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 夕方には、伯爵領の駅に着いた。
 やはり今の身体で列車の揺れはきつく、途中何度か居眠りをしてしまった。セシリアが寝ている間も、ニコールとフェルサリの間には大きなやり取りはなかったと思う。どちらかが感情的になっていれば、セシリアも目を覚ましていたはずだ。
 駅から出てしまうと、屋外に出たにも関わらず、むしろ閉塞感に包まれた気になる。町の周囲を、どこまでも続く森に囲まれているからだ。この辺りはまだましだが、帝国内の森は、中に入ってしまうと昼でも灯りが必要な場所がたくさんある。
 この町、オッタードルフから伯爵の普段いる城館までは、馬車で一時間とかからないそうだ。町の中央の方にも城があるが、こちらはオッタークローネ伯爵自らが下す重要事案や、危急の用事がある時以外には、伯が城に入るということはないらしい。話を聞いた町の人間はグランツ人にしては大分気さくで、他にも様々な話が聞けた。
 町の中央広場には、王冠を頭に乗せたカワウソの銅像がある。かつて、まだこの辺りにも妖精や神秘が溢れていた時代、オッター(カワウソ)の王が、この地を治めていたということだ。今回の依頼にはまるで関係のないことだが、セシリアは旅先でこうした話を聞くのが好きだった。フェルサリは傍で興味深げに頷いている。ニコールは関心のない様子だが、彼女の場合、耳に入る情報は、全て頭に入れている。
 しばらく手頃な馬車を探していると、フェルサリが肩を抱いて俯いているのに気がついた。グランツ人はあまり開明的とは言いがたいし、大陸鉄道の駅があるとはいえ、この町も大都市というには程遠い。行き交う人々から、半エルフのフェルサリは、好奇の視線にさらされているようだ。
「堂々としていなさい。冒険者が訪れること自体、彼らには珍しいことなんだから」
 フェルサリはこくりと頷く。頬だけでなく、耳まで紅潮していた。まだ大丈夫だとセシリアは思う。フェルサリは本当に精神的に追いつめられると、顔から血の気が引くのだ。
 町の外に出てくれる馬車を見つけ、乗り込む。伯爵領までは両側を森で挟まれた、あまり舗装のされていない道だった。日のある内は風情のある情景かもしれないが、今の時間は森の沈黙に、それなりの圧迫感がある。
 城館に着き、訪いを入れる。昨日の内に受諾の返信をしておいたが、その手紙が着く前に到着してしまうこともありえる。が、手紙はすぐに届いたらしく、特に問題もなく招き入れられた。
 待たされることなく、大広間に呼ばれた。奥には玉座のような石造りの仰々しい椅子、少し高くなったそこから扉に向けて、真っすぐに赤い絨毯が敷かれている。まるで王の謁見の間のようだと、セシリアは思った。ただの見栄張りなら構わないが、玉座から立ち上がった壮年の男は早速高圧的な態度で、セシリアたちを値踏みしている様子だった。横に十人ほどの兵が付いている。あまり腕の立ちそうな者はいない。
「セシリア・ブライト及び、私と剣を共にするニコール、フェルサリ、ご依頼に応じ参上しました」
 もう少し腰の低い男だったら跪いてもいいと思ったが、セシリアは立ったまま言った。伯爵は、それでいくらか鼻白んだ様子だった。
「私が、オッタークローネ伯爵だ。この度は貴殿のご足労、感謝する」
 長身の伯爵が、玉座に座り込む。途端、その顔に憔悴の色が濃く浮き出した。薄い色の金髪なのでわかりづらいが、肩の長さに切り揃えたそれに、白髪の数は多そうだった。
「賊を討伐するとのことですが、詳細をお聞かせ願えれば」
「その話だが、少し事情が変わった。賊の討伐に加え、その賊に攫われた我が娘の救出もお願いしたい」
「なるほど。攫われたのは、いつ頃でしょうか」
「一週間ほど前だ」
 依頼があったのは一ヶ月前で、状況の変化はある程度想定内でもある。
「そうですか。身代金の要求は?」
「それが、まだないのだ」
「詳しい話を聞かせて頂きましょう。ご息女の件だけでなく、そもそものご依頼に関しても」
 頷いた、伯爵自らが語り始める。
 まず、賊というのは伯の実の弟、エックベルトという男なのだそうだ。以前から素行に問題があり、縁を切り放逐したところ、賊徒となって領内を荒し回っているらしい。近しい者、腕の立つ十人ほどを連れて野に下ったのだが、その者たちが領内に散らばり、各地で賊徒の数を増やし続けているという話だ。
 ただ、今回の依頼は殲滅ではなく、賊の中心、エックベルトを討てばいい。少数の賊徒なら兵や並の冒険者を雇ってどうとでもできるということだが、賊が組織的に動いていて、それの対応以上のことができないのが現状だという。
 セシリアがニコールの方を見やると、彼女もわかっているという風に、軽く瞼を閉じた。伯の話は鵜呑みにせず、こちらでもいくらか探ってみようと思った。
 話の途中、若い娘が護衛兵を連れて謁見室に入ってきた。伯の話を遮らないよう、笑顔で目礼してくる。金髪を頭の上で丁寧にまとめ、秀でた額と丸い顔に、愛らしさを感じる。なんとなく、伯の身内だろうと思った。歳は、十代後半か。ただ、着ているものは伯に比べればいくらか慎ましい。
