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 駆ける時間も惜しく、手すりに飛び乗った。
 はしたない、危ない。これをやっているのを見つかると、いつもこっぴどく叱られていたものだ。風を受けながら、アネッサは微笑んだ。今なら許してくれるよね、父さん。
 足で均衡を保ちながら、加速する。あの頃に、戻ったようだった。速度が上がると、アネッサは穴に背を向け、脚を組んだ。今なら、こんなこともできる。やはり脚を開いて滑走するのは、父に言われた通り、はしたない。
 封印の扉が、近づいてくる。
 全て投げ打ち、逃げ出すこともできた。
 そうしても良いのかもしれないと、迷った夜もあった。しかしそんなことを悩んでいる間に、百年くらいはあっという間に過ぎ去ったのだ。何の為の、長い命か。思い直して、アネッサは笑ったものだった。
 このままずっと、全てに目を瞑り、飲み食いさえすれば永遠に続くだけの命を、生きながらえてもよかった。しかしそんな人生に、何の意味があるのか。自分を生み出す為に失われた、多くの命。神々の時代から続いてきた巫女と戦士の責務。
 この命は、ただ、この瞬間の為だけにある。
 これは、自分の意志だ。操られ、組み込まれた使命ではない。アネッサは、はっきりとそれを感じていた。むしろ死の恐怖にこそ、抗ったのだ。
 二百年に一度、斬り落とさなくてはならないフォティア神の角。今も成長を続けているとしたら、その力は歴代の戦士たちが対峙していた時よりも、遥かに強大なものになっているだろう。だから、ひたすらに剣の腕を磨いた。苦しい鍛錬も、フォティア神はもっと苦しんでいるはずだと思い、乗り越えてきた。
 万に一つの、可能性がある。それに賭ける気持ちがあった。セシリアたちが加わったところで、ほんの一割、成功の可能性が上がるだけだ。それなら彼女たちには無事に地上にたどり着き、自分が倒れた後の始末を頼みたい。それなら堅実で、犠牲も出ないだろう。
 フォティア。こうしている間にも、ひどく苦しんでいるはずだ。気の遠くなるような時間を、待たせた。だけど今は、一秒でも早く。
「今、行きます。あとほんのちょっとだけ、耐えて下さいね、フォティア様」
 太い鎖の巻き付いた扉。その脇にあるものを見て、アネッサの胸は強烈に締め付けられた。手すりから跳躍し、回転の着地で衝撃を逃がす。立ち上がった先に、その、黒い塊はあった。
 父の、遺骸だった。黒焦げの身体は、封印を施す為のレバーの下で、右手を上げるような格好で、倒れていた。かぎ爪のように伸ばされた腕を折り畳ませ、胸に置かせようとする。駄目だった。がさがさと音がして、無理に動かすと折れてしまいそうだ。
 アネッサは、手で口を押さえ、嗚咽をこらえた。あの業火の中、ここまでの長い道程を駆け下りてきて、あまつさえ封印まで施したのだ。これこそが、奇跡だった。これに比べたら、自分のやるべきことなど、なんとたやすいことだろう。
 自分には、できる。無理かもしれないと思っていたが、刺し違える覚悟なら、絶対にフォティアの角を斬り落とせる。
 軽くなってしまった身体を、扉の向かいに、座らせるような格好にした。それは、なんとかできた。
「父さん、そこで見ていて下さいね」
 アネッサは、扉に向かい、力強く剣を振った。鎖が、断ち切られる。じゃらじゃらと音を立て、鎖は扉の穴の中へと吸い込まれて行った。
 巨大な扉は、アネッサを導くように、開いていった。
 広く、天井の高い部屋だった。火。まずそれが目に入った。ここからは、五十メートルほどか。居並ぶ柱の列。向かいの壁の石段の上に、火に包まれた、女の姿があった。ただ、人間の大きさではない。初めて目の当たりにする、フォティア神の姿。
