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3,「簡単だけど、軽くはないでしょ」

 山の麓のこの村まで、教会の鐘の音はよく響き渡る。
 讃課(午前三時)である。既に夏の盛りであり、ここ北ユーロでは、わずかに空が白み始めていた。
 平服だが、一応騎士の身分を示す物なので、ドナルドは剣帯をしっかりと腰に巻き付けた。具足姿や鍛錬の時は気にならないが、平時での帯剣はこの歳になっても慣れることがなかったので、生涯、この違和感はつきまとうのだろう。
 家を出て、村の広場に向かう。柵の外では、ちょうど三台の荷車に木材を積み終えるところだった。村人たちが声を上げ、最後の荷を持ち上げていた。材は、いずれも板状に加工したものである。
 今日は、町で市が立つ。二週に一度、ここブリーザ村で採れた木材を町で売る。この村の、貴重な収入源だった。出店の場所は確保してあるが、早く町に着けばそれだけ多く、商いができるのだった。なので、市に出る日の朝は早いのだ。
 荷車の側で、ジャンヌが猫の様に大きく伸びをしながら、欠伸をしている。初めて市に出るということで、昨晩のジャンヌは少し興奮していた。町の生活を知らない娘ではないが、この村の数少ない行事のようなものとして、楽しみにしていたのだろう。赤い目をこすりながら、何度も身体を伸ばしていた。
「にしても、遅いですねえ。シャルルさん、時間に遅れる人なんです?」
「昨日の雨で、道がぬかるんでいるんだろう。理由もなく時間に遅れる男ではないさ。なに、気長に待とう」
 東の山の向こうにあるシャルルの村とも、合同で市を立てる。木材もあるが、あの村では他にも売れるものが多い。荷車五台でこちらに来る予定だった。讃課の鐘と共にここを出る予定だったが、昨晩の雨である程度の遅れは想定内だった。北側から山を迂回してくるが、そちらの道は雨に弱い。
 それから三十分程で、シャルルたち一行がやってきた。夜は、既に明けている。
「遅れてすみません。ちょっと、売り物も多くなってしまって」
 寝癖の残る頭を掻きながら、甥が欠伸を噛み殺す。ジャンヌは荷車の縁に腰掛け、舟を漕いでいた。
「何事もなければ、それでいい。出発しようか」
 見送りにきたアネットに、軽く手を振る。馬が嘶き、先頭の荷車がゆっくり動き出す。ジャンヌの荷車が動き出すと、少女はすぐに目を覚ました。
「あ・・・シャルルさん、遅いですよ」
「挨拶もなしに、それか。お前が寝ちまっただけで、本当は時間通り来ていたんだぞ」
「嘘ですよ。讃課の時に起きてましたもん。でも、無事ならいいです」
「ほほう、心配してくれてたのか」
「いいえ、こっちまで遅れるから嫌だなって、それだけです」
「朝は弱いのか。おいおい、いつもの元気がないなあっ!」
 ジャンヌの弱点を見つけて、シャルルはことさら大きな声で笑ってみせた。顔を背け、心底嫌そうな顔をしたジャンヌは、それでも身軽に荷台から飛び下りてみせた。
「シャルルさんのとこは、荷物いっぱいですねえ。ウチより、色んな物が採れるんです?」
「町の近くで採れない果物とか、色々な。お前になら、安く売ってやってもいいぞ」
「お金とるんですか」
「一つくらいなら、くれてやるさ」
 荷の包みに手を伸ばしたシャルルが、桃を一つ、ジャンヌに放った。袖で表面を拭ったジャンヌは、早速それにかじりついた。
「うん・・・へえ、普通のより、汁気があって甘いですね。ひと味違うわけだ。おいしいです。ありがとうございます」
 町の城門に着くと、ちょうど一時課(午前六時)の鐘が鳴るところだった。城門はこの時間から開くわけだが、近隣の村からやってきた馬車が、既に列を作っていた。
「帰りは、この荷が空っぽになってる感じですか」
 もう眠気から覚め切ったジャンヌが、にこりとしながら問う。