「そして、娘のことなのだが・・・」
 攫われたのは伯の長女、名をディオーティマという。二十二歳。兵が持ってきた肖像画を見るに、亜麻色の髪、そして気弱そうな眼差しが特徴である。一週間ほど前、町に向かう途中を賊に襲われ、以来行方はわかっていない。その時の護衛の生き残りが、ディオーティマが縛り上げられ、賊の馬に乗せられたのを目撃している。
 報復か、あるいは身代金目当てが、いずれにせよ伯とその弟の、身内の争いとみてよさそうだ。
 エックベルトの討伐で金貨百枚、その他の賊に関しては一人の首につき銀貨で二十枚、ディオーティマを無事に救い出せれば、さらに金貨五十枚上乗せするという。なかなか悪くない条件だ。ただ、娘の命より放逐した弟の首の値が高いことに、いくらか嫌な気持ちにもなる。
「して、セシリア殿。あらためて、私の剣となってくれるか」
 横にいるニコールが前に出て、セシリアの代わりに答えた。
「剣は両刃。相手の一撃を止める力がなければ、自らを傷つけます」
「どういうことだ」
「今の立場に差こそあれ、家督争いのように見えるのですよ。弟君が放逐された後、付いていった者は一人や二人ではないのでしょう? ひょっとしたら、向こうにも言い分があるかもしれません」
「なんと。貴殿たちは賊の側に付くというのか。伯爵である私を差し置いて。後悔することになるぞ」
 ニコールは、はっきりとものを言い過ぎるところがある。セシリアが間に入ることにした。
「周辺の事情に関しましては、こちらでも調べさせて頂きます。が、私たちが賊徒の側に付くことはないでしょう。それよりも、曲がりなりにも貴族の血を引く者を斬るのです。その後私たちに不利益が及ばぬよう、存分に配慮頂きたいもの。このような事情があると知っていたら、ここに姿を現すこともなかったと思いますので」
 立ち上がりかけたオッタークローネ伯だが、鼻息荒く玉座に座り直した。
「そこについては、問題ない。既に籍を外したこと、書簡ながら皇帝陛下にご報告申し上げておる」
「わかりました。そしてディオーティマ様のことですが、全く無事ということは、まずないでしょう。身代金目当てなら希望は持てますが、そうでないとすればこれは一種の報復です。既に殺されているか、運が良くても賊どもの慰み者になっていることでしょう。悲惨ではありますが後者であれば今も生きている可能性は高く、私としては皮肉にもそちらを願うばかりです」
 すぐ横で、女の悲鳴がした。途中から入ってきた伯の身内と思われる娘で、膝から崩れ落ち、顔を覆って嗚咽をこらえている。
「・・・わかった。娘が今も生きていて、ディオーティマが過酷な運命に耐えていることを願おう。ジドーニア、お前も顔を上げ、我が家の者らしく、気高く振る舞うのだ」
「彼女は」
「ジドーニアという。私の娘だ」
 ジドーニアは気丈に顔を上げ、赤い目をこすりながらこちらに微笑みかけた。少し芝居がかったその振る舞いは、父親の影響だろうか。人の生死がかかっていなければ、いくらか滑稽な場面だともセシリアは思った。
 ただセシリアが気に掛けたのは、彼女の傍にいる三人の兵である。いずれもおや、と思えるほどに剣が使える。しかしそれを隠しきれない程度だとも言えた。セシリアとニコールの敵ではないが、フェルサリでは歯が立たないだろう。
 細かい話をした後、別室で晩餐ということになった。
 用意された席に着く。フェルサリの向かいにジドーニアが座り、色々と話しかけている。
「まあ、ハーフエルフの方なんですね。かわいらしい。私、ハーフエルフを見るの初めてなんですの」
 少し嫌な言い方だが、貴族の娘ということでは仕方ない。ジドーニアはフェルサリのことが気に入ったようで、目を輝かせて声を掛け、フェルサリの朴訥とした受け答えに笑みをこぼす。
「すごいですわね。大陸五強と言われる方がいらっしゃるだけでもすごいのに、こんな娘までいらっしゃるなんて」
 フェルサリの様子は、少し恥ずかしげながらも、ほっとしたようでもある。ニコールには距離を置かれ、オッタードルフの住人からは指さされる。ジドーニアのそれは好奇と愛玩の視点で、セシリアからすると同じようなものだが、それでも今のフェルサリにとって、他人の好意はどんな形であれありがたいに違いない。
 食事を終えると、部屋に戻り、セシリアはキセルに火をつけた。フェルサリは荷物の点検をしている。ニコールは窓の外、露台に立って葉巻を吹かしている。
 セシリアも露台に出ると、ニコールが眼下に広がる暗い森を見つめながら言った。
「らしくない。少し甘やかし過ぎたわね」
「悪いわね。まったく、私もらしくないと思うわ」
 セシリアが返すと、ニコールは森の闇を見つめたまま、少しだけ口元を緩ませた。

 

 まずは、エックベルトの居場所から探すことになる。
