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プリンセスブライト・ウォーロード 第12話
「ああ、こんな笑い方もできる娘なのだ」

 

1,「悲しみは溶けない雪で、ただただ降り積もっていきますから」

 日差しは強いが、不快という程でもなかった。
 青流団を抜けた二十人を連れ、アナスタシアはノルマランに到着した。右手、街道の南側にはマロン川が水面を輝かせながら流れている。
 先日ここを訪れた際には、青流団の強兵五千がいた。パリシ包囲軍への奇襲。急な出立であった為、蜜蜂亭のジジにも、別れの言葉は言えなかった。しかしよく考えると初めての別れの際にも、また会えるような気がしていた。結果、三度、この町を訪れることとなっている。
 町の市壁は低く、門扉も頑丈なものではない。賊の集団や、昔この辺りにもよく現れたという怪物の群れを想定した防壁で、攻城兵器を携えた軍相手に持ちこたえられるような作りではなかった。
 その城門の脇に、十騎程の騎馬の姿があった。隊の中心にいるのはゲクランの腹心、パスカルのようである。小麦色の髭を整えた、そして人を食ったようなその皮肉な笑みをはっきりと視認できる程の距離になると、どちらともなく手を上げた。
「これは、パスカル殿。どうされました」
「アナスタシア殿がこちらに向かっていると聞き、お迎えしようと」
「はあ。今は、一介の旅人です。そこまでして頂くいわれは」
 パスカルが、吹き出した。拍子で落馬しかけているが、眼鏡とともに体勢を立て直す。
「救国の英雄です。それに率いているのは、間違いなく軍ですな。大将に、優れた兵がいる」
「ついてきただけです。しかしなるほど、ただの旅人を装うには、少し物騒かもしれません。ついてきただけと言いましたが、面倒をみる必要も出てきまして」
 アナスタシアが促すと、背後の兵たちが一斉に敬礼をする。先頭のアニータも含め、何人かの口元は笑っていた。ただ、緩んだ様子ではない。
「皆様を、この町で歓迎致しましょう。ああ、通行税もいりませんので、ご心配なく」
 町の城門を潜るには、足一本税と呼ばれる税がかかる。人なら二本、馬なら四本である。
「それはありがたい。そういえば、ここはパスカル殿の領地でしたな」
「城代に任せきりで、アナスタシア殿が度々訪れるまでは、あまり足を運ぶ町ではありませんでした。そこは先日の軍議でも、申し上げた通りです」
「もっと大きな街を、いくつも治められておられる」
「目の行き届かないことばかりです。主君にいつも、振り回されているもので」
 戦時では、特にそうだっただろう。パスカルは、いつもゲクランの側にいるという印象がある。
 西門から、町に入る。通りは静かなものだったが、港ではマロン川を行き来する舟や艀で活況を呈していることだろう。そちらへは向かわず、大通りを北へ向かった。道中、何人かがこちらを見て足を止めている。
「とりあえず、しばらく兵たちの面倒は、私どもの方でみましょう。その人数だと、宿代も馬鹿にならないと思いますので」
「助かります。私に出来ることは」
「兵の調練はなさるのでしょう? ついでに、こちらの兵の調練も見て頂ければと」
「お安い御用です。まとまった数が、まだ駐屯しているのでしょうか」
「いえ、既に徴兵期間を過ぎ、解散済みです。今いるのは防備を兼ねた警備兵や、城勤めの騎士たちですな。しかしいざ軍を召集するとなれば、中核になる者たちです。少々、きつめに稽古をつけて頂ければ」
「了解しました。私がこの町を訪れた理由とは異なりますが、片手間にならない程度には」
「なに、片手間で結構です。アナスタシア殿がここに訪れた理由、このパスカル、しかと存じ上げておりますので」
 にやりと口元を上げたパスカルだったが、そうした仕草に嫌身のないことが、この男の持ち味だろう。
 跳ね橋を渡り、城内に入る。古い時代の様式だが城壁の内の中庭は広く、百人規模の、騎馬を使わない調練ならできそうである。実際今も、三十人程の一団が、掛声に合わせ武器を振っていた。