「フォティア様・・・遅くなりました。およそ千年。このような長きに渡り、さぞ苦しまれただろうとお察しします」
 女が、振り返った。そこにもう、正気の色は微塵も窺えない。牙を剥き出しにし、半ば炎と化した身体から、熱風を吹き上げる。片方の、角。幾重にも枝分かれし、肥大化したそれは、捻れ、枯れた古木のようでもあった。
「これより私が、角折りの儀を執り行います。どうか、ご容赦を」
 フォティア神が、吼えた。
 居並ぶ柱の影から、甲冑の戦士たちが姿を現す。地鳴り。壁とほとんど一体化していた石の巨人たち。四体が、こちらに向かってゆっくりと歩いてきた。甲冑の戦士は、百体ほどか。それぞれが、兜の隙間から青い火をちらつかせている。二百年に一度の儀式では、石の巨人を含めたこれらの使いたちは、かろうじて残ったフォティア神の理性により、じっと儀式を見守っているだけなのだという。そしてまだ人の大きさに留まっているフォティア神と、円舞にも似た戦いを繰り広げるのだ。今は、違う。アネッサが語ってきた物語では、ここで使いたちと戦いを繰り広げるのだが、それはこういった状況を予想していたからでもあった。
 本当に、そうなっている。フォティアの使いたちが、怒濤の勢いでこちらに向かってくる。
 ただ、このくらいの絶望は、いくらでも想定してきた。
 アネッサは柄に軽く口づけすると、黒い剣を、思い切り地面に突き立てた。柄に手をかけ跪くと、声を限りに叫ぶ。
「我こそは正統なる火の巫女の血を受け継ぎし者、アネッサ・メディウム・クスィフォマフォス。正統なる火の戦士の血を受け継ぎし者よ。この黒鉄の刃、今御身に託す。寝る夜落ちず紡がれし祈りよ。この刃とそれを振るう者に、今こそ火の御加護を!」
 刀身が、赤い光を放つ。その熱に勇気づけられ、アネッサは肚の底から声を出した。
「我こそは正統なる火の戦士の血を受け継ぎし者、アネッサ・メディウム・クスィフォマフォス。正統なる火の巫女の血を受け継ぎし者より今、この刃は託された。我が身を薪とし、始まりのかまどの火を絶やさぬことを誓おう。天よ地よ照覧あれ。生ける者、死せる者も見るがいい。この身は今、一振りの刃とならん!」
 引き抜いた剣を、そのまま力任せに横に薙いだ。殺到していた甲冑戦士を、一振りで五人吹き飛ばした。赤い光の残滓が、剣撃の軌跡を追う。
 右手から迫っていた戦士を、斜め下から斬り上げる。そのまま回転し隣りの戦士を胴から真っ二つにする。左。連続して突いた。金属同士が激しくぶつかり合う破壊音。青い炎を上げて崩れ落ちる戦士の後ろから、するどい斬撃が来た。反射だけで避け、その戦士の首をはねた。
 囲まれる前に、右に駆けた。柱の影から戦士が一人、跳躍している。突きを入れた。刃は柄まで突き刺さり、その戦士は力を失ったが、足をかけて剣を引き抜く際に、別の戦士の斬撃をかわし損ねた。熱い。右肩を斬られた。だが、浅傷だ。
 石の巨人の、拳。転がって避ける。斬り掛かり体勢を下げた戦士の肩を踏み台に、アネッサは跳んだ。石の巨人の胸を斬りつけたが、火花が散っただけで、致命的なものにはならなかったようだ。
 とにかく囲まれないよう、駆けた。息が上がる。柱の影で、二、三秒息を整える。そのわずかな時間に、また不利な形を作ってしまっていた。全力で、目の前の敵を薙ぎ払う。吹き飛ばされたその戦士はもちろん、後ろにいる二人も、同時に片付けた。
 呼吸が、続かない。地から沸き上がる熱気で、肺がやられるのだ。突き。何度も打ち込んだが、その連撃だけでは、戦士を倒せなかった。腿を斬られる。同時に、その戦士の胸甲を貫いた。石の拳。かわしそこね、アネッサは柱に叩き付けられた。すぐに立ち上がり、駆ける。