 伯爵から借りた馬の背に荷物を乗せ、フェルサリたちは森の中を進んでいた。セシリアの話では、賊は森に点在する打ち捨てられた砦に潜んでいるだろうということだ。かつては帝国内にもオークやゴブリン、獣人といった怪物が跋扈しており、当事人間がそれらと戦う為に築いた砦が、小さなものを含めるとそれこそ無数にある。今はこの地域で争うのは人間、近隣諸候との小競り合いがあるという程度なので、要衝を除き、ほとんどが放置されているという。
 伯の所で渡された地図を頼りに、ひとつひとつの砦を見て回る。全てを見るのは時間のかかる作業となりそうだが、セシリアにはある程度賊が潜みそうなところの見当はついているらしい。賊が大量に潜めるだけの大きめの砦だけでも五十以上あるが、五、六に絞ってあり、道中にある砦は一応覗いてみるといった感じだ。
「ここは、はずれ。でも、人のいた痕跡はあるわね」
「焚き火の跡がある。一ヶ月くらい前か」
 ニコールが、中庭に残された、木切れや炭を足でつつきながら言った。今いる砦は石積みの所々が崩れており、風はともかく雨を防ぐには心許ない。が、そろそろこういった所で寝床を作るのに、苦労しない季節でもある。
 森の中にいるとあまり陽も射さず涼しいが、砦の中庭にいると、太陽がじりじりとフェルサリの肌を焦がす。今日は特に暑く、一足早く夏本番といったところだ。ニコールも、コートの袖をまくっている。
 一つ目の砦を出た後、近くの村で昼食ということになった。
 村人の好奇と、それ以上に嫌悪の眼差しが、容赦なくフェルサリに突き刺さる。目立つ格好をしているセシリアやニコールよりも、村人の視線はフェルサリに注がれているようだ。それはどんな強い夏の日差しよりも、フェルサリの肌を焼く。馬や、セシリアの背中に身を隠したくなる。
 思えば故郷を出てからは、いや冒険者になってからも、フェルサリの行く先は大きな街や、危険な場所にある集落といった、異物を受け入れやすい場所だったということが、今になってわかる。それは、セシリアがフェルサリに配慮していたのだろう。
 ほぼ人だけが住み、保守的で閉鎖的な地域を訪れるのは、初めてのことだった。人を殺すことを目的に、フェルサリにとっては足を止めるのも苦しい地域を進む。これは、ニコールに試されているのだろう。視界にセシリアがいることだけが救いだが、呼吸が荒くなっていることは自分でもわかった。とても、追いつめられている気がする。
 目の前ではセシリアが村人に、賊のことについて聞いていた。
「税? それはまた、賊徒らしくない物言いね」
 聞くと、賊はいきなり村を襲うということはなく、まず税と称して村に金や物資を供出するよう迫ってくるらしい。出すことを拒否した村は、焼き討ちにされる。三つ四つと村が焼き払われ、今はどの村も賊徒に物資を供出している。聞けばどの村にとっても負担は小さくないが、払えないほどのものは要求してこないらしい。おまけに、賊徒が一つのまとまりを見せていることで、それまで突発的にあった、個々の賊徒による襲撃は、鳴りを潜めてさえいるそうだ。
「エックベルトはやはり、伯領を乗っ取るつもりね。税なんて言って正当化しようとしてるってのもあるけど、後々のことを考えて、村民の悪感情を、できるだけ抑えようとはしてる」
「姑息ね。小物同士の争いか」
 ニコールが言う。伯もエックベルトも、似たようなものだと言いたいのかもしれない。フェルサリにはまだ、伯の統治がどう問題なのか、二人ほどは見えていない。
 村にある小さな酒場で昼食を頼む。店内ではなく、外の席だ。自分たち以外にも所々、村人が食事を取っている席がある。後ろの席の、会話が聞こえた。
「伯爵の税だけでも重たいってえのに、伯の弟からも取り立てられるのかよ」
「お偉いさんの身内喧嘩に、ハーフエルフか。この村もろくなことがねえ」
 心臓が跳ね上がり、自覚できるほどにどくどくと脈打つ。見回しても、周りにフェルサリ以外の半エルフなどいない。自分は、怪物か天災のように扱われている。人ではない。頭に、かっと血が上る。
「人を、殺したいと思ったことはある?」
 向かいに座るニコールが、冷たい目で言った。
「い、いえ、その・・・」
 血の気が引くが、怒りとやるせなさは治まらない。硬いパンを、思わず力任せに引きちぎる。かなり硬いパンだが、見ると、ニコールはそれを焼きたてのパンのように指先でちぎっていた。隣りに座るセシリアが、ぽんとフェルサリの肩に手を置く。
「す、すみません・・・」
「いいのよ。ただ、もう少し気を楽になさい」
「はい」
 セシリアが、チーズの欠片を口に放り込む。ニコールは、まだフェルサリの目を見つめていた。先程の質問に答えろということだろう。
「あ、あの、昔、狩人をしていた頃に・・・」
 フェルサリが狩りをしていた森では、日が落ちる前に家に戻れない、例えば遠くの狩り場まで足を伸ばさなくてはならない時等の為に、狩人が共用で使う小屋がいくつかあった。極力そこを使わずにいたフェルサリだが、年に一度か二度、あまりに狩りが芳しくない時は、そこを使わざるをえなかった。
