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プリンセスブライト・アウェイキング 6

「Bleeding Beast」ブリーディング・ビースト

 

 不意に、空気が張りつめた気がする。
 もう夏になろうかという時期なのに、まるで冬の空気のようだとフェルサリは思った。気温ではない。フェルサリは自室の窓から外の景色を見た。窓から見える木々は青々としており、日差しの強さも間違いなく夏のそれだ。
 椅子から立ち上がると同時に、どこか慌ただしさを感じる足音が聞こえ、それはフェルサリの部屋の前で止まった。
「フェルサリさん、います?」
 この屋敷のメイドとなった、アンナの声だ。返事をし、扉を開けると、不安げな様子のアンナが立っていた。手を、もみしだいている。
「ど、どうしました?」
「下に、怖い人が来てるんですよ」
「怖い人? マフィアの方とか・・・」
「いえ、パーティの一員みたいなんですけど、ええと、ニコールさんとか言ってたかな、その人が、道場にいます」
「そ、そうですか。では、挨拶してきますね」
 アンナの緊張が伝染したのか、フェルサリの胸の奥も、少しざわついた。
 ニコールとの面識はあるが、今までまともに話したことはない。セシリアの養女としてここにいる間は、そもそもフェルサリが言葉を失っている時間が多かった。屋敷で会うことがあっても、軽く目で挨拶するくらいだった。直近で会ったのは三ヶ月ほど前、フェルサリが冒険者になると決めた時で、セシリアに連れられて、ニコールの店に挨拶にいったのだった。ニコールは厳密には夫の店、レムルサ駅の近くにある小さな酒場で働いていて、その時は店が忙しかったということもあり、一言二言しか話せなかった。
 ただ、初めてセシリアと出会ったあの日、隣りにいたのはニコールだった。その時のことは、昨日のことのようにはっきりと覚えている。
「ニコールさんって、どんな人なんです?」
 アンナが訊く。道場まで着いてくるようだ。
「す、すごく強い人だと、聞いています」
「セシリアさんと、どっちが強いですかね?」
 アンナは、この前の旅でも同じようなことを訊いていたような気がする。あの時はなんとなく、比較すればニコールが一番、という話になった。事実そうであるかは、わからない。
「わかりません。でも、力がものすごく強いそうで、テレーゼさんよりもあるみたいですよ」
「えっ! じゃあ、あの大砲とかも、平気で担いじゃうんですかね?」
 テレーゼが旅に出る時は担いで歩く、あの大砲のことだ。吸血鬼のテレーゼは、それを片腕で担ぐ。間違いなく、人外の膂力だった。
「そ、そういうことかもしれませんね」
 ニコールの通り名は、"掴み"である。相手の剣を掴む技術、ハーフソードもかなり使えるそうだ。その技術を学びたいと、フェルサリは以前から思っていた。道場にいるのなら、いい機会かもしれない。
「では、私はこれにて。仕事がありますので」
 道場の手前で逃げ出すように、アンナは来た方へ引き返してしまった。
 フェルサリも、自身の鼓動が大きくなっているのを感じる。やはり、緊張する。
「失礼します」
 道場に入ると、開け放たれた窓越し、外の椅子に、セシリアが腰掛けているのが見えた。微風に、長い金髪が揺れている。その傍、長身の女が、こちらを向いて立っていた。二人とも手紙の束に目を通しているようで、フェルサリに気づき、まずセシリアが軽く手を振った。もう一人、長身の女は手紙から目を上げ、フェルサリの方をじっと見ている。
 ニコールだった。今すぐにでも冒険の旅に出られそうな、頑丈な濃紺のコート。金髪を頭の後ろでまとめ、眼鏡の奥の眼光はどこまでも鋭い。
「あ、あの、お久しぶりです」
 フェルサリは言ったが、ニコールは頷いただけだった。
