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5,「大陸五強の名にかけて、あなたの覇道を切り拓こう」


 城内の慌ただしさは、総督府の方まで伝わってきていた。
 午前中で新総督に引き継ぎを終えたジルは、いつここを出ていくか、迷っていた。騒ぎというほどでもないが、妙に人の出入りのあるレヌブラント本城の様子を見に行ってもよいか。普段は、用事もないのにそちらに出向くような真似は、自重していた。しばらくは見納めと思うと、寂寥感と好奇心の相反する心持ちで、足を伸ばしたくもなってくる。
 執務室の隣のジルの居室には旅に必要な荷物一式をまとめてあり、いつここを出てもいい準備は整っている。使っていた食器や小物に、いくらか愛着はあるものの、ほぼ全て公費で購ったものである。
 辞令だけを持ち、着の身着のままでここに赴任した時から、ジルの私物はほとんど増えていないのだった。薄い革鎧に白い上着。刀と鞘、剣帯。普段も大体そんな格好だったが、旅暮らしの時も、やはり同じ格好だった。当時よりも荷物は増えたが、化粧道具と下着の枚数が増えた程度だ。自室に戻りもう一度、その背負い袋を眺めた。
 ゲオルクやアーラインには直接、バルタザールには人を介して、ジルの任期が今日の午前中までだと伝えてある。壮行の宴を開こうと、老騎士ゲオルクは言ってくれたのだが、それから一週間、二人とは回廊で会っても挨拶を交わす程度で、まともに言葉も交わしていない。二人とも忙しそうで、宴のことをこちらから切り出すのも憚られた。何か気まずくなってジルにそういう態度を取るような、陰湿な二人ではない。本当に、用事が立て込んでいるようだったのだ。
 ジルに娘らしいかわいらしさがあれば、ここでむくれてもいいところなのだろうが、ある種の諦念をもって、ジルは寝台の端に腰掛けた。部屋にはまだあまり荷解きのされていない、新総督の荷物が積み上がっていた。
 やはりここを出る前に、もう一度城内を見て回ろうか。未練がましくそう思って、ジルは立ち上がった。まだ昼には少し早いが、総督府と本城の間にある食堂に行って、レヌブラント城最後の食事を取ってもいい。
 特に今日がそうなのだが、ここ数日の城内の人の多さは何なのだろう。表立って何かが起きているわけではないが、大抵の者は忙しく城と城下町を行き来し、見たことのないレヌブラン諸侯も何人か、供を連れて歩いていた。
 隣の執務室が、俄に騒がしくなっている。自室から出かけたジルだったが、つい先程まで総督だった身である。さすがに無視できず、顔を出してみた。
「総督、大変です」
 使いの者と話していた文官の一人が、ジルの方を見て言う。ジルは肩をすくめて、新総督の方を指し示した。新総督は宰相府から来た若い男で、物腰が柔らかく能力の高い、ジルよりもずっと総督にふさわしい男だった。
「いえ、その、ジル様もお聞きになって下さい。ハイランド城への、平定の件ですが」
「もう、落ちたのか。エドナ元帥率いる軍は、駐屯地から出たばかりだと思っていたが」
「それが、緒戦にて大敗を喫し、現在ロンディウムに帰還中とのことで」
 何というべきか、ジルはしばし言葉を失う。周りの文官たちの方が動揺し、使いの者を詰問していた。
 報告書を受け取り、新総督と共にそれらに目を通す。簡潔だが、ある程度の詳細もわかる文体だった。
 ロンディウム北の駐屯地から三日でハイランド城に辿り着いたエドナ軍だったが、昼から夕刻にかけて、僅かな懸け合い、次いでその日の夜に敵の砦へ夜襲を掛けたが、ハイランド軍、全軍をあげての猛反撃に遭い、本陣を落とされた。エドナは一度、ロンディウム近郊まで軍を下げたそうだ。七万の内、犠牲が一万強。王弟ラッセルも捕虜となり、言うなれば完敗である。
「たった、一昼夜か。いや戦場に着いたのが夕刻前とするならば、半日と保たず決着が着いたことになる。兵力はおろかその練度でもアングルランドが勝っていたたろうに、さすがはウォーレス殿、大陸最高の軍人であったな」
 実際にそうであるとはいえ、どこか他人事のような言い方になってしまい、ジルは周囲の者たちを見渡した。特にそのことについての反応がなかったことから、ジルは普段からこんな突き放した言動をしていたのかと、少しだけ反省した。
 今となっては本当に他人事、そう思い定めても、ジルの鼓動は速まっていた。先日のマイラとの話から察するに、いよいよこれで、ノースランドの同盟者がその姿を現す舞台は整った。ウォーレスが半日でアングルランド軍のいわば本隊と言ってもいい軍を撃ち破った今、その勢力がどこで立ち上がろうと、アングルランドは指をくわえて見ているしかない。
 ここレヌブランが戦場になることは、やはり覚悟しておいた方がいい。ここが敵の手に落ちれば、アングルランドは北と西から、完全な挟撃を受ける。二剣の地の直轄地に配置している兵も、いずれ本国へ戻すのではないか。いや、その隙を作ればあのゲクランの西進を止める軍勢がなくなってしまう。
