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プリンセスブライト・ウォーロード 第13話
「今日ここに、再び霹靂団の旗を掲げよう」

 

1,「鉄面、とあだ名されているようなので」

 噴水の前で、ジジは待っていた。
 アナスタシアが懐中時計を見ると、針は約束の時間より二十分ほど前を指している。
 今朝は暑い。ノルマランの広場にあるこの、質素さすら感じさせる大人しい噴水も、それなりに涼を楽しめる風情ではある。人はいるが、波止場の喧騒に比べて、ここはどこかのんびりとしていた。
「早いのねえ。九時に待ち合わせだからって言って、仕込みから逃げてきてさ、あなたが来るまでここでのんびりしようと思ってたんだけど」
「ぴったりに来るべきだったかな。私も、少し気が急いていたのかもしれない」
「ま、この買い物も仕事ってほどじゃないし、ぱっぱと決めて、その辺でお茶でもして帰ろっか」
 強い日差しに、ジジの笑顔が眩しい。酒場にいる時よりも、いくらかよそ行きの笑顔だった。いつもの、歳よりずっと貫禄を感じさせる雰囲気ではなく、アナスタシアと同年代であることに違和感はなかった。
 今朝は兵の調練をエルフのアリアンに任せ、アナスタシアは非番としていた。というのもいよいよ今日から、蜜蜂亭で働き始めるのだ。そして店に行く前にこの商業地区で、アナスタシアの仕事着を選ぶことになっていた。
「しかし、急がなくていいのか。午前中から、やることは多いんだろう?」
「今回のことがあるから、できることは粗方、昨晩の内に済ませてあるのよ。十一時までに戻れればいいわ」
「私の為に、すまない。昼からは、忙しくなるんだよな」
「そうね、まあ毎日のことだから忘れがちだけど、客の回転は速いし、一応、時間当たり一番稼げる時間帯ではあるわね」
 蜜蜂亭は船着き場の通り沿いにあり、この町で多く働く港湾労働者たちの胃袋のひとつである。
「とりあえずここで探そっか。ここがこないだ言ってた、パリシからの古着が流れてくる店ね」
 ジジについて、古着屋の一軒に入る。店内は薄暗いが、壁際に仕立ての良さそうな衣服が架けられ、店の大部分を占める台や棚の列にはそれぞれ、無造作に商品が積み上げられていた。
「おお、ジジ、またデートか。いいもん入ってるぞ」
「今日はあたしのじゃなくて、この子用。パリシのレストランの給仕みたいな服、探してるんだけど」
 どこから声が聞こえているのかと訝しんでいると、目の前の服の山の脇からひょっこりと、痩せた男の顔が現れた。どこか貧相な印象があるが、それなりに上等とわかる服を身につけていて、着こなしもいい。
「っておい、こりゃたまげた。あんたもしかして、アナスタシア団長か」
「一応そういうことになってるな。親父、ジジが言ったようなもので、私に似合いそうなものはあるかな」
「へいへい、しばしお待ちを。すぐにお眼鏡に適いそうなものを揃えますんで」
「うあぁ、あたしの時とは扱いが違うのねえ」
「そうなのか」
「あたしなんか、その辺から適当に探せって感じよ。たまに高そうなヤツ入荷すると、新品かって値で売りつけようとするし」
「今日が、そうだったのかもな。いい物が入ったとか言っていたし」
「今回、私はいいや。そういえばこの店、やたら薄暗いでしょう。なんでかわかる?」
「方々に蝋燭を立てていたら、服に燃え移るかもしれないからだろう」
「そりゃあの親父の言う方便。染みや汚れ、ほつれなんかを目立たなくする為よ」
 二人が話している間も、主人はランタン片手に服の山の間を、鼠の様に駆け回っていた。壁際に架けられたものはドレスや高級な紳士服の類で、今のアナスタシアに必要なものではない。
「こんなところでいかがでしょう。シャツは男物も混ざっていますが、どれも実際にパリシのレストランで使われていたものと、仕入れ担当の者から窺っております」