 身長の高さ、大きな胸と腰も迫力があるが、それ以上に、ただそこにいるというだけで、圧倒される威圧感がある。先程フェルサリが自室で感じた、張りつめた空気の正体は、このニコールの存在かもしれない。だが、フェルサリの部屋からこの道場までは距離がある。それにそもそも、人が一人現れただけで、フェルサリにもそうとはっきりわかるくらい、空気は変わるものなのだろうか。セシリアたちのよく言う、気というものが、フェルサリにはまだ掴めていない。ひょっとしたらこれがそういうものなのかもしれないと、フェルサリは思った。
「今、依頼の手紙を吟味してたところなの」
 セシリアが言う。先の旅、ジャクリーヌとの戦闘で肋骨を折っていて、ゆったりとしたワンピースの上に、コルセット代わりにミスリル鎧の胴鎧の部分だけを身につけている。
 一方のニコールは、剣帯こそ外しているものの、やはりこのまま旅に出られそうな出立ちに思える。夏だというのに厚手のコートを着ているが、それが彼女の武装だということが、フェルサリにはわかる。
 何故、ニコールがここにいるのか。そもそもニコールは出産でしばらくパーティから離れていた。復帰はもう少し先のことだとも聞いていた。
「あなたのお守は気が重いって、セシリアから頼まれたのよ」
 フェルサリの胸の内を読んだかのように、ニコールが言った。セシリアが少し険しい顔で口を開く。
「ニコール、あなたね」
「ああ、言い方が悪かったかしらね。セシリアの名誉の為に、訂正してもいい。ただフェルサリ、あなたがパーティの負担になっていることは確かよ」
 いきなり言われて、フェルサリはすぐに言葉を返せなかった。それは、フェルサリ自身もわかっている。が、こうもはっきり言われると、何と返したらいいのか、わからない。
「あ、あの・・・」
「あなた、人殺しは?」
「い、いえ・・・!」
 ニコールの目は、冷たい。まさに蛇に睨まれた蛙のように、フェルサリは身じろぎ一つできなかった。
「そう。なら・・・」
 ニコールは机の上にある手紙の一つを取り出した。
「この依頼で、いいと思う。セシリア、どうかしら」
 手紙を受け取ったセシリアは、渋い顔をした。
「依頼人は、オッタークローネ伯本人か・・・そうね、フェルサリにも意見を」
「聞く必要はない。この子にはそれを判断する力はない」
 一瞬、この子、がフェルサリを指しているのだとわからなかった。それがわかってくると、自分でも驚くくらい、怒りと、惨めな気持ちが肚の底から沸き上がってきた。そのこと自体に、フェルサリ自身が戸惑ってしまうほどだ。
「ど、どうして・・・」
 フェルサリは何とか口を開き、やっとそれだけを言った。何故、が多過ぎて、それでもニコールが言ったことは正しいと認めている自分もいて、混乱する。ただ、全てが唐突すぎる。
「・・・わかった。今回はこの依頼にしましょう。久々に金になるしね。フェルサリ、今回は賊の討伐よ」
「ぞ、賊、ですか・・・」
 頭に血が上ってしまい、セシリアの言っていることが、上手く頭に入ってこない。賊の討伐。賊・・・。
「人殺しには、ちょうどいい。もちろん、あなたが無理についてくることはない」
 ニコールが言う。突き放したような言い方だ。
「あ、え、ええと・・・」
「明日、朝一番の列車に乗って、現地に向かう。それだけは伝えておくわ。セシリア、それでいいでしょう?」
「そうね。決まりでいい」
 一応声は掛けてもらえた。それでも自分が置いてけぼりにされているように、フェルサリは感じた。この家に来てからは、味わったことのない感覚だ。昔を思い出す。胸の奥が、ずきずきと痛んだ。
 打ちのめされそうになる。ニコールと同じ冒険者として、仲間として話せる日を、楽しみにしていた。他の仲間からの話を聞いても、すごい人だと思っていた。セシリアとは違う意味で、憧れてもいたのだ。
 ニコールはフェルサリの方を見もせず、軽く眼鏡の位置を直して、道場を後にした。
「気にしないで。ああいう人よ」
 セシリアが、フェルサリに微笑みかける。
 一体何から聞いていいかわからず、フェルサリは外の空を見上げた。
 良く晴れた空の青が、一層、フェルサリの胸を空虚にする。
 何故。声には出さず、フェルサリは呟いた。

 

