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 ほとんど、一睡もできなかった。
 夜明けと共に、オルガは寝袋から這い出した。
 何も、できなかった。合成獣が目の前まで来て、咆哮した。それで、腰を抜かしてしまったのだ。昨日のことを思い出すと、それだけで腑が煮えくり返る。失禁していたのだ。兵たちが前に出なければ、一番初めに殺されていた。償いの槍など、詠唱する余裕もなかった。
 野営地に戻った後、兵たちに隠れて一人川原の上流へ行き、下腹部と下着を洗った。ずっと、泣いていた。あまりに、自分が情けなかった。
 もう、起きだしている者たちがいた。いつもは、朝飯の頃まで起こされることはない。オルガの前の焚き火の中で、火花が爆ぜている。横になっている間も、誰かが枝を足しているのは知っていた。
 兵が二人、脱落することになった。自分のせいだと、オルガは思った。一人は右腕を砕かれ、戦うことはできない。もう一人は腹をやられたが、何とか命は取り留めたようだ。ジネットの話を聞くと、もう峠は越えたのだという。だが今はまったく動けず、荷馬車にあつらえた寝台で、それこそ死んだように眠っている。三日も経てば、もう食事を口にできるはずだという。回復魔法をかけたのだそうだ。
 オルガは寝ている男の、顎まで覆われた顔を、そっと撫でた。硬いと思っていたが、髭は思ったよりやわらかく、手に心地よささえ感じた。
 戦闘後は一日休息にあてたので、傷の浅かった者たちは、元気を取り戻している。
 負傷した兵二人を見送った。右腕を吊った男が手綱を引き、腹をやられた男の荷馬車を引いていく。糧食と水は、ふんだんに持たせた。ここまで一週間の行程だったが、それは合成獣をおびき出す為の進路だったので、まっすぐ進めば、三日で領地に戻れる。
 逃げた合成獣たちは、北に向かって飛んで行ったのだという。かなり遠くまで見渡せるロサリオンでも、この辺りはあまり遠目が効かないのだという。緩やかだが、風の丘は起伏が多い。地図を見ると、今いる辺りは窪地なのだと推測できる。
 残りの合成獣を追うのに、どれくらいかかるだろう。もう少し討伐隊の人数を増やし、手分けした方がいいかもしれない。ここからそう遠くない所に、アルクサという大きな街がある。ここで一度、物資の補給と、募兵をかけてもいいだろう。
 北。ここから北の街だ。街の人たちが合成獣に襲われてなければと思うが、風の丘でも有数の城塞都市なのである。五頭くらいの合成獣が、陥とせるわけがないだろう。
 とにかく、リーダーとなっている個体を倒すことだった。それを潰してしまえば、合成獣は群れたりしない。群れられると、一気に繁殖が進む。今回は、その個体を倒すことがとにかく優先されるのだ。
 昨日の合成獣の中の、どれがその個体だったのかと、オルガは考えた。わからない、が正直な感想だった。皆、同じようで違う外見をしている。生殖器を見てみないと、雌雄の判別さえできない。現時点でどれがリーダーだったのかは、わからない。群れて逃げた以上、倒されたものの中にリーダーがいなかったとしか言いようがない。
 しかし群れは、一気に半分以上に減った。その意味で、昨日は成果を上げられたと思う。
 空き地には、いい匂いが漂っていた。しかし、あまり食欲はない。腹の辺りが、ひどくむかつく。
 オルガの前に、フェルサリが椀を二つ持ってやってきた。
「いらない」
「ジネットさんの、つぼ料理だよ。すごく、おいしいよ?」
 確かに、美味そうな匂いはする。バターと、香草だろうか。
「いらない」
「一口だけ食べてみれば? おいしいよ?」
 一口だけ食べて、残りは捨てようと思った。今は、この半エルフにつきまとわれたくない。言うことを聞けば、またいなくなるだろう。
 肉の塊をさじで二つに割り、口に入れた。
「・・・」
