が、白い花びらが、潮風に微かに震えているだけだ。
 当たり前だ。いや、そんなはずはない。シュザンヌの胸に、熱いものがこみ上げてきた。同時に、その場所がどうしようもなく空っぽになっていくのを感じる。
 いつの間にか、涙が溢れていた。どれだけ視界が滲んでも、空が、海が、真っ赤に燃えているのがわかる。同じ空か。シルヴィーが最後に見たのは、それでも青い海だった。シュザンヌにはそれが、赤いものにしか見えない。
 大声で、泣いた。慟哭はいつまで経ってもやまなかった。ここに来て、シュザンヌは頭でなく、心でわかってしまった。
 大好きなお姉ちゃんは、もう行ってしまったのだ。

 

 炎が、空を焦がしてしまいそうだった。
 パリシ周辺に立てられた建物の多くが、燃えていた。住民は既に、火の届かない所まで避難したようだ。
 城外に暮らしていたとはいえ、パリシの民である。包囲戦が始まった時にはアングルランドに家々を焼かれた。やがて掘建て小屋を建てアングルランド相手に商売をしていた彼らの家は、今再び業火に散ろうとしている。
 それらを見て、アナスタシアは特に感慨を抱くこともなかった。ただ、弱い者が真っ先に踏みにじられるという、この世の理をまた一つ、実際に目にしたというだけだ。青流団が火を放ったのは包囲軍の幕舎だけだが、炎と血に興奮したパリシ軍が、あちこちに火を放っていた。大気を焦がす音が、ごうごうとひどい耳鳴りのよう響く。
 既に、包囲軍大将の、ダンブリッジは捕縛してある。思いの外、奇襲が上手くいった格好だ。
 ノルマランから増水したマロン川を数時間で下り、パリシ包囲軍を急襲した。これが可能であることは、かつての旅の間に確認してあった。あの町を出る時に、蜜蜂亭のジジと共に、急行する艀の列を見ているのだ。
 青流団がゲクランから遊軍として動くことを命じられた為、アナスタシアは誰に相談するでもなく作戦を実行した。敵総大将のライナスならどんな手を返してくるかと構えていたが、どうやらこちらに手の回らぬ事情があったらしい。戦闘宰相が把握すべきことは実に多岐に渡っており、見落としの一つもあったということだろうか。どこかで妨害工作があるかとルチアナの百騎に哨戒させていたが、報告通りマロン川には何の警戒もなかったようだ。
 他の戦場がどうなっているのかは、アナスタシアにはよくわからなかった。何度か使いが来たが、報告に想定を覆すようなものはなかったので、特に気に掛けてこなかった。ただひとつ、遠くレヌブラン軍とイジドール率いるアヴァラン防衛軍の戦況だけが気になったが、そもそもこれは戦場が遠過ぎて、こちらに情報は入ってこない。
 与えられた青流団五千でパリシを奪還する。アナスタシアの頭にあったのは、ただそれだけだった。
 急襲はそのまま奇襲となり、包囲軍の大半は蹴散らした。北西に固まろうとしたアングルランド軍は、集結前に徹底的に追撃した。ベルドロウ率いる三千に、そちらは任せてある。掃討には兵力が足りないと思っていたが、閉じ込められていたパリシの軍が奔流のごとく城外に飛び出し、アングルランド軍を攻撃した。こんなこともあるだろうと虫のいい想定をしてはいたが、それがないとしての用兵だったので、圧勝はいくらか拍子抜けする思いでもある。
 結果、大勝利と言えそうだが、あまり血なまぐさい展開は好きではない。今も、逃げ遅れた包囲軍の兵士に対し、パリシ軍は虐殺を繰り広げている。長い間閉じ込められていた鬱積が爆発した格好で、無駄に火を放ち、どの兵もすっかり血に酔っていた。
 アナスタシアはパリシの城壁の傍で、将校たちに指示を出していた。固まりそうになった敵を、散らす。今はそのことだけに専念している。報告も、次々と入った。
「貴族の娘と思わしき、そしてその世話をしていたであろう数人を、捕えました。貴族の娘はアップルヒル伯ユーフェミアと名乗っています」
「聞かない名だな。何か知っているか」
「詳しくは知りませんが、アップルヒル伯というのは確か、アッシェンとアングルランド、両王家を結ぶ血であったような・・・」
「ああ、昔、そんな話があったそうだな。政略結婚だが、今は使われてない血か。いずれにせよ、保護しよう。十名を付けて、戦場から避難させてくれ」