 パスカル自ら、兵舎の中を案内する。前回、青流団を率いての駐屯では、五千という規模もあって、主に城外に駐屯していた。もっとも指揮官の多くは町の中に宿を取っていたのだが、ともあれこの城の中についてはアナスタシアもあまり詳しくはなかった。
 長く直接の戦火にさらされていない城塞だが、充分に機能しそうな気配はある。戦火が近づいた時には住民は付近の村に避難させ、二千人程の兵で立て篭ることを想定しているようだ。前回の戦では、ここは戦線に数えられていなかった。
「しばらく、ここで世話になる。調練場を使わせてもらえるので、一同旅装を解いた後は、中庭にいる兵たちに挨拶を済ませておいてくれ。私は、パスカル殿と用事を済ませてから合流する」
「了解です。それでは団長、お先に」
 満面の笑顔で返すアニータを見て、思わず溜息が出てしまう。兵舎から出たアナスタシアは、再びパスカルと共に、城の中を見て回る。
「さすがに、元青流団の団員たちです。皆きびきびとしているのに、肩に力が入っていない。惚れ惚れしますな」
「大陸最強と言われる傭兵団を辞め、それでも傭兵を続けたいような連中です。腕は立つし、野心もあります」
「目立った者は?」
「エルフのアリアンは、すぐに部隊長を務められます。青流団でも二百人を率いる小隊長でしたが、おそらく千人は指揮できるでしょう。実力だけで言えば、この隊の副官ですね。気障な男ですが何故かそれが鼻につかないところは、失礼ながら、パスカル殿に似ているような気がします」
「はは。剣の方も、相当だと思いました。私も負けていられませんな。他には?」
「ドワーフのグラナテは、工兵でした。部隊指揮の経験はありませんが、工学の知識はかなりのものです。若い娘に見えますが、五十歳だそうで。まあ、ドワーフの中では小娘なのでしょうが」
「ふむ、私より歳上ですか。その分、私たちより多く、血を見てきたのかもしれませんが」
「なるほど。他種族の長命は私たち人間からすれば羨ましいかぎりですが、生き方によってはつらいものになるのかもしれませんね。悲しみは溶けない雪で、ただただ降り積もっていきますから」
 アナスタシアが言うと、パスカルはこの男には珍しい、ちょっと寂しげな笑みを浮かべた。
 前回の駐屯で世話になった老齢の城代に挨拶し、執務室で用意された書類に署名をする。部隊駐屯のこうした手続きは慣れている為ついつい無意識でやってしまったが、これではまるで傭兵隊長そのものではないかと苦笑した。
 パスカルと城代に別れを告げ、具足を着けて調練場へ向かう。アナスタシアが姿を現すと、ノルマランの兵たちから、驚きと喜びの混じった歓声が上がった。
 兵の調練を指揮していた騎士と、握手を交わす。聞くと、やはりアッシェンの兵たちにとって、先日の戦を勝利に導いたアナスタシアの存在は、小さなものではなくなっているらしい。どの兵も、こちらが戸惑うくらいに好意的である。
 促されるまま、軽く全体の調練を指揮した。中庭を駆けながら、指示に合わせて陣形を変える。将校なら誰にでもできるような調練である。その後は広がって、組み打ちの訓練に移った。青流団の兵は全く問題がないが、ノルマランの兵たちは体術に慣れていない様子だった。明日も同じようなことをするなら、基礎から教えてやる必要があるだろう。今はおっかなびっくりでやっているため慎重だが、基本ができていない状態で慣れ始めると、絶対に怪我人が出る。今日のところは青流団とノルマラン兵、という形で組ませた。素人同士は、やはり危険である。
 青流団の兵何人かと汗を流した後、最後にアナスタシアの相手となったのはアニータだった。
 合図と同時に、抱きつくようにして脚を取りにくる。軽くがぶってそれをいなすと、立ち上がりかけたアニータの腰を捕まえ、こちらの腰で跳ね上げた。投げ飛ばされた時の受け身も、その後の反応もなかなか堂に入っている。さすがにレムルサの、かつてのセシリアファミリーで育て上げられただけある。見た目の、いかにも小娘然とした印象よりも、はるかに骨がある。
「この調練が終わったら、蜜蜂亭に行くんですか」
「さあな。ここに来て間もない。ちょっと、様子を見てもいいかもしれない」
