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 一週間、変わったことはない。
 この広い原野で、怪物の群れを探すのだ。そう簡単に見つかるはずはない。だがこれまでの行程を振り返れば、見つけるというよりは、見つけられることを念頭において動いていることは、よくわかった。それならば、向こうの警戒を緩める為の、少数精鋭も納得がいく。最初からそう説明してもよかったとも思うが、とにかくオルガは素直ではない。本当は、色々と考えている娘なのだ。スキーレ銀行の快進撃は、伊達ではない。ただ、どこか抜けている。
 昼は見通しのよい原野の道を歩き、夜は比較的大きな水場で野営する。いつかはわからないが、そう遠くない日に、獲物は向こうからやってくる気がする。
 野営の準備はその日ごとに分担を変えている。セシリアは枯れ枝を集めてくる自分の仕事を終え、石の上に腰を下ろした。キセルに火をつける。日は落ちており、煙を吸い込むと、火口が怪しく光った。
 フェルサリは気づかなかったようだが、ロサリオンは遥か遠くに、合成獣の影を何度か見ているのだという。増えてきているということだから、こちらを襲う時は群れとなっていることだろう。十頭以内なら助かる。それ以上だと一気に討ち漏らす数が増える。キセルの煙が闇に溶け込むのを眺めながら、そんなことを考えた。
「ちょっとあんた」
 珍しく、オルガが近づいてきて言った。顔が汗で光っている。野営中に、頻繁に輪を離れては、投げ槍の練習をしていることは知っている。現場を見たことはないが、見れば、構えを直してやりたくなる。オルガのような娘には、余計なお世話にしかならないと、セシリアは思っていた。償いの槍に関係しているとしたらなおさらだ。構えを直してしまうと、将来的にはそれで良くても、会得するのにある程度の時間がかかる。いつ合成獣に襲われるかわからない今からでは間に合わない。まして、この性格である。たやすくセシリアの言うことなど聞きそうにない。
「何かしら」
「あんたのそれ、気になってたんだけど」
「ああ、これね」
 セシリアは、左腕を軽く上げる。腕甲には、魔法の文様が刻んである。
「魔力を秘めた、何かね。見せてほしいんだけど」
「いいわよ」
 しかしセシリアが腕甲を外そうとすると、オルガは手で制した。
「違う。それで何が出来るのか、見せてほしいのよ。防御系の何かかと思ってたけど、あんたが魔力で守られてる気配はない。何の為のものなのか、知っておく必要があってね」
 まあ、魔法の使い手なら、自分の専門外の魔術でも、そう思うのは当然だろう。
 ジネットが火打に小刀を当て、火種を起こしている。ジネットはあえて詮索してこなかったが、魔法使いの端くれとしては、思う所があったかもしれない。
「でもこれは、ここに溜めてある魔力を消費するのよ。あまり無駄打ちすると、いざという時に数が足りなくなるわ」
「あんた、私を誰だと思ってんの?」
 オルガが、不敵な笑みを浮かべる。
「数回分の魔力充填なら、他の魔法に影響はないわよ」
「へえ。償いの槍とやらは、大きな魔力を使うんじゃないの?」
「まあね。あんたみたいな魔法の素人にもわかりやすく言えば、私の魔力を百とすれば、償いの槍に使う魔力は、一回あたり九十ってとこ。あんたのその魔具に、四、五回分の魔力を注入するとして、使う魔力はせいぜいが一ってとこかしら」
「そう。そちらの方に影響はないわけね。そういうことなら、いいわよ。使ってみせてあげる」
 セシリアが立ち上がると、ジネットも顔を上げた。にこりと微笑む。
「"音壁"と私は呼んでいるわ。まあ、大したものじゃないんだけど」
 ロサリオンとフェルサリも、興味深げにこちらを見つめている。フェルサリには話したことはあるが、見せたことはない。兵たちの何人かにも聞こえていたのだろう。数人がこちらにやってくる。
 セシリアは、左腕に意識を集中させた。実戦では咄嗟に出せるが、こういう場で出すことはあまりない。流れる、気。魔力が、自分の気と繋がっていることを確認する。
