前のページへ  もどる  次のページへ

 目を覚ましても、そのことにすらすぐには気づかなかった。
 床が、ひんやりとする。ごつごつとした荒い石畳。何故、こんな所で寝ているのか。起きようとして、後頭部に燃えるような痛みを感じた。次第に、意識がはっきりとしてくる。
 石の壁、鉄格子。牢のような所に、閉じ込められているようだった。痛む首筋に触れようとして、大きな金属製の首輪をはめられていることに気がついた。大きいだけでなく、どんな怪物でも引きちぎれないほどに、分厚い。人差し指の半分ほどの厚さで、起き上がろうとすると、ずっしりとした重さが肩に食い込む。
「・・・あ、目を覚まされたんですね。よかった・・・」
 か細い声がして、フェルサリは振り返った。格子の向こう、そちら側ももう一つの鉄格子に囲まれていて、女性が一人、床に座り込んでいた。
 かなり憔悴しているが、肖像画で見た通りだ。波打つ亜麻色の髪に、優しげな眼差し。
 伯の長女、攫われたディオーティマが、そこにいた。
 二人の牢の間には、床に二つ、滑車装置があった。鎖がフェルサリから見て左手の壁に向かって伸びており、壁を伝い、それぞれの首輪に繋がっているようだ。ディオーティマの首輪は薄い。小さな天窓から黄味がかった光が差し、滑車装置を照らしている。夕陽。天窓は西に向かっているようだ。部屋には北西と南西に牢があり、フェルサリがいるのは南西の牢ということだった。
 まだ、頭がぼんやりとしている。いや、酔いが回った時のように周囲の状況を妙に冷静に把握できるのに、それが何を意味するのか、もうひとつ頭に入ってこない。
「あ、あの、大丈夫ですか?」
 ディオーティマが、フェルサリに声をかける。フェルサリは頷いた。
「ディオーティマさん・・・ですよね。こ、ここは、どこなんですか・・・?」
「叔父の・・・、エックベルトの砦です。ああ、お話できるんですね。あなたがここに連れてこられた時は、もう目を覚ますことはなさそうな、そんな様子でしたので・・・」
 段々と、状況がわかってきた。ジドーニアの部下に頭を殴られ気を失い、ここに連れてこられた。
 つまりは、ジドーニアとエックベルトは、裏で手を組んでいたのだ。
「エルフ・・・いえ、ひょっとしてハーフエルフの方ですか。どうしてここへ・・・」
 当然ながら、囚われていたディオーティマは、フェルサリのことを知らない。フェルサリは自分を含む三人が、伯の依頼を受けてディオーティマを救いにきたことを簡単に説明した。残る二人は強く、おそらくフェルサリのようなへまはしないだろうとも付け加える。
「ま、まあ、本当に? ではお仲間の方がここへやって来て、私たち、助かるかもしれないのですか?」
 声を上ずらせて、ディオーティマは言った。口を手で押さえ、嗚咽をこらえている。囚われてから、ひどい目にあってきたのだろう。破れたドレスからのぞく白い肌の方々に、青いあざができている。
 フェルサリは立ち上がり、鉄格子に触れてみようとした。案の定、首輪の鎖が伸び切り、あと少しという所で手は届かない。牢の広さは一辺が五歩程度で、いくら頑張っても三歩半がやっとだ。
「ふ、二人が、必ず助けに来てくれます」
 自分を勇気づけるように、フェルサリは言った。ディオーティマは、涙を拭いながら何度も頷いた。
「ああ、やっと目を覚ましたわね。死んじゃったかと思ったわよ」
 扉が開かれ、ジドーニアと男たちが部屋に入ってきた。ジドーニアより前に立つ男。黒い髪だが、顔立ちはオッタークローネ伯とどこか似ている。この男も、肖像画で見た。エックベルト。どろんとした目つきで、フェルサリを見つめている。しばらくして、エックベルトは口を開いた。
「死んだら、人質として役に立たない。まあ、金になるなら売っ払ってもいい」
 鍵を開け、エックベルトたちが牢に入ってくる。
「ん・・・中々の上玉じゃねえか。まずは、俺から楽しんでもいいが・・・」
「やだ。ハーフエルフなんかとしたら、病気をうつされるかもしれなくてよ?」
 蔑んだ瞳で、ジドーニアがこちらを見ている。ずきりと胸の奥が痛む。裏切られた。いや、そもそも信用していい人間ではなかった。内心あんな目で、フェルサリのことを見ていたのだろう。
 じろじろと、エックベルトの淀んだ視線がフェルサリの身体を舐め回す。
 肌が粟立った。状況は理解できる。このまま、この男たちに犯されるのか。
「まあ、人質に使うにしても、他の使い道も考えておかないとな・・・待てよ、こいつ処女か? おい、確かめるぞ。滑車を回せ」
 男の一人が滑車を回し始めると、いきなり首輪がものすごい勢いで壁に向かって引っ張られた。壁にしたたか打ちつけられたが、なおも滑車が鎖を巻き込む勢いは止まらない。上へ上へと引っ張られ、足が浮いた。首輪を必死で掴む。そうしないと窒息するか、首の骨が折れてしまう。
 男たちが、暴れるフェルサリの両脚を掴んだ。
「や、やめ・・・ぐぅ!」
 エックベルトの指が、フェルサリの秘所をまさぐる。太い指先が、体内に入ってくる。あまりの悪寒に、気を失いそうだ。
「処女か・・・もういい、下ろせ」
 滑車を逆に回したのか、フェルサリは尻から石畳の上に落ちた。
「こいつは、金になる。ゴルゴナの奴隷商にでも売れば、結構な値がつくだろう」
 エックベルトが指先をべろりと舐めながら言った。フェルサリの身体は恐怖と嫌悪に震えてしまって、この男に殴り掛かることもできない。
「もう、あなたはお金のことばかりですのね。人質にしようと思って連れてきたのに」
 ジドーニアは、エックベルトの腕にもたれかかっている。
「少しでも、軍資金がいるんだ。時化た村から搾り取るような金じゃ、まるで足りない。本当に強い奴らを雇わねえと、俺たちはいつか殺される。もっとも、人質として使った方が効果的かもしれないが、相手が相手だからな。慎重にならなきゃいかん」
 エックベルトはどんよりとした目を天井に向け、つぶやくように言った。この男には、あまり感情がないように見える。それは何をするかわからない恐怖を、フェルサリに植え付けた。
「ハーフエルフには手を出すな。どう使うにせよ、売り物だ。やりたきゃ今まで通り、あいつで済ませろ」
 あいつ、とはディオーティマのようだった。そのディオーティマは目をいっぱいに見開いて、涙を流している。
 心底、この女性を救いたいと思った。そして今の自分はどうしようもなく、無力だと痛感する。
 男たちが去る頃には、すっかり日も暮れていた。
 外に人の気配がなくなると、ディオーティマがここでどうやって用を足すのかを教えてくれた。西の壁際に、拳一つほどの幅の溝があり、そこを水が流れている。外の小川から引いてあるようで、ここに屈んですることになる。
「それと・・・」
 この後、男たちが牢に入ってきたら、ディオーティマから背を向け、耳を塞いでほしいと言われた。何を言いたいかはわかる。男たちに犯されるところを見られてうれしいわけがない。フェルサリは頷く。そんなことしかできない自分が、今はひたすら情けない。
 何か、この人を勇気づけられたら。しかし束の間とはいえ、この牢では身の安全を保障された自分が何を言ってもという気がして、言葉をかけられなかった。時折ディオーティマが話しかけることに、相づちを打つのが精一杯だ。
 夜も更けた頃、男が一人、牢に入ってきた。パンとチーズ一欠片、汚いジョッキに入った水を、かろうじてフェルサリの手の届くところに置く。男はにやりと笑った後、ディオーティマの牢に入っていった。
 フェルサリは壁に向かって座り、両手で耳を押さえた。最低だ。何もかもが、叫び出したくなるくらいに、ひどい。
 守りたいのだ。ディオーティマを、守りたい。なのに、何も出来ない。
 じっと目を瞑りながら、どうしようもなく、自分を惨めだと思った。