 繕いや、抜ききれなかったわずかな染みもあるが、主人が用意したものはどれも上質で、清潔なものだった。
「これと、これなんかどう? ん、似合いそう」
「ジジに任せるよ。どんな格好で働けば良いか、私には今ひとつわかっていない」
 試着室に入り、何度か渡されたものを試す。一つ、アナスタシアが良いと思うワインレッドのスカートがあったが、腰回りがきつすぎて諦めざるをえなかった。どんな細い娘が履いていたのだと思ったが、実際はアナスタシアの胴回りが太いのかもしれない。腹にあまり余分な脂肪はついていないつもりだが、鍛えているのでそもそも尻等は肉付きがいい方なのだ。
 一通り試し、ジジが最終的にいくつか選んだ。基本は白いシャツにスカーフ、切れ込みを入れたぴったりとしたスカート、タイツといった組み合わせだった。着替えも含めて三着分、アッシェン銀貨三十枚だった。思っていたよりずっと安く、良い買い物だった気がする。
「このスカートのスリット、もうちょい深めにしてくれる? ちょっときつそうにしてたから。そうね、このくらいに」
「1.5cmといったところですかな。二十分程で済みます」
「なによお、あたしにまで慇懃な調子で喋っちゃって。まあいいわ、アナスタシア、他も見て回りましょ」
 再びジジの後をついて、店を見て回る。革靴とエプロンは新品のものをいくつか買った。どちらも消耗品なので、じっくり吟味するといった調子ではなかった。この通りにはしばしば来ることになりそうだ。
 古着屋で先程のスカートを受け取る。店を出たところで、ジジが声を上げた。
「やだ、今日は早いじゃない!」
 ジジの視線の先には荷車があり、荷台には藁にくるんだ厚い板状の氷が積み上げられていた。
「氷屋よ。もう船着き場に来てる。いつもは昼過ぎなのに。急いで帰るわよ!」
 衣服の入った袋を抱えたまま、二人で港に向かって走った。港までは500m程だがすぐにジジの息が上がってしまったので、荷物を受け取り、背中を押しながら駆ける。ジジは体力がある方だと思っているが、普段走るようなことはあまりしていないのだろう。港に着く頃には顔を真っ赤にし、顎の先から汗の雫を垂らしていた。
 氷屋の舟はちょうど蜜蜂亭の向かいの波止場に停まっており、既にそれを求める客が列をなしていた。
「な、並んでおいて。順番になったら大四つ、中三つで買っといて」
 それだけ言って、ジジは息を切らせながら店に消えた。列に並びながら振り返ると、ジジは水差しから直接水を喉の奥に流し込んでいた。
 順番が来たので、言われた通りの氷塊を求める。並んでいる者の何人かはアナスタシアの顔を知っているのか、横顔を見て、あっと声を上げる者もいた。
 氷を桟橋に用意してもらっている間に、話しかけてくる者がいた。
「あんたひょっとして、あのアナスタシアかい? 大陸五強、アッシェン救国の英雄の」
「ええ、そうですが。英雄かどうかはともかく」
「な、なんでこんな所に?」
「そこの蜜蜂亭で働かせてもらうことになりまして。どうかご贔屓に」
 店に氷を運んでくれようとした人夫を、手で制す。大きい方の氷塊を二つ肩に担ぐと、アナスタシアの顔を知らなかった人間からも、驚きの声が上がる。
「普段は馬を担いで鍛えていますから」
 冗談で言ったのだが、桟橋中に響き渡るような歓声から察するに、どうやら本気でとられてしまったらしい。猛烈な居心地の悪さを感じながら、アナスタシアは残りの氷塊も店に運んだ。
「力あるわねえ。さすが」
「どこに保管すればいい?」
「地下に、氷室があるわ。ついてきて」
 店内には、既に美味そうな匂いが漂っている。これから昼飯を求める客で店はもちろん、外までいっぱいになるだろう。船着き場の階段に腰掛けて飯を食う人夫たちの姿は、何度も見かけている。
 地下は、食料が貯蔵してあった。更に幅のない階段を下り、一番奥の部屋が、氷室だった。狭いが、かなりの量の氷が積み上げられている。この部屋だけは、寒いくらいにひんやりとしていた。