 まだレヌブランが戦場となると、決まったわけではない。が、落とされればアングルランドは史上例にない危機に陥ることになる。そんな状況を見越して、バルタザールはここに諸侯を集めているのだろうか。だとすると、今日まで総督だったジルに何の相談もないのは、腑に落ちない話でもあった。
「新総督、レヌブランの防備を固めるよう、指示を出されては」
 言いながらも、ジルは拭いようもない違和感に囚われていた。
「わ、わかった。しかし、どうやって」
「ここにいる文官に指示を出せば、バルタザール卿はもちろん、ここに出仕している諸侯にも伝わります。あるいはバルタザール卿を直接訪ね、軍議の要請をしてもいい。お飾りみたいなものですが、総督府の兵が中核となります。先方に相談せず、場合によっては総督府としてここにいる諸侯に召集をかけてもいい。要は、これからについてレヌブランの軍を編成できれば、やり方など好きにされてよいのです」
 流暢に段取りの説明と選択肢の提示をしてしまう自分に、ジルは内心苦笑していた。ここにはわずかな期間、羽を休めに来ただけなのに、いつの間にか自分は、ここの総督らしく振る舞えるようになっていた。
 慣れというか順応というものは、実におかしなものだ。若さを、その吸収力を羨ましいと、多くの者たちから言われてきた。自身が若いのでジルにその自覚はないが、ここに来てからは日々、できることが増えていく毎日だったとわかる。老ゲオルクなどは日々できることが少なくなっていくと、よく嘆いていたものだ。
 が、やはり自分が身の丈に合わぬ仕事を、それでも滞りなく進められたのはここにいる文官たちと、レヌブラント城の者たちのおかげだと、今はわかる。剣一本で生きていた頃は、良いことも悪いことも、全て自分次第だと思っていた。生き延びる、そうした人生がしかし、実は人に生かされていると知れたことが、何よりも収穫か。総督の報酬はそれなりの大金かもしれないが正直、冒険者でいた頃の方が、遥かに稼げた。それでもなおここの暮らしは自分を豊かにしてくれたと、ジルは感じていた。
 人の営み、繋がり、そして他人を信じられる心。そういったものは、いくら経験を積んだところで、学べない者は一生学べない。そしてそれをジルが学べるとは、夢にも思わなかった。今の景色は世界中を旅しても、かつての自分が見れるはずのないものだった。
 ここにいる者たち全てに、感謝したい。ジルを犯そうとしたイポリートだけは別だが、無事に救出されたからこそ言えることとして、あれもいい経験なったと思いたい。
 旅の荷物を取りに戻らず、ジルは食堂へ向かった。あまり使われていなかった大会議場を改装して、今の形にした。文官や、城仕えの騎士たちに好評でジルも礼を言われたが、実のところ自分自身の仕事という認識はない。だが、ここを活用できるよう、城の者たちに役立つようにと、予算はつけた。ああいう形で活用されると、金はやはり使い用で、適した人間に任せれば形にしてくれるのだと、それも総督にならなければわからない発見だった。
 道中、回廊で懐かしい顔を見かけた。バルタザールの腹心レーモン伯爵の養子、ヴィクトールである。男としてはやや矮躯の伯と違い、この男は見上げるような長身だった。養子というからには、血の繋がりはないのだろう。その容貌はむしろバルタザールに似ており、あるいは妾腹の子ではないかと、ジルは以前から睨んでいた。爽やかな笑顔と闊達さは、どちらの親にも似てはいないが。
「久しぶりだな」
「ああ、総督。お元気そうで何よりです」
 白い歯を見せ、ヴィクトールが手を上げる。いてもおかしくはないものの、何故この男がここにいるのかは、気にかかる。
「レーモン伯の、御付きか」
「まあ、そんなとこです」
「らしくない、曖昧な物言いだな」
「今日中には、わかります。今は、これくらいで勘弁して下さい」
 見ると、回廊を行き来する人間は、ここ最近にも増して、多い気がした。一度も見たことのない人間の数が、とにかく多い。
「この後、何かあるのか。まさか、私の壮行会ではないだろうな。いや、今のはつまらない冗談だ」
「え、総督、近々退任されると聞いてましたが、それは今日明日の話で?」
「今日の、午前中までだった。もう引き継ぎも済ませてある。すぐに出ていってもいいのだが、世話になった者たちに、挨拶くらいはしておきたくてな」
 実は、主立った者たちにはもう、別れを告げてある。が、ジルの内心を余所に、ヴィクトールはそこだけ生やした顎髭を掻きながら、大きな溜息をついた。
「そりゃあまた、間が悪い。何故かってのは言えませんが、俺からも近々、一杯おごらせて下さい。まあ、それを総督が許してくれればの話ですが」
「許す? お前の誘いなら、いつでも歓迎だが」
 バルタザールに面影が近いからだろうか、ジルはこの青年に好意を抱いていた。その父かもしれないバルタザールに、惚れているからなのだが。
 ふと、万が一にでもジルとバルタザールが結ばれれば、この七歳年長の男がジルの義理の息子になってしまう。居心地が悪いが、笑ってしまう話でもある。そんな歳上の男に惚れてしまったのかと、今更ながら愕然とする。
 もう一度手を上げたヴィクトールは、笑顔を残して先を急いだ。知った顔に会釈しながらジルも食堂に向かったが、やはり釈然としないものは残った。