 何故かはわからないが、こんなところにいるのだ。両王家の血を引くとはいえ、アングルランド側の人間である。相応の身代金は要求できる人物だろう。
 馬の鹵獲と、騎士を含めた貴族の捕縛は、傭兵隊にとって欠くことの出来ない収入源だ。かつて霹靂団を率いていた頃から、アナスタシアが重視していることである。
 アナスタシアは、部下に略奪を禁じている。傭兵が金で雇われた兵か飢えた賊になるかの一線は、人が思うよりずっと危うい。略奪を禁じるのなら、他の手段で金を稼がなくてはならない。雇い主から払われるのは、あくまでその一戦に対する対価である。傷痍兵のひとまずの生活費、そして戦死者の家族に恩給のようなものを出せるかは、隊長の手腕にかかっている。一度だけの代理とはいえ、アナスタシアも青流団の長である。犠牲は最低限に抑えつつ、できるだけ隊に金が落ちるようにはしておきたい。
 ユーフェミア。思わぬ臨時収入だが、ライナスは何を考えて彼女をここに置いていたのだろう。先を見てのことだろうが、ひょっとしたらこれは、アッシェンに止めを刺す一撃になっていたのかもしれない。アッシェンの、新たな王だったのか。しかしそれでは残った諸侯の反撥も多いだろう。お飾りでも、パリシの頂点に据えておくつもりだったのか。市長職すら置かないこの街で、そんなことが可能だったのだろうか。いずれにせよ、これはライナスの政治的な一手だったと思って間違いない。
 一つ、どうしても崩せない部隊があるというので、アナスタシアは麾下と共に、そちらに向かった。
 三百名程の部隊か。指揮官は肌着の上に胴鎧だけを着けた格好だが、おやと思うくらい強い殺気を放っていた。既にダンブリッジを捕縛してあるが、彼の下には三人の息子が優秀な指揮官として控えていたという。あれは、その一人だろう。父親と違い背の高い偉丈夫だが、顔に父の面影を色濃く残している。
 急ごしらえの旅籠だったものか、二階建ての木造家屋が、火の粉を舞い上げて崩れ落ちる。それを横目に、アナスタシアは部隊を集結させた。集まったのは、五百程か。残した兵は二千近くだが、混乱の渦中である。他の部隊と連絡が取れないのも仕方ない。
 百ずつに編成し、間断なく突撃させた。敵も、歩兵中心の三百だけで、よく耐えている。特に、あの指揮官が強い。あれを無傷で捕縛するのはまず無理だろうと、アナスタシアは思った。身代金は惜しいが、兵に余計な犠牲は出せない。引き上げてくる部隊と入れ違いに、アナスタシアは自ら先頭に立って駆けた。
 敵の指揮官。しかし干戈を交える前に、その背中を光が一閃し、男は馬の首に抱きつくようにして絶命した。それを見て、残った兵たちも散り散りになって潰走した。
「いいタイミングで来るじゃないか。これはちょっと、手こずるかと思っていたところだ」
 血刀を下げたルチアナに、アナスタシアは声を掛けた。ルチアナは頷くと、面倒くさそうに剣の血を払った。
 ルチアナの頬はそげ、落ち窪んだ目が、それでもほとんど飛び出しそうなくらいになっている。疲労はとっくに、限界を超えていることだろう。この作戦が始まって以来、ルチアナには最も過酷な任務を与えた。脚の速い馬と特に屈強な百名を与えたが、昨晩までに二十名が脱落していた。死者が出なかったことだけは、幸いか。
 ジュリアンが二百程の兵を連れて合流してきたので、兵はそちらに預けた。先程の指揮官を斬ったことで、この戦場は完全に掌握したといっていいだろう。潰走する主力を追っていたベルドロウからも報告が上がっていた。もう包囲軍は付近での再集結はあきらめたようだとのことだった。深追いせず、ベルドロウは引き返してくるそうだ。
 パリシは、解放された。
 まだ、方々で混乱は起きている。気がつかなかったが、既に夜は明けているようだった。空の赤は、家屋が上げる炎によるものだけではない。朝焼けなのだ。
 集結地点だけを指示し、アナスタシアは周囲を見て回った。麾下を散らし、助けを求める団員がいないか捜索させた。