 他の狩人と鉢合わせる時もあったが、基本的に互いが口をきくようなことはなかった。薪を足したり修繕箇所がある場合も、フェルサリは自分で判断し、一人でやっていた。藁を敷いただけの寝台も、一人でいる時にしか使わない。
 ある晩、その小屋で眠っていると、男に襲われた。狩人の一人だった。色恋にまったく縁のなかったフェルサリでも、男が何をしようとしているかはわかった。目のいいフェルサリは、山の中腹からでも村の畑や木陰で男女が交わる姿をよく目にしていた。
 必死だった。殴るだけでなく、噛み付いたり、引っ掻いたりもした。今と違い、非力だった。もちろん狩人をしていたので村の娘よりは力があっただろうが、相手もまた屈強な狩人である。殺してやるというくらいの気持ちがないと、立ち向かえなかった。相手が刃物を使ってきたら、容赦なくこちらも刃物を抜くつもりでいた。
「そ、その時も、正直、殺してやるという気持ちはありましたが・・・」
 村に獲物を卸しに行くと、前よりひどい噂が立っていた。元から半エルフということで、村人の大半からは嫌悪され、ことあるごとに笑い者にされている。しかしわざわざフェルサリの耳に聞こえるよう、卑猥な噂話をする連中には、本当に腹が立った。フェルサリが、あの男と寝たという話になっている。そんなわけがあるか。みんな、死ねばいい。心の中で、そう思い続けていた。
 今思うと、そもそもフェルサリは他の娘に比べて、性欲を持て余すようなところがある。それだけに、当時は今以上に、そういうことに敏感になっていたのかもしれない。見透かされることが、怖かったのだ。
「相手が二人以上だったら、殺してたかもしれないわね。あるいは、殺されていたかも」
 淡々とした様子で、ニコールが言う。フェルサリは頷いた。
「これからのことは、どう思う?」
「・・・お、襲われたら、戦わざるをえないと思います」
「殺す?」
「ひ、必要があれば、仕方のないことかも、しれません・・・」
 ニコールは葉巻に火をつけ、ふうと息を吐き出した。
「向いてない、と言わざるを得ないわね。それだけ、向いているとも言える」
 謎掛けのような言葉を残し、ニコールは席を立った。いつの間にか勘定は、セシリアが済ませていたようだ。
 日が落ちる前に道中の小さな砦を三つ、村を二つ通り過ぎた。森と、打ち捨てられた砦。景色は、どこも同じように感じる。
 三つ目の村で、これまで聞けなかった話を聞いた。
 伯爵の次女、ジドーニアが、この周辺にはよく現れるのだという。どうやら独自に、賊の所在を掴もうとしているようだ。兵を何人か連れており、セシリアの話では、その兵たちは腕が立つということだ。
 フェルサリは、ジドーニアに好意を持っている。半エルフの自分でも、悪意を持たずに接してくれた。今も手紙のやり取りをする魔法連合領のオルガのように、友だちになれるだろうか。できるなら、そうありたい。振り返れば、これまでの冒険の旅ではセシリアの配慮もあって半エルフでも人間と同じように接してくれる地域の旅ばかりだったが、少しそこから外れれば、半エルフを受け入れてくれる場所など決して多くはないのだと思い知らされる。この大陸に生きている人間の大半は、こうした村に住む人々なのである。
「わ、私、ジドーニアさんの身に危険が及んだ時には、本気で戦えると思います」
 今晩の宿を探している時、フェルサリはニコールにそう言った。彼女はふぅんと冷めた視線を返した後、次のように返した。
「人を殺す前から、その言い訳をしているように聞こえる」
 フェルサリは、返す言葉もなかった。
 セシリアはこちらを見て、軽く肩をすくめている。

 

 宿を出て、探索を再開する。
 暗緑の天蓋に覆われた小道は少し気分を沈ませるが、時折差す木漏れ日は美しいと、セシリアは思った。
 心苦しいが、それでもセシリアは、ニコールとフェルサリを引き合わせてよかったとも思う。少なくとも、今までは見えてこなかった部分が、多く見れる。怒りを露にするフェルサリなど、セシリアの前ではまず見られなかったのだ。いや、フェルサリ本人は押し隠しているつもりだろうが、彼女はそもそも顔や仕草に感情が出やすい。かつてフェルサリのことを感情が見えにくい、何を考えているのかよくわからないと思っていたが、それは単にフェルサリ自身が、様々なことにあまり感情を動かされていなかったからかもしれない。あるいは隠しているのではなく、感情を表現する手段を持っていなかったのか。旅に出てから変わったフェルサリだが、あまり負の感情は見えてこなかった。
 それが少し見え始めたのが前回の旅からで、ひょっとしたらその時にセシリアが感じた困惑は、自分で思っていたよりも大きかったのかもしれない。
 ニコールは、セシリアがどうフェルサリと接したらいいか、その答えのひとつを提示してくれている。そしてそれは、セシリアに対する問いかけでもある。セシリアのことを理解していながらあっさりと解答を出さない辺り、ニコールの手腕には唸るしかなかった。