 さりげなく会話に引き込んで、息を整えるところは小賢しい。が、思わず乗せられてしまう上手さが、この娘にはあった。
 その後も何度かアニータを投げ飛ばし、途中からはこちらが投げられるような形にした。まだ自分の技を極めていない相手を、ただ圧倒するだけでは彼女の練習にならない。三度、こちらが組み伏せられたところで、終了の合図が聞こえた。
 ノルマランの兵たちの何人かは、倒れたまま動けなくなっている。怪我をしていないか見て回ったが、いずれも疲労によるものと判断した。組み打ちは、とにかく体力を消耗する。具足をつけたままでは尚更である。若い兵が何人か、隅の方で胃液を吐き出していた。
 まだ日は高いが、調練自体も、ここで終了とした。四時くらいだろうか。もう、大分日は長くなっている。
 兵の一人から、この後アナスタシアの歓迎の宴を開きたいという申し出があった。しばらく居候となる。青流団の兵たちの為にも、親睦を深めておく必要があるだろう。断るわけにはいかなかった。
「晩課(午後六時)の鐘までは、自由時間とする。その後は、ノルマランの方々が宴を開いてくれるそうだ。六時に、兵舎前に集合。それまでに風呂も済ませておけ。ここにも風呂はあるが、町にも大浴場がある。では、解散」
 帰る兵たちの姿を見て、アナスタシアは先程同様、思わず苦笑した。結局のところ、傭兵隊長のようなものから、抜け出せない自分がいる。ここまでの道中も、青流団の兵たちが鈍らないよう、簡単な鍛錬はつけてきた。ついてくる者たちがいる以上、どうしてもその面倒を見なくてはならなくなる。
「宴が終わったら、蜜蜂亭に行くんです?」
 汗で額にへばりついた前髪を指で梳きながら、アニータが聞いてくる。
「いや、酒が入った状態で弟子入りを志願しにいくのは失礼だろう。明日以降にするよ」
「明日、でいいんじゃないですか。往生際が悪いですねえ」
「うるさい」
 軽く小突くと、アニータは大袈裟によろけてみせた。
 武具を片付け、何人かと連れ立って城を出ようとすると、跳ね橋の外に人だかりができていた。何か騒ぎがあったのかと気にかけていると、どうやら皆、アナスタシアを見に来たという者たちらしかった。
 浴場へ向かう間、様々な人間に話しかけられ、あるいは握手を求められたりした。パリシでも時折見知らぬ人間たちにそうされたことはあったが、大概は宮殿脇の兵舎にいたので、民の反応というのはよくわからなかった。道中の馬車宿でも、アナスタシアがいることを聞きつけて酒場に集まったのは、数人程度だった。
「この町に入った、という噂を、誰かが流したのかな」
「誰かがではなく、誰もがそんな話をしますよ。団長は、自分のことがわかってないんですねえ」
「それは、そうだ。真に己を知ることが出来れば、きっとどんな戦にも負けない」
「そういう次元の話じゃなく。はいはいそこ、道空けて下さーい」
 アニータが先導するに任せ、アナスタシアたちは大通りを進んだ。
 スラヴァルでは負け戦が多かったため、こういった熱烈な歓迎を受けることはなかった。あっても、それは先頭を行く諸侯たちに浴びせられた喝采で、最後尾を行くアナスタシアたち霹靂団は、常に日陰を歩いてきたといっていい。怪物退治で名を上げていた頃も、話を聞きたいとやってくるのは吟遊詩人や物書きたちだった。なので大陸五強などと言われても、アナスタシアにはその実感はなかった。
 加えて、しばらく腰を落ち着けることとしたとはいえ、アナスタシアにとってアッシェンはいまだ異国である。時折上がる歓呼のようなものの中には、まだ聞き取れない言葉もある。
 それでも、自分は受け入れられているのかもしれない。
 ただ今のアナスタシアには、喜びよりも戸惑いの方が大きかった。


 パリシの郊外に、呼び出された。
 近隣の村の、ひとつである。一見なんの変哲もない農村の一つに見えるが、そこは村人の多くがゲクランの忍び"鴉たち"によって構成されていた。多く、といっても、残りの者たちも家族が忍びの仕事をしていることは知っていて、それを口外してはいない。つまるところ、そこは鴉たちの村である。