 いつもの席に目をやると、ゲオルクとアーラインが食事をしていた。そちらに手を振り、ジルも配膳を待つ。焼きたてのパンとバターを小皿に載せてもらい、付け合わせをいくつかある品書きから選ぶ。
「城内の様子が、おかしい。特に今日だ。二人は、何か知っているか」
 ここ数日、二人はこの席にいなかった。食堂の隅に誂えられたその席は、ケンタウロスのアーラインが腰を下ろせるよう、敷物とクッションがいくつか用意されているのだ。ジルはいつもここで食事を取っているが、いわばアーライン専用の席だった。老ゲオルクが、杯を傾けた後、口を開く。
「おお、ジル。壮行会も碌に開いてやれんで、すまんな。ここで一杯やるか」
「いや、それはいい。城に、妙に人の出入りが・・・」
「おぬしには、少しだけ言っておくかのう。急な話だが、総督の任を解かれたのなら、日が落ちる前にここを出ろ。早ければ、早い程いい」
「急に言われて、素直に出ていく私だと思うか。私がここに残って、不都合な理由があるのか」
 ゲオルクは赤い鼻をこすりながら、アーラインと目を合わせた。
「ここまでレヌブランに関わったジルだ。あれを見届けてからでも、いいんじゃないか。あの方も、悪いようにはすまい」
 あの方。バルタザールの他に、そんな風に呼ばれる者がいるのか。ケンタウロスの持って回った言い回しに、ジルは無性に焦燥感を抱いた。
「いずれにせよジルは、今晩か明日にはここを出ることになるのだろう? もしまたここに戻ってきたいと思ったなら、その時は今回の分まで盛大な歓迎会を開いてやる。すまないな、ジル。ゲオルクと私だけでなく、ここ数日、私たちは目が回る程に忙しかった。今日は、特に。これが今日最初の食事だというくらいだ。明日からも数日は、こんな日々が続くことだろう」
 女神のようなアーラインの面貌にまっすぐ見つめられ、ジルは思わず頷いてしまった。が、納得できる話でもない。
「何か、ここで起きるのだな。それも、急に決まったと」
「早ければここ数日、長くとも春くらいかと、私たちにもそれがまったく読めなかったことは事実だ。いつあってもいいよう、城の者たちは周到に準備を進めていた。たまたま、今日だったということだな。今朝、決まった」
 バルタザールと、教皇の密談。振り返るとあの修道院から帰ってきてから、城の雰囲気は徐々に不穏なものになっていった気がする。ただの気のせいかとやり過ごすには、特にここ数日の慌ただしさは、もはや看過できないものとなっていた。
 自分の食事を終えると、ジルは席を立った。また会おう。それだけ言い残し、自室へ向かう。
 総督府の窓から外を見ると、演習場にかなり多くの人間が集まっていた。ここからでも、万を超える規模だとわかる。今朝方までは、せいぜい諸侯の連れてきた、数百だったはずだ。色とりどりの天幕の列が規則正しく並び、それは海岸の近くまで達していた。城下町の様子はここからではわからないが、近隣の諸侯と麾下が全て、この街にやってきているのではないかと思ってしまう程だ。天幕は今まさに設置中のものもあり、急な召集に応じた形か。今朝、何かが決まったというアーラインの話と、微妙に食い違う。いや、ずっと以前から準備されていた何かが、今朝動き出したということか。
 しばしジルは、寝台に横たわり黙考した。大きく、溜息をつく。
 さすがに、察しがついていた。総督府に事前通告なしの大規模召集。ここに馳せ参じていない諸侯も、それぞれの役割を持って暗躍していると考えられる。レヌブランが今、独立した勢力として、動き始めている。
 そう、ノースランドの影の同盟者とは、レヌブランだった。
 天井を見上げながら、ジルはなおも考える。だがあの傷つき、老境に入りつつあるバルタザールに、対アングルランドの指揮が執れるのか。息子のイポリートは、論外だ。ヴィクトールが、そうなのか。あるいはこの城には他の、黒幕のような存在がいるのか。この話には、まだ見えていない何かがある。
 それにしても、とジルは思う。レヌブランの防衛ばかりに気が入って、レヌブランそのものが脅威だとは、全くの盲点だった。
 ここを通って物資や金銭がノースランドに渡っていたのではない。輸入したものもあるがゆえ、あたかもそうであるかのように偽装するのは、容易かったことだろう。レヌブランから湧いて出たかのように錯覚していたものも実際、レヌブランで作られたものだったわけだ。物流に捜査の目が行くことを、充分に計算しての行動だった。”囀る者”たちによって暴かれることを、逆手に取った形か。
 レヌブランがアングルランドに敗れ、十年程。そう考えるとこの企み自体は、ずっと以前からあったものなのかもしれない。レヌブランはアッシェンの中でも特に豊かな地域で、その勢力は、小国と言っても差し支えない。アングルランドが直轄とせず、総督府まで置いたのは、それもある。ヴィクトールがバルタザールの私生児だとすると、その存在を表に出さなかった理由。明らかに、レヌブランはアッシェンに帰属していた頃から、独立を画策していたと考えるのが、自然か。