 

 前方に、賊の気配を感じた。
「五人。一人だけ、逃がすことにするわ。その前に、どの程度知ってるかだけ、訊いてみる」
「了解」
 ニコールのいらえは短い。セシリアは剣を抜かず、木陰から道の方に歩み出た。
「木こり・・・の人たちじゃないわよね?」
 斧と鉈を持った五人組だったので、セシリアは一応訊いてみた。
「あ、お前は」
 どうやらその内の一人は、先日取り逃がした賊の一人のようだった。見覚えがある。
 賊が武器を手にするのと同時に、セシリアは二人を斬り伏せた。もう二人が、続けざまに倒れる。一人は頭、もう一人は腹を、ニコールの指弾によって撃ち抜かれている。
 残る一人はしばらく呆然とした後、全力で来た道を引き返した。
「尾けて」
 ニコールが、その賊を追う。軽い駆け足といった調子なのは、本当に追いつこうと思えば、すぐにでも追いついてしまうからだ。
 セシリアは、腹を押さえてうずくまっている賊に近づいた。
「エックベルトが、今どこの砦にいるかわかる?」
 男は額から玉の汗を滴らせながら、首を振った。
「最近、彼の周囲で変わったことは?」
 荒い息を吐きながら、男が答えた。
「あ、あんたらを殺す為に、精鋭部隊が、頭領の元に、集まってるって話、だ・・・」
「精鋭部隊なんてものがあるのね。他には?」
「し、知らねえ・・・」
 死に瀕してなお、主君に忠義を尽くす類の人間ではない。これ以上知らないとしたら、フェルサリのことはまだ末端には伝わってないのかもしれない。ただ、一応訊いてみる。
「フェルサリっていう、ハーフエルフの娘については?」
「あ、あんたらの仲間だろ。な、なあ、助けてくれ・・・」
「ご苦労様」
 セシリアは、男の首を跳ね飛ばした。
 二頭の荷馬を連れ、ニコールたちの後を追う。道が分かれていたが、左の木の中央に、銀貨ほどの窪みがある。ニコールが指でつけた跡だ。セシリアは左の道を進んだ。五分と経たないうちに、岩の陰に隠れているニコールと合流する。
「残念。はずれよ」
 ニコールが指し示したのは、森の中にぽつんと佇む小屋だった。猟師共用の小屋だろう。
 セシリアは、扉を蹴り開けた。同時に、物陰から賊が襲いかかってくる。振り下ろされた鉈ごと、セシリアは男の首を刎ね落とした。
 小屋の中を見て回る。まだ新しい斧と鉈が五本ずつと、こうした小屋にしては備蓄が多く、充実していたが、後は何の変哲もない猟師の小屋だった。
 賊は朽ちた砦に潜むだけでなく、こうした森の生活者の住居にも数多く潜んでいるのかもしれない。村にも、賊そのものでなくとも、協力を強いられている者はたくさんいるだろう。不平不満は多く聞いたが、まともに賊を糾弾する声はほとんど聞かなかった。
 伯は賊に手を焼いているが、伯本人が考えているよりも、事態はずっと深刻である。賊の数は、伯やその配下たちが把握しているよりも、遥かに多いはずだ。
 おまけに、身内から内通者まで出ている。
「ジドーニアは思ったより多くの軍資金を、エックベルトに提供しているのかもしれないわね。こうした武器を集めるのにも、結構金がかかる」
 セシリアは、寝台の下を覗きながら言った。真新しい盾が二枚、隠すように置いてある。ニコールも戸棚を開け、武器を見つけたようだ。
「惚れているのでしょうね。あるいは恐れているのかも。あの娘だけが思ったより質素な格好をしていることに、少し驚いたから」
 宝飾品の類は、大方売り払っているのだろう。セシリアは言った。
「エックベルトがこの地を治めた後に、妻となったジドーニアがエックベルトを殺す。エックベルトはこの地の民を苦しめたが、自分は違うと言って民心を掌握する。これが最もありそうな気がするわね。それを悟られぬよう、エックベルトに惚れ、恐れている振りをしているのかも」
「ありうる。伯爵、エックベルト、ジドーニア。この後誰がこの地を治めるにしても、民はいい思いをしないでしょうね」
 もうひとりの血縁、ディオーティマの名前が入っていないが、ニコールの中では既に死んでいるとみなしているのだろう。伯の後釜としては第一候補であり、エックベルトとジドーニアにとっては、邪魔な人間でしかない。
 セシリアも、ディオーティマの生死についてはあまり希望を持っていなかった。伯への取引材料ではなく、復讐なのだ。今この瞬間には生きていても、次の瞬間には殺されているのかもしれない。糸を引いたのはジドーニアか。少し陰険なやり口である。男のエックベルトは復讐するにしても、伯諸と諸共にと考えるのが普通だ。
「ディオーティマの話は、城で少し聞いたわ。他の三人と違って、それなりの人格者だったみたい。できた人間だけに、伯も婿選びには慎重になってたみたいだけど」
 伯爵領ともなれば、治める領地は広大であり、権力も大きい。ゆえに慎重になり過ぎたと言える。あと一年早く、婚約が決まっていれば、今の事態を招くこともなかったかもしれない。
「子供は、娘二人。エックベルトは自分が跡を継ぐものだと思っていたので、娘に跡を継がせようとするのが気に入らなかった。そして内紛の気配を嗅ぎ付けられ、放逐された。エックベルトと恋仲にあったジドーニアが、それを陰ながら支援する。しかしそのジドーニアは、エックベルトがこの地を治めた後のことを考えて行動している。まったく、よくある貴族のもめ事ね」
「エックベルトがディオーティマを攫った理由が見当たらない。人徳のある姉への嫉妬か、もっと根深い確執か、ともあれディオーティマ誘拐をジドーニアが画策したとすれば、彼女は俗物すぎる。陰謀を企むのなら、自分の感情はほんの少しでも表に出すべきではないわ。どこかでへまをやらかすんじゃないかしら」
 ニコールは暖炉の中を探ったり、梁の上を見たりしている。セシリアも人よりは細かく物事を洞察する性質だと思っているが、ニコールに比べればかなり大雑把だと自覚せざるをえない。
 ニコールが腰の小瓶を取り出し、ウォッカを口に含んだ。ここはもういいということだろう。
 セシリアたちは、小屋を後にした。