「ああ、あんたがいるんだったら、もっと買っときゃよかった。ここに運ぶのがしんどくて、いつもあれくらいしか買ってないのよ」
「そうか。次からは遠慮なく言ってくれ」
「助かるわ。じゃ、さっきの服、あたしの部屋で着替えてきて。二階の、突き当たりの部屋。終わったら、またここに来てくれる?」
「わかった。すぐ戻る」
 一階に戻ると、厨房にロズモンドの姿があった。
「今日からここで働かせて頂きます。どうぞ、よろしくお願いします」
 アナスタシアが頭を下げると、おう、と小さないらえがあった。
 ジジの部屋は、少し乱雑とした、生活感の溢れる部屋だった。服や使いかけの化粧品が散乱している。脱いだ服と荷物をどこに置こうか、しばし迷う。
 再び地下へ向かう。氷室の奥で、ジジが氷を砕いていた。
「これ、やってくれる? 手、怪我しないようにね。桶にいっぱいになったら、上に持ってきて」
 言われた通り、ノミと木槌で氷を砕く。蜜蜂亭の飲み物には、要望があれば氷が入る。一杯で半銀貨一枚と決して安くはないが、暑い日にはきっとよく売れるだろう。桶いっぱいの氷も、すぐになくなってしまうかもしれない。
 氷の粒の大きさを揃えるのに、やや苦労した。山盛りにした氷を抱え、一階に戻る。
「あら、こういう仕事は早いのねえ。でもそんなに飛ばして、疲れてない?」
「特に。そもそもまだ働いてすら・・・いや、そうか」
 あらためてアナスタシアは、窓に映った自分の姿を見つめる。
「もう、働いているのか」
 弾けるように、ジジは笑った。
 思わず、厨房の方に目をやる。顔を上げていたロズモンドが、鼻を鳴らして頷いた。
「あらためて今日からよろしく、アナスタシア。その服、似合ってるわよ」
 差し出された手を、握る。
「そうだな。こちらこそ、よろしく頼む」
 あたたかい手だなと、アナスタシアは思った。

 

 三ヶ月程、ノースランド軍との本格的なぶつかり合いはなかった。
 麦秋と共に、本隊が引き上げた気配がある。年に何度かある収穫期に合わせて、ノースランド軍の多くは本土に帰る。遊撃戦ゆえ敵軍の正確な数はわからないが、それでもかなりの兵がこちらに侵攻しているのは事実だろう。もっとも、敵大将ブーディカことハイランド公ティアは、徹底した搦め手の指揮官である。そうと見せかけての奇襲は充分ありえた。
 ウォーレスは一人、幕舎に籠って報告書に目を通していた。この北の戦線の総大将ではないので、書類は全
自軍、ロウブリッジ軍のものである。
 夜も更け、床に着こうと蝋燭に手を伸ばした時、訪いがあった。来訪者は愛娘にしてこの軍の副官、セイディである。
 ほとんど忍びのような気配のなさで、娘は天幕に入ってきた。手には、仮面武闘会で見られるような面を携えている。ただ、人が被るにはいささか小さい。
「父さん、このような夜分に、すみません」
「いや、いい。何か用か」
 言ってから、もう少し優しい言葉をかけるべきだったと思った。武骨な男であることは、人に言われるまでもなく自覚している。生涯のほとんどを、戦塵に生きてきた。この愛娘とどう接するべきか、娘がこんなにも大きくなったのにいまだそれを掴めないことを、情けなく思う。
 ただ、ウォーレスは娘を地上の何よりも大切なものと思っていた。それは機会あるごとに娘に伝え、軍務を終えた時にはいつでも娘として訪ねて来てくれと伝えてある。
 望む限り、共にいる。ウォーレスにはそんなことしかできないと思っていた。
「これ、作ったんです。似合いますか」
 セイディはその小さな仮面を頭の横につけた。それを見て、胸を詰まらせそうになる。
「鉄面、とあだ名されているようなので」
「そうらしいな」
 娘との交流を難しくしている、もうひとつの理由がこれだった。
 セイディは、そんなあだ名がつくくらいに、表情の変化を持たない。