 アングルランドに支配され、さらに雌伏の時を過ごすことになったが、レヌブランの意志は、一貫していた。が、動きづらくなったのも事実だろう。その分力を蓄え、同じく独立の気運が高まりつつあったノースランドに助力した。ノースランドが善戦し、注意と兵力がそちらに傾けば、いかに強国とはいえ、いくつもの戦線を抱えてしまっているアングルランドである。立ち上がりが最も難しい時と考えても、そこを乗り切るだけの方策は打てる。
 あらゆる勢力が国として立ちうるかどうかは、君主が教皇に王として認められるかにかかっている。この点はしかし、根回しは既に済んでいるのだろう。先日の密談が、そうだ。あれは教皇側からの要請ではなく、レヌブランがなんらかの見返りを提示し、それが教皇庁に通ったのだと考えられる。
 アッシェン王の戴冠式の後、レムルサに戻らず、影武者を立ててこの地に立ち寄った教皇だ。いまだこの地に潜伏していたとしても不思議ではない。ここでの仕事を終えた後、次に向かうのはノースランドか。ノースランドは独立を宣言するに当たり、アングルランド国教会から、アモーレ派への回帰を掲げているとも聞く。教会にとっては、旨味のある話だ。ハイランド公ティアがノースランド王として認められるだけの対価は、既にあちら側にはある。
 いつの間にか、ジルは身を起こしていた。アングルランドの屋台骨を揺るがしかねない危機であるにも関わらず、ジルの胸は高揚に高鳴っていた。総督を務めることで、捨てたはずのアングルランドにも、愛着に似たものは感じていた。が、やはりここで過ごした日々は、ジルの中で新たな気持ちを芽生えさせていた。きっとジルは、ここレヌブランが、好きなのだろう。
 まだ、迷う気持ちはある。ジルは目を閉じて、できるだけ思考を単純化した。レヌブランとアングルランドが争うとして、どちらに勝ってほしいか。世話になったライナス、エドナの顔が浮かぶ。一方レヌブランの人間ではゲオルクとアーライン、レーモン、ヴィクトール、そして何よりもバルタザール。他にも数えきれないくらいの、顔が浮かぶ。今回の件がある。中にはジルに偽りの笑顔を向けていた者もいるだろう。が、レヌブラン全ての人間が、今回の計画を知っていたはずがない。食堂の女将が、城下町の屋台の親父が、もっと食べなくては大きくならないと、ジルに余計な世話を焼いていたことが思い出される。彼ら彼女らの全てが、ジルに対して偽りの笑顔を向けていたと考える方が不自然だ。
 あえて言えば、総督府で共に働いた者たちに危害が及ばなければと思う。初めはジルを単なるお飾りと疎んじている雰囲気だったが、今では仲間である。先日ささやかながら、別れの宴を開いてもらっていた。
 ジルに与えられた総督府の兵たちとは、最後まで上手く付き合えなかった。貴族や商人の子弟で構成された彼らには、王族でありながら一度はアングルランドを捨て、あまつさえ王に反発的なジルに対して、思うところもあったのだろう。ついて行けないような、調練も課した。ジル自身もまた心の開き方を知らず、他の部隊のように動けない彼らを見限っていた部分があった。今では週に二度、形ばかりの調練をやっていたが、もっとジルの方から距離を縮め、上手い付き合い方もできたはずだ。だが、と苦笑する。当時の自分に、それができるはずもない。今ならできると思っても、全てが遠過ぎた。
 隣室、執務室が、再び騒がしくなっている。今度は甲冑の打ち鳴らされる、物々しい音も聞こえた。ジルは仕事に出るように、いつもそうしてきたように、もう一度執務室へ入った。
「これは、総督。いや今は単に、ジル殿とお呼びすべきですか」
 事態が理解できない文官たちを前に、具足姿のレーモンとその部下たちが立っていた。
「総督府の人間に、退去命令が出ております。二時間以内の、完全撤収をと。ジル殿含め、新総督ならびに役人の方々には、丁重にレヌブラント駅、あるいは希望次第で港の方へ送って差し上げろと」
「私は、ここに残る」
「ほほう」
「もう、総督府の人間ではない。父の血ゆえ私はこれからもアングルランドに縁深い者として扱われるだろうが、本当はもう、ここレヌブランの人間だと思っているんだよ。今日ここで何が行われるのか、察しているつもりだ。一度はレヌブラン軍を率いた身でもある。だから今日のことはどうか、見届けさせてくれないか」
 しばし考え込んだレーモンだったが、やがてその男には珍しく、笑って言った。
「いいでしょう。今後はともかく、今日はどんな命令が届こうと、ジル殿を私の客人として庇護させて頂きます。誰にも、手出しはさせません」
 謹厳な軍人という印象のレーモンだが、こうした柔軟性に加えて、自らの意志もある。この男が副官として指揮を執っていてくれなかったら、あのアヴァラン戦もまともには戦えなかっただろう。
「そこまでしてくれるのか。先日の戦でお前には世話になり、また軍人の有り様というものを見せてもらった。今回の件でも、私の恩人だな」
「私はジル殿に、将としての器を見ました。それはさておき、私の客人であることを周知せねばなりませんな。しばし、同行して頂ければ」
「この者たちの、処遇は」