 

 耳を塞いでいた指を離すと、ディオーティマのすすり泣く声が聞こえた。
 もう何度目だろう。また一人、男がズボンを上げながら、部屋から出て行った。
 フェルサリは縛めの鎖が許す限り、ディオーティマに近づいた。手を、伸ばす。
「あなたは、私を助けに来てくれたんじゃないの・・・?」
 顔を覆ったまま、ディオーティマがつぶやく。胸に突き刺さる言葉だった。しかしディオーティマが受けている痛みに比べれば、いや比較することすらできない程度のものだった。
 ただ、胸が苦しい。
「あ、あと少し、あと少しで、きっと、母さんたちが、助けに・・・」
「もう嫌っ!!」
 ディオーティマは叫んだ。
「もう殺して! もう耐えられない! そうだ、あなた、私を救いに来たんでしょう? じゃあ今すぐ殺してよ。殺してよ!!」
 目を見開いたディオーティマは、そう叫んで頭をかきむしった。落ちかけた陽の光。滑車装置に差すそれを見つめる娘の目には、既に狂気の光が灯り始めていた。
 夜が訪れる。
 男が一人部屋に入ってくると、それだけでディオーティマは金切り声を上げた。
「や、やめて下さい! わ、私が、私が代わりになりますから!」
 思わず、フェルサリは叫んでいた。
 言ってしまったが、本当に耐えられるのだろうか。そんな覚悟があるのか。目の前の獣のような男に、犯される覚悟が。本当は、逃げ出したい。何もかも、ディオーティマさえ見捨てて、逃げ出したい。
 男は、大分酒に酔っているようだ。ぼんやりとフェルサリを見つめた後、牢の中に入ってきた。ズボンを下ろそうとする手が、覚束ない。
 どうする。できるだけ抵抗してみるか。あるいは、とにかく男の陵辱に耐えてみるか。
 いきなり、男の首ががくんと前に倒れた。血を吹き上げながら、それはフェルサリの足下に落ちる。
「売り物に、手を出すなと言っただろう?」
 崩れ落ちた男の背後に、エックベルトが立っていた。部屋に入ってきたことに、まったく気づかなかった。騒ぎを聞きつけたのか、数人の男たちも部屋に入ってくる。
「なんだ、あの女には飽きてきたのか? こいつで遊びたいのか?」
 後ろの男たちに言っているのかもしれないが、エックベルトの淀んだ瞳は、首のない死体に向けられていた。
 エックベルトが、壁に立てかけられていた棒を持ってくる。何の前触れもなしに、それでフェルサリの腹を突いた。
「くはっ」
 身を折ったところで、今度は頭に突きが来た。手で頭を庇おうとすると、膝。エックベルトの突きはさほど強くはないが、痛みを感じるのには充分だ。男たちの笑い声が聞こえる。尻を叩かれ、フェルサリは悲鳴を上げた。男たちと一緒に、ディオーティマの笑い声も聞こえた。そちらを見ると、笑いながらも、瞳からは涙をとめどなく流している。
 どれくらいの時間叩かれ、突かれたのだろう。男たちが去る。身体中が熱を持っていた。耳の後ろを、少し切ったみたいだ。何度も打たれた尻は、大きな痣ができていることだろう。首輪が邪魔で、そちらの様子はよくわからない。
 しかしこんなもので済んだのだと、フェルサリは安堵したい気持ちだった。エックベルトの目を見ていると、いつ何をするかわからないところがあったのだ。
 鼻をすする。少し、泣いていたようだ。でも大丈夫だ。あらためて、そう自分に言い聞かせる。
 一週間か、一ヶ月か、あるいは半年か。セシリアが自分を見つけてくれるまで、耐え続けよう。なぶるのに飽きて犯され続けるとしても、とにかく今は耐えるしかない。恐怖に身体が震えかけるが、フェルサリは自分の身体を抱いて、再び大丈夫だと言い聞かせる。
「あなた、私の代わりに、今度から棒で叩かれてくれるのでしょう?」
 ディオーティマが言った。フェルサリが頷くと、色を失いかけた唇から、ひひ、と嫌な笑い声が洩れる。ディオーティマは正気を失っていた。立ち直らせることができるのだろうか。
 丸みのある頬と優しげな眼差しが、愛くるしい女性だった。今は狂気に歪められたその顔を見るのが、とにかくつらい。
 このままセシリアたちが自分たちを見つけられなければ、いずれフェルサリも正気を失ってしまうのだろうか。エックベルトがよりひどい仕打ちをした時に、フェルサリは泣いて命乞いをするのだろうか。
 そんな自分をこれまで想像したことがなかったが、今は何となく想像できた。棒で叩かれる痛みは、今日のところはそれほどでもない。耐えられるという意味でだ。しかし家畜を面白半分にいたぶるような扱いは、思っていたよりも心に堪えた。この土地に来てから、人々に昔の自分のように見られていたことも、いまだに引きずっている。
 こんなに耳が長くても、人間なんだ。それをわかってほしかった。半エルフというだけで、どうして。
 この気持ちを悟られるのは、まずい。エックベルトは、どんな手でフェルサリをなぶってくるかわからない。
 扉の外で、女の笑い声がする。入ってきたのは、ジドーニアだった。若い兵を一人、連れている。
「あら、豚が二匹、仲良くやってるんじゃなくて?」
 ジドーニアがひどく上機嫌なのは、先程の男たち同様、酔いが回っているからだろう。
「エックベルトに聞いたわ。そこのハーフエルフをいたぶってて、あなた、まだ今晩のお務めを果たしていないんですってねえ?」
 この首輪が、隔てる鉄格子がなければ、今すぐにでもジドーニアを殴り倒したかった。
「私は・・・姉さんが、憎い・・・いつもにこにこして、父様や家臣の御機嫌取りばかりして、それでみんなからちやほやされて・・・」
 不意に、ジドーニアの瞳に暗い炎が宿った。
「私が、どれほど惨めな思いをしてきたか、姉さんにわかって? 殺すだけじゃ物足りない。苦しんで苦しんで、私がこれまで受けてきた扱いの何倍も、姉さんは苦しむべきなのよ・・・」
 ジドーニアの豹変振りにフェルサリは驚いたが、ディオーティマにその様子はない。こうしたやり取りは、彼女がここに囚われて以来、何度かあったのかもしれない。ディオーティマは傲然と、ジドーニアを睨み返す。その目には、今まで以上の狂気の光があった。
「な、なに、その目!? いいわ、今日のお務め代わりに、今からその目をえぐり取ってやる!」
 激昂したジドーニアが腰の短刀を抜くと、ディオーティマは首を振って、壁際まで後ずさった。
「や、やめて・・・何でもするから・・・」
 今のジドーニアには、本当にそんなことをやりかねない雰囲気がある。いや、ここまでディオーティマを追いつめても、なおこの姉を許していないのだ。フェルサリにはわかった。この女は確実に、やる。
「い、いや・・・やめて・・・」
「やめて下さい!」
 フェルサリは叫んだ。
 ジドーニアがこちらを振り向いたその刹那、ディオーティマは驚くべき俊敏さで短刀を奪い、ジドーニアの腹に突き刺した。
「えっ・・・あっ」
 ジドーニアが床に座り込む。その腹から短刀の柄が、まるで別のもののように突き出していた。
「こ、殺して! こいつを、殺して!」
 ジドーニアが、兵に向かって叫ぶ。言われた若い兵は、かなり動揺している。剣の柄に手をかけるところまではいったが、それを抜くことができない。
「殺せと言ってるのよ! 殺せ!! 殺せ!!」
 意を決し、兵はディオーティマの胸を貫いた。くぅ、と小さな息を漏らして崩れ落ち、ディオーティマは動かなくなった。
「す、すぐに傷の手当を・・・!」
 兵が人を呼び、ジドーニアは担がれていった。部屋に残されたのは、フェルサリとディオーティマの亡骸だけだ。
「ああああぁぁっ!!」
 フェルサリは強く、頭を床に打ちつけた。いっそ自分も死んでしまいたい。何をどうすればいいかなんて、考える余裕はない。
 あの人を守りたかった。本当に、守りたかった。
 溢れ出した痛みの奔流に抗えず、フェルサリは大声で泣き叫び続けた。

 