 フェルサリが思い悩んでいることは、痛いほどわかる。一方でセシリアもまた、そのことについて考え抜かなければならない。そしてどこかで、覚悟を決めなくてはならない。
 村から出て一時間ほどで、土地の起伏が大きくなってきた。木々もややまばらになってきている。切り株が点在していた。この先の砦には、人のいる気配がする。まだ消えていない足跡も、いくつか見られた。
 じわり、と何かがセシリアたちに迫っていた。ニコールを見やる。大したことはない、という風にニコールは小首を傾げる。フェルサリは二人の様子を見て、異変に気づいたようだ。
 一人、また一人と、木々の間から、男たちが姿を現した。どの男も、手に得物を持っている。全部で、二十ほどか。
「飛び道具の数は?」
 ニコールが聞く。眼鏡をかけていることからもわかる通り、彼女はあまり目が良くない。
「拳銃二、長銃一、石弓が三。計六。右手に四人よ」
「じゃあ、私が右手に」
 数は二十。賊の全てが姿を現した。武装は概ね、貧弱なものである。ほとんど、四方を囲まれた。道の先が高台になっている。その高台から、大きな斧を持った剃髪の男が現れ、大音声で言った。
「貴様らが、伯爵の雇った犬か。ここで死ぬがいい」
「あら、金目の物を置いていけ、あるいはここから引き返せとかじゃないの? 美味そうな女どもだ、くらい言ってくれるかと思ったんだけど。いきなり殺す気満々ね」
 この斧を持った男が、この集団の頭目だろう。男は鼻で笑った。
「殺す前に、犯すだけ犯してやる。泣いて命乞いをすれば、俺たちの玩具としていくらか長生きできるかもしれねえな」
「オーケー。少なくとも今まであなたがやってきたことは想像がつくわ。ただ、私たちは慈悲深い。苦しまずに殺してやれるし、逃げる者は追わないであげる」
 斧の男のこめかみに、ここからでも見えるくらいの、青い筋が浮き上がった。
「殺せ」
 パン、パンという乾いた音が、森の中に響く。銃の発砲音に似ているが、それよりも小さく、軽い。しかしその破裂音がもたらす致死性は、銃のそれと変わらない。ニコールの指弾だった。まずは、飛び道具を持った男たちを撃ち倒している。
 セシリアも飛刀を投げ、続けて近くにいた男の腕を斬り飛ばした。銃を持ったままの腕が、木の幹に当たって弾む。
「ひ、ひああぁぁッ!」
「ま、魔法か!?」
 男たちの怒号と悲鳴を合図に、翼を休めていた鳥たちが、次々と大空へと避難する。セシリアが五人目を斬り倒したところで、賊たちは一斉に逃げ出した。ニコールは七人目の首を跳ね飛ばしたところだった。
 フェルサリが青い顔をして、飛礫を構えていた。三つ投じていたが、いずれも外している。大きく目を見開いて、転がる死体を見つめていた。こうも一度に人が殺されるところを見たのだ。当然の反応だろう。辺りには早くも、血の匂いが立ちこめている。
 高台に上った。フェルサリもよろめきながらついてくる。周囲をきょろきょろと見回しているが、ほとんど何も見えていないだろう。
 この集団の頭目の男が、斧を抱くようにして、仰向けに倒れていた。額の真ん中から、血を流している。ニコールの指弾だ。フェルサリがごくりとつばを飲み、その男に近づいた。
「い、息をしています・・・ま、まだ、生きています・・・」
 男の分厚い胸は、静かに上下している。
「そうね。もっとも、もう目を覚ますことはないわ」
 脳を破壊されても、当たりどころによってはすぐに死なない人間もいる。すぐに、というだけで、二、三日以内に呼吸は止まり、死ぬ。
 フェルサリは、両手で口を覆っている。動物を捌いてきたフェルサリにとっては、血なまぐさい光景には耐性があるだろう。しかし死んでいるのが人となると、やはり同じように受け止められるはずがない。フェルサリの呼吸は荒く、今にも吐いてしまいそうだ。
 高台から下り、ニコールの元に戻った。彼女の足下にまだ一人、口の聞けそうな男がいる。両膝の膝の辺りを深く斬られていた。生かしておいたのだ。
「色々、聞いてみましょうか」
 ニコールが眼鏡に付いた返り血を拭いながら言う。セシリアは、その男に近づいた。
「エックベルトは、どこにいる?」
「し、知らない。本当だ。俺たちは別働隊みたいなもんだ。頭領は本体を率いて方々の砦を巡回していて、頭領の方からこっちに顔を見せる」
 この状況で、嘘はつかないだろう。
「なるほど。あなた、賊になってから長そうね」
 たたずまいから、想像できる。この地に元からいたか、流れ着いたのかはわからない。
「た、たた助けてくれ!」
「どうして?」
 男は傷ついた脚を投げ出したまま、腕だけで後ずさろうとする。木の幹に背をぶつけ、ひぃと短い悲鳴をもらす。
「セシリア、死人と話すなんて、あまりいい趣味じゃないわね」
 ぱしゃりと音がして、男の頭だったものは血と骨片をまき散らして、爆ぜた。歩み寄ったニコールが、そのまま男の頭を踏みつぶしたのだ。肉片が、樹皮にこびりついている。