「上手くいけばな。この一台、ウォルナット材は家具職人のところに卸す。これだけは市の日に卸す契約をしていて、残り二台分、これはナラだが、これらがどれだけ市で売れるかといったところかな。酷い時は一台の半分も売れないが、売れる時はもっと運んでくればよかったと思う。需要の見極めは難しいな。もっとも先日話した通り、木の伐採は御料林長官の許可がいるから、直前に需要がわかってもどうしようもないところがある。事後報告が許されていても、限度はあるからな」
「なるほど。ナラはどういう人が買うんです?」
「それこそ、色々さ。自分で家具を修理したり、簡単なものを自分で作ったりするのに使われると思う。まあ、用途はいくらでもあるからな」
 答えたドナルドだが、この辺りの事情は、もっと客に聞いてみてもいいのかもしれないと思った。
 荷馬と村人たちの通行税を払い、ドナルドたちは町の中に入った。大通りから一本外れた工房の立ち並ぶ一角に、出店の申請はしてある。所定の場所に行くと、市が用意した、出店の一式が置いてあった。天幕と支柱、机で、これを組み立てることになる。
 出店が用意されている間に、馴染みの家具職人に、ウォルナットを卸す。代金を受け取り、親方と世間話をしている間に、こちらの店も品が売れる状態になっていた。
 後は、客が来るのをのんびりと待つだけだ。ジャンヌとシャルルがじゃれ合っているのを眺めながら、ドナルドは今朝アネットが用意してくれた朝食を頬張った。パンに、薄く切った肉と葉物を挟んだものである。
「差し入れです、叔父上」
 ジャンヌから解き放たれたシャルルが、ブリーザ村の者たちに杏を配って歩く。本来売りに出すものなので、見た目も綺麗なものが多い。ほとんど自給自足のブリーザに対して、シャルルの村は地味も豊かで、外に売りに出せるくらいの生産量がある。
「すまないな、切り出しは、こちらに任せてくれ」
「こちらこそ、毎度すみません」
 シャルルも木材を運んで来ているが、ブリーザ村の者たちの方が、客の要望に合わせて木材を切り分けるのは、上手い。
「私は、他に何を手伝えばいいですか」
 ぺろりと朝食と杏を平らげたジャンヌが、どこか所在なさげに聞いてくる。彼女も今まで遊んでいたわけではなく積極的に出店の天幕を組み立てたりしていたのだが、後は客を待つだけとなった今では、正直手持ち無沙汰なのだろう。
「今日はまだ、客が来るという雰囲気ではないな。少し、おじさんと一緒に散歩でもしてみるか」
 満面の笑みで、ジャンヌは頷いた。
 大通りには、朝食を出している屋台も多く、既に美味そうな匂いが漂っていた。町で、机に向かうような仕事をしている者たちは日に三度くらいしか食事を摂らないが、身体を使う仕事をする者たちは農村と同様、軽めの食事を五度、六度と摂る。
「何か食べたくなったら、言ってごらん。村では、手に入らないものも多いだろう」
「え、いいんですか」
「育ち盛りだろう。遠慮するな」
 ジャンヌは目を輝かせながらも、ちょっと複雑そうな顔をした。ついついやってしまうが、ジャンヌは子供扱いされることを嫌う。しかし実際のところまだ十一歳の子供でもある。この時期には本人が望むだけ食べさせてやりたいという親心が、ドナルドにはあった。普段は意識しないようにしているがそれでも時折、この少女は病に倒れた実の娘と印象が被る。だが、死んだ娘の分まで健やかに生きてくれと願うのは、ジャンヌに対してあまりに失礼だろう。子供は子供でも、あくまでヴィヴィアンヌに預けられた娘としての親心であるべきだ。
「ん、あれが欲しいのか」
 ジャンヌが最初に目に留めたのは、木の細工物の店である。玩具の類を手に取っては、見比べている。
「これ、パズルってヤツですかね。面白そう。買ってもらえます? おばさん、これいくらですか」
 ジャンヌの賢さではすぐに解けてしまいそうな単純な木工細工だが、銀貨一枚のそれを、ジャンヌは大事そうに鞄に入れた。