 この後、鴉たちの頭領マグゼと会うのかと思うと、ゾエの腑はひっくり返るようだった。緊張するのだ。部下に優しく、へまばかりのゾエもほとんど叱責されたことはないが、それでもあのハーフリングの忍びに会う時は、いつも膝が震える。頭領ということもあるが、ゾエにとって何よりも恩人であるマグゼの機嫌を少しでも損ねたくないと、そればかり心配してしまう。
 ゾエは、忍びとして優秀ではなかった。特に、諜報が苦手だ。女にしては身長が高過ぎ、誰かになりすますことが難しい。背の高い女は、それだけで目立つ。それが185cmとなれば、尚更だ。男に生まれていれば、2m近くはあったのではないか。
 時折男に変装することもあるが、話しかけられると正体がばれる。変装そのものも下手で、大抵仲間に手伝ってもらって、何とか形になる。マグゼがこんな自分にどうして手を差し伸べてくれたのか、よくわからなくなる。
 パリシの貧民窟で生まれたゾエは、十二歳の時に両親を失い、早い時期から弟妹たちの面倒をみることになった。初潮を迎える頃には180cm近い長身だったゾエは、いくつかの肉体労働を経験したが、どこの職場でも失敗ばかりで、結局最も物騒な仕事場、パリシの地下闘技場に落ち着くことになった。子供の頃から大人におかしな絡まれ方をすることが多いゾエだったが、喧嘩にだけは負けたことがなかったのだ。
 主に荒っぽい男たちに囲まれての生活は、少女だったゾエには恐ろしく居心地が悪かったが、闘技場ではそこそこ稼げた。華がないゾエには、たまにいる、他の女闘士たちのような優雅な、あるいは愛らしい振る舞いはできなかったが、戦いは支配できた。ただ、勝つだけではあまり金にならない。主催者や、胴元たちの指示に従い、時に相手の良いところを引き出しながら派手に負け、あるいは勝てと言われれば、相手がどんなに抵抗を示そうが、決められた刻限通りに勝利をおさめてきた。
 時に最強の挑戦者として、必要があれば観客の憎悪を煽る絶対王者として、戦った。ゾエが主に戦ってきたのは、蹴拳闘士としてである。使い勝手の良い駒としての発言力が出てきたところで、この競技を希望した。勝つ時に相手を殺せと指示されることが少ないのがよかった。人はいつでも殺せるが、できれば殺したくない。
 約束の正午までは、まだ二時間近くある。小道から森に入ったところで、ゾエは木陰に身を潜めた。ゾエが隠密として、唯一得意なことでもある。パリシからここまで寄り道しないで来ているので、敵の隠密、特にアングルランドの"囀る者"の尾行を警戒してのことだった。とにかくゾエの姿は目につくので、普段から最大限の用心は怠っていない。
 地下闘技場の生活から抜け出せたのは、マグゼのおかげだった。
「こんな所で燻ってるタマじゃない。弟たちにも、いい生活をさせてやる。その命、あたしに預けてみないか」
 既に根回しは済んでいたのだろう。闇社会に一度関わると抜け出すことは困難だが、闘技場の主催者に辞めたいと申し出ると、あっさりと辞められた。もっとも、踏み込んだ忍びの世界は、より闇の深いものだったが。
 しかしより深い世界であった分、弟たちに余計な心配をさせずに済んだ。地下闘技場の話は弟たちの耳にも届いていたし、何より試合があった夜は、血だらけのまま帰宅することも多かったのだ。瞼や口を切り、あるいは全身に残る痣を見て、弟たちは泣いた。その涙は、ゾエにとってどんな試合の怪我よりもつらいものだった。
 あれから数年、一番上の弟はパリシの大学に通うようになったし、残りの弟妹たちも早晩、自分の望む未来を切り拓くことができるだろう。マグゼの手引きがあれば大抵のことは可能で、彼女にはいくら感謝してもしきれない。おかしな放蕩をしなければ、弟たちは今後も不自由なく暮らせるだけの蓄えも残してあった。
 一時間程待機したが、尾行の兆しはないようだった。反対に、村の方から男が一人、こちらに向かってくる。
「イニャス殿」
 ゾエが木陰から姿を現すと、男は心底びっくりした様子を見せた。本当に驚いたのかは、わからない。イニャスは鴉たちの副頭領である。武術の才のない小男だが、忍びの技ではゾエなど決して届かない程の境地に達している。