 ようやく、何か知っていそうな賊に出会えた。
 セシリアは小屋の椅子に腰掛け、ニコールがもうひとつの椅子に縛られた男を尋問するのを眺めていた。キセルに、新しい葉を入れる。
「で、こことここ、どちらかにいる可能性が高いのね?」
 ニコールは机に腰掛け、脚を組み直した。黒の下着がちらりと見えたが、椅子に縛られた男には、それに欲情する余裕はないだろう。
「ねえ、本当はどこにいるか、知ってるんじゃない?」
 ニコールが男のに手を置く。ばきばきという音と共に、男のが砕けた。相変わらずの怪力だが、ニコールに取っては焼きたてのクッキーを砕くよりもたやすい。男の悲鳴が、小屋中に響き渡る。
 もう一人、縛ったまま床に転がしている男がいる。そのもう一人は、砕かれた肩から白い骨が飛び出しているのを見て、失禁したようだ。セシリアは立ち上がって窓を開けた。木戸のそれは立て付けが悪く、開けるのに少し苦労した。外は、いい陽気だ。
 ニコールはもう一度、椅子の男に向かって地図を広げる。長い人差し指が、二つの砦の位置を行き来する。
 男は、息も絶え絶えに答えた。
「そ、そっちの砦だ。少なくとも昨日は、そこにいた」
 ニコールが地図で指さした砦は、ここからさほど遠くない。今から急行して、到着は日暮れ前後といったところか。
「つまり、あなたもここにいたのね。じゃあハーフエルフの娘が、囚われてなかった?」
「あ、ああ、いた。あんたらの仲間だろ? 殺されてねえ」
 男の額にはびっしりと汗の粒が浮き出している。肩の痛みか、この状況に恐怖しているのか。前者の色合いが強い気がする。
 すぐに何かに気づいたのか、男の顔が下卑た笑いになった。頬にある刀傷が、歪む。
「そ、そうだ。へへへ・・・あのハーフエルフは、人質にするって言ってた。おい、ここで俺を解放しねえと、あいつやばいんじゃねぇか?」
 やはりこの男は、状況をまったく理解できていない。セシリアは紫煙を吐きながら男に言った。
「一体何の取引? あなたが殺されたことを先方が知る前に、私たちが砦に着くとは考えないの? 馬鹿ねえ」
 馬鹿、は余計な一言だった。フェルサリが捕えられているということで、少し感情的になっている。
 そして確認するまでもなく、この男二人を差し出せばフェルサリを返してもらえるということはないだろう。
 セシリアは床に転がっている男に目をやった。何度も首を縦に振る。先程の情報に嘘はなさそうだ。
 エックベルトの砦には、五十人ほどが集まっているそうだ。昨日別の賊に聞いた話と照らし合わせれば、精鋭の五十人ということか。
 セシリアが頷くと、ニコールが椅子の男の頭を鷲掴みにした。ぐしゃっという破裂音を響かせ、男の頭が爆ぜる。
「た、たた、助けてくれ!」
 床の男が叫ぶ。
 そうやって助けを求める人間を、今まで何人殺してきた?
 口には出さず、セシリアはその男の首を刎ねた。

 