 その後は、主に食べ物の屋台を見て回った。人混みをかき分け、屋台を見て回り、焼き菓子の類をいくつか買う。他にも飴玉等も買っていたが、いずれも値の張らない、半銀貨でお釣りがくるようなものばかりだ。貧乏騎士の従者にしてしまっていることを、情けなく思う。
 日持ちの良さそうな物を多く選んでいることを聞くと、アネットへの土産にしたいのだという。なるほど、出来たても美味いだろうが、姉妹の様に仲の良いアネットと食べるのは、また別の美味さがあると思われる。
 だがその内の一つ、クロワッサン・オ・アマンドは、ここで食べることにした。刻んだアーモンドとそのクリームを乗せて焼いたクロワッサンで、やはりこれは焼きたてを頂くに限る。ドナルドの分も頼み、空いた長椅子に腰掛ける。ジャンヌはおいしそうにそれを頬張った。
「ほら、口についてるぞ」
 口の端に付いたアーモンドを取ってやると、ジャンヌは顔を真っ赤にして俯いた。何の気無しにやったことだが、恥をかかせたか、他人に顔を触られて嫌な気持ちにさせたか。やはり、この年頃の娘は難しい。
「そういえば・・・」
 ジャンヌはまだ顔を赤くしながら、座っている長椅子に目をやった。
「これ、ナラですよね。ウチの村から買ったのかも」
「ん、そうかもしれないな」
「ほら、あそこの丸椅子とか、テーブルも。あとこのベンチ、ちょっと作り粗いですよね」
 ジャンヌが身体を揺すると、確かにぎしぎしと軋む音がした。材はまだ古い感じがしないので、言う通り、作りが悪いのだろう。ドナルドの体重で同じことをしたら、脚が外れてしまうかもしれない。
「こうしたものは、素人が作っているからな。中には、出来の悪いものもあるだろう」
「ウチの村の人たちの方が、こういうの作るの上手いですよね」
「確かに」
「これ、作って売れないですかね」
 そんなことを、考えたこともなかった。そもそも物を作って売るのは組合の許可がいるが、職人の仕事を奪わない為にある。それが、質と価値を守っているわけだ。しかしちょっとした家を建てるとか土木工事とかではない、簡単な大工仕事は、そもそも専門の職人などいないのではないか。
 椅子や机として売り出すことが出来れば、上がる利はずっと大きくなる。付加価値、という奴だ。
「家具職人とは、親しい。ちょっと、聞いてみよう」
 出店の方に、戻る。向かいの工房に入り、徒弟に先程の親方を呼んでもらった。
「いや、知ってる限りじゃそんな簡単な仕事を請け負ってる工房はないな。俺もあんたらが言う椅子や机を手がけることもあるけどよ、付き合いのある人間に頼まれて、空いた時間にってとこだな。飯くらいは奢ってもらうが、金は取らねえ」
 工房の入り口、店舗部分には豪華な浮き彫りの施された家具が整然と並べられている。ドナルドたちが扱おうとしてるのは、こうした職人技の光るものではない。
「じゃあ、簡単なものだったら売っていいんですね」
 大きな目をさらに大きく見開き、ジャンヌが聞く。
「そうだなあ。そういう物を売る商人もいるみたいだが、多分もっと大きな街から仕入れたもんだろう。ここで騎士さんたちがそういった物を売る分には、構わないと思うぞ。一応商工組合の方に販売許可を取る必要はあるだろうが、まあ駄目ってことはないだろうよ。木材を切り出す、つまり簡単な加工をするとこまでの許可は下りてるんだからよ。もし簡単に許可が下りなければ、俺が口を利いておいてやる」
 出店に戻ると、ブリーザの者たちが、客の要望に応じて木材を切っているところだった。手際はいい。
 ジャンヌ自ら村人たちに、先程の話をした。皆一様に頷いていたが、もうひとつそれがどういうことか理解できないようだった。横で聞いていたシャルルが口を挟む。
「けど叔父上、そんな椅子やら何やらを運ぶとなると、えらくかさばりますよ。もう二、三台の荷馬車が必要になるかもしれない」
「違いますよ、シャルルさん。簡単なものにするんですから、ここで組み立てればいいんですよ。部品の状態なら工夫してびっしり積み込むことができますし。そうすれば、かさばりません」