 何だ、これは。束の間、濃厚な肉の味しか考えられなくなった。人参と、じゃがいもの塊を、口に放り込む。しっかりと煮込んであって、それでいてまるで煮くずれている様子もなく、口の中で弾力すら感じられる。噛む。噛み締めるほどに、口の中に旨味が広がっていく。
 一気に、平らげた。隣りに座っているフェルサリも、はふはふと息を吐きながら、おいしそうに食べていた。
「おかわり、持ってこようか」
「・・・他の兵たちの分が、足りなくなるでしょう?」
 フェルサリはにこりと微笑むと、今度は椀に山盛りの煮込み料理を注いできた。受け取ると、口の中にかき込む。
 浅ましい。自分を、そう思った。腹を負傷し、ものを食べるどころではなくなった兵がいるのに、腹一杯、美味いものを食べている。
 腹が膨らんでくると、あまり複雑なことは考えられなくなった。うとうととする。身体が温まってくる。
 まだ肌寒いが、一人川原へ行き、水浴びをした。身体が、急激に覚醒してくる。頭も、冴えてきた。眠れなかったことと昨日の衝撃で、背中の辺りに何とも言えない重い違和感はあるが、今日一日、行動に支障はないと思った。
 今は、やれるだけのことをやろう。今度こそ、スキーレ・ペッカートル家を継ぐ者として、恥ずかしくない行いをしよう。
 少し迂回する予定だったが、真っすぐにアルクサを目指すことに決めた。北へ直進すれば、昼過ぎくらいには着く。ここで一度、考えを整理したい。
 出発の準備が整っているのを確認すると、オルガは馬に飛び乗った。
「進発」
 号令をかけ、一行は北に向かった。緩い上り坂が続く。地平線が、思いのほか、近い。空は、晴れ渡っている。その名にふさわしく、少し強い風が吹いている。遮るものが、ほとんどないからだ。昼近くになった。近くに水場はないが、この辺りで、一度休憩を取るべきだろう。いや、街も近いので、そこまで行くべきか。
 何か、おかしなものを見た気がした。それがなんだか、オルガにはわからなかった。一瞬だった。丘の向こうに、何か、大きなものが・・・。
 不意に、すぐ近くに騎影が現れた。向こうの坂を上り切る形になるので、そうなる。馬を、かなり飛ばしている。あんな走り方をさせると馬が潰れるのではないか。オルガも馬に乗るので、そういうことはわかる。
 男は、負傷していた。顔の左半分を血に染め、鞍から落ちそうなほど、身を屈めている。オルガたちの姿を認めると、その身体が馬体から滑り落ちた。
「何があったの!?」
 オルガは下馬し、男の身体を起こす。顔の左上部が、削られるように、なくなりかけていた。まだ息をしているのが不思議なくらいだ。あまりにむごたらしい傷に、思わず目をそらしそうになったが、男の右目、まだある方の目を、じっと見つめた。
「キ、キメラが・・・」
「キメラに、襲われたの!?」
 男が白目をむきかけたので、肩を強く掴んだ。
「わ、私は、アルクサの使いだ・・・あの一族に、助けを・・・」
「それは、スキーレ・ペッカートル家のことね!?」
「そ、そうだ・・・あの一族には、キメラを倒す、義務が・・・」
 ジネットの方に、目をやった。彼女は沈痛な面持ちで、首を横に振った。この男は、もう助からない。
「私が、その一族の者よ。何頭くらいのキメラに襲われたの?」
 そう聞いたのは、五頭くらいの合成獣で、あの街に大きな被害があるとも思えなかったからだ。
「わ、わからない・・・とても、大きな・・・」
 言いかけて、男は顔をのけぞらせた。死んでいる。自分の腕の中で、人が死んだ。そのことだけがしばらく、オルガの頭の中を駆け回っていた。目を、覚ますのではないか。ジネットが来て、魔法で助かると言うのではないか。しかし、男は目を覚まさない。
 馬にも乗らず、丘を駆け上った。坂の、頂上。眼下に広がる光景を見て、唖然とした。
 アルクサの街が、燃えていた。街の上を、何十頭もの合成獣が飛び回っている。城壁や、建物が崩れ落ちる。原野に、何かがばらばらと転がっていた。数は、多い。逃げようとした街の人たちだと、すぐにわかった。合成獣が、喰らっているのだ。