「なんだ、ゾエか。気配を消すのは、本当に上手くなったな」
「それだけです、形になっているのは」
「何か嫌な感じはしていたが、それが何なのか、俺にはわからなかった。お前でよかったよ」
「あ、ありがとうございます。この後、頭領と会うのですが、私のこと、何か聞いていますか」
 聞くと、イニャスはにやりと笑った。
「直接聞いておけ。大仕事だぞ」
 それだけ言い残し、イニャスはパリシの方へ戻っていった。普通に歩いているように見えて、遠ざかる速度は恐ろしく速い。忍びの歩法だった。
 あの副頭領ともう少し話したいと思ってしまったのは、やはり心細さを感じているからだろうか。大仕事とは何なのだろうか。今後、大規模な暗闘があるのだろうか。
 そういったものに時折駆り出されることを除けば、ゾエの主な任務はゲクランを始めとした要人の警護と、手が空いた時に拠点にある書類の整理をすることくらいだった。あまり自覚はないが、ゾエは整理整頓が得意らしい。子供の頃に字を学ぶ機会がなかったので、文字に囲まれているだけで嬉しいというのもある。
 村に着くと、何人かがそれとなく手を上げた。言葉は交わさなかったが、村の外れを指差され、マグゼがそこにいることを教えてくれる。
 一軒だけある村の酒場に寄り、水を一杯もらった。ゾエが来ることは誰もが知っていることらしく、しかし呼び出された理由までは知らないようだった。それもそうだろう。上層部以外がたやすく知れることだったら、わざわざ自分が呼び出されることもない。指令を飛ばせばいいことだ。
 どんな仕事を任されるのだろう。不安で喉がからからになり、ゾエは主人に水をもう一杯頼んだ。
 村の外れの、薫製小屋に向かった。マグゼの好物は薫製で、特にここで自作したものをよく持ち歩いている。これがまた美味く、ゾエも何度か食べさせてもらったことがある。薫製なのにぱさつかず、しっとりとしてとても柔らかいのだ。
 小屋の外の切り株に、マグゼは腰掛けていた。ハーフリングなので、その背中は人間の子供のようにしか思えない。
「ゾエ、到着致しました」
「十分前か。あたしを待たせるくらいの胆があってもいいと思うぞ、お前は」
 マグゼが、振り返った。先程まで体術の鍛錬でもしていたのか、忍び用の黒革の衣装に、外套を引っ掛けただけの姿である。
「す、すみません、早く、来過ぎてしまいました」
 忍びは決められた刻限に遅れないことはもちろん、出来る限り時間ぴったりに行動することが求められる。好機が一瞬という場合に、速過ぎる行動は遅過ぎることと同様に致命的になりうる。教会が鳴らす鐘は場所によって微妙な時差があるが、鴉たちの時計はパリシの時間に合わせてある。
 遠方から微かに、六時課(正午)を知らせる鐘の音が聞こえてきた。マグゼはそちらに目をやると、吹き出した。この教区の鐘は、十分程早い。
「せっかちな坊主どもめ。いいよ、時間ぴったりってことにしておくか。前置きはなしだ。先日、ゲクラン様と一緒に王をパリシから逃す際、ウチの連中がマイラにやられたよな」
 パリシ解放の戦の前、ゲクランとアンリ十世が陥陣覇王を口説き落とした時のことである。あの時、ゾエは城外にいた。潜入には不向きな忍びである。そしてマイラとは"囀る者"たちの頭領で、アングルランド宰相ライナスの娘でもある。その拳は一撃で相手を殺す。あだ名は打骨鬼。
「はい」
「やられたら、やり返す。この世界の常識だが、ちまちまとした報復には意味がない。やる時は、どでかく返してやろうと思ってる」
 マグゼの顔は愛らしいが、その言葉はいたって物騒なものだった。
「はい。直接、こちらから仕掛けますか。標的は」
 通常、忍びが忍びに直接戦闘を仕掛けるようなことは少ない。まずどちらかに任務があり、もう一方がそれを察知し、妨害する形で行われるのが忍びの暗闘だ。忍びが、直接忍びを叩くこと自体を目的にしてきたことは、これまでのところはない。
「マイラの、暗殺」
 聞いて、鳥肌が立った。まともに、敵大将の首を狙おうというのか。
「は、はい」