 隣りに座るフェルサリの表情は、陰鬱だった。
 セシリアたちは馬車で、レムルサ駅に向かっていた。これから目覚めようという街は、通りの人の少なさの割には、どこかに慌ただしさと活気を感じさせる。家や店の中から、炊事の音や香りがする。朝に弱いセシリアだが、この時間のこの街の雰囲気は好きだった。徹夜明けに、澄んだ空気の街に散歩に出ると、何か得したような気分になったものだ。
 ニコールとは、レムルサ駅の街の改札前で待ち合わせをしている。というより朝一番の列車という時間の指定だけで、そこで待ち合わせると決めたようなものだ。これまでそんな調子で、ニコールとは仕事をしてきた。
「大丈夫?」
 俯いているフェルサリに、セシリアは声を掛けた。
「は、はい・・・母さんこそ、傷もまだ癒えてないのに・・・」
「肋は、治るのに時間がかかるからね。いつまでも休んでいてもしょうがないわ。ただ動きに支障はないけど、ちょっと痛むかしらね」
 肋骨が、二本折れている。ひびくらいかと思ったが、医者の見立てでは左右一本ずつ、ぽっきりと折れているという話だ。ジャクリーヌとの戦いで負った傷で、他にも傷めている箇所はあるが、完治に時間のかかりそうなのが、この肋だった。
 脇を押さえ、フェルサリに微笑みかけると、ぎこちない笑みが返ってきた。
 元から、フェルサリの口数は少ない。加えていつも以上に、昨日からの彼女は思い詰めた様子だった。気持ちは、わかる。パーティの面子も家にいる子供たちも、フェルサリのことは温かく迎えてきた。だからこそニコールの態度に、困惑を隠せないでいる。
 フェルサリのことをニコールに相談したのは、セシリアである。ただの愚痴や不満に聞こえないよう、具体的にどうしたらいいか尋ねた。ニコールは一言、任せてと言い、予定より早くパーティに合流したのだった。もう少し生まれた子供と一緒にいてほしいと思ったが、それは今後、依頼に関わる頻度で調節していくつもりだ。もっとも、ニコールはもう本格的に復帰する気持ちでいるかもしれない。彼女は妊娠のことも、長い間伏せていたくらいなのだ。
 今いる面子の中では、最も付き合いの長いのがニコールだった。出会ってから、もう八年になる。セシリアのことは良く理解しているし、セシリアも最も信頼している人間の一人だ。
 冒険者になってから、フェルサリは間違いなく明るくなった。同時に、何か大切なものも失いつつある気がする。その原因はセシリアの方にあるはずで、しかしセシリアにはそれがよく見えていないのだった。他人の心の機微はよく読めても、案外自分とそれに近しい問題は見えないものである。
 レムルサ駅が見えてきた。ニコールは改札傍の柱に寄りかかり、葉巻を吹かしている。
「もう着きますよ」
 御者をやっているロベルトが、こちらに声をかける。
 今回の依頼は、一見、セシリアたちにとっては危険そうなものではない。グランツ帝国内の伯爵領、そこに現れた賊徒の討伐だ。規模は二百程度で、よほど腕の立つ者が混じっていない限り、セシリアとニコールが遅れを取ることはないだろう。が、人間相手の戦いでは、そういったものとは別の危険が潜んでいる場合がある。
 通りに馬車を停め、荷下ろしをしていると、いつもの鞄運びの少年二人がこちらに駆け寄ってきた。活発そうな少年の後ろに、少女のようなもう一人。この二人の名を、セシリアは知らない。以前に聞いたような気がしたが、お互いいつが最後の別れとなるかわからないので、あえて聞き直すようなことはしてこなかった。毎回死地へ向かうセシリアたちはもちろん、この子たちもいつ、飢えや寒さ、あるいは悪漢に襲われて命を落とすかわからない。
 が、ふとした気まぐれで、今度時間のある時にはちゃんと、名前を聞き直してもいいと思った。最近までは活発そうな少年一人がセシリアの担当だったので、二人いる今となっては、名前で呼び分けた方がいいだろう。
「おはよう、チェツィーリア。荷物を運ぶぜ」
「お願いね。ええと、部屋は・・・」
 昨日の内に予約しておいた切符を見て、客室の番号を告げる。