 手の平を広げ、左腕を軽く振る。合唱隊の歌と、パイプオルガンの音色を合わせたようなものだろうか。そんな荘厳な、しかしどこか人の世ならざる和音を奏で、三歩離れた所に、魔法の盾が現出する。
 方形の、歩兵が使う矢よけの大盾に近い。輪郭や中の模様は、中心が黄、外側は赤い光で構成されており、他の部分は透明だ。絵に描いた盾の、線の部分が光を放っているという感じか。
「これは」
 手の甲で叩くと、石の壁を叩いているような音がする。
「物理的な力では、決して壊れないって話ね。まあ実際、私も試しに斬ったことがあるけど、びくともしなかった」
 話しているうちに、魔法の盾はその光を徐々に失っていった。消える前に、もう一度左腕を振る。今立っている所から十歩の距離に、幻想的な和音を奏で、再び音壁が現出する。先程の一枚は、既にない。
「出せる音壁は、一枚だけ。次のを出せば、前のは消える。一枚あたりの接続時間は十秒程度。発動距離は、目の前に出すことも出来るし、最長では私のいる所から、十歩程度ってとこね。消えるまでは、出した所から動かない。それを持って、走り回ることはできないわね。盾の魔法だそうだけど、私からすれば壁って感じかしら。だから、音壁って呼んでる」
 オルガは顎に手を添え、音壁をじっと見つめていた。
「・・・ルーンね」
「そう。ドワーフたちに彫ってもらったの。この、ミスリルの鎧にね」
 セシリアが笑って言うと、オルガは大きく口を開いた。
「ミスリルにドワーフのルーンって・・・! あ、あなた何考えてるの!?」
 オルガは驚いているが、フェルサリは困ったような顔だ。少し、説明した方がいいだろう。フェルサリはエルフの血が流れていても、人間の世界しか知らない。ロサリオンは、くっくっと声を殺して笑っている。
「教えて上げるわ、フェルサリ。ミスリルは、エルフの金属でしょう? そして魔力を秘めたルーンは、ドワーフの秘中の秘」
 エルフとドワーフは、第一世界帝国の時代から、犬猿の仲である。近年ではそれも大分薄らいで来たとはいえ、それは表面上や、やむにやまれぬ事情があった場合に限り、今でも根本的な部分では、相容れない存在と言っていいだろう。
「ああ・・・なるほど、そういうわけですか」
 どこか熱にうかされたような目で、フェルサリはセシリアの具足を眺めていた。
「ミスリルの鎧にドワーフのルーンというのは、アダマンタイトを使ってエルフに剣を打ってくれと言うようなものですよ」
 ロサリオンが言ったので、セシリアは剣の鞘をこつこつと叩いた。
「あらあ、これのことかしら?」
 言うと、ロサリオンは今度こそ腹を抱えて笑い出した。
「そんなに笑わなくてもいいじゃない。青流団にも、ドワーフの兵がいたって話よ」
「まあ、私はエルフの中では変わり者でしたからね。それに、当事者だからできることもありますから」
「ふうん。後で聞かせてもらおうかしら」
「フェルサリ、あなたの母上は、私が思っていた以上に素敵な方ですよ。誇りに思っていい」
「あ、は、はい!」
「微妙に皮肉入ってない?・・・それはともかく」
 オルガの方に向き直る。
「ま、今のが私の持っている魔具よ。さっきは物理的な力では壊れないと言ったけど、魔法の力でも、壊れるのを見たことはないわ」
「絶対防御とでも言いたいわけ?」
「そうでもないわよ。使い方が難しい。一度に五枚以上出せて、なおかつ私と共に移動してくれるものだったら、そう言えそうなものだけど」
 一撃。それを止めるだけだったら間違いないだろう。しかし竜が吐く炎の息のような、熱が回り込んでくるものだったり、広範囲に渡る攻撃、魔法使いの範囲攻撃魔法のようなものが相手だと、あまり役には立たない。とりあえず、正面にとてつもなく頑丈な盾を一枚出す、という程度のものだ。