 セシリアは森の中を見回した。斬り倒した賊で、あらためてとどめをさす必要がある者は、いないようだった。木々の間を吹き抜けた微風が、立ちこめる血の匂いをどこかへ運ぼうとしている。熊か狼の群れが、死体を片付けることになるだろう。他の賊がこの惨状を見つけた方が状況を有利に進めることができそうだが、その点について言えば、逃げた賊がエックベルトに伝える方が、より確実だ。
 死体の外套で血を拭い、セシリアは納剣した。ニコールがぶんと音を立てて剣を振り、それだけで刃に付いた血は全て拭えている。ニコールがそれをやる姿が懐かしいと、セシリアは思った。セシリアもよくやるが、今は脇腹を痛めていて、力を入れることができない。
 二人から少し距離を置いて、フェルサリが佇んでいた。何か声を掛けようかと思ったが、セシリアはそのまま馬の所へ戻った。振り返る。
 フェルサリは手にしたままの飛礫を握りしめ、賊の死体をじっと見つめていた。

 

 ニコールが、卓の上にいくつものジョッキを並べていた。
 セシリアにとってもあまり馴染みのない光景のようで、二人の話を聞くに、ニコールは良さそうな酒を出す店を見つけると、目についたものは一通り飲んでみるのだという。今晩泊まることにした村は河川物流の船着き場があり、町ほどではないにしても、人の行き来がある。宿も立派な酒場を備えていた。
 ごくりと一息で飲み干すものもあれば、ちびちびと口に含み、丹念に味わっているものもある。これは、と思うものがあれば、直接作り手から仕入れる交渉をするのだという。ニコールの店に置く為だ。
 そもそも冒険者になったフェルサリがニコールとなかなか会話ができなかったのも、彼女が子供を産んだ後、多くの時間を各地域の良酒の仕入れ販路開拓に使っていたからだった。子供と二人で旅をし、これはと思うものは店に仕入れる商談をする。ニコールの店は小さいが、カウンターの後ろの棚には、世界の名酒が揃いつつあるのだという。
「どう?」
「・・・難しいわね。いい酒には、そうそう巡り会えない。こういう田舎に、掘り出し物があったりするんだけど」
 一通り口をつけたニコールが、つまらなそうに葉巻をくわえる。
「それはそれとして」
 遅い時間に入ったので、酒場に人は少ない。都市部と違い、この辺りで働く者たちの朝は早い。しかしニコールの声がよく響くのは、店に人が少ないことだけが理由ではなかった。
「あなたは、お荷物ね」
 今日の、賊との遭遇のことを言っているのだろう。
「す、すみません・・・」
「ただ怯えて、セシリアの後ろに隠れていたというなら、仕方ない。そういうものは、いずれ克服できる。けれどあなたの戦い方は、卑怯だった。敵に対してではない。味方に対してよ」
 ニコールの言葉は、いつも胸に刺さる。今回は、特にそうだ。
「まあ、敵に対して卑怯だったら、褒めて上げたいところよねえ」
 セシリアがおどけた調子で間に入ろうとするが、ニコールはそちらの方を見ようともしない。
「あなたとは、組めない。今すぐ、帰りなさい」
「お、お願いします・・・!」
「夜遅く、帰れというのも臆病者には酷かしらね。ただ、あなたが無理に付いてきても、今後この旅で面倒は見ない。あなたが何と言おうと、パーティから追い出すことになるかもしれない」
「え、い、いや、その・・・」
 心臓が、早鐘を打つ。ニコールはあまり感情の起伏を表に出さない。なので、彼女が自分のことをこんなにも怒っているとは知らなかった。
「す、すみません、本当に・・・」
 俯いて、目をきつく閉じた。不意に涙が溢れてきて、止まらなかったのだ。泣いていることに、フェルサリ自身も驚いていた。自分はこんなにも、弱い人間だったのか。
 いきなり、頭の中をかき混ぜられたようだった。何故、泣いているのか。セシリアと別れることになるから? ニコールに受け入れられたいと思っていたから? 両方ともそうかもしれないし、他にも理由があるのかもしれない。
 身に危険が及ぶことはなかったが、この数日間の旅ではずっと、何かに耐えなくてはならなかったという気がする。この土地の人々の、偏見に満ちた視線が、ずっと胸に痛かった。ニコールが自分につらく当たることが、それをセシリアがあまり庇ってくれないことが、胸を引き裂かれるくらいに痛かった。
 荒れ狂う感情の渦に飲み込まれそうになって、フェルサリは店を出た。そのまま人のいない所まで走る。目の前にある木に一度だけ、強く頭を打ちつける。どうしてしまったんだろう。叫びたい。泣きたい。鎮まれ、鎮まれ・・・。
「泣きたい時は、泣いていいわ」
 背後から、セシリアの声がした。胸が苦しい。
 セシリアがフェルサリのことを追いかけてくれることを内心期待していたし、来てくれるかどうか、計っている自分もいた。
 なるほど、私は卑怯だ。
「す、すみません。自分でも、びっくりしてるんです」
「いいのよ。辛いことが多い、旅かもしれないわね」
 そっと、肩を抱かれる。それだけでほっとした。森の中から、夜の虫が鳴いているのが聞こえる。小雨が降っていることにも気づく。少しひんやりとした空気の中、セシリアの手だけが温かい。