 ひどく、喉が渇く。
 あれからほぼ丸一日が経とうとしているが、誰も部屋にはやってこなかった。
 小さな天窓からは、今日の光の最後の一筋が、滑車装置を照らしている。
 フェルサリは壁際の溝に手を伸ばし、流れる水を掬い取ってみた。小川から引かれているという水は、見た目には全く濁っていない。湧き水以外はそのまま口にするのは危険かもしれないが、舌が口の中に張り付いてしまいそうな今となっては、いたしかたない。口に含む。おかしな味もしないので何度かそれを口に運んだ。
 向いの牢では、ディオーティマの亡骸が天井を見つめている。フェルサリは膝を抱え、一日中それを目に焼き付けていたのだった。目を逸らすことも、忘れることも、フェルサリには許されないことのような気がしたのだ。
 故郷の村がオークに襲われた時も、はっきりとはしないが、たくさんの死体を見た気がする。唯一村でまともに会話の出来た肉屋の主人が、腹を引き裂かれた。そのオークを殺してやると思ってからのフェルサリの記憶はほとんどなく、時折断片的に思い出す光景は夢のように曖昧で、現実感がなかった。はっきりと記憶が繋がっているのは、セシリアに救い出された時からのものである。
 あの時、肉屋の主人を殺めたオークを、殺した気がする。どうやって倒したのか、ともかく大の字に倒れるオークの腹を、獲物を捌く時のように切り裂いたのだった。達成感のようなものとはまた違う、オークを絶命させた時の暗い満足感は、心の底の染みのように、黒くこびりついていた。
 ディオーティマが妹から短刀を奪いその腹に深く突き刺した時、彼女は何を思ったのだろう。
 彼女が囚われの身になったと聞いても、今振り返れば、フェルサリにはどこか他人事だったという気がする。自分も依頼を受けた一人だというのに、セシリアたちが何とかしてくれて、笑顔のディオーティマを救い出せると思っていた。
 相手が人間ということで、もう少し話し合いになったり、駆け引きがあるのではないかとも思っていた。前回の旅では、行く手を阻むゴブリンとさえ、交渉しようとしていたのだ。しかしセシリアもニコールも、出くわした賊を容赦なく斬り殺した。そのことはフェルサリの理解を超えていたが、今はそれが理解できる。相手がこんな人間だとわかっていたら、殺してやるとまで思えたかはわからないが、少なくとも、フェルサリも全力で戦えた。
 今なら、ここから脱出する為に、賊を殺せると思う。いや、正直に言うと殺したいとさえ思う。ディオーティマを陵辱し続け、正気を失うまで追いつめた。他にもこうやって殺された人たちはいるだろう。
 許せない。絶対に、許せない。
 あの時、フェルサリが大声を上げなければ、ディオーティマは殺されなかったのだろうか。事故のようなものとはいえ、誘発したのはフェルサリだ。黙っていれば、ディオーティマは目をえぐり取られていただろう。そしてそれも、絶対に見過ごせないことだった。
 もっと、強ければ。セシリアもニコールも、こんな牢くらい簡単に抜け出せている気がする。それ以前に、ジドーニアと単身接触し、うかうかと捕まることもなかっただろう。
 自分は弱く、愚かだ。フェルサリは、そんな自分も許せない。何よりも、そうあろうとし続けた自分が許せない。闇の中で膝を抱え、フェルサリはひたすらに自分を呪い続けた。
 ぎぃ、と扉の開く音がして、誰かが部屋に入ってくる。部屋に灯りはないが、わずかな月明かりでもフェルサリの目にははっきりと見える。ジドーニアだ。身を屈め、腹を押さえている。下着姿で、腹に巻かれた包帯は真っ赤だった。
 フェルサリを無視し、ジドーニアは荒い息を吐きながら、開いたままのディオーティマの牢に手をかける。
「あ、あんたが・・・」
 顔は蒼白だが、血走った目だけが赤く、怪物を見るようだった。
「あんたが死んで、いずれあの男も殺して、私が、領地を・・・」
 咳き込んだジドーニアは、赤い唾を姉の亡骸に吐きかけた。
「それが、どうして、こんな。私が、私が・・・」
 ジドーニアは、もう長くない。本人も、わかっているだろう。
「おい、今の話は、本当か?」
 扉の傍に、エックベルトが立っていた。フェルサリは少し前からその気配に気づいていたが、何も言わなかった。目を大きく見開いて、ジドーニアが振り返る。
「えっ? な、何の、話・・・」
「俺を、殺すって話だよ」
 エックベルトは何の躊躇もなくジドーニアを殴り倒すと、出血の続く腹を踏みつけた。
「くあぁっ! ち、違うの、助けて、やめて! 痛いぃ!」
「俺を、殺せるか? 殺せるか?」
「や、やめて下さい! や、やめろ!」
 思わずフェルサリは立ち上がり、叫んでいた。ジドーニアは、死ねばいいと思っていた。それでもまた目の前で人が殺されることに、耐えきれなかった。相手がジドーニアかどうかなんてどうでもいい。
 こんなことは、もうたくさんだ。
 悲鳴を上げていたジドーニアがやがて動かなくなっても、エックベルトは執拗にその腹を蹴りつけていた。やがてどんよりとした目がこちらを振り返り、フェルサリもまた悲鳴を上げそうになるのを、奥歯を噛んで必死にこらえた。
「おい」
 エックベルトは扉の外に出て、人を呼んだ。
「こいつを、厩に連れて行け。ここから出るぞ」
 事情はよくわからないが、フェルサリはここから出されることになりそうだ。
 しばらくして、ジドーニアの兵たちも姿を現した。
「エックベルト殿、ジドーニア様が見当たりません」
「あいつか。ここで死んでる」
 兵たちは血相を変えて、ジドーニアの亡骸に駆け寄った。
「その人が、エックベルトが、殺したんです」
 フェルサリは、兵たちにはっきりと聞こえるように言った。兵たちが一斉に振り返る。
 エックベルトが棒を持ってこちらの牢に入り、フェルサリの頭を力一杯殴りつけた。すさまじい音がして、棒が砕け散る。激痛と共に一気に血の気が引き、フェルサリは倒れた。なんとか、意識は保っている。血が目に入り、フェルサリは瞼を閉じた。
「こいつの言うことは聞くな。いいからこいつを厩に連れて行くんだ」
「お、お頭、どうするつもりで?」
 賊の一人が聞いている。フェルサリは目を閉じたまま、やり取りを聞いていた。
「奴らに対する人質にするつもりでいたが、ひょっとしたら無理かもしれん。交渉役に出した奴らは帰ってこない。まだ探してるのか、殺されたのかすらわからん。いきなりこの砦に来られると厄介だ。てめえらはよくわかってねえだろうが、大陸五強と、それに匹敵する実力を持つ二人組だぞ。お前らみたいな雑魚じゃ、百人束になっても敵わねえ」
 エックベルトの口調は、少し荒くなっている。この男には珍しく、セシリアたちに恐怖しているのか。
「人質にならねえのなら、こいつをゴルゴナで売って、金に換える。奴らに見つかる前に、ここを出るぞ。俺は荷物をまとめたら、厩に行く。お前たちも、すぐに出発の準備をしろ」
 セシリアたちの動向はわからないが、フェルサリが心配する必要はなさそうだ。そしてフェルサリ自身は、どうするか。
 必ず、この男たちの手から脱出する。どうすればいい? 今この状況でやれることはない。当面は気を失った振りを続けることだ。
 何か、凶悪なものが、フェルサリの胸中で黒く渦巻いていた。殺意かもしれない。肉屋の主人を殺したオークを、同じように殺したいと思った。ここにいる男たちにも、同じような気持ちを抱いている。それは間違いない。
 そしてそのことに、目を背ける必要もない。
 誰かが、フェルサリの腕を縛っている。胸の前、手首を交差させる格好だ。かちりと音がして、フェルサリの首輪が外された。
 暴れ出したい衝動を抑え、フェルサリは気絶した振りを続けた。男が、フェルサリの身体を肩に担ぐ。
 後ろ手に、縛らなかったな。
 フェルサリは、胸の内で呟いた。

 