 見ていた兵たちも、輪の中へ戻っていった。ロサリオンが声をかけ、夜の調練について話している。朝食前と就寝前に、ロサリオンの指揮で軽い調練をやっているのだ。軽い、というのはあまり身体に負担をかけないという意味で、やっていることの内容は、実戦を想定した、複雑なものだ。セシリアが知らない動きもあり、青流団独自の動きも入っているのかもしれない。
「じゃ、夕飯前に、お願い。もう鎧は外そうと思ってるから」
 左腕を差し出す。オルガはしげしげと、それを眺めていた。
「あ、ああ、魔力の充填ね」
 何か、自分の専門的なことになると、オルガの心の壁は、いくらか取り除かれるらしい。人と話すことは、本質的に苦手のようだ。思えば今日のことも、オルガなりに考えて、きっかけを探していたのかもしれない。
「じっとしててよ」
「はいはい」
 オルガは少しむっとしたが、セシリアの腕甲に両手を添えると、目を閉じ、呪文の詠唱に入った。いつもの声音よりもどこか頼りない、そして優しげな声だった。左腕に、わずかな魔力の熱を感じる。
 初見でどこかマルコに似ていると思ったが、あの子供がさかんにセシリアに突っかけてきたのとは違い、オルガの気持ちはわずかな火花を散らした後、内に籠る。こじ開けていいほどに強いものがあるかどうかは、わからない。それにオルガに関しては、基本的にフェルサリに任せてあった。マルコがその気持ちに炎をまとっていたのに対して、オルガのそれは氷だ。繊細すぎる氷細工は、触れるものを傷つけ、そのことでより一層、自らも傷つくだろう。
 オルガの気持ちは、本当は弱いものなのだ。何か、覚悟のようなものだけで動いている。そんな気がするのだ。そういう人間は、弱い。死地で変わる可能性はあるだろう。しかしオルガが窮地に陥るということは、セシリアとロサリオンが倒れるということでもある。あまり、考えたくない状況だ。
 この娘を戦力として当てにするのはやめようと、セシリアは思った。残酷なようだが、オルガにはオルガの戦場がある。スキーレ・ペッカートル家に生まれなければ、この娘が身に余る責務を背負うようなことはなかった。この脆い心に、綿々と続いてきた責務の歴史は、荷が勝ちすぎる。自覚しているかどうかは別として、もう、必要以上に周りに尽くしてきた。合成獣討伐まで自分でやろうとしているだけで、見上げたものだ。
「はい、終わったわよ」
 頬を朱に染めながら、オルガが言う。言った後も、しばらくセシリアの腕を握っていた。何かに気づいたように腕を放すと、土に腰掛けていたわけでもないのに、腰の辺りをぱんぱんと手で払う。
「助かるわ」
「ま、まあ私が言い出したことだから。それはそれとして、あなたのこの絶対防御、私の償いの槍と、どちらが上かしら?」
 オルガはふふんと鼻を鳴らし、不敵な笑みを浮かべる。
「さあ。絶対だなんて思ったことはないし、魔法の盾だから、魔法の力だったら打ち破れるんじゃない?」
「・・・つまらないこと言うわね。最強の盾と最強の矛、どっちが強いか興味ないの?」
「その矛盾を、確かめようとは思わない。私の盾は、あなたの矛を守るためにあるんだから」
 オルガは一瞬、何とも言えない表情をした。そして帽子を目深に被り直すと、足早に荷馬車の方へ去っていった。槍を一本手に取り、森の中へ消える。
 夕飯が出来るまで、投げ槍の練習をするのだろうと、セシリアは思った。

 

 夢に起こされるように、目を覚ました。
 夜は、ちょうど明けようかというところで、まだ辺りは薄暗い。起床するには少し早いが、それでもフェルサリは、上体を起こした。
 既に、頭は冴え切っている。目覚めがよかったのではなく、ぴんと張りつめたものに、叩き起こされたような感じなのだ。
 見渡すと、セシリアとロサリオンが、空き地の隅で話し合っていた。二人とも、具足姿だ。ジネットが背を丸めて、鞄の中身を確認している。
「起きた? 顔洗ったら、すぐに戦う準備をして」
 こちらに歩いてきて、セシリアが言った。顔を洗うという日常の言葉と、戦うという非日常の言葉が、フェルサリの中で激しく交錯した。
「キメラが、現れたんですか」