「なんだフェルサリ、元気ないじゃないか」
 活発そうな少年が、フェルサリに声をかける。フェルサリは困り顔の微笑を返しただけだ。
「そうだ、チェツィーリア。相談があるんだ」
「構わないけど、今?」
「いや、すぐって話じゃない。今度あんたの家で飯でもごちそうになりながら、話したいことなんだけど」
「ちゃっかりしてるわねえ。いいわよ」
 この少年には、何度か家に招いて食事を振る舞ったことがある。セシリアのいない時にも何度か来ているそうだが、ロベルトには家の子供たちと同じように接してくれと言ってある。セシリアの子供のうち何人かが、この少年と友だちなのだ。
 ニコールが鞄を持って、こちらにやってきた。御者のロベルトと、軽く挨拶を交わす。
「二人が並び立つところを見るのは、久しぶりです」
「並び立つって、ちょっと大袈裟ねえ」
 セシリアが言うと、ニコールが少し皮肉っぽい笑みを返す。
「うちの店以外で会うのは、確かに久しぶりかもしれないわね」
 店とは、ニコールの酒場である。この駅前広場からすぐ近くのところにある、小さなバーだ。
 二人から少し距離を置いて、フェルサリが所在なげにしている。昨日のこともあり、ニコールとは接しづらいのだろう。
 ネリーでもいれば随分と雰囲気は変わっただろうが、あいにく彼女は留守である。ゴルゴナで魔術関連の学会があり、そこに招待されている。元々帝立大学を追われる形で出て行ったので、実はネリーには魔術守旧派の敵が多い。体調は万全ではないが、護衛くらいならできるということで、テレーゼもネリーに付いていった。ただ、ネリー自身も傷が癒えていないので、今回の依頼に同行するのは難しかっただろう。
 しかしあらためて、とセシリアは思う。ジャクリーヌたちは強かった。パーティの面々それぞれが負傷しており、一番軽傷だったフェルサリでも、ようやく脚の包帯が取れたばかりなのだ。誰か一人くらい命を落としていても、おかしくはなかったのである。
 セシリアたちが改札に向かおうとすると、見覚えのある顔が近づいてきた。レムルサの軍の、中隊長である。恰幅が良く、丸い顔に口髭の似合う、愛想のいい男である。
「あら、中隊長。朝のお散歩?」
「ま、そんなところです。ほうほう、彼女が噂に聞く、新しいお仲間ですかな?」
 顎をさすりながら、フェルサリを興味深く見つめて、中隊長は言った。
「まさか」
 ぴしゃりと、ニコールが言い放つ。挨拶をしようとしていたフェルサリの表情が凍りつき、やがて俯いた。
 場の空気を察してか、中隊長は苦笑いしながら立ち去っていった。普段だったら助け舟を出すセシリアだが、ニコールにも考えがあってのことだ。あえてそのままにして、改札を潜った。
 振り返り、ロベルトに手を振る。その手前を、とぼとぼとした足取りで、フェルサリが歩いてくる。
 前髪が影になり、俯いたままの彼女の表情は、よくわからなかった。

 

 目の前で、ニコールが新聞を読んでいる。
 セシリアは客室に着くとすぐに、壁に備え付けてある寝台を倒し、横になってしまった。肋の負傷は、フェルサリが思っているよりも深刻なのかもしれない。家でそうだったように、胴鎧だけをコルセット代わりに、仰向けに横になっている。顔色も優れない。眠っているわけではないので、窓の方を見ているセシリアと、時折目が合った。その瞳に、少しだけ励まされる。
 意を決し、フェルサリは向かいのニコールに声を掛けた。
「あ、あの、あの・・・」
 ニコールは新聞を半ば立てるように読んでいるので、その表情は窺えない。
「その、手首に着けているものは、何なのでしょうか?」
 ニコールは右の手首の内側に、皮で出来た容器を身につけている。小さな酒瓶を、少し平たくしたような形だ。
 新聞を下げ、ニコールがこちらを見た。綺麗な顔だが、思わず目を逸らしたくなるほどに、視線が冷たい。二重瞼の線がやや目から離れており、一見眠たそうに見える形をしているのだが、間違っても茫洋とした印象はなく、眼光はとにかく鋭い。