 この娘が生まれた時、ウォーレスは領地を離れていたが、産婆によると、まったく泣かない子だったので、相当に不安だったという。以来、ウォーレスはこの娘が泣くところはもちろん、笑顔すら見たことがなかった。喋り口も平板で、初めは感情がないようにも見えた。妻は、気味悪がって娘を遠ざけた。ウォーレスは、領地にいる時はなるべくセイディの側にいた。母に触れられない娘を、やはり不憫に思ったからだ。
 屋敷に勤める者たちはセイディにあたたかかったが、同年代の友はいないようだった。周りから不気味がられている、という話も聞いた。ある日、額を怪我しているセイディに理由を聞くと、近くの村の子供たちに石を投げられたのだと言った。その口調に何の痛痒も感じさせず、淡々と話す娘に、胸が詰まった。お前には、俺がいる。セイディを抱きかかえ、何度もそう言い聞かせた。
 表情が微塵も変わらないということを除けば、セイディの身体は何の問題もなく育った。
 しかし十三歳の誕生日、贈り物に何が欲しいかと尋ねると、軍に入りたいと言った。ウォーレスはしばし、煩悶した。
 仮にも大陸五強に数えられている自分の軍は、ウォーレスのみならず、強兵揃いである。諸侯の軍としては、アングルランド随一を自負してもいた。
 同じ年頃の娘と比べても華奢なセイディが、ロウブリッジ軍の調練についてこれるとはとても思えなかった。だがその表情の変化のなさと同じくらい、自分の望みを口にしてこなかった娘の、初めての願いである。その時のウォーレスは、それを無下にすることはできなかった。
 三度、目の前で倒れたことがある。疲れた様子を見せないので、どのくらい体力を消耗しているのか、把握することは難しかった。しかしさらに身体が成長していくにつれ、そんな心配をする必要もなくなった。あれから五年が経ち、今では身びいきと周囲に言われることもない、立派な副官となっている。
 ひとつウォーレスを安心させてくれたのは、武に、明らかな天稟を持っているということだった。妻は運動自体がまるでできなかったので、これはウォーレスの血なのだろう。その血を受け継いでしまったことがどれほどの幸運なのかは、わからない。ただこうして轡を並べる以上、その血がこの子を守ってくれればと、切に願う。
「鉄面というには、少し飾り過ぎてしまいました」
 髪につけた仮面に手をやりながら、娘が言う。癖の強い茶色の髪が、肩の上で揺れている。
「いいんじゃないか。似合っているぞ」
 それは暗に、セイディが鉄面などとあだ名されていることを認めることになりはしないか。後悔したが、口にしてしまったことはどうしようもなかった。
「もう、お休みになられるところでしたか。申し訳ありません。それでは、失礼します」
「ああ。だがまた何かあったら、来てくれ。お前とこうして話をしているだけで、父は嬉しい」
「ありがとうございます。私も父さんとお話しできて、とてもうれしかったです」
 まるで今生の別れのような口振りだが、これがいつものセイディだった。
 娘はぺこりと頭を下げ、天幕を出て行った。軍務と私事を、はっきりと分ける娘である。今晩はあくまで、娘としてここを訪ったということだろう。
 翌朝、ウォーレスは総大将のエドナの兵舎に向かった。定時の報告で、今日の調練の場所と、兵の入れ替えについて伝える予定だ。滞陣が長引いている為、兵の入れ替えは頻繁に行っていた。この駐屯地の村はウォーレスの領地に近いので、そうしたことはやりやすくもあった。
 部屋の前に立つと、中から怒声が聞こえた。名乗り、扉を開けると、一人の将校に掴み掛かろうとしているエドナを、その弟のラッセルが止めようとしているところだった。
「元帥、これはどうされました」
 エドナはウォーレスの姿を認めると、荒い息を一つ吐き、振り上げた拳を収めた。
「これは、恥ずかしいところを見られてしまった。いや、この男が貴殿の名誉を損なうようなことを口にしてな。おまけに、それを反省する様子もない」