「夜が明け切る頃には、来るかもしれない。ロサリオンが、かなり近づいているのを見つけたわ」
 そのロサリオンは、兵を起こして回っている。
 フェルサリは川原へ行って顔を洗うと、空き地の焚き火に枝を足し、冷えた身体を温めた。しかし、震えは止まらない。恐怖はあるが、それほどでもない。だが明らかに、緊張していた。身体をほぐしてから、軽く二刀を振る。いくつかの型を試していると、震えは大分収まった。が、いくら寝起きとはいえ、息があがるのは早い。
 ロサリオンが一度木立を出て、ほどなくして戻って来た。外の様子を見てきたようだ。
「七匹、確認できました」
「じゃあ、十匹くらいかしらね」
「まあ、そんなところでしょう」
 からんからんと、鎧の音が、木立の中に響き渡る。寝起きのオルガが、ぼさぼさの頭であくびをしていた。だれているわけではなく、あまりに緊張して、そうなっているのだろう。呼吸が乱れると、空気が足りなくなって、あくびを繰り返したりするのだ。
 木立は、あまり密ではない。フェルサリにも、北の原野に滑空しているいくつかの影が見えた。鳥ではない。もっと、ずっと大きなもの。
「迎え撃つわよ」
 オルガが、あくびを噛み殺して言う。
「出た所で、木立を背に戦った方が良いと思いますが」
 ロサリオンが言うと、オルガも頷いた。
「そうね。多少は囲まれにくくなるかもしれない。全隊員、集結!」
 凛としたオルガの声で、兵が一斉に集まった。
「私たちが木立を抜けた所で戦う。ロサリオン、セシリアたちは、遊軍として援護なさい」
「了解です」
「了解よ」
 二人とも、異存はないようだ。好き勝手に戦えという意味でもあるからだ。
 ジネットは戦闘には参加しない。それでも落ち着いた様子で、ロサリオンの傍らに立っていた。フェルサリも、セシリアの隣りに立つ。自分があまり恐怖していないのもこの人のおかげだと思うと、オルガに申し訳ない気がした。
「フェルサリ、あなたは私と一緒にいなさい。キメラが近づいてきたら、正面に回らないようにして、私が戦ってるキメラに、飛礫を投げて」
「はい。短弓も用意してありますが、飛礫でいいですか?」
 人や、それに近い大きさの相手であれば、一発で当たった箇所の骨を砕く自身はある。鎧越しではそれが無理でも、それなりの衝撃は与えられるだろう。大型の怪物となれば、さすがにその自信はない。
「今日は、飛礫でいい。的は大きいから、正確さよりは、威力を重視して。できれば身構えた時や、動きの止まっている時に。怪物だなんて気負わずに、単に大型の獣だと思えばいいわ。獣の習性を利用して」
 獣。そう言われて、セシリアのやりたいことが理解できた。
 獣は、その瞬間だけに生きる。なので、動きを止めた時に衝撃を感じると、目の前に敵がいても、それを忘れて思わずそちらだけに気を回してしまうのだ。人だと、背後や横からの攻撃にもある程度心の準備ができているので、完全な不意打ちでもない限り、そうもいかない。しかし、獣は一旦攻撃の態勢に入ると、その攻撃が終わるまでは、横槍を入れたくらいでは止まることがない。人ならば返しの危険を感じて身を引く場面でも、そのまま突っ込んでくる。正面から戦うのは、それ相応の覚悟と技術が要求されるだろう。
 セシリアは、フェルサリに猟師として戦えと言っている。それならば、できそうな気がした。
 フェルサリが強く頷くと、セシリアは笑みを返した。家では余り見ることのない、冷たい笑い方だと、フェルサリは思った。
 猟師をしていた頃は、熊の姿を見つけた時は、迷わず逃げるか、やり過ごすかだった。狩るべき対象ではなかったし、戦ってどうこうできる相手ではなかった。あの巨体の、あの前足で殴られれば即死か、運が良かった場合でも、一撃で動けなくなる。初めて目にした時は恐怖に震えたが、何度かそういうことがあると、恐怖を押さえ込めるようになった。恐怖が消えることはなかったが、森で、熊に出会うのは珍しいことではない。怖いと思っても、それに足をすくわれない。それができるようになっていた。