 一際大きな合成獣が、城の中から飛び出した。立ち並ぶ尖塔が、何か別のもののように、城下へと崩れ落ちていった。
「今更引き返せないわねえ」
 セシリアが、手でひさしを作りながら、眼下の光景を眺めていた。皮肉な笑みが、口元を歪めている。
「も、もちろん、そのつもりよ」
 兵たちは、沈痛な面持ちで、眼下を眺めている。一頭、頭上を旋回し、兵たちは悲鳴を上げた。セシリアが続ける。
「引き返せないってのは、逃げ切れないって意味よ。私としてはすぐにでも逃げ出したいけど、向こうもこっちに気づいちゃったから。原野で、身を隠す所もない状態で囲まれたら、ひとたまりもないわ」
 貧弱な木立を抜かせば、原野にそうした場所はない。あの巨大な合成獣なら、そんなものはすぐになぎ倒してしまうだろう。
「昨日やりあった時点で、もう向こうに知られちゃったからね。いずれはやり合うことになったでしょうね。街の中で戦えば、善戦できるかもしれないわね。まだ生き残ってる者たちと、上手く連携が取れればいいけど・・・」
 口の中がからからに乾いて、オルガは何も言えなかった。
「どう、ロサリオン? 何かいい策はあるかしら」
 セシリアが聞く。ロサリオンは、周囲を見渡している。
「村は、いくつかありますがね。城壁のある街となると、近いもので三日はかかるでしょう。そちらには、使いの者も走っているようです。まあ、私たちは徒歩ですから、そこに辿り着くまでにはやられそうですね。全員が馬だったとして、可能性はあったかもしれませんが」
 淡々とした様子で、エルフの戦士は言う。
「あの街で戦った方が、いくらかましといったところですね。比較するのもおかしなくらい、望みは薄いですが」
「ゼロじゃないなら充分よ。やるだけやってみましょう。死にたくないもの」
 セシリアが言って、おかしそうに笑った。
 巨大な合成獣が、空を舞う。何か現実感が伴わない光景だと、オルガは思った。
「なるほど。"巨人喰らい"とはよく言ったものね」
 ばさり、ばさりという羽音は、ここまで聞こえてくる。
「あの大きさなら、巨人でも頭からがぶりだわ」
 言って、セシリアはもう一度笑った。

 丘を駆け下り、城内を目指した。
 途中で三頭、合成獣を斬り伏せた。こうやって、少ない数で来てくれれば、セシリアやロサリオンにとっては難敵ではない。しかし、数の力は大きい。三頭同時にいればセシリア一人で相手にするのは手間取るし、十頭に囲まれれば、ロサリオンと二人でも助かるかは微妙である。昨日の戦いは各個撃破を徹底したからできたことなのである。本来は一頭でも、中級の冒険者の集団が必要なくらいの、難敵なのだ。
 城門は、開け放たれている。合成獣の飛来は、まさに不意打ちだったのだろう。城壁のあちこちが、大きく崩れていた。あの巨人喰らいが、ぶつかったのだろう。城壁の上から矢や太矢射出機を放った兵たちを、城壁ごと吹き飛ばしたのだ。以前セシリアが相手をした竜よりも、確実に強い。さすがにセシリアでも、こういった惨状を見れば、戦慄を禁じ得ない。
 街の中は、いきなり廃墟といった感じだった。廃墟と違う所は、まだ無事な路地に洗濯物が干されているところや、店先に出された果物や野菜が、どれも悲しいほどに新鮮だということだ。
 少し遠くで戦いの物音、獣の咆哮が聞こえるが、街は全体的に静まり返っている。時折近くで崩れる建物の轟音が、兵たちの身を縮ませる。オルガの顔がひどく青ざめているのは、そこら中に食い荒らされた死体が散らばっているからだろう。死体の中には人の他にも、合成獣のものがあった。この街も、それなりに抵抗はしたのだろう。ジネットは困りきった顔をしているが、恐怖に我を失うような様子は微塵もない。セシリアには、それが頼もしく感じた。
 時折通りかかる小さな広場には、複動式のポンプがあった。場所によっては、上水道がある。ゆえに、下水道もあるはずだ。