 なんとか声を絞り出したが、また喉が渇いてきた。ゾエの様子を察したのか、マグゼは水筒を投げて寄越してきた。口にして一息つき、ゾエはもう一度考えをまとめる。
 大きな街の拠点を狙って上層部の一人を捕えるくらいのことはやるのかもしれないと予想したが、さすがにマイラの首とは思いもよらなかった。冷静に考えようとしても、マグゼの前で動揺は隠せていないだろう。
「あいつも、さすがに自分が狙われるとは思ってないだろうさ。なんせあいつは自分の強さに、絶対の自信を持っている。パリシ脱出の時は、サシでアナスタシアの首も獲れるってとこまで行った。ルチアナの助成がなければよくて相討ち、アナスタシア自身がそう言ってたよ」
 マイラは、実際に強い。そして忍びとしての技量も図抜けている。表の世界に出ていれば、間違いなく大陸五強の一人に数えられていたはずの傑物だった。
「そ、それで」
 ゾエを呼んだのだろうか。いくらなんでも、自分では荷が重過ぎる。忍びとしての力に、差があり過ぎるのだ。同じ街にいて、互いが互いを暗殺するという勝負なら、ゾエは一日と保たずに殺されてしまうだろう。それどころか、自分がいつ死んだのかすら気づかないに違いない。その技量の彼岸は、大人と子供以上である。
「これは、多少の犠牲を出してでも、絶対にやり抜くと決めた。それとゾエ、お前を鴉たちの副頭領とする。この作戦の指揮は、お前が執れ」
「えっ、あ、あの、副頭領といっても、イニャス殿が・・・」
「あいつとお前の、二人だ。二人いても問題ないし、あいつとお前なら、意見が衝突することもないだろう。イニャスには、さっき話を通した。ここに来る前に会ってるだろ?」
 言って、マグゼはにやりと笑った。
「そういやさ、あいつが首にどんなスカーフ巻いてたか、覚えてるか」
 先程あった、イニャスの姿を思い出そうとする。夏である。首にスカーフなど巻いていたら目立つはずだか、そもそもゾエは、イニャスがどんな格好をしていたのかさえ思い出せなかった。恐ろしい程の、忍びの技である。
「その、まったく」
「賭けてたんだよ。あたしに負けさせやがって。ったく、あいつの腕も落ちないな。この空みたいな真っ青なスカーフを巻いてた。顔か、動きに騙されたな。大方、お前にあった時に大袈裟な反応でも示したんだろう」
「びっくりした様子でした。そ、そうでしたか。やはり、私には副頭領など・・・」
「決めたことだ。お前はやればいい」
「ふ、副頭領の件は、わかりました。ええと、私は実戦部隊を編制し、指揮をすると」
「そういうこと。けど、一から十までじゃ荷が勝ち過ぎるだろ。作戦そのものは、あたしが立てる。あたしがここで動けという時までに、お前は選んだ連中をしっかり鍛え上げておいてくれ」
「了解です」
 大きな絵図はマグゼが描くということで、少しほっとした。細かい指示ならなんとか出せるくらいに、ゾエは暗闘に慣れてきたというマグゼの判断だろう。
「大物だ。びびるのはわかる。けどさ、これからはもっと、自信持ってくれよな。なにしろお前は、あたしが見つけて来た中じゃ、最高の戦士なんだからさ」
「は、はい、期待に背かぬよう、力を尽くします」
 マグゼが、手にしていた薫製を一つ、先程の水筒よりも強く投げて寄越した。口にしたが、どんな味なのかも、今のゾエにはわからなかった。
「で、やっぱり自信ないか」
「は、はい」
「あっはっは。ま、それがお前のいいとこなのかもな。自信がないことは自信がないと、自覚できる。だからあたしも、お前がどれほど出来るかを、見間違わないでいられる。その意味じゃ、お前が一番信頼できる部下なのかもな」
 マグゼは笑ったが、肚の底では笑っていない。そういうことは、ゾエにもわかる。
「あ、ありがとうございます」
「馬鹿、もっと気の利いたこと言って、あたしを安心させてくれよ」
「す、すみません」
 それからしばらく、マグゼは薫製をくわえながら、遠くを見つめていた。咀嚼されて震える肉片が、少しずつ口の中に吸い込まれていく。
「マイラは、突出し過ぎているな。あいつの部下も自然と、あいつなしじゃまともな諜報はできないと思う。少なくともマイラに何かあれば、囀る者の力は半減だ」