 ここが、エックベルトの潜む砦だろう。
 城門の上に篝が焚かれており、内部には人の気配もする。
 固く閉ざされた城門は、それでもセシリアの掌砲、ニコールの拳で破壊可能だが、フェルサリを見つけられるまでは、あまり騒ぎを起こしたくない。
 砦の周囲を回り、見張りの目の届かない場所を探す。簡単にそれは見つかった。何カ所もだ。まるで襲撃を想定してないか、砦の中で何かがあったのか。精鋭を集めていると聞いた。ならば後者か。
 ニコールが石組みの隙間に指を掛け、楽々と城壁を上っていく。小指一本でも一日中自分の体重を支えることができるニコールだ。あっという間に、城壁の上に辿り着いた。ほどなくして、縄が下ろされる。
 セシリアも城壁の上に上り、中の様子を窺った。わずかに、騒がしい。一人二人と、中庭の厩の方へ向かうのが見えた。
 なるほど、これから砦を出るところだったのだ。誰かが見張りに声を掛けている。その見張りは篝を消して、砦の中へと走っていった。
「逃がす? 追いつめる?」
 セシリアが訊くと、ニコールは眼鏡に息を吹きかけ、それを布で丁寧に拭っているところだった。
「追いつめたくはないけど、エックベルトを逃がしたくもないわねえ」
「それもそうねえ。意外と、難しいわね」
「片っ端から、片付けていけばいい。目に入った奴を、一人残らずね」
「オーケー。難しく考えるより、身体を動かしましょうか」
 ニコールは口の端を上げて、獰猛な笑みを返してくる。
 城壁の上の歩廊には、木箱や麻の袋が乱雑に置かれている。木箱は朽ちかけており、ほとんどが空のようだ。それらを縫うようにして、二人は進んだ。一応、城塔の中も見てみる。人の気配は、やはり砦内部に集中しているようだ。
 引き上げようとしていたのだろう、歩廊でばったりと賊の一人と鉢合わせた。十歩の距離。飛刀を放つ。それは喉に深く突き刺さり、男は血の泡を吹いて倒れた。砦内部へと通じる道を急ぐ。
 扉の向こう。慌ただしい気配が、はっきりと伝わってくる。何人かが、こちらに向かってくるようだ。今いる歩廊からは城壁沿いに下に降りる階段が伸びており、眼下に厩が見える。
 扉を開け、抜剣と同時に目の前の賊を斬り倒した。残り三人。もう一人の首を刎ねている間に、ニコールが残る二人を殴り倒した。壁に叩き付けられた賊の生死は確かめなかったが、間違いなく即死だろう。
 一度戦闘を始めた以上、とにかく速度が大事だった。あまり悠長にやっていると、物陰から現れたエックベルトがフェルサリの首に短刀を押し当て、武器を捨てろなどと言ってきかねない。その場面は、作らせない。
 目についた賊は、とにかく視界から消える前に倒す。それを続けるしかなかった。進入を報告する者より速く、倒し続ける。
「無理しないでよ」
 横を駆けるニコールが言う。やはり、肋を庇いながら戦っているのがわかるのだろう。
「頼りにしてるわ。でもあなたこそ、実戦勘が鈍ってるんじゃないの?」
「かもね。いいリハビリになる」
 松明の灯りが揺らめく通路の角。三人、こちらに向かってくる気配。
 角から飛び出すと同時に、一人の喉を突く。もう一人は、ニコールの指弾が額を貫いた。最後の一人。斬りつけたが、剣でしっかりと受け止められた。
「へえ。さすが精鋭部隊」
 セシリアは相手の剣を巻き込み様、切っ先で喉を斬り裂いた。首元を押さえ、男がうつ伏せに倒れる。
 一度、呼吸を整えた。こんなことで息が上がることはまずないが、肋の痛みがひどくなってきているのだ。
「ここからは、私が前に出る。あなたよりは、少し派手に暴れることになるけど」
「悪いわね」
 セシリアは賊の死体から短刀を何本か奪い、ニコールの後に続いた。

 

 束の間、賊と二人きりになった。
 雑多な物が積み上げられた倉庫のような部屋に、フェルサリを担いでいる男は用があるようだ。フェルサリを床に置き、武器棚を見ている。
 心臓が口から飛び出しそうなくらいに鼓動は速く、大きい。やれるのか。いや、やるのだ。やってやる。
 フェルサリは素早く立ち上がり、背後からおぶさるようにして、男の首を絞めた。拳を交差させる形で結ばれた縄を利用し、全力で首に巻き付く。