 初めジャンヌの話を聞いた時点ではそこまで思いつかなかったが、それでもドナルドはいい商売になりそうだと思ったのである。既に積載量のことまで、この少女の頭にはあったようだ。
「ああ、なるほど、なるほど・・・」
 しばらくぼんやりと石畳を見つめていたシャルルが、ぽんと手を叩く。
「お前、面白いこと考えるなあ。これは儲けになるかもしれない。お前は、いつもそんなことを考えているのか」
「考えてませんけど、村がどうしたら豊かになるのかを考えるのは、為政者の忠実な部下として、当然のことじゃないですか」
「へ、為政者と来たか。まあ村の政を預かる身としちゃ、ごもっともな話だ。村長に任せきりの俺としちゃ、耳の痛い話だがね・・・叔父上、皮肉じゃなく、いい従者を持たれました」
「この子には、いつも驚かされてばかりだ」
「じゃあ、帰ったら早速色々試しましょうよ。どんなものが売れそうで、いくらくらいなら売れそうか、ちょっと偵察してきますね。ああこれ、シャルルさん組み立てられます? おじさんに買ってもらった大事なものだから、絶対なくさないで下さいよ。じゃ、行ってきますね!」
 言い終わるや、ジャンヌはあっという間に大通りの方へ消えてしまった。
「なんですかね、これ。ばらばらの木片ですが」
「パズルだよ。先程大通りの出店で買った。出来上がりは、掌に収まる程の、箱状のものになる」
 言って、ドナルドは笑った。なるほど、この木の玩具が、組み立て式の商品を思いつく手掛かりだったのだろう。
「一応、追いかけてみるか。まあ、ごろつき程度に絡まれても、瞬きする程の間にのしてしまいそうな子ではあるが。シャルル、引き続き店を頼む」
「叔父上」
 ちょっと深刻そうな顔つきで、甥に呼び止められる。
「あの子は実際、武術だけの子って感じじゃない。利口だし、人を思いやる度量も持っている。俺たちで面倒を見切れるか、ちょっと心配になってきました」
 俺たち、ということは、シャルルもジャンヌに対していくばくかの責任を感じているのだろう。ありがたい話だった。
「ジャンヌの幸せを、私たちなりに考えていよう。今は雛でも、やがて巣から飛び立つ。それまでは、恥ずかしくない大人でいる。そんなことくらいしか私には思いつかないが」
「何かあったら、相談して下さい。ウチの娘とは出来が違い過ぎますが、女房にもジャンヌの話はしてあります。ミサの時に親しげに話してましたから、知らない仲でもないですし」
「お前と奥方に、話を聞いてもらうこともあるかもしれないな。その申し出だけで、随分荷が軽くなったよ。恩に着る」
 甥の肩を叩き、ドナルドも大通りに向かった。
 人通りは多いが、これでもアッシェンの中では小さな町だ。ブリーザ村と、いくつかの近隣の小さな町。ジャンヌはそれだけの小さな世界で終わっていい人間ではない。
 雑踏を泳ぎながら、あの丸い金髪の頭を探す。猫の様にすばしっこい娘を捜すのは、それこそこの人混みで猫を探すのと同じくらいに難しいことかもしれない。
 不意に、そのジャンヌの姿が目に入った。既にあちらはドナルドを見つけていて、背伸びしながら手招きし、何かを指差している。
 ふと、導かれているのは自分かもしれないと、ドナルドは思った。

 

 あれから三日が経ち、約束の時間が近づいている。
 頑固な伯父の説得にはそれなりに掛かるだろうと踏んでの三日だったが、実際にはほぼ翌日に、話の決着はついていた。十年間の付き合いは伊達ではない、と早速あの娘に自慢したいくらいだった。
 つい先程までそこそこの客が残っていたものの、雨が降り出すとその客たちは帰っていった。本来ならここで店を閉めるところだが、今晩は待たなくてはならない人間がいる。
 厨房では伯父が一人、鍋の火加減を見ている。くつくつという音が、外の雨音と重なる。静かで、心地よい時間だった。