「先程、申し上げた通り。書類も、機密性の高いものはそのまま運ばせてやるつもりです。今の時点でこのような無礼があるとはいえ、アングルランドと事を構えているわけではありませんので。あらためてここを、アングルランド大使館にするかもしれませんね。荒らし、追い立てるような真似は致しません」
「皆、そういうことだ。すぐに身支度をしてくれ。夕刻あらためて挨拶するつもりだったが、今日まで私を支えてくれて、本当に感謝する。私はここに残るが、ここでの皆との思い出は、私をこれからも支え続けるだろう」
 文官の一人が、ジルを見つめて泣いていた。自分を慕ってくれた者が、ここにはいたということだ。それだけで、ジルの胸は一杯になった。
 レーモンたちと、外に出る。彼の方から、口を開いた。
「ジル殿、気づいたのは、いつからです?」
「本当に、ついさっきだ。が、旅に出ても、いずれはここに戻るつもりだった。可能なら、バルタザール殿に剣を捧げたいと」
「これは、意外ですな。我が主と、そこまで懇意だったとは」
「いや、そうでもないだろう。私の一方的な想いで、お前の見立ても間違ってない。理由は省くが、彼の剣となりたいというのは、本当だ。ゲオルクやアーラインなら、言質は取れると思う。ああ重ねて、理由は訊かないでくれるか」
「わかりました。それで、やはり一度ここを出立されるので?」
「それも、今となってはわからない。この後のことを見届けてから、決めさせてくれるか。それと、これだけは聞かせてくれ。この計画は、あるいは私が生まれる以前からあったものかもしれないと思い立った。首謀者は、やはりバルタザール殿か」
「ええ。長年の、悲願でもあります」
「・・・ここに、残るよ。私が旅にでる理由が、あまりなくなってしまった。旅暮らしが恋しいのも事実だが、ここで任を与えられれば、似たような暮らしができるよな?」
「おそらく。それにしてもジル殿、我々の同志たらんとする覚悟はおありなのですか」
「すまない、そこまで深く考えていない。ただ父リチャード王とバルタザール殿のどちらかを取るかと問われれば、バルタザール殿と即答できる」
 今度こそ、レーモンは肚の底から笑った。
「こればかりは、我々の誰も予想できなかった。大いなる戦力増です。ノースランドにウォーレス殿が加わったことだけでも、出来過ぎだと感じていたのです。我々も、長く雌伏の時を耐え忍んだ甲斐がありましたな。物事が本当に動き出す時は、全てが上手く回り始めるということなのでしょう」
 レーモンに付いて、城内を行き来する。ほとんどはレーモンと諸侯の挨拶で、ジルがその庇護下にあることも了承された。一様に、それは歓迎されていると取っていい様子だった。ヴィクトールにもう一度会ったが、頷くレーモンとジルの姿を見て、彼は本当に愉快そうに笑った。
「いやはや、あんたとは敵になりそうな気が、どうしてもしなかったんだ。俺の勘は、よく当たります。にしても、轡を並べることになるとはねえ」
「一兵卒から、やるつもりだ。私の軍人としての経験は、あまりにも浅い」
「大陸五強の一角”弾丸斬り”のジルを一兵卒で使うなんざ、それこそ諸国の笑いもんです。普段から小部隊の調練をしていると聞きますし、俺たちが補佐して、万を超える部隊の指揮もやってるじゃないですか。副官にベテランを二、三人つけりゃ、立派に指揮できると思いますがね」
「戦はそんなに甘いものではない。それを、初めての戦で学んだのだが」
「立場が、人を作る。あんたはここで総督になって、それも学んだんじゃないですかい?」
 確かに、その通りだ。父の血を抜いたとて、まずジルの名が大き過ぎた。一兵卒からというのは、かえって身勝手な言い草なのだろう。
 それからも、レーモンと共に城を歩き回った。近郊の諸侯は時折ここに顔を出す者もいたので、顔だけは知っているという者も、少なくはない。が、その部下たちとなると、ほとんどが初対面だった。中には、今までどうしてこんな強者が表舞台に出なかったのかと、ジルが目を見張るような使い手もいた。
 一通りレーモンに紹介された後は、一度別行動となった。夕刻、城の大聖堂にて召集の命が下されることになっており、それは聖堂の鐘が知らせてくれるという。
 時が来るまでやることもなく、三度、執務室へ戻ることにした。道中、給仕や城仕えの者たちが輪になって、今の状態に関して、どういうことかと話し合っているのを見かけた。
 執務室の、扉を開ける。もう、誰も残ってはいなかった。不意に、胸に込み上げてくるものがある。もう、ここの生活は戻って来ない。早く辞めたいなどと口にしていたにも関わらず、ジルは結局ここの暮らしも好きだったのだと痛感する。確かに、失って初めて、その大切さに気づくものはあった。
 書類のほとんどは、残されていた。元々機密文書のようなものはあまりなく、きな臭い報告書等は移動が激しく、書棚でのんびりと埃を被っているようなことはない。残されたのはレヌブランの治政に関するものばかりで、今のアングルランドにとってさほど価値はないが、レヌブランにとっては歴史とも言える、大事なものばかりである。残していってくれた、とも言える。冊子の背表紙をいくつか指でなぞり、ジルはまだ少しだけ温かい、いつもの椅子の背もたれに寄りかかった。