 これからも、頼ることになるだろう。甘えることも多いだろう。しかし、甘え方を間違えてはいけない。それはこの人を、自分の一番好きな人を、ただ自分の為だけに利用することになる。
 初めて冒険に出たあの日、この人を守ると言ったのに、今では怪我をしているセシリアを盾代わりにし、落ち込みそうな時に慰めてもらおうとさえ思っている自分に、フェルサリはようやく気がついた。なんて自分勝手なんだろう。
 ニコールの言葉にその都度傷ついていたのは、それが全て正しいからだ。こんなにも狡くなっている自分を、認めたくなかったからだった。
 フェルサリは涙を拭き、顔を上げた。セシリアが優しく微笑みかけてくる。月明かりに照らされたその顔を、綺麗だとフェルサリは思った。まぶしい。
「あ、あの山に・・・」
 フェルサリはセシリアの後ろに見える、小さな山を指さした。
「今から、登ってこようと思います。あ、あそこからなら、この辺りの様子が、よくわかると思いますので」
 道中、伯爵の地図に記されていない砦や集落があった。昔の砦や村を記したものなのだ。不正確なところもあるだろうと伯は言っていた。実際、そのような所はあった。高い所に登れば、フェルサリのエルフの目で、少なくともこの周辺の情報はわかる。
 あの山の頂上まで、片道で三時間くらいだろう。上で周辺を見た後でも、朝までの帰還に充分余裕はある。
「あらぁ? 足手まといが、少しはこの私の役に立とうと?」
 眼鏡を直す仕草をしながら、セシリアが少しきつい冗談を飛ばす。フェルサリは思わず笑いかけた。そのニコールの真似は、かなり似ていたからだ。
 この人の、役に立ちたい。この人が信頼する、ニコールの役にも立ちたい。力不足で気も回らず、できることはあまりにも少ない。しかし周りの様子を探るくらいは、フェルサリにもできそうだった。
「夜の森は、熊や狼が出るかもしれない。あるいは、妖精やあやかしの類が出るかもしれないわ。雨が本降りになったら、斜面で足を滑らせるかもしれない。まあ、こういったことは、山暮らしの長かったあなたに言うことじゃないことかもしれないけどね」
「だ、大丈夫です。それに、少し一人になって、頭を冷やしたいというのもあるので・・・」
「・・・そう。気をつけて行ってらっしゃい。危ないと思ったら、退くのも勇気よ」
「はい。では早速行ってきますね。朝までには戻ります」
 手を振って、セシリアと別れた。北、山の方面への小道に出る。 
村から続くその道に出て、フェルサリはおやと思った。真新しい人の足跡に混じって、馬のの跡がある。
 それ自体おかしなことではないが、数が多い。一瞬行商かとも思った。河川を使ってここで集められた荷の一部を、行商が運んでいてもおかしくはない。それでも何かが引っかかり、逆に村の方へ戻ってみる。足跡は辿れるものだけでも船着き場の方から来たものではないとわかった。自分たちと同じように村の南から入り、そして北へ抜けていった足跡。地面が少しぬかるんでおり、フェルサリにもはっきりと判別できる。
 地図では、北の道から次の村を目指すと、六時間ほどかかる見通しで、やはりおかしいと感じた。途中にやはり地図にない集落があるのかもしれない。
 いずれにせよ、北の道を進もうと思っていたのだ。このことを頭に留めておきながら、北の道を歩いた。場合によっては、この集団を探ってみてもいい。フェルサリの目なら、相手に気づかれる前にその正体がわかるはずだ。
 およそ三十分くらいだろうか。駆け足で足跡を辿って行くと、篝火を手に前進する一団の姿が見えてきた。霧雨のもやで、もう少し近づく必要があった。
 一行の大半は、兜や胸当てを身につけている。近づくと、かちゃかちゃという金属の音も、聞こえてきた。鎧に、見覚えがある。伯の館にいた兵たちだ。馬の、いななき。
 フェルサリは森の中に入って先回りし、一行を見渡せる場所に出た。先頭を歩いているのはあの伯の次女、ジドーニアだ。ジドーニアは兵を連れて、独自に賊の調査をしていると聞いた。どうやらそれは本当のことのようだ。この地では珍しく、自分の存在を認めてくれた人。できれば、危険な目にあってほしくない。
「ジ、ジドーニアさん」
 いきなり森から姿を現したフェルサリに、ジドーニアは心底びっくりしたようだった。
「あ、あなた、フェルサリさん? どうしましたの、こんな所で。他の方は?」
「わ、私一人です。ジドーニアさん、いくらたくさんの護衛の方がいらしても、こんな時間に、危ないです。私たちは今日、この近くで賊と遭遇しました」
 ジドーニアたちは、周囲を警戒し始めた。
「一人って、セシリアさんたちは、今どこに?」
「この南にあった村に、います。通り過ぎたかと思いますが、この先の集落までは、かなりあります。少し急がれるか、すぐに引き返された方が、いいと思います」
「そ、そう・・・」
 しばし顎に手を当てて思案していたジドーニアは、やがて兵たちに目をやった。
「こいつを、眠らせて頂戴」
 こいつ? 誰だろう。まさか、フェルサリのことだろうか。
 いきなり、頭にものすごい衝撃があった。何が起きたのか、まるでわからない。