 扉に着けた呼び鈴が鳴り、肩を雨で濡らした女が入ってくる。アナスタシアだった。どこかぼんやりとした様子だったが、これがこの娘の素の顔つきである。ただ三日前と同様、その目には、身体を震わせる子犬のような光があった。
「いらっしゃい。話、ついてるわよ」
 頷いたアナスタシアが、カウンターを挟み、ロズモンドに頭を下げる。
「ロズモンド殿、私を貴殿の弟子にして頂きたい。よろしくお願いします」
 振り返った伯父は、しばらくアナスタシアの、まとめられた銀髪を見つめていた。
「・・・まずは、ホールの仕事からだ。一人前の仕事ができるまでは、この厨房に立つことは許さねえ」
 顔を上げたアナスタシアが、微かに眉根を寄せる。そしてもう一度、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。精一杯、頑張りたいと思います」
「ジジ、戸締まりはしっかりしとけ」
 鼻を鳴らしたロズモンドは鍋の火を止め、二階へと姿を消した。
「ジジ、どうやってマスターを説得したのだ」
「説得ってよりも、言ってやったのよ。マスターが意地を張ることで、若い娘の夢を壊していいのかって」
「そ、そんなに簡単に」
「簡単だけど、軽くはないでしょ?」
「確かに。ジジには本当に、感謝してもしきれない」
 アナスタシアは、軽く目尻に手をやった。表情はあまり変わらないが、こみ上げるものがあったのだろう。この娘は顔に感情が出にくいというだけで、挙措の端々から、豊かな心情を読み取ることが出来る。
「もう遅いけど、一杯くらい付き合いなさいよ。お祝いにね」
 こくりと頷くアナスタシアを、かわいらしいと思った。彼女の方が一つ歳上だが、妹ができたような気に、ジジはなっていた。
「じゃ、アナスタシアの採用祝いに!」
「乾杯」
 蜂蜜酒の入った杯を、打ち鳴らす。エールかビールの方が雰囲気があったかもしれないが、この店の売りはやはり蜂蜜酒である。ジジとロズモンドの家系、その本家はこの町一番の養蜂所と蜂蜜酒の醸造所を経営しており、伯父の兄から直接仕入れているのが、この蜂蜜酒なのだ。
 甘みが強く、あまりぐいぐいとやる酒ではないが、それでも一息に杯を飲み干したアナスタシアは、どこか不思議そうな様子で店を見回していた。暖炉に火はなく、壁の窪みの蝋燭は燃え尽きているものがあったが、店内は充分に明るい。
「どう、あらためて見るこの店は」
「まだ、現実感がない。まずはジジの手伝いをすればいいのだな」
「そういうことね。ま、何日かやればわかるわよ。そういえば、いつ働けるの? 傭兵隊長と兼業ってよくわからないけど、大変でしょ」
「平日は、夕方からなら入れると思う。人に任せられる部分ができれば、昼も。この店は、土日が休みだったな。その日に隊の事務作業を集中できれば、昼に入れる日も多いと思う」
「そんなに、頑張らなくていいのよ」
「しかし、頑張りたいのだ」
「だから、そう気負いなさんな。ふらっと入った店にさ、鼻の穴膨らませて気合い充分の娘が注文を取りにきたら、疲れちゃうでしょ」
「それも、そうだ」
「つっても、あんたはこの辺りじゃ英雄様だからねえ。多少気兼ねするお客さんもいるだろうから、尚更リラックスよ」
「なるほど。指揮官の心持ちは自然と兵に伝わる。そういうものと、似ているのかな」
「わかんないけど、あんたもそっちの世界で道を極めたみたいな感じなんでしょ? 大丈夫よ、きっと通じる部分もあるんじゃないかしら」
「そうだといいな。同じ人間相手の商売だもんな」
 何度も頷き、アナスタシアは納得したようだった。
「まあ、空いた時間に来て頂戴。こっちは毎日猫の手も借りたいって感じだから、いつでも大歓迎よ」
「わかった。しかし、そんな都合のいいことで、いいのだろうか」
「あんたはあんたで、やらなくちゃいけないことがあるのはわかってんだから。私だけじゃなく、マスターもね。わかった上で、受け入れた」
「ありがたいな。本当に、ありがたい」