 訪いを入れ、女中が一人、入ってくる。四十絡みの女で、ずっとここで給仕をやっていた。
「ジル様、そろそろお茶の時間ですが」
「ああ、いつもの通りに。と、お前はここに残るのだな。元々、レヌブランの者でもあった」
「ええ。ジル様は」
「私も、残ることにした。またこの部屋を、使わせてもらえるかな」
「そうなりましたら、幸いです。ジル様の好みを存じ上げているのは、私どもですから」
 茶が運ばれるまで、ジルは無人の執務室を見つめていた。つい先程まで一緒に働いていた者たちに、もっと報いてやることはできなかったか。過去に引きずられそうになり、ジルは頭を振った。ここに残った者たちもいる。ここから新しい一歩を、また始めるのだ。
 母が死に、家を出る時は、不安でたまらなかった。宮殿を飛び出し、セシリアに拒絶された時には、悲しみに打ちひしがれていた。長い旅暮らしを経て、ここに赴任するよう頼まれた時は、ただただ億劫だった。新しい一歩はいつだって、心躍るようなものではないのかもしれない。流れ者がしかし、ここに流れ着いたのだとも思う。
 バルタザールからも一度は逃げ出したいと思いつつ、結局踏みとどまった。冒険者であった時は血塗られた日常だったが、あるいはこの先の方がもっと血を見ることになるかもしれない。半ば勢いでレーモンにここに残ると言ったが、あれがあるいは、初めて逃げることなく道を定めた、ジルの大人としての第一歩だったのだろう。考え、悩み、逃げてきた。しかし先程の咄嗟の行動がつまり、ジルの本心だったということか。
 急な話だが、どこかでこんなことを望んではいなかったか。何かというより、何かが起こる、世界が一変する、たとえばこんな瞬間を、ずっと。不思議と、覚悟はできていたのだ。
 運ばれてきた熱い紅茶に、茶請けとして杏のジャムと薄く切られたバケット。この女は本当に、ジルの好みとその時食べたいものがわかっている。些細な日常に、ジルは自分を支えてきた人たちの思いを感じた。感謝の熱い塊がせり上がってきて、何か話したら声が裏返りそうだった。ジルが頷くと、女中は一礼して執務室を出ていった。
 大聖堂の鐘の音は聞こえるが、まだそれは、時刻を告げるものである。九時課(午後三時)か、と置き時計を見ながら思う。晩課(午後六時)までに、召集の鐘は鳴るのだろうか。
 しばらくして、訪いがあった。バルタザールの息子、イポリートだった。あの地下室以来の顔合わせだが、怒りは湧かなかった。戸惑いを隠せないこの男の表情に、微かな憐れみを感じたからか。
「どうされました、イポリート殿」
「城内の様子が、おかしいのだ。見知らぬ者も、多くいる。それに、父上に取り次いでもらえないのだ。あなたなら何か知っていると思ったのだが・・・いつもの文官どもは、どうした。今は、ジル殿一人か?」
「一人ですよ。あの時の続きをされますか。あいにく私は自由の身ですし、帯刀もしています。それでもよければ、お付き合いしますが」
「あ、あの時のことは、ほんの出来心なのだ。悪魔だ。悪魔が私に降りてきて、悪事をそそのかしたのだ」
「悪魔が聞いていたら、冤罪の怒りを晴らしにくるでしょうね。悪魔たちとは何度かやり合いましたが、実に手強いですよ」
 泣き出しそうな顔で言い募るイポリートに、さすがに同情を禁じ得なかった。この男は、父から何も聞かされていないのか。それで、あろうことか先日狼藉を加えようとした、ジルの元に助けを求めてきている。今回の件でこの男は蚊帳の外で、あれ以来世間との関わりも断たれていた。この男には、何もない。バルタザールの息子であるということ以外、何もない男だった。
「夜までに、ここでは何かが起きます。呼ばれていないのなら、部屋で大人しくしているのも悪くないと思いますよ」
「ど、どうして私だけ、仲間はずれのような真似をされているのだ。私はここレヌブラントの、次期当主だぞ」
「ヴィクトールのことは、知っていますか」
「だ、誰だ。まさか父上に隠し子がいて、そいつが俺の地位を奪おうとでもいうのか」
 さすがに、ジルは吹き出した。実際に彼を見ているジルにも半信半疑なのだが、その存在を知りもしないこの男が、あるいは真理を言い当てている。なんという皮肉なのか。この一言で、ヴィクトールがバルタザールの息子であることを、ジルは確信した。
 バルタザールは、イポリートを見限っている。それを誰よりも自覚しているからこその、これまでの愚行なのかもしれない。ジルもまた、父にとってどうでもいい存在とされてきた。その存在をずっと知らなかったジルと、甘やかされてきたこの男とでは、境遇が違う。それでも父の愛を得られなかった者同士の奇妙な連帯感を、ジルはイポリートに感じていた。
「家族を殺されてなお、殺した者を許す者もいます。それは、信仰のなせる業なのでしょうが。私は信心深いわけではありませんが、それに比べれば簡単なことだ。あの件について、私はあなたを許します」
「ほ、本当か。俄に、信じがたい」
「信じなくて、結構ですよ。あなたは、人を信じない人だ。私もそんな時期が長かったから、心中いくらか、察するところがあります」