 路地。角を曲がった先に、合成獣の気配がする。鎧を着ているセシリアでは、じりじりと背後に近づくのも難しい。セシリアは駆けて角を曲がり、こちらを振り返った獅子の頭に斬りつけた。横を向いたその首筋に、ロサリオンが刃を振り上げる。傷は小さいが、路地の壁を全て赤く染めるくらいの血が噴き出した。翼を折り畳み、眠るように合成獣は動かなくなった。
「どこかに、人が集まってるとは思うんだけど。やっぱり地下かしらね」
「聖堂と、城の地下ならば、ある程度の人数は立て篭っていると思いますよ。まあ、一緒に立て篭っても仕方ないとは思いますが、前線で戦えない者には、一時そこに避難してもらった方がいいでしょう」
 ロサリオンの話には、少なくともジネットが入っている。加えて、どこまでを入れているのかはわからない。兵の中には、足を引っ張るだけと判断した者もいるだろう。場合によっては、オルガも入れているのかもしれない。
「あ、あの・・・」
 そのオルガが、口を開く。これまでの勝ち気な口調とは、明らかに違う。目が落ち着きなく周囲を見渡す。どこも、見ていない目だ。
「い、今からでも退いて、態勢を整えた方が・・・」
 臆病風に、今頃になって吹かれているのだろう。セシリアは、無視した。
「え、ええと、駄目ね。どこかに立て篭って、援軍を待ちましょう。何日かすれば、助けが。そう、それが一番・・・あっ!」
 聞いていられず、張り倒した。
「な、何するのよ!」
 もう、オルガの目の焦点は合っている。いきなりこんな修羅場に放り込まれたのだ。気がおかしくなりかけても仕方ない。セシリアはオルガに同情した。手を差し出すと、ぱしりとそれを払い上げられる。
「とりあえず、地下に立て籠れるところに行くんでしょう!? あの聖堂でいいじゃない。行くわよ!」
 言って、死体を跨いだオルガは、先頭に立って歩き始めた。空元気なのは見え見えだが、もう自分は取り戻したようだ。本当は、気持ちの弱い娘なのだ。こんな所にいるべき人間ではない。
 ため息をついて、セシリアはオルガの後に続いた。

 崩れかけた、聖堂。
 その前の広場で、三頭の合成獣が、死体に食らいついていた。一つ手前の角で、フェルサリたちは様子を見ている。
「私とロサリオンができるだけ早く倒す。フェルサリは兵たちとともに、オルガとジネットを護衛しつつ、あそこを目指して」
 セシリアが指さした先には、聖堂の奥、地下へと下りる階段が見える。本来は建物の中にあるものなのだが、聖堂は正面の壁を残して、残りはほとんど崩れ落ちていた。瓦礫の量が多い。馬を、荷馬車から放った。兵たちは食料と水、予備の武器をそれぞれが担ぐ。
「行くわよ」
 路地を出て、セシリアとロサリオンが駆ける。二人が真っすぐ前方に駆けたのに対して、フェルサリたちは右前方へ。一頭が、こちらに突進してきた。フェルサリたちの進路を塞ごうとする。
 飛礫。渾身の力で投げた。狙い通り、獅子の頭の右目に直撃した。合成獣が大きくのけぞり、道をあける。
「早く!」
 言っても仕方ないことだが、フェルサリの足からすると、いかにもオルガたちは遅い。フェルサリは一行と合成獣の間に立ち、飛礫を放ち続けた。気をそらすことはできる。それも、そう長くない。一秒が、永遠にすら感じられる。
 二刀を抜き、獅子の頭に斬りつけた。浅い。あの前足に打たれたら、ただでは済まない。短刀だと、どうしても踏み込みは浅くなる。懐には飛び込みたくない相手だった。
 回り込む。こうした動きに、獣は即座に対応できない。そう思ったが、背中に思わぬ衝撃が来て、フェルサリは前のめりに倒れた。視界が暗くなったのは、頭を打ったせいではない。頭上に広がった翼で、打たれたのだ。起き上がらずに、横に転がった。次の一撃をそれでかわせたことは、耳で感じた。