 わからないまま、意識は暗い穴に落ちていく。

 

 フェルサリは、戻らなかった。
 夜が明けると同時に、セシリアたちは宿を出た。村の中央へ出てすぐ、この村を縦断していった者たちの足跡に気がついた。中央の広場は人が行き交い過ぎていて足跡は判別できないが、そこを通らず、真っすぐに北へ抜けていった足跡で、地面が乾いている割には跡は深く、昨晩、小雨の降っていた時間にここを抜けていったのだと推測できる。
 ニコールも、難しそうな顔で足跡を見つめている。北に向かったのは、この一行と、フェルサリだ。
 足跡を辿り、村から出た。
「山の方へは、向かわなかったみたいね」
 途中、道が分かれている箇所があった。北東なら山の方、北西なら次の村へ向かうことになる。足跡はいずれも北西へ向かっている。
「フェルサリは、あなたの命令を、よく無視する?」
「指示したことは、少なくともやろうとする。ただ今回のことは、フェルサリの意志でやったことでもあるわ。何かを見つけ、後をつけようと思ったんでしょうね。この足跡、やはり噂に聞く、ジドーニア一行かしらね」
 馬はおそらく四頭、三人の兵に、少し小さめのブーツの跡、それにフェルサリの足跡。馬と兵の数に誤差はあるかもしれないが、おそらくこんなところだろう。賊が履いていたような、靴底が柔らかい皮か、木でできたものとはおそらく違う。
「ニコール、どう思う」
「まったく、世話の焼ける・・・」
 舌打ちしながら、ニコールは地面に顔を近づける。
「まだ何も出揃ってないわ。この時点での推論はいくらでもできてしまう。確かなことは、あの子がまだ単独で行動できるほどの実力は、持ち合わせていないということね」
 山の方へ向かって帰りが遅くなっているのなら、事故にあって身動きが取れないか、どこかで道に迷ったのだろうと推測できる。崖から落ちて首を折るか、山のあやかしにでも取って食われてないかぎり、そちらの方なら安心できた。仮に怪我をして遅れているとしても、森や山に慣れたフェルサリだ。大事にいたっていない可能性の方が高い。
 人の足跡を追ってしまっていることに、やはり不安は拭えない。
 しばらく歩くと、足跡が多少乱れている場所があった。途中から消えていたフェルサリの足跡も、ここで見つかる。一度森の中に入り、この辺りから出てきた。
「ジドーニアで、確定ね」
 ニコールが、葉巻の先をあぶりながら言う。
 確かに、相手が賊だったら、フェルサリが、ここで単身この人数を相手にしたとは考えづらい。
「この辺りで、そうね、後ろからガツンとやられた。少し引きずって、馬に乗せたってとこかしらね」
 セシリアも、キセルに火をつける。多少、急いだ方がいいかもしれない。
 足跡を辿り、北上する。途中、小道から唐突に足跡が消えた。踏みつぶされた草から、ここから西に向かったのだとわかる。森の中に入っていくと、すぐに小川だった。
「ま、素人じゃなかったってことよねえ」
 ニコールが、小川を見つめながら言う。小川の深さは、セシリアの脛の真ん中辺りだ。流れは緩く、幅は広い所で五メートル弱。
 後を追われることを考えて、ここで足跡を消している。ここまでの道筋からして上流に向かったのだろうが、どこで上陸したのかを探るのは、時間がかかりそうだ。裏をかいて一度下流に向かい、そこから別の経路で目的地に向かったとなると、さらに追跡は困難になる。この先の、北の村が最終的な目的地でなければ、いくらでも道程を変えられるからだ。
 多少時間をかければ、必ず追跡できる。しかしフェルサリが囚われた今、時は一刻を争うのだった。
「フェルサリは、処女?」
 ニコールが訊く。セシリアは頷いた。
「じゃあ、すぐに殺されるということはないかも」
「これからは、こちらも身を隠した方が良さそうね」
 セシリアの癖のようなものだが、つい話を先回りしてしまう。
「いいわね。連中少しは焦るかも。まず交渉の相手を捜すところから、始めなくちゃいけないからねえ」
 が、ニコールの頭の回転は速い。セシリアの意図は、しっかりと伝わっているようだ。セシリアは口元を上げた。この辺りの呼吸は、久しぶりの旅でもぴたりと合っている。それで、ニコールのいない間の自分は、思いのほか孤独だったのかもしれないと気がついた。
 賊の、いわば本隊。これはそこそこ知恵が回るし、セシリアのことを相当警戒しているだろう。昨日取り逃がした賊も、セシリアたちを怪物のように語っているかもしれない。
 フェルサリは、こちらを止める人質として使える。これをやられると、セシリアたちも退くしかない。
 が、肝心の人質交渉の相手、セシリアたちが賊から行方をくらませてしまえば、賊も狼狽し、混乱するはずだ。
「しばらくは、ゆっくりお風呂にも入れないわねえ。こういう小川が使える季節でよかったわ」
 ニコールが、煌めく水面に手を浸しながら言った。

 

 

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