「ジル殿は、人を信じられるのか」
「それを、ここで学びました。いや、私も元々、人を信じない質でもなかったのかな。子供だった頃の、近所の友人。ライナス宰相、腹違いの姉の、エドナ元帥。ただ、愛を望んだ母や父から、それを得られなかった。ずっと、拗ねていたのですね。今にして、わかります。それだけで人は皆信じられないと思い込んでいた時期があり、ここに来るまでは、年齢以上に子供だったのだとわかります。いつかあなたにも、信じられる人が現れるといい」
「ジ、ジル殿を、信じていいのか」
「それも、あなたの勝手です。ただ信じることと、相手が自分の思い通りに動くことを、混同されませんよう。おかしな期待やわがままが通らないからといって、相手を信じられないと思ってはいけませんよ。好きと、信じられるはまったく違う。嫌いだが信じられるという者もたくさんいて、好きだからと相手を信じてしまう人間は、道を踏み外してもそのことすら自覚できない」
 普段考えていた、それでいて誰にも話していないことを、何故かイポリートに話してしまっていた。元が狷介な自覚があり、人付き合いには悩んできたのだ。意外だが、誰かに聞いてほしい話でもあったのだろう。
「今のは、自戒の意味を含めてですよ。私はこれから、好きな男を信じようとしている。危険なことだと思っています。ある意味、裏切られました。こちらの勝手な思い込みを、いい意味で裏切ってくれたわけですが。それにこれからここで起こることについて、私はそうだろうと当りをつけているだけです。何が起こるかについては、イポリート殿自身の目で見られるといい。さあ、もうお引き取り下さい」
「・・・最後に、ひとつだけ。好きで、信じられる者は、本当に、まだいるのか」
 この男は友情、家族愛、恋愛、どんな形であれ、人を好きになったことがあるのか。イポリートにも、子供だった時期がある。ほとんど噂を聞かないが、幼いイポリートは、随分前に他界した母を、無邪気に愛していたのだろうか。
「そういう人が見つかれば、それはきっと幸運なのだと思います。向こうもこちらを信じてくれれば、きっと人生は豊かなのでしょうね」
 それ以上何も言わず、イポリートは肩を落として執務室を出ていった。
 茶を飲みながら、その時が訪れるのを待つ。ひたすらに、静謐な時間だった。これからジルが為そうとしていることを考えると、今までだったら落ち着きなく部屋を歩き回っていたことだろう。
 何故、あの男を好きになったのか。あるいは、その秘めたるものに無意識に気づき、焦がれていたからか。ジルが怖くて踏み出せなかったような茨の道に、今あの男は立とうとしている。ジルも旅の間は数多の困難に立ち向かってきたが、何かを背負うような、そんな道ではなかった。
 大聖堂の鐘が、時を告げるそれとは違った律動で、レヌブラントに響き渡る。遠くから、ジルを呼ぶ声。いつの間にか、執務室を出ていた。
 城内の人の流れは、ほぼ一点に集まっていた。城の、大聖堂。誰も、口を聞こうとしなかった。ただその前だけを見つめる瞳にはどれも、強い光が宿っている。
 大聖堂の扉は、開け放たれていた。居並ぶ諸侯の、一番奥。主祭壇の手前に、今まではなかった玉座が据え付けられている。そこに腰を下ろす巨大な男は、まぎれもなくバルタザールだった。が、大きな身体を持て余すようなこれまでの弱々しさはまったくない。リチャードとの戦いで深傷を負ったのは事実のようだが、そんな傷はとうの昔に癒え切っていたということだろう。
 何より、その目つきが違う。どこを見ているかわからないようなあの曖昧な細い眼差しではなく、しっかりと見開かれた双眸から放たれる炎は、気の弱い者だったら逃げ出してしまいそうだ。
 自然と、ジルの頬にも笑みが浮かんだ。バルタザールは、挑む者の顔をしている。
 何かを背負ってなお挑む勇気は、ジルのそれとは別種のものだ。信じてついてくる者に、血を流させる覚悟。バルタザールは眼光鋭く、それでもどこか気怠げに肘当てに寄りかかった手に頬をついているが、その威厳はこの場に集まった者たちを畏怖させるに余りある。
 騎士の一人に促され、ジルは有力な諸侯の並ぶ列に加わった。咳払いだけが響く浅い沈黙の中、向かいの老ゲオルクだけがこちらを見て、片目を閉じてみせた。口元だけの笑みを返し、ジルは背筋を伸ばして鎮座するバルタザールを見上げた。
「これより、レヌブラン王バルタザール一世の戴冠式を執り行う」
 レヌブラントの司祭が朗々と告げ、聖堂の奥から、儀礼用に着飾った教皇が歩み出た。その手に王冠を大儀そうに抱え、後ろから錫杖と宝珠を抱えた司祭が続く。
 かつて、この地に王はいたのだろうか。王冠やそれに付属する品はどれも新しいもののようだが、バルタザールの玉座だけは、相当に古い時代のものとわかる。戴冠式を見るのはジルにとっても初めてのことなので、目の前の儀式がアモーレ派のものなのか、この地独自の様式なのかはわからない。
 聖油を掛けられたバルタザールが玉座から下り、その巨躯を折り曲げて跪いた。教皇の手からゆっくりと、王冠がその頭に載せられる。ジルは瞬きすら忘れ、その姿に見入っていた。