 一騎、燃える家屋のすぐ傍で、ぽつんと佇む影がある。近づくと、それはルチアナの妹、アニータだった。呆然と、ただ前を見つめている。アナスタシアにも気づいていない。怪我はないようだったが、左頬に返り血がこびりついていた。
 ルチアナがあまりに大人びているので失念しがちだが、この双子はまだ十四歳なのだった。この姉に似ていない妹には、年相応の幼さが残っている。
「おい」
 アナスタシアが声を掛けても、アニータは反応を示さなかった。馬を寄せ、その頬を張り飛ばした。
「しっかりしろ。部隊からはぐれていると、巻き込まれるぞ」
「え? あ、痛いじゃないですかぁ・・・」
「人を斬ったのは、初めてか」
「あ、はい・・・その、ええと、大丈夫です」
 気持ちのどこかが壊れかけている。しかしその目を見る限り、すぐに自分を取り戻せるだろう。この娘の芯は強いと、アナスタシアは思っていた。だが今は、初めて人を殺したことの衝撃が、アニータを打ちのめしている。
 ひどい興奮状態で人を斬ると血に酔えるものだが、この娘は逆だ。かなり冷静に人を斬ったのだろう。そして正気のままそんなことをしてしまうと、衝撃もまともに受けてしまう。想定以上に楽な戦だったことは、かえってこの娘には酷だったか。彼女にとって、多感な時期でもある。
「とにかく、部隊に合流しろ。今は、それ以外のことを考えるな」
 アニータは頷くと、馬を駆けさせ、兵たちの元に向かった。こちらにも一騎、団員の兵が駆けてくる。
「団長、パリシ軍の総大将が、会いたいと言っていますが」
「わかった。案内してくれ」
 城門の近く。千人程の部隊が集まっていた。そこだけは他のパリシ軍と違い、統率が取れている。
 アナスタシアが馬を下りると、兵たちが道を空けた。その先には、豪奢なドレスの上から兵が着けるような簡素な胴鎧を身につけた、若い女が立っていた。
「この街を解放したのは青流団。そう聞いております」
「団長の、アナスタシアです」
「あなたが」
 あまり愛想を振りまく性格ではないのだろう、女は不機嫌そうな様子で頷いた。いや、薄汚れたドレスの裾からも、先のルチアナに劣らぬくらい疲労困憊している様子は見て取れる。立っているのもやっとなのかもしれない。
「まずは、御礼申し上げます。私はパリシ軍の統轄、ポンパドゥールと申します」
「ああ、あの」
 話は、常々耳にしてきた。そして噂に違わぬ美貌でもある。
 アッシェンの光、ポンパドゥール。
 女が差し出してきた細い手を、アナスタシアはしっかりと握った。


 斥候の報告を聞いて、ラシェルは混乱していた。
 自分の目で確かめないわけにはいかないと、鎧も着けず、単騎、陣から飛び出した。
 これまで戦場としてきた原野。敵の野営地は見えるが、様子がおかしい。アングルランド軍、撤退。初めは誤報、ただ陣を下げただけかもしれないと思っていたが、今も遠方に見える敵陣に、人の気配がない。
 ラシェルは、そこに向かって駆けた。麾下数名が、慌てた様子で合流してくる。
 はたして、陣はもぬけの殻だった。倒された柵や空の樽といったものが点々と転がっており、営舎は取り壊されている。わずかに残った天幕にも、人の気配はない。いたとしても、死体だけだった。早朝の心地よい風の中、ラシェルが呆然とそれらを眺めていると、同じく鎧を身に纏っていないボードワンと、肌着に外套を引っ掛けただけのフローレンスが追いついてきた。
「ふむ、これは、逃げられましたな。しかし、どういった事情で。昨日の勝ちがあったとはいえ、戦そのもので、押されていたのはこちらです」
「パリシの方で、何かあったのかもしれません。ゲクラン元帥がリチャード王を破り、パリシを奪還したのかも・・・」
 言ったフローレンスの外套が風で翻り、一時、その下着姿が露になった。ラシェルは思わずどきりとした。何と色っぽい下着を着けているのだ。そんなものが目に入るくらい、今のラシェルは目の前の出来事に思考が追いついていなかった。
 三人が本陣に帰ると、更なる情報が入った。ライナス率いるアングルランド軍は、西方10kmの地点にいるらしい。輜重隊は別かもしれないが、未明からほぼ全速力で戦場を後にしたといっていいだろう。
 三人が具足姿になって軍議用の幕舎に入ると、今度はパリシから早馬が入った。