 鴉たちは、どうだろうか。マグゼのいない鴉たちなど、想像したくもない。
「そこが、あたしらとは違う。あたしが結構、放任主義だからかもな。つっても、こっちも少数精鋭だ。あたしに何かあれば、あっちほどじゃないにせよ、動揺は大きいだろうな。それと、お前にはそれなりの部隊を整えてもらいたいから、手薄なところも出てくるだろう。そこで一つ、これはあたしが動くが、マティユーに手を貸してもらいたいと思う」
 マティユーは、王家の忍びだった男である。代々王家に仕える、こちらの世界では伝統ある忍びだったが、先王との不仲から、在野に下ったとの話である。
 結果、王はおそらく囀る者たちの手によって暗殺され、嫡子たる王子たちも次々と同じ運命を辿った。先王は暗殺者から身を守るのに武に優れた護衛たちだけで充分と考えていたようだが、忍びには忍びでしか身を守ることはできないのだ。
 現王アンリに関してもそれは同じで、昨晩までゾエ自身が護衛を務めていた。マグゼの、つまりはその主ゲクランの命によってである。
「あの親父の所在はしばらく掴めなかったが、昨日、ようやくそれがわかった。まあ別に隠れてたつもりでもないみたいだったが、目立たないようにしている忍びはそうそう見つからないからな。どういう形になるかわからないが、力になってもらえるよう、掛け合ってみるよ」
 ゾエは、マティユーの姿を思い浮かべてみた。小男、痩身という点では先程のイニャスに似ているが、歳は大分上だろう。目が細かった気がするが、よくかけている黒縁の眼鏡の印象が強く、鼻や口がどういう形をしていたのか、もうひとつ思い出せない。何度か直接会話を交わしたことがあるのに、である。
「そ、その、マティユー殿が力を貸してくれると、助かりますね」
「だよな。頑固な奴だが、先王が崩御された今、おかしな意地を張ることもないだろうさ。ま、奴との交渉がどうなるにせよ、お前はウチから好きに人間を選んでくれ。面子の決定は、事後報告でいい。どうしても外せない奴、ちょっと借りる奴が出てきたら、その都度こちらから連絡する。まあ、マイラを殺るといっても、今日明日の話じゃない。一年でも何年でも、じっくり腰を据えてやろうじゃないか」
「は、はい」
「その内、またお前には要人警護を頼むことになるだろうし。いつでも召集できる部隊を用意して、練度を高めておく。やるのは、そういうことだよ」
「わかりました。すぐに人選に取りかかります」
 話は、これで済んだ。しかし行ってもいいという空気をマグゼから感じなかったので、しばしゾエはその場に留まっていた。
 葉巻を用意するマグゼを、ゾエはただ見つめていた。ふう、と吐き出した紫煙が、よく晴れた空に消えていく。
「出来ないことは出来ない。その逆もしかり。それを正直に言うお前だ。だからこれから聞くことも、正直に答えてくれると思っている」
 聞いて、ゾエの胃はまた痙攣しそうになる。極力、出来ないことを聞いてほしくないと思った。仮に嘘をついても、必ずこの頭領は見抜いてくる。つかないのではなく、嘘をつけないのだ。
「マイラとの暗闘に、お前は勝つ自信がないと思ってる」
「は、はい。忍びとして、差があり過ぎます」
「だな。けどさ、あたしが完璧にお膳立てをしてやって、周囲から何の干渉も受けず、たったの二十秒かもしれないが、あいつとお前、一対一の状況を作ってやったら、お前は勝てるかな」
 マイラ。打骨鬼。直接拳を交えたことはないが、過去に二度、暗闘の場でかち合っている。あの拳。どんな相手でも一撃で殺すという、拳。必殺のそれと、ゾエの蹴りが交錯するところを想像してみる。
 もっと答えに窮するような問いを投げかけられるかと身構えていたので、ゾエは胸を撫で下ろした。一対一。二十秒。二度もその動きを見た相手なので、想像するのは難しいことではない。
「勝てます」
 ゾエは言った。
「もしそういう状況が用意されれば、必ずマイラを殺せます」
「だよな」
 マグゼは、笑った。
 それは小さな頭領が今日初めて見せる、満面の笑みだった。

 

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