 フェルサリを抱えたまま、男は後ろに隠れた。かなりの衝撃があったが、今のフェルサリに痛みは感じない。ただ吐き気がするくらいに、身体中で凶暴なものが暴れ回っていた。こめかみが爆発しそうだ。絞める。ひたすら絞める。
 伸ばした賊の手が、フェルサリの頭を掴もうとする。フェルサリは結ばれた手だけを残し、男の後頭部を足で押しながら、縄を男の首に食い込ませていった。男の汚い爪が、フェルサリの手の甲をばりばりと掻きむしる。
「あぐぅ・・・くああぁっ!」
 まるで自身の首が締め付けられているかのように、フェルサリは苦悶の叫びを上げた。視界が霞む。男の力が、命が、フェルサリの手の中で消えようとしている。そうだ、死ね。死ね。
 ぐぼり、と何かが潰れるような感触がして、男は動かなくなった。
 手を離すと、縄は一部がほどけかけていた。フェルサリは部屋にあった短刀を両の足の裏で挟み、縄をほどいた。
 立ち上がろうとして、前に倒れた。顔をしたたか打ったが、それで朦朧としていた意識が、少しはっきりとした気がする。もう一度立ち上がり、冷たい壁に額を当てる。
 振り返ると、男は白目を剥き、舌を出して死んでいた。またも、こめかみがずきずきと痛む。死んでいる。男が、死んでいる。
 自分が、殺したのだ。
 考えていたよりも、どうということはなかった。あくまで、気持ちの上ではだ。大きな鹿に、初めて一人で止めを刺した時に似ている。気持ちの上での恐怖は、父に連れられて初めての狩りに出た時、父の捕えた兎の命を奪った時の方が、大きかった気がする。その日幼いフェルサリは、一日中泣いていた。
 獣と、同じだ。身を守る為に狼を殺した時と、ほとんど変わらない。今も身を守る為に、獣のような男を一頭殺した。
 気持ちはどこかで冷めていても、まだフェルサリの中で、凶暴な何かが暴れていた。耐えきれず、フェルサリは部屋の隅で吐いた。丸一日何も食べてないので、水のようなものしか出てこない。目が飛び出すくらいに、それは頭の中でも暴れ回っている。
 身体の中の、獣。フェルサリの腹を突き破って、外に出てしまいそうだ。
 獣を、飼いならすことよ。
 不意に、ニコールの声が頭の中で響いた。顔を上げる。部屋には、死体となった男以外、誰もいない。
 獣。フェルサリはきつく目を閉じると、息を大きく吐いてそれと向き合った。獣は、フェルサリ自身だ。言うことを聞け。自分自身が、獣の主人だ。
 目を、開けた。こめかみの痛みはまだひどいが、それは残滓になりつつあった。ゆっくりと、立ち上がる。
 呼吸を整えながら、部屋の中の武器を物色する。剣、短刀、弓矢。油に火打石、火口になりそうな乾燥した藁。他にはないか。生き残るため、冷静に考えろ。
 足音。男が来ないので様子を見に来たのか、別の賊が部屋に入ってきた。フェルサリを見て、あっと声を上げる。
 男が腰の鉈に手をかける前に、フェルサリはその股間を蹴り上げた。うめく男が床に両膝を突くのと合わせるように背後に回り、首をかき切る。
 しばらく、フェルサリは男の背に跨がったまま、呆然としていた。
 この男は、自分より遥かに強い。何故かそれがわかり、まったく躊躇なく行動できた。フェルサリが冒険者になってから、剣の師のナザールに教わった殺しの技で、何度も反復練習をしながらも、こんな技を使う日が自分に来ることを、想像できないでいた。
 身体を折り畳んで顔を床につけている男と、白い泡と舌を出して仰向けになっている男。二つの死体の身体は、それぞれフェルサリよりも二回りは大きい。これを、自分がやったのか。またも身体の中の獣が、暴れ出そうとする。フェルサリは目を閉じて、それの首根っこを抑え込んだ。吐き気もひどいが、なんとか戻さずに済む。
 自分の中の獣は、殺すことができない。だから誰が主人か思い知らせ、飼いならすしかない。
 そんなことを考えながら、フェルサリは通路を進んだ。扉を開けると、城壁の歩廊に繋がっていた。風が、フェルサリの前髪をかき上げる。
 エックベルトたちは、厩に集合する手筈のはずだ。眼下の中庭には、そのような建物はない。
 フェルサリは身を屈めて走りながら、砦の反対側へ向かった。