「元帥がこれだけ激昂されるのも、珍しい」
「姉上のお気持ちもわかります。ともあれ、席に着きましょう」
 エドナは180cmを超える女丈夫だが、その弟のラッセルは2mを超えている。ウォーレスも190cm近い長身の為、部屋の中央にいる将校は、決して矮躯ではないのだが、熊に囲まれたような圧力を感じているだろう。薄い髭の顎が、微かに震えていた。
「概ね、いつものことでしょう。具体的にお聞きしてもよろしいか」
「いつものことになってしまったが、いつでも許せないことだ」
 鼻息荒く、エドナは席に着いた。青い瞳に、まだ炎がちらついている。
「この男が、貴殿を内通者と吹聴していたとの話だ。本人も、悪びれるでもなくそれを認めている」
「残念ながら、我が軍は疑われるに足るものを内に抱えています。諸侯が疑心に駆られるのも致し方ないこと。どうかこの者に寛大な処置をお願いしたい」
 ある種の諦念と共に、ウォーレスは言った。
 ウォーレスの領地、ロウブリッジは、現在敵として対峙しているノースランドからの移民が多い。単純に、ロウブリッジはノースランドと距離的に近いからだ。そして、交易上の付き合いも長い。これはロウブリッジに関わらず、アングルランド北部の領地を持つ諸侯なら、大抵は抱えている問題である。別におかしな話ではなく、そもそもつい先日まで、ノースランドはアングルランドの一部であった。
 更に言うと、ウォーレスの母もノースランド貴族から嫁いで来た身である。ウォーレスの身体には半分、ノースランドの血が流れているのだ。
「俺も含め、親族がいきなり叛徒とされてしまった者も、多い。その辺りは、こちらも憂慮している。我々を疑う気持ちもわかるが、捧げる剣は同じ。もう少し、辛抱してもらえないか」
 ウォーレスが頭を下げると、将校はいくらか面食らったようだった。
「いえ、中将にそこまでして頂いては・・・こちらこそ、軽率でした。以後、口を慎みます」
 まだ若い将校はそう言ったが、その瞳の奥に疑心と侮蔑の暗い光が明滅しているのを、ウォーレスは見逃さなかった。
「行け。処罰は追って下す。ウォーレス殿直々にお口添えされたこと、感謝するんだな」
 騎士が出て行った後も、エドナはまだ不服そうにしていた。普段は冷静な指揮官であるエドナがここまで感情を隠せないのも、やはり珍しい。苦悩を溜息で吐き出すと、エドナは目を伏せた。
「元帥には、迷惑をかけてばかりいる」
「私はいいのだ。ただ中将のことを思うと、胸が痛い」
「俺たちは、慣れている。あらためて元帥が気に病まれることではない」
 この話は、もういいだろう。ウォーレスは定時の連絡を行うと、兵舎を出た。どこにも寄らず、自陣へ戻る。ロウブリッジ軍は、もう幕舎の前に集結しているはずだ。ウォーレスは西の地平に目をやった。今日はあの丘の麓で、全体の調練をやる。耕作に向かない土地で、そうした場所はこの村の周辺にいくつかあるのだった。
 自陣に近づくにつれ、喧騒の気配が伝わってきた。
「何事だ」
 柵の側で、村人たちが不安気に佇んでいる。
「喧嘩みたいです。ウォーレス様の隊と、余所の隊が」
 立ち並ぶ、幕舎の向こう。微かに土煙が上がっているので、ただの喧嘩では済んでいないだろう。
 現場では、合わせて百名程の兵が取っ組み合っていた。広くアングルランド軍という意味では、味方同士である。さすがに素手でやり合っていたようだが、こちらの兵の一人が剣を抜いた。刹那、その兵は地に崩れ落ちた。駆けつけたセイディが、手刀で兵を昏倒させたようだった。
 表情は変わらずとも、ただならぬ気を発し始めたセイディに気づいたのか、両軍はわずかに距離を取った。倒れている兵に、セイディが活を入れる。まだ少年の面影を残した兵はしばらく何が起きたかわからないようだったが、セイディとウォーレスの顔を交互に見つめると、その赤い頬に涙を伝わせた。
「何が起きた」