 時折、明滅する視界の片隅で、開け放たれた扉の外の、父の姿が見えた。父は、もっと苦しんだはずだ。もっと、もっと。
 一体、どれほどの戦士を倒したのか。石の巨人は、まだ一人も倒せていない。フォティア神に近づくことすらできず、角を斬り落とすどころではなかった。
 突き出された剣を弾き、隣りの戦士の斬撃を、左の短剣を抜き、巻き上げた。次の一撃。剣で受けたが、鍔迫り合いをしている余裕はない。押されるままに後ろへ弾き飛び、振り返り様に背後にいた戦士を袈裟に斬り下ろす。一瞬、視界が暗くなる。どこかを、斬られた。苦しい。呼吸をしなくては。
「うあああぁぁぁー!」
 頭上から飛びかかってきた戦士に、必要以上に突きを入れた。青い炎が消える前に、宙で鎧が爆散する。背中に衝撃。熱いとしか感じなかった。背後にいるであろう戦士を無視し、前の二人を吹き飛ばす。石の拳。かわせると思ったが、脚が動かなかった。
 思っていたより、長く飛んでいた気がする。柱に、叩き付けられた。剣を杖に、起き上がろうとする。息が、できない。喉の奥がひゅうひゅうと音を立てるだけだ。身体に、力が入らない。いや、息を吸い込むことに、全ての力を使ってしまっているのか。全身が、締め付けられるようだ。
 石の巨人が、拳を大きくと振り上げた。
 アネッサはゆっくりと、扉の外を振り返った。壁にもたれて座る、黒焦げになった父の姿。父さん。私にもう一度、力を。
 不意に、頭上で爆音がした。遠いが、大気が割れるような、大きな音だった。
 石の巨人は振り上げた拳を止め、石段の上のフォティア神も、天を仰いだ。
 風を、切るような音。扉の外だ。ものすごい速さで、近づいてくる。何かが、このかまどの中を、落下している。
 扉の前の石畳をぶち割って、落ちてきたのは、黒い衣装に身を包んだあの魔法使い、ネリーだった。片膝をついた体勢から、颯爽と立ち上がる。石の床が割れるほどの衝撃だったのに、本人に負傷の気配はない。魔法銃を両の手に抜き、猛然とこちらへ駆けてくる。アネッサは叫んだ。
「危ない! こっちに来ないで!」
「伏せて!」
 反射的に、アネッサは伏せた。銃声。魔法銃を乱射しながら、ネリーが走ってくる。石の巨人たちを狙っていることは、すぐにわかった。巨人たちは被弾はしているようだが、損害らしきものはない。しかし、着弾した箇所には、緑色に発光する液体が付着していた。
 アネッサの身体が、何かの力で引っ張られた。座り込んだ姿勢のまま、アネッサの身体はネリーの方に引き寄せられ、そのまま魔法使いの後方へと滑っていった。
「しばらく、休んでて。でも、すぐにやらなくちゃいけないことがあるよ」
 ネリーは髪に仕込まれた魔力の珠を取り出し、目の前の地面に叩き付けた。ばしゃりという破裂音とともに、緑色の液体が石畳に広がった。
「え、ど、どういう・・・」
 魔法銃をしまい、ネリーが両手を広げる。
「パワー全開で行くからさ、破片で怪我しないでよね」
 どういうことか再び聞くより早く、ネリーは呪文の詠唱を始めた。何か、目に見えない力が、ネリーを中心に集まっているのを感じる。いや、放射されているのか。引きつけられながらも押し返されるような、奇妙な圧力。ネリーの身体が、わずかに浮いている。
 石の巨人たちが身をよじり、次いで背を向けて、奥に向かおうとした。そうしようとしているだけで、既に巨人たちの重い身体は、地から離れている。
「行っくよおー」
 ネリーが左手を引くと、ものすごい勢いで、三人の巨人たちが、こちらに向かって飛んできた。引っ張られるというよりは、ほとんど落ちてくるような速さだ。甲冑戦士たちをなぎ倒しながら空中を滑り、こちらに落ちてくる。
「そりゃあっ!!」