 

 あまり、時間を掛けたくはなかった。
 広間。前方の賊たちは木箱や樽を遮蔽物代わりにして、セシリアたちに応戦しようとしていた。石弓。飛んできた矢を、セシリアは剣で弾き飛ばした。
 銃を持っている賊が、二人いた。今は樽の陰に隠れているが、大急ぎで弾を装填していることだろう。
 石弓の二人と、短弓の一人が邪魔だった。もう一度顔を上げて、石弓を構えていた一人を、セシリアは飛刀で倒した。もう一投。短弓の男の肩に突き刺さったが、致命傷ではないだろう。
 初めて、腕のある賊たちと出くわした。これまで倒した賊も、砦の外にいた連中と比べればましだったが、精鋭部隊と言えるほどの相手ではなかった。目の前の賊たちも本来一人でも勝てる相手ではあるが、戦い方は知っていて、倒すのに少し時間をくってしまいそうなのだ。こんな状況でなければ、時間を掛けて一人一人倒していけばいいはずだった。セシリアは舌打ちをした。
 こちらにある数少ないの遮蔽物のひとつ、身を屈めてやっと身体を隠せる程度の樽の後ろで、ニコールが落ちていた大剣に手を伸ばした。この広間に入ってきた時に倒した賊の持っていたものだ。その切っ先を、ニコールは指先でつまみあげる。
 いきなり樽を飛び越えたニコールは、まるで投擲用の短刀を放つように、大剣を投げた。
 唸りを上げて回転する大剣は、賊側の遮蔽物を破壊しながら、奥にいた二人を絶命させた。慌てて奥の扉に逃げようとする残り二人を、セシリアは飛刀で打ち倒した。うつ伏せになったその二人に、すばやくとどめを刺す。
 広間の敵を片付け扉を開けると、通路は二手に分かれていた。右。奥に下りの階段がある。
 セシリアたちは螺旋になっている狭い階段を下りた。真っすぐに伸びている通路。扉がいくつか並んでいる。手前から順々に開けていった。
 一番奥の扉。そこには部屋の二隅に牢が作られていた。こういった砦の牢は地下、それも梯子でしか降りられない、脱出の難しい空間にあることが多いが、そこは時として宝物庫のように使われることもある。この砦は後者で、ここに牢が作られたのだろう。
 右奥と左奥に、鉄格子の牢。右奥の牢には、女の死体が二つ。小さな天窓のわずかな星明かりだが、かろうじて顔は判別できる。ディオーティマとジドーニアだった。首輪をつけられたディオーティマは、胸を貫かれて即死、下着姿のジドーニアは腹を負傷していたが、直接の死因は、その傷口を何度も踏みつけられたことによるものだろう。腹に巻かれた包帯に、同じ足跡がいくつも付着している。ざっと見たかぎり、ディオーティマは、死後一日くらいか。ジドーニアはまだ死後硬直すら起こしていないので、二、三時間以内に殺されている。
 ここで何があったのか。しかし今は詳しく観察している余裕はない。
 ランタンに火を入れ、ニコールが隣りの牢を見ていた。何かつまみ上げ、それを光にかざす。
「フェルサリかしら。ここにいたとして」
 見つけたのはふわふわとした、それでいて波打っていない淡い色の髪。色も長さも、フェルサリのものと言えそうな毛髪だった。ただ、わずかに血が付着している。セシリアは床の血痕に触れてみた。まだ乾いてはいない。
 胸が、締め付けられる。
「エックベルトと一緒かしらね。あまり、いい状況じゃないわ」
「ここでそこの彼女たちと一緒に殺されていなかっただけ、マシと思いたいわね」
 ニコールが、二人の亡骸を見つめながら言う。セシリアの溜息が聞こえたのか、再びニコールが口を開いた。
「彼女は、死んではいない」
「・・・そうね。今は、私たちにできることをしましょう」
 セシリアは、牢のある部屋を出た。
 振り返るとニコールが、二人の亡骸に十字を切っていた。

 

前のページへ  もどる  次のページへ

inserted by FC2 system