「お客さんも、わかってるからね。ひょっとしたらあくまでここでは一人のウェイトレスや料理人って感じでいたいかもしれないけど、世間はそうは見ない」
「ああ、覚悟の上だ」
「だからそう、何に対しても気負わないことよ」
 ジジは笑った。アナスタシアも、わずかに目を細める。
 その後はしばらく、他愛のない話をした。アナスタシアは初めてこの町に来た時も長く逗留し、戦の時もここに駐屯した。近所や大通りの話をしても、問題なくついてこれた。もう、ノルマランの住人といってもいい。
「とりあえず近々、ここで働く時の服でも買いに行きましょ。仕立てると時間掛かるから、古着屋を当たることになりそうだけど」
「わかった。ジジと同じようなものを着ればいいのかな」
 ジジがいつも着ているものは、胸の大きく開いた、いかにも酒場の娘といった格好だ。
「うーん、こういうのはあんまり似合わないかも。あたしが何か適当なもの見繕ってあげるわよ。ここはパリシに近いからね、古着でも結構上物が流れてくるわよ」
「じゃあ、その辺りは任せることにするよ」
「パリシのレストランで働く給仕、みたいのが似合いそうね」
 アナスタシアはしばし顎に手を当て、宙を睨んだ。そんな自分を、想像しているのだろう。
「でもホント、こんなことになるとはねえ。正直言うと、あてどなく旅を続けるくらいだったら、この町の住人になっちゃえば、くらいの気持ちで言ったのよ」
「いや、同じことだよ。ここが駄目なら、また旅の空かなと思っていたから」
「大所帯で?」
「傭兵隊としてみれば、まとめてどこかに編成されるような、小さなものさ。五十人くらいまでの傭兵隊なら、定住せずにそこら中を旅してるよ。そういうものの、一つになるかもしれないと思っていた。ただ私の気持ちが折れるまでは、ここに何度でもお願いをしにくるつもりでいた」
「ふぅん。でも、折れなかったんじゃない?」
「そうでもないよ。ジジがあの時助け舟を出してくれなかったら、そこで折れていたかもしれない」
「本当? まあいいわ。今日はせっかくだから、店の片付け、手伝っていきなさいよ」
「いいのか」
「いや、そこは初日からタダ働きかって、怒るとこでしょうに」
 ジジが笑って言うと、珍しく、アナスタシアも微笑んだ。
 指示を出しながら、片付けを始める。もたつき、戸惑いながらも、アナスタシアは仕事を正確にこなした。その様子を見て、ジジは少し安心した。
 初めから仕事が速い人間は、どこかで動作が雑である。そういう人間に後から丁寧にやるように言っても、単に仕事が遅くなるだけで、何が丁寧かということを理解できない。アナスタシアは逆で、この娘は大丈夫だと思った。仕事の遅い娘ではあるが、速度は、慣れれば後から自然と身につくものだ。
 椅子を上げ、床を丹念に磨き上げたアナスタシアに、ジジは言った。
「モップを片付けるのは、あたしがやっとくわ。今晩はここまで。お疲れさま」
「そうか。最後までやりたい気がするが、それは次の楽しみに取っておくよ」
 扉を開けると、雨はもうやんでいた。雲間から、わずかに半円の月が顔を覗かせている。
「ああ、そういえばもう大分遅いわね。夜警が回ってくるまで待つ?」
「いや、一人で大丈夫だ。私を殺せる者がいたら、夜警がいても助けにならないよ」
 さらりと凄いことを言ってのけたが、大陸五強の英雄というものは、まあそういうものなのだろう。町の喧嘩しか知らないジジには、理解できない話だ。
「今日は、ありがとう」
 差し出された手を、握る。彼女のこれまでの歩みを感じさせる、しっかりとした手だった。
 何かを思い出したのだろう、歩きかけたアナスタシアは、振り返った。
「言い忘れるところだった。ジジ」
 銀髪の娘は、はっとするような笑顔で言った。
「これから、よろしく頼む」
 ああ、こんな笑い方もできる娘なのだと、ジジは思った。

 

つづく

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