 素早く起き上がり、再び構える。建物を、背にしてしまっていた。合成獣は正面から向き合わず、身体を斜めにして、フェルサリとの距離を詰めた。左に逃げれば前足と獅子の顎が、右へ逃げれば蛇の尾が。自分が、ごくりとつばを飲む音が聞こえた。視界の隅で、兵の最後の一人が階段を下りるのが見えた。
 合成獣が距離を詰めるのをやめた。逃げ場はない。じっくりと、フェルサリをなぶり殺すつもりなのか。いや、違う。
 こちらを向いた竜の首。口が、大きく開かれる。喉の奥が、燃えている。炎の息。焼き殺されるのか。来る。
 不意に、合成獣の身体が竿立ちになった。一瞬、セシリアの姿が見える。同時に、獅子の頭がなくなっていた。ロサリオン。合成獣は、どうと倒れた。
「皆さん、あの中へ?」
 ロサリオンが聞き、フェルサリは頷いた。他の二頭は、既に二人が倒したようだ。
 もう一頭。空から舞い降り、屋根瓦を吹き飛ばしながら、家の屋根に着地した。瓦礫を駆け上り、セシリアがそちらに向かう。上まで来るとは思わなかったのだろう。驚いた合成獣が、飛ぼうとした。風圧に負けず、セシリアが猛進する。飛び上がった合成獣にセシリアが跳躍し、その腹を下から斬りつけた。
 屋根から、飛んでしまっている。二階程度の高さなら、具足をつけたままでもどうということはないと、聞いたことがある。しかし今の高さは、三階分はある。
 危ない。思ったが、セシリアは着地の瞬間に身体を丸め、衝撃を上手く逃したようだ。回転の勢いのまま、フェルサリの前で立ち上がる。
「奴が、気づいたと思う。私たちも中へ」
 セシリアが言い終わる前に、巨大な影が、頭上を横切った。
 爆発。
 いや、あの巨人喰らいが、やって来たのだ。フェルサリたちが来た路地を、着地の際に瓦礫の山にしてしまっている。轟音が、フェルサリの鼓膜を激しく叩く。もうもうと吹き上がる土煙の向こうに、山のような輪郭が浮かび上がった。
「今の内に、中へ」
 セシリアに引っ張られ、階段を駆け下りた。
 むっとするような、血の匂いが充満している。明かりがいくつか灯されており、中にはオルガや兵たちの他に、十人ほどの人間がいた。奥にも扉があり、さらに多くの人がいるようだ。
「他に出口は?」
 避難している人の中に、聖職者の格好をしている男がいた。つかみかかるように、セシリアが聞いていた。
「出口らしいものは・・・いえ、下水に繋がるものが、ひとつ」
「人が歩ける?」
「ええ、なんとか」
「そう。閉じ込められる心配はないわけね」
 ただ、そちらから逃げずに、多くの人がここに留まっているのだ。街の外に出た所で、あまり希望は持てない。それに、逃げる為に来たのなら、自分たちだけ、最初から逃げた方がよかった。あくまで出口が塞がれた時のことを心配しているだけで、ここから逃げようとしているわけではないとわかった。
 セシリアが水袋の水を喉を鳴らして飲み、残りを頭からかけた。長時間ここに立て篭るつもりはないと、態度で示している。ハンカチで顔を拭き、返り血と埃を綺麗にぬぐい去る。ほとんど化粧が落ちていない拭い方は、一体どうやっているのかと思うほどだ。
「オルガ、あなたの魔法の射程は?」
 言われたオルガが、はっと顔を上げた。
「せ、正確に測ったことはないけど、三百メートルくらいよ」
「当てるのに、自動追尾はないわけね」
「そ、そうだけど・・・」
「三十メートル。悪くても、五十メートル。なんとか、あいつを引きつけてみる」
 距離感は、難しい。巨体だが、巨人喰らいは素早い。あまり近づけすぎると一瞬で相手の間合いになるし、遠過ぎては、こちらが手出しできない。
 というより、あの巨大な怪物の前に、立ちはだかろうというのだ。フェルサリでも、胃が締め付けられるようだった。
 時折、あの巨体が頭上を羽ばたく音が聞こえる。近くに着地する度に、地震のような衝撃があった。あまりこうしていても、この地下室が崩れ落ちる心配がある。