「パリシ、解放ですか」
 フローレンスが、声を上げる。何が何だか、今もってラシェルにはわからない。ただ、この報をいち早く掴んだライナスが、深夜の内に軍を撤退させたのだということはわかった。
「解放したのは、青流団、ですか。ふむ、我々が想像していた以上に、ふむ、これは・・・」
 ボードワンはなんとか自分を納得させようと、何度も頷いている。ラシェルには、未だ青流団がどう動いたのかがわからない。彼らは昨日まで、ここから北東のノルマランに駐屯していたのではなかったか。詳しい話は、追って報告が入るだろう。しかし、あまりに唐突である。
「その、追撃は、されるのでしょうか」
 おずおずとフローレンスが尋ねる。ライナスを直接打ち負かしていれば、愚問に過ぎなかっただろう。老公が答える。
「追うには、既に遅過ぎますな。こうしている間にも、敵はどんどん距離を開けていることでしょう。大所帯、連合軍であることを考慮しても、我々の進軍速度はお世辞にも速いとは言いがたい。どう急いだところで、追いつくことはありますまい」
「一応、少しは兵を進めておきますか。しかし、レザーニュ城から距離を取るのも、いささか不安というか・・・」
 そこまで言って、ラシェルは笑ってしまった。勝ったのだ。唐突で、まるで実感がないので、話があべこべになっている。
「今は、その・・・私たちも、どうするべきかわかりませんね。とりあえず、朝食にしましょう。話は、それからでも」
 フローレンスが言い、二人は頷いた。既に昨日とは違った意味での戦捷気分だが、戦が終わったことをまだ身体が認識していないのか、全身がくすぐったいような、なんとも落ち着かない心持ちだった。
 朝食が終わる頃、今度はゲクランからの早馬があった。
 ゲクランと交戦していたリチャード隊も、姿を消したそうだ。パリシは解放され、ライナスも引き続き撤退中との報も入ってくる。リチャードとライナスが合流し再度パリシを攻めることも考えられる為、ラシェルたち奪還軍は、そのまま西を目指せとのことだった。
「どう思います?」
 ラシェルが聞くと、ボードワンがパイプに葉を詰めながら言う。
「十中八九、ライナス殿がパリシを攻めることはありますまい。そのままパリシの北を通り過ぎ、二剣の地を通って、軍を解散させることになりましょうな。パリシを奪還され、包囲軍の主力が壊滅した以上、まず補給が困難です。仮に最後の力を振り絞ってパリシを急襲したとしても、今度は自分たちがパリシに閉じ込められてしまう」
「そんな馬鹿な真似は、まずしないでしょうね。反転し、再びレザーニュ城を落としても、やはり孤立してしまう。ここに来て、ようやく私も理解しました。辺境から来た身です。このような大規模な戦役も経験がない。どうも、叩き潰し、敗走する敵の背中を見れなかったことで、その実感が沸きませんでした」
 フローレンスが落ち着きなく、二人の顔を見比べている。
「どうした、フローレンス殿?」
「その、つまり、これは・・・」
「勝ったのだよ。今ここにいるからそうと感じられないだけで、我々は、パリシを奪還したのだ」
 フローレンスの目の縁に、次々と涙が溜まり始めた。やがてそれは大粒となり、卓上の地図に、音を立てこぼれ落ちていく。
「よく頑張られた、フローレンス殿。貴殿の働きなくしてこの戦、勝てはしませんでしたぞ」
 若い指揮官は、顔をくしゃくしゃにして老将を見つめている。気丈に、それでいて謙虚に振る舞っていたが、夫の逃亡後、初陣にして奪還軍の中核五万を指揮し、あのライナス率いるアングルランド軍精鋭と対峙するのは、押し潰される程の重圧だったことだろう。彼女の責任感の強さは、それを一層重くしていたと言える。
「自分を信じ、我々を信じ、アナスタシア殿を信じた。フローレンス殿。あなたを見ていて私は、指揮官に必要なものをもう一度思い出せた気がするよ」
 顔を両手で覆い、フローレンスは声もなく嗚咽した。
 ラシェルがその頭を抱きかかえると、彼女は今度こそ声を上げて泣き始めた。

 

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