 今の自分は、熊を相手に出来るのだろうか。そんなことを考えた。
「来ますね」
 ロサリオンが言う。距離はまだあるが、フェルサリの目にも、はっきりと見えている。翼のある獅子の群れが、こちらに駆けてきている。鳥肌が立った。やはり、怖いものは怖いのだ。セシリアの横顔は、涼しげだ。
 まだちゃんと見えていないだろうが、オルガも、目を飛び出さんばかりに見開かせて、前方を凝視していた。胸の前で、汗ばんだ手を揉みしだいている。
 子守唄を歌うような、呪文の詠唱。ジネットが、ロサリオンの刃に、魔法をかけているようだ。刃が燐光をまとい、わずかな光を放つ。
「それじゃあ、気をつけてね」
「ああ。君も」
 言ったロサリオンの顔は、戦士のものになっていた。ジネットは慌てる様子もなく、木立の中に消えていった。
 地に、わずかな振動を感じる。十一匹。しかしその迫力は、馬群のようだ。大きく、横に広がっている。獅子の身体、頭。いや、下半身が山羊になっているものもいる。両肩に、竜と山羊の頭。竜の翼。時折跳ね上がる、先端が蛇の頭になっている、尾。その形を基本としつつも、いくらか違う形の個体もいる。両肩ではなく背中に向かって竜と山羊の頭が連なっているもの、翼が鳥のような羽になっているもの、よくよく見れば、まったく同じ姿をした個体はいないのかもしれない。身体が、全体的に青いものもいる。
 もう、すぐそこまで来ている。オルガの号令を待ったが、彼女は歯を震わせているだけで、何も言わない。
「さてと、行くわよ」
 セシリアが言い、兵の前に出た。並んで、ロサリオンも前に出る。二人の外套を、原野を駆け抜ける風が舞い上げる。セシリアは剣を抜き、高く掲げた。陽光を照り返し、それはぎらりと輝いた。
 とても身近に感じていたので、どこかで忘れていた。二人の、英雄。大陸五強と言われる者の二人が、今、フェルサリの前にいる。何かまぶしいものを感じて、フェルサリの目は細められた。この光景は、ずっとフェルサリの胸に焼き付けられるだろう。決して、忘れられないものとして。
 ほとんど飛ぶように、セシリアが右前方に駆けた。フェルサリも、後を追う。飛礫。手の中で強く握る。
 合成獣。あまりにも、大きい。獅子の、三倍以上はある。前方を横切り、セシリアが右手に回る。フェルサリは、反対側へ回った。獅子と左肩の竜の頭は、セシリアの動きを追っていたが、右肩の竜の頭と尾の先の蛇の頭は、フェルサリを睨みつけている。肌が粟立った。なるほど、考えていた通りにいかないのが実戦か。獣と、同じようにはいかない。
 一瞬、かつて住んでいた村、そこを襲ったオークの目が、山羊の目と重なった。同じだ。殺すか、殺されるかしかない純粋な世界。あの時と、同じ。
 いきなり、血煙を上げて竜の頭が吹き飛んだ。セシリアの仕事は、早い。フェルサリは引き返し、向こうを向いている獅子の首筋に、渾身の飛礫を投げた。鈍い音を立て、飛礫が跳ね返る。獅子の頭が、こちらを振り返った。
 その獅子の頭が、下方にずれた。どさりと音を立て、そのまま地面に落ちる。
「次」
 セシリアが駆ける。まだ、山羊と蛇の頭が。しかし振り返ると、合成獣はもう動かなくなっていた。頭が四つあることで、ついそれらを潰さないといけないと考えてしまったのだ。あの出血なら、もう動けまい。獣と同じだ。
 セシリアに向かって、次の一頭が駆ける。セシリアは、そのまま突き進む。危ない。合成獣の突進を、まともに受けた。異質な、和音。
 すさまじい衝突音の後に、しかし大きく身体をのけぞらせたのは、合成獣の方だった。音壁。あの突進を、セシリアは音壁で受けたのだ。
 がら空きの腹部を、セシリアは真一文字に斬り下げた。血と臓物を吹き上げながら、巨体が真横に崩れ落ちる。白い具足姿は、もう次の標的に向かっている。