 フェルサリは、兵が運んできたものから、短弓を取り出した。弦を張り、二度、三度と弦を弾く。この弓の癖はまだよく掴んでないのだが、やってみるしかない。的は大きい。外すことはないだろう。狙っている所に当てられるかは、運任せだ。こんな割り切り方をしている自分に、フェルサリは驚いていた。昨日今日の戦闘で、何か吹っ切れたような気がする。何かが麻痺しているだけかもしれない。矢筒を、肩にかける。
 ロサリオンはジネットの前に跪き、抜いた二刀に魔力を与えられていた。騎士が、主君に忠誠を誓うようだと、フェルサリは思った。
 セシリアが髪を掻き上げ、階段に向かう。
「行くわよ」
 階段を駆け上り、後を追う。既に、矢はつがえてある。
 すぐ近くを飛んでいた合成獣に、一矢放った。腹を狙ったのだが、それは翼を引き裂き、怪物は家屋の壁にまともに突っ込んだ。家が崩れる。ロサリオンが追う。あの合成獣は、すぐに仕留められるだろう。
 フェルサリは瓦礫の山を駆け上り、屋根の上で矢をつがえた。ここなら、多少は安全だ。何より、セシリアとロサリオンの足を引っ張らずに済む。
 空を見上げる。曇天を背景に、合成獣たちが飛び回っていた。多い。数は数えない。街のあちこちに、徘徊している合成獣はいるだろう。冷静に考えれば、絶望しかない。しかし絶望しようが希望を持とうが、やることは一緒なのである。死ぬにしても、希望を持って死にたい。
 矢を放つ。二本の内一本は、飛んでいる合成獣の腹に突き立った。着地の際に、深く腹を傷つけるだろう。眼下の合成獣。瓦礫を飛礫代わりに、投げ下ろした。獅子の頭に当たり、それは砕け散る。セシリアが横に回り、獅子の頭が飛んだ。
 巨人喰らい。頭上を通り過ぎ、フェルサリは屋根から転げ落ちそうになった。風圧で、屋根瓦が舞い上がる。既に瓦礫の山となっていた場所に巨人喰らいが降り立つと、そこは半分更地のようになる。
 体色は、暗い青だ。黄金に輝く獅子の瞳が、フェルサリの方を睨んだ。彼岸の距離は、百メートルほどある。それでも身がすくんだ。恐怖だけで、吐いてしまいそうになる。
 セシリアが、巨人喰らいに向かって走る。竜の頭。炎の息が、眼下を火の海にした。息を呑んだが、セシリアは路地の陰に隠れてなんとかやり過ごしたようだ。慣れている。再び姿を現し、巨人喰らいに向かって駆ける。
 その巨体が、ぐらついた。いつの間にか背後に回っていたロサリオンが、後ろ足に斬りつけたようだ。そちらに向きかけた巨人喰らいの隙を突き、セシリアが跳躍した。翼を切り裂く。苦悶の咆哮が、街全体を揺らした。
 巨体の周りで、いくつもの血煙が上がった。押している。勝てるのではないか。一瞬だけ、そう思った。しかし、何故二人が攻撃の頻度を上げているのか、すぐに分った。切り裂かれた翼が、元通りになりかけている。再生能力。鳥肌が立った。勝てるのか。考えても仕方ないことが、今度こそそれはフェルサリの胸中で黒く渦巻いた。
 周囲の合成獣は、あまり近づいてこない。巻き込まれるのを、嫌がっているのだろう。聖堂地区の周りを、ただ旋回している。
 兵たちに守られながら、オルガが、決然とした足取りで巨人喰らいに向かっていた。そうだ。オルガの魔法があったのだ。勝てる。あの巨大な怪物を仕留められる。援護に向かうため、フェルサリは瓦礫の山を駆け下りた。巨人喰らいが弱ったのを見て、他の合成獣が近づいてきているのだ。
「みんな、下がって」
 オルガは、フェルサリを手で制す。セシリアとロサリオンは姿を消している。弱った巨人喰らいが、腹這いになりながら、オルガを睨みつけていた。なんとか、前足で身を起こそうとしている。その青い巨体は鮮血にまみれているが、こうしている今も、その傷は内側から、ものすごい速度で回復しているはずだ。
 オルガがフェルサリを振り返る。勝ち気な表情は、出会った頃のものだ。にやりと笑い、再び巨人喰らいに向き直る。
「見せてやるわよ、本当の魔法の力を」
 そしてオルガは、魔法の詠唱に入った。

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