 右手を軽く上げたニコールは、左手で容器についている突起のひとつを押した。かしゃりという音がして銀色の弾が飛び出し、それはニコールの右の手の平に、吸い込まれるようにして収まった。拳を軽く握り、曲げた人差し指に挟んだ銀玉を、親指で弾くような形を作る。
「こうやって、弾丸を指で弾く。威力は、拳銃と同じくらいかしらね」
 ニコールの握力は、何でも握りつぶすと言われるくらい、強いそうだ。なるほど、ということは、並外れた指の力で弾く銀玉は、銃の弾丸に匹敵する威力なのかもしれない。
「す、すごいですね・・・」
「どうかしらね。まあ、それでも人を殺すには充分よ」
 人を、殺す。言われてフェルサリの心臓は、ばくりと跳ね上がった。
「私たちは"指弾"って呼んでる。弾丸は通常の鉛ではなく、鋼よ」
 二の句が継げないでいるフェルサリに、セシリアが間の手を入れた。フェルサリは頷いたが、ニコールはもう新聞を読む作業に戻ってしまっている。
 どうしてかわからないが、ニコールは自分のことをひどく嫌っているように思えた。以前挨拶するだけの関係だった時は、少なくとも、嫌われてはなかった気がする。たたずまいから冷徹な印象はあったが、ここまで突き放されているとは感じなかったのだ。
 セシリアがフェルサリのことでニコールに相談したことは知っていて、それが原因だろう。何を話したのかは知らないが、セシリアが自分のことを悪く言ったとは思っていない。もちろん今の事態にはフェルサリに非があるとは思っているが、セシリアは、そういうことは面と向かって相手に言う人だ。実際フェルサリは今でも、失敗や気の緩みのようなものは、その都度注意を受けている。
 詳しいことはわからないが、フェルサリがパーティの中にあって、あまりにも弱いということが、大きな原因だと思う。しかしそれだけだと決めつけるのは、もっと大きな問題から目を逸らしているような気もする。つまり、少し考えてわかるような話ではないのだろう。
「え、ええと、ニコールさんは昔、傭兵をされてらしたんですよね」
 少し話題を変えてみようと思ったが、再び新聞から目を上げたニコールの視線に押されてまたも、それ以上の言葉が出てこない。
「飼い犬が、言うことを聞かない。あるいは犬自身が忠義を示しているつもりでも、周りに迷惑をかける。どうしたらいいか、わかる?」
 ニコールが、じっとフェルサリを見つめて言う。
「あ、えっと、その、躾の仕方を・・・」
「違う」
 葉巻に火をつけながら、ニコールは言った。葉先をオイルライターで丁寧にあぶった後、窓の外に向かって盛大に煙を吐き出す。
「犬を調教できない、飼い主に責任がある。この場合は、そう・・・」
「私、ね」
 半分身を起こしていたセシリアが、軽く肩をすくめた。つまり、フェルサリは犬だということだった。ひどい言われ方だと思ったがそれ以上に、仕方のないことだというあきらめもある。が、それでもどこかに感情の高ぶりあり、鼓動が早くなっていることも自覚できた。ニコールは冷笑しながら、セシリアからフェルサリに視線を戻した。
「誰が主人で誰が犬かは、場合による。あなたにもわかる時が来るわ。何を言いたいかは、その時がくれば自然とわかる。獣を、飼いならすことよ。それは、あなたを内側から喰らい尽くす。今言ったことだけは、覚えておきなさい」
 フェルサリは頷いた。ごくりと唾を飲み込む音が思いのほか大きく響き、頬が熱くなる。
 室内に、再び沈黙が訪れる。ニコールは新聞の束に次々と目を通し、セシリアは取り出した小刀で、爪の形を整えていた。
 しばらくして、ニコールがセシリアに声を掛けた。
「まだ、それ使ってたのね」
「縁があるのよ」
 セシリアの小刀。子供の頃から使っているものだと聞いたことがある。長年使っているので、刀身はもう少し長かったそうだ。旅先で調理をする時にも使うし、飛刀として相手に投げつける時もある。