 後を追う。次の合成獣が、こちらを向く。セシリアが剣を振り下ろすが、巨体に似合わぬ素早さで、合成獣は後ろに飛び退いた。飛礫。駆けながら、低く構えたセシリアの、背中越しに投げる。二発。三発。獅子の頭が、嫌がるように下げられた。その頭を踏み台に、セシリアが合成獣の背中を駆け上る。剣が一閃し、竜と山羊の頭が同時に飛んだ。そのまま、背中に剣を突き立てる。一気に根元まで。引き抜くと、噴水のように血が吹き上がった。
 引き返す。こちら側に、もう合成獣はいない。駆けながら、セシリアの返り血に濡れた横顔を見た。強い。強いとは知っていたが、フェルサリの思い描く強さとは、かけ離れていた。何か、現実感がついていけない。
 兵の集団。少し離れた所で、オルガが座り込んでいた。怪我でもしたのかと思ったが、尻餅をついたまま動けなくなっているだけのようだ。幸い、近くに合成獣の姿はない。ロサリオンが、兵の指揮を執っているようだ。
 兵たちに、合成獣が襲いかかる。それより早くかけられていた命令で、兵が二つに分かれた。待ち受けていたロサリオンが、獅子の頭を十字に切り裂く。竿立ちになった合成獣の身体に、兵たちの戟が一斉に突き立てられた。合成獣は断末魔のうなりと共に、崩れ落ちた。
 残りの合成獣は、北の空へと飛び立った。五匹が、まとまって飛んでいる。
「倒せたのは、六匹ね。考えていたより、早く逃げられた」
 セシリアたちが三頭、ロサリオンたちも三頭倒している。原野のあちこちに、屍体が転がっていた。
「損害は?」
「五名ほど。三名は軽傷ですが、残り二名は今後の戦闘に耐えられないでしょう。内一名は、重傷です」
 犠牲が出ているが、平静な口調でロサリオンは言っていた。傭兵隊を率いていたのだ。もっとひどい状況が、日常だったのだろう。
「手当をしましょう。妻が用意しているはずです」
 右肘が、少し痛んだ。初めての戦闘らしい戦闘で、どこかに余計な力が入っていたのだろう。身体中の血が、今でも沸騰しているかのようだ。冷静に戦えたのだろうか。セシリアについていくのが精一杯で、あまりそういったことを考える余裕もなかった。
「いい戦いぶりだったわ」
 ぽんと、フェルサリの肩に手が置かれた。
「役に、立ったでしょうか」
「すごく。私一人だったらもっと時間がかかってたし、囲まれれば、さらに時間をくった。それに、あなたの安全を、まるで気にかけずに済んだ。いいサポートだったわ」
 返り血のついたセシリアの顔は、少し怖い。何か獰猛なものを感じる。自分もこんな顔になっているのかと、束の間フェルサリは考えた。
 フェルサリはまだ座り込んでいる、オルガの元に向かった。
「大丈夫だった?」
 弾かれたように、オルガが振り返る。その顔は、涙に濡れていた。フェルサリの顔を見て、盛大に鼻をすする。
「怪我はない?」
「な・・・ないわよ。ちょっとびっくりしただけ。足を滑らせただけよ」
 あまり、血の出るような戦いに慣れていなかったのだろう。いや、慣れていても、初めての実戦がこのような戦いでは、誰でも腰を抜かす。フェルサリも、セシリアがいなかったら、どうなっていたかわからない。
「立てる?」
「だ、大丈夫よ」
 差し出したフェルサリの手を払い、ふらふらとした足取りで、オルガは木立の中へ戻っていった。フェルサリも後を追う。
 空き地で、兵たちが集まっていた。ほぼ全員が浅傷を受けているといってもよく、先程のロサリオンの言っていた損害状況と比べてみると、こんなものは負傷に入らないのだと思った。顔をしかめながら、酒で、傷を洗っている者がいる。フェルサリは自分が無傷であることに、軽い後ろめたさを感じた。
 荷馬車を寝台代わりに、兵が寝かされていた。うめき声を上げている。手をやっている腹からは、絶えず血が流れていた。重傷と言っていた兵だろう。内蔵をやられたのかもしれない。そうだとすると、助からない。
 セシリアが兵の膝の辺りに跨がって、上から腰をしっかりと押さえつけていた。ロサリオンは頭の上にいて、二の腕をしっかりと押さえ込む。
 すぐ横で湧かされていた鍋から、ジネットが針と糸を取り出した。腹の傷を縫うのだろう。針と糸は熱湯を通すことで、本来持っている毒が消される。何か手伝うことはないかと様子を見ていると、セシリアに言われた。