「ウォーレス様、あいつらが、俺たちを裏切り者だって」
 涙を拭いながら、少年が言う。それだけで、状況は理解できた。
 相手の指揮官が、慌てた様子で駆けつけてきた。名は忘れたが、アングルランド南部の小貴族だったと思う。ウォーレスの前に立つと、顔面を蒼白にしながら敬礼をした。
「事情は聞き及んでおります。我が軍の兵が大変なご無礼を致しました。この身はいかなる処罰をも受ける所存であります」
 叫ぶように言った指揮官の肩を、ウォーレスは叩いた。
「兵の間の、行き違いだろう。なに、体術の訓練になったとでも思えばいいさ」
「い、いえ、このことは後ほど、元帥にもご報告申し上げます。その前に、中将には謝罪をさせて頂きたく・・・」
「お前の気が済むなら、それでいい。兵も一人一人が人間だ。束ねていくのは難しいよな」
 この男は、五百名程を率いていたと思う。ウォーレスと同年代だと思って親しげに接したが、苦労が刻み込んだであろう眉間の皺を間近で見ていると、あるいは見た目よりずっと若いのかもしれないと思った。口髭に数本、白いものが混じっている。
 兵を連れて帰り際、何度も頭を下げる指揮官を見送っていると、知らない女がウォーレスの傍に立っていた。
「囀る者の、キャシーです。ウォーレス様にお伝えしたい旨が。お時間、頂けますでしょうか」
 忍びである。キャシーとは何度かこうして顔を合わせているが、毎回明らかな別人の姿で現れる。今は、古参の女兵士といったところか。
「聞こう。セイディ、先に行っていてくれ。俺は後から合流するが、調練は始めておいてくれ」
「ロウブリッジ軍、所定の場所に着き次第、調練を開始します」
 セイディが、駆け去る。髪に、昨晩の仮面の髪飾りをつけていた。ああいったものでなければ、調練後にもう一度、似合っていると言ってやりたいところであった。
 柵にもたれながら、キャシーと向き合った。先程から流れる不穏な空気に反して、目に映る村の景色は実に長閑である。
「ロウブリッジ軍、ならびにウォーレス様がノースランドに通じていると、触れ回っている者がいます」
「前からだ。特にここ一週間はひどい。通じていないが、こちらの兵の中にはノースランドに血縁を持つ者も多い。ゆえに、余所の兵の疑心もわかる」
「これまでは、火種でした。仰る通り、最近はそれに火をつけて回っている者がいます」
「ノースランドの、忍びか」
「いえ、彼らにそういったことを成す力はありません。他の勢力の忍びが、ノースランドに加担していると我々は考えています」
「どこなのだ」
「申し訳ありません。調査中です」
 この分野は全くわからないが、自国の忍びを使ってアングルランドに害を為したい勢力など片手では数えきれないだろうことは、ウォーレスにでもわかる。アッシェンが可能性としては高いわけだが、なんとなく彼らのやり方ではないような気がするし、そうなら尻尾を掴むのにこれほど苦労していないだろう。その争闘には百年の歴史があり、お互いある程、度手の内は見えている。
「宰相は俺の軍をここに投入することで、北の戦線に早期の決着を試みた。無論、俺も含めた戦線に近い領地の指揮官を一度自領に返し、安心させる意図もあっただろう。しかしここのところ、それはおかしな形で裏目に出ている。今の状況を、そう解釈して良いか」
 南の戦線では、何度か総大将を務めている。今はウォーレスの上にエドナという元帥がいるため細かいことはあえて知ろうとしていないが、全体を見る目は捨てないようにしていた。
 特に今作戦ではノースランドの遊撃軍に対応する必要から、全軍がひとまとめに行動することができない。例えばロウブリッジ軍は北へ10km地点に布陣、という指令が届いたとして、その布陣の意味が初めに軍議で話し合った想定と食い違ってくることもあるのだ。刻々と変わる戦況の中、各軍はそこにいる意味を見出さなくてはならない。