 右腕を、勢いよく振り下ろす。今度こそ本当に地面に叩き付けられた巨人たちは轟音とともに粉々に砕け散り、瓦礫の山となった。もうもうと立ちこめる土煙の中を青い炎が舞い上がり、火の粉のように、闇に消える。
 それを振り払うように、白い影がネリーの横を駆け抜けた。
「あらやだ。でかいのひとつ、残ってるじゃない」
 セシリアだった。瓦礫の山から跳躍し、残った戦士たちの中に飛び込んだ。一振りで、周囲の戦士たちを吹き飛ばす。そして剣を鞘に収めると、石の巨人の、最後の一体の方へ駆けてゆく。
 振り下ろされる、石の拳。セシリアは右手を大きく振りかぶり、それを迎え撃つ。それで、先程の爆音の正体がわかった。掌砲。これが、あの噂に聞く技か。
 大気そのものをぶち壊す、爆発音。束の間、アネッサは聴力を失った。左半身を吹き飛ばされた巨人が倒れた瞬間、感じたのは地響きだった。
 なるほど、この一撃で、かんぬきごと扉をぶち破ってきたのか。
 もう、甲冑戦士の数も、二十体ほどに減っていた。動揺する戦士たちをセシリアが追い立て、容赦なく斬り捨てていく。
「じゃ、あたしたちも行こっか」
 アネッサに手を取られ、立ち上がった。いや、立ち上がる前に、宙に浮いていた。そのまま高度を上げ、セシリアと戦士たちを飛び越え、二人はフォティア神の元へ向かっていく。
「ネリー、私・・・」
 事態のあまりの急変に、次々と起こる予想を超える出来事に、アネッサはこれを夢かと錯覚した。ネリーの言葉が、アネッサの意識を現実へと引き寄せる。
「ほら、最後の仕事が残ってるでしょ」
「そ、そうだね。そうだった」
 右手の剣を、握り直す。左手はネリーのやわらかい両手に、しっかりと包まれていた。
「ちょっと勢いつけるから、目、回さないでね」
 言って、ネリーは自分を軸に、アネッサをゆっくりと回し始める。ネリーの笑顔を中心に据え、右から左へと景色の流れる様は、まるで二人が舞踏会で踊っているようでもあった。
「・・・ネリー、ありがとう」
「お礼は、全部終わってからだ。それ、行ってこい!」
 アネッサは解き放たれ、弾き飛ばされるように、フォティア神の元へ飛んでいった。狼狽しながらも、フォティア神は炎に包まれたかぎ爪の手を広げ、迎え撃とうとする。
 眼下を、燐光の尾を引きながら、何かが疾った。それはフォティア神の額を撃ち抜き、苦痛の呻きと共に、その巨体を屈ませた。飛礫。フェルサリの魔法の飛礫だと、振り返らなくてもわかった。
 アネッサは雄叫びとともに、剣を振った。手応え。
 爆風が、アネッサの全ての感覚を奪った。
「っ・・・」
 やがて、目を、開ける。
 跪き、剣を振り抜いた格好だった。アネッサは振り返った。
 吹きすさぶ熱風の中、たどたどしい足取りで、小さな子供がこちらに歩いてくる。
 風が収まると、それが長く波打つ赤い髪をした女の子だとわかった。頭の、角。片方は根元から斬り落とされている。
 今初めて歩くことを覚えたというような、よちよちとした頼りない足取り。手を広げて、アネッサの方へ歩いてくる。アネッサは剣を投げ捨て、手を広げた。アネッサの目の前で、フォティアはにっこりと微笑んで言った。
「忘れないでくれて、ありがとう」
 アネッサは、その小さな身体を抱き締めた。熱い。身を焦がすような熱さではなく、冷えきった胸の内を暖めてくれるあたたかさだった。
 顔を上げると、扉の外に黒く炭化した、父の姿が見えた。まだ、右手は上げられたままだ。それがこちらに手を振っているように見えて、アネッサは笑った。おかしくて、悲しくて、涙が止まらなかった。
 フォティア神の身体を抱き締めたまま、アネッサは大声で泣き続けた。

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