「この男に噛ませる、何か適当な枝を拾ってきて。細いものがいい」
 木立の中に入り、指くらいの太さの枝を、何本か拾い上げる。戻ると、男が哀切な悲鳴を上げていた。ジネットは男の腹の上で手を動かしていたが、フェルサリが近づくと、場所をあけた。
「すまねえな、お嬢さん」
 頬まである、黒く短い髭。男が口を開けたので、枝を噛ませた。フェルサリは頬を撫で、できるかぎり優しく微笑みかけた。
「がんばって下さいね」
 男は頷き、目だけで笑みを返した。すぐに、その顔が苦悶に歪む。男が、暴れようとする。押さえ込んでいるセシリアも、かなり力を使っているようだ。汗が、鼻の先からぽたりと落ちた。
 ジネットの手さばきは、すばやく、無駄がなかった。腸を縫っているところを見ると、それでも助かる見込みがあるということなのだろう。こうしてあらためて負傷を見ると、普通は助からないと、あらためて思う。
 ジネットの指示で、途中何度か針と糸を補充した。鞄の中から取り出し、沸騰した湯に通す。そうやって毒を抜く。糸は、普通のものとは違うようだった。湯につけすぎないように言われた。溶けてしまうのだという。身体の中を縫う為の、特別な糸なのだそうだ。
 一度様子を見に来たオルガが、空き地の隅で吐いていた。
 ばきばきとものすごい音を立て、男の加えていた枝が噛み砕かれる。ジネットはそのまま作業を続け、ふうと小さく息を吐いた。いそいそと鞄の中を探り、手にした草と虫の死骸を血まみれの手に乗せ、何か呟いている。魔法。
 手の中にあったものが、緑色の炎を上げて、消えた。男は既に気を失っている。次いで軟膏を腹の傷に塗りながら、また何かつぶやいた。縫われた腹の傷が、束の間、微かに光を放った。
 ようやく、セシリアとロサリオンも、荷馬車を降りた。
「見込みは?」
 セシリアが聞くと、ジネットはいつも通り、にこりと微笑んだ。
「さすがに内蔵の中を洗うわけにはいかなかったから、キメラの爪の毒が残ってるとして、半々というところかしら。一応、毒に抵抗できるよう、魔法をかけておいたけど。後は、彼の生きようとする意志次第よ」
 ジネットが言う。ロサリオンは手術用具をまとめ、他の道具を用意していた。ジネットが川原から帰ってくると、もう次の負傷を診る為の一式が揃っていた。ジネットが医者をやっている時は、彼が助手を務めているのだろう。英雄と呼ばれる戦士が手慣れた様子でそういうことをやっているのを見ると、何か不思議な気分だ。二人は、他の兵の負傷を見に行った。
「あいかわらずすごいわねえ、魔法というものは」
 額の汗を拭いながら、セシリアが言った。
「内蔵まで、達している傷でした」
「絶対助からないって思ったもの。それでも、生きる望みがあるわけでしょう。すごいわ。あと、ジネットの手並みもすごい」
 それは、フェルサリも思った。この短時間で傷を縫い終えた。ほとんど、手妻といっていい。加えて、すごいを連発するセシリアを、ロサリオン同様、不思議な気持ちで見つめた。
「彼が、兵の中では一番ベテランだった。腕もいいし、経験もあった。キメラなんかに、無様に腹に一撃くらうような戦士じゃない」
 ならどうして、という言葉を、フェルサリはぐっと飲み込んだ。
「きっと、若い子を守ろうとして、咄嗟に身を投げ出したのね。だから、フェルサリ」
 頭に手を置かれた。ぽんぽんと叩かれる。
「足手まといだったかもしれないとか、大して役に立たなかったとか、思わないでよね。私が、あなたを庇うような動きをしたかしら」
 振り返ってみても、そんな場面は一度もなかった。
「ついてくるって信じてたし、隙を作ってくれるって確信してたから。だから」
 長い指が、そっとフェルサリの頬を撫でた。
「あの兵みたいな真似を、私にさせちゃ駄目よ?」
 泣き笑うような顔で、セシリアは言った。

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