 以前戦った大型合成獣、巨人喰らいとの戦いでも役に立った。オルガの魔法で巨人喰らいが粉々に砕け散った後も、セシリアは満身創痍のまま瓦礫の山をかき分け、あの小刀を探していた。見つけた時のセシリアは、血まみれの顔でにこりとフェルサリに笑いかけたのだった。見つからなかったら、それはそれで仕方ないんだけどね。セシリアはそう言った。愛着があるのだと、フェルサリは思ったものだった。
 少し気が落ち着いてきたので、フェルサリは食堂車両から飲み物を買ってくることにした。セシリアは紅茶で、ニコールもそれでいいと言うので、三人分の茶を買ってくる。机の上にカップを置く。
「ありがとう」
 ニコールは言った。とげとげしい口調ではない。特にフェルサリについて怒っている様子はなく、フェルサリは彼女とどう接したらいいか、さらに考え込む。そもそも、こういう性格なのだろうか。しかしこれまでニコールに関する仲間の話では、付き合いづらいとかそういった話を聞いたことがない。
 窓の外に目をやると、遠くに山々こそ見えるものの、概ね平坦な土地が広がっていた。まだ、グランツまでは遠い。帝国領内に入ると、途端に森になるのだ。
 フェルサリはもう一度、先程自分が聞こうとしていた話をしてみることにした。
「え、ええと、ニコールさんは、傭兵をやられている期間は、長かったんですか?」
「物心ついてから、17歳まで」
 ニコールは読んでいる新聞から目を上げない。しかし話は聞いているようだ。
「そこでは、どういう暮らしを・・・」
「人を、殺してた。うんざりするくらいにね」
 どうしても、こういう話になってしまう。フェルサリは袋小路に行き当たってしまった気持ちだった。
「・・・人を、殺したことがないそうね」
 ニコールが、再び新聞から目を上げた。
「は、はい。ありません」
「これから、そうなるかもしれない。あなたの気持ちを聞いておくわ」
「・・・ひょっとしたら、そうなるかもしれないというのなら、できるだけ、そうならないように・・・」
「言い方を変える必要があるかしら。賊の討伐という依頼にあって、一人も殺さないということは、依頼自体に変更がない限り、まずない。あなたに殺すつもりがないとしても、武器を持った人間が大勢襲いかかってきたら、あなたも武器を取らざるをえないでしょう?」
「そ、そうですね・・・でも、できるだけ・・・」
「それはあなたの勝手よ。ただ、あなたが手を抜いたせいで、セシリアが死ぬかもしれない。どう?」
「そ、それは、そうなった時は、全力で・・・」
「あなたに、その判断ができるの?」
 できるのだろうか。言われてみると確かに、自信がない。
「その判断を私たちがするとしたら、あなたは人を殺せる?」
「・・・わ、わかりませんが、やるしかないと思います」
「どうかしら? あなたが私の立場だったら、そんなことを言っている人間に、安心して背中を預けられる?」
 思わず、はっとなった。なんとなく、ニコールがフェルサリを突き放している原因がわかる気がした。
「す、すみません。もっと、ちゃんと考えるようにします・・・」
「役に立つ気がないのなら、次の駅で降りて帰りなさい。役に立とうと思うのなら」
 ニコールは、顎でセシリアを指し示した。
「そこにいる、怪我人の後ろにでも隠れていることね。彼女はタフだから、あんな状態でも盾代わりにはなるでしょう」
 それ以上ニコールと目を合わせていられなくて、フェルサリはセシリアの方を見てしまう。そのセシリアが口を開いた。
「できれば私は、フェルサリに人を殺してほしくはない。でもそれは、彼女に冒険者をやめろということでもあるから、私だけで判断できることじゃないわね」
 そう言ってセシリアは、キセルに火をつけた。セシリアにも、少し距離を置かれた気がする。そのことに、フェルサリはどうしようもなく孤独を感じた。
「す、すみません。本当に、もっと、ちゃんと考えるようにします・・・」
 声が上ずらないよう、フェルサリは必死に耐えた。
 歯を食いしばるが、閉じた唇の震えだけは、どうにもならなかった。

 

 

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