 先程の問いへ、キャシーは微妙な沈黙で答えた。ここで宰相を批難するような意見に賛意を示せないのか、あるいは何か別の意味があるのか。この手の駆け引きは好きではないので、別の話題を振ってみる。
「南の戦線は、どうなっている。長く、膠着が続いているようだが」
 その膠着が、宰相にパリシ包囲を決意させた。博打だったが、軍の動きがこちらに伝わってくる度に、むしろ手堅い作戦であるように感じていた。"陥陣覇王"アナスタシアの思わぬ参戦がなければ、今頃パリシはアングルランドの占領下にあっただろう。
 余談だが、ウォーレスは同じ大陸五強と呼ばれる武人として秘かに、陥陣覇王と矛を交えてみたいとも思っていた。
「相変わらずです。ただ、騎士団領より帰還したリッシュモンが、南の戦線に投入されるとの見立てです」
「ほう。あのリッシュモン殿か。当面、アッシェンとは距離を置くと思っていたが」
 ゲクランと並ぶ、アッシェンもう一人の常勝将軍。ウォーレスも南の戦線で戦ったことがあるが、まさに変幻自在の戦術を持つ勇将だった。
「全体的に我が軍が優勢ですが、場合によっては五分、低い確率ながらいくらか押し返されることも想定しています。何と言ってもあの方は宰相を持っても測りがたい、まさに不確定要素の塊のような将軍ですから」
 南の戦線について、これ以上話すことはないのだろう。キャシーは懐から一枚の紙を取り出した。
「先程の話に戻ります。ウォーレス様の兵の入れ替えの際に、こちらの者を三人程、忍ばせて頂きました。急なことでしたので、事後報告になってしまい申し訳ありません」
 紙に目を通す。出身地と名前、ただそれだけだが、ロウブリッジ軍によからぬ噂を流す者を、炙り出す役目を負っている。
「了解した。しかし、なぜ我が軍に?」
「これまで、他の軍に忍ばせて参りました。しかしどうも、成果が上がらず」
「逆にこちらに潜伏し、周囲に噂を流したり、疑われるような行動をしているかもしれないというわけか。だとすれば、敵も考えているな」
 調略の世界は、ウォーレスには複雑過ぎる。戦である以上、最後は戦場だろうと思うが、孤立しつつあるロウブリッジ軍のことを考えると、一定以上の効果はあるのだろうと、認めざるをえない。こういったことに惑わされまいとしているウォーレスにも、手足を縛られるというところまではいかないが、蜘蛛の巣が身体にまとわりつく程度には煩わしさを感じている。
「お時間を取らせました。私はこれにて」
 敬礼をするキャシーの笑顔に、わずかな寂寥の陰が浮かぶ。それが意味するところは、わからない。
 少し目を離しただけで、忍びは姿を消していた。
 自分の幕舎に戻りながら、もう一度紙に目を通す。三人の忍び。明日にはもう、何食わぬ顔をして調練の列に加わっていることだろう。敵は、見つかるのか。
 ふと、やはり何故今になって、という考えが頭をよぎった。キャシーの説明を鵜呑みにするには、引っかかるものがある。
 あるいは本当に、宰相ライナスはウォーレスの離反を疑っているのかもしれない。
 当のウォーレスに、ノースランドからの接触はない。今後あったとしても、祖国を裏切ろうとは思っていない。これまで、国には忠義を尽くしてきた。一方で、この身には半分ノースランドの血が流れていることは、否定しようのない事実である。もしこれが、いきなりの叛乱という形ではなく、アングルランド王家に対する強い物言いであったなら、自分はノースランドの立場に立ったという気がする。半分はノースランドの人間ということで、両者の架け橋になれたはずなのだ。
 ウォーレスは首を振った。この戦線は想像していたよりずっと、厄介なものなのかもしれない。宰相が自分を疑っているかもしれないという想像は、それが妄想に近いと思っていても、やはり衝撃的だ。
 ウォーレスはもう一度首を振り、幕舎を出た。

 

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