「汝、セイヴィア教アモーレ派の守護者として、この地を治めんと誓うか」
「誓おう」
 立ち上がってバルタザールに、一同は感嘆の溜息をつく。聖歌が流れ始め、まだ厳かな儀式の最中なのだろうが、我慢しきれなくなった諸侯が拳を突き上げ、鬨の声を上げていた。その歓声を浴び、天から差し込む光を見上げる新王の勇姿に、ジルも知らずと声を上げていた。
 バルタザールが手を出し、再びの静寂が訪れる。錫杖と宝珠を手にした新王を、教皇が十字を切って祝福する。
 その後も細かい儀式の手順が続き、やがて聖職者たちは姿を消した。玉座の前に立ったバルタザールは、一同を睥睨した後、口を開く。
「遡れば二十年前、俺はこの地に王として立つことを望んだ。力が、あったからだ。しかしこの長きに渡る戦乱、俺は対アングルランドの最前線に立たされ続け、やがてその力は削がれていった。そしてリチャードに敗れ、俺は生死の境を彷徨った。が、俺の野心は潰えず、むしろこの地に強い根を張り、やがて今日ここに、大輪の花を咲かせるに至った。何故か。そう、俺には力があったからだ」
 肚の底に響く、新王の咆哮。ジルの胸は、震えていた。功名心や復讐ではなく、単に力があったから、王となる。清々しい程の野心だった。それを望み、挫折しかけ、そして長い時を掛けて成し遂げた男の姿が、そこにはあった。不屈。力を持て余し、世を拗ねていたジルとは、あまりに違う。
「今日ここに集まった諸侯よ。そして残念ながら招くことのできなかった、俺の領土を守る戦士たちよ。聞くがいい。そして天よ、見ているがいい。俺が歩む、覇道を。我が王国はこれより諸国を併呑し、千年の栄華を極めよう」
 震えが来る程の大歓声が、聖堂を揺るがした。
 バルタザールはこの百年戦争、アングルランドとアッシェンに挟まれたこの地で、一体どんな軍略を展開するのか。勝算があるから、いやその機が熟したと見極めたからこそ、今ここで王として立ったのだろう。
 見てみたい。ジルは、心底それを思った。強大な敵に、どう立ち向かっていくのか。突如として現れたこの王が、どんな王道を見せてくれるのか。
 玉座の階の上から、意外な身軽さで、バルタザールはジルの前に降り立った。
「ジル。リチャードの娘たるお前が、何故ここに残った」
 バルタザールは、ジルが立ち合ったどんな怪物にも負けない程の気で、ジルを圧倒してくる。ただでも見上げる程の巨体が、さらに大きく見えた。
「あなたの、行く末が見てみたい」
「俺の刃はいずれ、お前の父にも届くであろう」
「それでいい。いや、それがいい」
 自分の気持ちに決着をつける為、いずれ父とは立ち合いたいと思っていた。もう以前の様に恨んではいないが、肚の底のわだかまりは、刃を交えないと解けそうもない。面と向かって言ったところで、相手にされず、あるいは本気で立ち合ってくれないことは、わかっている。だが、この男の傍にあれば。
「父を、斬るか。因果な娘だ」
「それよりも、私には大切なものができた。重ねて言う。あなたの行く道を、この目に焼き付けたい。その道程には、私の父との決着も、きっとあるはずだ。私を、傍に置いてくれ。必要なら、剣も捧げよう」
「ならば俺も、重ねて問おう。大陸五強、あるいは最強の刃たるお前が何故、俺の剣となるか。お前は、俺よりも強い。お前もまた、力を持つ者だ。対峙せず、共にありたいとは、何故か」
「あなたが、好きだからだ」
 思わず、言ってしまっていた。
 惚れている、とは周囲は取らなかったのだろう。驚嘆の声に、下世話な揶揄の響きは混ざっていない。ただ目の端に映ったゲオルクとアーラインだけが、必死に笑いを堪えていた。
 衆人環視の、とんだ告白である。世の恋する乙女は、想い人にこんな場面で愛を告げたりはしないだろう。
 聖堂では、帯剣を許されていない。が、気を利かせた小姓が、ジルの刀を抱えてきた。
 鞘を抜く。刀身に映った自分の瞳が、見たことのない炎を宿していた。跪き、両手で刀を差し出す。刀身が、ジルの肩に交互に触れた。
「”弾丸斬り”のジル。我が剣となり、その名を大陸に響かせるがいい」
「仰せのままに。今この時より、私はあなたの剣となることを誓う。大陸五強の名にかけて、あなたの覇道を切り拓こう」
 ライナス、エドナ、マイラ。世話になった彼らには、すまないと思う。だがジルの望みと、バルタザールの、初めて惚れた男との道が、ここに完全に重なってしまった。
 思い返せば、恨みで人を斬ったことなど、ほとんどなかった気がする。斬る相手にむしろ、好意を抱いたことすらある。そういう相手を、多くこの刃にかけてきた。今更、悔やむ刃でもない。
 燻り続けていた自分が、守りたいと思う者たちと出会った。バルタザールだけではない、レヌブランで出会い、この地に生きる者たちを、守りたいと思ってしまった。力に、なりたいと。その一歩を、もう踏み出してしまっていた。
 彷徨い続けていた。そして、場所を得た。
 今のジルにはあだ名の通り、弾丸すら断ち割れる自信が、そして自身があった。

 

 

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